月のシズク
mamico



 「ジェーン・バーキンじゃあるまいし」

通常、ノートPCを持ち歩く生活をしているので、カバンというか、袋というか、
入れ物は、A4サイズがすっぽり入るものを使用している。ちなみに、現在
ヘヴィーローテーションで使っているのは、メトロポリタン美術館で買った
黒地のもので、"Metoropolitan Museum of Art"の文字がサンドカラーで
散らばっている。まぁ、ありていに云えば、よくあるお買い物袋ちっくなものだ。

中に仕切どころか、ポケットも何もない穴のような袋なので、財布やら、鍵やら、
本やら、デジカメやら、煙草やら、ライターやらを、ぽいぽいと投げ込んだ結果、
常にカオスティックな状態になっている。なので、何かを取り出そうとして、鞄
に手を突っ込むと最後、中をぐーるぐると引っ掻き回すので、混沌は更に深まる。

「ジェーン・バーキンじゃあるまいし」

鞄に手を突っ込み、まさぐりながらライターを捜す私を見て、
zippoを差し出しながらあきれ顔の男トモダチが云う。
エルメスがジェーン・バーキンをイメージして製作した高価なバーキンを、
ジェーンは、大胆に、奔放に、がっつんがっつん使っているのは有名な話だ。
きっとジェーンが鞄に入れている本は、どれも角が折れてしまっているだろう。

しかし、私にとって(バーキンではないけれど)これが問題だった。
鞄の底に沈んでいたPCのACアダプターを、むりに引っ張ったせいで、コードの中の
線が切れてしまったのだ。コンセントにつないでも、無情にも起動しない。

正直焦った。そして、ちょっとだけ笑い、さらに少しだけ安堵した。
5年分の大量のデータが(バックアップしておけ!)、仕事の資料が、論文が、
思い出の画像たちが、メイルが、私の過去が、このブラックボックスの中に
呑み込まれてしまったのだ。コードが原因だと気付く前だったので、しばらく
放心してしまった。更に云うなら、時間が完全に止まってしまった。

翌朝、すぐに製造元に連絡して、部品を送ってもらう取り次ぎを済ます。
新しいアダプターは、今週中には届くそうだ(現在は、ボルト数の合わない
いただき物のアダプタを使用している)。ココロの底からほっとしたと同時に、
あのときのささやかな安堵は、私を繋ぎ止める黒い箱からの解放、
だったのかもしれないと思っている。

2003年05月28日(水)



 「つねに、眠かった」

ここ最近、ずっと気になっているCMがある。
広末亮子ちゃんが出演している、LIFE CARDのCMだ。

岩井俊二監督を起用し、彼女の故郷である高知で撮影されたという。
CMは、「到着編」、「ドライブ編」、「故郷論編」、「桂浜編」の4本がある。
これが流れるたびに、軽い目眩のような不安感が、私の中に侵入してくる。

ストーリーは明確だ。
広末亮子が空港に到着し、出迎えてくれた友人といっしょに海沿いをドライブする。
懐かしい商店街や思い出の公園をめぐり、砂浜で友人とたわむれる。
嬉しい再会に、楽しいドライブ。彼女たちの会話にもそれは見て取れる。

なのにだ。このCMには、失ったものを取り戻せない哀しみが漂っている。
女の子たちがはしゃぐ姿も、笑い声も、薄曇りの海沿いの風景にも、湿度を持った
哀しみの要素が含まれている。それは、背後で流れる音楽のせいだとすぐに
気付いた。不安を誘い出すような和音と、半テンポ遅れるリズムの組み合わせ。

CMの最後に、車のハンドルを握る広末が、誰に云うでもなく、こう語る。
「なんだったんだろうね。忙しくてボケボケだったんだよ。つねに、眠かった」
彼女の声に感情はのっていない。あるのは、ある種の諦念だけだ。

車中の彼女たちの会話をよく聞くと、過去に、広末が友人たちに送った手紙の
話題が交わされる。「何も書いていなかった」「封筒だけで中身が空っぽだった」
などだ。つまり彼女は伝えたいメッセージを紙にしたためるという行為を放棄
し、コトバにできなかった何かを封筒に入れ、封をして、誰かに送ったのだ。

