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2002年03月31日(日) いつかまた会うそのときまで

「一つの時代の終わりに、乾杯!」


2002年03月30日(土) 科学に架ける橋

『全宇宙を司る神に対する宗教感情に似たものと言えるかもしれない。この世界で外観も性質も全然異なったものが、実はその「背後」では同じ組織、同じ物理的法則に支配されているのだということを考えるとき、人間が感じるあの気持ちも宗教感情に一脈通じるものがある。それは自然の数学的美というもの、言いかえれば内側で自然がどのように働いているかを味わうことであり、僕らが目のあたりにしている自然現象というものは、実は原子同士の複雑な内的活動の結果なのだということを悟ることでもある。そしてそれがどんなに劇的で、どんなにすばらしいかを感じとることだ。それはほとんど畏敬――言ってみれば秘められた自然法則に対する畏敬――に近い感情なのだ。』(リチャード・P・ファインマン)


あるとき。
私は、世界を知りたいと思った。
私は、人間を知りたいと思った。
私は、自然科学を学んだ。
私は、文学に惹かれた。哲学に惹かれた。世界を、人間を、そしてその関係性の中に存在する(と思い込むことで存在している)自分を知るために、惹かれた。
そしてまた、自然科学を今も学んでいる。
理系・文系などという区別は意味のないものだ。本当に世界を、人間を、そして自分を知りたいなら、どちらも必要なのだ。もはや境界領域が曖昧になっている。
長い間、世界を、人間を、そして自己を知るのは、「文系」と呼ばれる分野の役目とされてきた。だが今では、「理系」と呼ばれる分野を無視して全てを解明するのは不可能だろうと思う。
心理学などの人文科学の領域であった「心」の研究が、脳科学の発展により、自然科学の領域でもあるようになっている。人間の感情の変化や、身体の仕組み、生命の躍動などを、分子生物学の立場からアプローチしてもいる。ダーウィンから連なる進化論は遺伝学を導入した。
人間はDNAのプログラムに過ぎないのではないか。感情は脳の電気信号の変化にすぎないのではないか。だがたとえそうだとしても、少なくとも私が生きている時代にそれが完全に解明されることはないだろう。永遠にないかもしれない。いまの時代に生きる私は、文学を使い、哲学を借り、そして自然科学を学びながら(またできることなら自ら創りながら)、世界と人間の謎にアプローチしていくだろう。つまり、自然科学の発展によってもたらされた人間観・自然観の変化の現状を把握しながら、従来の倫理観や社会規範、人文科学との「ずれ」の整合を計る、ということだ。それが、今のところの私の思考法だ。もっとも、実際には「ずれ」などほとんど感じてはいないのだが。かつて人文科学の領域であったところに自然科学が乗り込んで来たのは、当然のことだと思うからだ。何百年、何千年かけても、人文科学だけでは人間も世界も解明できてこなかったのだから、次は自然科学の力も利用する、人文科学と自然科学の融合を計る、というのは、当たり前の選択だと思うからだ。そう、未知のものを知らずにはいられない人間という種にとって、それこそがまさに自然なことだ…。なのに、「ずれ」をわずかばかりにせよ感じるとすれば、それは、そのように私が教育されてきたからだろう。私に教育を施した世代、つまり私の一つ前の世代は、人文科学と自然科学を独立のものとする価値観を共有しているから人たちが今よりも多かっただろう。その人たちによる「教育」という名の後天的プログラムが私の脳に書き込まれており、それが今の私の一部を形成しているから、「ずれ」を感じるのだろう。おそらく…そう思う。人間の思考など、結局はその程度のものでしかないのかもしれない……(だからどうしたというのだ)
私は、ふと、たまに、願う(誰に?)。
この世を完全に語りえる「真理」と呼べるものがあれば、と。あるわけがないだろうか。しかし、それを確立しようとしている(していた)人たちがいる。アプローチの違いはあれ、私は、そのような人たちに敬意の念を表す。そして、いつか私も……。


