月のシズク
mamico



 馨る部屋

寝室からバラの静謐な香りがする。
うすいベビー・ピンクのバラの匂い。
その豪奢な姿に気後れして、自分ではめったに選ばない花。薔薇。
それでも贈られると嬉しい花だということに、今更ながら気付いてしまった。

ふんだんに選ばれた、大きくて、重くて、ゴージャスな花束をいただいた。
白い花が2種類。数えたら10本近くあった。
赤いバラが3本。美しすぎるので、本物かしらと不安になり、花びらに触れてみた。
ひときわ芳しい匂いを放つ、ベビー・ピンクのバラが4本。陶磁器のような艶がある。
青い金魚がたくさん付いているような、露草色の背の高い花。私は名前を知らない。

ぜんぶを一度に活けられる大きな花瓶を持っていないので、色別に3つに分けた。
青い花を食卓に、白い花と赤いバラを組みあわせたブーケを洗面台に。
そして、暗闇でも香り立つベビー・ピンクのバラを寝室に。
花を活けると、部屋の中に色彩と生命がそっと宿ることに、いつも驚かされる。

数日後、茶色に変色した花は、きっと黒い箱の中に捨てられるだろう。
私は花を捨てるときの、あの刹那的な残酷さが嫌いではない。


会社を辞めた私は、雨の中、大きな花束を抱いて部屋へ帰ってきた。



2002年04月30日(火)



 沖縄八重山諸島の磁力

実は、週の初めから金曜の夜まで、沖縄の八重山諸島へ行っていた。
ゴールデンウィークの頃に梅雨入りすると聞いていたが、GW直前のこの週は、
観光客の姿もまばらで、驚くほどの晴天続き。天の神に感謝したくなる。

東京から那覇まで約2時間。小型機に乗り換えて、石垣まで更に1時間。
慶良間諸島、宮古諸島を越えたところに、八重山列島がやおら姿を現す。
石垣島、西表島、与那国島、そして日本最南端の島、波照間島。
私は石垣島を拠点として、西表島、竹富島、そして沖縄本島の4つの島を訪れた。

「島時間」という概念があるらしい。
最近はそれを「スロー・ライフ」の代名詞的コンセプトにして売り出してもいる。
どんどん高速化する都市生活の「ファースト・ライフ」の真逆を狙う、言葉のアヤ。

ふぅん、と思った。
へぇ、とも。

島での生活の大部分は、自然の摂理への柔軟な適応によって成り立っている。
雨が降り、雷が鳴り響くときは、動かずじっと天の恵みを享受する。
日が長く夜は明るいので、夜は遅くまで店を開け、昼までゆっくり休む。
花が咲き、鳥が鳴くので森をむやみに伐採しない。
島のひとたちは、自然と共存するために、自然を敬う。
私はそんな彼らの姿と行為に心を打たれた。

高速化、低速化。時間にギアなんてないのに、と思う。
都会人は時間に拮抗しようとしている。制御し操ろうと必死になっている。
わたしたちは生活の中で、感動し、感謝し、想像し、祈ることを忘れてしまう。
島で生きるということは、自然の中に魂を解放する、ということ。
人為的な時間軸を外し、太陽と月に敬意を払うということ。

わたしはもう一度それを思い出すために、
遠く八重山地方から発せられる磁力に従った。
たぶん、それだけのこと。

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■サイトの方に旅の模様を少しずつ紹介していきます。遊びに来てください。
■ゴールデンウィークなんですね。東京は寒い。風邪をひきそうです。
■えー、やっと、というか、ついに、というか、マンタに会いました。しかも3枚!
■しばらく大人しくしています。コレ、自分に言い聞かせてるだけですけど。



2002年04月28日(日)



 停電リセット

昨夜未明、プツッという小さな音とともに闇が幕を降ろした。
私は眠りの中でその音を聞き、がばりとベットから身を起こす。
完全な闇が---それは「完全な闇」としか表現できない---闇があった。

