Back  Index  Next

「決算」のイメージ
2002年03月31日(日)

決算、という響きはなんだかすごい。
「今日は決算だ!」という掛け声と共に、
スーツを着てセカンドバッグを持った集団が
大慌てでタクシーを拾い、金を使うためだけに駆け回るイメージ。
「え?」と思う場所にビルを建ててみたり、
大勢でやってきて倉庫を空にしたり、
池の魚を稚魚以外は獲り放題にしたりするような。
高い物を安く買えそうな、
安い物はタダになりそうな、
そんな気がする日。

そして一日の終りに、政治家でも教祖でもなく、
日本の実権を裏で握っている感じの人がおごそかにつぶやく。
「……明日は、待ちに待った嘘の日だ。」
――皆の者、嘘を付く準備じゃ!
――ラジャー(御意)!!!
そして人々は一斉に自分の部屋に閉じこもって布団をかぶり、
明日はどんな愉快な嘘をついてやろうか、ということについて
それはそれは真剣に考えるのだ。それこそ夕飯も忘れるくらい。

ああなんてすさまじい、決算!


(※この日記はフィクションです。
  実在する団体・行事・国家などとは全く関係ありません。)


なぞ
2002年03月30日(土)

大人には割れないけど子供には割れる。
女にはキレイなのに男には汚い。
犬には見えるのに猫にはなかなか見ることができない。
車ならできるけど家では無理がある。
天気のイイ日には現われることもあるが雨の日には見ることができない。
どちらかというと理科室より職員室の方が住みやすい。
みんな触れた事あると思うよ。


……それは何なのか? わからない。
これは友達の携帯メールに知人から送られてきたなぞなぞだ。
「このなぞなぞ、知り合いから送られてきたけど
わかんないんだよね、答えわかったら教えて!」が
鎖のように繋がる。チェーンメールの一種だろう。
人々の小さな労力とメディアを媒体として、
情報は生き物のように自在に動く。
目に見えぬ流れに浮かぶ、そのほとんどは
ホントに大事なのかよくわからないような、
微妙なものなんじゃないかと思う。

情報化社会というが、世間の情報の多くは
たぶん私にとって理解不能だ。yahooで
「微生物」と「触媒」で検索した時の結果を見た時にそう思った。
主に論文や研究内容などに関する文章が10000件以上。
その分野(わりと広いが)に関する専門的なページ(ここでは、
私に理解できないものはみな専門的だということにした)だけで、
こんだけのものがwebに浮いてるんだよなー、と思うと驚く。
あらためて、これはすごいことだ。と
存在は百も承知なはずの山手線の通勤ラッシュに
久々に巻き込まれた時のような感想を持った。
情報化社会は漠然と怖い。
そして、ちょっとアホらしいなと思ってしまった。


永遠に近いもの
2002年03月29日(金)

テレビで山田洋次監督の「男はつらいよ」をやっていた。
寅さんシリーズを見ると、倍賞千恵子や小柳ルミ子などをはじめ
昭和を代表する美人女優が出ている。
髪型や服装、メイクなど、もちろん現在見ても
「きれいな人だな」と思うのだが、
美人の価値観が今とズレていることは私にもわかる。
『美しい』の定義は儚い。
時代と共に変わってしまう。
70年代の美人メイクは80年代の美人メイクではない。

それに対して「三枚目」という概念はすごい。
寅さんはずっと前から三枚目で、
これからも三枚目と評価され続けるだろう。
美人は時がたてば「昔の美人」と呼ばれてしまうが、
不細工はつねにup to dateな、新鮮な「不細工」でいられるのである。
「男はつらいよ」は色褪せぬ三枚目を暖かく描いたからこそ、
ロングヒットしたのかもしれない。

美しいものは時を超えられなかった。
しかし不細工は時を超え、永遠を手に入れようとしている。

常に同じ評価を受けながら、時代に流されず自分の個性で生きていく
……いま、不細工が熱い。


笑いは深い
2002年03月28日(木)

今日は、珍しく笑いを取れた。
妹に「それ面白い」と言われた(それだけだ)。
しかし、妹に褒めてもらうことは滅多にないので嬉しい。
あー面白いって素晴らしい!