『私は科学を仕事にしているので科学信奉者なんですけれど、結局科学以外に人間のまわりでおこっていることを理解していく有効な方法があるかということを問いたいわけです。哲学を使っても、文学を使っても、人間のまわりでおこっていることを解明して結論を出したときに、そこにはかならず主観が入るわけだから、大部分の人が同意できるような結論じゃないと思うんですよね。ただの意見ではなく、確かめることができて普遍性がある、人を納得させられるような方法で対象を理解するというときに、科学以外に有効な方法はないと思うんですよ。やはり、科学がこれだけ発展してきた一つの大きな理由は、多くの人を説得する力があるからだと思います』(利根川進)

『自然の書物は数学の言語によって書かれている』(ガリレオ・ガリレイ)

『純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である』(シモーヌ・ヴェイユ)

『世界と君との戦いでは世界に味方せよ』(フランツ・カフカ)

『「解決なんて無いんだ。この地獄は永遠なんだ」「おかえりなさい」』(引用元不明)



2002年03月29日(金) 国内小旅行2

ショック!
大学始まるのは9日からだった…予想より早いよ。
11日くらいからかなあ、と何となく思ってたんだけど。
う〜む。4月6日の夜に出発(前回の日記参照)したとしてもほとんど向こうで何もできんなあ。仕方ないので、一部の予定を繰り上げ処理&キャンセルして、4月5日に出発しようかと検討中。はたして実行できるか…もうそろそろ検討している時間もないのだが(汗)


2002年03月28日(木) 国内小旅行

なんか春休みも終わりが近づいてきた。
終わる前に国内小旅行をしようかと計画中。
東京へ。
東京タワーとか。上野の国立科学博物館とか。東京大学とか。国会議事堂とか。ディズニーランド&シーとか(千葉だが)。
まあ、全部いけるとは思えないし、行く必要もないけど、とにかく小旅行。
他の予定の関係もあって、出発できるのは早くて4月6日の夜(これ無理かも)。
問題なのは…大学が何日から始まるのか知らないってこと(おい)。
まあ、すぐに調べるけどさ。
大学始まる直前まで東京滞在、になるかな。まだ確定してないけど。

あとは…東京で、きみに会えればなお良いかな。
会えなくても、また次に会いにいけばいいだけだけど。

『どこにいるかは問題ではありません。会いたいか、会いたくないか、それが距離を決めるのよ』(森博嗣『すべてがFになる』)


2002年03月27日(水) a beautiful life

結局、普遍的な意味での生きる意味だとか人生の価値だかいうものはない。
自分が「意味がある」「価値がある」と「定義」したものが、そうなる。意味なんて、価値なんて、その程度のこと。数学(算数)はまず「1+1=2」などの「約束事」を定義したところから始まる。それと似たようなものかもしれない。もっとも、数学と「現実」は決定的に違うところもあるけど。数学は完全に客観的な論理によって構成された(構成しようとする)世界。まあ、「現実」にはありえないからこそ、人間は数学という学問を創り出したのかもしれない。などと、「夢」を見てみるのも、悪くはあるまい。人間同士が何を話し合っても、主観と主観のぶつかりあいになってしまう。だからこそ面白いという側面もあるけど、そんな不確かなもので飛行機を飛ばしたりはできない。すぐに墜落しちゃう。だから、数学がある。「数学的証明」という手法の発見は、大きな達成だと思う。「現実=主観」に、「客観」を持ち込んだのだ。主観的な視界しか持たない人間が「客観」を創り上げたというのは奇妙な気もするが。ともかく、そのことによって、人間は普段は主観的生を生きながら、ときに客観的生の世界(数学)に遊びに行けるようになった(擬似的にせよ)。いつか終わる夢だとわかりながら、そこで子供が砂遊びをするみたいに遊んでいる。蟻が集まってくるのを観察している。砂場にいる誰かが言う。
「こういうのって、楽しいよね」
その続きが語られることはない。なぜ楽しいのか。楽しいとは何か。それは、問わない。それを言葉にしてしまうと、すべてが「台無し」になってしまうことを砂場にいるみんなは知っているからだ。砂のお城は踏み潰されるしかないことを知っているからだ。

(踏み潰してもいいんじゃない? また、代わりのおもちゃを見つけるだけだよ。僕らはそういうふうにして生きている。何かを消費しつづけて生きている)


2002年03月26日(火) Who's Edge

またまた実家(以下略)



