蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2004年07月28日(水) モヤモヤ

昨日の夜、なんかモヤモヤする、と相方に訴えてそのまま寝てしまった。どうして?と訊かれても、わかんない、としか答えられない。これと言う原因が思いつかない。うまく説明できないくせに、そんなことを訴えられても相方も困るだろうに。自分でもなんでそんなに気持ちがぶれるのかわからない。イライラとカナシイの中間みたいな、そんな気持ち。それはときどきやってくる。特に夜になると、すっと胸の内に忍び込んでくる。この頃は3日に1度くらいでやってくる。やっかいだ。

すっと忍び込んできたらどうなるか。むすっとして黙りこくったり、言動が荒っぽくなったり、急に泣き出したりする。これじゃあ、まるで病気だ。相方に当り散らしたりはしていない(はずだ)。むしろ相方は辛抱強く私の話を聞いてくれている。

これを書いている今、モヤモヤはほとんどない。これからはモヤモヤを飼い慣らすのに、いくらか手間をかけなくてはならなさそうだ。モヤモヤの傾向と対策。まだ何もつかめてはいないけれど。


2004年07月23日(金) 攻めに転じる

風が吹いているぶん、快適に感じられる。33℃を涼しい、と言ってしまえるこの頃の私。

夕方、パソコンに向かい仕事をしながら、ふと思う。思いはどわどわと溢れてきたので、いそいで書き留める。

ここいらへんで攻めに転じないと、知らない間に坂道を下ってしまいそうな気がする。ずるずる、ずるずる。それであるとき気づいたら、自分がいちばんおそれていた場所に自らが居た、なんてことになったら、そりゃ大変。そんなのいやだから。だから今のうちに。

いつかのku:nelに載っていたアプリケ作家の宮脇綾子さんの展覧会がある。のびのびとユーモラスに描かれた魚や野菜や花、そして布の質感もおもしろい。「創作活動は豊かな家庭生活に通じる」というのはご本人の言葉。東京・大丸ミュージアムにて、9月16日〜28日。


2004年07月19日(月) かかかえるのおへそ

UAがNHK教育で歌のおねえさんをやっているのは知っていたけれど、今日はじめてそれを見た。再放送なのか、それとも1学期のおさらいなのか、ずいぶんと長い時間やっていた。

歌のおねえさん「ううあ」は火の鳥みたいな極彩色の衣装を着て、ふしぎな振り付けで、おなじみの童謡を歌う。う〜み〜はひろい〜な、とか、おもちゃのチャチャチャ!とか、ううあが歌うとまた違って聞こえるからおもしろい。ほんの時間潰しのつもりでいたのに、いつの間にか夢中になって見ていた。

ううあが次々と歌うなかで、雷に打たれたように響いてきたのは『マーチングマーチ』だ。小さい頃、童謡が20曲ぐらい入っているレコードが家にあって、私はある時期そればかりを繰り返し聞いていた。その中に『マーチングマーチ』もあった。やけになって、チッタカタッタッタァを繰り返す歌詞も、短調の少しだけ不気味なメロディも気に入っていた。ううあが歌うマーチングマーチは私がその曲に持っていたイメージとぴったりだったのだ。童謡は明るい歌ばかりではない。むしろ残酷なストーリーや不穏な空気を持っていると思う。背中の方がぞわぞわする感じ。

一回だけ曲の調子が変わるところがある。か か かえるの おへそ〜、 み み みみずの めだま〜、ここが好きだ。原っぱで貪欲に遊んでいた頃を思い出す。あのときは今みたいに虫もそれ以外の生き物もそんなにこわくなかった。刺されてもへっちゃらだった。親しかったのだ。


マーチったらチッタカタァ こうしんだ
マーチったらチッタカタァ こうしんだ
みぎあしくん ひだりあしくん
かわりばんこ かわりばんこ
ぼくをはこんで チッタカタッタッタァ
のっぱらへつれていけ チッタカタッタッタァ


マーチったらチッタカタァ こうしんだ
マーチったらチッタカタァ こうしんだ
バスみちくん どろみちくん
ざっくざっくぼっこぼっこ
ざっくざっくぼっこぼっこ
いいおとならして チッタカタッタッタァ
のっぱらへつれていけ チッタカタッタッタァ