面白いことはないか、と毎日考えるのだが、
本当に面白いことを考えついた時は
人を笑わせる前に自分で笑いだしてしまったりするので、
なかなか笑いを取ることができない。
せめて笑い上戸を克服したい。
内容以上に表現が下手なのだ……(内容もなかなか微妙だが)。
妹が面白いと言ったフレーズは、あらためてよく考えると
たいして面白くない気もしてきた。
半日ほど時間を置くと、そういうことが見えてくる。
笑いは奥深いなぁ。

『次はー恵比寿ー恵比寿ー
 ちょっと贅沢なビールです』


受験シーズンが終って
2002年03月27日(水)

バイト先の教え子に「なんで実社会に必要なさそうなことまで
勉強しなきゃなんないの」と訊かれた時、
自分でも予想外につらつらと答えていた。
『たとえば学力はお金みたいなもので、
 無くても幸せに暮らす人は大勢いるけれど、
 努力次第で増やすこともできる。
 お金があれば何を買うかをたくさんの中から選べるように、
 自分に合ってそうな学校をもっと自由に選べるんだよ。』
『お金』とはこりゃうまいこと言ったもんだ、座布団をくれ!
とまた自分で自分を褒めた。落語に登場しそうな自惚れっぷりである。

高級料理が食いたい人はお金をたくさん貯めればいいし、
お茶漬けで十分だよと思えば、そんなにいらないかもしれない。
…問題は、どの料理が自分の胃袋にピッタリなのか
メニューを見てもいまいちわからないということなんだな。

……などと、資料を見つつ受験に関して考察。
妹が受験。……厳しい現実を考えつつ色々悩んでしまう。
でも本人以上に周りが必死になる受験というのは切ないもんだ。
幼児教室に子供を送り出し、終るのを喫茶店で待っている
母親たちのおしゃべりの中身は妙に先ばかり見ていると聞いた。
大学はどこがいいかとか、『今から悩むなよ』とツッコみたくなるという。

ちなみにうちの母親の場合、私に関する育児の悩みといえば
もっぱら「変わった子だけど友達できるのかしら」だったという。
的を射ていて、切実だ。


結果待ちボケ
2002年03月26日(火)

それは、我が家にかかってきた一本の電話。
「4月からバラエティ番組を始めるんですけど、
 それに作家として加わって頂けないかと」
「……は?」
「メールも送ったと思うんですが」
「え……メール?」
そうだ、今日はまだメールを見ていなかった。
……と思い、パソコンに向かって歩き出す。

そこで目が醒めた。
またありふれた、よくわからない夢だ。
なぜ私が放送作家?という疑問はさておき
やはり私は今「通知」が気になっているのだろう。
なぜならもうすぐとある合否通知が来る(と思う)。
それほど気にしていないつもりだが、
深層意識では気になってはいるのかもしれない。
何事も、がんばりの結果がわからないとやはり落ち着かない。
「ヤッホー」と投げかけたやまびこはきちんと返って来て欲しい。
やはりフィードバックがない間は不安だ。
ひょっとして試験を受けたこと自体夢だったんでは、とすら思う。

最近、記憶がおぼろげで眠い。
取材中すら居眠りが出そうで自分が怖い。
記事も遅れ、作品集作りも止まり……どうしたんだ自分。
古い少女漫画なら「片想いでもしてるんじゃないの」と言われ、
総合病院でなら「軽い心身症でしょう、薬出しときます」と言われ、
古風な体育教師になら「気合い入れて校庭10周して来い」と
言われそうな症状。
結果が気になるからか、
たまった疲労でいよいよ風邪を引くのか、どっちかだ。


