気ままな日記
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2008年06月28日(土) そんなに急いでどこへ行く

先日、横須賀の美術館に行く。
実はわたしは美術館が少しばかり苦手である。
初めの1、2枚はいい。好きな作家の絵ならなおさら。そもそも、これはおもしろそうな展覧会だと思って来ているのだから、受け付けの段階では、もちろん興味しんしんである。
 しかし順路の矢印に沿って歩いているうちに、だんだんせきたてられているような気分になってくる。鑑賞することが、ノルマのように感じられてくるのである。
 興味の湧く絵、それほどでもない絵、いろいろあって当然なのだが、1枚1枚を公平に味わって見なくてはいけないような、義務感といったらいいのか。絵の前にじいっとたたずんで穴のあくほど見つめるのだが、心の中にしみこんでこない。小難しい本を読みながら、活字だけは目で追っていて、中身が頭の中にはいっていかないのと同じである。
 順路と書かれた標識に従って角を直角に曲がる。どうやら向こうにもまだ先があるらしい。ここは第1展示室だから、当然第2展示室だってあるだろう。などと、思い始めると気もそぞろ。気持ちだけは前へ前へと先走り、足並だけは、義理だてしてその場にじっくり留まろうとする。
 部屋のそこここには、展示物と一体化したかのように無表情な職員が、身じろぎひとつせず、椅子に座っている。両脇の壁にずらりと並べられた絵が、こっちにもありまっせ〜、よーく見ておくんなはれ、と呼びかけているようで、うっかりとばしたりしたら、なんだかずるをしたようで居心地が悪い。とばした1枚が実はすごくいい絵だったりして、とせっかく出口までたどり着いたのに、また引き返したりする。
そうやって無理やり見た絵を、あとあとまで覚えているかというと、全く覚えていない。
確かに「来た」という証に、出口の所で売っている絵ハガキを2,3枚買ってみる。
 過程を楽しめ、とは知人によく言われた言葉である。
編み物にしろ、食事にしろ、なんだかいつも編みあがりや、食べ終わり目がけて突っ走っている。がつがつしているのである。
仕事だったら、さっさと片付けて、あとでお楽しみが待っていようというものだけど、娯楽リクリエーションの類まで、義務化してしまったら、終わった後には、ぽっかりと何も残らないのである。









2008年06月27日(金) 交換日記

 昨年、高校の時の友人5人で始めた交換日記なるものが半年ぶりに回ってきたので、書いて、次の友人に回した。それぞれ家の事や仕事のことやらで、忙しい身、ひとり書くのにひと月ぐらいかかっている計算になるが、それでも続いているのは、すごいことだと思う。多分、ストップしてしまうのは仕方ないけれど、自分のところで止めちゃうのはやだなあ、という気持ちもあるように思う。
 書いてあることは子供のこと家のことが多い。同じ年ごろの子供を抱えているからこそわかる部分も多々あり。
 平均的で穏やかな生活を送っているうちはいい。しかし長い人生、これから親の問題子の問題、思いもよらなかったことが起こらないとも限らない。できれば秘めておきたいことだって。そういう時に、どこまで飾らず取り繕わず書くことができるか、それは全く自信がない。
 書きたくないことは書かなくていい、そう何もかにも暴露しなくてもいい、とは思う。洗いざらい話せば、見栄を張らなかったことになる、というわけでもないし……。
 差し障りのないことだけ書いて終わるのもよそよそしいし、近づき過ぎると、あとで後悔しそうだし……。書き言葉は、相手の顔色がその場で見えないだけに、バランスが難しいことだと思う。


