蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2005年02月27日(日) スピードメータ/『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』

すっきり晴れた空の下、洗濯物をどんどん干す。ふとんも干す。青空との共同作業、とても爽快な気分だ。昨日よりも暖かく感じるのは風がないせいだろう。玄関のめだかも今日はこわごわだけれど泳いでいる。ふだんは水草の横でじっとして動かない。信じられないほど冷たい水の中で寒さに耐えているのだ。

昼は自転車に乗って相方と近くのラーメン屋さんへ行く。私の自転車に相方がスピードメータをつけてくれた。相方が新しいスピードメータを買ったので、おさがりをくれたのだ。途中、すいた道路で隣同士に並んで走る。いま何キロ?10.2キロ!こっちは10.3・・・あ、8.4キロ!こぎ方しだいで数値はくるくる変わる。ふたりして速度を合わせて走る。

『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』やっと読了。ある日、夫が「仕事で旅行に出る」と言って家を出たまま、20年間帰らないという話。家を出た夫は、自宅からそう遠くない通りに部屋を借りていた。仕事をやめ、赤毛のカツラをかぶり、身をひそめて暮らす。

ホーソーンが「ウェイクフィールド」という短編を書いたおよそ150年後に、今度は妻の側から見た話「ウェイクフィールドの妻」をベルティが書いた。今回読んだ本には親切に両方の話が収められている。

ホーソーンの「ウェイクフィールド」はとても短い話で、起きたことしか書かれていない。なぜ夫が家を出たのか、家を出てから何をしていたのか、近所の人は誰も気がつかなかったのか、なぜ20年後のある日とつぜん家へ帰ることにしたのか、肝心なところは何も語られない。もともと奇妙な話はそれによってますます謎を深めている。夫の心の内が何も見えなくて、薄気味悪いほどだ。

そしてその謎が解けるかと期待して、ベルティの「ウェイクフィールドの妻」を読む。ホーソーンの「ウェイクフィールド」にはなかった細かいエピソードがたくさん含まれている。20年の間に、夫と妻はひとつの街の中で近づいたり離れたりを繰り返す。話の終わりでついに夫は家に帰るが、家出については何も話さない。妻もまた何も訊かない。その晩、夫は早々に眠ってしまう。ページは尽きて、結局、謎は謎のままだった。

夫婦はその組み合わせによって一組ずつがひどくユニークな存在で、当たり前だけれどひとつとして同じ組み合わせはない。そんな彼らが持つ秘密について周囲の人間があれこれと詮索したり、または他の夫婦と比較したりしたところで、何かが見えてくるものでもない。だからこそ「他人ん家(ひとんち)」はおもしろい。くっついたり、離れたり、いがみ合ったり、許したり。ほとんど理解できないけれど、ウェイクフィールド夫妻はあの状態で夫婦として成り立っていたのだということにする。


2005年02月25日(金) やれやれ/『タンノイのエジンバラ』

毎日持ち歩いているLingkaran3月号は、動物特集。「動物とわたし、みんなで一緒に生きている」をテーマに、いろんな環境で暮らす動物と人が出てくる。動物の表情や仕草にいとおしさを感じ、彼らの素朴で、真摯で、ユーモラスな様を見ていると、ぐちゃぐちゃに絡まった気持ちがほどけていく。やれやれ。人間はずいぶんと厄介な生き物だ。

いつもは見ない月9ドラマ不機嫌なジーンも、今回は生き物ネタにひかれて見ている。昆虫は足がもぞもぞして苦手だけれど、それでも生き物はやっぱりおもしろい。そしてそれと同じくらい、生き物に夢中になっている人間もおもしろい。

リンカランに載っていた旭山動物園が、朝のやじうまワイドと夜のニュース7に出た。1日に2回も見られるなんてツイている。旭山動物園は日本最北の動物園であるとともに、動物の習性をいかした展示方法で有名だ。アザラシの円筒形の水槽、ペンギンの園内散歩。ペンギンの水中トンネルはまるで空を飛んでいるかのように見える(らしい)。寝っぱなしで動かないライオンやヒョウ。その動物本来の姿をどうやったら興味深く見てもらえるか、とてもよく考えられている。ここでは人も動物もとても楽しそうだ。いつか行ってみたい。