祈るしかできないこと
2002年03月25日(月)

今日はとある任務により取材。
郷土の歴史についてのお話を伺ったのだが、
私は自分の左脳が「平家」「幕府」といった単語を耳にするだけで
必然的にスリープ状態に陥るのだということを思い出した。
説明の後半は右脳だけで聞いていた。
だから、とらえかたが意味もなくに空間的、感情的だ。
一緒に聞いていた人々のメモを頼ろう、と心に決める。

私は歴史に弱い。
弱いと言っても、「このての話に弱いんだよ」と言いながら
『生き別れた母と再会』という種のバラエティ番組を見ては
毎回必ず涙する人のような意味での弱さではない。
どちらかというと、「ハブはマングースには弱い」といった意味でだ。
世界史は一度どん底まで悪い成績を取った。
死にものぐるいで頑張り、みごとその次の期末テストでは
クラス平均を0.5点上回る点数を取った(ただし理系クラスで)。
その時は『やればできる!ハッハッハ』と
丸大ハムのCMのようなテンションで思ったものだ。

だが、これだけ頑張ったことがあるもののうち
数年後にその成果の名残が全く残らないものはわりと珍しい。
ダイエットと苦手科目は似ている。
トラウマという名のリバウンド、それが高等教育の弊害だ。
義務教育以降の過程において苦手なことを無理にやる必要は
ないのではないか、などと思う。
学問は人々を苦しめるためにあるんじゃないよ、そうだろう?
と、加山雄三ばりのオーラで国民に広く語りかけたい。

……数学の単位、今年は取れてるといいなあ。と強く願った。


桜だ
2002年03月24日(日)

今日は高校時代の某知人集団と花見。
桜の巨木が立ち並ぶ近場の公園は、地元民の予想以上にデカく、
人も多かった。屋台が異様に建ち並ぶのを見ると、
なんだか自動的に浅草を思いだしてしまう自分がいる。
冷静に考えるとこういう食べ物は高いな、と思いつつ
みんなで持ち寄った食料品で腹を満たす。

まだ3月だというのに桜が満開。
今年の桜の、なんと気が早いことよ。と、
どこかの短歌の現代語訳のようなことを思う。
『桜』といえば、思い出される建物がある。
サグラダファミリア教会だ(単に名前が)。
そっちは設計者が亡くなってもまだ未完成だという。
今日テレビを見ながら、それはまたなんと気の長いことよ。と、
季語のない随筆のようなことを思った。

街中がなんでもかんでも歴史を刻む(ような気がする)ヨーロッパと比べ、
日本は古い建物が少ない(ような気がする)。
それは単に湿気が多い風土で、紙や木で作られた建物が多いからという
だけではなく、パッと咲いてパッと散ってしまうような
儚いものに魅力を感じる国民性ゆえなのかな、と思った。
桜もそうだし、花火もそうだ。額縁に入れて飾るよりは、
どちらかといえば瞬間を愛でる国民なんだろうか。
なんちゅう贅沢だ、と思う。
桜が毎年咲くことに、あまりにも慣れすぎているのかもしれない。


プレーン
2002年03月23日(土)

とある真面目な記事を書くことになって、苦心する。

文章を書くのが苦手というわけではないが、
かしこまったふりを装うのが不得手なのだろう。
どうしても、余計な味付けをしたくなる。
だから余計な味がしないトマトジュースはすごいと思う。
(実際その商品を飲んだことはないのですごさの確証はもてない)
余計な味がしないものにもちゃんと魅力がある。
たとえば無印良品。環境にも優しそうだし、周りの家具とケンカしないことが
人気の秘訣だとかなんとか。
一流のモデルさんというのは、いい意味で個性が薄いように見える。
その人ではなく、服や髪型などが主役であり、
そういった場を脇役に徹することで引き立てるのもプロなのだろう。

