明後日の風
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2009年12月31日(木) 小さい生活環境の居心地

 夕刻、砂浜から海を眺める鳥が一匹。



 ちょっと淋しそうに見えるのは気の性か。そんな感じだった小港海岸も、今日は青空が広がった。


 海岸脇にある中山峠に登り、ボニンブルー海を眺めていると、色とりどりのカヌーが、ゆったりと海の進んで行く。「今が12月である」ということをしばし忘れながら、ベンチに座ってチョコレートを頬張る。
「う〜ん、甘いな」
と思いつつ、ぐびぐびっと水を飲む。カヌーは随分、沖まで進んでしまった。

 暖かい日は、原チャリにはとっておきの日でもある。アップダウンの道を走り、昼には街に戻った。港に立つおいしいパン屋の二階にあるレストランの階段を上がる。友人達が待っていた。
「今日は、シーフードカレーだ」
と直感で注文。夏はカレーだ、という小手先の直感なのか、それとも、朝からの山歩きで、汗をかいたからカレーなのか、いずれにしても、そういう気分がフィットするほどに、二階のベランダから海風が入ってくる。

 母島よりは都会とはいえ、急ぐべき要素は父島にもない。訪問回数も増えれば、観光旅行という要素はそもそも薄くなる。気分によって、行くところは自動的に決まってしまう程に、行き先は少ない。物見遊山と言うより、季節になれば、あけびを採り、田圃の籾殻を燃やす火で焼き芋を作る、そういう小さい生活環境に閉じていた昔の生活そのものが、ここで実感されるようなものだ。

 そんなぼんやりした時間が過ぎるうちに、やや日が傾いて来た。
 勢い、三日月山に登った。
 大きなウッドデッキーのある展望台。クジラが見えるというその場所は強風の中にあった。

 少しばかり雲が増えてきた空に、夕陽が光っている。
 大晦日の夜が近づいてくる。


2009年12月30日(水) 天才の住む島

 3泊お世話になったこの宿ともお別れの日。
 母島に釣に来たご主人が、居付いてしまったために、ご夫婦がはじめたというこの宿。適度な距離感が不思議な居心地の良さを与えてくれ、食卓を囲みながら見知らぬ一人旅の人々が普通に会話する日々も、久しぶりに創造力を豊かにしてくれた。
 近くの団地に住んでいる子供達は朝からとても元気で、
「こんにちはぁ〜」
と見知らぬ僕にも声をかけてくれる。
「遊びの天才」
といわれる子供が、まだまだ生きた化石のようにいる島、というところかもしれない。



 船着場には、島の人が見送りに来てくれた。
 父島のような派手さはないが、それが「母島らしさ」なのだろう。

 「ははじま丸」は今日の荒れた海を進んでいく。


「もう少しいたかったな」
という気持ちだけが募っていく。特徴的な乳房山の山容も既に見えなくなった。
「くじらだぁ!」
の声に、僕は甲板を走る。
島一つない太平洋に、潮が一本吹き上がった。


2009年12月29日(火) 母島の明暗

 朝。青空が広がった。
「南の島はこうじゃなきゃいけない」

 原チャリのエンジンをかけて、南に向かう道を、勾配のきついアップダウンを繰り返しながら進んでいく。小笠原ではじめて運転した原チャリだが、最近では随分慣れて、快調に走るようになってきた。
「ちょっと寒いな」
と思っていた、今回の小笠原も、今日はシャツを旗めかせて走るには丁度良い気候だ。
 10分ほどで、道はハイビスカスの咲くロータリーとなった。



「都道最南端」の碑が立っている。随分、東京も広いなぁ〜、と感じながら、これから母島最南端である南崎までの遊歩道を歩くのだ。

 小笠原の赤土はすべり易い。あまり視界のないジャングルの森の中を慎重に進んでいく。1時間くらい歩いただろうか、南崎海岸への道を分けると、遊歩道は急な登りとなった。「ふっ、」と今まで頭の上を覆っていた森がなくなり、10段ほどの階段を登ると、その先には太平洋が広がっていた。
 固有種のハハジマメグロだろうか、ちっとも、じっとしてくれない鳥が飛びまくり、近くに、母島列島の島々が広がっている。
 


 きれいな南崎海岸が広がっている。
 僕は、最南端のふるさと富士である、小富士の山頂にいる。
 いつもは、山頂に長居することは少ないのだが、今回は気分が良かった。またしても一人だけの山頂を、鳥の声とさわやかな風を感じながら、ベンチに座って空間を満喫させてもらった。
 南崎海岸から見ると、この山が「ふるさと富士」であることが良くわかる。



