29号の日記
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2003年03月30日(日) 近況

一週間、土日も含めて仕事でした。金曜日と日曜日に帰宅しました。
間違いが多いと同僚に呆れられました。 以上。


2003年03月28日(金) まるで戦記小説の世界

 空襲(敢えて空襲と言う。)だけでなく地上部隊が展開するようになって、
新聞の紙面がまるで戦記小説のように感じられるようになってきた。
まさか新聞でこんな記事を読むようになるとは思ってもいなかった。

 まるで史記や三国志の世界。
米英軍の戦車を袋小路に迷い込ませて、気づいたときには退路に2台のバスが、道をさえぎる形で駐車されていて、引き返すに引き返せず、待ち伏せしていたイラク軍に挟撃されて・・・という戦術なんて、まるで三国志。細い道に敵を迷い込ませて、敵が気づいたときには退路が土砂で塞がれていて、両側から矢の雨が・・・という構図そのまま。
 ニュースによると、米英軍は、戦車部隊が突っ走って、補給用車両が追いつけない状態の模様。このままいくと、物量の力に頼りきって傲慢になっている米英軍は、補給線を分断されて各個撃破されるのではないかという気がする。そう、これも三国志で繰り返し使われてきた戦術。騎馬部隊が敵に挑発され、全体のバランスを考えないで先に突っ走ってしまい、後続の輜重(補給)部隊が、待ち伏せしていた敵部隊に挟撃され分断され、あわてて引き返してきた騎馬部隊は、やっとのことで血路を切り開き、おびただしい死傷者を出して・・・というよくある、愚かな采配そのものである。)

結局、人間の考えることは、2000年経っても変わらないんだろうか。
このままだと、あと2000年後は「銀河英雄伝説(SF小説)」さながらの世界になっているかもしれないと思う。


2003年03月23日(日) 自動返信メール

昨日、イラク攻撃反対を訴える某サイトから、「ホワイトハウスに抗議のメールを送ろう」ということで掲載されていたホワイトハウスのメールアドレス宛に、拙い英文で抗議のメールを送ったのだが、自動返信メールが届いていた。以下掲載。

Thank you for emailing President Bush. Your ideas and comments are very
important to him.

For up-to-date information about the President and his policies, please check
the White House web site at www.whitehouse.gov.

Unfortunately, because of the large volume of email received, the President
cannot personally respond to each message. However, the White House staff
considers and reports citizen ideas and concerns.

Again, thank you for your email. Your interest in the work of President Bush
and his administration is appreciated.

Sincerely,
The White House Office of E-Correspondence
_________________________

Please Note:

If the subject of your email was a request for a Presidential greeting, please
note that all greeting requests must be submitted in writing to the following
address:

The White House
Attn: Greetings Office
Room 39
Washington, D.C. 20502-0039

Please review the guidelines carefully before mailing your request to the White
House. The guidelines are accessible at:

http://www.whitehouse.gov/greeting/


2003年03月22日(土) 武器商人?

 現在、午前3時。テレビではバグダットの街が空襲を受けている映像が流れている。たくさんの花火が夜空に煌いている。としか、映像だけに目を奪われていたのでは読み取れないだろう。しかし、確実に、数百万人のふつうの市民が、煌く花火の下で震えているのだ。
 それなのに、そうした事実に一切触れず、アナウンサーが喋っているのは、攻撃している兵器の性能についての詳細な説明。「この攻撃で使われている爆弾は、誤差10メートル。きわめて正確です」とか、そんなのばっかり。
アナウンサーに言いたい。
アンタ武器商人の回し者なんじゃないの?
アンタが見せてるそのニュース映像、ひょっとして兵器の性能を自慢するためのPR映像なんじゃない?
 こんな、商品(・・・つまり兵器)性能検証大品評会のために、人の命が奪われて良い訳?

あまりに腹立たしくなってテレビを消した。


2003年03月21日(金) 大本営発表

 あいも変わらず休日出勤・・・というか、そもそもゆうべは帰宅してない。

 パンとカップラーメンで朝飯・昼飯を済ませ、途中ソファーでの昼寝をはさみながら、13時間程・・・(泣)
もともと、たまっている自分の仕事をするための出勤の筈が、係での共同作業に駆り出され、自分の仕事はほとんど片付かず・・・。

 夜12時近くに帰宅。ニュースでイラク情勢を見るが、どこもかしこも軍部や報道官のプロパガンダや、戦況報告ばかり。偏り過ぎてんじゃねーの?

