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2002年02月17日(日) とりあえず、さようなら。

明日(18日)に最後の試験があります。
それが終わったら、その日のうちか次の日に実家に戻って旅行の準備をすることに。
まあ、もうすでにだいたいは準備完了しているんですけどね。
肝心の航空券をまだ受け取っていないことを除いて(笑)
そして26日からはヨーロッパへ。帰国は3月8日予定。

というわけで、それまでこの日記はお休みです。
帰国してからも実家にいる間は更新されないかと思われます。
なんかあんまり放っておくと日記が自然消滅してしまいそうですが(笑)

それでは、また。

(私信):
俺に連絡がある人は、携帯のほうにメールなり電話なりしてください。
26日からは携帯も通じないですが。まあ、そのときはまた帰国後に。


2002年02月16日(土) 光の射す方へ

「僕はあの人を大切に思っている。それは本当さ。ただ、僕はあの人に対してどう接すればいいのかがよくわかっていなかったんだよ」
(子供だったんだね)
「そうだね…」
(いまも、子供?」
「少しだけ子供じゃなくなったと思う。でもまだ完全に大人でもない」
(じゃあ、またあの人に迷惑をかけてしまうかもね)
「大人になることはすぐにはできないけど、迷惑をかけない子供になることはできるんじゃないかって…」
(そう思いたい?)
「いや。思うだけじゃなくて、実際にそうなるんだ」
(子供のままでいいの?)
「いいわけないだろ。別に俺は甘えていたいわけじゃない。でも、子供の中のある段階を飛ばして大人になっても、それは本当の意味で大人になれたわけじゃない。偽者の大人を名乗りたくはない」
(…まあ、御託はこれくらいにして、後は実際に行動で示してみなよ)
「そうするよ。じゃあね」


2002年02月15日(金) 夢見ぬ未来

夢は、見るものじゃない。叶えるものなんだ。

俺は、行動が言葉に追いついていない。
言葉が行動に先行している。そう感じるときがある。
言葉は、何かを表したり伝えたりするためには大事だが、
言葉に依存するべきではない。
そう思っているはずなのに、言葉に頼ろうとするときがある。
……行動してみるしかないな。
と、やはり言葉で書いている。「行動してみる」と、言葉で書いている。頭の中で言葉にして考えている。人間の限界だ。言葉から自由になることはできない。でも言葉があるからこそ人間だともいえる。ようは、言葉と行動のバランスが取れればいいのだと思う。どちらも不可欠なものなのだ。人間でいるかぎり……などと、当たり前のことを確認してみた。


2002年02月14日(木) 留まる過去、進む現在

人の思い。人の記憶。その集合としての歴史。
何かがどこかに残っていると思うことでかろうじて保つ存在。
本当は何も残ってやしない。すべては忘却されていく。
過去にすがることはできない。過去に支配されることもない。
でも、やはり、人は過去を懐かしむ。歴史を振り返ろうとする。そして何かを確認する。
「現在」だけでは自分の存在を構成できないからだ。ちっぽけだ。
壮大な歴史に身を委ね、ちっぽけな自分が取るに足らないものだと思い知り、なり得ないもの、決してなれないものに憧れ、そして心のどこかで安心している。ただ歴史に身を委ねればいいのだ。何かに身を委ねているとき、人は解放される。自分が侵される恐れのない安全な場所で遊んでいたいと願う。しかし仮にそんな場所があったとしても、そこからはどこにも行けない。もっとも、人はどこかに行かなければならないというわけでもないが。ただ、どこにも行こうとしないなら、それはつまり「死」だと思う。過去においては生きているが、現在においては死んでいる。

俺はロンドン・パリに行き、そこで今までにないものを見聞きするだろう。何かしらの歴史を垣間見るかもしれない。ただ重要なのは、その体験をどのように「いま」にフィードバックできるのか、俺は何を知り、何を確認してその場所から帰ってくるのか、ということだと、俺は思う。たとえロンドン・パリの文化やその土地に流れる歴史に感銘を受けようと、俺は「現代」に生きる人間で、日本に住んでいる。たとえ将来イギリスなりフランスなりの国籍を取得したとしても、俺が生まれ育った土地を日本以外の場所に変えることはできない。「現代」以外に生きることもできない。だから俺には過去の歴史よりも「現代」のほうが大事だ。過去は確認するもの、フィードバックするためのもの。過去は、その名のとおり、通り過ぎていった遺物なのだ。ただ、その遺物は捨て去るにはあまりにも強い光を放ち、俺を惹きつける。そして俺はその遺物からたくさんのものを学んできたし、これからも学ぶことができる。でも、あくまでも俺は「いま」に立っている。