もう少し暖かくなったら、お弁当持ってデジカメ持って動物園へ行こう。難しいこと、手に負えないこと、ひとりではどうにもならないこと、不安なこと、あれこれもろもろ全部放り投げ(た気分になって)、今を精一杯楽しく大事に生きよう。


2005年02月24日(木) 欠落もしくは邪魔なもの

午後からどんどん気温が下がり、夜にはもしかしたら雪が降るかもしれない。夕方から雨。スーパーからの帰り道でぽつぽつ降り出した雨は、みるみるうちにどしゃ降りになる。しんとした部屋に雨のあたる音が響く。

日に当たらないでいると少しずつ、でも確実に元気がなくなる。光合成でもしているのだろうか。日に当たって体を動かしたい。昼間の時間が自由にならないことが、ときどきつらく感じる(仕事をしている人は多かれ少なかれみんなそうなのだけれど)。その日がどんな天気だったのか、ほとんどわからずに一日が過ぎていくのがいやで、「10分休憩」になると待ってましたとばかりに外へ出る。気温は?風は?伸びをして、建物に細長く切り取られた空を見上げる。

私には仕事を続けていくうえで必要な何かが欠落しているのだと思う。もしくは仕事には邪魔なものをあれこれ持ち過ぎているのかもしれない。

夜になるといつかのモヤモヤがまた現れて、不機嫌になり黙りこんでしまう。以前ならこんなときは部屋にこもってひとりでモヤモヤが消えるのを待った。でも今は相方が私の変な様子に気がついて心配する。それが申し訳なくて隠れたいけれど、隠れるところがない。所詮、隠れたところでバレるに決まっている。どうしたの?モヤモヤする。何がモヤモヤするの?よくわかんない。言いたいことは喉のところにつかえていて出てこない。わかった、もう今日は寝よう。埒があかないので眠ることにする。


2005年02月23日(水) 春一番

「春一番」
冬から春への移行期に、初めて吹く暖かい南よりの強い風。気象庁では立春から春分までの間に、広い範囲(地方予報区くらい)で初めて吹く、暖かく(やや)強い南よりの風としている。

〜気象庁ホームページ 予報用語の解説より〜

昼間、おもてに出ようとドアを開けた瞬間からぬるい。とんがった寒さはすっかりどこかへ消えてしまった。ここで油断してはならないと思うものの、体は勝手にゆるんでいく。春だ春だ春だ。強い風にホコリっぽい空気。なんとなく黄色くかすんで見える。てっきり花粉のせいだと思っていたら夜のニュースで黄砂だと聞く。そして春一番が吹いた次の日は、必ず冬に逆戻りするという。ほらやっぱり、油断は禁物なのだ。


2005年02月22日(火) ニラ/『ふしぎな図書館』

2月22日、2がみっつ。

仕事から帰ってきて、洗濯機を回しながら、晩ごはんの用意をする。豚肉・ニラ・もやしの中華風スープを作る。ひと束しか買っていないにも関わらず、ニラはなかなかなくならない。昨日はニラと麩のお味噌汁で、そこで相方がニラ嫌いであることをはじめて知る。今までにもニラは幾度となく登場していたから余計に驚く。相方は基本的に出されたものは文句も言わずによく食べるので、何が嫌いなのか注意深く観察しないとわからない。ほとんど噛まずに飲みこんでいるように見えるときがあるので嫌いなのかと思うと、一方で好きなものもあまり噛まずに、次から次へひょいひょいと口に運ぶ。好きなのか嫌いなのかわからない。いずれにしても、よく噛んでね、と小うるさく言う羽目になる。そうだ、思い出した。本当においしいときには、うめえ〜、と唸るのだ。それ以外は普通ということだろう。