数十秒間、闇は部屋の中にじっとうずくまっていた。
そして、チッという小さな音とともに、部屋のあちこちに薄明かりがついた。
コンポの、ビデオデッキの、湯沸かし器の、電話の、デジタルな光が戻る。
すべてリがセットされ、そこには時間を示す数字が消滅していた。

そして朝。
私は途方に暮れる。
部屋中を見渡し、時間を探す。
かろうじて、携帯電話のバックライトが現在時刻を記す。
ふたたび、がばりとベットから身を起こす。


遅刻一歩手前




2002年04月19日(金)



 グロテスクさについて

お風呂上がり、もうじゅうぶん闇の刻。
バスタオルをターバンのように、あたまの上でぐるぐる巻にして、
喉が渇いたので、冷蔵庫からトマトを取り出して洗ったままかぶりつく。

裸足で、眼鏡をかけていて、台所の小さな灯りだけつけて、CDはタケミツトオルで。
部屋の空気は澱んでいて、白い壁に異様な形をした影が映る。
ある種のグロテスクさ、に思えた。


2002年04月18日(木)



 View from the Window

いちにち、大きな窓のある東側の部屋にいた。
外は相変わらずびゅーびゅーと風が吹き荒れていて、
上空に低く、おびただしい数の雲が流されていた。

白く厚ぼったい雲が、背後に控える青空をときどき垣間見せた。
この雲のさらに高い場所には、いつも青い空が控えているのか、と詩人のように思う。
夕方には、スポイトで赤紫の粒を一滴落としたような色に染まる。
そのすぐ後には、空全体が低く群青色がかったグレーに包まれる。
そして、どの瞬間にも、雲は速度を落とすことなく南から北へ流されていた。

ああ、この光景を知っている、と感じたは、街に灯りが灯る頃だった。
飛行機の頑丈な二重ガラスのあの小窓。そこから眺めた雲の形相。
夜には雲の切れ間から、下界の灯りがちらちらと見えた。
デ・ジャ・ヴュ(わたしはすでにそれを見ている)

あんまり雲が速いスピードで流れてゆくので、
私が空の上を流されているのかと錯覚した。
しかし、雲というものは変幻自在で羨ましい。
ありすぎるということはなく、条件が整うと、消えてなくなる。



2002年04月17日(水)



 「地球があんまり荒れる日には」

まったく、朝から夜までひどい風が吹きすさんでいた。
ごごーうごごーう、どどどっどどどっ、ずずずわっずずずわっ。
強風を描写するには、濁音がよく似合う。

風が強くて、おまけに空気がぬるいと、眼にも耳にも肌にも不穏さを感じる。
電線のヒステリックで禍々しい叫びや、近所の欅並木の波立つような葉の音が、
風にのってすぐ側まで届いてきて、何度もぞわぞわと肌が泡立った。

集中できないのだ。
混線した電話の受話器を、間違って耳に当ててしまった時みたいに。
外界の音が聞こえすぎる、というのも問題なのかもしれない。

「地球があんまり荒れる日には / 僕は火星に呼びかけたくなる」

と、『二十億光年の孤独』で谷川俊太郎さんは書いていたけれど、
まったく同意してしまう。おおい!そっちはどうだぁ、と叫びたい。
夜中のニュースで天気予報士さんが、「明日はもっと風が強くなるでしょう」
と平然顔で言っていた。オーマイガッ!

どうやら明日も地球は荒れ模様らしい。




2002年04月16日(火)



 「速くせず、できるだけさりげなく」

なんだか、完全にヤられてしまった。
誰に?ナニに?どんなふうに?

