月のシズク
mamico



 春、始動のとき

別に理由が欲しかったわけじゃないけれど
ちょっとした「きっかけ」が必要だった。

そのきっかけは、ある日突然、向こうからやってきた。
あまり良い知らせではなかったけれど、そのおかげで、
わたしは自分の足で大地を蹴ることができた。ソレッ、と。

そして、卯月、四月、始動のとき。
桜の花はもう散ってしまったけれど、たくさんの生命が蠢き出す季節。
クマも冬眠から醒める頃だし、ワレも眠りから脱出すべし。

・・・ということで、「わらう月」シガツイッピでリニューアル・オープンしました。
(「エンピツ」のみでご覧になってらっしゃる方、下の"Home"をクリック、クリック!)

コンセプトは 「呼吸できる空間」=ズボラな感性のみで喰う、寝る、遊ぶ、
考える、撮る、書く、オンナの戯言なり。ほなひとつ、よろしゅう。





2002年03月31日(日)



 祝杯

仲のよい男トモダチの転職が決まった。
ので、それを口実に、いつものメキシカン・バーに集合。
デジカメ屋さんから、音楽ギョウカイ人になっちまうのだ。

「いつかは音楽のマネジメントにかかわりたい」といつも言っていたので、
こんなに早く実現して、私も自分のことのように喜んでしまった。やったー!
いつも他人に親切で、誠実で穏和でひたむきな彼の周囲には自ずと人が集まる。
やはり強力なコネクションと人脈は大切なのだな、と感じた。
ナニはともあれ、おめでとう。

最近、特に思うのだけれど、他人から「そんなアホらしいこと」と呆れられても、
何かに特化したマニアックさというのは、とても価値のあることなのではないか。
ある種「その道の専門家」なんだから、社会的に見たらとても大切な存在だと思う。
ph.Dや博士号がなくても、「ドクター!」と呼びたくなる。リスペクト。

そして、私が最も羨むのは、その情熱。
収集に時間も金も厭わない、その姿勢。
あっぱれだ。心の底から羨ましく思う。

だってね、私にはそんな情熱の種が見つからないのだもの。
誰にでもあるものなのか、ある人にだけあるものなのか。
情熱の特質はみんなに内在していると、信じてはいるのだけれど。

-------------------
追記:
どーでもいいが、金八は何故にああも泣かすのだ。
凝りもせず毎回策略に引っ掛かるアタシって、単純明快この上なし。



2002年03月28日(木)



 雨の日

雨の日は意図せずとも、ものごとが少しずつズレてしまう。
ぬくぬくとしたベットから起き出せなかったり、バスが時刻通りに来なかったり、
歯科医の予約に遅れてしまったり、夕方になるまで食事を忘れていたり。

だからこそ、雨の日はいつもより少しだけ丁寧に生活することを心がける。
歯科医の帰り、じゃぶじゃぶの雨降りにもかかわらず、公園駅で下車する。
剥き出しの土の歩道はぬかるんでいて、池の桜も茶色に変色して散っている。
遊ぶ子供も不在で、遊具ばかりが濡れそぼっている。
でも、傘にあたる雨粒がパラパラと、いい音だ。

こんな日だからこそ、公園の側のいつものカフェに寄る。
店内に漂う雨の清潔な匂いと、活けられた花の美しさにほっとする。

外に遊びに出られない猫たちが、それぞれの場所で眠っている。
茶トラはカウンターの段ボールの中で、クロは禁煙席の赤い座面の椅子の上で、
牛ネコ(牛柄の巨体猫)はカウンターの隅の、コンポの本体の上で。
私はカウンターの端の、牛ネコの近くに陣取る。
もちろん、コイツをいぢって遊ぶために。
しかし、よく眠る子たちだ。

ラム入りのホットミルクを飲んで、軽いメンソールの煙草を吸う。
歯科医で麻酔を打たれたせいで、温度も味も曖昧だ。
ときどき、隣りの牛ネコを撫でて、鼻をすり寄せてみる。
薄い耳は体温が高いらしく、ぽっと温かい。肉球も柔らかだ。
ひたすら平穏に眠り続ける猫たちに囲まれて、理由もなく幸福を感じる。
数匹の猫と暮らしてみたい、ふとそう思った。

雨の日は、心の温度も低い。
そして、言葉もそこに、そっとしまわれる。



2002年03月27日(水)



