蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2005年03月26日(土) 晴れた空の桜

朝、大きな桜の木を見上げ、よく晴れた空を仰ぎ、反り返りすぎてよろける。傍から見ればただの変な人である。つぼみの存在は枝の上で確実に大きくなりつつあるけれど、咲くまでにはまだもう一息。今日明日の昼間の気温で決まるだろう。予想最高気温15度。

我が家の玄関の梅は咲ききって、葉が出てきた。いよいよアブラムシとの闘いがはじまる。去年は完敗した。今年こそは何が何でも勝ちたい。どこかでテントウムシを調達できればいいのに。

昼過ぎに仕事を終えて、新宿へ出る。タワレコでCDを1枚、アフタヌーンティ・リビングでガーデングローブを2つ買う。4時前に帰宅。すぐに掃除にとりかかる。1週間いいだけ放ったらかしにしていたので、掃除のし甲斐もあるというものだ。掃除機をかけ、アレルクリンのウェットタイプをクイックルワイパーに装着して床を拭く(使用方法によれば、掃除機がけの前にクイックルをするように書いてあるけれど、何となく逆の順番でやってしまう)。同時進行で洗濯3回戦。ウェーブでそこいらじゅうを拭き掃除。この頃は便利な掃除用具がたくさんあってうれしい。その日の気分や汚れ具合によって、いろいろに掃除方法を変えられる。勢いにのって、台所を磨きはじめる。壁のタイルも、シンクも調理台も、ガスレンジも。ついでにやかんも磨く。ピカピカに光るステンレスは気持ちいい。全部終わったのは7時。立ちっぱなしでこまこまと動き回り、疲れ果てる。

夕食の後片付けで、納豆用に使っている和風のスープカップみたいな器の取っ手を割ってしまう。アロンアルファでくっ付けようとがんばってみたけれど、3つに分解した取っ手はどうやっても元に戻らない。「形あるものはいつか壊れる」をひさしぶりに実感する。


2005年03月25日(金) 「考えない」も終盤/『カンガルー日和』

卒業式の時期だ。あちらこちらで袴姿の女の子を見る。数年前は自分もああだったんだな、となつかしく思う。そしてその数年でずいぶん遠くまで来てしまったことに少し驚く。あらゆることがものすごいスピードで通り過ぎていく。

「考えない」も終盤にさしかかり、とうとう明日で終わる。ここまで来るとそれなりに日常化しつつあって、本当はこんなんじゃないのに、と変な気持ちがする。慣れたことを喜ぶべきなのかもしれないけれど、うっかりその手に乗ってはいけない、とどこかで警笛が鳴っている。慣れとはおそろしいものだ。

村上春樹『カンガルー日和』読了。短編集。でも短編というよりは掌編くらいの長さの話がほとんどで、毎日軽い気持ちでふたつみっつ読む。ちょうど『ピンボール』と平行して読んでいたから、頭の中でふたつの本がごっちゃになった。話の中身はいろいろだけれど、全部に共通するのは、消音にしたテレビで映画でも見ているような感じがしたことだ。

あさっては奈良から友人が来る。ひさしぶりに会う。最後に会ったのはいつだっただろうか。少なくとも結婚する前だ。お昼ごはんを食べ、うちでお茶する予定。楽しみだ。でもまず、この混沌とした部屋を片付けなければ。


2005年03月24日(木) 本とタオルと水の入ったコップ/『猛スピードで母は』『1973年のピンボール』

前よりましだとは思うけれど、それでも毎日、水の中で息を止めて暮らしているような気がする。息を止めていることにばかり意識を向けると余計に苦しくなるから、そのことはあまり考えないようにして適当にゆるゆると過ごしている。自分に何も強要しない。

朝は7時少し前に起きて、顔を洗い化粧をし髪をとかす。簡単に朝食をすませて服を着替え、いつもの地下鉄に乗って仕事に行く。夕方は必要ならばスーパーに寄って買い物をする。帰ってきたら、これもまた簡単な夕食を作って食べ、さっさと洗い物を片付ける。それ以外のことは自由だ。本を読んでもいいし、テレビを見てもいい。思い立って洗濯機を回してもいい。早々に寝てしまってもいい。したいようにする。大事なのは何も考えないこと。不必要に沈んでしまわないように、細心の注意を払って生活する。

「考えない」のは今日で10日目で、慣れてくると思ったより容易にできるようになる。私の場合、頭の右ななめ上のあたりをちょっと意識的にぼんやりさせればいい。そしてぼんやりさせたまま、何でもいいから次の行動に移る。昨日おとといは半身浴を1時間した。浴室に本とタオルと水の入ったコップを持ち込んで、それらを浴槽のふたの上にのせる。5分もすれば体がぽかぽかと温まり、そのうち顔や首や頭から汗が流れる。キリのいいところまで読もうとすると、1時間くらい入ることになる。

昨夜、寝る前に長嶋有『猛スピードで母は』読了。タイトルから、母は猛スピードで交通事故に遭うもんだとばかり思って読んでいたら、全然違った。長嶋有の書く、へこたれない人達がとても気に入っている。

帰りの山手線で、村上春樹『1973年のピンボール』読了。村上春樹を前から順番に読むことにした。その2冊目。昨日の夜、ピンボールをもうすぐ読み終わることを相方に伝えると、次は『羊をめぐる冒険』だよ、とおしえてくれた。いま本棚を探すが見当たらない。