少年は、「好きな人」に会いに行きました。
その人の名前を呼ぼうとしました。
すると。
「好きな人」の手にいつのまにかナイフが握られていました。

以前にも同じようなことがありました。「好きな人」が少年をナイフで刺したのです。少年の体のどこかから血が流れ落ちました。その液体はとても冷たそうでした。そのときは、少年は、刺された痛みより、どうして刺されたのかという「?」で頭が一杯になりました。幸い、そのときは軽傷だったので、少年は、その「好きな人」に会いにいける体のままでした。

少年は、いまなら、その「?」の答えが、ほんの少しだけわかっています。でもほんの少しです。それもわかったつもりになっているだけかもしれません。だから、少年は、もう一度刺されてもいいと思いました。刺されて、それで少しずつでも「?」の答えがわかるかもしれないなら、それでいいと思いました。もちろん、刺されたら痛い。痛いのは、少年だって嫌です。できれば、刺されたくない。でも、それが必要なら、刺されてもいいと思いました。血を流すことが必要なら、流してもいいと思いました。
ただ、少年が心配なのは、もし少年を刺してしまえば、「好きな人」はそのことを気に病むだろうということです。「気に病まないで」といくら少年が言ったところで、そういう問題ではないのです。ナイフによって傷つくのは、その持ち主自身もそうなのです。
少年は、やはりまだ少年でしかないのでしょうか。たとえ少年でしかないとしても、物語のつづきを紡ぐことは、できないのでしょうか。
少年の答えは――。
そして、「あなた」は――。
ねえ、どうなのだろう。
そのナイフは、誰が誰に向けたものだったんだろう。
僕らは歩いている。終わりなき日常を。短き永遠を。
いつも一人で?
ねえ、どうなのだろう。
こんな問いかけ自体――ねえ、どうなのだろう。


『神よ、願わくば、わたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ』(引用元不明)


2002年03月25日(月) 運命の螺旋

また実家から更新。

最近、というか、もうずいぶんになるかな。
「だらかどうした」と思うことがある。
何をやっても、「それが何になる?」と心のどこかで(いや脳のどこかで)思ってしまう。
3月9日の日記にも似たようなこと書いていますが、いまもそれは変わらない。
ソルトレーク・オリンピックをTVで見ていたときも、「何でこの人たちこんなことをこんなにがんばれるんだろう」と思いながら眺めていた。だからほとんどオリンピックは見ていない。確かに彼・彼女の演技を見て感動したり凄いと思ったりはするのだが、「だからどうした?」となる。
俺は、自分以外の誰かががんばっている姿を見て励まされることはあっても、それをまるで自分のことであるかのように興奮したり感動したりすることはあまりない。たとえば、なぜ自分の好きな野球球団が勝ったら自分も嬉しいの? 自分が何かをしたわけじゃないじゃん。と、思ってしまう。しかも、その球団が負けたときには文句を言ったりする。都合がいいな、と思う。勝ったときは自分のことのように喜び、負けたときは選手のせいにする。自分は絶対に困らない立場から野球を楽しんでいるのだ。それが、悪いというわけではない。なぜなら、彼らプロ野球選手の仕事は、そういう観客の期待に応えることでもあるからだ。
しかし、先ほど述べたオリンピックの選手たちは、観客の期待に応えるために演技をしているのだろうか? そんな馬鹿なことはないはずだ。自分のために演技をしているはずだと思う。では、なぜ、そこまでその競技に夢中になれるのか? それは、「なぜ?」と考えるよりも以前の衝動によって、彼・彼女が駆り立てられているから、だろう。だが、それでは説明にならない。「なぜ」そのような衝動が人間には存在するのか、ということが説明できない。まあ、脳の研究が進めば、「石を手から離せば鉛直方向に落ちる」くらいに自明なこととして語られるようになるのだろうけど、それに期待しても俺が生きている間には解明されそうにない。何より、「夢」がない解答になる。人間は「夢」がないと生きていけない。一見「現実合理主義・夢がない」と思われているかもしれない科学者だって、「夢」があるから研究ができるんだ。今よりももっともっと面白い不思議に出会うために研究しているんだから。
意味がない(かもしれない)ことを追い求める、役に立たない(かもしれない)ことをしたがるのが、人間という生物なのかもしれない。ここで、「なぜ」人間はそういう生物なのか? という疑問が出る。しかし、順番が逆ではないだろう? 何の順番か? それはつまり、人間が「意味がない(かもしれない)ことを追い求める、役に立たない(かもしれない)ことをしたがる」生物であるからこそ、今、「なぜ人間は意味がない(かもしれない)ことを追い求め、役に立たない(かもしれない)ことをしたがるのだろう」という疑問を持っている俺が存在しているからだ。人間以外の生物が、こんな疑問をそもそも持つだろうか? 人間が、(現在認知されている人間以外の生物と比較して)ここまで「発展」してきたのは、まさに人間がそういう生物であったからだろう。そして、いつの時代にも、上述したような疑問を持つ人間はいた。繰り返し回りつづけている。ただ、円を回っているのではなく、螺旋を回っているのだと、思いたい。螺旋なら、いつか終わるだろうから。