どこへも逃れられないのに、この現実世界(彼女の場合は芸能界)に留まって
いなければならない抑圧。眠りの世界に身をしずめたいのに、多忙がそれを阻止
する日常。彼女が送った何通もの「空の手紙」は、そんな現実から逃れたい、
声にできない叫びだったのだろう。誰かに伝えたくて、伝えられない叫び。

彼女の過去の苦しみを、あの不穏な音楽が代弁していたのかもしれない。

2003年05月26日(月)



 Still Life

写真には、不思議な力がある。
人の目にさらされる状態、たとえば展示場の壁にピンで貼られるだけで、
アルバムにしまい込まれていた時よりも、しずかで強い主張をし始める。
わたしの勝手な妄想かもしれないけれど。

夕方、明日(23日金曜)から開催される「かめ吉」写真展の設営があった。
10名の参加者が持ち寄った、大小さまざまな作品を、小さなカフェの壁に
展示した。テーマは「吉祥寺」。それぞれの視点で切り取られたデジカメ
画像を、それぞれのやり方で展示する。

一枚、二枚、三枚と、白い漆喰で塗られた壁に貼り付けてゆくたびに、
わたしは妙にそわそわした気持ちになる。静物であるはずのソレらが、
どうしても、なまめかしい視線を放ってくるように思えたのだ。
思えた? いや、違う。肌でそう知覚したのだ。

夜もふけてきた頃に、すべての作品展示が終わった。
ベランダで煙草をすいながら、ガラス越しに、整えられた室内を眺める。
やっと視線から逃れられた。正直、ほっとしたような気分をあじわう。

もしかしたら、写真を撮るものは、そこに、とらえようのない気配を感じたから、
はっとして、シャッターを切ってしまったのかもしれない。Still Life.
白い部屋には、静かなる生命の気配が、そこかしこに漂っていた。


2003年05月22日(木)



 ノクターン

ごんごんうなるエレベーターから降りて、非常灯のついたガラスのドアから
外へ出ると、夜露をたっぷり含んだしめっぽい空気が肌にまとわりついてきた。

今日は一日中、細かい雨がしくしくと降っていた。
夜になって雨は上がったのに、白っぽい靄が辺りを覆っていて、
さほど進まないうちに、服がしっとりと濡れてしまった。

私は、立派な欅並木が両手を伸ばし「とうりゃんせ」する長い腕のはるか下を、
ぼんやりとした白い靄の中を、夜がすっかり音を吸い込んでしまった世界を
ゆっくりと通過して、うちへ帰る。守衛さんが、頷くようにして挨拶してくれた。

うちに帰ってすぐに、バスタブにお湯をはった。
お湯がたまるまで、ベランダに出て煙草をすう。

寝室からは、マリア・ジョン・ピリスが弾く、ショパンの夜想曲全集が
大きめの音で流れている。こんな夜は、いつだってピアノが聴きたくなる。
ひとの声でも、幾重にも重なったシンフォニーでもなく、いつの間にか
心に染み入ってくるピアノの音が、聴きたくなる。

お風呂には、ピリスのピアノを聴きながら入った。
浴室のドアを少しだけ開けて、寝室から流れる音を招き入れるようにしたのだ。
左手、低音部の和声的な伴奏の上に、右手のロマンティックな旋律が歌いのり
哀しいような、淋しいような、せつない気持ちにさせられる。

2枚組、全21曲のノクターンを、何度も何度もくり返し聴いた。
取り立てて何があったわけでもないのに、心だけが小波立っている夜。
どんどん心が鎮まってゆくのを確認し、私はまた、少しだけ安心する。

2003年05月19日(月)



 5月の憂鬱

梅雨のはしり、なんてラジオから 聞きたくもないフレーズを聞かされ、
それだけで、カラダもアタマも重く感じて 青息吐息なここ数日。
身体の外枠は元気たまらん、と云うのに、内側では未確認飛行物体が蠢く。

ソコニ イルノハ ダレ デスカ?