 午後は、北に向かった。一本の都道が北に向かってつながっている。
 最北端の北港。
 母島の都道の最北端ということになるんだろうか。
 戦前はしっかりと集落があったらしく、小学校の跡から港に続く、一直線の広い道に、メインストリートらしい面影がうっすらと残っている。この一直線の道は、緩やかな下り坂で、一本の細い桟橋につながっている。


 寒気のおかげで下り坂の天候が、この、人の気配を失った母島の集落の雰囲気に妙にオーバーラップする。自転車でこの北の果てまでやってきた青年が一人シュノーケリングをする以外には、桟橋にカニが二匹うろちょろしている以外に生物の気配もない。廃村というのは、やはり淋しい。

 僕は腕まくりしていた長袖のシャツの袖を直し、原チャリのエンジンをかけた。緩やかな上り坂にアクセルを回す。


2009年12月28日(月) おべんとうを開ける楽しみ

 「晴れるかなぁ〜」
これは、山登りの朝の偽らざる感情だ。麓のテントから顔を出す、あるいは宿の窓から外を覗く。その時に、朝の透明で塵のない、ピ〜ンと張った空気の中を刺し込んで来る光が、安心のしるしだ。

 母島最初の朝。
 北の山側には雲があるものの、昨晩、「明日は大丈夫みたいよ」といった宿の女将さんの話しの通り、海に向かって開かれた宿の南側にあるテラスから、すっと青空が広がっている。
「とりあえず行ってみよう」
 宿でつくってくれたお弁当をザックに詰めて、登山靴の紐を締める。
 今日登るのは、乳房山。小笠原列島にあって人の住む島、父島・母島の最高峰だ。

 島唯一の郵便局を覗き、島唯一の個人商店を物色し、島唯一小中学校は「図書館を開放しているんだ」と妙に感動し、小さい橋を渡って進むと、ほどなく登山口に着いた。登山口から正面に見えている乳房山には、雲が付きつ離れつしている。

「さあ、登ろう」
左足を登山路にかけたその時、運よく原チャリで走ってきた島のおじさん曰く
「今日は、やめとけぇ!、道も悪いし、第一、山頂から何にも見えねぇぞぉ〜」(べらんめぇ調だったのか、覚えていないが、こんな感じ・・・)
 ありがたいお言葉だったのだが、
「とりあえず、少し歩いてみます」
と不思議な笑顔を作って、山に入る。

 いきなりジャングル



「おいおい本当にここを歩くのかぁ〜」
と思うが、意外にも道は良く、スイスイと快調な歩みで登っていける。30分もすれば尾根道になり、眼下にはすぐ近くに海が見えるというその環境に、「ここが海洋島である」ということを実感する。時折降る雨も、深い森がしっかりとカバーしてくれ、暑さで噴出す汗に、
「逆に少しくらい雨で冷やしてくれないかなぁ〜」
と思う有様だ。

 スイスイがホイホイとなり、少しずつ視界が広がっていくと、1時間あまりで海がしっかりと眺められる頂上に到着。


 僕一人しかいない、静かな山頂。
 タタミ4畳くらいの小さな山頂からは、南崎へと続いていく島の半島が美しく続いている。その先は姉島だろうか?、などと思いながら、眺めるのだ。
 
 西側から東側に続いていく下山路を進む。ちょうど、乳房山の登山路はまあるく時計のように円を描いている。登山口のある沖村が6時の位置だとすれば、山頂は12時の位置にあり、登山路は半時計回りに一周するのが観光協会ご推薦なのである。
 これまでの南の島らしいジャングルの様相から雰囲気は一変し、風の通り抜ける草原上の道に変わる。お陰で風雨は直撃するし、藪漕ぎもあり体はびしょ濡れだが、とにかく海に向かって吸い込まれるように歩ける下山路の展望は最高だ。


 母島の核心部といえる、山門に向けた海岸線が美しい。
「おじさんに反発して登ってきて良かった」
と思った瞬間だった。
 観光案内所で「花は終わっているよ」と言われた母島固有種の「ワダンノキ」も、まだ小さな花を少しばかり見せてくれ、気持ちの良い下山路を少し降りると、東屋に到着。おべんとうを開くことにする。
しっかりとした竹籠の弁当箱だった。これなら中身がつぶれることもない。上蓋を開ける。
「あぁ、おにぎりだぁ!」
この、おべんとうを開いた瞬間、というのはいつでも楽しい(良く考えるとコンビニ弁当は中身が見えているから、開ける楽しみがない。)。久しぶりの感覚だ。

