蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2004年08月20日(金) 五目焼きそばに酢をかけて

昼は近くの中華料理屋Sへ行く。サラリーマンや学生で混み合い、ときどきBGMにテレサ・テンがかかっていたりする、庶民的な店だ。麺類、飯類、点心、定食。メニューが豊富な店なのだけれど、私はほとんどいつも決まって五目焼きそばを注文する。すると、注文をとりに来た係りのお姉さんは少し困った顔をして、ごめんなさい、材料がないんです、と言う。実はこの返事もおりこみ済みで、じゃあ・・・、とちょっと残念な顔をしつつ迷いながら、広東麺ください、と注文する。

私はSの五目焼きそばに酢をかけて食べるのが大好きだ。しかしいつの頃からか、五目焼きそばを注文しても、材料がないんで、とか、売り切れで、とか言われるようになった。仕方なくしばらくメニューを睨み、いちかばちかで五目焼きそばによく似た広東麺(五目あんかけラーメン)を頼む。するとあっさり、はい、と言われる。

材料は同じなんじゃあないの?

広東麺を待つ間、持って来た文庫本を読む(今月は村上春樹のエッセイを読んでいる。『うずまき猫のみつけかた』や『村上朝日堂シリーズ』などである)。私の座っているカウンターの目の前では、店のおやじさんが汗だくになりながら次々と注文をこなしていく。材料を鍋に放り込む。油のはぜる音、たちのぼる湯気、中華鍋とおたまがあたってガチャガチャと騒々しい。洗いに洗って生地の薄くなったTシャツの背中は、そこだけ汗で色が濃くなっている。

中華料理屋Sはせいぜい20席くらいのちっぽけな店で、とくべつ愛想がいいわけでもないし、よくある町の中華料理屋のひとつだけれど、褒められるところがひとつある。それは厨房がきれいなこと。カウンター越しに見るステンレス部分がどこもピカピカなのだ。きっと毎日磨いているに違いない。ある日、ステンレスがピカピカなことに気がついてから、私はこの店に一目置いている。すぐ隣りでお皿を洗ったり会計をしている奥さんと言い争いをしながら料理していたり(それは険悪な雰囲気)、炒飯がいつにも増してしょっぱかったりしても、ピカピカのステンレスに目をやれば、その日もおやじさんが自分の店を大事にしていることが伝わってきてほっとする。

好物の五目焼きそばを食べられないとわかっていながら、ときどき行ってはめげずに「五目焼きそばください」と注文するのは、パワフルな動きで次から次へとみんなのごはんを作り続けるおやじさんの背中と、その向こう側のピカピカのステンレスが、今日もそこにあることを見たいからなのかもしれない。

それにしても、こんなにいつまでも五目焼きそばを出さないでいるのなら、メニューから消してしまえばいいものを。・・・いや待てよ。いざメニューの「五目焼きそば」の文字の上に丁寧にシールが張られていたり、容赦なく二重線で消されているのを目にしたら、すごくがっかりするのは容易に推測できる。そんなことならやっぱり今のままでいいような気がしてきた。


2004年08月18日(水) 買った買った

水曜日は野菜の日。

とうもろこし1本、かぼちゃ1/3個、トマト2個、レタス1個、みょうが1パック、大根1本、たまねぎ1袋、じゃがいも1袋、以上それぞれ100円。枝豆1袋150円。買った買った、買い物袋が重たい。

帰ってきてから麦茶を飲んでひと休み。洗濯機を回しながら、さっき買ってきた枝豆をゆでる。枝豆をつまみながら、群像9月号を読む。窓を開けていても室内には風が通らず蒸し暑い。それでもエアコンはつけずに扇風機でしのぐ。いつも職場でエアコン浸けになっているから、家にいるときはなるべくエアコンはつけないようにしている。

群像9月号には、小池昌代の中篇が載っている。『旗』というタイトルの、少し重苦しい雰囲気の話だ。好き嫌いでいえば、私は以前の『木を取る人』の方が好きだ。『木を取る人』は作中人物がとても魅力的だった。わたし(主人公)然り、力丸(主人公の夫)然り、剛造(主人公の義父)然り。それが今回の『旗』においてはそうでもない。夜明け前、青石(あおし)という男と葉子という女が、海を目指して歩く話なのだけれど、二人のうちどちらにも入り込めなかった。表情が見えてこないのだ。作者は彼らに語らせ過ぎたのかもしれない。悟ったような言葉がうるさく感じた。次回作に期待したい。