 Incredible Wife

ここ数日、花冷えの寒さが続いている。
そして今日は久しぶりの雨だった。
ランチに向かう途中、アカデミー賞受賞式の模様の話題で盛り上がる。

まずは、アメリカ人のスピーチの巧さについて。
自分の言葉を話すこと。意見を主張すること、それにウィットに富んだオチ
を盛り込むこと。表情、声のトーン、身振り、そして堂々たる笑顔。
言葉で戦うこと、言葉でココロをひとつに結束させること、
言葉で表現すること、彼らはその技法に本当に優れている。
いや、文化の中でそのように訓練されてきた証だろう。

そしてスピーチの最後を締めくくる、家族愛を讃える美辞麗句。
「ボクの美しく、賢く、優しい妻、愛するキャサリン」とか
「ワタシの宝物、息子のジョニー、ディビット、娘のリリー、エミリ」など。
そこには「形容詞+固有名詞」の定型表現が必須なのである。
くっ付いたり離れたりという家族形態、血の繋がりの無秩序さも理由かもしれない。
彼らは言葉で愛を確認せずにはいられないのだろう。

で、誰だったか、とある俳優が感極まって言った台詞。
"I'm very proud of My beautiful and incredible wife!"
(美しく素晴らしい妻を誇りにおもいます!)

インクレディブルだって!?
感動するより先にずるっときた。
ま、そりゃ妻を褒め称えるのも自由の国だが。
私が妻だったら恥じ入って、身を隠す穴でも探しますけどね。



2002年03月26日(火)



 ぐらり

モニタを見つめていたら、ぐるぐると視界が回る。
をよっ、これは眩暈なのか、気分がすこぶるよろしくない。

メガシラを両指でぎゅっと押さえ、しばらく静止。
ハナで息を吸い、クチでソレを吐く。
繰り返すこと数回。

眼を開くと、モウマクに白い影が浮かぶ。
ぐきゅっと、両耳から音が消えてゆく。
嫌だよアンタ、メニエール氏、あっち逝け。

オンガクもないのに、リズミックを服用せよ、と。
はて、今のあたしにゃ鼓動のビートしか感じられぬぞよ。



2002年03月25日(月)



 庶民芸能?初歌舞伎座初体験

行って参りました。
銀座のど真ん中に建立せし、あの近くて遠い世界、歌舞伎座へ。

・・・魂、抜かれています。

演目は、
曹洞宗の本山、永平寺の道元の生きざまについて書き下ろした『道元の月』
舞踏六歌仙から、洒落を効かせた色恋話を軽快な踊りで表現した『文屋』
江戸時代の庶民の生活を垣間見れる人情股旅の芝居『一本刀土俵入り』
仁左衛門と玉三郎の妖艶な舞踏がヨダレものの『二人椀久』

この玉三郎、女性よりもずっと女っぽい。色っぽい。艶っぽい。
どうして小首をちょこんとかしげるだけで、あんなにフェロモンが
ばばーっと放出されるのか。男じゃなくとも、ころりとハートを掴まれますよ。
ふたりの息のぴったり合った舞いの美しさに、ただただ魅せられましたとさ。

それにしても、敷居の高さに怯えていた歌舞伎座でしたが、
比較的安価のチケットが手に入る3階席はとても長閑で、
お昼時にはみんな持参したお弁当を広げて好き勝手にやっている。
なーんだ、居心地いいじゃん。楽しいじゃん。歌に舞いに伎楽に。

なんだか魂が洗浄されたみたいにスッキリしています。
ぽっこり空いた時間と金の使い道、考え直してみるべし。




2002年03月24日(日)



 夜桜散歩

空港からの帰り道、リムジンバスの窓の外、
街灯とは違う、たおやかな白さが視界をよぎる。
目を凝らすと、満開に咲き誇る桜の花だった。
緑の少ない東京の街にも、こんなに桜の木があったのかと感心する。

部屋に戻ると、とたんにざわざわとした気持ちが私を急く。
荷物を置き、スニーカーに履き替えて、夜の冷気の中へ戻る。

私が住んでいる場所は、駅からも少し離れた住宅街だ。
その辺りに、役所や文化施設が建ち並ぶ一本の通りがある。
両脇を無骨な桜の木で固めた、500メートルの並木道路。
周囲の住人だけが、静かに桜を愛でるプライベート・スポット。

桜通りの出発点にあたる角を曲がる。
すると、ずいと向こうまで続く白の幽玄。
横断歩道を渡って真ん中で立ち止まると、桜のアーチを見通すことができる。
何度もそれを見たくて、私は用もないのに横断歩道に差し掛かるたびに渡った。

自然の力って不思議だ。
どうして通りの中央に向かって、枝を伸ばすのだろう。
などと、小学生のような疑問を浮かべながら、何度もアーチをくぐる。
心なしか、桜並木の下を走る車も、速度を落としているようだ。

