気ままな日記
DiaryINDEXpastwill


2004年03月31日(水) 去る人

夕方、31日付けで退職する方々の労をねぎらう式があった。
60歳が定年なのだが、まだまだ隠居するには早いので、皆、次の天下り先は決まっているようである。
10年ぐらい前までは、事務所の玄関口に全職員が居並び、その間を、花束抱えた退職職員がニコニコペコペコお辞儀しながら通過し、手配していたタクシーに乗りこむという、なんとも空々しくこっぱずかしい儀式が行われていたが、最近はそういうことはしないらしい。
親睦会からのお餞別と花束贈呈のみ。
大きな黄色いバラの花束をもらった同じ課の男性職員が、ちょうど通りかかったわたしにひとこと。「こんなの持って電車乗るの、みっともないからよ、悪いけど適当に持って帰ってくんない?」。
わたしだってたくさん電車に乗ったり歩いたり、おまけに自転車乗ったりするんだけど、と思ったが、こういう時断れずに、思わず安請け合いするクセのあるわたし。
結局、もらういわれの全くない花束を抱えて家路についたのだった。


2004年03月29日(月) 外の空気を吸う

桜が満開と聞いて、公園まで花見に出かける。
道の両側に植えられた桜の木から低くせり出した枝が幾重にも重なって、目の前がうすももいろに覆われた感じ。その下をひとひとひとひとひとの列がぞろぞろと進み、お正月の初詣のような賑わいである。
ふと見ると、池の脇、大きな桜の木のふもとに、巨大な青いシートを敷いて、場所とりをしているスーツ姿の若者が数人。ある人は本を読みつつ、ある人はヤケクソのように牛の串焼きをかぶりつき、ある人はボーッとしつつ……。
シートが風でめくれないように、大き目のオフィス用かばんを重石にしたり、自らが重しになるように座っていたりする。
4月に入社することが確定している新入社員らしい。話しには聞いたことがあるけれど、いまだに場所取りなんてものをやらせるのね、初めて実物を見た。
夜になって他の社員がやってきたら、きっと今度はお酌やら余興やらのお役目が待っているのだろう。
花見客の格好の見世物のようになって、居心地悪そうに正座している彼らを見つつ、しみじみとそう思ったことだった。


2004年03月23日(火) この季節

来年度の異動に関する意向打診が行われた。
現職場3年目、もしくは4年目の職員に対して、次の異動先を提示して了解をとるのだ。
このときに「そんなところいやです!」と断ったという人を現実に見たことはない。ウワサでは、このときにごねたりすると、ものすごく遠い職場に飛ばされるらしい。

去年の異動は6月だったので、意向打診は5月だった。
8割がた異動できると聞かされていたけれど、本当だろうかと半信半疑。
名前を呼ばれた時は、課長が、よかったな、といったふうに肩をたたいてくれたっけ。
遠足も旅行も異動も結婚式も、そのほかのありとあらゆるものごとは、その日にむけてワクワクと準備している時が1番幸せなのかもしれない。


2004年03月17日(水) ちょっと棘棘

最近、起床するべき時刻があっという間にやってくる。
ええっ?さっき床に就いたばかりなのに……。
目覚まし時計が、死刑執行の鐘の音のように聞こえるのだ。
超えるべき山が毎日たちはだかっている。日常のさまざまなするべきこと、考えるべきことに、からだも頭もついていかなくなってきてすべてが重たい。
昨年の6月に異例の異動をしたので、今度こそは文句は言えない!というプレッシャーはずっとつきまとっていた。
ウワサよりはマシな人が来たって思ってもらうように、仕事だけはそれなりにこなしてきたけれど、やっぱり人間関係上でつまずくパターンはみごとに毎度同じなのだ。
それがあなたの個性ですよ、集合写真を撮るとひとりだけよそ見している人、それがあなたですよ、と言ってくださった方がいるけれど……。
先日、がんばらないけどあきらめないって書いたばかりだが、自分のこういうどうしようもないことについてはあきらめなくてはいけないのかもしれない。
願わくば他の人にも、わたしをどうこうしようとするのはあきらめてねって言いたいのだが、そこが組織の厳しいところ。
私も都合が悪くなった時だけ、目が不自由になったり耳が聞こえなくなったり声が出なくなったりする特技をもちたいものである。


2004年03月12日(金) がんばらないけどあきらめない

3日間にわたる監査が終わった。
事情聴取を受けているような日々であった。
書類を見ながら、「ん?」とか「あれ?」とかつぶやく癖のある監査委員だったので、そのたびになぜかドキドキした。
余計なことは言わず、要求されなかった書類は見せず、わからないことは「さあ……」なんておとぼけしながら、特に指導事項もなく、怪しいことも発見されず、無事に済んだのだった。

最近、「がんばらないくていいけれどあきらめない」というメッセージ性のある本やドラマが流行っているのだそうだ。
新田順子さんのドキュメンタリーをドラマ化した「冬のひまわり」が一例である。
がんばらなくていいって言うのは随分前から言われ始めていたけど、それは何もしなくていいという「無為」とは違う、それぞれの人生を、結果はどうであれ、あきらめないで生きなくてはいけない、というのが加わったのである。
わたしはどうだろう??
余計な方向に、ガシガシあくせくがんばることで、肝心なことからは逃げている。このままずっと変わらないわ、できっこないわと、どこかあきらめてしまっているところがある。
目指すは逆なんである。


2004年03月05日(金) 悪魔のささやき

3月にはいって、職場で行われる事業の数が増えた。
研修や相談、なんとかのつどい、などなど、当初予定になかったのに駆け込み的に開催の伺いが回ってくる。
年度末になるとやたらに道路工事が増えるのと同じで、どういうわけか、配当された予算は「残してはいけない」らしいのである。
「わ〜い、余った。預金しておこう」とならないのが、個人の感覚とは違うようである。
なので事業に伴って医師や講師に支払われる謝礼の支払い事務がやたらに増え、監査の前だというのに何だかせわしない。

余計に支出しておきながら、今年も赤字だ、コピー用紙代節約、人件費節約だなんて言っているのはなんだかおかしい。
やってもいないのに支払われる残業代、行ってもいないのに支払われる出張旅費など、もっと節約するものはほかにもあるだろうに……。

来週は監査。
こういうことを監査委員にちらっともらしたら、どんなことになるのかしら??
言ってやりたい不穏な気持ちが耳元でそうつぶやいた。


TOMATO |HomePage

My追加