月のシズク
mamico



 そろいの片方

ふと、いつもの癖で右耳に触れて、その感触に凍ってしまった。
ない

ない
ない
ない

試しに左耳を触ると、ある。
ちゃんとある。

机をはさんで向かいに座り、中居正広論を熱弁している先生の声がアタマの
後ろで遠のいた。もう一度、右耳をつまみ、タートルネックの襟元をさぐり、
指で髪を梳いてみる。あああ、どこで落としたんだ、お気に入りのピアス!

私はピアスをよくなくす。
それも決まって右側のばかりだ。
最近はひっかけるタイプのものは、紛失防止をかねて敬遠するようにしている。
でも、今日付けていたのは裏にちゃんとキャッチが付いているものだった。

不覚だ。ぜんぜん気付かなかった。不覚だよ。
と半べそかいてみるが、ひょっこり出てくるわけもなく必死にあきらめよう
とした。これでまた片方だけのピアスコレクションが増えてしまう、と
部屋の鍵を開けようとした瞬間、廊下の蛍光灯に照らされて光るものが!!!

あっ、あっっっったぁぁぁぁぁ!!!!!!!
拾ったとき指先がふるえましたさ。
つまり、朝からしっかり落としていたのね。ああ、アホだわ。

しかし、なくしたものが出てくる可能性はいつも低い。
きっと落とされたこの子が、しっかり私を待っててくれたんだね(涙)
うん、大切にします。



2001年10月31日(水)



 「消去してもよろしいでしょうか?」

ときどき過去がじゃまになる。
想い出や記憶と呼ばれるものが突然、向こう側からひょうひょうと飛来してきて、
抵抗する間もなく私は過去のある時点に立たされる。もちろん肉体が時空を越え
て、という四次元的な意味ではなく、精神だけがその場所に連行される。
なかば暴力的に、私はもう一度、私が体験してきたはずの過去を目撃させられる
(使役)

鳥瞰図のように過去を眺めながら、私は思う。
ここで繰り広げられている私の過去はどこにしまわれて、
保存されていたのだろう、と。そして私の存在がこの世界から消滅したとき、
この過去はどうなるのだろう、と。

むかし、ドラマや漫画でやっていた。
歯医者にあるようなリクライニングの椅子に横たわり、頭にパーマネントを
かけるときのカプセルみたいものをかぶせられ、「あなたのその過去をそっくり
消して、人生をリセットしてあげましょう」と白衣を着たドクターが言う。
そして、必要のない過去が個人の中から抜き取られる。
その人の生きた証が消去される。

ときどき過去はじゃまになるけれど、それを消したいとは思わない。
過去を持たない人というのは、白日の下で影を持てない者のようにも思える。
だから過去をどこかで喪失した人は、必死に自分の影を探そうとする。
彼らは、存在と無のどちらの領域にも属せない 孤独なエイリアン、
というのは少し言い過ぎだろうか。



2001年10月30日(火)



 行楽シーズンなのですね

来月の中旬に、岐阜の病院で勤務している親友と高山へ小旅行することになった。
お互い突発的に意気投合しちゃったので、直前に迫った宿探しはいささか
苦労した。

まずネットに露出している宿はほぼ全滅。
今更ながらネット時代の威力を痛感してしまいました。
それでは、ということで紙媒体(つまり雑誌)を買ってきて、片っ端から
電話を入れる。案の定、電話口に出るのは「いんたーねっと?
それはいったいなんでっしゃろ」という年代の方々ばかり。
そしてそういう宿ほど空きがある。あら、裏をかいてみるのもいいじゃない。

11月も中旬になると、高山は紅葉を終えているらしい。
でも、五平餅にみたらしだんご、あとはお蕎麦に飛騨牛が待っている!
久しぶりに友と再会できるのが、実はいちばん嬉しいんだけどね。





2001年10月28日(日)



 その横顔

自分でもびっくりするくらい、完全に心を奪われていた。
五月の風が水面をそよぐような、やわらかで優雅なほほえみをたたえた横顔。
なんという優しい目元、唇の両はじが軽くあがって、いっそう豊かな表情を
作っている。なんてこった、曲が耳に入ってこないじゃないか。

そもそも私は男性の顔に好みはない。
世間一般的に評価される美男子の類は判別できても、個人的にはなんとも
おもわない。それよりもむしろ重要なのは表情。表情が豊かな人は、男女
問わずとても好ましく感じる。その表情が変化する場は、ものを語っている
ときが多いような気がする。

誰かと相対しているときに、人の表情はおもしろいほどくるくる変わる。
だから遠いステージ上で、曲が始まった瞬間に表情がまろやかに変化する
人を見て、まさに意表を突かれてしまったのだ。