桜並木の終結点から出発点に戻ってくるまで、散歩中の中年夫婦、
犬を連れたおじさん、コンビニに買い物にきた少年、バス停で
バスを待つ若い女性ふたり、にしか会わなかった。
深夜という時間のせいもあったのだろう。
例年通り、宴を催している人はいなかった。

もう少し暖かかくなったら、こっそりここでビールを飲もう。
よし、今度は忘れずに一缶、ポケットに忍ばせておこう。
はかなき桜よ、もうすこしだけ、生きておくれ。



2002年03月23日(土)



 ここではないどこかへ

会いたい人や
かえりたい場所や
知りたい真実があります

今ではないいつかではなく
いつかではない今だから
ここではないどこかへ行って来ます

でもね、ここが私の帰るべき場所だから

だから

帰ってくるために、いってきます



2002年03月19日(火)



 春の病

朝、目覚めたときから、夜、眠りに堕ちるその瞬間まで、
コンスタントに睡魔が私を襲ってくる。同じ密度で、同じ速度で。

足元からずりずりと、というよりは、後頭部に白い膜が張るかんじ。
身体が重だるく、自然と瞼が垂れ下がってくる。
食べるのも、歩くのも、考えるのも、しんどい。
私の中で眠りが、黴のように増殖してゆく。

毎年、桜が咲く頃に必ず訪れる、春の病。
抵抗力もなく、思考力も低下し、倦怠感に包まれる。
まだ、冬の眠りから目覚めたくないのだろうか。

夜の闇に、白い桜がぽんぽんと咲いておりました。
折り紙で折った小手鞠のような白い花が、風にゆらゆらと揺れる。
夜の桜がいちばん好きだ。
春の病を麻痺させる、妖艶な白い女よ。




2002年03月18日(月)



 覚え書き(3月17日)

■昨日のアンサンブル大会のこと。
 こぢんまりとした発表会だったけれど、さすがにラストの「プルチネルラ」は、
 素晴らしかった。ストラビンスキーの変拍子、聞くのは好きだな。ズチャッチャ♪
 この演奏はお金を取ってもいいくらい。私たちのチェロ・アンサンブルは、
 逆に私たちがお金を支払って聞いていただく、のが適当?ははは。


■昨夜メールを開くと、「音楽室が"スペースたんぽぽ"に大変身!オープン記念
 パーティを開催しますので、万一お暇でしたら是非どうぞ」というメールが。
 送り主は、友人の母上であり、私の大切なトモダチである女性から。別宅で
 ヴァイオリンの先生をなさっている方で、実はときどきふたりでデートしたりする。
 
 音楽室、廊下、広いトイレにも、画家でありお弟子さんでもある奥澤静代さん
 の油絵が飾られていた。毎年フランスに旅してデッサンや写真を撮ってくるという。
 絵筆は使わず、すべてナイフで描くという彼女の絵は、どれも印象的な陰を持つ。
 色彩は鮮やかなのに、心象風景にも似た落ち着きを感じる。
 トイレに飾られた、アイボリーの建物に惚れました。
 いつか是非、うちの子にしたいです。


■「こんにちはー」と玄関のドアを開くと、かわいい紳士が私の手を引いて
 お部屋(音楽室)まで案内してくれた。名前はショウくん。2歳の男の子。
 お客様のひとりのお子さんで、なんだか熱烈になついてくれた。
 椅子をぽんぽん叩いて「ん、ん(ここどーぞ)」と座らせてくれたり、
 しきりにビールのグラスを持ち上げて「あいっ」と手渡してくれたり。
 なんだか可愛いボーイフレンドができたみたいで、ふたりでにやにやする。
 「まぁみちゃん」と呼ばれて、頬を赤らめる私って(いや、これはビールのせい)
 本当に子供が苦手と言えるのだろうか。だってさ、子供がにっとわらう顔って
 幸福の天使がぱっとはじけるみたいなんだもん。か、かわいい。(ぽっ)


■「ねぇ、ちょっとお願いがあるんだけれど」と教授から電話がかかってきた。
 彼女のお願い=指令、ということで、問答無用で撮影に行って参りました。
 え、何のって? 実は半年前からPSIKOという雑誌にとある連載を組んでいて
 何やらそれがヒートアップしてるらしいのです。新宿紀伊国屋本店には、
 バックナンバーもばばーんと平積みで、仰々しく宣伝コーナーが設置されたとか。
 「ちょっとその様子、撮影して(画像)送ってよ」と。
 フロア店長の監視のもと、パシパシと撮影。レジ正面の新刊号も撮影。
 ちなみに、その連載特集とは?「白い影」であり「Smap」なのでした(笑)。


■そういや昨日の打ち上げの帰り、鞄に大きな茶封筒が突き刺さっていた。
 開くとマーラーの7番の譜面。うっそ。イヤだって言ったじゃん。マジ、やるんすか?
 うーむ、「すみだトリフォニィ」のゴージャスなステージは乗ってみたいし。
 ということで、どうやら次回のハモンの本番、参加するみたい(まだ渋っている)。
 80分にも及ぶ特大シンフォニー、2002年7月6日開催! 乞うご期待!?


