明後日の風
DiaryINDEX|past|will
震災、計画停電、そして原発の事故。 経済の低迷が心配ではあるが、一方で、この「スローさ」というのをポジティブにも捉えたいと感じるようになってきた。 東京では、「不便さ」は当然にようにあるが、食べるに困っているわけでもない。水がない、というが、本当に困っている状況というのは、給水車に水をもらいにいかざるを得ない、という被災地の状況に違いない。ガソリン不足で遠出が減って、自分の思索の時間が増えるという効果もある。
戦後から走り続け、バブル崩壊でもがいてきた日本だが、自分にとっては「よいこととは何か」を考えるいい機会になっている。
計画停電は長期化しそうだ。 ストーブを弱にし、消灯徹底。待機電源もカットする。外に出ると街灯の明かりは勿論、家々の灯りも少ない。 意識的な行動、数十年前のオイルショックを思い出す。ガソリンスタンドは休日閉鎖となり、ネオンが消えた。 そしてバブルとその崩壊。
それでもエネルギー消費はなかなか減らなかったようだが、今回は「意識的に」減らすきっかけになっている。自分も含めて…。 列車の削減が勤務体系を帰るきっかけになるのと同時に、エネルギーをもう一度考えるきっかけになるように思う。
輪番の計画停電のため、列車が削減。駅は入場制限で凄まじい混雑。整然と並んでいる人々を見ていると、それはそれで良いことだが、時差出勤、在宅勤務、サテライトオフィスでの勤務、など、根本的な対策を考えないといけないかもしれない。 逆に勤務の概念を変えるキッカケにしてはどうだろう。
常磐線新地駅。
今回の東日本大震災の津波で、普通電車もろとも流され、その姿が伝えられた。
昨年の夏、僕は、常磐線各駅停車相馬行、から降り立った。 駅前には小さなロータリーがあり、どこの駅にも必ずあるブロック造りの小さなトイレと、ブーンという音を立てて突っ立っている自動販売機があるくらいの、とてものどかでホッとできる無人駅だった。
仙台行きの電車が来るまで、少しばかり駅前散策をした。 小さな橋がかかっている川を渡り、細いメインストリートが延びている。とは言っても少しばかり民家がある程度で、駅の駐輪場らしい預かり所がいくつかあった。
とことこと歩いて、夕方の西日の暑さに目をしょぼしょぼさせながら、汗を拭って往復する。 「いいよな、ここ」 なんかいい気分にさせてくれるところだった。
が、しかし、写真で見た新地駅は凄まじいものだった。 面影を残すのは、ブロック造りゆえに耐えられたのであろうトイレと、僕がザックをおいて列車を待ったプラットフォームの残骸のみだ。 このギャップに声を失う。
あの、じっとりとした夏、に戻れるのはいつだろうか。あのメインストリートはどうなったのか、そして、人々は逃げられたのだろうか、思い起こすことは数知れない。
金沢の一室で、私はテレビに釘付けとなった。 「これは、おかしい」 あまりに長い周期での揺れを感じた僕は、会議を止めて、テレビのある部屋へと移動したのだ。
「大津波警報発令」 テレビ画面には、10mという、およそ想像ができない数字が並び、これからそれが目の前で現実になるとはとても思えない、そういう、不思議な気持ちのアンバランスを感じていた。
これまで、東京からのドライブで何度となく訪れた三陸海岸。 花巻から山を越えてたどり着いた釜石の魚市場の食堂も、夕方に寿司屋を探して回った気仙沼も、僕が買い物をした八戸港のコンビニも、そして、昨年はじめて訪れた宮古の町並みも、僕の目の前で波にのまれていった。
1年前の春。 僕は、古川で車を借り、気仙沼、大船渡、釜石、宮古と巡った。最近延びてきたハイウェーは高台を通り、そのハイウェーに囲まれるように、沿岸の町がつながっていた。青い空に青い海、そして山の緑。そこに囲まれるような町には、「育まれた」という言葉が実感のものとして存在していた。
「この記憶を将来の現実に」
きっと再生してくれる、と願いたい。
さわ
|