どうでもいいけれど、雨の日の山手線は公衆便所のにおいがする。


2005年03月16日(水) 左手/『風の歌を聴け』

今月のひとりごとには「中学校の美術の教科書」がよく登場する。美術に対して特に思い入れがあったわけでもないのに、なぜかどうでもいいような細かい出来事のいちいちを覚えていて、ふとした拍子になつかしく思い出す。高校では芸術3科目(美術・音楽・書道)のうち書道を取っていたから、美術の時間の記憶は必然的に中学校のときのものになる。

記憶の中の美術室はいつも薄暗く、窓の外は灰色でぼそぼそと雨が降っているようにも見える。教室の蛍光灯は白々としていて、生徒のざわめきが聞こえる。背もたれのない木の椅子は座るとガタガタする。椅子には彫刻刀で削られた跡があったり、画鋲が刺さっていたり、さんざんな有様だ。窓側の大きなテーブルには電動糸のこがある。先生の指をすっ飛ばした糸のこ。

授業のはじめには必ずクロッキーをする。自分の左手をモデルに描く。使うのは芯だけを長く残した変な形に削った4Bくらいの濃い鉛筆。後にも先にも自分の左手をこんなにまじまじと見たのはこの美術の時間だけだ。毎回、手の形をいろいろ変えて描く。グーチョキパー。指をさしたり手首をひねったり、いよいよ思いつかなくなると、第三者の登場。消しゴムを指先でつまんだり、鉛筆を握ったりする。5分か10分の短い時間でさっと描き上げる。スケッチブックは回収され、採点されて戻ってくる。A◎からA○、A、A’(エーダッシュ)、同様にB、Cへと続く。うまく描けたと思ったときほど評価は悪かった。いい気になっているとしっぺ返しが来る。

『風の歌を聴け』読了。また忘れたころに読もうと思う。読んでいてビールが飲みたくなったので、帰りがけに最近のお気に入り「やわらか」を2本買う。1本は今日飲む分、もう1本は買い置き。


2005年03月15日(火) 梅開花

あまりに書かないでいるから、ここエンピツのパスワードを忘れそうになる。おととい、玄関脇の梅が咲いた。近所の他の梅より1週間から10日くらい遅い。相方とふたりして喜び、すかさずデジカメで写真を撮る。梅にしろバラにしろメダカにしろ、生き物の世話に関しては私より相方の方がずっと丁寧だ。引っ越してきた時すでにそこにあったから(いたから)仕方なくやるんだ、口ではそっけないことを言うけれど、まめに観察し、必要ならば手をかけ、大切に育てている。そしてその顔のうれしそうなこと。

3月になって気候はぽかぽかと暖かくなったり、キーンと冷えたり、行きつ戻りつ。小雪も舞えば花粉も舞う。マスクに傘に忙しい。冬の重たいウールのコートを玄関先でバッサバッサと振り、花粉を落として家に入る。マスクをはずし、手を洗い、うがいをする。それでもムズムズする時はメイクを落として顔も洗う。

途中まで読んでほったらかしになっている本が数冊。それ以外にも2つの図書館からひっきりなしに本を借りてきてはパソコンの横に積み、ほとんど開かないまま期限がやってくる。借りるときはあんなに読む気満々なのに。今は相方から借りた村上春樹『風の歌を聴け』を読んでいる。話の中身はもうすっかり忘れていて、はじめて読むみたいにおもしろい。中学校の美術の教科書に出てきた色相環を思い出す。隣りの色は類似色、相互に向かい合う位置にある色は補色。ちょうど反対側にあるもの同士は互いに、自らの存在によって相手をものすごく際立たせる。そして同じように相手の存在に縁取られる己の姿を意識せずにいられない。

夜は昨晩炊いたごはんが余っていたのでレトルトカレーで済ませる。レタスとトマトとセロリを切ってパルメザンチーズをふりかけてフレンチドレッシングでいただく。簡単ひとりごはん。ついでに作り置きのトマトソースを作る。明日のお弁当の準備もする。備えあれば憂いなし。


2005年03月04日(金) カサコソ

早くも3月。昨日はひなまつりで、晩ごはんにはちらしずしを作る。日々がおそろしい速さで過ぎていく。もうすぐ結婚して1年になる。今までにないくらいとても密度の濃い1年は忙しく、遅れないようについていくので精一杯だ。おかげで少し体力というか、生活力がついたような気がする。たとえばそれは、疲れて帰ってきても、ちょっと座ってお茶を飲み仕切りなおして、きちんとごはんを作るということ。

夕べの雨は雪に変わり、朝起きるとあたり一面真っ白に。人や車が通ったところはシャーベット状にとけているものの、車や塀の上にはこんもりと10センチくらい積もっている。気温が低いせいか、雪はふんわりと軽く、いくらでも空から落ちてくる。カサコソ小さな音をたてて、そこかしこに降り積もる。雪の日は静かだけれど、誰かが遠くでないしょ話をしているような気配がする。灰色の空なのに、外はぼんやりと明るい。山手線の窓から眺める新宿東口、歌舞伎町、大久保にかけての雑多な街並みも、雪に覆われおとなしくしている。

とても楽しみなもの。今月23日から東京国立近代美術館でゴッホ展がはじまる。江國さんの好きな「夜のカフェテラス」も半世紀ぶりに日本で公開されるようだ。中学校の美術の教科書で見たゴッホの絵は狂気に満ちていて、うっすらと恐怖を感じ、そのときは好きになれなかった。今は塗り重ねられた絵の具の筆の跡や、たくさんの黄色を好ましく思う。木曜日と金曜日は夜8時まで。仕事帰りでも間に合う。


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東京国立近代美術館 「ゴッホ展 孤高の画画の原風景」


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