か か かえるのおへそ
み み みみずのめだま
あるのかないのか ないのかあるのか
みにいこう


マーチったらチッタカタァ こうしんだ
マーチったらチッタカタァ こうしんだ
ふるぐつくん ぼろぐつくん
ひだりみぎ ひだりみぎ
いち に さん し
ぼくをはこんで チッタカタッタッタァ
のっぱらへつれていけ チッタカタッタッタァ

(作詞:阪田寛夫 作曲:服部公一)


番組を見たあと、すぐにううあのCDを買いに行った。行く途中もマーチったらチッタカタア と口ずさんで。CDは相方が買ってくれた。

私が見た1学期のおさらいみたいな番組はまたやるようだ。「特集 ドレミノテレビ ううあとうたおう」8月16日(月)午前9:30〜10:15 NHK教育テレビ。≪ここをクリック≫でううあの振り付けも覚えられる。


2004年07月18日(日) 自転車/焼肉

プールに行く予定だったけれど、出かけるのが億劫になり取りやめ。でも体を動かして汗を流したい気分だったので、意を決して自転車を乗り回すことにする。帽子をかぶって日焼け止めを塗り、自転車のタイヤに空気を入れて、相方とふたりで出発。今日は何となく北の方角へ。

風を切って走るのは気持ちいい。たとえそれが熱風でも?

途中、公園で休憩したり、小さな雑貨屋さんをのぞいたり、ファミレスで冷たいデザートを食べたりして、ぐるっと回って帰る。たくさん汗をかいた。平日はエアコンに浸かりっぱなしの「もやしっこ」のような生活をしているので、暑い日に当たり前のように汗をかくのが爽快だ。

ごはんをつくるのが面倒だったので、夜は焼肉を食べに行く。今度はとぼとぼ歩いて。はじめて入る焼肉屋さんだったけれど、わりとおいしかった。また行こう。

急いで帰って、女子バレーボールの試合を見る。キューバは強い。日本は第1セットを取ったものの、2、3、4セットは取られてしまった。先日の対ドイツと同じパターン。佐々木が出てないのがつまらない。次は22日から韓国ラウンド。


2004年07月17日(土) はだしでペタペタ

朝起きて、ABCつぶれたのって夢じゃないよね?と相方に確認する。すると相方は、僕も知ってるから夢じゃないよ、と。

仕事は休み。午前中は掃除をする。掃除機をかけているだけなのに、汗がだらだら流れる。続いて、床と畳を水拭きする。夏はスリッパを履かずにはだしでぺたぺた歩くので、水拭き仕立ての床は気持ちがいい(相方は律義にスリッパを履いているけれど)。洗濯も掃除がすんだところでシャワーを浴びる。着ていた服も全部着替える。

午後は家の中でのんびり過ごす。エアコンの効いたリビングの床に寝そべって本を読む。途中、眠たくなってうとうとしてしまった。小池昌代『感光生活』読了。

夕方、少し涼しくなったかと思って外に出てみるけれど、まだじりじりと暑い。玄関横の梅の木を剪定する。新しい枝や葉っぱがたくさん出ていて、全体的にもさっとした印象。風通しがよくなるように余分な枝を切る。枝を切るのは相方で、私は切り取った枝を大きなゴミ袋に入れる係。一袋分、切ったらだいぶすっきりした。来年もよく咲きますように。

晩ごはんは冷蔵庫にあるものだけで作る。鶏の竜田揚げ風に大根おろしと大葉の刻んだのをのっけたのが思いのほかおいしかった。竜田揚げ「風」というのは、片栗粉をつけたらフライパンでちょっとこんがり焼くという意味。カリッとした歯ざわりは一緒なのに、油控えめで、後片付けも楽々。揚げ物は苦手なのだ。


2004年07月16日(金) 日傘をさして/アイス柚子茶

この夏はじめて、セミの声を聞いた。もしかしたら、何日か前から鳴いていたのかもしれない。今朝、仕事場への坂道を、日傘をさしてのろのろ歩いていて気づいたのだ。まだ鳴き慣れていないような、うら若い声だった。

本格的な夏の訪れ。

お弁当は昼休みまで冷蔵庫で待機。麦茶は多めに作ること。扇風機は首を振り、エアコンは低くうなる。洗濯物はよく乾き、ジャスミンのつるはぐんぐん伸びる。

さて、昨日のこと。友人と3ヶ月ぶりに会った。仕事のあと、近くの喫茶店でのんびりとおしゃべりをした。彼女はアイス柚子茶を、私はホットチョコレートを飲みながら。

3ヶ月もの月日が経てば、放っておいてもいろいろな事が起きるものだ。それぞれが思いつくままに新たな出来事を報告をし、聞かれれば毎日の生活の様子を話し、思い出したように職場の今後を憂い、あっという間の1時間半。

まだ話し足りなかったけれど、そろそろ暗くなってきたので家に帰ることにした。今度はいつ会えるだろうか。秋になれば彼女は外国へ旅立ってしまう。

++追記++

夜、何気なく金曜ロードショーの竜巻映画を見ていたら、ABC閉店の情報が舞い込む。あの青山ブックセンターが閉店?!なんで?倒産?

