観能雑感
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2001年11月24日(土) 第二回 青葉乃会

第二回 青葉乃会 銕仙会能楽研修所

正面席に座ろうと思うも既にいっぱい。人を掻き分ける気にもならず、脇正面2列目真中へ。
なぜか良く眠れず視力が通常より下がっていた。辛い。

仕舞
実盛 観世榮夫
江口 観世暁夫

榮夫ちゃんである。某巨大掲示板でこう呼ばれている事を彼は知るまい。足が重そうだ。でもそれでいいと思う。人間は衰えて行くのだ。その過程で可能な身体の使い方をする。彼はこの曲に思い入れがあるのだろうか。12月の公演が待ち遠しい。己の心境を重ね合わせているのだろうか。複雑な立場に立ちつづけた人である。最後まで見つづけたい。
で、もう暁夫で舞台を勤めるのあと一月ほどだろうか。プレッシャーはあるだろう。名前に相応しい役者になってもらいたい。西方浄土を見はるかすかのような視線と扇使いがふと心に留った。


海士 窕(くつろぎ)
シテ 柴田 稔  ワキ 工藤和哉 子方 柴田 昂徳

子方が登場する曲を舞台で観るのは初めてである。良い評論を目にしていたので期待していたが、実にしっかりしていた。全身を使って可能な限り大きな声で発声し、身じろぎもせず床几に腰掛けている。シテと向き合う時の視線が真剣そのものであった。劇に参加してるのだ。シテとはやはり親子らしい。
ワキツレの一人がスキンヘッドで怖かった。目つきが鋭いのだ。香具師?などと思ってしまった。
地謡、8人なのでしっかり。途中前後で逡巡が見られた様に感じたが気のせいか。後列の張りきり具合に比して、前列は至ってクール。いいのだろうか。前列は後列より大きな声を出さないという不文律でもあるのだろうか。
松田弘之氏の力強い笛にのせてシテ登場。震えている。全身震えている。緊張のためだろうか?それほど高齢ではないはずだが?声もあまりでていないようで、気になるが、何とか進行。前場の見せ場である玉取の段終了後、軽い貧血状態か、息が非常に苦しそう。つい後見に目をやってしまう。
アイは野村与十郎氏。安心して聞ける。
後シテ登場。龍女の面に龍の冠。鬘が顔にかかるので、ヒゲが見えなくなる。少しは落ちついたようだ。
前場では、シテは我が子のために己を省みず命を落す様を際限してみせる。後場では、我が子に再会し、供養してもらった喜びで舞を舞う。いわば自分のために舞うのである。女性だがかっこよく早舞を舞うのだ。太鼓入りの舞は迫力がある。松田氏の笛、やや元気のないシテにガンガンしかけてくるが、シテはやや力不足か。それでも前場のような苦しさは見られなかった。笛の力強さが心に残った。大小鼓、掛け声控えめか?所詮私に囃子評など無理なのだ。
詞章も比較的解りやすく、謡本なしでも何とかなった。1冊2000円は高い。
どうも脇正面に座ると紋付着用の人々に目が行きすぎる。曲に集中できなかった。自分の心持に問題があるのか、はたまたシテの求心力がなかったのか。ただ、脇から観たほうが、面の表情が豊かなのは確かである。時に苦しげ、時に悲しげ、または強い決意を表す。
見所は女性が多かった。学生もかなり目に付いたが、やはり素人弟子が中心のようだ。スピーディな展開のため、居眠り率は低かったように思う。携帯も鳴らず。当たり前だが昨今の風潮では貴重か。情けない事だが。榮夫氏は後見でややウトウト。忙しいのであろう。くれぐれもご自愛願いたい。


2001年11月09日(金) 銕仙会定期公演

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 18:00開始

狂言 茶壷  野村萬 与十郎 祐丞

見所が落ちつかない。既に役者が橋掛りを歩いているのに話を止めない方々、何しに来たのだ。狂言は能の前座なのか。ウォーミングアップなのか。
能の事が気になって、なかなか舞台に集中できない。なんせ今日のワキはあの方なのだ。曲の内容も若干盛上りに欠けるような気もするが、いや、気の所為であろう。動きも少なくなくはないのだし。落ちはどーんと最後に来る。勝ち逃げだ。萬さんの相手をからかう表情は実にいい。