2002年03月23日(土) Call “me” Call “me.” And I call “you.”

実家から更新。
なんか前回の日記の内容だと、実家から更新できないみたいな印象を受けるでしょうけど、やろうと思えばやれます。



昔むかし、一人の少年がいました。
彼には名前がありません。
彼は言いました。
「名前なんてただの記号にすぎない」
それは、全くその通りです。
でも、彼は寂しかった。
彼は、誰かに自分の名前を呼んでもらいたかったのです。
誰か、それもとくに好きな人に、自分の名前を呼んでもらいたかったのです。
そして、彼は、自分もまたその好きな人の名前を呼びたかったのです。
そうすることで、確認したかったのです。
つながっているということを、確認したかったのです。
彼は思いました。
「『好きな人』と別れたくない」と。

時が経ちました。
彼は、その「好きな人」と違う道を歩むことになりました。
彼は思いました。
「僕たちは、別れるために誰かと出会うのだろうか」と。
いや違う、と彼は思いました。
別れるのは、もう会う意志がないからだ。
会おうと思えば、たいていの場合はできる。
つながろうと思えば、本気で思えば、できる。
彼はそう思いました。
そして、その「好きな人」に会いに行こうと決めました。
「好きな人」の名前を呼びに行こうと決めました。
それからどうなったか。
それは、これからの物語です。



2002年03月20日(水) 人生の岐路における命題

とりあえず更新してみました(前回の日記の最後参照)。
といっても、明日から実家に戻るので、また更新されなくなります。
下宿に戻ってからも、更新されるかどうかは気分次第。
ああ、こんな適当で、俺の日記を見に来てくれている人にはまことに申し訳ないです…。



生きるということは可能性が失われていくことである。
新たな可能性を見つけることもあるが、失われる可能性のほうが圧倒的に多いからだ。
たとえば、多くの少年が、自分はプロ野球選手にはなれないのだと気づく。
そもそもなりたくない、という少年もいるだろうが、いまは意思ではなく可能性の話をしているので、なりたくない少年も含める。
さて、そこで、私にはあとどれだけの可能性が残っているだろうか。その中で私が最も掴み取りたい可能性はどれだろうか。
ここに、ひとつ、私の中で新たに芽生えている可能性がある。
しかし、問題なのは。その可能性によって、多くの新たな楽しさやかけがえのないものを得るであろうと同時に、私がいま大切に思っているもののいくらかが失われるであろうということだ。ハイリスク・ハイリターンなのだ。また、リターンしない可能性も大いにある。それは、私の努力と、才能と、運、次第なのだが。とくに、才能だ。これが、大きい。才能を言い訳にするな、人間は努力しだいだ、というのは偽善だと思う。人間には、断固として才能――向き不向きというものがある。確実にあるのだ。だからこそ社会が成り立っているともいえるのだし。
この新たに芽生えた可能性というのは――他の全ての可能性がそうであるように――何もしないで放っておくと、掴み取るのがだんだん困難になってしまう。いや、すでに、遅いくらいなのだ。それが、問題だ。問題を解くのに残された時間が少ないというのが、決定的な問題だ。