せまりくる竜巻を気にしながらも、すぐ横で情報収集に徹する相方へ質問攻め。第三者による破産申し立てを受けての?閉店らしい。六本木店なんかは閉店後、その日のうちに撤収作業に入っている。信じられない。あんなに楽しい本屋さんがこの世から消えてなくなってしまうなんて。

本は売れないし、売れても書店の利益はほんの少し(定価の2割だったかな?)。この頃は読むペースがガクンと落ちたせいか、本をために使うお金はせいぜいひと月1万円くらいの私が言うのもなんだけど、本好きとしては、ABCのようにユニークな本屋さんがなくなってしまうのは本当にさびしい。親しい人が遠くへ行ってしまったような気持ちがする。


2004年07月13日(火) 夏の食卓

近畿から関東甲信越にかけて、一気に梅雨明け。そして猛暑再び。雨は平年の45%しか降らなかったらしい。水不足が心配になる。

夕方、枝豆をゆでる。ゆであがったらざるに取り上げ塩をふる。熱々の枝豆をつまみ食いしながら夕飯の支度。今日は和風おろしハンバーグ、わかめときゅうりの酢の物、かぼちゃの冷たいスープ、ごはん、それにさっきゆでた枝豆。夏の食卓だ。

こう暑いと料理で火を使うのもうんざりするけれど、自分が食べたいものを作ればその苦労も半減するというものだ。じわっと汗をかきながらたまねぎを炒める。ここ何日かずっと、大根おろしたっぷりのハンバーグが食べたかった。香りづけに大葉もきざむ。さて、おいしくできただろうか。


2004年07月12日(月) 豆というのはこんなにも

先週、本屋で小池昌代の短編集を見つけた。その場ですぐに買った。小池昌代は詩人で、ときどき新聞の書評とか、詩以外の文章を書いているものも見かける。でも短編集は初めてじゃないかな。『感光生活』小池昌代(筑摩書房)には15編が収められている。

小池昌代の作品との出会いはたぶん、図書館でなんとなく彼女の詩集を手に取ったのが最初だと思う。そう、蜜白玉ノートでは、2002/2/25『夜明け前十分』小池昌代(思潮社)となっている。このとき、私はずいぶんと彼女の詩を気に入り、そのあとしばらく彼女の詩集を書店で探し、豆男がどうの(正しくは、『雨男、山男、豆をひく男』)、とかいう新しい詩集を見つけ、かなり熱心に立ち読みをした記憶がある。

ほとんど衝動買いの勢いで短編集を買ったのと同じ日に、図書館で現代詩文庫の小池昌代詩集を借りた。ひさしぶりに彼女の詩を読む。

小池昌代の詩はそれほど難解ではない。難しい言葉も言い回しも出てこない。しかしながら、書いてあることの全てを読み取れたという自信もない。ただ、彼女の詩を読んでいるとまるで対象にじかに触れているかのような、確かな感触がある。詩という形に翻弄されず、言葉を感じることに集中する。大切なのは、その時つかみ損なったものを気にすることより、かろうじて私の手のひらに残ったものに目を向けることだ。

彼女の詩には豆がよく登場する。特に空豆が多い。豆というのはこんなにも官能的なものだったかしら?


 「空豆がのこる」


 空豆はすぐにゆであがり
 わたしは「待って」と言った
 湯をこぼして
 「食べていって」
 流しのステンレスが、ぽこん、と鳴った
 それなのに
 行ってしまったのは。
 
 (中略)

 でてくるでてくるほらね
 際限なく
 わたしはわたしへ空豆を生み続ける
 ゆであげる前も楽しいのよ
 固いこちこちのみどりのかけらが
 湯をくぐり
 ふっくらと
 くぼみはくぼみ、そのままにゆであがり
 くちに含めば
 まだ固さを残して
 みどりの舌
 そのちいさくて、たのもしい
 あつみのある若い舌がわたしの舌へ
 ぽってりとかさなる
 歯にわらわらと
 やさしくくずされ
 くだかれてしまう
 くだかれてしまう
 空豆を食べる