能 定家 シテ 浅見真州 ワキ 宝生 閑 地頭 観世暁夫

狂言終了後、プログラムにはないが若干時間が空く。その間に入ってくる客多し。ああ、狂言は添え物なのか。 その一人に三宅晶子氏発見。チケットは購入したのか、招待なのか?正面席の後ろの方だった。
しらべが聞こえてくるが、見所はざわめいている。いつも思うのだが中高年層の方がマナーが悪い。話すのを止められないのだ。なんなのだそれは。自分の話しにそんなに価値があると思っているのか?いや、ただ単に配慮のかけらもないのだろう。
笛の音が弱い。枯れているというのとも違う。ただ力がない。これからの舞台が思いやられる。
ワキ、ツレ登場。ああ、やっとこの日が訪れた。今までずっと映像での邂逅でしかなかった宝生 閑氏の舞台をこの目で観られるのだ。長かった。「銕仙」で氏の談話によると、「ワキは目を無暗に動かしてはいけない」と教えられたとのこと。シテの面との調和がとれなくなるからだそうだ。瞬きもできるだけしない方が良いそうだ。大変である。その教え通り、氏はほとんど瞬きしない。素顔だが面のごとし。静謐である。氏も黒目がちであった。親子である。
ワキツレ、危惧していたがやはり10月の矢来能楽堂での公演のあの二人である。宝生家の弟子なのであろうか。この二人は曲の登場人物になっていない。装束を付けた現代人だ。ハコビもただ歩いているだけのように思われる。ワキとツレとの間に存在として差異がありすぎる。ワキ不足は深刻なのだ。氏が某誌で答えていた通り、人数だけはなんとかなるが、質がともなっていないのだ。ああ。
宝生氏の言葉は明瞭で、直接こちらの心に響く。見所の者を舞台の時間に引き込んで行く。後姿までまったく隙がない。
シテ登場。なんとういうか、重さがない。悪くはないのだが、存在が希薄だ。観世寿夫氏の「自分とという存在全てを賭けて舞台に立つ」という気迫がないのか。地謡、地頭の身体だけが動いてやや気になる。何か意味はあるのか?前列は姿勢はいい。声、やや物足りないような気もするが、こんなものなのだろうか。全体的に小さく纏まった地謡であったように思うが、そう酷くはなかったように思う。可もなく不可もなくか?いや、不可はややあるか…。
シテの居グセ。ただそこにあるということは、どれほど困難なのか。この時、里の女は式子内親王になる。ワキの言葉が美しい。所作にもまったく不足なし。例の如くワキ柱が邪魔をして控えている姿を観ることができない。なぜ一人でチケットを購入すると、この席になるのか。
間が登場。やや眠気を誘われる。やはりワキは見えず。脇正面席を購入すれば良かったか。このとき本日購入した豆本を見る。初めて購入した謡本である。
シテの序ノ舞。悪くはない。しかし希薄だ。なぜだろう。舞を観ながらなぜここにこの舞が挿入されているのかを考える。シテの安易な内面描写などでは絶対にないはずだ。もちろん。喜んで舞うというだけでもない。観世寿夫氏の著作に度々触れてあったが、まだ自分の実にはなっていないらしい。今思うのは、舞台で起こっていることだけでなく、己についても内省する時間であるということだけである。
舞台上の時は夜だったはずだ。凍てつく夜。しかし、そのような感覚は遂に得られなかった。夜になって雨は上がったのだろうか?確かなものが何一つ掴めない。
シテが再び塚に消え、葛が絡まり身を縛される。すべてを見届けて僧は去って行く。その時の後姿が登場時と異なる。重荷が消えたようなある種の清々しさ。
今回初めてシテが橋掛りにかかっても拍手がなかった。作り物が退場した時に拍手が起こる。最初から耳障りな音を聞くよりはずっといい。しかし、囃方が退場する前に席を立つのは如何なものか。ほんの1分程度の差であろうに。現代人の悲しさか。
前場で前列の中年婦人のケータイが鳴る。舞台途中で席につく人が多い。
舞台が始まったらドアを閉めてしまってもよいのではないか?あまりにも迷惑だ。とくに扉に近いところに座っているとなおさらである。
終始ワキの演技に感嘆させられる。見事である。まさに人間国宝に相応しい。もっとじっくり拝見したい。現在シテ方にこのような方がおられないのが残念至極である。
外に出るとどこかで見たような男性が「何かが足りない」と呟くのを耳にする。どこかの大学の研究者だったように思う。TVで見た記憶がある。人違いでなければ。
補助席まで出してほぼ満員。年齢層が高い。一見盛況な能楽界であるが、寿夫氏が20数年前に抱いた危機感は、全く払拭されていない。
私にできるのは、ただ観続けることだけである。


こぎつね丸