結婚してそろそろ1年になるけれど、食べ物の好みに限らず、お互いに相手について知らないことなど、まだまだ山ほどあるに違いない。

相方が買ってきた村上春樹『ふしぎな図書館』を読む。佐々木マキのイラスト、文庫本くらいの大きさ、ふっくらとしたハードカバー(?)で箱入り。短編『図書館奇譚』を書き改めたものだと言うけれど、『図書館奇譚』は読んだことがないので比べようがない。相方に借りよう。短編だからあっという間に読み終わる。図書館の地階に行くのが怖くなりそうなお話だ。実際に、地下の壁に大きな穴のあいている図書館がある。どうもあの辺りがあやしい。


2005年02月17日(木) マロは眼鏡をかけられない

仕事は臨時休業。日帰りで実家へ。マロの目が悪くなってきていること、そして脳に障害があるかもしれないことを電話で聞いたのが気になり、マロはもちろん、それを知ってショックを受けているであろう母の様子を見に行く。夜のうちに焼いておいたチョコレートパウンドケーキはおみやげに。

行くと、母とマロだけでなく父も家に居た。週末の慣れない野良仕事でヘルニアになったという。みんなそろってガタガタだ。お昼ごはんに焼きそばを食べ、お茶を飲みながら何とはなしに母としゃべる。父は和室で横になっている。遠くに見えるはずの青い海が、今日はどんより曇っていて、薄灰色の空と海の境がわからない。予報では晴れると言っていたのに、ほとんど日がささず寒い。

マロの目は黒目が白く濁り、白目の部分が赤い。さかんにまばたきをしたり、前足を目のあたりにやったりする。しょぼしょぼした目は痛々しい。右目が特にひどい。獣医さんの話によると、視力が落ちているせいで、物にぶつかったり、ホコリや何かが目に入りやすく、角膜に傷がついている。手術もできるけれど、それでよくなる保証はない、ということだ。今はこれ以上傷がつかないように、目を保護し栄養を与えるための目薬と軟膏を処方してもらっている。父と母は手術はせずに、このままでいくと決めたようだ。当然、全身麻酔になる手術の体力的および精神的な負担を考えれば、それでいいと思う。

マロの頭については精密検査をしたわけではないので、詳しいことはわからない。ただ、マロがいつも下を向いていてあまり顔を上げないことや、意味もなく同じところをぐるぐる回ったりすることから、獣医さんがそう言ったのだ。脳に障害のある疑いがある、と。

仮にそうだとしても、私たちが今までそれを知らなかっただけで、マロはその診断の前も後も何も変わらない。マロはマロだ。その話を聞いたとき、ショックを受けて不覚にも涙がこぼれた。でも今はマロの行動の全てに納得がいく。もう無理強いしなくてもいいのだ。もともとそれほど厳しくはしていなかったけれど、犬とはかくあるべき、なんていう押し付けはもうマロには無用で、マロはマロらしく、みんなと楽しく暮らしていけばいい。それに目だって全然見えないわけではない。マロは玄関まで迎えに来たし、ボール遊びもできるし、散歩ものろのろ歩きだけどできる。犬は眼鏡をかけられないかわりに鼻がきく。

帰る頃には霧雨が降る。行き帰りの電車では『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』を読む。特急の浮遊感と柔らかな揺れによる強烈な睡魔に襲われ、ほとんど読み進まない。


2005年02月11日(金) 便利なはずが/『パラレル』

長島有『パラレル』読了。バツイチ男と、複数の女を「パラで走らせる」独身男との友情物語。そしてときどき別れた奥さんも出てくる。別れてもなお、ふたりは友達のように仲良く見える。未練があるとか、やりなおしたいとかいうわけではないらしい。ひとりぽっちで誰も頼れる人がいない生活というのは人生の醍醐味に欠け、味気なく、男にとっても女にとっても心細くさみしいものなのだ。