マーラーのシンフォニーの、音とリズムに
あろうことか、どっぷりと心酔してしまったのだ。

7月の本番のための練習が開始している。
私は何だかんだと理由を付けて、半ば辞退しようとさえ思っていた。
「一度くらい弾いてみるか」と、夕方、チェロをかついで電車に乗る。
記念受験、ならぬ、記念演奏、という実に軽いノリだった。
なのに、まんまと自分に掛けた罠に引っ掛かってしまった、ということです。

交響曲第7番は、プロオケでもあまり演奏されない超マイナー曲である。
5楽章=80分の大曲。譜面を製本したら、とんでもない厚さになった。
おまけに、めちゃくちゃ難しい。

初見の譜ヅラは、記号の羅列にしか見えず、たちまち硬直する。
弾けないところは「ちゃんちゃかちゃーん」だの「るるーる、るーる」と歌い
あとは、ただただマーラーの世界に浸る。ちゃぷちゃぷと、浸る。

譜面にはドイツ語やらイタリア語やらで、演奏指示が書かれている。
「速くせず、できるだけさりげなく」というドイツ語があった。
演奏家には「速く弾くな」と窘め、でも観客には「おおっ、はえっ」と思わせろ、
ってか?マーラーさん、なかなかそなたも悪やのう、とにやにやしてしまった。

しっかし、当時のマーラー氏はまさか死後何100年以上も経てから、
日本のアマチュアオーケストラが演奏すると思って作曲してなかろーに。
とーぜん、アタシもソレにヤられるとは思ってませんでした。
ええ、惚れたからにはのりますよ、次回。


2002年04月14日(日)



 未明の入浴

昨夜のこと。
いただいた白ワインが美味しくて、ぐびぐび飲んでいたら猛烈な睡魔に襲われる。
あらあらと千鳥足のまま、顔を洗って歯を磨いてパジャマに着替えてベットに潜りこむ。

だがしかし、肉体は眠りの闇を深々とのそき込んでいるのに、
意識は気泡が混ざっていない氷のように、透明に覚醒している。
カラダはぼんやりと眠いのに、意識がぜんぜん眠ろうとしないのだ。
これは困った。

眠気を誘うようなCDを流しても、ベッドサイドの本を眺めてみても、
わたしの意識はどんどん明瞭にその輪郭を露にする。
なので、眠ることを諦めてお風呂に入ることにした。
時、すでに午前3時を回っている。

酔いは脳裏に薄い膜のように貼り付いていたけれど、意識明晰この上なし。
眠りと格闘するのは、自分の影と戦っているようなものだ、と思う。
影は影の好きにすればよい。私はわたしで好きにするさ。と腹に決める。

グリーンティという名のついた巨大キャンドルを浴室に持ち込み、
超短編小説集 "Sudden Fiction" を何篇か立て続けに読んでみる。
現代アメリカ小説家たちの、ごく短い枚数で、込み入った内容のストーリーは、
「ドタン、バタッ」と展開し、脈絡は完全に無視され、突然終焉する。
いや、始まりも終りも、そんなものは最初から存在しないところに良さがある。

そうしてゆるゆると未明の入浴から出たら、時計は早朝4時半を指す。
と、突然眠りが素早く意識を包みこみ、濡れた髪のまま私はベットに気絶した。

メイルの着信音で目が覚める。
「仕事が山ほど届いています。大忙しです」
上司の文字にはたと首をもたげ、時計を確認すると午前10時。
ぼんやりと身体を起こし、ちと考える。
さて、これは誰のせい?

「とてもサラリーマンの生活じゃないわね」
と、話を聞いた友は苦笑する。私も苦笑する。
モチロン、私のせいなんかじゃない、と確信しながら。


2002年04月11日(木)



 孤独との付き合い方

ここで言う「孤独」とは、もちろん「孤独感」とは異質のものである。
最近、わたしはとても上手に孤独と付き合っている、と感じる。

友や恋人や家族といるとき、常に孤独を切望している。
なのに、突然ぽつんと孤独に立たされると、その淋しさに絶望する。
しかし孤独は慣れてくるものだ。ある時間をやり過ごせば、孤独でいることの
居心地よさに安堵する。定位置に戻る、というか、空っぽになる、というか。
注意深くなるし、肌感覚が研ぎ澄まされてくる。なにせ、ひとり、ですもの。