 

2002年03月17日(日)



 「四月物語」に封じ込められていた、私たち

驚いてしまった、ほんとうに。
4月になると毎年繰り返された風景。
本館に続く桜並木とサークルの勧誘、体育館での入学式。
ステージ右側に配置されたオーケストラ・ピットから眺めた、新入生の怠惰そうな顔。

「これは大学紹介ビデオか?」とすっかり勘違いしそうになったところで、
居心地悪そうな表情の松たか子が、画面半分に映し出される。
カメラがぐるりと回り、私たちが校歌を演奏する光景が映る。
ヴァイオリンのひらりん、ヨウコちゃん、ヨシダくん。指揮者のアサヲカ。
そして多分、カメラが回りきらなかった右手にチェロを弾く私や玲子姫がいたはずだ。

なんと、あのとき入っていたカメラは、大学側のものではなく
岩井俊二監督「四月物語」の映画制作用のものだったのだ。
5年前のあの事実を、今になってやっと知った。
あまりにもよく知りすぎている光景なのに、
不意を突かれて、驚いてしまった。

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物語は、桜の季節、北海道を旅立ち東京で一人暮らしを始めた卯月(松たか子)
の生活を、みずみずしいタッチで描いている。ただ、それだけの話。
なのに、気恥ずかしさや懐かしさ、ちょっとした切なさを感じる。
桜がはらはら散り出すころの生暖かい空気とか、4月のざわざわした構内とか。
何もかもが新鮮で、毎日が未知との出合いで、驚きの連続だった日々。

この映画のキーワードのひとつは「武蔵野」。
好きだった高校の先輩(田辺誠一)が武蔵野大学(架空名)に通っているというので、
一年後、同じ大学に入学する卯月。先輩のバイト先は武蔵野書店という名の本屋。
そして卯月も武蔵野の地に住み始める。

「武蔵野」は、東京の世田谷あたりから八王子あたりまでの、多摩川沿いに広がる
エリアをさしている。映画でも国立や府中付近の道路、中野近辺のアーケード
が登場する。高層ビルが林立する東京の都心部とは違った、静かで文教的で、
どこか土臭さを感じる場所ばかりである。時間の流れがゆったりしている。
岩井俊二監督は、その風景をノスタルジックな光で包んで映し出す。

スクリーンの中に、かつて自分が在った場所と時間を差し出されて戸惑った。
映画という作品の中に、あの過去の断片が封じ込められていた。
でも、卯月が憧れて熱望した武蔵野の地に、そう、今も私は住んでいる。



2002年03月16日(土)



 深夜のアイロン掛け

明日の本番、アンサンブルばかりなので、ほとんど発表会のノリ。
チェロ四重奏に出ますの。衣装、どーしましょうかね、とチャット。

男性はスーツに色シャツにしたいらしい。
「オレ、イエロー」
「じゃ僕は、ピンクで」
「わたし、ブルーにしようかなっ」
もひとりの女の子もすかさず声をあげる。それはいいが、残る色ってナニイロ?
「・・・えーっと、あとはグリーンあたりでしょうか?」

はい、それにします、あたくし。
と、打ち合わせはものの数分で終了。
「春だし、パステル系ですねー」と嬉しそうに笑うチーム・メイト。
演奏する曲は季節感とは無関係。無言歌、ガボット、ララバイ、それにマーチ!

金曜の夜、浮かれ騒ぎの明るい街を抜け、深夜の帰宅。
昼間、ランチに出て半分本気で、脱走、いや逃亡しようかと思った。
殺人的スケジュール。そんなもんにコロサレたかないわよ。

部屋に戻り、寝室のクローゼットをがばっと開く。
あった、白地にライムグリーンのストライプが入った、パリパリシャツ。
・・・え、シナシナじゃん、これ。シワシワともいう。がっくし。

1年ぶり、いや2年ぶりくらいに、埃が膜を張ったアイロンを出す。
製造年月日不明の糊付けスプレー缶をシャコシャコ振って、シュッシュッと吹き付ける。
高熱で水分が蒸気にシュワっと変身。