その男性は、最初の曲が始まって、最後の曲が終わるまでずっと豊かな
ほほえみをたたえていた。どれだけ激しい指や腕の動きをしていても、
表情はまるでおだやかなのだ。正直、こんな演奏者は始めてで、まったく
あっけにとられて見つめていた。気が付いたら私は、演奏会の間中(別に熱の
こもったわけでもない)ぼんやりとした視線を彼に投げかけていた。

曲が終わり、全員が起立して正面を向くと、どおってことのない顔つきの
男性だった。そして驚いたことに、さきほどまでの優雅なほほえみの残像すら
残っていなかった。むしろ冷ややかで、無表情なのっぺりとした顔つきだった。
ああ、人の顔って、見る方向とわずかな表情によってこうも違うものなのね。
と、内心、すこしがっかりして夜道を帰ってまいりました。




2001年10月27日(土)



 異常なし

午後、健康診断を受けた。
血圧はやや低めなものの、視力が少々下がったくらいで他は去年と変化なし。
身長も今のところちぢんでないし、体重の増減もほとんどない。
でも、確実に体力は低下してる。それはしみじみ実感できるもん。

だって駅の階段の上り下りがしんどく感じる(心臓がドキドキする)。
信号がぴかちゃかと点滅し始めても、走ろうとする気持ちすら起こらない。
こうして肉体はどんどん老化していくのかしら。嫌だわ。
基礎体力を付けねば、だなぁ(ごにょごにょ)。




2001年10月26日(金)



 ちょっと嬉いこと

「エキストラをお願いします」のメールが届いていた。
以前、違う団体でトラで参加したときに知り合った方が、
私のことを憶えていてくれたらしい。

大学オケの中では、かなりレベルの高いところからだ。
もちろん、何度も本番に足を運んでは深く感動して帰ってきた。
会場はいつも満席で、立ち見が出るほど大盛況なわけがよく理解できる。
そんなオーケストラとご一緒できるなんて、本当に本当に嬉しい。

乗り番は、メイン抜きの前中(「イーゴリ公」とリストの「レ・プレリュード」)
のみだけど、すごく楽しみ。メインのショス5は客席で聴くことにしよう。
あ、でも満席で立ち見かな。この秋は音楽活動強化月間にいたしましょ♪



2001年10月23日(火)



 ひたひた

金曜からチェロ合宿に行ってまいりました。
これは、現役大学生からOB/OGまで、雄志のチェリストが集まり
2泊3日の合宿をするという企画です。
今年も大泉高原にある「ペンションふぁみりい」にお世話になりました。

恒例になりつつあるクレンゲルの「賛歌」他、さまざまなアンサンブルを
楽しんできました。森の中の音楽ホールで、チェロの音を重ねて響かせてゆく
たびに、ますますチェロが好きになります。なんていうか、あの場ではきちんと
チェロと向き合って音楽を奏でられる、というか。それまで、気まぐれに、
適当に、なかば自分勝手に弾いていた気持ちをリセットできるのです。
初心に戻れるっていうのかしら。

すっかり調子づいた私は、夕方東京に戻ってきて、夜から上野での練習にも参加。
睡眠不足と疲労で歩くのもままならなかったのに、指揮棒が振り下ろされると
ちゃんと弾いちゃうもんですね。いい具合でアドレナリンが身体中を駆けめぐっ
ていて、気持ちよくブラームスと向き合えました。
ひたひたに音楽漬けになっているみたい。

合宿でご一緒できたみなさん、どうもありがとう。
みんなで音楽を創れたことに心から感謝します。
また来年、ね



2001年10月21日(日)



 死の手紙

母から電話があって、クリスマス休暇に兄のところへ行くのを取りやめたと、
とがっかりした声で言われた。ジャマイカへ行くには、NYかマイアミで乗り換え
が必要だからだ。「ほら、例の細菌のこともあるし」と彼女はきっぱりと言った。
アメリカ本土が危険地帯として認識されている。

炭疽菌の入った手紙は、人命に直接的な危害を及ぼすという意味において、
ウィルスメールよりずっと悪質である。ネット上をはいずり回るウィルスは、
ネットワークを介してデータを破壊する。つい最近まで、世界を繋ぐコンピュータ
を逆手に利用した新規ウィルスがばんばん出回っていた。
重要なデータを消されるのは、もちろんショッキングだ。
メモリに保存されていたメールや電子データが消滅することは、一時的な
意識不明といえるかもしれない。それでも、作成した人間の側にその記憶が
残っている限り、不完全ながらも再現することは可能である。