2002年03月18日(月) 現象学的本質直観

『「世の中みんなキレイぶってステキぶって楽しぶってるけど、ざけんじゃねえよ」
「ざけんじゃねえよいいかげんにしろ。あたしにも無いけど、あんたらにも逃げ道ないぞ、ザマアミロ」』(岡崎京子『リバーズ・エッジ』)

えっと、単に昨日読んだ漫画で印象に残ったセリフを引用してみただけだったりします(汗)
近々「『文藝別冊』岡崎京子」という特集本が出るそうで、タイムリーですね(何が?)。僕はその本は買いませんが(笑)。この漫画家のことはよく知りませんし。いや、知らないからこそその本を読んで知るのか? でも別に今のところ知りたくないからいいです(笑)。『リバーズ・エッジ』(上記セリフ引用元)は凄いと思いましたが。



ええと、そろそろこのウェブ日記をやめようかと検討中。
たまに更新しながら続けるか、すっぱりやめるかを検討中。
もういいかげん、このウェブ日記を書くという行為に「頼る」のは、やめようかなあ、とか思ったり。ここで色々なことを書いていても、何も解決はしないんですよね。当たり前ですけど。
書くことで自分の気持ちとかを整理できることもあるけれど、別に書かなくても整理はできるわけですし。日記を書くという行為自体が目的と化してしまう前に、やめようかなと。もちろん、日記を書くことが目的だとダメだというわけではないですよ? ただ、俺がその目的にあまり魅力を感じないだけのことで。
時間の問題もありますしね。日記を書いている時間で、ここに書き散らしているような物事に対して実際的なアクションを起こしたほうが本質的な解決に近づくのではないか、とか。
そもそも「本質的な解決」て何?…難しい問題ですね。少なくとも、ここでその定義に関する考察をすることは「本質的な解決」ではないでしょうね。勝手に自分で用語を定義して、それで安心する。説明できた気になる。実は何も言ってないような言葉遊びの哲学によくあることですね。誤解のないように書いておきますが、哲学全てが何も言ってないと思っているという意味ではないですよ。ニーチェなんかは好きです。「神は死んだ」と言っているのとかが。いやニーチェは哲学じゃなくて思想か? まあ、どちらでも今はいいや。
で、実は何も言っていない(と俺が思う)哲学(あるいは思想)のことですが。
たとえば、「神」の存在を前提にした哲学・思想って、その時点で思考停止しているように思えます。「神」は関係ないだろ? 説明できないことは「神」あるいは「神秘的な何か」とかに委ねちゃってさ。古典文学でも良くあるけど。その哲学者なり思想家なりのいた時代や国の社会では「神」の存在が前提とされていたから良かったのかもしれないけど、現代(日本社会)においては、「神=人々を一つにまとめるため、あるいは解明できないことを説明する(した気になる)ために人間が作り出したシステム」だと多数の人間(俺含む)に認識されているのだから、もはや現代において有効性を持たないよそんな哲学・思想。いくら名著だとか偉大な作家だとか言われても。「神」以外にも、現象学(フッサール)における「本質」とか、ハイデガーのいう「現存在」とかさ、定義が曖昧なんだよなあ。俺が理解していないだけだと言われれば反論はできないんだけど(ちゃんと読んでないから)。何か勝手に自分らで哲学用語を定義してさ、それで世の中の様々な物事を説明して、そのくせその肝心の定義が曖昧てどういうことよ。
そんなんだから、
『よく見ると、およそ哲学というものは、常識をわかりにくいことばで表したものに過ぎない。』(ゲーテ『格言と反省』)
なんて言われるわけですよ。いや、ゲーテがどういう意図でこれを言ったのかは知らないけど、意図は今はどうでもいいです。単にぴったりの言葉だったから引用しただけです。
誤解のないように書きますが、哲学は大事だと思います。本当に。でもそれをしているだけではどこにも進めない。ぐるぐるぐるぐる同じところを回っているだけ。それが必要な時期もあるけど、それにかまけてばかりはいられない時期もある。
上のほうで、「本質的な解決」て何?、と書きましたが、フッサールのいう「本質」の定義が曖昧なのと同様、いくら議論したところで答えは出ないでしょうね。それよりももっと「本質」的に大事なやるべきことがあるはずです。
そのやるべきこととは何か?
それがわかっていれば、最初からこんな日記は書いていません。