初夏の草原を思わせる、波打つ海原を三角の舳先が切り裂いてゆく。
荒れ狂う水面はどんどん穏やかに静められてゆく。
右袖、右前衣、左袖、左前衣、背衣、裏襟、前襟、最後に両の袖口。
できたっ、パリパリが自慢の春色シャツ。

ピンク、イエロー、ブルーにグリーン。
ん?ゴレンジャーにはひとり足らぬな。


2002年03月15日(金)



 黙祷の30秒

またしても撮影に向かうため、昼間の電車に乗る。
今日の東京地方は紛れもない春でして、薄いスプリング・コートすら暑い。
日差しも紫外線が目に見えるくらい強く、おそらく花粉も跳びまくっていただろう。

うとうとと揺られていたら、途中の駅で女子高生が乗り込んできた。
高い声のトーンと、ハツラツとした発声。思わず眼を開いた。
なんと、剣道の防具とピンクの竹刀袋をしょった、制服姿のふたりの美少女。
鼻のアタマに汗をのせ、ストレートのサラサラ髪をかきあげる。
おお、眩いばかりの若さ光線なり。

そういえば、私も中学生の頃、剣道部に所属していた。
なぜ剣道かって? なんででしょ(笑)
んーと、武道をしてみたかったのです。

元々チーム・スポーツが苦手だったということも理由かもしれない。
剣道は個人戦と団体戦があったけれど、試合はいつも一対一。
「心・技・体」のモットーの通り、私はめきめきと鍛え上げられていった。
夏の道場はサウナ状態で、紫袴の腰当てに塩がふいていたり(外は灼熱だ)、
真冬の最中には、素足がしもやけのように赤く腫れ上がった(外は雪だ)。
そして、何よりも、むんとした汗の臭いが強烈だった(笑)

日本の伝統的なスポーツは、「沈黙」の中で行われる。
試合でも、バスケットや野球のようにチアーリーディング的な応援は御法度だった。
しんと静まりかえった道場に、選手の鋭い叫びのような「気合い」の声と、
技が決まったときに湧き起こる、会場からの短い拍手、のみ。
静寂と沈黙の中で、選手の魂が輪郭をあわらにする。

武具で固められた私は、自身の輪郭を体感し、自身の存在を確認できた。
刑務所の柵の内側から外界をのぞくように、面の中から世界を見た。
私は自分の魂と、相手の魂が対峙するのをいつも感じた。
たぶん、試合の結果はこの時、既に決まっているのだろう。
自分からも、相手に対しても、眼をそらさない。
じっと沈黙の中で魂のみを見つめる。

練習の後には全員が武具を外し、30秒か1分ほどの黙祷をささげる。
禅を組み「もくとう」という声と同時に、薄目をつぶる。
私はこの短い時間が好きだった。

眼をつぶると、心の眼が開く。
わたしは、何もかもがそこに見えることを知った。
まだ14、15歳の頃の話だ。

天真爛漫な女子高生を見ていたら、記憶がタイムスリップしてしまった。
そうだ、実家にある木刀、護身用に持ってこようかしら。
あ、でも、機内持ち込みでひっかかるね、おそらく。
うりゃっ



2002年03月14日(木)



 平日の顔

水曜は、Laboの日+歯科医の日。
午後、ちょっと抜け出してふたつ先の駅にある、腕のいい歯科医に行く。
院長先生は30代後半の茶髪ガングロ兄さん。白衣がキラリとよく似合う。
診察券の裏を見たら、去年の7月から週に一度の割合で通っているようだ。
歯科医通いはすっかり生活の一部になってしまった。

暖かくなってからは、井の頭公園駅で下車している。
たっぷり一駅分の広さを保持する公園を、ぶらぶらと横切る。
平日でも池にはボートが出ていて(ここでボートに乗ったカップルは別れる、
という噂がまことしやかに話されているが、私は乗ったことはない。
それでも恋人とは別れることもある。ま、そういうものでしょう)
池にせり出した桜の蕾がぷっくり膨らんでいた。もうすぐ開花かしら。

気持ちがよかったので、公園のそばのカフェに寄る。
窓辺の喫煙席には、平日の顔ぶれ。年齢層が高い。
私の隣りでは、パイプをくゆらすモバイルおやじが小説を執筆中。
そんなにフォントを大きくしたら、内容丸見えじゃん。
「西南大学の事務所に勤務する奈津子を、須崎はかなり気に入っている」
もしかしてこれはエロ小説の流れなのか、と横目で読んでみる。

いつも眠ってばかりいる牛猫(牛柄の模様をした巨大猫)が、テーブルに乗って
私のカップをのぞき込む。私もいっしょになってのぞき込む。なんかアルかい?