しかし今回の炭疽入りの手紙は、CPU自体が破壊されるのだ。
つまり、人間の存在を消すための手紙。
それに、送信元と受信者がダイレクトに関係を結ぶメールと違い、
手紙は何人もの人の手を介する。
人の手が多ければ多いほど、死の影が降りかかる可能性も高い。

目に見えない恐怖に、アメリカ全土が、そして世界が怖れている。



2001年10月19日(金)



 イメージされるもの

お香を焚くのは休日の朝が多い。
今夜は例外的に、夜になってムスク系のものに火をつけた。
雨が止んで、空気が冷えて、部屋が静かすぎる、というのが理由だ。
砂色のパッケージには"jazz"という名前が書かれていた。

「名前を付ける」という行為や、「モノに付けられた名前」を読むのは愉しい。
名前というひとつの記号から、名前が持つイメージとの関係性を考えるのも
ゾクゾクする。お菓子の名前、動物の名前、色の名前、星の名前、街の名前、
音楽の名前。「指し示すもの」と「指し示されるもの」がぴったり合わさると、
心から嬉しくなる。

たとえば、数あるお香の中で「放課後の音楽室」という名前のものがあるとしよう。
小さな三角錐のインセンスはくすんだオレンジ色で、抑えめな柑橘系と
木屑のような香りが調合されている。その匂いを嗅ぐと、音楽室の窓から見えた
夕焼けや下校のチャイムの音、がらんとした校舎の気配。
夕方特有のある種のけだるさと、どことなく投げやりな懐かしさ。
そんな感情までが一気に押し寄せてくる。

名前とは、イメージを呼び起こす記号にすぎない。
お香それ自体は夕焼けとは無関係なのに、「放課後の音楽室」という名前が
映像や記憶、音や匂いとなってひとつのイメージを提示する。
あるいは、無意識の中からするりと引き出す。

雨の止んだ夜、音のないジャズ、そしてインセンス
名前は複数の感覚を、ひとつのものとして上手に収納する

うん
こうしてみると、物事はわりにシンプルにできているのかもしれない




2001年10月18日(木)



 水曜なので映画をおひとつ

取り寄せた書籍がまだ届いていなかったし、雨が降っていたし、
食事の約束もなかったし、それに水曜だし!

などと、いくつかの言い訳を並べて、空き時間にふらりと
『ブリジットジョーンズの日記』を観て来た。実は先週末の新幹線の行き帰りで、
原作(亀井よし子訳)をほとんど読み切ってしまっていた。訳でも、ひっちゃか
めっちゃかの日本語を使っているのだから、いったいどんな映画に仕上がって
いると思いきや・・・

感想を言うと、まぁ、意外に楽しめた(かもしれない)。
体重を増やして役作りに励んだというレニー・ゼルウィガーの
「やっちゃったわよ」という困った笑い顔は少しキツかったが。あと、色男役の
ヒュー・グラントの甘いマスクは、すべてあのタレ目にあると発見。
堅物の弁護士を演じたコリン・ファースはキッチンに立つ姿がなかなか素敵だった。

以上、箇条書きのような役に立たない感想、おわり?

あ、でも最後にひとこと言わせてもらうと、エンディングのブリジットの
ヒョウ柄(シマウマ柄)パンツはなかなかチャーミングでした。
そのまま雪の中をジョギングシューズで走り回るのは、(もちろん)やりすぎ
だと思うが。しかし、どこがR15指定だったのだろう。

もしかしてエゲツナイ会話のやりとり? 
というか、ただのコメディ映画なのでは。




2001年10月17日(水)



 沈黙する電話

メールが世の中に浸透してきて、もはや日常となってしまった。
電話線を媒体とするコミュニケーションツールの「電話」本体が影をひそめ始めた。
モジュラジャックを引っこ抜き、パソコンに接続する。
プルルルという電話の呼び出し音の代わりに、軽快な新着メールの受信音が鳴る。

ここしばらく、この部屋の電話音を聴いていない。
携帯電話もバイブ機能しか使っていないので、いくつ和音が出ようとも、
その音を聴いたためしがない。そして、受話器に向かって喋ったのは、
もうどれくらい前のことになるのだろう。

私は声帯を震わせて声を出す代わりに、じゅっぽんの指で言葉を綴る。
当意即妙に受け答えするのが苦手なので、チャットはほとんどしない。
電話と違ってメールは一方通行の繰り返しだ。電話より長い時差を要する。
それに、感情を文字にすると自然と冷静になれる。書き言葉は「文字」
を仲介役にするので、喋り言葉にはない「距離感」が生まれる。

