蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2004年05月21日(金) 睡魔との闘い

台風一過、ぴかぴかの青空。本当に雲ひとつない。あまりの日差しの強さに頭がクラクラする。夜中にだいぶ雨が降ったようで、そこらじゅうに大きな水たまりができている。昼休みに外へ出ると夏のような暑さで、水たまりから湯気が出ているのを見つけた。なんだか地獄谷のような眺めだ。行ったことはないけれど。

今の仕事に移って生活時間帯が変わったせいか、昼ごはんを食べたあとに、ものすごい睡魔が襲ってくる。それも毎日である。午後は倒れこみそうなところを必死にこらえてパソコンに向かう。今にも前へ突っ伏してキーボードにおでこを強打しそうだ。眠気を我慢していると、なぜか船酔いのように気持ち悪くなってくる。

いよいよ座っていることに耐え切れなくなったら、用事があるふりをして書架へ行ってみたり、あるいはトイレに行ったり、コーヒーをいれたりする。どれもあまり効果はない。書架へつづく階段を下りているときなど、自分の右足に自分の左足が絡まって危うく転げ落ちそうになったこともある。眠くて階段から落ちた、なんて話は聞いたことがない。今のところ落ちていないけれど、これは時間の問題だと思う。

ごはんを食べると眠くなるのだろうから、ごはんを食べないでおこうか、と考えたこともある。でもそしたら今度はおなかがグーグー鳴って気になって仕方ないだろう、と考え直してやめておいた。ごはんを食べても眠くならない方法、もしくは眠気を吹き飛ばすいい方法はないものだろうか。午後の時間がつらくてならない。

夕方、仕事の合間に外に出ると、昼間とはうってかわってさわやかな風。気温は高めでも吹く風はひんやり。大好きな陽気だ。味わってゆっくり歩いて帰ろう。帰ったら掃除をして(朝は時間がないので家の掃除は夜にやる)、それから晩ごはんを作ろう。


2004年05月18日(火) 大きな手さげかばんみたいに/『ある作家の日記』

今日もヴァージニア・ウルフについて。私はいったい彼女の何が知りたいのだろう。

ヴァージニアは日記の中で、日記を書き続けることについて思索している。1919年4月20日にはこう書かれている。少し長いが抜粋する。

*引用はじめ*
四月二〇日(イースターの日曜日)
長い原稿を書いたあと、いつも怠惰におちいるものだが、私も今月デフォーについて第二の長い論説(リーダー)を書いたので、この日記をとり出して読んでみた。自分自身の書きものを読むとき、ひとはいつも一種のうしろめたいような熱心さで読むものだ。私の日記の乱暴ででたらめな文体は、しばしばひどく非文法的で、変える必要のある単語が目にとびつくところもあり、読むだけでいささかうんざりした。この日記をこれから先に読む自分がどんなものであろうとも、私はこれよりずっとよく書けるのだということを告げておきたい。この日記に時間をかけず、だれにもこれを見せてはいけないと自分に命令する。さて、ここで少し褒めてやってもいいだろう。この日記には性急で力強いところがあり、時には思いがけなくある問題の急所をついていることがある。しかし、もっと大切なのは、自分で読むためだけの目的でこのようにものを書く習慣は、よい訓練になるという信念が私にあるのだ。これは<文体の>結び目をゆるやかにする。ミスをおかしたりつまずいたりしたってかまうな。こんなにはやく書くのだから、対象に向かって最も直接的に、瞬間的に突進しなければならない。だから何でも手あたりしだいことばをみつけて、えらんで、インキにペンをひたすのに要る時間だけしか休むひまなく、ことばを放り出さなくてはならない。
***

ヴァージニアの文章を読みながら思う。私は次から次へと湧き上がる思いをうまくつかまえられたことはない。何かとてもしっくりくる言葉を思いついたはずなのに。ついさっきまでは確かに私の中にその言葉があったはずなのに。私はのろのろと進んでは引き返すことを繰り返している。躊躇しているひまはない。いそいで紙に書き付けるのだ。続けて彼女は書いている。

