明後日の風 DiaryINDEX|past|will
「世界遺産」というと京都・奈良、あるいは沖縄のグスク、飛騨高山の合掌造り、白神山地といったところが頭に浮かぶ。そういえば、暫定リストに載っている小笠原諸島はどうなるのだろうか。
そうして1月も終わろうとしている。
船旅も5日目。 深呼吸をしてから、カフェテラスに足を運んだ。 モーニングセット。 トーストとタマゴと野菜サラダ、そしてホットコーヒー。 こんな早くに朝食を食べることはなく、コーヒーをあまり飲まない僕にとっては、これこそ「非日常」なのである。
360度、どこまでも海。 日本海からの寒気の張り出しのために、東京から1,000kmの洋上と言えども、シャツ一枚では少々寒い。甲板の上をジョギングする人が一人。それっぽっちで、船のエンジンの音だけが響いている。 360度の海。地球の大半が海なのだから当たり前、と自分の脳味噌は理論的に理解してはいるものの、現実に見ることができる機会はそれほど多くはない。海運業に携わる人、あるいは世界一周なんていう高級クルーズに参加できる人々、そんな人々以外には、近海や沿岸沿いをちょっとばかり船で移動するくらいが現実的経験であろう。 年末30日に出発した僕らの船は、強力に張り出してくる寒気を避けて、南へと進んだ。そして目的地父島を通り過ぎ、ついには火山列島の南端である南硫黄島をも通り過ぎてしまった、という寸法なのである。 「おいおい、父島へ行けないの?」 と言いたいのは山々なのだが、これだけ波が高ければ仕方がない。そもそも 「父島なんてとっくの前に過ぎちゃいましたよ」 という状況なのだ。全ては自然の仕業であるのだから、山小屋でじんわりと天候回復を願うように、守られた船内で「たわいの無い」話しをし、酒を飲み、そして寝る、という三種の神器を繰り返すしかないのである。 揺れがおさまった。甲板に出た。 Tシャツでいいよ、というくらいに温かい。 沖縄本島よりもずっと南なのだ。 そして、僕達は太平洋上で元日を迎えた。 目標とは違う流れになったからと言って、その違う流れにも、きっと違う「発見」がある。ポジティブに考えるということは、そういうことだと思っている。 元旦の日中。 硫黄島を通過した。 擂鉢山がよく見える。 南硫黄島を見た時には、小笠原最高峰を見たという気分で「キャッキャ」はしゃいでしまった自分なのだが、今は違う 27,000人以上が戦死したというこの島。その流れの先に、今がある。そういう実感が脳味噌の中に溢れてくる。太平洋戦争開戦から70年。 「合掌」 そして船は一晩越えた今も、まだ360度の海の中を進んでいる。 どこに行くのだろう?
あけましておめでとうございます。 百名山も残すところ、6座となりました。 「山」が終わったら今度は「島」がターゲットか、など吹聴していますが、2010年を振り返ると西表島、隠岐(島前・島後)、五島(福江島)、対馬など、既に随分島歩きもはじまってるじゃないか、というツッコミが入りかねません。 「明後日の風」も少し、新しい風を吹かせて行きたいものです。 ところで、「あけおめ」。 「あけましておめでとう」のインターネットスラングとして、まあ有名なんですが、最近ツイッターやらブログを見る機会が増える中で、このスラングの頻発に少しばかり「いらっ、」とする訳です。 「w」が、笑うと言う行動を表現している、くらいはなんとか想像できますし、「ww」だと、もうちょっと笑った感じで、「wwwwwww------」くらいになると、これ大爆笑。このあたりも想定の範囲。 ところが、「tk」が、「、って言うか」だとわかったのは最近。 「うp」が「アップ(UP)」なんて、正直わからんだろ、と思いつつ、結局、よくわからないものも多数ある状況のまま新年を迎えてしまいました。 これまで、「口語」の変化(ようするに若者の「言葉の乱れ」などと言われて、あまり良い印象を持たない人もいるのでしょうけれど)が言われてきましたが、携帯上のインターネットというプラットフォームを得て、「文語(書き言葉)の変化こそ凄まじいということなんだな」と、妙に納得することになる訳です。 古くからこの手のものはなかった訳じゃありません。例えば「ゞ」のような省略形はこれに相当するのだと思うのですが、問題は、瞬時かつ広範、というインターネットの特殊性が、加速度的にこの派生と定着を実行してしまうということにあります。一方で、面白いのは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)の発展の中で、グローバル化の寵児というインターネットにも関わらず、コミュニティー別の「方言」を生んでしまっている、という合い矛盾するような状態にあることです。 振り返って見ると、「いじめ」が言われて久しいですが、 「目立ってはいけない、皆と同じじゃないと」 という、そういう均一化を求める恐怖のような文化が底辺に蔓延している中にあって、SNSは、人々にとって、外界から隔離され安心できるコミュニティーを提供してくれている、と言えるのかもしれません。 口語だろうが文語だろうが、言葉は重要なコミュニケーションツールであるという事実がある以上、コミュニケーションの「今」を反映するのは至極当たり前のことでしょう。ということは、「実は方言を求めるように、ちょっとは人とは別のことをやってみたいという気分」が実は本当の人の心なんじゃないか、と正月早々感じているのでした。 ということで、「あけおめ2011年」でございます。
さわ
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