明後日の風
DiaryINDEXpastwill


2009年02月28日(土) 偶然こその喜び

 都会の真ん中のターミナルから出た列車は、ビルの谷間の高架線を走る。
 通勤目的のロングシート全盛となりつつある私鉄特急にあって、対面のクロスシートのゆったりとした西鉄特急は少数派だ。だからこそ、ちょっとした遠足気分を我々に与えてくれる。福岡という都会よりも、筑後平野の青い平原を走る姿こそ、この「旅情」を高める列車には輝かしい。

 仕事のオフを堪能する一日。
 僕は、なんとなく大宰府に足を向けた。
 噂に聞いていた九州国立博物館を見学したい、という目的もあったのだが、「やはり学問の神様に参拝しておこう」という、信仰心も背中を押した。

 休日。参拝者は多い。
 大宰府駅からは、多くの人々が、鳥居の並ぶ参道に進んでいく。
「あ!」
僕は、その美しい天満宮の姿に驚いた。梅が満開だったのだ。この「不意打ち」は、僕に「知らない、想定しないからこその喜び」とか「新天地を知ることの喜び」といったことを久しぶりに思い起こしてくれたように思う。



 よく考えると、僕が山に登るのは、「そこに山があるから」ではなく、「未知の表情を見る」ということに喜びを感じるからではないか、と思ったりする。
 大宰府から柳川へと続いた今日の旅は、どうも「この喜び」の連続だった。札幌で聞くことのできなかったジャズシンガーの歌を偶然聴くことができ、たった300円のレンタサイクルで走る柳川の路地はこれまでには知ることがなかった「水路との人の関わり」を僕に教えてくれた。
 きっと、仕事続きの僕に、ちょっとした心へのご褒美を神様がくれたに違いない。


2009年02月21日(土) 北斗の充実

 街を訪れる時、
「何で来るか」
がその街の印象を大きく左右する。
 札幌の場合、飛行機、列車、船と、その術は多く、
「めんどくさぁ〜い」
という多くの御仁の言葉を聞きつつも、僕は、列車か船の旅が良い、と思っている一人である。
 その最大の理由は
「遠くへ来た」
という実感と、風景や気候の移り変わりを感じる、ということのおもしろさ故だ。風景という意味では、列車に更なる利点がある。
 仕事とは言え、東京から八戸、青森、函館、札幌と2日をかけて北上してきた僕には、夕暮れ時、噴火湾沿いに緩やかにカーブを描きながら北上していく特急北斗の中で、それなりの充実感を感じていた。

 この週末、札幌は、久しぶりの吹雪が続いた。風速30mの上に積雪48cm。ホテルの一室は当然に快適だが、窓ガラスの向こうには、時々のバリバリという音と共に、札幌のビル街の中に舞う、パウダースノーの軌跡に厳しさが増している。どっかり雪の中、友人が、本人曰く
「札幌一」
という味噌ラーメン屋に連れて行ってくれた。
 吹き溜まりや、除雪された雪の山の間に埋もれるようにあるその店の店内は、ラーメンを待つ静かな人の列で溢れていた。

 一杯の味噌ラーメン。こってりでもなくさっぱりでもない、絶妙のバランスのラーメンは、確かに札幌一だ。札幌らしい黄色い卵麺をすすると、絶妙のスープと共に体の中に温かさが広まっていく。

 新千歳空港の飛行機をほとんど欠航させた猛烈な吹雪も、一段落したようだ。湖の向こうに美しい山並みが見えている。明日は良い朝になるだろうか。



2009年02月18日(水) 必要最小限の必然

 東北新幹線「はやて」は快調に北上する。
「雪の山並みがきれいだな」
北上川沿いの広い青空の中を一直線に進んでいく気分は、ちょっと日本では味わいにくい、安心感を伴うこの上ない開放感を与えてくれる。
 ここに、宮澤賢治が生まれ、「決して強い光ではない、やや斜陽というべきゆるやかな光を感じるメルヘン」を作り上げたのは、偶然ではないように思う。

 仕事を終えた僕は、本八戸駅から快速「うみねこ」に乗り、八戸駅で特急「つがる」に乗り込んだ。
 車内は閑散とし、明らかにローカル色を深めているその列車は、あきらかに「はやて」とは違う、ゴトゴトという音を立てて走り出した。車窓の広い平原はほどなく三沢の町となり、ほどなく冬の雪景色の中にすっぽりと正に鋭角的な変化で入っていった。夏には、雑然としているであろう草原も、すっきりとしている人工林も、今はしっかりと雪に覆われ、殊の外美しい。

 列車は野辺地に着いた。通過列車のない構内の多くの線路は、雪に埋もれている。
「必要最小限」
という言葉を捜すように、列車は自ら進む線路を選び、人々は呼吸を抑えて改札口に進んでいく。



 雪は、相変わらず、音を立てずに落ちてくる。遠くに、雪で屈折した淡い太陽が見えている。まもなく列車は青森に到着するようだ。 


2009年02月14日(土) マーケット考

 今日も日差しが強い。
 むっとした亜熱帯特有の雰囲気は、観光客相手のお土産屋が続くアーケードの中にも充満している。アイスクリーム屋あり、フルーツ屋あり、Tシャツ屋あり、妙に、気だるさを振りまいて歩く人々の中を、僕は奥へ奥へと進んでいく。
 メインストリートからの入口あたりでは比較的広かったこのアーケードも、心臓部とも言うべきマーケットに至れば、点在する食堂からの亜熱帯の甘い香りが漂う、格子状に通路が広がるエリアとなり、更に奥へと続くアーケードはついに細い路地となる。まさにアングラという印象を彷彿とさせる、その複雑に入り組んだ路地群は、人間GPSを自認する僕を持ってしても、方向感覚を失わせるに十分だ。
「あれれ、ここに出た」
という、正に、迷路探索の喜びを提供してくれる。鍾乳洞探検のように、この路地群を歩き回るのは楽しい。

 日用品の店、食堂、ところどころで、店主と客の会話が繰り広げられる、観光客不在のこのエリアこそ、本当の「マーケット」なのだと思う。

 僕は長い鍾乳洞を旅してきた。メインストリートの明るい光を見た時、僕にはそんな感じがしたのだ。20年前に訪れた時の変わらない時間が止まったような感覚が、この地上の鍾乳洞には存在しているように思う。

 手にはしっかり「ゆで卵入りの八重山かまぼこ」のビニール袋が握り締められている。腐敗を防ぐためのちょっと油っこい「かまぼこ」。地上から遥か高いモノレールの駅のホームで、「ぱくり」と頬張った。まあるいかまぼこから、ゆで卵が顔を出した。
 琉球のちょっと湿った風が心地よい。
 


2009年02月07日(土) 利便性で失ったもの

 レコードはコンパクトディスクになり、最近はすっかりダウンロードの時代になってしまった。
 コンパクトディスクというものが世の中に出た時、
「音は絶対にレコードの方が良い」
「デジタルはアナログに勝てない」
という評論が駆け巡ったが、やはり利便性には勝てなかった。今では、更に圧縮率が高いダウンロードこそ全盛だ。

 久しぶりにオーケストラのコンサートに行った。
 サン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付」。
 第1楽章の後半の冒頭、コンサートホール正面上部に構えるオルガニストは静かに最初の一音に踏み出した。その静かな重低音は、しっかりと、直径数mはあるだろうという大きなパイプからこの空間を伝わって、自分の体の芯に共振する。

 自分の目にうっすらと涙がこみ上げてくる。

 利便性で失ったものはこんなところにもあるのかもしれない。


さわ