僕がここに確かに存在していたことを忘れないでほしい。
ときどき、僕自身が僕のことを忘れそうになる。
その曖昧になる僕という輪郭をどこかに繋ぎとめようともがいている。
あなたが僕のことを見つけてくれるなら、僕はあなたの中に存在するだろう。
たとえ僕の中に僕が存在していなくても。



2002年02月13日(水) 破壊せよ

今日は試験があった。明後日も試験がある。
しかしもはや試験などどうでもいい気分だ。
取るに足らないことなのだ―――試験など。
しかしそうは思いながらも、単位確保できるように試験対策はしている自分がいる。
後になって言い訳にしたくないからか。単にしたたかなだけなのか。
そのどちらでもあるのか。それ以外の理由からか。
何であれ、現状にうんざりする。自分が嫌になる。俺はこんなに弱かったのか。破壊したい。

『俺は、閉じ込められている、思い出せ、この巨大な光に切り取られた場所、閉じ込められたままだ、破壊せよ、お前が閉じ込められている場所を破壊せよ。』
(村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』)

あともう少しで試験期間が終わり、それから一週間後には俺はヨーロッパ行きの飛行機に乗っているはずだ。そのとき俺は何を考えているだろうか…。

わかるかよ、そんなこと。実際にそのときにならないとな。


2002年02月12日(火) 自分らしく、俺らしく。

実家から戻ってきたので日記再開。

今月の26日から、ロンドン・パリに向けて10日間(もしかしたら11日間になるかも)旅立つことに決定。まずはロンドン、それからパリ。
マドリード(スペイン)やローマ(イタリア)にも行きたかったけれど、ホテル確保などの事情により今回はこの2都市だけ。
ホテルを現地で確保するようにすればもっと長く滞在しておけるのだけど、海外初めての俺がいきなりできるかどうかわからないし、家族に心配をかけるので、まずはホテルをあらかじめ日本から確保して現地では一人で自由行動して慣れてみることにする。もちろん、ロンドン・パリに行ってみたいというのがまずありきだけど。
すぐには無理だけど、こうやって経験を積んだり語学力をつけたりしながら、いずれ、(あらかじめホテルを確保せずとも)ひとりで自由旅行できるような力をつけたいと思う。自信を持って「心配しなくて大丈夫だ」と家族などに言えるくらいに。
俺と同じ年齢かそれより年下でもすでにその力がある人もいるだろうけど、いまの俺にはない。逆にその人が持っていなくて俺が持っているものもあるだろう。結局、人は自分以外にはなれない。自分なりにしか自分を変えてはいけない。無理に変えようとすれば、焦り、不安になり、自分が持っていたものまで失ってしまう。
俺は見失いかけていたように思う。
そして、そのことに気づかせてくれたのは、他者だ。
他者がいないと、気づかないこと、気づきにくいことがある。
他者がいないと、楽しくないこと、悲しくなることがある。
他者に甘えて生きていきたくはないけれど、
他者に少しも助けてもらわずに生きていくのも無理だ。
人間は孤独だけど、ひとりではない。
そもそも、孤独だと感じるのは他者がいるからこそだ。
ひとりぼっちなら、孤独を意識することもない。
他者の中にいるからこそ、他者に接しているからこそ、孤独だと感じる。
では他者がいなければ孤独を感じなくてもすむのか?
そんな議論は、議論それ自体が目的の場合以外は無意味だ。
実際に俺たちは他者のいる世界に生きているのだから。
その前提を疑い出すと、もはや何も生まれない。
何かを前提としてしか人は思索することができないのだから。
結局、全ての思索は何らかの(突き詰めれば根拠のない)前提の上で成り立っている。だから「真理」に達することなど存在し得ない。「真理」に触れたと思っても、それはその人がそれを「真理」だと思うことにしただけのことだ。ようは、どこで「納得」することにするかの程度の違いだと思う。
「死」こそが「真理」だと思って自殺した人たちもいる。でも死んでしまうと「ゲーム」はそこで終わりだ。思索という「ゲーム」の終わり。別に終わりにしてはいけないこともないし、それは個人の自由だけど、俺は自らの手で「ゲーム」を終わらせるつもりはない。それは俺の「前提」なのだ。「ゲーム」に参加するときに決めた「ルール」なのだ。