先日就職試験的な場で、少しばかり余計な笑いを取ってしまった。
現実的には吉と出るか凶と出るかが微妙な要因だが、
私の中では「おっしゃぁ!」という感じだった。
相手が「お、ちょっと予想外だな」という顔をするのを見るのが
妙に好き、という私の性質ゆえである。
ちょっとびっくりさせたくなる。ちょっと違和感を演出したくなる。
自分が目立ちたがりだと最初に自覚した時は軽く優越感を感じたが、
目立っていい場と、目立たない方がいい場がある。
的確に判断して器用に使い分けなくてはならない。
それはしんどいが、それをきっちりやらないとアホである。
(まぁ少々アホでもいいか、とも思ったりするが……)

誰でも最初は荒削りに泣きわめく赤ん坊で、
自分の主張をひかえることも時には重要なことだ、と学ぶために
社会と関わる。そして丸くなってゆくものだが、
その丸くなり方にも個性が表れる。
個性をどこで遠慮するか、どこで発揮するか。
その判断にも個性が表れる。

そういえばケーキを食べるときは、どんなケーキを選ぶかだけでなく、
扇形のどこから食べるかにもその人の個性が出る。
そんな心理テスト、どこかにありそうだ(が、探す気は別にない)。
だとしたらひと口で丸飲みする人はどんな性格なんだべ?
…と思ったところで電車が駅に着いたので、その思考は停止。
駅構内を歩きつつ、「あ、またくだらんことを考えてしまった」と小さく後悔。
〆切の迫った記事のことでも考えておくべきだった。


まったりとはなんだ
2002年03月22日(金)

まったりできる所はないかな、と探した。

できれば、静かで、静かすぎなくて、
落書きしてても誰ものぞき込んでこなくて、
店長が格別陽気でも陰気でもなく、
急に幼児の集団がかくれんぼを始めたりしそうもなく、
安定したテーブルがあって、まぶしすぎない光があって、
コーヒーか紅茶が(安く)飲めるところ。

……と思って探したが日が悪かった。
今日は某所の卒業式だ。

晴れ着姿のお姉さんや、父兄が目に付く。
どうもテンションが高い。そりゃそうだ、一つの人生の節目だ。
テンションが妙に明るい。寂しいよー、という表情の人は
あまりいないように見える。
よく中高生が卒業式に泣いているが、私は泣かなかった。
寂しいもんだ、と思ったことはあるが、
私は注射と卒業式では泣かない人間だ。
そういえば中学の時ツベルクリン判定の注射で泣いてた友達がいたな、と
思い出しつつ眺めれば、とにかく駅前の店という店、
ファーストフードというファーストフードが
卒業式関係ないし高校生で埋まっていた。
それによって、私はまったりを逃した。

まったりが成立することは難しい。
家にいてもしばしばくつろぎは乱される。
犬が吠えたり、へんな声の竿竹屋や選挙の車が通ったり、
家族がわいわい騒いだりする。
そこで私は時刻表を調べ旅に出て、わりと遠くの町に行く。
しかしそこへ行っても、This isまったり!と思えるものはなかなか得難い。
そう言いながら世界一周の旅に出て、
七つの海を勇敢に航海して人魚と親しくなり、
挙げ句魔女の城あたりから何かを取り返したとしても、
やはりまったりは見付からない。
こりゃどうすればいいんじゃ、と思う頃にはすっかり老人になっていた。
そして日本の関東地方、見慣れた駅に帰ってきて、
とぼとぼ歩いて家に帰り、そして気付く。
「そうか……まったりは、みんなの心の中にあったんだ!」
そのことに気付いたので、客人を招いて3日3晩歌い踊り明かしたとさ。
めでたし、めでたし……
                〜「グリム童話」・完〜

…今日の気分はファンタジー。
しかしまったりという言葉は掴み所がないな、と思う。
ある種の理想のような概念かもしれない。


休業明け
2002年03月21日(木)