もしや、これが五月病というものか。などと、軟弱な邪念を振り払い、
「せめて、低気圧だけは呼んでくれるな」と、薄曇りの空に懇願する。
(空は、相変わらず東京上空を灰色に覆い、そしらぬ顔を向ける)



2003年05月16日(金)



 ホれた、ハれた

色恋沙汰の類というものは、愛憎渦巻く一大イベントである。
そりゃまぁ、ハッピーエンドも、アンハッピーな結末もあるけれど、
ホれた、ハれた、というココロの動揺は、日常を色つきにしてくれる(と思う)。

しかし、互いの思惑が入れ違っていたり、度を越してしまうと、
セクハラ訴訟だの、ストーカ事件だの、心中穏やかではナイ。
発端は、つきつめると、甘やかな恋心だったハズなのに、だ。

なんて、ガラでもないことを書いているのは、さっき、女の子から
そのテの話を持ちかけられたからである。泪ながらに、切々と。
性格的なものか、アタシが男前すぎるのか、しばしば恋路の相談を受ける。
そして、乙女心と野郎心の両面を(意図せず)のぞき見ることができる。

で、恋のかけひきほど厄介で興味深いものはないと確信している。
だって、数値やデータはおろか、私たちにいちばん身近なコトバですら、
愛憎渦巻くココロに浮遊している気持ちの破片を、掴まえることはできない。
何とか苦労して言葉に置き換えてみたところで、それがその形状のまま
相手に伝わるとも限らない。まったく、これほどもどかしいことはない。

なので、あれこれと、相手の心中を想像するのである。
想像が想像を喚起し、新たな想像を生む。そう、これをイタチごっこ、
または、ひとり遊び、と云う。自分の身体から何かを出さないことには、
その想いは、なーんにも伝わらないのである。わかるかな?

恋に泪する乙女は、けなげで、いじらしい。
でもね、たとえ言葉が無意味だと思っても、行為することには意味があるんだよ。

2003年05月14日(水)



 プレゼント攻撃の逆襲

「ルミちゃん、これっ、これがいいのよ」

公園に面した喫茶店のカウンター席で本を読んでいると、隣からおばちゃんの
威勢のよい声が飛んできた。これは厄介なこった、と荷物をわさわさと、移動
させ(膝の上で寝ていた猫は、その場に置き去りにした)彼女たちから離れた
席へ避難する。眼もくらむような、紫色のサマーセーターを着た、ルミちゃんと
呼ばれたおばさんは、そんな私を横目で確認する。

「これねぇ、ルミちゃんのために持ってきたの。いいでしょー、萩焼」
「いいわよ、マサヨちゃん。この間もらったのも、まだ使えるんだし」
ルミちゃんと呼ばれたおばさんは、シガレットケースから煙草を取り出す。

「それからねぇ、これ。このスポンジ。何でも落ちるから、ルミちゃん、使って」
マサヨおばちゃんは、次から次へと袋からルミちゃんへの贈り物を取り出す。
ルミちゃんは、ほんの申し訳程度にそれを手に取り、カウンターへ戻す。

そんなふたりのやり取りを、聞きながら(おばさんの声は無遠慮に耳に入ってくる)
私はルミちゃんとマサヨちゃんの関係をあれこれ想像する。無二の友なのか、
幼なじみなのか、単なるサークル仲間なのか、それぞれどんな家庭を持っているのか。

隣の黒椅子で寝ていた猫が、迷惑そうに片目を開き、椅子の上でぐんと伸びをして
ストンと降り、そのまま店の外へ消えていった。ルミちゃんは、猫の後ろ姿を横目
で追う。関心も無関心も払わない視線は、ふらふらと宙をさまよい、私の視線と
ぶち当たる。私はどきっ、として、慌てて視線をそらそうとした。

「アナタ、これ、いる?」
ルミちゃんは、煙草を挟んだ左手で、萩焼の茶碗を乱暴に掴み、私の方へ差し出す。
マサヨちゃんが、信じられない、という顔でルミちゃんを見ている。

