明後日の風
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2007年12月30日(日) 遠足コースとの格闘

 南国にしては肌寒い朝。
 山のガイドさんに連れられて、ジャングルの中に入っていく。
 2度目の小笠原にして、はじめての本格的なジャングルトレッキング。
「小笠原では、子供の遠足コースです」
と言われたところで、やはり、ジャングルというと
「変な虫でも落ちて来るんじゃないか」
と少しドキドキなのである。

 大東亜戦争時代の遺物という、軍道を探検隊は一列になって進んでいく。



 当時は、しっかりと大きな軍用車が走っていたらしく、頑丈な旧式エンジンとタイヤのみ形を残した遺物がそこここに残っている。そのかつての広い軍道も、たくましい南国の植物に侵食され、今は、やっと人が通れる程の細い道を残すのみだ。
 小雨が続き、滑りやすい赤土に足元をさらわれながら、歩くこと2時間。粘着質の赤土がびっしりと付着し、まるで筋力養成ギブスのようになったスニーカーと格闘しながら、我々は目的のハートロック上部に到達した。太平洋に落ち込む断崖と、赤土に覆われた、荒涼とした風景は、
「海に守られた固有種の楽園」
というイメージではなく、厳しい絶海の孤島という現実を教えてくれる。


 夜のカフェバー。生ビールを飲みながら、
「今日、ハートロックへ行ってきましたよ」
といった僕に、
「小笠原では、アースデイというのがあって、ハートロックまで裸足で歩くイベントがあるんです。最初はきついけど、そのうち楽しくなるんで、最後まで歩いてしまいますよ。」
カウンターの女性は、笑って答えてくれた。やはり、子供の遠足コースらしい。


2007年12月29日(土) プライベートビーチ

 東京港を出発してから20時間を越えた。
 だらだらと二等船室で過ごしていて、腰は痛いし肩は痛い。ちびりちびりと食べるバタースティックでそれなりに腹は膨れている。
 気分転換に外の甲板に出る。進行方向左側に、聟島列島が見えているはずだ。聟島列島、父島列島、母島列島、小笠原諸島というと、このネーミングが面白い。200年前には無人島と言われていて、それがなまって「Bonin Island」と言われるようになったくらいだから、実はそれほど古い話しではないはずだ。



 父島は小笠原で一番大きな島。荒れた海で少々遅れた27時間の航海の終点だ。ゆったりとカーブを描きながら入港する「おがさわら丸」に、昨年は、船首にカッコよく陣取り、洋々と入港した気分だった二見港も、今回はスコールでのお出迎え。寒いし冷たいしちっとも良いことない。それでも、数分でカラリと晴れた空の色は、やはり南国だ。このコントラストが歓迎の印というところなんだろう。


 乗りなれた50ccのレンタバイクにまたがり、島内一周道路を走る。向かい風と、実は1年ぶりで、エンジンのかけ方すら忘れているということが判明し、乗りなれていないことが判明したバイクにやや不安を感じながら、山の中に入っていく。坂道が続く一本道。少しずつ南国らしいジャングルに踏み込んでいく。
 30分弱走り、路肩にバイクを停めて、200mを越える断崖をぐんぐん軽快に降りた。僕だけのプライベートビーチ。優越感に浸る間もなく、海風の寒さが身に沁みる。


耐えられず、今度は断崖をぐんぐん登って汗をかいた。ペットボトルのお茶を飲む。振り返ると大きな太平洋が広がっている。200mちょっとの山登りに感動である。


2007年12月28日(金) 飛び散るスニーカー

 年末の竹芝桟橋。
 今年最後の小笠原への船が出発する。
 来年は小笠原返還40周年記念。よく考えると、僕の年齢と同じ。古いとも言えば、意外に新しいとも言える。
 昨年と変わらず「おがさわら丸」には、長い乗船客の列が続いている。



 これから乗り込む二等船室には、びっしりかつ整然と毛布が並べられ、夏の山小屋のようなすし詰めに決まっているのだ。乗船と同時に配られる番号札で僕の席が決まる。外洋の26時間に及ぶ長旅。決して「でかい」とは言えないこの船は、冬の荒れた海でとにかく揺れる。ちょっと曇ったこの天候では更なる悪化が期待できる。
 去年は、あまりの揺れに、廊下で体が宙に浮き、ひっくり返って、スニーカーは飛び散り、僕のすねは廊下脇の柵にぶつかり青あざができた。そんな中、なんとか、カップラーメンに給湯器からお湯を注ぎ、それを食べる。それ自体が、チャレンジングだったりする。
 食べ物を買い込み、船内シャワー用のシャンプーも用意し、そして、強力な酔い止めを服用する。26時間の戦いを楽しもう、とでも言っておきますか?