昨日と一昨日は、パソコンの電源を切っていた。
なんとなく、全体的に疲れが出ていた。

食べて飲んで眠って、起きて考え事をしたり。
ゲームをしたりテレビをみたりと、文字通り堕落した時間を過ごす。
何かを生み出すのには苦痛をともなうが、
何も生み出さないとどうなるもんだろうと思った。
やはりどこか苦痛かも知れない。
こうした雑文でも小さな落書きであっても、
何かを生産していないとやはりダメかな、と思う。
それを止めた途端に錆び始めていくし、
続けない限り向上はあり得ない。
金魚にとって水の中が普通であるように、
創作をして暮らそうと思う者にとって生産は日常であるべし、だ。
そうさのう、そうさのう、と、
昔ハウス食品の提供でお送りしていたアニメ・赤毛のアンにおける
マシュウの口癖をつぶやきながら納得する。

人はなぜゲームにはまるのか、といったことを考察。
育成だとかカスタマイズ性だとか、
ソフトが大量生産されているわりに個人のメディアなのだ。
でも、他者とのプレイ情報の交換も楽しい。
そういう二面性がヒットの理由だそうだ。
RPGでどこかの城や町に行った、その時のことを
同じゲームをやっている友達と話すのは、
「こないだ渋谷で…」等と、実際の町に行った時のことを
話すのに似ている。
渋谷に行ったことがある人は他にもいるが、
その時の体験、天気、感想は自分だけのものである。
製品(ソフト)にプログラムされている情報が同じでも、
個人の微妙な選択の差異によって体験が少しずつ変わる。
それが、画質といった見た目ではない次元での
リアリティーを生んでいる。
個人に歩み寄ってくれるマスメディアとして、
RPGは新しかったのだなあ。などと納得。
ソフトの開発は面白そうだ。が、どーも掴み所のない世界とも言える。
……でも、ハードは苦手やし……ぶつぶつ。

自分はこの先なんの仕事をする人になるんだろうな、と
最近ようやく現実的に考える気になれた。
社会は広いから、いろんな仕事がありそうだ。
…自分は必要ない、などと決めつけるのはまだ早そうだ。
人一人が持てる世界観は死ぬまで狭いという。
つまり、その外側にはもっと何かあるのだ。
私が好きなのは絵を描くことと面白いことを考えることくらいだが、
それだけでもいいからまず鍛えていこうと思った。


リハビリ
2002年03月17日(日)

日常生活的買い出しに出掛け、犬の散歩に出掛け、
今日は小さい外出をこまめに行う。
こうすることで、明日以降また県境を超えた活動を展開できる。
鍛えることは何事でも大切だなぁと思う。
マウスを握るでもマッチを擦るでも切符を買うでも、
人間の行動は仕草一つとっても訓練がいかに大事かと思う。

片道二時間かけて通っています、というと驚かれたりするが、
電車に乗ることが靴を履くことと同じくらい当たり前になってしまえば、
それもそう大したことではない。
ただ、考え事の時間と人混みの中をうろつく時間が多いだけだ。

電車と言えば、数日前まで関西に行っていた。
そこで乗った電車は内装も外装も広告も違っていて、
その見慣れない感じが大変新鮮だった。
街の景色と同じくらい、電車に注目している自分に気付く。
眼鏡をかけたことがないから判らないが、
『眼鏡を買い換えた時の感じ』というのはこんな感覚なのかもしれない。
フレームとスケールが少しだけ違う。
その電車を通して違う日常に溶け込み、その時は気付かなかったが
刺激と疲れを背負った。

帰りに関東に帰ってきて、『東京』とか『上野』とかいう地名の書かれた
プレートを見ただけで安心する。
日本は、単語を読んで初めて意味を捉える表音文字圏とは違い、
漢字をパッと見ただけで意味を掴む表意文字の文化だという。
『△△行き 快速』とかいう文字を見ただけで、家に帰れるという
ほのかな安心感が反射的に沸きあがるのはそんなせいもあるのだろうか。