さっき、ベランダに出て煙草を吸った。
狂気じみた陽気な気候が正常に戻ったので、フリースを羽織って夜の中へ出る。
片手にコーヒーの入ったマグを、もう片手に水を入れた透明な瓶ビールを持って。
曇っているので明るい夜だ。春の夜の空気は冷たい。桜も散って冷静な夜の気配。

煙草の先の赤い光を、水を入れた透明なビンに落とす。
ぱっと散る赤い色は、夏の日の線香花火を思い出させる。

蛍族。母は愛煙家の父や兄をそう呼んだ。
実家は(東京の私の部屋も)禁煙なので、煙草を吸う者は戸外へ迫害される。
雪の日。父は黒い傘をさして、庭先で煙草を吸っていた。
そんな孤独な父の姿を自分に重ねてしまう。彼もまた、孤独な人間だった。

線香花火も蛍も煙草の火も、刹那的な光でしかない。
個人の人生もまた、壮大な時間的歴史体系から眺めると一瞬の光なのだろう。
孤独と、闇に浮かぶ光は、孤独感を喚起するという点で、やはり似ている気がする。



2002年04月10日(水)



 「妹」ができた、らしい

研究室の鍵を開けようとがさごそしていたら、「やっぱ、似てますね」
と背後から不意打ちを喰らう。声の主は、近くの部屋の男の子。
へっ?いきなり同意を求められても、と意味がわからずぽかんとする私。

「いや、マミコさんの部屋に入った女の子、似てますよねー、マミコさんと。」
はぁ?(語尾上がり気味)である。ふたりでドアの前に突っ立って、しばし沈黙。
はぁ(語尾下がり気味)と応えるわたし。ん、似てるかなぁ。

この4月から、うちの部屋にふたり、新顔が入った。
帰国っぽくチャキチャキ喋るショートヘアの女の子と、
独特の間を持って話すフェミニンな印象の女の子だ。
で、そのうちのどっちか? というと、こともあろうに後者だという。
(ふたりの分析は、あくまで私個人が私自身から切り離してしております。念のため)

どこが似てんの? と聞くと、「背丈恰好から、話すときの表情や声のトーン。
ま、全体的な造作が似てる、ってことなんスけど。」む、よーわからん。
とはいえ、私は今まで誰かに似ている、と言われたことがないのでちょっと興味深い。
だって自分で素の表情を見る、ってできないことでしょ?
鏡に映る私は、どこかポーズを作っているはずだから。

帰りぎわ、同じ男の子に「あれっ、妹はまだ(部屋に)いるの?」と聞かれた。
すっかり私の「妹」として定位置ができたらしい。
なんだかくすぐったい気分だよ、まったく。


2002年04月09日(火)



 カルキの匂い

昼間、ごはんを食べに会社の外へ出たら、
むわっと湿気を含んだ空気がまとわりついてきた。
今日の東京は気温が高い。
それに、夏の匂いもする。

「なんか、夏、っぽくない?」と友に聞くのと
「あ、プールの匂い」と友がつぶやくのと同時だった。

どうやら、会社が入っている建物の1階にある、外車の中古車ディーラーさんが
車を洗うときに殺菌剤として何か薬品を使ったようだ。石灰を含む何かを。
ぐんと気温があがったので、昨夜の雨も車の洗浄水も一気に蒸し上げられたのか。

それが、夏のプールサイドの匂いに似ているのが可笑しかった。
目の前を首都高が走る殺伐とした都会の中で、カルキ臭さが不釣り合いだった。
場違いなのに、懐かしい。そんな愉快な春の午後でした。





2002年04月08日(月)



 覚え書き(4/7/2002)

■金曜の夜、とある女性と食事をした(飲んでいたのは私だけ)。
 感情や思考をちゃんと言葉に置き換えられる同年代の女性は、
 話していて気持ちがいい。ちなみにこの方、すっごい美人さん(ふふふ)。
 女友達と旅行することは少ないのだが、ほとんど初対面の彼女と
 どこか旅に出たくなった。美術館や博物館、デパートの地下で試食合戦とか。
 きっと『テルマ&ルイーズ』みたいな感じかしら。
 じゃぁ、クライマックスは車でダイブ!?