 「バグダッドに向かってミサイルが100発発射されました」「米英軍の戦車がイラク領内に入り、進撃中です」「イラク南部の都市が制圧されました」「南部の都市ではイラク軍から投降者が出ました」こんなのばっかり。殴る側の視点に立った情報ばかりで、殴られる側の視点に立った情報がロクに放送されてない。

 映像そもののも、砂漠を進んでいく戦車の姿や、夜空に煌く花火と轟音といったものばかり。1時間以上テレビをつけっ放しにしていて、ようやく1分か2分、空襲にあって病院に運び込まれた人の映像とインタビューが聞けた。
 ホラ見ろ!一般市民が巻き添えを食ってるじゃないか!と思った。この偏り方は何なの?意図的に戦争の「表」だけを見せてるんじゃないの?まるで大本営発表じゃないか!と思った。



2003年03月19日(水) 引用

ネットで俺の考えに近い投降があったので、引用させていただきます。


Subject: あるイラク人の声
Date: 2003/03/19 21:03 東京 (標準時)
From: Wang Renna

記録映画のインタビューでイラク人の一人が
「広島・長崎を忘れたのか?」
と インタビュアーに問いかけた。
その言葉が胸に突き刺さった。

思えば状況はよく似ている。
経済封鎖
まるでABCD包囲網を連想させる。
平和に対して協力姿勢を見せているのに繰り出す無理難題。
まるで「ハルノート」みたいだ。

純軍事施設の真珠湾の代価を 広島長崎の何の罪もない女,老人,子供の血で払わせる。
これを正義とヤンキーがいう。
欺瞞に満ちた東京裁判で一方的に「事後法」で裁く…
それでも ヤンキーは「自由と民主主義」だと言う。
民主主義の享受体である民衆は空襲で焼き払われているのに…

願わくばイラクが日本の二の前にならないことを

===========
引用だけでは申し訳ないので、注釈を・・・。

東京大空襲の際、下町を空襲したB29は、爆撃目標を決めると、まず「パンの耳の部分」で火の手の四角形をつくり、その地域に住んでいる人々の逃げ道を完全に塞いでから、「パンの白い部分」に爆弾を落としたという・・・。


2003年03月18日(火) 開戦決定・・・。

本当はもっと時間と手間をかけて、「思うこと」の方に文章を書きたいんだけど、忙しくて暇がないので、今ここで簡単に「思うこと」を書きます。

とうとうあの国は戦争に踏み切るのね。
攻撃される側の痛みに全く気づかないまま。
今まで挫折を知らずにきた、余りにも恵まれすぎてきた国、
本当、鈍い国だなと思う。

そしてその体質(行動パターン)は太平洋戦争の時と少しも変わっちゃいない。

太平洋戦争(多分それ以前も)の時からのあの国の行動パターンは明快だ。

1、自分の思い通りにならない国がある。
2、その国を仮想敵国に指定する。いわゆる、「ならず者国家」ね。後の戦争を有利に進めるため、予め敵の戦力を剥いでおく。
3、無理難題を押し付ける。
4、開戦。

60年前の日本もこうして開戦に追い込まれたようなものである。
1、アジアでの植民地争奪戦の最後発組だったあの国は、満州に目をつけた。
満州は、日露戦争で日本が、ロシアと激しく勢力争いをして苦労してようやく勢力圏に組み入れたばかりであった。そこに「共同経営しよう」と話を持ちかけた。日本は、何の苦労もしないで「共同経営」をもちかけ、分け前だけをもらいにきたような、あまりにも虫のいい、かの国の要請を、当然蹴った。
2、かの国は日本を仮想敵国と指定した。排日移民法で、日本からの出稼ぎ移民を締め出した。日本は重量比で、かの国の6割の軍艦しか持ってはいけないという国際条約を作って、守らせた。(当時の日本は、泣く泣くこれを守った。)
3、かの国は、日本に対し、兵糧攻め(石油供給をストップ)にした挙句、(今ではかの国は石油輸入国であるが、当時は輸出国であった。)「今までに大陸で得た権益をすべて放棄しろ。それが嫌なら戦争だ!と脅した。
4、窮鼠猫を咬む思いで、日本は奇襲攻撃に踏み切った。