*引用つづき*
昨年のあいだ、私のプロとしての書きものをするのが少しらくになったような気がするのだけれど、それはお茶のあとの、このくつろいだ半時間のおかげだと思う。それに、日記というものが到達しうるかも知れない何らかのかたちの影のようなものが私の前に浮かんでくるのだ。この人生のばらばらな漂流物のような素材で何をつくることができるか、そのうちに私にわかってくることがあるかも知れない。私は平生これを、もっとずっと意識的に良心的に小説の中で使っているのだけれど、その使いかた以外の利用法を発見することができるかも知れない。私は自分の日記がどんなものであって欲しいと思っているのか。何かゆるやかに編んであるもの、だけどだらしがなくはないもの。あたまに浮かぶどんな荘厳なものでも、ささいなものでも、美しいものでも、何もかも包みこんでしまうような弾力性のあるもの。何か古色蒼然たる、奥行きの深い机か、大きな手さげかばんみたいに、いちいちものをしらべずにたくさんのがらくたを中へほうりこむことができるようなものであってほしい。
***

私はメアリー・ポピンズの大きな黒いかばんを思い浮かべる。かばんには何でも入っている。かばんよりも明らかに大きなコート掛けや美しい鏡がするすると出てくる。子どもたちが駆け寄ってかばんをのぞいてみても、中はからっぽ。どこまでも続く真っ暗な闇。話はつづく。

*引用つづき*
一年か二年経ってから戻ってきて、中にはいっているものがひとりでに分類され、精錬され一つの鋳型に融合しているのを発見したいものだ。こうした集積物にはまったくふしぎにもそういうことがおこるのだから。その鋳型は私たちの人生の光を反映するに足るだけ透明であって、しかも芸術作品の超越性をもつ、落ち着いた、しずかな化合物であって欲しい。古い日記を読んでみて考えるのだが、ここで必要な主なことは検閲者としての役割を演ずることでなく、気分のままに書くこと、また何についても書くことだ。というのは、行きあたりばったりに書くことにしたのに、書いたときには決して目につかなかったところに意味をみいだして、ふしぎな気がしたからである。
*後略*

日記をしばらくしてから読み返してみると、書いたときには気がつかなかったことや意識しなかったことが、ふいに目に飛び込んでくることがある。日記の楽しみはそこにある。私はそう頻繁に昔のものを読み返したりはしないけれど。


2004年05月17日(月) 私は手紙すらうまく書けない/映画「めぐりあう時間たち」

作家ヴァージニア・ウルフが精神に障害をもっていたことはよく知られている。夫のレナード・ウルフによれば、彼女の長年の様子から察するに、それはおそらく躁うつ病だったのではないか、と。そして、多くの人が暗く沈み込む彼女をイメージするのは、作品の執筆はうつ状態か、もしくはほとんど平静な状態のときに行われていたからではないか、ということだ。

ヴァージニアの死後、彼女の日記は『ある作家の日記』として出版され、これはその序文に夫レナードが書いたものだ。

数ヶ月、ときには数年の間隔で波のように繰り返される躁状態とうつ状態の間の、ほんの一時訪れる心穏やかな凪のような時期。私の勝手な想像だけれど、ヴァージニアにそのような時間は、実際のところそう長くは与えられなかったような気がする。彼女は常に彼女が抱える病気とともに生きる。そして彼女の苦悩はまた、夫レナードの苦悩でもあったと思う。彼女の病気が少しでも快方に向かうように、田舎に引っ越したり、自宅に印刷所を設けたり、レナードは様々な努力をする。

ヴァージニア・ウルフの作品は私には難しい。今までに『ダロウェイ夫人』と『波』を読もうとしたけれど、どちらも読みきれなかった。今は小説よりとっつきやすい日記を読んでいる。ヴァージニア33歳(1915年)のときから始まって、亡くなる4日前(1941年)まで26年も続いた日記だ。彼女が何を思い、何を考え、どのような人生を送ったのか、とても興味がある。そしてそういう人生を生きた彼女が書いた小説はどのようなものなのだろうか。そのうちじっくり読んでみたい。

映画『めぐりあう時間たち』をきっかけにして、ヴァージニア・ウルフがとてもいきいきと私に迫ってくる。緑に囲まれた落ち着いた環境とは対照的に、ヴァージニアの内面は大きく波打っている。彼女ひとりが特別というわけではなく、人は誰しも彼女のように生きてしまう可能性がある。人が持つ闇の深さを見るようで、空恐ろしい気持ちがする。