時間が過去や現在に行ったり来たりするのでわかりにくかったけれど、全体としては楽しく興味深い話だ。かなり熱中して読んだ。話の筋からは外れているが、途中で思わず目を見張った箇所。

・・・大体が人は一日に三時間も働けば十分だと僕は思っている。する事も特にないのに数あわせでいる奴は帰った方がましだし、何時間も集中力を持続できるはずがない。携帯電話やメールに触れ、その便利さを実感する毎に思う。これで楽になって浮いた時間の分は、働かない方向に費やされればいいのに、世界は一向にそうならない。空いた時間を詰めて次の仕事をいれるようになっていくだけだ。・・・

そう!便利になっていろんな時間が短縮されたはずなのに、それに伴ってどんどん忙しくなっているように感じるのは気のせいか?もはや現代の生活のどの部分が「便利になったおかげで浮いた時間」にあたるのか、さっぱり区別できない。ゆとりのある生活はどこへ?

新しい便利を作り出そうとしている人たちには申し訳ないが、本当に豊かな生活は、目先の便利さを捨てたところにあるのかもしれない。それがどこなのか、今の私にはまだよくわからないけれど。そんな気がしてならない。


2005年02月07日(月) 魚肉ソーセージ/『ジャージの二人』

長島有『ジャージの二人』読了。2度離婚して3回結婚した父と、失業して今にも離婚しそうな息子との、山荘での生活の様子が描かれる。帯には「アンチ・スローライフな日々」とか「関係をジャジーに描く」とか書いてあるが、全然そんなふうには感じない(帯の文句というのたいてい胡散臭く、声高で、中身を正確に表そうとか伝えようとかいう心がない)。父は山荘にいても、ただ単に魚肉ソーセージが食べたかっただけのことだ。

ジャージの二人は途中からジャージの三人になる。でもまたすぐ二人になる。著者はインタビューで、三人にしたのはよかったけれど、そうすると組み合わせがいくつもできてしまって大変で、結局一人は帰してしまいました、というようなことを言っている。でもあれはあれでよかった。離れかけた二人が一時でも寄り添うことができたから。

失業して離婚の危機にある息子は、話の中ではほとんど何もしない。書こうと思っていた小説も書かない。新しい職を探すわけでもない。不倫をやめさせようと妻を説得するわけでもない。何もしないけれど、それでも突き放した感じはない。彼はまだあきらめてはいないのだ。自分の人生を投げてはいない。もしかしたら、こういうときはこの男のように一見怠惰に、無駄な動きはせず、じっとしているのがいいのかもしれない。

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excite Books 長島有スペシャルインタビュー
ジャージではじまる小説の書き方


2005年02月03日(木) 豆まき

この頃は読書日記のはずがすっかり料理日記になってしまっている。

朝ごはんには前の晩から仕込んでいた挽肉と麦のスープを。Ku:nelのうしろの方のページに、麦を使ったスープが出ていたのを参考に、家にある材料で作る。オリーブオイルで挽肉を炒めて、1センチ角に切った大根、人参、ピーマン、それからえのきも細かく切って入れる。麦もちょっと炒めて水を入れ、ブイヨンを投入、野菜がやわらかくなるまでコトコト煮る。麦が水を吸うので、水は多めに入れておく。最後に塩、こしょうで味をととのえる。大根の白、人参のオレンジ、ピーマンの緑で、色鮮やかなスープができる。麦を入れただけでどことなくやさしい表情になる。

以前、Soup Stock Tokyoのスープを思い出しながら作ったときはちょっと失敗したけれど、あれからル・クルーゼの鍋も手に入れて今回はうまくいく。ずっしりと重たいホーロー鍋のル・クルーゼは本当に何でもおいしくできる。持っているのは18センチのまん丸で、色はオレンジ。二人分を作るのに18センチはちょうどいい大きさだ。ただしカレーとおでんはやや容量オーバーで、カレーは次の日も食べるためにたっぷり作るし、おでんはいろんな具を楽しむためにあれこれ入れるから、いつもお鍋のふちギリギリになってあわてる。