■ここひとつきばかり、楽器を弾くことも演奏会へ出掛けることも止めてました。
 単に気分の問題なんですけど。でも、この土日は二連ちゃん、ですの。
 フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、モーツアルト、それにベートーベンさん。
 自分が弾くのはやたらヘヴィな作品が多かったので、おフランスの
 軽快なメロディが、べっとり貼り付いていた憑き物をすっきり洗い流してくれました。
 しかし、2日連続でラヴェルを聴いたけれど、好きな曲ほど評価は辛いわけで(苦笑)

■リニューアル後、初めて「休日の風景」をアップした。
 が、このお気軽エッセイの書き方を、冬眠中にすっかり忘れてしまった(汗)。
 ので、なんだか微妙な内容になってしまい、なんとも居心地がよろしくない。
 アンニュイな言葉より、クリティックな文章の方が得意だったのを思い出した。
 でもそれもなぁ・・・(悩)

■そろそろクローゼットの中身を衣替えしたいのだが、冬物のクリーニング代
 を考えるとアタマが痛い。セーターなど自分で洗えるものはよいとして、
 やはりコートと毛布は専門店にお任せしたい。一度、毛布を洗濯機に詰め込んで
 酷い体験をした。「丸洗いOK」のタグが付いていても、箱(洗濯機)との
 サイズが合わなければ意味がない。不気味な音とともに、破裂するかと思った。

■最近、きっとこの曖昧な春のせいで、何を読んでも、何を聴いても、
 とにかく泣けた。視覚や聴覚の方が勝手に感極まって、あっけなく涙腺決壊。
 製本したてのマーラーのぶ厚い譜面を手に、曲聴きをしていて、うるうると
 視界が歪んだときには「おぃ、感動する場面ちゃうやんけ」と冷静な私が突っ込む。
 そう、泣いてる場合じゃないんです、この大曲。
 冷や汗どばどば出すべきなんです。>はよ我に返れ、アホっ!



2002年04月07日(日)



 地下秘密結社的カフェ

会社帰り、ゆうに10時をすぎていたけど、
深夜のカフェで秘密の打ち合わせ。

さくっとした食感のベリー・タルト+お茶碗でいただくカフェオレが旨い。
地下の秘密結社組織さながら、ワガマチの若きクリエーターたちが集う場所。
今宵、みんなはどこへ帰るのだろう。と、席を立ったのは12時少し前だった。

旧式マック(デスクトップなのにオールインワン!)にモノクロの画像が流れ、
レジ前に並ぶ銀河鉄道999のフィギアは、お菓子のおまけだという。
(おお、メーテル!それにテツロウも!!)
まだ20代であろうフレッシュな店長が、彼のこだわりを嬉しそうに話す。
大切に育てられたカフェは、おだやかな居心地の良さがある。
空間も生き物なんだな、と感じる。流れる空気に性格が出る。

アングラの薄暗いイメージ漂うカフェとは真逆の、
夜のリビングルーム的空間。心の雨宿り。
そして入り口のドアには何故か、盆栽。



2002年04月04日(木)



 茶色のスリッポン

ショートカッツをするつもりで足早に入ったデパートを、
10分後、私は靴の入った袋を手に出てきてしまった。
近道が寄り道になってしまった。

最近の東京は暑い。4月が始まったばかりだというのに夏日だそうだ。
うすっぺらなピラピラのブラウス一枚で、チクチクと紫外線に突き刺されながら、
スゥエード地の黒いミュールがいかにも重たい。と、足元を見下ろした昼どき。