ああ、春の空気がここに停滞している。
平日の怠惰な午後、タバコの煙がその事実をしかと証明する。


2002年03月13日(水)



 カットモデル

吉祥寺にはshimaやらモッズ・ヘアやら、相当数の美容院がひしめき合っている。
ちょっとした美容院激戦区かな(わたしは電車にのって下北沢まで行きますが)。

そういう理由もあって、遅い時間帯の電車で帰ってくると井の頭線の構内には、
美容師の卵さんたちが眼を光らせてエスカレータを下りてくる客を選別している。
彼(女)たちは、仕事が終わってから、こうしてカット・モデルを探すのだ。
カラーのテスト、カットのテスト、パーマのテスト、スタイリングのテスト。

いくつものステップをクリアしないと、お金をもらって
お客さんの髪を触ることはできない。
どこにでもあるシビアな世界。

で、このわたし。彼(女)たちに声をかけられる回数はままある。
今日は青いコートを着た、けっこうチャーミングな女の子だった。
私の前にたくさんの人たちに断られたのだろう。
ちょっと疲れた顔をしていた。

でも、わたしも「ごめんなさい」を言ってお断りする。
こういうときに、ぐらりと刹那的な情に流されてはいけない。
私は、扱いが丁寧で手慣れている人、信頼している人にしか
髪を触れられたくない。雑な扱いをされると、哀しくなってしまう。
「飛べないの雛鳥」のことをふと思い出して苦笑する。
もちろんオレンジ髪もご勘弁願いたい。

夜道を歩きながら思う。
もしかして、声をかけられる頻度が高いのは、このボサボサ髪のせなのか。
友は「天然無造作ヘア」と言ってくれる。裏を返せば、ボサボサってことだよな。
やはり寝癖を利用してスタイリングしようとする姿勢が間違っているのか。

せめて彼女たちが、苦労してでもカッコイイ美容師さんになれるよう、祈ろうか。



2002年03月12日(火)



 男トモダチとの距離

昨日の午後のこと。

DVDプレーヤーやらパソコンやらテレビやらデジカメやら、
たくさん電化製品が見たくなって(というか欲しくなって)
街の大型電器屋さんへ行くことにした。
機械に詳しい男ともだちをひとり誘って。

4月下旬並と言われる好天のもと、トコトコとふたり並んで歩く。
「あのさ、そのコートとジーンズ、合わない気がする。なんかほかにないの?」
私はベージュのスプリング・コートに、色褪せたジーンズ、スニーカ姿だった。
「それに、なんか、髪、ボサボサしてるよ」とも言われる。
一応、ヘア・クリームを塗って簡単にスタイリングしてきたつもりだ。
はいはい、すみませんねー、と私は赤いサングラスの奥から彼を少しにらむ。

確かに奴はいつ会ってもちゃんとしている。
センスのよろしい服を着て、髪はいつもふわりと品良く整っている。
無精髭を生やしっぱなしのこともないし、爪だって短く切り揃えられている。
そして、わたしにいつもありがたい助言をくれる。

こんな男ともだちとの距離は、なかなか居心地が良い。
家族のようになれなれしすぎず、恋人のように手厚くかまってくることもない。
思ったことを、感じたことを、その事実を、何ひとつ歪曲せずに言ってくれる。
本当に必要なときは手伝ってくれるし、放っておいて欲しいときにはその通りにする。
適度な節度。常温に保たれた図書館にも似ている。

女ともだちも、もちろん大切だ。
でも、私は正直に言うならば、男ともだちといる方が断然楽ちんである。
議論好きで、妬みなしで、さっぱりしていて、次の約束をしなくていい。
男と女の差は、トモダチというカテゴリの中で最も鮮明に知ることができる。




2002年03月11日(月)



 眠り姫くん

会社に始終眠り続けている男性社員がいる。
部署が違うので話したことはないが、同じフロアなので視界に入る。
何しに来ているのだろう、と不思議になるくらい、よく眠る。
私は勝手に彼のことを「眠り姫くん」と呼んでいる。

私が感心してしまうのは、彼の眠る姿。
激しくガクガク揺れるわけじゃないし、イビキをかくわけでもない。
表情も姿勢も崩さず、心持ち頭部を垂れて、軽く目をつぶっている。
そうして、品のある横顔で、すやすやと静かに眠っているのだ。
何時間も、ときには朝から晩まで。

ほんとうに、何をしに会社へ来ているのだろう、と首をかしげたくなる。
夜中に突然眼をさまし、機械のようにバリバリ稼働し始めるのかもしれない。
あるいは、眠りながらマシンに念力を送って、すべてを解決しているのかもしれない。
私には到底理解できない、未知の能力があるのかもしれない。
すべては、彼の眠りの中に・・・・?

