観能雑感
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2001年12月09日(日) 「幽の会」

「幽の会」 銕仙会能楽研修所  PM5:30
狂言 薩摩守

船頭 三宅右近
僧  三宅右矩
茶屋 高沢裕介

初めて観る三宅家。アドは右近氏の息子であろうと思われる。若いがこれといって花がない。無難にこなしているとは思うが。噂の(?)高沢氏、笑顔が大変いい。所作もきれい。三宅氏と高沢氏の掛合いが観たいものである。
舞台とは直接関係ないが、右隣が真っ赤な服に帽子、毛皮のコート、そのとなりも帽子こそないが似たような扮装、さらにその隣に派手目な男性と、非常に場違いな3人組が座った。演能中は一応静かだっただろうか。おそらく観なれていないのでおとなしくしていたと思われる。桟敷の舞台に帽子は迷惑である。後の人の事を考えなたことがないのであろうか。さらにすぐ前には座高の高い方が。この能楽堂は一段に2列座れる形式になっていて、脇正面はこの後の列に座る人はまれであったのだが、今回見事に該当。その後も彼女には非常に悩まされる。

能 實盛
シテ 観世榮夫
ワキ 宝生 閑
アイ 三宅右近

既出の方が気になりつつも、能、開演。地謡メンバーを見て、やっと顔と名前が一致する。パンフレットをみて確認していると、ワキ登場。ツレに殿田謙吉氏と、豪華メンバーである。相変わらずかっこいい。瞬きの仕方がやはり親子で似ている。どうでもいいが。
シテ登場。尉の扮装を間近で観るのは初めて。前場のシテは至極あっさり。居グセが長く、語り中心。ワキに質問されてものらりくらりとかわす。地謡がこんなに遅く出たのは初めて観るような気がする。今日はまとまっていた…ように思う。囃子もいい。しかしなぜか集中できない。
アイとワキの問答の後、後シテ登場。同じ尉の面でも、表情がきりりと引き締まって見える。面とはまことに不思議なものである。戦の様をつぶさに際限して、見所いっぱいのはずなのだが、集中できない。囃子も地謡も悪くないはずなのだが。それは既出のオバハンのせい。頻繁に姿勢を変えるし、だんだん後に下がってきて、自分の足を下の台に置いていられなくなった。無理な姿勢の所為か、お尻が痛くて痛くて、早く終わってくれと願うほど。留め拍子を踏んだ時には正直ほっとしてしまった。
シテ、面を高めに懸けていて、口が見えるほど。呼吸が苦しいのであろうか。それとも尉の面だからだろうか?見栄えは良くない。動かない足を引きずっても、最後まで役者として舞台に立ち、衰えたなりの表現を追及している事は評価できる。能楽師として波乱万丈であった氏の集大成を見届けたいという思いもある。もっと良い状態で観たかった。原因は自分の中にある。残念である。やはり無理してでも正面席に座れば良かったのだ。今日もまた脇正面だったのだ。この能楽堂で正面席に座れる日が来るのであろうか?
なんだか気分がすっきりしない。こういう日もあるのだろう。


2001年12月05日(水) 国立能楽堂定例公演 

国立能楽堂定例公演 PM1:00

狂言 朝比奈(大蔵流)
シテ 山本則俊
アド 山本泰太郎

2度目の朝比奈である。それほど良く出る曲とも思えないが、縁があるのであろう。
前回は茂山家を観た。思えば舞台で観る初めての狂言を、強烈な演者で体験してしまったわけだ。こちらはコミカルな演技が目立った。今回は山本家。舞台で観るのはやはり初めてである。
堅い。型クッキリ。笑いを取ろうとしないのは良いと思う。シテ則俊氏、言葉が能の謡のようで、よく理解できなかった。そうする意味はあるのだろうか?いくらこの曲が囃子と地謡付きであるにしても。氏の他の曲を観ていないのでなんとも言えないが、あのままでは不自然だろう。
泰太郎、面が気になるのか何度が手をやる。地味である。しかし、安易な笑いを取りにいかないところはいいと思う。取り合えず笑えて、軽いノリだけが狂言ではあるまい。
印象としては、茂山家の方が強い。どちらも役が立っていた。同じ流儀でも全く違う芸だという事を実感した。