パリに行ったらセーヌ川にたたずんでコーヒーでも飲みながら少し思索してみようかな(笑)


2002年02月09日(土) 帰省

ちょっと実家に戻るのでしばらく日記はお休み。


2002年02月08日(金)

何かを失うと同時に何かを得ることができたなら、それはきっと無駄ではなかったと思う。
失われたもの、通り過ぎたものに対して、ありがとう、と感謝して、もう振り返ることはない。
いくら叫ぼうと、追いすがろうと、留めておくことができた試しがない。留める意味もない。
「失われた」といったん認識してしまった対象に何をしようと見苦しいし、無駄だ。
自分の選択に後悔して、いくら嘆こうと、自己の慰めでしかない。
誰も助けてはくれないし、誰からも置いていかれる。
いつまでも悲しい場所にとどまっていたければそうすればいいし、自分がそうしたからといって誰も困る人間はいない。誰も困ってくれない。過去に留まりつづける人間を誰も必要としてはくれない。必要とされたければ、現在を懸命に生きるしかない。いつか一人で大空を自由に飛びまわれることを目指して。
俺は今はまだ上手く飛ぶことのできない篭の中の小鳥でしかない。そのことが悔しいから、この指を一本ずつ離していこうと思う。

『お前には価値なんかないよ、とヤザキは微笑みながら言った。もちろんおれにだってない、価値がある人間なんか誰もいない、誰にだって代わりはいるし、人は他人に何もしてやれない、そういうことから出発してどこかへ行けるかという実はどこにも行けない、いつか他人にとって価値のある人間になろうとしてもそういうことはさもしいし、無駄だ、誰からか本当に必要とされている人間なんかどこにもいない。そして最後に言った。
 だからおれ達は自由なんだ。』(村上龍『タナトス』)


2002年02月07日(木) 身勝手な呟き

『オレとまた仕事がしたい?
ふざけたことを言うんじゃない、
人生はとり返しのつかないことの連続だ、
死を受け入れるように、オレはお前の不在を受け入れた、
オレ達は、あの時から無関係だ、
お前は今共にいる人と(誰だが知らんが)生きていかなくてはいけない、
オレの不在を受け入れろ』
(村上龍『タナトス』)

「不在を受け入れる」のはあまりにも悲しい。それは俺の一部が損なわれるということだからだ。だが、俺には、まだ、「とり返しのつかないこと」をとり返せるのではないか、という「若さ」がある。エゴかもしれない。ただ、いま、俺がそれを望んでいるのは「真実」だ。

『君達が自己に忠実に話す時、そこに過去や未来は関わりがなく、真実が永遠に光り輝く。自己に忠実に話す、それのみが真実の正当な在り様なのである。』
(リチャード・バック(村上龍[訳])『イリュージョン』)

今までにだって失ってきたものはたくさんある。でも、今回は、失いたくないんだ。とり返しのつかないことは存在するということを受け入れた上で、いま失いつつあるものを繋ぎとめられるんじゃないかって、もう一度、試してみたい。

『限界、常にそれが問題点である。君達自身の限界について議論せよ。そうすれば、君達は、限界そのものを手に入れることができる。』
(『イリュージョン』)

ここであきらめると、この先ずっと後悔すると思う。いま失われつつあるその原因は、俺が自ら招いてしまったことだから、自業自得だ。でもだからこそ償いたい。結局それは、俺自身のためなのだけど。俺が自分のために償うのだ。世のため、人のため、なんていうけど、突き詰めれば自分のためなんだと思う。自分がしたいことをするだけなんだ。

『いかなる種類の生や死を選ぼうとも自由だが、義務というものがあるとすれば、自分に忠実でなければならないということそれ一つだけである。』
(『イリュージョン』)