--------------------

なんてことを書きながら、実は私の脳裏にも、
もやもやした睡魔が張り付いている。

春が近いせいだろうか。最近、とかく眠りが近い。
一時は不眠症を患っていたというのに、なんだ、この落差は。
今日もチェロを弾きながら眠りそうになった(録音していたというのに!)。
鰯の内蔵を包丁でえぐり取りながら、瞼がゆっくり下りてきた(危ないじゃないか)。
本なんてまともに読めない。文章もまともに書けない(言い訳?)。

眠り姫くんのように、すやすやと今すぐ眠りたい。
最近のわたくし、常時「おやすみ3秒モード」でございます。



2002年03月09日(土)



 覚え書き(再び)

■花粉症ではないので、鼻水タレナガシも、お顔ヒリヒリも、目がカユカユも、
 なーんにも感じないのですが(重度花粉症の方に殴られそうですね)
 今朝の起きあがれないほどの頭痛と吐き気は何のせい?二日酔いではないぞよ。

■寝坊を決め込んでベットの中に長居する。
 研究室に立ち寄り雑用を済ませて「行き先案内表」のホワイト・ボードを見ると
 「おまえもな!」というアキの捨て台詞が(笑/詳細は昨日のニッキ参照のこと)
 しばらく含み笑いが止まらなくて、ずっとニヤニヤしてしまった。
 アキったら、男前なんだから(ハンサム・ガールだよな)

■来週の月曜に本社で「カクテル・パーティ」なるものを催すため、
 帰り際、その予行演習を行っている別室へ潜入。会社でお洒落なカクテル
 (それもアルコール濃度高め)を飲めるって素敵。ガンガン試飲してきた。
 社長みずからシェーカーを振る姿もいいもんだ。ところでここは何の会社だっ?

■今頃になって、例の9.11事件が気になってきた。
 遅まきながら、ネットでEdward Saidの事件直後に出された記事を読み直す。
 タイトルは「集団的熱狂("Collective Passion")」で、イスラムとアメリカ
 の構図を冷静に見つめている。興味深し。眠れる巨人、アメリカよ、目覚めよ。
 (この件については、いつか改めて書き起こします)

■春靴が欲しい。色めのきれいなドライビング・シューズかスリッポン。
 本屋に平積みになっている女性雑誌をぱらぱらめくるも、情報量の多さに
 くらくらして敢えなく退散。欲しいもの探しにかける情熱量は少ないらしい。

■今月、ついに歌舞伎を観に行くことが決まった。嬉しい。
 いろいろご配慮いただいたみどりさんと母上様に感謝。楽しみにしています。

■来週のアンサンブルの本番、逃げてもいいですか?(苦笑)
 今週、最後の練習なのだが、毎回ずごーーくイヤな汗かいています。
 というか、極度のあがり症のワタシ、考えただけで心臓が暴走しています。
 何に祈ればいいのかわからないけれど、神様、どうか冷静さをください。




2002年03月07日(木)



 いってらっしゃいの呪文

昨夜、ネパールに1年間留学する友の送別会に顔を出した。

すごーくがんばりやさんで、いつもコリコリと研究に励んでいて
ときどき、見ていてこっちが辛くなるほど頑張りすぎるきらいがあった。
普段はそっけないけど、情に厚くて涙もろい、とってもかわいい女の子です。

わたしと彼女は少し似ているらしい。
何人かの人にそう指摘されたけれど、私は彼女ほどの根性はない。
ぜんぜんない。ので、同種に分類されてしまっては彼女に申し訳ない。
でも、ほんのたまに夜中のPC室でふたりっきりになると、ちょっと感じていた。
あ、波動が同じだ、と。沈黙した空間の中で。

自分の送別会なのに、いろんな人にお酒を注ぎまわって、
あははと高らかに笑いながら、しっかり毒舌ぶりを発揮する。
そんな彼女を見ていると、すこし苦しくなる。
もっとラクにしていいのにな、と。

結局、大勢の人が最後まで飲んで、喰って、喋った。
帰りの駅の改札で、ちっちゃく華奢な彼女にぎゅぎゅっとハグをして、
「●~△★>□」と耳元で囁いてみた。涙顔がぐにゃっと笑顔になった。
それ、その顔です。

アキ、生き急ぐなよ
がんばらずに頑張れ
気を付けていってらっしゃい



2002年03月06日(水)