 緩やかな森歩きの途中に、母島唯一の集落が良く見える。


 こじんまりとしたこの空間に僕は3泊する。
 母島を離れる時には、どのような感覚に包まれているのか。今から楽しみだ。


2009年12月27日(日) 三度目の小笠原

「今回は荒れるらしいですよ」
と言われて乗った「おが丸」。三度目の小笠原に向けて、いつも通りの二等船室に乗る。1000人近くの乗客で、ロビーにまでムシロが広げられ、いつもはすし詰めの船室も、今回は静だ。
「450人くらいしか乗ってないからね」
といいながら、船員さんが、船内の階段を上下する。空いているスペースにはどうぞ、移動してください、というアナウンスの役目でもあるらしい。

 東京湾を出て外海に出る。それでも揺れはさほどではない。旅慣れたと言えばそれまでなのか、甲板に出たり、レストランで食事をしたり、軽食コーナーで生ビールを飲んだり、そういえば、ツマミに頼んだしゅうまいが以外にうまかったり、と27時間の船旅を楽しむ余裕が今回にはある。

 大島、そして八丈島、このあたりで日没。小笠原との中間点の鳥島は深夜だ。ライトが落とされすっかり寝静まった船室。その間にも船は南下していく。

 午前9時。朝食を食べて甲板に出ると、断崖の続く島々が目に入る。屋久島のような、コニーデ型のキレイな島ではなく、岩を穿ったような、棘々しい姿が、小笠原諸島の特徴だ。垂直に落ち込んだ崖の上部に、うっすらと森が広がっている。そこに絶海の島々が表現される。最北端の北の島からはじまる聟島列島。あいにく天候は濃霧。
「父島も雨かな?」
と嫌な予感でやや気が滅入るのだが、それでも、三日月山から父島二見港に船が入り、湾内に到着の汽笛2度響くと
「やっとここまで来た」
という感激が広がるのは、一度目となんらかわらない。下船時の賑わいも豊かで、ひっきりなしに動くクレーンや、桟橋からの乗客の列を見ると、
「来て良かったな」
と思う瞬間だ。

 既に慣れた父島で、日焼け止めを買い、ぎょさんを買い、軍手を買い、そして、意外にうまいおにぎり弁当を食べる。今回はここで終わりではない。僕は初めて母島に行くのだ。

 「ははじま丸」は「おが丸」に比較すると、あまりに小さな船だ。2時間の航海で50km南にある母島まで行く。13:30に出航。桟橋を離れると、先ほど入ったばかりの二見港が小さくなっていく。新しい景色が次々と入って来る。何度も訪れた境浦や小港海岸、中山峠、前回ジャングルを歩いて到達した千尋岩(ハートロック)の赤姿もしっかりと見えている。そして、南端にある南島が離れていくとまたしても太平洋の真っ只中になる。遠くにうっすらと母島らしい姿が見えている。

 2時間。おが丸が二見港に入るのと同じように、ゆっくりと旋回しながら、ははじま丸が母島沖村の港に入っていく。
「あ、ちっちゃい」
それが第一印象だった。二見港を更にふた周りほど小さくした、相似形のミニチュアな港だった。それでも、宿の出迎えあがり、父島で積み込まれた荷物が降ろされる一瞬は、活気がある。

 これから約3日。僕はここで「何もない時間」を久しぶりに味わいたい、と思う。


2009年12月20日(日) ちゃらちゃら登山

 穏やかな朝。日本海側は大雪だ、というのだが、外房の海は穏やかだ。夜中に、宿の窓を開けてこっそりと見た空には、オリオン座がしっかりと見えていた。だから当然に今日は良い天気なのだ。

 いくら房総とは言え、12月寒い。
 しっかりと防寒をしてから、山に入っていく。
 砂浜が続く房総の海から、電車の線路を跨ぎ、ほんの少し山に分け入ったところに、小さな広場があった。ここが登山口だ。

「この先に黒滝っていう滝があるから、そこまで行ってみるといい」
と、広場でゴルフの練習をしている御仁から声をかけてもらった。どうも、我々3人は、ちょっとだけ滝を見にやってきた観光客くらいに思われたらしい。
 しっかりと登山口に履き替えて、「俺達はちゃらちゃら登山隊ではない」といういでたちで山に入る。僕は本気だが、一人はリュックも背負っていないので、やはり「ちゃらちゃら」であることは否めない。

 せせらぎ沿いの道を、数度、川を飛び石で渡りながら進むと、黒滝が現れた。冬でもそこそこ水量がある。岩が黒光りしており、だから「黒滝」ということらしい。夏には、良い清涼感を与えてくれるんだろう、と思いながら、非常に立派な木製の階段を登り、登山道を進む。
 やや荒れた感じの人工林を進み、外房の海が望める展望台などを越えていく。1時間ちょっとで目的地の烏場山に付いた。