それでは。
明日以降、日記が更新されるかどうかは不定。
ある日突然この日記ページ自体が削除されている可能性もゼロではないです(笑)


2002年03月16日(土) I need her

「ねえ、どうしてあのとき私に声をかけたりしたのよ? 生身の私を知ったら幻滅するだけです。私を知ろうとするより、『生きているのはなんだかいいなあ』と思える現実感を私に与えてほしい。それが、私の望みです。それ以外に、人といる意味がありますか?」

「そういうあんたは俺に対して何を与えようとしてくれたというんだ?」



「求めるだけ無駄なんだ。彼女には色々と見たいもの、やりたいことがあるんだよ。それで遠くに行こうとしているわけさ。だから君には無理だよ。彼女を捉えることなんてできやしない」

「それでも俺には彼女が必要なんだ」

「どうしてだい?」

「それがわかれば、生きる苦労が一つ減るな」

「同時に、生きる楽しみも、一つ減るかもね」

「確かに」

「確かにね」


2002年03月14日(木) 『月光』の下で『眩暈』がする。

カラオケ行って来たのですが、かなり歌い疲れました。
二人で4時間はなかなかキツイ…喉が。
俺は超絶音痴だと再確認してしまいました。
しかもそのくせけっこう歌いにくい歌を歌いたがるし…(汗)
いや、俺にとってはどんな歌でも歌いにくいですが(爆)
一緒に歌った友人はけっこう上手いのがまた対照的でした。


ふう。
なんか、久々に、「その日の出来事」だけで構成された日記を書いた気がする(笑)
ああ、しかし、今日はカラオケしただけか。いや、他にもしたことはもちろんありますが、書くようなことはとくにないです。というか、実は体調が悪いので書く気力があまりない。
というわけで、今日はこれで終わり。


2002年03月12日(火) 三行日記2

私は、あなたを必要とし、あなたに必要とされたい、
でも、あなたを縛りたくはない、
あなたに縛られたくもない。


2002年03月11日(月) 三行日記

昨日は少し書きすぎた…。
個人的には数学よりは物理のほうが好きかな。
それだけ。


2002年03月10日(日) 受験的、あまりに受験的

『(「高校数学に出てくる公式が何の役に立つのか」という問いに対して)
「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す。(中略)だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね……。(中略)そもそも、僕たちは何かの役に立っていますか?」』
(森博嗣『冷たい密室と博士たち』)