そんなこんなで、明日も学校。
関東甲信越ちいさな旅だ。


ぐだぐだ
2002年03月16日(土)

昨日の予想通り、何もせずに過ごす。
効果音でいうなら「ぐだぐだ」。犬の散歩すらしない一日。

こういうとき一人暮らしだったらたるみきらずに済むのだろうか。
適度な緊張感と責任感を持って。
……うーむ、我が家は時に病院代わりにもなるからな。
もっとも、すぐに立ち直らなくてはならないが。

とにかくものすごい睡魔に襲われて、眠り続けた。
ぐだぐだというよりは、ぐっすりに近かったかもしれない。
ぐっすり寄りのぐだぐだ。
あたかもここ半月の不規則な日々に由来する口内炎を忘れようとするかのごとく
よく眠り、そして少し太った気がした。(あるいはむくんだのか?)


今日という状況について
2002年03月15日(金)

今日は某所に取材という名の仕事をこなすべく参上。
小高い丘の上の森のような場所。
そこには、古い歴史と土埃と草花が……というようなわけで、
花粉がひどく飛んできたらしく、一日中くしゃみが止まらなかった。

花粉症と、荷物の運びすぎという種類の筋肉痛で
全身がどことなくぼろぼろである。
病気とはいえないが元気とも言い難い、
そういった状態をどのように表そう。
空腹でもないけどどっか口寂しくて適当なお菓子をつまんでしまう気持ち。
『小学校を卒業したけれどまだ中学生になる前』の期間は、
大人料金なのか子供料金なのか電車に乗るとき困る感じ。
年齢は上だけど浪人等で学年は下の人には、
敬語を使われるのも使うのも戸惑ってしまう。
遠隔地の人とコミュニケーションするメディアにたとえると
ポケベルのような、この中途半端さ。

そんな風に明日も過ごすのだろう。
…嫌じゃないけど、嫌な予感。


帰宅
2002年03月14日(木)

気付けば3月が半分ほど過ぎていた。

修業の旅に出ていたので、家は久しぶりだ。
犬に挨拶をするも、無視される。切ない。

国内といえど広いな、と思う。
通学が遠いといえど近いな、とも思う。
行動範囲を広げていかないと、という決意新たに、
とりあえず休もう。
……明日からまた仕事。


春風にのって
2002年03月01日(金)

やっぱり今日も花粉が飛来していた。
薬を飲んだとはいえ、少々ツライ。

雨が降った翌日は花粉に気を付けろという話を聞いていたから
今日はなるべく外に出たくなかった。
が、学割をもらいそびれたことに気付いたことを理由の中心に、
行くはずの無かった学校へ。

そして予想外に帰りが遅くなってしまう。

なんで、こんなに学校に居る時間が長いのだろう。
おそらく授業があった時以上に学校にいる。
春休みに春休めなさそうという予感は的中し、
気付いたら夏が終わってたパターンも夢ではなさそうだ。

帰宅してからは、ずっとPCに向かう。
作品作りでテンパっている自分を鎮めるためにコンビニで買った
「バナナモンブラン」と「ゼリーin檸檬紅茶」なるものを摂取。
甘いものと甘いもののダブルパンチ、
いくら甘党の私であってもこれには参った。
熟女で言ったらデヴィ夫人と浅香光代と黒柳徹子と小林カツ代が
共演しているくらい。係り結びの法則でいうなら、
語尾が連体形のところを命令形にしているくらい。

……そんなわかりにくいしつこさのせいで、少し食欲が落ちた。

しかし自分がいざ忙しい生活をかじってみると、
リアルに疲れが押し寄せてくるもんだ。予想以上に、疲労物質がツライ。
自分の経験していないことでも、その情報を想像力とまぜあわせれば、
わりとリアルな仮想的現実感を得ることができる。
と、いう理屈はどーも穴が多いようだ。観察眼も想像力も乏しいわけで…。

あー、明日も地味に大変だ。