俺は、あんなにも生真面目に、大量破壊兵器の査察に応じ、ミサイル廃棄に応じ(射程150キロを超えるミサイルをすべて廃棄したら、ほとんど丸裸も同然・・・。)ているのに、結局は「フセインが国外に亡命しない限り戦争だ!」と、無理難題を叫ぶ姿に、60年前の日本を想起する。

         **************************

 俺の親父は戦前生まれなんだよね。幼いなりに戦争の記憶が残っているみたいで、ずっと昔、話を聞かされたことがある。唯一残っている記憶が「灯火管制」。夜、明かりが窓の外に漏れていると、飛行機に見つかって爆弾を落とされるからと、窓という窓に目張りをして、わずかな光さえも外に漏らさないようにしていたらしい。もし、集落の誰かがちょっと不注意で、外に光を漏らしていて、それが上空の飛行機に見つかっていたら、今頃俺は生まれていなかったかもしれない。
 今の爆弾は一度照準を合わせれば、昼でも夜でも勝手に飛んでいって目標を破壊するから、きっと、「しまった、光を漏らした!」なんて思う間もなく、そこにいる人達は死んでいくんだろうな・・・。


2003年03月09日(日) 聖地巡礼(2日目)(3月23日執筆)

朝起きて滑る準備をする。
ホテル一階の貸スキーカウンターで板、靴、ストックをを借りる。板はかなり傷だらけ、靴は留め金が一箇所だけの、初心者向きかつ、かなり古いタイプだ。まあしょうがない。
しかし、ウエアはもっと古いものが・・・。
ポケットに入れたはずの携帯が行方不明になってしまった、さんざん探した挙句、携帯ポケットに穴が開いていて、そこから綿入れの中に落ちてしまっていたことが判明。これで30分くらいロス。
何とか送迎バスに乗り、ロープウェイの前に到着。既に9時40分・・・。
帰りの時間が2時15分だから、最大でも4時間強しか滑れない。
リフト券<5時間券>を買い、ロープウェイ<山麓線>乗り場へ。
と、乗り場で今しがた買ったリフト券を取り出そうとして、ないことに気づいた。全部のポケットを探し、勿論ポケットの穴の中も探してみた、が、やはりない。ここでも30分ロス。
どうも、寝不足や仕事の疲れが蓄積していると、こういった些細なミスが多くなる傾向にある。貸しウエアというのも、どこにポケットがあるのか把握している自分のウエアと勝手が違う気がする。
あきらめて再度先程のリフト券売り場に行って、
「先程買った者なんですが、落としてしまったらしく、、、」と言ったら、
「あ、届いていますよ」
とのこと。どうやら買ってすぐに落としたらしい。しかも、親切な人が売り場に届けてくれたらしい。助かった。

さて、ロープウェイの整理券は10時半集合。まだ15分ほどある。近くの鈍足リフトに2回乗り、軽く足慣らし。乗ってる時間は6分くらいで、降りてくるのは1分余り。余りにも「滑走効率」が悪い。
さて、10時半ちょうどにロープウェイ整理券を片手に、改札をくぐるが、すぐに乗れるのかと思いきや、その後実際にロープウェイに乗るまでになお20分くらいかかった。降りたら既に11時。しかもここはまだ山の中腹。山頂の樹氷を見なければ蔵王に来た意味がないでしょ、と思い、その足でさっそく今度は、「山頂ロープウェイ」の乗り場に急ぐ。
案の定整理券。しかも、指定された時間は1時30分。今回、「山麓線」に乗ってから、実際にロープウェイを降りるまで30分かかっていることを考えると、山頂到達予想時刻は2時ちょうど。もう一人は「無理だ。俺はあきらめるよ。」

その彼(初級者)としばらく、彼の携帯で写メールを取り合ったりしながら、初級者コースをのんびりと滑る。12時半頃になって彼は、「俺は風呂に入るからここらへんで上がる」と言って、引き上げていった。