まあ、実際には数学は役に立つ(部分もある)と思いますが。数学がないと物理がないわけで、そうすると俺は海外旅行に飛行機で行くこともできなかったわけですし。物理がなければ船だってないわけで、泳いで海を渡る?(笑)
それはさておき、音楽だって芸術だって役に立たないけど楽しい、数学も同様だ、というこのセリフは大好きです。といっても、俺はメチャクチャ数学が楽しいと思っているわけではないけど、面白いと感じるときはあるし、無駄でもないと思う。同様に、音楽だって聴くし、芸術だって感動するときはある(たとえばパリのオルセー美術館で見た絵画、ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』とかは伊達に有名ではないと思った)。しかしどうも、一般的な統計をとると(実際にそんな統計を見たことはないけど)、音楽と芸術に対して、数学は「面白くない」「わけがわからない」という印象が圧倒的だと思う。音楽だってしょうもない曲は一杯あるし、芸術だってわけのわからん絵とか一杯あると思うのですが…。なぜでしょう? 小さいころの学校教育のときから、数学(というか勉強全般)が「しょうもない」という社会的風潮の中で「教育」されてきたからではないでしょうか。ある種の「洗脳」と言うと、言いすぎかもしれませんが。たとえば、野球の練習で、素振りをしたり、体力をつけるために走り込んだりしますが、野球が楽しいと思う人でも、素振りや走りこみは楽しくないと思う人も多いでしょう。でも、しますよね? 野球が上手くなりたければ。勉強(ここでは数学)だって、ある程度は暗記して必要な知識を身に付ける必要がありますが、その後は自分で思考するという「遊戯」が楽しめるはずです。答えがわからなくてイライラしてくることもあるかもしませんが、だからといって答えを丸暗記して試験対策して楽しいでしょうか? 楽しくなくても受験があるから暗記しなければならないという現状もありますが、どうせなら楽しくなるように数学の最初のところでふんばって努力してみれば、後々、丸暗記するよりも楽しいだけでなく成績だって良くなるはずです。そうはいってもできないものはできない、向き不向きがある、というなら、そうまでして受験しないほうがいいのではないでしょうか。自分で向いてないと言いながら、なぜ(高校はともかく)大学にまで行くのでしょうか? 四年間ゆっくり過ごせる時間が欲しいのなら、別に大学に入らずとも四年間就職しなければいいだけです。卒業単位を確保する必要がないし、学費もかからないし、大学に行くよりゆとりがあるくらいではないでしょうか。少なくとも俺は、大学にいて世間一般に言われているほどに暇ではないです。今は春休みで時間ありますが、普段大学がある期間は実験とそのレポートとか新しい学問分野の勉強とかでむしろけっこう忙しいくらいです。まあ、適当に手を抜けばそう忙しくもないようなのですが、手を抜いて楽して卒業するのが目的で大学に入ったわけではないので。「楽」であるというのと「楽しい」というのとは違うのですから。俺は工学部の学生なわけですが、工学以外のことの勉強(社会勉強も含めて)も大事ですし、それらもしているつもりですが、工学以外なら別に工学部に入る必要はないのです。それは工学部に限らず他の学部にもいえます。だから、どこかの学部に入ってその分野のことを学ぶのが目的ではなく、楽して卒業することが目的になるのなら、大学に入る必要はない、と思います。四年間、就職しなければいいのです。収入ないと生活できなから就職はしなくてもアルバイトはしないと駄目だから時間がなくなる、と思われるかもしれませんが、さっきも書いたように、むしろ逆です。大学には学費がいる上に、大学にいたからって収入があるわけではないのです。収入がほしければ大学生だってアルバイトをしなければならないのです。
大学行くと行かないで世間の見る目が…ということがある場合もあるかもしれませんが、無理矢理世間の流れで大学に行くのと、行かないのとで、実際にはどれだけの違いがあるというのでしょうか? と、理想論をいっても、やはり世間は実際見る目が変わることもあるし、就職の問題(相撲取とか、むしろ大学行っている場合ではない職業を除いて)もあるし…やっぱ、無理矢理にでも大学に行ったほうが色々と「便利」なのかな……親だって、大学四年間ならタダ飯食わせてくれても、無職だと働けという親は多そうだし。
ああ、何だかムカムカする。もっとも、この日記を読んでムカムカした人もいるでしょうけど。
それでは、今日はこれで。


2002年03月09日(土) 再び始まる日常

海外旅行(2/17の日記参照)から昨日日本に帰国して、今日下宿に戻り、ネット環境が復帰。
旅行のことについては、個人的に「旅行記」を書き始めているので、日記のほうではあまり書くつもりはないのですが、一言だけ。
旅行先のロンドン・パリの観光名所はやたら日本人が多かったです(とくにパリでそう感じました)。

旅行のことはまた折にふれてこの日記でも書くことがあるかもしれませんが(ないかもしれない)、とりあえずここからはいつも通りの(?)日記を。



突き詰めてしまえば、生きる意味なんてない。
泣いて笑って楽しんで、それに何の意味がある?
たとえ楽しくても、それに何か意味があるのか?
ない。
じゃあなぜ死なない?
死んだら、何も見つけられなくなるから。
途中で死ぬことはただの言い訳だと思うから。
何も見つけることができなかった自分への慰め。
何も見つけようとしてこなかった自分へのごまかし。

とりあえず、いまは、
楽しいことは意味がなくても楽しいから「いい」じゃないか、
少なくとも「悪い」ことではないだろう、
と思って、生きていくことにする、
つまり、それは、本当の意味で「楽しい」わけではないが、
肩肘を張りすぎて壊れてしまわないためには、必要なことだ、
まだ、壊れるには、狂うには、早い、
まだ、やりたいことがあるんだ。
まだ、あるんだよ。

もしかしたら、それこそが、生きる意味なのかもしれない。






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