2007年12月24日(月) 田舎について

 「田舎」と一言で言うが、実はその多様性を否定する人はいなだろう。
 北海道の大農場の風景も田舎であれば、信州の3000m級の山に囲まれた谷も田舎であろうし、四国のどちらかというとのどかな山並みに続く段々畑の風景も田舎であろう。
 その中で、房総の風景というのは、また特段のものの一つのように思う。
 どこまでも小高い里山が続き、緩やかな谷には、小さな田畑が開発され、小さな道筋が続いている。どこからか軽トラックでもやってきて消えて行きそうな風景だ。どこにでもありそうな日本の風景、と言えばそれまでだが、実はここにそれがしっかりと残っている、ということに最近気がついた。お仕着せでない「懐かしさ」が、僕にハンドルを握らせる。

 房総のリゾートである「安房鴨川」も夕暮れが迫る。
 海の堤防の先には、小さな港町が点在している。
 山だけでなく海にも、「懐かしさ」が広がっている。


2007年12月15日(土) 途中下車の心得

 初めて降り立つ町には、少なからず期待感がある。
 駅のホームに降り立ち、跨線橋の階段を上り下りして改札に向かうのは、ある意味、この期待感を高めるための儀式のようなものだ。改札口からコンコース、そして駅舎の外に出た時、その一瞬の雰囲気がこの町に対する僕の第一印象を決めてしまう。何度か訪れるうちにその印象は少なからず変化していくのが普通なのだが、第一印象自体は決して変えることができない。
 ぶらりとなんとなく降り立つ途中下車は更にいい。下手にガイドブックに先入観を植え付けられることもなく、第一印象を新鮮な形で捉えることができる。

 熊谷。20万都市で新幹線停車駅だが、意外にも、東京から近いこの町に、僕ははじめて降り立った。
 素朴な地方都市というイメージの駅前広場は、平成というより昭和という香りが強い。休日の昼下がり、決して人通りが多いとは言えない町を、ぶらぶらと歩いた。
 一時期流行った、コミュニティー道路の脇に、田舎うどんの店があった。11時開店で4時間ほどしか営業しないその店に、僕は閉店15分前に滑り込んだ。
 
 素朴で腰のある麺。その無骨な感じは、この熊谷という町の第一印象の輪郭をよりくっきりと際立たせた。


2007年12月10日(月) 共有できる歌

 東京駅近くにそびえる高層ビル。
 近代的なビルの屋内広場に、素朴な歌声が広がっている。
 舞台の上の歌手の声だけが響いているのではない。観客の自らの気持ちが同じ声として広がっていく。これが決して特別のことではない、というのが、童謡というものを特徴づける一つのキーワードかもしれない。
 難民救済のキャンペーン。この場を共有できる、ということが、難民を救うという気持ちにつながっている。


2007年12月02日(日) トレーニング

 正午過ぎ、ふと高尾山に向かう。
 京王線はいつも通り速やかに高尾山口駅まで送ってくれる。
高尾山は紅葉の真っ只中だが、さすがに午後二時ともなれば麓はさほど混んでいない。
 尾根筋の弁天山ルートをハイペースで登っていく。眺望が良いのがこのルートの特徴だが、秋の落葉のおかげで更に視界が良い。弁天山の東屋で一休み。関東平野を眺める登山者の脇でおにぎりをほお張る。



 今回は登山のトレーニング不足解消という位置づけだ。ガンガン登って、ガンガン汗を出す。登山を始めて一時間余り。最後の長い丸太階段を一機に登り詰めた山頂は、紅葉狩りの人々で賑わっていた。
「さ、下山しよう。」


さわ