蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2008年02月27日(水) 考えることたくさん、走ること少し

書かない間、何をしていたかといえば、どうだっただろう、特に何も覚えていない。覚えていないというよりは、頭の中がぎゅうぎゅう詰めで、詰まり過ぎてなにがなんだかよく見えない。

相変わらず問題は複雑で、こたえなんてあるようなないような、なんなのだろう。このすごいもやもやした感じは。いや、私個人のこたえは出ている、すでに。今まであれこれ逡巡し、さんざん悩んだ。はじめは途中で何度も考えがブレた。でももうじゅうぶん過ぎるほど考えて、この頃は多少の圧力ではそのこたえもブレなくなった。たぶん、今いる辺りが私のこたえなのだと思う。

あとは他の人たちの考えがそれぞれのところに落ち着くのを待つだけだ。でも私は待つのが苦手だ。それに加えて、考えようとすらしない人たちには腹が立つ。でも、どれもこれも、言ってみればその人個人の問題で、私がいちいち腹を立てたり諭したりするようなものでもないような気がしてきた。あー、いち抜けた、って言いたい。

そうそう、走る話だれど、あれから細々と続いている。17日には東京マラソン、翌週の24日には横浜国際女子駅伝をそれぞれテレビ観戦する。東京マラソンはお祭りみたいでたいしてまじめに見なかったけれど、横浜国際は突風の中ひた走る姿にわくわくした。目を開けているのもつらいはずの強風をものともせず、すべるように走る。テレビではよくわからないが、きっと速いはずだ。沿道を自転車で走る若者が画面に写り込む様子を見ると、そのママチャリは立ちこぎで全速力なのだ。すごいすごい。

こことは別にランニングブログを書いている。簡単な練習日誌と、走ることについて思うこと、それに自転車の話も少し。気楽に書き散らしている。こちら。

最近、風の強い日が多い。この前は春一番が吹いたらしい。砂埃が舞い上がって、空が黄色くなり、辺り一面が茶色い風景になった。髪はバサバサ、眼はゴロゴロ、口はザラザラ。まるで今の私の頭の中のようだ。かき乱されてぐちゃぐちゃだ。雨でも降って少し落ち着けばいいのに。

寒さの中に時折、へろっと力の抜けた春を感じる。木々のつぼみも膨らんできた。でもまだやっぱり朝晩は寒い。油断することなかれ。

読んだ本
穂村弘著『本当はちがうんだ日記』
伊藤比呂美著『ラニーニャ』
村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』   


2008年02月07日(木) 巣鴨は毎日通過します、電車で。

伊藤比呂美著『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読んでいる。伊藤さんは詩人だが、エッセイなど形式を選ばずいろいろ書く。そしてとにかく私事をさらけ出して書く。家族の状況、自分の気持ち。出し惜しみはしない。はじめて読んだときには、エロいしグロいし、なんだってこんな・・・(しばし絶句)、露骨だし品がないよ、と思ったものだった。でも最後まで読んだ。読み出したら、先へ進まずにはいられなかった。今回もご多分に漏れず目一杯さらけ出されている。形式は、著者が言うには「長篇詩」だ。私には近況報告の手紙のようなエッセイに読める。

まだあと3分の1くらい残っているが、途中まで来て、これはえらいことだと思った。今だからこそ、私はここに書かれていることの意味がわかるんじゃないだろうかと。他の人たちはこれをどう読んでいるのか気になったので書評をさがすと、川上弘美さんと斎藤美奈子さんのを見つけた。

以下、斎藤美奈子さんによるアサヒ・コムの書評から抜粋

 『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』は彼女の最新の「消息」である。〈父は老いて死にかけです。/母も死にかけて寝たきりです。/夫や王子様には、もう頼れません〉という状況の中で、夫のいるカリフォルニアの自宅と父母のいる熊本とを、ときには一番下の娘を連れて、ときにはひとりで行き来する。最初の章は「伊藤日本に帰り、絶体絶命に陥る事」。介護の必要な親と世話のかかる夫と自立する前の娘を、太平洋のあっちとこっちにかかえる彼女は、そりゃもう満身創痍(まんしんそうい)である。それで巣鴨のお地蔵様にちょっと頼ってみるのである。

 〈母の苦、父の苦、夫の苦。/寂寥(せきりょう)、不安、もどかしさ。/わが身に降りかかる苦ですけれど、このごろ苦が苦じゃありません、降りかかった苦はネタになると思えばこそ、見つめることに忙しく、語ることに忙しく、語るうちに苦をわすれ、これこそ「とげ抜き」の、お地蔵様の御利益ではないか〉とか嘯(うそぶ)きつつ。

