気ままな日記
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5連休明けの今日、久し振りに出勤。予想どおり、机の上には郵便物やら、メモやら、決裁書類やらが天こ盛り。こういうのを見ると、闘志がわき、つい根を詰める。一つ一つの仕事は、些細なものばかりなのだが、達成感を得たくて、ついワシワシと片付ける。明日の分も残しとけよ、という自分の声を無視。きっと明日は暇だぞ。
さきほど、松尾スズキさんのブログを見にいく。 ポテトサラダの話題で盛り上がっていた。作るのは面倒くさいが、わたしも好物。トーストに挟んで食すのも良し。ウスターソースをかけたり砂糖をかけたり、いろんな食べ方があるようで。 そういえば、わたしはソースというものをほとんどかけない。昭和ひとけた世代はソースをかけるらしいが、父がなんでもかんでも、ジャバジャバとソースをかけるたびに、「せっかく味が付いているのに!」と母がいやあな顔をしていた影響かしら。
先月あたりから、食材の宅配システムを利用し始めた。といっても、休日のみ。平日は母親の手料理に頼っている。 もともとわたしは、食い意地は張っているものの、横着者である。メニューをたてて食材を買いに行き、そして作る、という手順が、例え週末の2日間とはいえ、とても億劫になり始めたのである。先日、共働き生活20年になろうとしている友人が、「錠剤一粒で、夕食がまかなえればいいのに」と溜息をついていたが、さもありなんと思う。と言っても、私の場合週末だけなので、気持ちがわかるなどと言ってしまうのも、僭越な気もするが。 さてこの宅配システム。金曜日の夕方になると、選んだメニューに沿った食材が、息子と私きっちり2人分だけ梱包されてやってくる。 チェリートマト、ししとうが2個ずつ、小ぶりなじゃがいも1個、ナス1個、それらが、発泡スチロールの皿にころんと乗っかってやってくる。
小学生の時、母親にネギを買ってくるように頼まれた。 「ネギ1本ください」 八百屋の店先でそう注文したわたしを見て、店のおばさんは「1本??」と少し驚いた声をあげ、「いいよ、あげるから」と言ってお金もとらずにただでくれた。帰ってから母に報告したら、「まあ、いやだ。1本だなんていうからじゃないの」と笑われた。 なぜ八百屋のおばさんが驚き、母親が笑ったのか、その時はわからなかったが、ネギなら、何本かずつ束ねて売られているのが一般的で、そうでないものでも、例えば、店先でおまんじゅう一個とか、ハム一枚とか、そういう買い方をするのは恥ずかしいことなのだということを、長じてから知った。バラ売りではあっても、ある程度まとまった数を買うのが一般的らしいということを。 時代は移り、近頃では、コンビニではもちろん、スーパーでも、玉ねぎピーマンの類も、ひとつから売られるようになった。 家族の人数が減り、単身世帯も増えているので、このように1個単位で売り買いすることは、全く不思議なことではなくなったのだ。しかし、1個2個買うことへの引け目は、気持の奥底にインプットされているようで、きっちり人数分だけ具材の盛られた器を見ると、「これっぽっちのために手間暇かけてスマヌ」というような気分になるのである。
両親が墓を探しはじめた。 少し前までは、父方の祖父母が眠る岡山の墓に埋めてくれればいい、と言っていたのだが、70歳を超え、その時が差し迫ってくると、どうやらずっと独り身でありそうなわたしの行く末のことやら、法事のことなども考えて、近場に作っておいた方が、安心ということになったらしい。 最近では、住宅事情をそのまま反映して、2世帯の墓もあるそうだ。 業者の主催する「墓地めぐりツアー」では、通夜の席で出す料理の試食もできるとのこと、目の付けどころがまた商魂たくましい。 慶弔の席で主役は、せっかくの料理を口にできないもの。通夜の席ではもちろん、結婚披露宴の時も、緊張とお色直しの慌ただしさや、来賓の挨拶の間に食べるわけにもいかない、などということもあって、目の前に並べられた料理の数々に、口をつけないまま、次々と片付けられてしまったものだ。 駅から歩いてすぐ、雨の日でもお参りできます、というマンション型の墓の広告も、今までは意識してこなかったので、全く目につかなかったが、最近では目にとまるようになった。 それほど贅沢なものでなくていい、と思って見学に行っても、周りの墓石に引き比べて、あまりにもこじんまりしていると、墓とはいえ、というか墓だからこそ、なんだか侘しくなってしまうということもある。 どこにどう落ち着くことになることやら。 「おまえも一度一緒に見に行こう」と先日お誘いを受けた。 本当は、生きているうちに住みたいマンションアパートの類に、いまだ未練がましく関心があるのは事実。しかし、人間の死亡率は100パーセント。笑って話せるうちに、買っておいたほうが良い、というのも確か。そこいらの名所旧跡ツアーよりも、おもしろいかも、と少し楽しみにはしている。
横浜の市立中学校で、一年生の通知表に「計算力を向上させ”魔性”」と記載してしまい、問題になっているとのこと。なんでも「ましょう」の変換ミスだとか。 そのニュースの下に関連項目として、漢字能力検定協会主催の、 変換ミスコンテストのページがリンクされていた。 http://www.kanken.or.jp/henkan/3happyou.html
どれもこれも面白いが、わたしが気に入ったのは、
何かと胡散臭い時がある→ 何か父さん臭い時がある
部隊活動→ 豚以下集う
ちなみにワードを立ち上げて、実際に変換してみたが、ごく真っ当に変換され、少しがっかり。 こんなふうに、全く意味の違う愉快な文章ができあがるといった経験はないけれど、例えば「金種」と打つつもりが「禁酒」と出たり、「紙」が「神」となったりといった程度のものは、日常茶飯事である。
先週は、4月付の人事異動に伴い、新旧入れ替わり、引き継ぎのあれこれで、事務所全体がわさわさと落ち着かない一週間だった。 こういうとき、ひっぱりだこになるのがパソコンの名手である向かいの席の男性。平均年齢の高いこの事務所では、40歳代でも若手。しかもパソコンに詳しく、愛想もいいとなれば、さらに需要が高まり、メールの初期設定やその他もろもろの手続きについて、あちらこちらからお呼びの声がかかっているようだ。 さて、この春から、同じ課の20歳の職員が、大学の定時制に通うことになり、4時までの勤務が認められることになった。わたしも初めて知ったのだが、「就学のための休暇」というのがあるのだそうだ。当然の成り行きとして、彼の分の仕事を、ほかのメンバーで分け合うことに……。昨年新規採用されたばかりの彼。新人なのに、ずいぶん太っ腹じゃん、と度量の狭い私は少し嫌味な気分。 それでもまあ、「若者の学業をみんなでフォローしてやってください」という副所長の声に、納得するしかない。 で、ふたをあけて見れば、仕事が増えたのは40代の「若手」のみ。「年寄りにそんなに仕事させるもんじゃない」だの「あいつはもうすぐ定年だから」だのという理屈をくっつけて、ほんのひと回りしか違わない上の世代の人々の仕事量はそのまま。 は、そんなの有り? 年齢が高いのなら、それなりに、もらうものも多くもらっているはず。 怒りの矛先は、その青年に対してというよりは、仕事やりたくないモードの上にあぐらをかいて、へらへら笑っている上司に向かったのでした。
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