2002年02月06日(水) 終わりなき旅

「目的」とは何だろうね。
(わからないよ)
どこまでが「手段」で、どこにたどり着けば「目的」なんだろう。
(考えないほうがいいかもしれない)
何に向かって生きようとしているのか。「目的」がなければ生きる意味はあるのだろうか。
「目的」を見つけることが目的? ただの言葉遊びだ。
(すべては遊びなんじゃないかな)
そうかもしれない。子供の砂遊びと変わらないのかもしれない。遊び。面白いか、面白くないか。それが、大事なことなのだろうか。それだけが。それ以外の「何か」がないのだろうか。
(「何か」って?)
わからない。
(「何か」があるって信じたいだけじゃないのかな?)
わからない。
(もう少し肩の力を抜いたらどう?)
それができれば。
(できるかできないかは、君が決めなよ)
そうだね。僕が、決めることにするよ。もう、君とは、お別れだ。
(いつまでも、ここにいてもいいんだよ?)
いや、俺は、行くよ。
(どこへ?)
それは……これから決める。


2002年02月05日(火) 思索探索模索

『安らかに寝ることを欲するか。
私は内的な戦いを愛する。
なぜなら、もし疑うことがなかったら、
確実なことを知る喜びがどこにあろう?』
(ゲーテ『温順なクセーニエン』第一集)

というわけで(?)、色々考えながら生きていこう。


2002年02月04日(月) 「スプートニクの恋人」への手紙

今日は試験、明日も試験。
少しずつ残り試験数が減っていきます。そして取得単位数が増えていく…つもり(笑)



あなたは僕をおいてどんどん先へ進むだろう。僕はそれに焦り、苛立ち、不安を感じる。でもそれ以上に、あなたに追いつこうと、追い越そうと、キラキラひかる自分をあなたに見せてやろうと、前へ前へと(ときには寄り道もしながら)進もうとするのだ。僕はあなたとの繋がりを求めるし、それをなくしたくないと思う。「好き」っていうのは、僕にとってはそういうことなんだと思う。
だから、僕は、あなたが好きだよ。

『唐突に電話が切れた。(中略)ぼくはベッドの上に身を起こし、もう一度電話のベルが鳴るのを待ちつづける。壁にもたれ、目の前の空間の一点に焦点をあわせて、ゆっくりと音のない呼吸をつづける。時間と時間のつなぎめを確認しつづける。ベルはなかなか鳴りださない。約束のない沈黙がいつまでも空間を満たしている。しかしぼくは急がない。もうとくに急ぐ必要はないのだ。ぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。(中略)ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている。ぼくらはたしかにひとつの線で確実につながっている。ぼくはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。』
(村上春樹『スプートニクの恋人』


2002年02月03日(日) 興味深く生きる

『人生はテニスのシングルスゲームと同じで、誰かが誰かを幸福にすることなどできない。他人にしてやれることなど何もない。他人のことをわかってやるのも無理だ。他人を支配するのも無理だし、支配されることもできない。人生はシャンペンだけだと思うか? そう吉野愛子は聞いた。そうシャンペンだけだ、そう答えればよかったとテニスボーイは今思っている。シャンペンが輝ける時間の象徴だとすれば、シャンペン以外は死と同じだ。キラキラと輝いていなければ、その人は死人だ。キラキラと輝くか、輝かないか、その二つしかない。そして、もし何か他人に対してできることがあるとすれば、キラキラしている自分を見せてやることだけだ。キラキラする自分を示し続ける自信がない時、それは一つの関係が終わる時を意味する。』
(村上龍『テニスボーイの憂鬱』)