2008年06月16日(月) 優先席付近では…

 電車の中での光景である。
ひとりの男性が乗ってきて、優先席に座った。わたしが座っている座席とは、通路を挟んだボックスシートである。
 彼は腰かけるなり、大声で隣人の女性に曰く、
「すいません。優先席では携帯の電源切ってください。ペースメーカーつけてるんで、止まっちゃうと怖いんです」
 と自らの胸を押さえて見せる。
 彼女、無言で携帯をバックにしまう。(ただし電源まで切ったかは不明)。
 彼からは、「ありがとう」とお礼の言葉。
 次の駅でも、携帯を開いて画面を見つめたままの客が、何人か乗り込んできた。そして、吸い寄せられるように、くだんの男性の座っているシートの方に近づいていく。
 再び、「お願いします!」「ありがとう」のやりとりが始まる。
 無関係の人が、「電源切れよ。ここは優先席の近くなんだぞ」などと言うと、カチンと来る人もいるかもしれないが、ペースメーカーをしている本人自らが頼んでいるので、皆一様に素直に、カバンにしまうなりしている。
 初めのうちは、同じボックスシートに座った人限定で注意していた彼だったが、段々気になり始めたらしく、そのうち、5メートル以内にいる人々に向かって、同じことを呼びかけ始めた。その声、さらに大きく、悲壮感さえ漂っている。
 電車が駅に到着するたびに、これが繰り返されるので、見ているこちらの方が、なぜかひやひやとした気分になり、
「来るなああ、こっちへ来ないでくれー」と、携帯を手にした若者に向かって、心の中で念じ始める始末。
 優先席付近では、携帯電話の電源をお切りください、というステッカーが貼られているのだし、車内でも、そのように放送されている。命にかかわることなのだから、彼の主張は、もっともなこと、わたしたちが無頓着なのである。
 それなのに、このいたたまれなさは、なぜだろう。
 彼の言い方が、切羽詰っていたからというわけでもなく、実は私のカバンの中で、携帯はずっと電源入れっぱなしだったから、というわけでもないらしい。
 悪意でないにしろ、というか、悪意ではないからこそ、自分の無頓着さ、うっかりぶりを、このように大衆の面前で大っぴらに咎められてしまった人に対する、共感じみた感じ、といったらいいのか。
 電車の中のように、見ず知らずの人々が、なるべく関わりあわないように、摩擦を起こさないように、視線を合わせないように過ごしている空間で、その空気を打ち破り、自分の要望をはっきりと口にするということに対して、わたし自身慣れていないせいかもしれない。
 彼が電車を降りていったあと、ホッとしたのは、わたしだけではないような気がする。

 もしもわたしが、彼の立場だったら、きちんとあのようにお願いができるだろうか。
 例えば、右隣に座った人が、親切そうな雰囲気の人だったので頼んでおいて、次の駅で乗ってきて左隣に座った人が強面だからといって、遠慮して何も言わなかったら、先の右隣が、「は? なんでわたしにだけ」と気を悪くするかもしれない、などとくよくよ悩みそう。心なしか、その間、動悸鳴り止まず……。
 いずれにせよ、心臓に悪いことこの上ない。そうなってくると、なんのためのペースメーカーだか、わかったものではない。
 心臓が強くないと、できないことである。


2008年06月07日(土) 武者修行??

先週、鎌倉・建長寺で「座禅1日体験+けんちん汁定食の昼食付き」に参加した。
 以前から座禅ってものに興味があり、一度参加してみたいと思っていたのが、このたび、本場けんちん汁付きというふれこみに、気持ちが大いに盛り上がり、迷わず申込んだのである。
 当日は生憎の雨模様、にかかわらずアジサイの季節とあって、北鎌倉駅周辺は、観光客や修学旅行生で賑わっている。
 受講生は総勢40名。方丈の間という座敷にずらりと半折り座布団を並べ、講師のお坊さんから、座禅の座り方や説法やらを聞く。ユーモアを交えた話しっぷり。近頃はお坊さんも、一段高い所に構えてばかりはいられないらしく、ザービス精神やタレント性が求められているようである。
 さて、本来”内また”のわたしにとって、胡坐のように外向きに足を開いて座るということ自体、苦行であることをすぐに悟る。股が裂けそうなんである。正式な姿勢(両足の先を、もう片方のももの上に重ねる)なんてことは、まさに神業。ゆるい姿勢でご勘弁を願う。
 警策(木の棒でピシャーンと背中を打つ、座禅の見せ場のアレですね)も、本来気のゆるみに喝をいれてもらうためのものなので、本当の修行の場では、喜んでやってもらったりはしないのだが、こういう体験教室のようなところでは、我れも我れもと申し出るので、打つ方も、しまいには手が痛くなる、とお坊さんが苦笑していた。
 確かに、わたしたちのように、お試しで体験しに来た人々にとって、あの棒でピシャーンとやられるとどれくらい痛いんだろう、せっかくなら打たれてみたい、話のタネになるし、と思うのもさもありなんである。
 天井に鳴り響く音だけ聞くと、ちょっと躊躇するものがあったが、せっかくだからと、わたしも試しに一度やってもらったら、これが背骨が割れるかと思うほど。音ほどには痛くないだろうとタカをくくったのは大間違いであった。
 まあ、ちょっと運動したら翌日にはあっちの筋肉こっちの筋肉が痛いものなのだが、裂けそうと思った足の付け根にも、砕けそうと思った背骨にも、後日全く後遺症は残らず。そういうところは、さすが禅である(って何が)。