どのリフトも遅く、コースもなだらかなものが多いため、いまいち滑り足りない感じのまま、1時半近くなり、ロープウェイ<山頂線>の乗り場へと急ぐ。
先程より待ち時間が少なく、10分程で乗れた。1時50分山頂着。吹雪。
ロープウェイ乗り場に貼られていたポスターによれば、200年前からここに鎮座しているというお地蔵さんに、「ここまで導いてくれてありがとうございました」と感謝してから、ダッシュで滑り始める。風が強く、視界が効かず、樹氷を眺めている余裕がない。しかも、傷だらけのスキー板は、滑りがいまいちよくない。

途中、道を間違えた。最上級コース「横倉の壁38°」に出てしまった。俺の場合、こぶコースもそれなりに滑ることはできるが、初心者コースを回り道するよりも、時間がかかる。しかし、引き返すとなるともっと時間がかかる。
もういいや。滑ってしまえ、ということで、斜滑降でずり落ちるように滑ってきた。こぶがあまり深くなかったことが幸いした。

2時10分、なんとか下まで到達し、リフト券を返却し、ホテル裏手に到着。
大急ぎでスキー道具一式をカウンターに返し、かばんの中に荷物一式を放り込み、Tシャツ姿でホテルの玄関口に出た。おりしもちょうど2時15分。もう、ほかの参加者はあらかたバスに乗っていた。ぎりぎりセーフ。お地蔵さんのおかげかもしれない。

10分足らずで蔵王バスターミナルに到着。すぐに路線バスに乗り換え、山形駅へ。駅に到着すると、まだ帰りの新幹線まで50分程ある。蕎麦のうまい店を知っているという者が、食べに行かないかと誘ってきたので、総勢5人で、駅から徒歩5分のその店まで食べに行った。美味かった。ゲレンデでは昼飯を食べていなかったこともあり、2杯食べた。

その後、駅に戻って駅ビルで大急ぎでお土産を買い込んで列車に乗った。(4時7分)
先程の蕎麦2杯だけでは、まだ小腹がすいている感じ。車内販売で「くぢら餅」を買い食べる。米沢を過ぎて「米沢牛めし弁当」が入荷された。少し早目の夕飯を兼ねて、これも食べる。隣の座席の参加者に「結構食事贅沢ですね」と言われた。だって普段ロクなもの食べていないんだもん、こんな時くらい贅沢したっていいでしょう。「カネで時間を買ってる感じだね」とも。まさにその通り。

列車が福島を過ぎた時から眠ってしまい、大宮で少しザワザワしたので目覚めたものの、その後もウトウトしながら、3時間程で東京駅に着いた。



2003年03月08日(土) 聖地巡礼(1日目)

 前夜から泊まり。職場に・・・。
 ひょっとして行けないかも?と思っていたが、係長と班長は、係員である私達を残して午前中で仕事を切り上げていった。一人の係員は外回りに出ているし、もう一人の係員も3時に切り上げた。これなら何とかなるかも?しかしスキーの準備は何もしてきていない。まあいい、現地で一式借りればいいや。
 ということでこれから着の身着のままでスキー。本当なら今頃は滑ってる筈だったんだけど、1日でも滑れるだけありがたいと思わなくては。

 4時半東京発の「つばさ」に乗ってこれから5年ぶりに聖地巡礼。5年前にこの聖なる地を訪れた時、駅舎はピカピカだったが、今回は東口に歩行者用デッキが出来ていて、さらに立派になっていた。
さてバスに乗ろうと思って、すでに用意されているバスの乗車券を出そうとしたところ、ない。よくよく帰りの電車の切符を見てみると、「山形→東京」ではなく「蔵王温泉→東京」となっている! 改札に戻り、駅員に事情を話すと、回収された切符の中から「東京→蔵王温泉」と書かれたものを探し出して渡してくれた。これが、乗降客の多い東京だったらこうはいかなかったかもしれない。乗り換え時間が30分程あったことも幸いした。
 3月だけあって雪は関東でいうところの「大雪」の翌日程度といった状態。それが、盆地を抜け、山に差し掛かるにつれ、だんだんと雪深くなっていく。やがて、夜空の一角が煌々と輝き、黒々とした山がシルエットになっているのが見えた。きっとナイター照明だろう。下界を見ると、眩いばかりの聖都の夜景。
 午後8時40分、バスは「蔵王温泉バスターミナル」に着く。宿は?とツアーパンフレットを見ると、「送迎バスで10分」とある。宿に電話して、送迎をお願いする。俺一人きりなのに嫌な顔ひとつせずに迎えに来てくれた。有り難い。
 まず温泉風呂に入って体を洗って、浴衣に着替えてから、先着組が残しておいてくれた鍋を食べ、そのまま飲み会になだれ込み。11時にお開き。その後宿のテレビ等観て過ごし、1時半頃就寝。
 