それにしても、この部屋に電話がある意味はあるのだろうか。
(For the Emergency Call?)
石のように口を閉ざしたこの電話、少しは心愉しい話でもしてくれないかしら。




2001年10月16日(火)



 上野のおやま

朝、朦朧としたまま、引きずるようにチェロを持って電車に乗った。
乗った後の記憶は不確かで、気が付いたら休日の上野に(ちゃんと)着いていた。

今日の練習会場は東京文化会館。
かなり年期が入ったホールのわりに、地下のリハーサル室や控え室は
改修されているらしく新しい。休日だけあっていくつか本番が入っているらしく、
揃いの白いジャケット姿の合唱団や、半ズボンでくつろぐドイツ人の演奏家一団
に出会ったりしてちょっとおもしろい。
舞台裏という空間が好きなのは、人々の素顔がみれるからだ。

昼食抜きで2時頃まで練習に参加し、酔ってもいないのに千鳥足で表に出る。
午後の日差しがあたたかく、上野はたくさんの人で賑わっていた。
動物園、美術館、博物館、西郷さん。
上野という場所は、誰かがゆるく間をかき混ぜているみたいだ。
そこに立つと、「いつ」という言葉が不安定になってしまう。

先週から上野の森美術館に「MoMAニューヨーク近代美術館名作展」が来ている。
ボナールの「朝食の部屋」が早く観たくてうずうずしているのだが、
身軽なときにじっくり観たいので帰ることにした。そういえば入り口にあった
「催し物案内」によると、今日はイングリット・フジ子・ヘミングの本番も入っ
ていた。聴力を失ったピアニストは、どんなふうに耳の中の記憶を音にするのだろう。

私が通り過ぎた上野のおやまは、やっぱりいつか、
どこかで見た上野のようでした。




2001年10月15日(月)



 長い一日

盛岡まで学会に行って来た。

浅い眠りをただよって5時に起床。
光の美しい朝焼けと白い月をみながら7時には東京駅着。
ふとチケットをみると、発車時刻を1時間早く思いこんでいて愕然とする旅のはじまり。

盛岡は山と緑がとても近くに感じられる街だった。
なんといっても空が広い! 透き通るような青い空をバカみたいに
ずっと見上げてしまった。久しぶりにどっぷりと文学的世界に浸ったので、
脳味噌がブランデーケーキのようになっている。
レセプションをパスして、温かい盛岡麺を食べてとんぼ帰り。

吉祥寺に帰ってきて夜空を見上げたけれど、空の面積が狭くて驚いてしまった。
睡眠不足でふらふらした足取りで自転車をこぎながら、
私はこの街の住人だとあらためて感じた夜でした。
泥のように眠ります。おやすみなさい。


2001年10月13日(土)



 バララッドという町

それはどうやら「街」ではなくて「町」なのだそうだ。
メルボルンから110キロ離れ、昔ゴールドラッシュで栄えたその町には、
日本人がひとりもいないそうな。「今にも羽根が生えて、何処かへバサバサと
飛んでいってしまいそうな名前の町(笑)」と本人がメールしてきた。

世界各国を旅しても中国人はどこにでもいる、という話はよく聞く。
彼らはとてもエネルギッシュで、生きるための遺伝子が脈々と受け継がれて
いるようだ。確かに、どんなに小さな田舎町にも、チャイニーズレストランは
必ずある。彼らはそこでちゃんと暮らしている。
滞在ではなく「暮らし」を根付かせるのがじょうずな人々だ。

でも日本人が寄り集まる町はそんなにない。
ひとりで行動するのが苦手な習性があるのに、外国では不思議とそっぽを
向き合う日本人にこれまで何人も出会った。

でも、彼は違うとおもう。
太陽のような大きな笑顔(その笑顔に私は何度も救われた)で、
人をどんどん受け入れてゆく。私の知っている彼は、嘘をつくのが下手で、
人を笑わせるのがとても上手な人だった。そんな友がバララッドという
小さな町で、いちばん最初の日本人になるらしい。

大きなバックパックをしょって、腕を広げ、
次々と町の人たちとハグを交わしている姿が眼にうかんだ。




2001年10月12日(金)



 ジェラードがたべたい

・・・と、仕事中、ずっと考えていた。

パソコンのキーをパカパカと叩きつつ、
頭の中にはシャリ感のあるジェラードの映像、
舌にのせたときのひんやりとした冷たさ、
そんなことばかり考えていました。

豪雨の翌日は、バカみたいに晴れ上がりますね。
こんな日は、芝生に寝そべってジェラードでしょう。
ああ、果たされぬ贅沢





2001年10月11日(木)