デパートの1Fの靴売り場には、オモチャのように色とりどりの瀟洒なヒールが並ぶ。
女性の足は美の追究のため、身体の中で最も虐めらる場所かもしれない。
全身のツボが足の裏に集中している、というのに。

ちょこんと鎮座していたレンガ色のスリッポンは、
ウシの一枚皮で造られており、滑り止めが踵までせり上がっている。
疲弊した夕方の足を突っ込むと、柔らかな皮がそっと足をくるむ。
おお、アタシのあんよがほっとしてるじゃないか。
・・・という理由で、そのままレジへ。チャリン。

もしかして、この早すぎる初夏の陽気に踊らされたか?



2002年04月03日(水)



 自己紹介

この時期は、一年でいちばん多く「自己紹介」をしたり、させられたりする。
未踏の地で、空間で、環境で、わたしは「私」について語らせられる。

なんていうか、困っちゃうんだよな(苦笑)
名前は○×△で、ジョブの担当は〜で、趣味は釣りで、抱負は
「とにかく頑張らせていただきますっ!」みたいな。そのたびに幾つもの記号を、
自分の手で自分にぺたぺた貼り付けているようで、なんだか居たたまれなくなる。
ヲイヲイ、ソノ記号ハ君ニ合致シテイルカイ?と突っ込みたくなる。

それでも「私」を知ってもらうためには、残酷であろうが理不尽であろうが、
わたしが「私」について語らなければいけない。これは一種の義務・責任。
これも違う、あれも違う、と自同律の不快を嘆いてばかりはいられない。
自分を効果的にプロデュースせよ、との指令が下る。イエスッ、サー!

サイトをリニューアルして「なぜ "About Me" がないのですか」という
メールをいただいた。もちろん忘れていたわけじゃない。
わたしは意図して「私への記号貼り」を放棄した。

なぜって?
それはたぶん、このサイバーな空間で、ここに流れ着いたみなさんに、
好き勝手に記号を貼り付けていただきたかったからです。
だって一意的なイメージってつまらないじゃないですか。

・・・とまぁ、そういうことです。
身勝手ですみません(ぺこり)。


2002年04月02日(火)



 カレンダーをめくる

昨夜、眠る前にベットにあがり、カレンダーをピリッと一枚めくった。
今年は、ハンス・シルべスターという写真家の「ギリシャの猫」という
シリーズのものを寝室の壁に掛けている。月めくりの暦。

外国の写真家のカレンダーなのに、月名は陰暦を使用している。
昨日までは「弥生」、今日から「卯月」と記されている。
地中海の白い石塀の上に、牛ネコと茶トラ猫が向き合っている写真。
うすっぺらい紙を一枚めくっただけなのに、部屋の雰囲気が微妙に変化する。

今朝カーテンを開けたときに、カレンダーが掛けられた壁に差し込む光を見て、
「ああ、昨日とは違うのだ」と感じた。あたたかな朝日の中で、そう感じた。
茶トラの子猫の、ぴんと立った両耳は、どんな音をとらえているのだろう。
季節の足音か、牛ネコの求愛か(笑)

ちなみに、去年はサン・テグジュペリが最期の飛行に出る前の横顔を撮した
大判の一枚カレンダーを貼っていた。しかし、コレ、月名も曜日もドイツ語で、
おまけに休日もドイツ仕様だったので、ぜんぜん役に立たなかった。
なので、私は毎日、飽きもせずサン・テグジュペリの横顔を眺めた。
飛行の時に着用するマスクの痕が、彼の口のまわりに丸く残っていた。

去年のわたしの親密な同居人よ。
そなたは過去になれり。

カレンダーをピリッとめくると、心の皮も一枚、ピリッと剥がれ落ちる。
これを、キモチの脱皮と呼んでしまっては、都合が良すぎるだろうか。



2002年04月01日(月)
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