「いえ、結構です」
私はきっと怯えた眼をしていただろう。ルミちゃんは、フッ、と口元を弛めて
わらった。彼女の吐き出した息には、マサヨちゃんへの嫌悪が混じっていた。
少なくとも、私にはそう感じられた。

それからすぐ、私はカウンターの上を片付けて、店を出た。
私は背中に、ルミちゃんの、関心も無関心も含まれていない視線を感じていた。
店の外は、湿気を含んだぬるい風が吹いていて、公園の緑ばかりがまぶしかった。


2003年05月13日(火)



 宵の風にほだされて

夜遅くまで仕事をしていると、日が長くなったのに驚く。
おまけに今日は梅雨明けのように蒸し暑く、午後からは台風一過のような
青空がのぞいた。吹き抜ける風もなまあたたく、志気もしぼむけだるさだ。

暑さにバテた猫のように伸びていると、隣の部屋のすがっちが入ってくる。
「あー」とか「うーん」とか騒音を立てながら、安眠妨害もいいところだ(寝るなっ)

「ねぇねぇまみちゃん、ビール、のみたくねぇ?」
すがっちは隣の椅子にどっしりと腰掛け、旨そうに舌なめずりまでする。
シゴトが残ってるから、とか、今日は外へ出たくないから、とか、言い訳を重ねた
はずなのに、なぜか女の子たちまで引き連れて、井の頭通り沿いの「いせや」へ。

100年前も、そしておそらくは100年後も、その不変性を疑う余地もない
「いせや」の店内は、その昔、旅館か何かだった。通された二階の部屋からは、
燻された木の張り出しが風情ただよう形相だ。おまけに、軒先にはちょうちんが
風にゆれている。暮れなずむ空を見上げながら、焼き鳥を喰い、冷やしトマトを
つつき、枝豆をつまみながらビールをあおる。いい気分だ。

「だぁーっ! いいなー、うまいなー。いやー、気持ちいいよねーっ」
隣ではすがっちが満面の笑みを浮かべて、喉を鳴らしながらジョッキを空けてゆく。
アタシの台詞をすべて言い尽くすなよ、と、ココロの中でおもう。

木枠のガラス戸を、音を立てながら全開にして、風を部屋へ招き入れる。
街にあかりが灯り出す頃、空はうすいむらさき色に染まり、時間がぐらりと前後に
揺れる。過去にも、未来にも属せないような、曖昧な紫雲色のエアポケット。

「気ン持ちいいよねー」を連呼するすがっちを横目に見ながら、
ああ、宵の風にほだされるのも悪くないな、とジョッキを持ち上げた。


2003年05月07日(水)



 5月の空にはためくもの

先月の今頃は、あちこちから、桜のピンク色が見えていた。
東京の郊外に、こんなにも桜の木が植わっていたことに素直に驚いた。
つい先週までは、街宣カーの騒音が方々から立ち上がり、空にこだましていた。
今は、鯉のぼりがはためいている。大きなものから、小さなものまで。

4階のベランダから街を見渡すと、時間と季節の移ろいが
手に取るようにわかる。私はいつも、その正しさに驚く。

春先から初夏にかけて、思いの外、風が強くふきすさぶ。
眼下の小学校に掲げられた大きな吹き流しは、ぐんぐん風の中を泳いでいる。

「屋根よーりたーかぁーい、鯉のーぼーり、大きーいまごいーは、おとおーさーん」
の歌詞の「まごい」が「真鯉」だと気付いたのは、かなり大人になってからである。
真鯉とは、緋鯉に対して、黒色の普通の鯉のことだという。
たしかに、竿の父鯉は、黒く、ひときわ大きい。
続く緋鯉の母、オレンジ鯉の姉、緑鯉の弟。

私は勝手に鯉の家族を想像して、牧歌的な五月の午後をたのしむ。
東京の屋根屋根にはためく鯉たちを鑑賞するのは、なかなかの幸福である。

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■業務連絡
・すみません。体調不良で更新が途絶えておりました。
 みなさまも、風邪にはお気をつけください。
・トップページに設置していたヤプーズさんの写真の小窓、先方サイドの
 サーバ不調のため、GW明けまでお休みいたします。ご了承ください。

2003年05月01日(木)
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