夜は相方と豆まきをする。玄関から外に向かって盛大に鬼は外、福は内。家の中はあとで拾い集めることを考えて、ひと粒ふた粒ひかえめにまく。それから歳の数だけ食べる。ひさしぶりに食べる豆は香ばしくおいしくて、歳の数だけでは食べたりなくて、ここからはおやつ、と宣言して相方の歳の数まで食べてしまう。それを見ていた相方は、俺は今日はもう食べないよ、と絶対に手を伸ばそうとしない。

翌朝、うちの前の道には豆がたくさん散らばっていて、いくつかは通勤途中の靴に踏まれていた。


2005年02月02日(水) 小学生→ランドセル→時間割→曜日

朝、ゴミ捨てに行くと、ゴミ置き場にゴミ袋がひとつもない。きれいさっぱりである。うそ?!もう行っちゃったの?回収日の朝8時までに出してください、と書いてあるものの、まだ8時を数分しか過ぎてないではないか。いくらなんでもやり過ぎだよ〜、と文句をたれつつ、すぐ近くの別のゴミ置き場を見に行く。そこにも何もない。大きなゴミ袋を持ったままうろうろする。早くしないと仕事に遅れちゃう。そのとき向こうから小学生の男の子が歩いてくるのが目に入る。小学生→ランドセル→時間割→曜日、曜日?うわ!今日は木曜日じゃない!燃えるゴミの日は木曜日。今日は水曜日。男の子はゴミ袋を持ってつっ立っている私を横目で見る。

気づくのが遅い。ゴミ置き場にゴミ袋がひとつもないところで、曜日を間違ったことに気づくべきなのに。ゴミ収集車が行ってしまったと思いこむあたりが、抜けているというのかお気楽というのか。

ゴミ袋を手に玄関を入ると相方に笑われる。ゴミの日間違ってるよ、と指摘される。どうやらそのようです。


2005年02月01日(火) 心躍るコールスロー

朝、理由はわからないけれど、じわりじわりと不機嫌になっていく。これはまずい。誰かに八つ当たりする前に立て直さなければ。一日かけてあの手この手で自分をなだめすかす。

夕方から病院。お腹は少しずつよくなってきているみたいなので、今度はもう少し冷えに配慮したお薬にしましょう、と言われ漢方薬が変わる。顆粒の漢方薬はお湯に溶かして飲む。お湯に溶かせば必然的に匂いがきつくなる。六君子湯はミントのようなスーッとした、どこかお菓子にも似た匂いで、味もまあまあ気に入った。おいしいと感じたならその漢方薬は体に合っているということらしいので、先生の診立てはあながち間違っていなかったということだ。たしかに以前よりもパクパクよく食べるようになったし、食後にお腹が痛くなることも毎度のことではなくなってきている。気がつけばいつの間にか治っているというのは、じわじわ効いていく漢方薬だからこそ。うれしい実感だ。

今週はKu:nelを参考にして晩ごはんを作る。昨日は高山なおみさんの春のコールスロー。ピエトロのドレッシングを買いに行ったら、「たまねぎフレンチ」のところを間違って「クリーミー」を買ってしまう。作り終わって雑誌と見比べてはじめて気づく。これはこれでおいしいじゃん、と相方。ピエトロは日持ちしないのでどんどん使おう。手で大雑把に割ったゆでたまごの黄色とオレンジ色で心躍るコールスロー。とても元気よく見える。本物の春キャベツが待ち遠しい。

今日はちょっと一杯の晩酌メニュー。前の方のページ、石田千さんが出ているあたりを参考に。菜っ葉と油あげとじゃこの炒め物、肉豆腐、コロッケ。お気に入りの純米焼酎「川辺」を飲む。じゃこが香ばしい。相方が帰ってくる頃には、朝の不機嫌もどこへやら、上機嫌で迎える。


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