 (後略)

                  詩集『永遠に来ないバス』より


ここまで書いたらピンポーンと鳴った。雨、雨降ってるよ!洗濯物!お向かいのおばさんが教えてくれる。・・・そうだった。雨が降っているのも気づかずに熱中して書いていたようだ。今日に限って外に洗濯物を干していたのをすっかり忘れていた。ありがとう、と言って洗濯物を取り込みに行く。

なんだか勢いをそがれた感じがあるけれど、つまり私はいま小池昌代の詩に再び心が傾いているのだ。


2004年07月11日(日) 元気にやってるよ

じいちゃんの一周忌の法要で浅草近くのお寺へ。読経のあいだ、なんとなくじいちゃんのことを思い出す。思い出されるのは、私がまだ小学生だった頃、夏休みに会ったじいちゃんの姿。ループタイに帽子。背筋をしゃんと伸ばして立っている。いつもきちんとした格好をしている人だった。そういうじいちゃんの前で、私はいつも少し緊張していた。

お寺の裏に回ってお墓参り。じいちゃん、私は元気にやってるよ。おうちに住まわせてくれてありがとね。

お昼は親戚のみんなでお寿司を食べに。まめ豆腐や煮魚や枝豆やサザエのつぼ焼きに続いて、お刺身がたらふく出てきて、そのあとにお寿司。もうとてもじゃないけど食べられない。もともと生魚や貝類があまり好きではないので、こうたくさん食べると少し気持ち悪くなる。贅沢なことをしてるのはわかるのだけれど。昼間っからビールを飲んだせいか、すごく眠たくなる。眠気をこらえて、赤貝を口に放り込む。味はもうよくわからない。

帰りに合羽橋道具街に寄る。日曜日だからか、商店街の半分くらいはシャッターが下りていた。相方と私、それぞれの手にちょうどいい大きさのごはん茶碗を探しているのだけれど見つからず。

あまり食欲はなかったが、夕飯は近くのイタリア食堂にピザを食べに行った。生ハムとルッコラのピザ。私はこれがいちばん好きだ。シンプルで飽きのこない味。生ハムのしょっぱさがちょうどいい。

夜はふとんに寝っ転がって選挙速報を見る。チャンネルをばしばし変えながら。選挙がお祭りのように見えた。


2004年07月09日(金) ゴロニャーゴ

うちの周りにはわりと多くのノラ猫がいる。近頃はそれらの猫をちゃんと区別できるようになってきた。

まずは、おでん屋のタキシード猫。こいつはいつもおでん屋の近くでうろうろしている。毛色は白と黒で、首の周りと足先が白くて他は黒。タキシードを着ているように見える。今日みたいに暑い日には決まっおでん屋の屋根に寝そべっている。トタン屋根だからさぞかし暑いだろうにと思うけれど、それでも悠々と寝そべっている。もしかすると涼しいのかもしれない。声をかけても薄目を開けるだけでニャーとも言わない。お腹がすいている時だけ人の脚にゴロニャンとからみつく。

次。リサイクルショップのトラ猫。リサイクルショップと隣の家とのほんの30センチくらいの隙間にいる。こいつもたいていコンクリートの上に寝そべっている。ときどき道に出てきて、何をするでもなくボーっと突っ立って道の先を見ている。誰か来るのを待っているようにも見える。

それから、目つきの悪い白猫。こいつは赤い首輪をしている。どこかで飼われているようだけれど、ちょくちょく外で見かける。放浪癖があるのだ。じいっと見つめると睨みかえされる。自分からは絶対に目をそらさない。いったい私は何で猫とにらめっこなんてしているのか。

他にも黒猫やら茶トラやらいろいろいる。朝、ゴミを捨てに行こうと思って角のゴミ捨て場まで行く途中、黒猫に目の前を横切られたこともある。とんでもない一日の始まりだ。ああ、横切るなら私のうしろを横切って。


2004年07月08日(木) 覚え書き/住人たちについて

今日も暑い。4日連続の熱帯夜。だんだん体がだるくなってきている。むくみもひどい。サンダルがきつくなり、足首が象になっている。

細かいことだけれどやってみたいことがたくさんあって、でもなかなか手をつけられていないので、忘れないようにここに書いておく。

*フェルメール
上野の東京都美術館に展覧会を見に行った(7月4日)。早いとこフェルメールの解説書を読んで、絵の印象を忘れないうちに文章にする。(『フェルメール : 大いなる世界は小さき室内に宿る』 小林頼子 他著)