能 砧(観世流)
シテ 片山九郎右衛門
ツレ 西村高夫
ワキ 宝生 閑
ツレ 宝生欣哉
アイ 山本東次郎

曲、演者共に観たかったものである。国立能楽堂主催の公演は、チラシを見ない限りシテ以外の演者が解らない。パンフレットを購入し、直に調べると、おお!期待どおり!そして予想通り。やはりここぞというところでは宝生 閑氏である。そして遂に親子競演を舞台で拝見。ワキツレは後場のみ登場で、ほとんど言葉を発しないが。ツレは銕仙会、地謡、後見にやはり一人ずつ。あとは京都観世会であると思われる。顔が怖いと気になっていた銕仙会若手の名前が今日判明。彼が馬野さんか。誤認していた。
まずワキとツレの問答。重い曲での閑氏のコトバが重すぎると指摘していた人がいたが、否定はできない。個人的にそれほど気にならないが。やはり端正できちんと場を作る。
シテ登場。小柄である。面は曲見か?ハコビが美しい。お声は予想と異なり、低めでしっかりとしたものだった。心地よく響く。これ見よがしに重々しく作ってはいないのだが、確かな存在感を感じる。型のひとつひとつが隙なく美しくきまる。ただワキ座に控えている時でさえ、目を奪われる。クセで扇を舞台向かって左に掲げた時、なぜだか涙がでてきた。詞章が泣かせるわけではなく、その存在自体に目を離せない。演じるとか、役に成りきるとか、そういう上部だけの表現を超え、自分という人間全てを賭けて舞台に立つ。観世寿夫氏が著作に記されていた事を、初めて実感した。存在そのものに、心を動かされたのだ。
シテ、地謡ともに高度な技術が要求されるようで、聴き応えがある。地謡、これまで観た中で、一番いいと思った。部分的に混成チームなので、どうなるか気になったが、京都観世会の力量を見せつけられた。力強く、重厚だが優美である。これが観世宗家系の地謡なのだろうか。最近銕仙会ばかり観ていたので、新鮮かつ、喜ばしい。前列手前に味方 玄氏がいた。やはり予想通り参加。愛弟子であるので当然か。若手だからと言って遠慮なし。しっかり謡っていた。銕仙会の若手もそうであって欲しい。いずれは自分達が主力になるのだから。
砧のシテは、中年女性の悲嘆、焦燥、嫉妬等、どちらかというと陰性に捉えられていると思うが、実際に舞台を観て自分ではあまりそう感じなかった。確かに焦るし、嘆く。しかし、表面上は明るく振舞っていて、夕霧の若干無神経な言葉も軽くいなしたのではないか。しかし3年間耐え、今度こそという期待が裏切られたとき、彼女は力尽きるのである。夕霧は主人の愛人であるとする向きが多いが、敢えて疑問を呈したい。「心ならずも宮仕え」というのは皮肉ではなく本心ではないのか?無頓着な女性なのだ。シテの妻に意識的に辛く当たろうとしているのであれば、彼女が遂に儚くなった際、涙ぐむのは解せない。それともそれは勝利の涙なのだろうか?ただ、主人が今年も戻れないことを伝え、シテが動揺を隠せない様を見下ろしているその顔が、ニヤリとしたように見えた。
山本東次郎氏のアイ。堅実。アイはこうであってほしい。前場と後場を繋ぐ、見かけ以上に重要な役割があるのだ。
ワキ、ワキツレ登場。僧行で、菩提を弔う。
シテ登場。「梓之出」の小書き付きなので、橋掛りにいる時間が常より長いであろうと思われる。立っているだけの姿を1時間見ていても、きっと飽きないであろうと感じさせるたたずまい。面は痩女か?現代の価値感で言えば、彼女に罪はない。しかし、人を一途に思うことそれ自体が罪であるとするならば、彼女はやはり一度は地獄に落ちなければならなかったのかもしれない。妄執の声を聞くまいと耳を塞ぐところで、こちらの胸も痛くなる。ワキに詰め寄るところは鬼気迫るものがあるが、時を置かず納得して成仏する。やはり彼女は陰性ではなく、明るく気丈な性質であったと思える。霊となって現れたのも、「ちょっとくらい文句言ったっていいじゃないのよぉ」という、やや甘えたい気持ちからで、だから直に気が済んでしまうのだ。
怒り、悲しみ、焦燥、落胆。それら全てを包み込み、端然としている女性を私は見た。
囃子、地謡、立ち役と、今回は今迄観た舞台でベストであった。地謡の力強さ、繊細な技巧は自分にとって白眉だった。京都の観世会は良さそうである。そしてなによりシテの九郎右衛門氏。これまで好きなシテ方は特にいなかった、持てなかったが、今日を限りに撤回する。見事でだった。今日この舞台を観て、本当に良かった。体調の悪さも、現状への不安も、全てとは言わないが拭い去ってくれた。何となる、と思えるようにしてくれた。良い舞台とはこのような力も持っているのだ。
確かな存在。ただそこに存在すること。簡単なようで難しい。今、いったい何人の役者にこれらが可能なのか。どうか精進してもらいたい。
残念な事に、シテがまだ橋掛りにいるのにもかかわらず拍手が起こる。なぜこの素晴らしい舞台の余韻を自ら打ち壊すのか。狂言の開始から能の終了まで、ただひたすら眠りつづけていた高齢の男性がいた。何のために能楽堂に来るのか?眠るなとは言わないが、鼾は大変迷惑である。こうして美しい世界は破られる。


こぎつね丸