 日常からの逃亡癖

かなり唐突に、そして頻繁に、私の脱線癖が顔を出す。
両足で立っているこの場所から、不意に降りたくなるのだ。
ひょい、と。

午後、ふたたび天王洲へ撮影に行った。
先月の撮影分に追加のイラストが必要になったのだ。
いつもはオフィスに幽閉されている時間帯に、マフラーも手袋もせずに外へ出る。
日差しはすっかり春めいていて、今のところ花粉症とは無縁の私にしてみれば、
なんとも気分がよかった。昼間の電車は空いているし、どこか遠足列車のようだ。

遠足列車。
子供の時に乗ったそれは、非日常そのものだった。
たいくつな学校から、生活から、ぐんぐん離れた場所へ連れて行ってくれる。
窓から流れる風景、友達のはしゃぐ声、やわらかな空気。高揚感と刹那。

大人になってからは、遠足列車のような温度の電車に乗り合わせると、すこしだけ
せつない気持ちになる。もう戻れない地点に来てしまったことに、すこし哀しくなる。
それでも、うららかな午後の電車は、あの時の非日常性にどことなく似ていた。

浜松町からモノレールに乗り換え、ふわっと揺られ宙に出る。
このまま羽田空港まで行ってしまいたかった。
轟音をとどろかせ離陸してゆく巨大な鳥たちを見たくなった。

でも大人になってしまった私は、次の駅で降りて、ぐんと伸びたビルへ向かう。
ぎゅっとひねり潰した逃亡癖を、エスカレータの下にあるゴミ箱へぽいと捨てる。
そこで、私の細胞がわたしに話しかける。アナタはいつか、やってしまうね。

ひょい、と。



2002年03月04日(月)



 ターン

不器用だな、と思う。
おもわず自分で苦笑してしまう。
ほんと、扱いにくい。すべてわたしの一部のはずなのに。>ヲイ工場長!

とりあえず、という言葉がこの場合に適切かどうかわからないが、
とりあえず、泳いだ。真昼のプールで、ばしゃばしゃと、泳いだ。

何度もターンをくり返し、手で水を掻き、足で水を蹴る。
何度もターンをくり返すと、どんどん腕がだるくなる。
足も、水を蹴っているのか、泡立てているのかわからなくなる。
呼吸はどんどん乱れて、不注意にも何度か水を飲んでしまった。

肉体を酷使したなら、少しは思考が停止するかと思ったが、ぜんっぜんダメ。
意識はずっとトレース作業を継続している。たぶん、眠っているときも。

こうなったら、とカルキくさい水を吐き出しながら、思う。
こうなったら、腹もアタマも括って、とことんトレースしてやろうじゃないか。
まったく不便な身体だ。思考し、言語化するまでは私をムチ打つ。
迷走したなら、行き止まりを見るまで走り続ける。
最後まで見届けなければ納得できないタチらしい。

忘れろだって?
冗談じゃない
アンタのアタマこそ確かかい?




2002年03月02日(土)



 耳の中の記憶

テレビを流していたら(ここ数日、自分を落ち着かせるために
テレビをつけているのです。テレビ嫌いなのに信じられない!)
たけしさんの番組にイングリット・フジ子・ヘミングさんが出ていた。

私はわりに彼女のピアノが好きで、ときどき聴いたりする。
少女時代と、30代のドイツ留学中に、片耳ずつ聴力を失ったピアニスト。
現在は左耳の聴力が、約4割ほど回復したらしい。それでもわずかな聴力だ。

それだからだろうか。
彼女のピアノのタッチは重量感があり、残響はごく短めだ(に聴こえる)。
上半身で弾くというよりは、頭蓋から足先までを音にのせる弾き方をする。
リストのラ・カンパネラは、既にフジ子の曲として作曲者の手から離れている。
そのように聴こえてくるのだ。

耳の中の閉じられた空間で、先にイメージが奏でられているせいかもしれない。
いや、ほんとのところ、そんなこと全然わからないのだけれど。

さて、私は彼女のピアノよりも、実は絵の方が好きだ。
ごく柔らかなエンピツでささっとデッサンし、色のある場所にだけ色をのせる。
「色のある場所」というのは、たとえばテーブルの上の赤い花だったり、
少女の青いワンピースだったり、オレンジのマドラス・グラスだったり。

視覚的にぱっと鮮やかさを感じた場所にだけ、生命を彩る。
一枚の絵の中に一箇所だけのこともあるし、ほぼ全体が塗られるときもある。
フジ子の描く絵には、生きている値打ちが込められているようではっとする。
そして、色彩の持つ美しさを、素直にきれいだと感じてしまう。

いつかわたしもそんな言葉を描いてみたいと思う。



2002年03月01日(金)
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