*ケストナー
『飛ぶ教室』の続きを読む。読んだらケストナーについてちょっと調べる。図書館で見つけた本は『大きなケストナーの本』エーリヒ・ケストナー 著 ; シルヴィア・リスト 編 (3階入口すぐ右横)

*ヴァージニア・ウルフ
『ある作家の日記 : ヴァージニア・ウルフ著作集8』を借りた。難解な彼女の小説を読む前に、準備運動がてら日記から。

*江國香織
『思いわずらうことなく愉しく生きよ』をもう一度読む。引っかかった言葉を抜き出す。できれば最初に読んだときにやっておきたかった。今回はかなりたくさんいい言葉があったのだ。


-------------------キ-----リ-----ト-----リ-----セ-----ン-------------------------

できあがった作品そのものを見たり読んだりする楽しみもあるけれど、その作品を作ったのがどんな人で、これまでどういう人生を送ってきて、何を考え、何を思ってその作品が生まれたのか、偶然と必然からなる作品の裏側を見てみたい。いい本や映画や絵画に出会うといつも、そういう思いがわきあがる。

作者と「知り合い」になる前と後では、作品の見え方ががらりと変わることもある。漠然としていたものに、意味が与えられる。作品が生き物のように呼吸しはじめるのだ。そうやって私の中に住みついている作品がいくつもある。住人たちはめいめい好きなように暮らしている。どきどき季節や出来事や、もっと言えば、音や匂いやたったひとつの言葉に誘われて、その姿を私の目の前に現す。


2004年07月07日(水) たっぷり2編/『思いわずらうことなく愉しく生きよ』『神様のボート』

7月7日、晴れた夜空、数を増やす星。今夜、かなえたい願いは、たったひとつ。

ドリカムの七夕の歌の一節(うろ覚えなのでちょっと間違っているかもしれない)。この歌の、こういう片思いの痛いようなドキドキを感じることは、今はもうない。たぶん、中学か高校の頃に、どこかに置いてきてしまった。そのかわりに今あるのは、とても現実的な日常と、ふと気がつくとそこにある穏やかな安心。日々雑事に追われているのだけれど、でも、それでも楽しい毎日。特に夕方、仕事が終わって、家に帰るときの開放感がいい。あとは休日。これは文句なしに楽しい。たとえ一日中、家の掃除に明け暮れたとしても。

江國香織を立て続けに2冊読む。『思いわずらうことなく愉しく生きよ』と、それから『神様のボート』。

『思いわずらうことなく愉しく生きよ』は発売されて2、3日してから買った。前にも書いたけれど、江國香織の作品は私の課題図書みたいなものだから、おもしろいおもしろくないに関わらず、今回も最後まできっちり読む。そう決めて読み始めた。

麻子、治子、育子の三姉妹の織りなす物語。あらすじは出版社や書店のHPに任せるとして、やっぱり江國香織は姉妹を書くのがうまい。『流しのしたの骨』のそよちゃん、しま子ちゃん、こと子ちゃんに通じるものが感じられて少しうれしい。

それにしてもドメスティック・バイオレンスの心理描写は恐かった。心底おびえて息をひそめて読んでしまう。抑えられない衝動というのはああいうものなのか。人間の恐ろしさを見た気分だ。

つづけて『神様のボート』。この頃のあまりの暑さでこの本を思い出した。白と黄色と水色の涼しげな装丁のせいか、物語の冒頭のイメージのせいか。葉子と草子、旅がらすな母娘の物語。もう何度も再読している。再読回数は『流しのしたの骨』の次に多いはずだ。新しい土地に、人に、慣れるけれど決してなじまない葉子の孤独が話のあちらこちらに見え隠れする。それから成長するにつれてだんだんと現実的になっていく草子の言葉も印象的だ。ごめんね、ずっとママの世界に住んでいられなくて。

ママの世界。物語の最後で、葉子は自分の作り出した世界に溶けてなくなってしまうかのようだ。何度読んでも、結末がどうなったのかはよくわからない。そして、自分がそれについて、よくわからないという感想を持ったことすら、直前まで忘れている。

過ぎたことはみんな箱の中。ときどきふたを開けて風を通す。しげしげと中身を見るのにはある程度の勇気がいる。


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