2004年05月16日(日) 自転車/雨の日曜日

お休みなので寝坊。といっても、気がついたらすでに9時を回っていただけなのだ。それでもあわてて起き上がることなくふとんの上でごろごろする。10時前にようやく起床。

どんよりとした曇り空。一雨あったようで地面は黒く濡れている。簡単に身じたくをして、相方と自転車に乗って出かける。休日の都心を自転車で駆け抜けるのはとても気持ちがいい。雨上がりのしっとりとした空気。街路樹は葉に雨を受けていきいきとしている。

このあたりは坂が多い。立ちこぎしたいところを我慢して、座ったまま懸命にこぐ。太ももにぐっと負荷がかかる。坂を上りきったところのスターバックスで遅い朝ごはんにする。私はベーコンエッグマフィンとキャラメルマキアート。相方はツナポテトサンドとキャラメルラテ。それからバナナと黒コショウ味のポテトチップを追加。

のんびりとした朝だ。オフィス街も日曜日はさすがに気が抜けている。誰も急いでいない。そもそもあまり人がいない。

再び自転車でビル街をぬって走り、満足したところで家のほうへ向かう。ついでに、家から少し離れてたところにある商店街を見に行くが、ほとんどの店が閉まっていてがっかり。いよいよ雨が降り出しそうになったので、通りがかりのケーキ屋さんでシュークリームをふたつ買って帰る。

先週の火曜日、『めぐりあう時間たち』のDVDを借りた。午後はそれを見る。借りてから、何度か見返しているけれど、映像がとても美しく、また3人の女優の演技もすばらしい。なかでも作家ヴァージニア・ウルフ役の二コール・キッドマンが気に入った。映画館に見に行こうと思って行けなかったものだけに、興味は尽きない。これについてはまた後日詳しく。今はヴァージニア・ウルフの日記を読んでいる。


2004年05月10日(月) 9→17

新しい仕事の話をしよう。

仕事は朝9時ちょうどのキンコンカンコンで始まる。といっても実際には、その15分くらい前に席につき、パソコンを立ち上げ、OAクリーナーでそこら辺を適当に拭き拭きしながら、来る途中のコンビニで買ってきたクランベリージュースやらカフェラテやらを飲みつつ、メールチェックをする。ここに移ってからメールはすごく減った。せいぜい1、2通に返信するだけでいい。

そうこうするうちに、私の目の前にある壁掛け時計からごく小さな音でキンコンカンコンが聞こえてくる。エプロンをつけて、事務所のそとへ出る。

職場は地下1階、地上4階建て。事務所はその1階にある。仕事中のほとんどは事務所にいるけれど、朝9時から9時半までの30分間は事務所のそとで仕事をする。今日の担当は4階。

まだ誰もいないフロアをひとり歩く。窓からの景色を見ながら埃っぽい空気を吸い込んで深呼吸する(立て続けにくしゃみを2回)。今の仕事でいちばん好きな時間はこの時間だ。心地よい静けさ。普段から静かなところだけれど、今日みたいな雨の日は特に静かだ。雨に包まれて、世界から忘れ去られたような気さえする。

30分間、立ったりしゃがんだり背伸びしたりしながら作業をする。背が高くてよかった。いちいち踏み台を持ってこなくても、棚のいちばん上にもなんとか手が届く。熱中しすぎて30分以上たっているときもある。ころあいを見計らって事務所に戻る。

その後、お昼休憩をはさんで夕方5時まではずっとパソコンに向かっている。この作業は本当のところあまり楽しくない。とにかく山を崩すことに集中する。山が小さくなるのはそれはそれで達成感はある。でもそれと同時に、なんか違うような・・・という気持ちが頭の隅をかすめるのを無視できない。

この仕事は一度慣れてしまうとまったくと言っていいほど頭を使わないことに気づいた。もっとこうすればいいのに、とか、こうしたほうがいいだろう、とか、思うところは多々あれど、今の私に発言権はない。派遣はここまで、とバッチリ線が引かれている。ここから先へどうやって食い込もう。

そんな風に難しく考えないで、派遣の気楽さでのんきに与えられたことだけこなしていればいいのに、と思わないでもない。でも、どうしてか本のこととなると、そしてその本の向こう側にいる人たちを思うと、むきになってしまうのだ。


2004年05月09日(日) 読書ごっこ/『スイートリトルライズ』

この家に住んでからなかなかゆっくりと本が読めない。それは別にこの家のせいではなくて、私の生活があわただしいからなのだけれど、そのあわただしさも単に、私の要領が悪いからなのだと思う。