『テニスボーイの憂鬱』という小説は、全体的には読んでいてあまり面白くなかった。でも、上で引用した文章は好きです。面白くはなかったけど、この文章に出会えたから読んで損はなかった、と思います。共感するところがあり、それを上手く言葉にしてくれている。自分が思っていること(でも上手く言葉にはできない)を上手く言葉にしてくれている文章に出会うと嬉しいものです。
本を読む場合、読んでいるときは面白いのだけど本を閉じたらもうあとには何も残らない本と、読んでいる最中はあまり面白くないのだけど後から思い返すと何か残っているものがある本とがあります(他にもあるけどここではこの二つで話を進めます)。前者は休憩やストレス発散に役立つから必要だと思うし、また実際読むこともあるけれど、後者のように何かが後に残る本に出会えるとことこそが読書をする一番の目的な気がする(個人的に)。なぜって、前者であれば別に本でなくてもいい。疲れたときにはむしろ本を読むより負荷のかからない漫画を読むとかゲームをするとかのほうが適しているかもしれない。もっとも、後者の場合だって、別に本以外のものごとからも「何か」を得ることはできるけれど、本の特徴として「文字」に関する情報量が圧倒的だということがある。人間の思考だとかを記述するのには大量の文字が必要だ。たとえば漫画では、キャラクターの感情などを「絵」で表す。読者は絵を見ることで一瞬にして文字にすれば何行かあるいは何十行にもなる「情報」を得ることができる。文字にはできないことが上手く伝わってくることもあるし、絵を見るのは一瞬で済むから時間も節約できる。ただやはりそれで表現するのに適したことと適さないことがあって、本(漫画ではなく文字による)という表現媒体が適している方面に今の俺の興味がシフトしている、ということ。少し小難しい本を読んでインテリ気取りたがっているだけの若者、だと思われるかもしれないけど、そうではない(少なくともそれだけではない)つもりです。まあ、漫画は色々読んできたし、ゲームなんかもそうです。それらは、新鮮味を感じにくくなった、その媒体から得られることが飽和に近い状態にある(と俺が勝手に判断した)ということ、かな。でも、めっきりしなくなったゲームと違って、漫画は今でもそれなりに読んでますけどね。それは漫画がゲームに比べて時間がかからないからというのもある。興味が薄れれば当然それに注げる時間も減ります。あと漫画は立ち読み中心なので経済的(笑)
まあ、漫画は休憩のための娯楽として楽しめるけど、ゲームはそれにしては時間がかかりすぎるのですね。対戦ゲームで何回か対戦するとかくらいならさほどの時間にはなりませんが、でも対戦前にある程度練習しないと面白い勝負にならない、だから練習も含めるとやはり時間がかかる。それと対戦相手が必要だから自分の自由な時間に「休憩」できるわけじゃないんですよね。まあ、友人と親睦を深めるためのツールとしての役割も対戦ゲームにはあるかもしれないですが。でもそのためにそのゲームの練習をする時間を割くのは嫌だ(笑)
あ、それと、本のことですが、もちろん一番良いのは、読んでいる間も面白いし後にも何かが残る本です。ええ、それにこしたことはありません(笑)。そんな本にもっと出会いたいです。そしてそのような本よりももっと興味深い「人」にも出会いたいです。興味深い人間に出会うことは、何十冊何百冊の良書に出会うより貴重な経験になり得る。そして俺も人からそのような「興味深い人間」だと思われるような人間になりたいと思う。もちろん興味を持つ持たないは個々人の相性にもよるだろうけど。


2002年02月01日(金) ダンスのステップを踏むように

『あらゆるものは通りすぎる。
誰にもそれを捉えることはできない。
僕らはそんな風にして生きている。』
(村上春樹『風の歌を聴け』)

通り過ぎていった友人、あのころいつも一緒にいた友達、いまはもう会うことのない友達、過去、思い出、忘却。無邪気だったあの時代、何もかもが新鮮だった幼きころ。戻りたいとは思わないし、感傷にふけることも普段はない。ただ、いまの「俺」を形作っているもののいくらかは、過去の光、音、少年の思い出。時の中で失われていくもの。時の中で磨かれていくもの。そのどちらが勝っているのか、それがその人の「成長」の度合いを決めるのではないだろうか。ただ通り過ぎていくのではない。「何か」を得ながら(得ようとしながら)、通り過ぎていきたい。そう思う。
そしてできることなら、いくつかの大切なものや人を、通り過ぎずに繋ぎとめておきたい。

『スペイン語はまったくできないし、英語も得意ではないので、彼らと何かをわかり合ったわけじゃない。単に出会って、通り過ぎただけだ。わたしは目的を持って、彼らの間を通過した。
 わたしはこれからもずっと、どこかに行く途上にいるだろう。途上にいるのは、落ち着かなくて不安定だが、たぶん何とかなると思う。
 ホセが教えてくれたダンスが、まるで生きもののように、わたしのからだにあるからだ。』
(村上龍『KYOKO』)


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