蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2010年02月28日(日) 読んだ本≪2010年2月≫

3冊。『フィンガーボウル・・・』は先月にも書いてたから、カウントせず。忙しいなりにも読んでいる方よ、これでも。


吉田篤弘『フィンガーボウルの話のつづき』(図書館)
一行感想:この人の話は本当にどれも好きだけれど、「スープの本」の次にいいのがこれかもしれない。特にこの中の「6月の月の放送局」の話なんて最高!


高野文子『るきさん』ちくま文庫(自分の)
一行感想:本好きの同僚に「るきさん」を読んでいると言ったら、るきさんに似ていると言われた。マイペースなところとか飄々としているところとかがこんな感じらしい。そうなのか。私はこういうふうに見えるのかと驚き、おもしろく思った。


高野文子『黄色い本−ジャック・チボーという名の友人』(図書館)
一行感想:引き続き高野文子を読む。次の人が待っているので借りて真っ先に読んですぐ返す。しばらくしてまた借りよう。何回も何回も繰り返して読みたい。


井上荒野『静子の日常』(図書館)
一行感想:静子おばあさんとその家族の話。スポーツクラブ内の注意を促すおせっかいな貼紙に、付箋をつけてまわるのが小気味よい。筆ペンの字で「バカ?」って。


2010年02月18日(木) 古くさい感じのパーマ

伸ばしかけの前髪がどうにも邪魔で、動くたびに目にかかる。家にいるときはピンで留めたり、いっそのことパイナップルの葉っぱみたいにひとつに結んだりできても、さすがに外でそんなふざけた髪型はできないので、それっぽく横に流してみるが、すぐにバサッと前に落ちてくる。

しかしここで短気を起して切ってしまってはまたはじめからやり直しになるだけだ。イライラするところをこらえて、耳にかけられる長さになるまでじっと待つ。もともとおでこ全開が好きなはずなのに、ここ数年、前髪を作ってしまうのはなぜなのだろう。

そうやって日に何度も髪の毛のことを考えていたら、夢に髪の長い私が出てきた。現実には伸びかけショートだけれど、なぜか夢の中では背中の真ん中あたりまで伸びた髪にパーマをかけている。たしかに20代前半にはそんな髪型もしていた。でも夢の中の私はちょっと違って、もっと古くさい感じのゆるいパーマで、いったい今どこでどういうふうに頼めばそうなるのか不思議なくらい、夢とは言え我ながら野暮ったかった。でも野暮ったくても髪が長くていいなあ、なんて自分の姿を遠くから見て思った。こちら側から髪の短い私が見ていることに、髪の長い私はまったく気づいていないようで、右側を向いて笑っていた。日差しがまぶしくて、音は聞こえないけれど、楽しそうだった。たった一場面だけの、なんだか変な夢だ。

高野文子のマンガを立て続けに読んでいるせいかもしれない。


2010年02月17日(水) 正しい方法ではないけれど

ときどき、本当にときどきだけれど、父のことをかわいそう、と思うことがある。

定年目前にこんなやっかいな病気になって。いちばんわかってほしいはずの妻にわかってもらえなくて。その原因の半分くらいは自分にあることに未だに気づけてなくて。娘にも疎まれて(と本人は思っているはず。私はそこまで疎んじゃいないが)。先を考える気力も失って。

そうやって父をかわいそうがっている自分に気がつくと、途端に風船がシュンとしぼんでしまうみたいに体から力が抜けてしまった。やる気がうせた。もう動けない。

今まで父に対してイライラしたり憎たらしく思ったりすることはいけないことだとばかり思っていたけれど、この場合は、そうでもないみたいだ。ちょっと憎たらしいくらいで、ちょうどいいのかもしれない。怒りにまかせて力も出るし(正しい方法ではないけれど)、それで一日一日をつないでいるようなものだ。


2010年02月15日(月) ホームシック

相変わらず実家と自宅を行ったり来たりでせわしない。今年に入って、自宅の自分の布団で寝た日が何日あるのか数えたくなるくらい、とにかく自分の布団が恋しい。単純に眠りたい、というのもあるし、自宅でフツーの生活がしたい、というのもある。朝起きて、朝ご飯作って食べて、相方を送り出して、自分も支度して仕事行って、帰りがけにスーパーで買い物して、ご飯作って、相方待ってる間に洗濯したりアイロンかけたりシンク磨いたり本読んだりして、帰ってきたら一緒にご飯を食べて片づけて、うだうだテレビ見て、お風呂に入って、寝る前には布団に寝転がってまた本読んで、眠くなったら寝る、というのを毎日飽きもせず繰り返す、フツーの生活がしたい。毎日家にいれば、作り置きのおかずだっていくらでも作って食べきれるし、洗濯物もたまらないし、自分の都合で家事を細かく切り分けること自在だ。今はそれがなかなかできない。自宅にいる貴重な時間、東京にいる貴重な時間。自宅にいるのがフツーなどではなくて、特別なもの、非日常になってしまっている。こっちが日常だっていうのに。

相方と過ごすのもまた貴重な時間で、私は意図せずにいつもややテンション高めだ。顔を合わせなかった時間を埋めるべく、とにかくたくさんしゃべる。話したいことがお互いに山ほどある。話すほどに話したいことが出てくる。とにかく、疲れたとか言っている場合ではないのだ。東京にいるうちは120%くらいでまわしていかないとすぐに時間切れになる。

最近は私よりも相方の方が疲れていることが多いのが心配だ。私が実家から戻ってくると相方が疲れている。あれこれあったことなど話しているうちにだんだん表情が明るくなってくるけれど、体の不調はそれだけでは取れない。いろいろ忙しいし、気疲れすることも多いし、大変なことがわかっていながら、そばで力になれないことがくやしい。

こんな調子の生活がもう半年以上続いている。何がつらいのかなんてその時その時で変わってくる。実家での朝も晩も関係ない24時間介護で寝不足がつらいだとか、仕事の出勤日数が少な過ぎて先が不安だとかいうことよりも、今は自宅での生活時間がほとんどないことがいちばんつらい。

でも、言ったところでどうにかなるものでもないし、やっぱり我慢してやり過ごすしかない。ちょっと前までは夜中に頻繁に起こされることがとにかく嫌で嫌で仕方なかった。今はそれほどでもない。慣れたというのとは違う。たまたま今はそれが気に障らないだけだ。眠れなかった次の日は6割の力で生活しよう、と思いついてからは少しあきらめもついた。全てにおいて「だって寝不足だし」が理由である。褒められた態度ではないかもしれないが、わざわざ誰かに公言するわけでもないので、自分の気持ちがそれで落ち着くのならよしである。

今は寝不足より仕事より、「ホームシック」にぐっと傾いている、ということらしい。


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