(中略)

 詩人の「消息」が読者を引きつけるのは実用的な価値があるからだ。詩なのに実用的っておかしい? だけどほんとに効くんです。

 性や出産や子の成長を描いてきた人が、50歳の坂にさしかかってぶつかる老いや病や死。四半世紀にわたる連続番組の重みがそこにある。

(抜粋ここまで)

ぶつかる老いや病や死。ぶつかる老いや病や死。まさにこれだ。今、私が直面しているものと同じだ。親の老いや病や死。引きずられ引っ張られていく。私には私の家庭があり生活があるというのに。『とげ抜き・・・』を読んでいると、一生懸命ふたをして見ないようにしているもの、もしくは何とか折り合いをつけて自分の一部に組み込んでしまおうとしているものをわざわざえぐり出して、ほら見てみ、と言われているような気持ちになる。認めざるを得ないのだ。

この本、荒治療だけれど、案外効くかもしれない。肝が据わる。仕方がないのだ。嫌でも何でも、のた打ち回るよりない。私が彼女と違うのは、出産や子の成長を経験する前に、老いや病や死の話が先に来てしまったということか。老いや病や死は、ドスンと私の前に立ちはだかっている。私と、そして夫の前にも。私たちの行く手をふさいでいるかのようにこの頃は思える。何で私ばかりがこんな目に、という気持ちがないわけでもない。でもその文句を向ける先がない。そんなのは、もともとどこにもない。行き先のない言葉はくるっとまわって、自分に突き刺さるだけだ。

病気の父が心配だ。そして父を常に看ている母のことが心配だ。毎晩遅くまで仕事をしながらも実家へ帰り、平日だけではなく休日も父の面倒をみたり母の手伝いをしている妹のことはもっと心配だ。私にできることと言えば、平日は始業前や帰宅後に母に電話をし様子を聞き励ましなぐさめ、今週末こそ実家へ行かなければと思いつめる。それなりに仕事をしている身なので、週末は平日にこなしきれない家事、食料品の買い出し、相方と過ごす時間、自分の心身のリフレッシュにあてたいけれど、それをひとまず脇へよけて実家へ行く。週末に家のことを放り出していくことの後ろめたさ、相方のつまらなさそうな顔が浮かぶ。1泊なり日帰りなりで行って帰ってくるとへとへとで、乗り換えだの待ち時間だのを入れると片道2〜3時間はやっぱり体にこたえる。一方で、こんな短い時間だけ実家に行って何の意味があるんだろうか、少しは父や母の役に立っているんだろうかと疑問に思う。あっちもこっちもまるで達成感がない。ただ体だけが疲れ、気も休まらず、そうして休日はあっという間に過ぎていき、またいつもと同じスピードで月曜日からはじまる。それならば、と実家に行かない週末を作る。でもどことなく気もそぞろ。つらい、苦しい、さみしい。ああ、父が、母が、妹が。でも、でも、でも。

この繰り返しだ。どっちにしろつらいのだ。この生活に展望も何もないだろう。私は相方と仲良く力を合わせて暮らしていくことと、小さな妹の幸せを望む。老いや病や死を私が食い止めることはできない。ただ頭を垂れて受け入れるよりない。いずれ私にも等しくやってくるそれらを。


2008年02月02日(土) 走ってみる

お弁当は月曜から金曜まで続いた。やればできるじゃん。でも、毎日だとやっぱり飽きる。おかずはだいたい前の晩と同じ、ごはんも冷たい、めん類も汁物もない。粉末スープとかお湯で溶くものばかりでもつまらない。来週からはお弁当もほどほどに、週3くらいにしよう。たまにはラーメンとかスパゲティとかも食べたい。

健康(調子に乗って食べて過ぎて肥えた報い)と節約のため、ということで始めたお弁当生活、その効果はいかに。たった1週間でそう劇的に変わるものでもないけれど、お財布の中身の減りは若干ゆるやかに、そして、せっかくお弁当を持ってきたのにここでお菓子を買っては意味がない、とばかりにコンビニでの買い物も我慢するようになった。よしよし。あとは夜寝る前のストレッチと、日中の少しの運動。いや、エスカレーターじゃなくて階段にするとか、いつもより少し早足で歩くとかせいぜいそんな程度。地味なことをこつこつしみじみ、地道に続けるしかない。