今週末はチキンカレーを作るつもりだ。材料はあらかたそろっている。カレーは平日よりも休日に作りたい。たまねぎをじっくり炒めたり、材料をコトコト煮込んだり。休日は時間を気にせずのんびりと料理ができる。


2004年08月13日(金) かすかに動く緑色

夫の実家、S県S市へ日帰りで帰省。ここを訪れるのは2回目だ。前回は雨が降っていたのと緊張していたのとで、実はあまり様子がわからなかった。今回はすっきりと晴れていて、私も心を開いてしっかりと見ることができた。

美しい景色だ。田んぼの揺れる緑。用水路を勢いよく流れる水。広い空。やわらかい空気。都会に嫌気がさしていた私にとって、そこは楽園のような場所だった。

田んぼをまじかで見るのも初めてだ(今まではせいぜい新幹線の窓から見る程度)。お米はまだ穂が出ていない品種もあれば、すでに穂が出ていて田んぼの水が抜かれているものもある。そんなことを教えてくれた。

足元を見ると、かすかに動く緑色が。じっと目を凝らすと草と同じ鮮やかな緑色をした雨蛙があちこちにいた。そうっと一匹つかまえると、雨蛙はしっとりとしていて手のひらに冷たかった。いちいち驚き歓声を上げる私に相方は呆れているようでもあった。相方にとってはごく当たり前の景色も、私にとってはとても新鮮なものなのだ。

お墓参りがてら、義父の運転する車で市内を案内してもらう。川や滝や公園に行った。夫の通っていた中学校にも行った。そのひとつひとつを歩いてみながら思う。普段は、すっかり東京暮らしに慣れきった夫と顔を突き合わせて暮らしているけれど、彼はこういう場所で育ったんだということもまたきちんと覚えておこう、と。

相方は心なしか、東京にいるときと話し方が違う。ぶっきらぼうであったかい感じがした。また新しい一面を垣間見たような気がした。


2004年08月03日(火) 「わたし」と私

新宿ABCのあとにはブックファーストが入った。8月1日OPEN、ものすごい早業。仕事帰り、偵察に行く。店の様子はABCの頃とほとんど変わっていない。什器もそのまま、本の配置もレジの位置もそのまま。見ていて痛々しかった。ぼんやりしていたらお店が入れ替わったのに気がつかないかもしれないくらいに、とにかくABCの面影そのままだったから。

ブックファーストにさして思い入れはないけれど、大きな書店なのだからそれなりに本はそろえてくれることを期待する。とりあえず、お近づきのしるしに1冊買った。石田千『月と菓子パン』。クウネル最新号で紹介されている。

昨日から、小池昌代『木を取る人』を読んでいる。詩人である彼女の初の中編小説である。詩を書く人が小説を書くと、どうなるのだろう。

私は彼女の詩における言葉の選び方がとても好きだ。何より素直で無理がない。それでいてこっくりと味わい深い。実のぎっしり詰まった果実のようでもある。詩は繰り返し読めば読むほど体に沁みてくる。あるときはこちらの心の内をぴったりと言い当てられて、どきっとする。自分でさえ、ぼんやりとしていてとらえ難いこの気持ちを、どうして他人に分かられてしまうのか。

勝手な推測だが、私と小池さんは物の感じ方とかそういうもののどこかしらが似ていると思う。それほどに、そうそう、そうなのよ!と強くうなずきたくなることが、読んでいてたびたびある。

今あるこの感覚にぴったりの正しい言葉を選び出す。そのことに関して、彼女はとても優れていると思う。

夫と義父とわたしの生活を描いた『木を取る人』には、そこここに小池さんの姿が見える。先日の資生堂WORDで話していた彼女と、話の世界にいる「わたし」が重なる。そしていつしか「わたし」は私にも重なる。

詩で鍛えられた言葉を選び取る力は、小説にもしっかり生きているようだ。これからの小説も楽しみだ。『木を取る人』は「群像」4月号に収められている。


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