2003年03月02日(日) 初スキー(2日目)

 二日目は菅平スキー場。規模が多くかなり広い。が、標高差があまりなく、「横に広い」感じ。結構人が多く、リフト待ちが10分くらいある。一時間程彼と歩調を合わせて初心者コースをのんびり滑って、次の一時間ほどは中・上級コースを滑るということを繰り返す。朝飯は御飯を4杯(宿の白飯は美味しかった)食べていたせいもあり、2時半くらいに肉まんとあんまん、スープという簡単なものを食べて済ます。彼の方は牛丼。相変わらずB級グルメである。
 3時にスキー場を上がって、4時にバスに乗り込む。帰りはサックリと高速で練馬まで、の予定が、上信越道事故渋滞の無線が入り、またしても下道。休憩はまたしても「おぎのや」。
 今のペースでは横浜に帰宅出来るのは11時くらいになるだろうから、夕飯を食べなくてはと思い、名物の釜飯を買う。「おぎのや」自体には過去何度となく立ち寄っているが、釜飯を買うのは始めてである。ほかにも車内で飲むためのお酒などを買っていたら、あっという間に出発時間になってしまった。
 車内で食べ、飲む。眠気が襲ってきて眠る。池袋でバスを降りる彼と別れ、バスは2箇所目の停車地である東京駅へ。東京駅で車内はガラガラになったので、座席を横に使って完全水平就寝体制に。そして終着地の横浜駅へ。
 横浜着は予想通り11時。しばらく電車が来なかったので、自宅に帰りついたのは11時45分くらいだった。そのまま寝た。


2003年03月01日(土) 初スキー(1日目)

 朝6時、現地到着。宿の入替え用大部屋に荷物を置き、着替える。3月にして、今シーズン初めての冬らしい空気に晒され、心地良い。眠いが心は戦闘モードに切り替わって、サクサク着替え、自分用の土産である、ペットボトル3本分の水(といっても水道水だが、「横浜の水浄水器バージョン」より美味い。)汲みも済ませる。
 朝飯を食べ、スキー板等を借り、(ツアーの割引クーポン券で、1日300円で借りられるので、今回は自分の板を持参しなかった。)8時半に宿の送迎バスで、今回のスキーツアーで割引リフト券のクーポン券対象となっている「峰の原スキー場」に向かった。
 スキー場の入口に掲げられているゲレンデマップを見て「あれ?」と思う。リフトが4基。コース数も少ない。うーん。狭い!飽きてしまいそう。しかしこの、何でも合従連衡の時代(注)によく今まで潰れずに残ってきた、と拍手を送ってあげたい。
 で、とにもかくにも送迎バスの来る4時まで滑る。途中、それまで初心者コースを滑っていたノンケ友I氏が、こぶコースにチャレンジしたところ、あえなく板を担いで完全撤退。
 帰って風呂に入り、夕飯を食べ、部屋に戻ったら、普段の寝不足と、今日の適度な疲れの為か、I氏と話をする間もなく、座ったまま寝てしまった。起きたら夜中の12時だった。コンタクトを外して寝直した。

(注)昨今の日本って、合従連衡がブームだと思いません?銀行を筆頭に企業然り、市町村(合併)然り。スキー場も、隣接してるスキー場同士が共通リフト券を発行して、スケールメリットを求めている時代。「ドラゴンドラ」で結ばれた「苗場+神楽みつまた田代」スキー場のように。


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