午前中、図書館とスーパー。午後から吉祥寺で買い物。昼ご飯は吉祥寺ヨドバシのレストラン街のお好み焼き。おいしい、と聞いたので行ってみたがそうでもなかった。期待し過ぎたのがいけなかったか。お好み焼きは目の前の鉄板でお店の人が焼いてくれるのだけれど、その手際の悪さにイライラする。鉄板の外に具材をこぼすし、そのこぼしたキャベツなり何なりを鉄板の端にあるごみ受けに入れるのはいいんだけれど、何度もこぼされると、お前がこぼしたそのキャベツ代も私が払ってるんだけど?という文句が浮かんでくる。15分か20分か、えらく長い時間かけて焼いたお好み焼きは特別おいしくもなかったし、たぶんもう行かない。ロンロンのぼてぢゅうの方が好きだ。

その後、ヨドバシをさらっと流して、オッシュマンズでランニングシューズに目が釘付け。以前から、走ってみたいな、という考えがちらちら頭をよぎっていたものの、体育は得意だけど持久走だけはとにかく嫌だったことが同時に思い出され、本当にやるのか?私、という疑念がわくその繰り返しでなかなかはじめてみるまでに至らなかった。ちょうど秋冬モデルが30〜50%OFFになっていて、今ならどれも1万円以下、走るなら何よりもまずシューズだろうよ、と思い購入を決める。お店のお姉さんに、はじめて走ることを伝えシューズ選びを手伝ってもらう。履いてみるとこれが軽い!初心者用はクッションが厚めなのでランニングシューズの中では重い方だという話だけれど、それでも普段履いているカジュアルのスニーカーに比べると格段に軽い。そして今にも駆けだしそうにバネを感じる。不思議だ。走れるかも、と錯覚してしまうではないか。

その間、相方も目当ての物を見つけてしっかり購入していた。私は私で早くシューズを試してみたくてしょうがない。残りの買い物は後日ということにして急いで帰る。日が沈む前に、着替えて近くの広場へ走りに行く。そこは広い広い芝生の遊び場で、たぶん1周400Mくらいはあるだろう。とにかく端まで遠いのだ。そこを4周する。5周目はクールダウンということにして相方と歩いた。ひさしぶりに胸が痛くなるほど息が上がった。途中で苦しいなと思ったら、暮れていく空を見上げたり、遠くの木を見たり、歌を歌ったりしながら走る。誰もいないから歌い放題だ。サッカーをしている少年たちも、太極拳みたいなことをしている中年夫婦も、ずいぶん離れたところにいる。誰も干渉しない。広いって便利だ。

汗だくで帰宅。冷えないうちにすぐ着替える。今日買ったナイキのシューズはiPodとつながるらしい。あれです、あれ。目標まであと半分とか、応援してくれるやつ。持ってないけど、ついに買うのかiPod。しばらく様子を見よう。まじめに走り続けるなら、買ってもいい?


2008年02月01日(金) やっちまった

寝坊した。

相方の、7時15分!という声にバチッと目が開く。カーテンの隙間からもれるやわらかな朝陽に、ほんの一瞬、土曜日と勘違いする。そのすぐ後、さーっと血の気が引く。や、平日だ。しかも7時15分て、もう家出る時間過ぎてるし。なんで目覚ましならないの〜。

とにかく早く、早く着替えていかなきゃ。気ばかり焦って寝起きの体は全然動かない。頭もぼんやりしたまま。でもまず、忘れないうちにと、まるの水とエサをやる。顔を洗って、服を着替える。化粧はしないでいいかと思ったけれど、とりあえずビューラーとマスカラだけする。眉毛もちょっと描く。

暖房消した!ハンカチ持った!お弁当持った!携帯持った!戸締り!で、7時半、出発。いつもより30分遅い。間に合うかな、いや、どうだろな。電車混んでそうだな、うう・・・。

結局、ギリギリ1分前に到着。最後は走った。上り坂を。低血圧でクラクラするのに、我ながらよく走れるよ、まったく。

仕事の日に寝坊したのって、この家に来てからは初めて。前の家のも合わせるとたぶん2回目。滅多に寝坊しない、というより、たいてい相方が目覚ましがわりのラジオで起きて、その後テレビをつけるので、その一連の動きで私は目が覚める。今日はその、ラジオが鳴らなかったのだ。

小心者なので、寝坊や遅刻にはビビる。いや、ホントに心臓に悪い。午前中はその余韻でずっと心臓が変にバクバクしていた。


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