なにしろ家事に時間がかかりすぎる。もっとちゃちゃっとできたらいいのに。これは手を抜きたいというのとは違う。もともと家事は好きなほうだし、家の中が整っているのは気持ちがいい。

家事の中でも特に洗濯物をたたむのが好きだ。洗いあがった洗濯物の清潔なにおい。それらをびしっとたたむ。アイロンがけもわりと好きだ。逆に嫌いなのは掃除機をかけること。掃除機の出すあのうるさい音が苦手だ。それと気をつけて引っ張るのに、本体がごつんごつんとあちこちにぶつかってしまうのにも腹が立つ。掃除機を出したりしまったりもいちいち面倒くさい。

相方はそんな風にして私があまり本を読んでいないことを気にしてか、連休中に何度か本を読む時間を作ってくれた。私がテーブルで本を読んでいるのを見ると、そっとしておいてくれる。つけっぱなしになっていたテレビを消して、隣の部屋で静かにしている。もしくは私の向かいに座って自分も本を読みはじめる。読書ごっこ。

そうして私がこの家に来てはじめて読んだ本が、江國香織『スイートリトルライズ』だ。「復刊ドットコム」でも取り上げられ、私も1票投じた思い入れのある本なのだ。100票にとどく前に単行本化されたので、うれしいやら拍子抜けするやら。

江國さんの本は必ず買うことにしている。買って読む。そして本棚のいちばん手に取りやすいところに並べる。江國さんの物語はこれまでもたくさん読んできたから、実はちょっと飽きてきている(こんなことを書いたら心底江國さんのファンの人はがっかりするだろうか。もしくは怒るだろうか)。それでもなお買って読もうとするのは、江國さんの本は私の課題図書のようなものだから。

読書にのめりこんだ大学生時代にいちばんたくさん読んだのが江國さんの本で、以来、江國さんの作り出す物語は私が持つものさしのひとつになっている。

今回は読みながら、ふーん、と思った。つめたく突き放した感じに。なんかふたりとも安易だな、と。ただ、国際電話をかけるところは気に入った。『冷静と情熱のあいだ』のアオイとダニエラを思い出した。

相方を前に、私は涼しい顔をして夫婦ともに浮気をするこの物語を読んでいたのだ。ふたりの人間が寄り添って一緒に暮らしているという、この不思議な事態に自らの身を置きながら。


2004年05月01日(土) それじゃあ次は

今日から5月。仕事はだいぶ慣れた。はじめは緊張していたせいか毎日完全燃焼していて夕方にはへろへろだったけれど、この頃は適当にサボったりもできる。楽しいことは思っていたより少ないことにも気づく。仕事だもの。でもそれは不満とか落胆ではなくて、私にとってまた次の目標ができるということ。ひとまずここで学べることはなんでもかんでも吸収する。それじゃあ次はどこへ行く?どうなりたい?ということを考えながら。

今年のゴールデンウィーク、世の中には4月29日から5月9日までの11連休なんて人もいるようだけれど(うちの相方もそのひとり)、私は今日も仕事場にいる。いるけれど、これを書いている。今日の仕事は始業1時間半後にはすっきりと片付く。

通勤はいつもの土曜日と変わらない。もともと土曜日の朝なんて気の抜けた雰囲気なのだ。平日とはまったく違う。街はまだ動き出していないし、電車の中や駅にいる人たちは見るからに遠くへ遊びに行くような格好をしている。大きな荷物、はしゃいだ声。そんな彼らを横目で見ながら足早に仕事場へ向かう。少しうらやましいような気持ちはすぐに消える。

今日の東京は気持ちよく晴れて気温は25度。初夏の陽気。ひなたにいると暑いくらいだ。相方はJ−WAVEのフリーマーケットを見に、ひとり六本木ヒルズへ。いいものはすぐになくなっちゃうから、と言って開始時間の10時めがけて出かけるらしい。私も行きたいけれど、今度の職場はなぜかみんな律儀に暦どおりに出てきていて、有給をとりにくい雰囲気なのだ。私はまだ入ったばかりだから、なおさらとりにくい。相方が掘り出し物を見つけてきてくれることを期待している。昨年の掘り出し物はオリバー君(olivettiのタイプライター)だった。


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