 さて正午になるといよいよ、食事である。
 禅の精神にのっとった食事ということなので、当たり前のことなのだが、食前に、2つも3つも唱えるべきお経があるのには閉口。テーブルに並べられ、いい匂いを放っている料理を前に、わざとじらされているようで、なんだか「お預け」をくらっているような怨みがましい気分になる。肉体労働でないにせよ、「修行」をしたあとなので、なおさらである。
「せっかくのけんちん汁が冷めちゃうじゃないの」と、お経を読みながら気もそぞろ。いただきます、の合掌のあとは、冷静を装いながらも、やっと「よし!」と許された犬の気分。
 メニューはけんちん汁のほかには、ご飯、きゅうりと大根の漬物、厚揚げの煮物、水菜とえのきだけのお浸し、と質素なものなのだが、実に美味しい。おかわり自由と言う言葉に甘えて、けんちん汁のおかわりを山盛り天こ盛りにして席に戻る。
 配られた聖典に「むさぼり食べてはいけない」云々ということが書いてあったけど、見なかったことにする。
 しかしながら、食事というのは本当におなかが減ったときに必要なだけ食べるのが、なによりも豊かな気分になれるし、おいしいという当たり前のことを実感。
 食事のあとは、お坊さんのご案内で境内を見学、そしておひらきとなる。

 せっかく鎌倉まで来たんだから、ガイドブックに載ってたケーキを食べて帰ろう、などと煩悩が復活。
 むさぼり食べる欲深いものを禅では、餓鬼というのだそうで、私の中の餓鬼は、ちょっとやそっとの修行では悔い改まる気配はありません。


2008年06月01日(日) 写真あれこれ

 秋口になると、職員全員の証明写真を焼き増しする。
 意向申告書に添付するためである。この写真は、異動してきてすぐ撮影したものである。
 もちろん職場御用達のプロカメラマンなどいるはずもなく、撮影係は、我が管理課の職員N氏。「1番ヒマそうだから」という理由だけで、このお役目を仰せつかっている。そのため、写真の出来栄えと言ったら、うしろのドアノブが背景のど真ん中に写っているなどというのは、序の口。レントゲンの顎乗せ台に無理やり顎を乗せたまま写したような、上向き過ぎ、鼻の穴全開、といった同情すべきものや、どういう光の具合か、顔じゅう真っ白ファンデ厚塗り? というものまでさまざま。そこまでひどくなくとも、実物はモー少しマシなんじゃなかろうか、というものはざらである。
 それなのにN氏に対するご本人からの苦情は、今まで「皆無」といっていい。
 写真に対する苦情というのは、実際本人からは言いにくいものである。目を閉じてるとか、そっぽ向いてるとか、明らかに撮影上の不手際のある場合はともかく、人相や美醜、ちょっとした表情の良し悪しについては、いくら自分が不満足でも、「地顔」の不備を棚に上げて、撮影者のせいにするのはおこがましい……と、潔く諦めるか内心の不満をくすぶらせ続けながらも不問に付すのが一般的なのであろう。
 諦めるとしても、周囲に愚痴のひとつでも言っとかないとおさまらない人というのもいる。
 困るのは、「なんかわたしの写真、すごく変に写ってない?」とわざわざ写真を持ってきて、同意を求める場合である。
 本人の、自分の顔に対する認識と、他人から見たその人の顔に対する認識が違う場合は大いにあるもの。本人は「わたしってもっときれいなはずなのに〜」とひそかに思っているのかもしれないが、はたから見れば、実物そのもの。可もなく不可もなく写ってる。しかしここで、安易に「実物どおり写ってますよ」だの「ふつーに写ってると思いますけど」などと言っては、まずいのである。
 どのように答えてあげるのが、フォローになるのか、未だにわかりません。

 写真というのは、一瞬の姿を切り取るものである。さあ、撮りますよ、と予告されると、自分の中で、一張羅と思われる顔を瞬時に作る。あくまでも表面的なものしか写らないので、内面の憂いやら、性悪な部分、邪悪な性根までは写しださない。
 さてわたしの証明写真はというと、やや目が泳いでいるものの、物静かでしっとりおしとやか風……。
 ここにお見せできないのが本当に残念である。


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