 澄んだ空気の向こうに、白い雪を湛えた富士山がしっかりと見ている。




 ここまでが花婿ルートであり、ここから先が花嫁街道となるらしい。昔、海の集落と山の集落の間を、花嫁が越えていったからこういう名前になったらしいが、そのとおり、良く整備された道だ。通学路にもなっていたというから、昔の学生は健脚だったんだな、と思いながら進んでいく。

 急に視界が開けた。日だまりのベンチが並んでいる。


 ぽかぽかと暖かい。お弁当を持ってくれば良かったな、と後悔する。
 まだ正午だが、少し日が傾いたようだ。やっぱり冬だな。


2009年12月13日(日) 数馬峠

 終着の武蔵五日市駅で電車を降りて、路線バスに乗り換える。
 睡眠不足の僕は、列車でしっかりと熟睡したのだが、バスでまたしても睡魔に勝てず沈没。カーブの続く道に、体は左右に大きく揺れ、時折、座席から転げ落ちそうになるのだが、どういう訳か、そういうことにはならないで、体は支えられている。そんな意識と無意識をクロスオーバーさせながら、バスは秋川の上流へと僕を運んでいった。

 初冬ともなると、奥多摩のこのあたりもめっきりと登山客は少なくなる。その中でもまだ人気があるという、浅間尾根(せんげんおね)への登山口でどっと乗客を下ろしたバスには、我々を含め数人の乗客を残すだけとなっていた。

 今日は、久しぶりに大学時代の友人との山歩きだ。バスの終点「数馬」の一つ手前で降りた我々は、これから、笹尾根へと続く多々ある峠道の一つを登っていく。屋根に落ち葉が降り積もり、今は廃業したのだろうと思われるキャンプ場のロッジを尻目に、やや急登の山道登っていく。ざくざくとした落ち葉の深さに初冬の山を感じつつ、足を通じて伝わってくる「ふかふか」とした土の雰囲気に、「あまり歩かれていない」という、静けさに少し心が躍るのを実感する。

 道は、広葉樹の自然林と、針葉樹の人工林を交互に携えながら、高度を上げていく。数馬の温泉センターからの道と合流すると、道はほどなく緩やかとなり、しっかりと葉の落ちた林の中に、小さなベンチが「ぽつん」と置かれている。



 友人から古新聞をお裾分けしてもらい、腰を下ろして、お茶を飲む。他愛のない話をしているのだが、空気が良いと、発語も明るくなる。笹尾根の稜線も近くなった。後、少しで峠だ。

 道は広い尾根を離れ、細い巻き道となった。滑りやすい道を慎重にふらふらと進むと、尾根の鞍部に、逆光の林の中に浮かび上がる、道標とベンチが見えた。「数馬峠」だ。
 峠の向こうには、山梨側の山並みと集落が広がっていた。


 三頭山(みとうさん)から続く笹尾根は、どこまでも緩やかだ。その一つの峠で、僕はおにぎりを頬張った。「しゃけ」と「こんぶ」。この2つが、僕の山で食べるおにぎりの両巨頭である。今日もご他聞に漏れず、この2つである。
 昔、山梨へ向かう数馬の人々も、峠でお弁当を広げたに違いない。
「後は下るだけだ。」
峠には、そういう、達成感と安堵感が満たされている、と思う。


2009年12月05日(土) 関ヶ原の冷気

 岐阜から、満員の乗客を乗せて、西に続く直線の線路を爽快に走っていた新快速電車も、大垣を過ぎると「どどっ」と乗客が降りていく。ボックスシートを独占し、ほんわかと暖かいシートに身を沈めると、うとうとと眠りが誘ってくる。

 関ヶ原駅で扉が開いた。歴史の大舞台も、夜は「す〜」っとした冷気が、列車の中に広がっていく。いかにもローカルな雰囲気の中にあるその冷気のおかげで、僕は目が覚めた。
「あ、関ヶ原だ・・・」
 
 列車はゆるやかなカーブを描きながら進み、ほどなく米原駅に着いた。
「青春18キップ」で往復した学生時代には、米原は関西への入口であり、「関西に戻ってきた」と思える最初の場所だった。駅蕎麦を食べては「この薄味がいいんだ」と思うのだ。

 大きな操車場に列車が並んでいる。
 ちょっとばかりの在来線の旅を終えて、僕は「こだま」で京都へ向かう。


さわ