 大統領の声

いつものようにネットでニュースを読んでいたら、
「アフガン攻撃をめぐるブッシュ大統領の演説全文」が掲載されていた。
どれどれとクリックしてみたところ、私はその翻訳にいささか首をひねってしまった。
「我々は、世界の一致した意志によって支えられているのだ」

アメリカの歴代大統領は、往々にして雄弁家たちである。
演説はアメリカ建国以来、移民の寄せ集めとして構成された、
アメリカ人たちの意志を統一する最良の手段だった。換言するなら、
アメリカの大統領たるもの、演説で国民を煽動せねばその地位は危うくなる。
だからリンカーンもケネディもクリントンも(もちろんブッシュのお父さんも)
かなりの雄弁者であった。

そこで例の演説。
日本語訳はとても忠実に訳されていたが、肉声としての熱意に欠ける。
そんなとき、私は原文に立ち返る。
"We are supported by the collective will of the world."
「われわれは世界の集結した意志によって支えられている」とでも言えば
いいだろうか。つまり、バラバラの国家が共同体的、集団的意志統一を持って
いる、と表現している。いやはや、ブッシュさん、言ってくれますねーと苦笑
してしまった。これじゃぁ、世界各国もアメリカ国家だと言っているようなもんである。
ある意味、暴言。

アメリカという国は多人種国家であり、自由と個人主義的な性格を持つ。
日本のように古くからの文化や慣習が浸透していないので、意思統一を図るのが
もっとも難しい。それ故、アメリカはオリンピックにおいても戦争、政治におい
ても、まずは「コンセンサス」を取ろうと躍起になる。
意思統一の基に成り立つアメリカは、今度は世界に同様の意思統一を迫ってくる。
それはとても「アメリカ的」なやり方だ。

おまけに"In this conflict, there is no neutral ground."
(この戦争に中間的立場はない)と宣告している。
つまり、「アメリカの側に立たない者は、すべて敵とみなす」と脅迫しているのだ。
永世中立国的立場は許されないする。
報復に荷担するか、そうでないか、傍観者的立場はないという。

世界が「アメリカ」と「アメリカ以外の他者」とに分断されつつある。
アメリカ国民の怒りや恨みの深さは理解できるが、
アメリカよ、世界を「アメリカ的」にするのはやめてくれないかな。


2001年10月10日(水)



 くもりガラスに描かれた傘

雨が降っていたのでバスに乗って駅に向かう。
雨のせいでバスの中はぎゅうぎゅうに込み合っていた。
そして、人の熱気でガラスというガラスが白くくもっていた。

私は吊革につかまり、くぐもった窓の外を見ようとした。
細かい水蒸気がびっしり張り付いていて、ものの見事になんにも見えない。
おまけに雨のせいで自然渋滞が発生し、バスはなかなか前に進まない。

くもりガラスに指で傘の絵を描いた。
ほんの出来心で、さっさっと、誰にも気付かれないように、傘を描いた。
私の前に座っていた、母の膝に抱かれた男の子がふと上を見て
「あ、カサだ」と言った。
「なんでこんなところに傘があるの?誰が描いたの?」と母を質問責めにする。
「おともだちが描いたのでしょう」とその若い母は、隣りに立つ私に気遣って
小さな小さな声で答える。

「ボクも傘の絵を描きたい!ねぇ、なんで傘があるの?」と繰り返し母に聞く。
その隙を縫って、今度は飴玉の絵を描いた。セロファンに包まれたリボン型のあの絵だ。母から顔を背けた子供は、新しい絵に気付き「あ、アメだ!」と叫ぶ。
そしてしばらくの沈黙。

「あっ、アメだから雨なんだね」
と素敵な発見をしたように、嬉しそうな声をあげる。
「雨だから傘なんだ」と、今度は自分に言い聞かせるように男の子は言った。

私はこっそり笑って、次の停留所で降りた。
外はまだ雨が降っていて、私は黒い傘をさして歩き出した。




2001年10月08日(月)



 Friday Night

労働者にとって、金曜の夜はトクベツである。
ある種、言葉にできない開放感に浸れる。

深夜まで開いている本屋に好きなだけいられるし、
時計を気にしながらお酒を飲む必要もない。
とても素直に自分と向き合える。
だからトクベツ

ここしばらく、心がすさんでいて怖い夢ばかり見た。
日常的に夢を見るけれど、ひどい夢ばかりだと起きてからもぐったりしてしまう。
今朝の夢は、ベランダのガラスを引いて下を見下ろすと、ハンプティダンプティ
のようなヤクザ屋さんが数名、ぷかぷかと水面に浮いていた。
そして私の部屋には泥棒が入り、大切に溜めていた500円貯金を持って行かれた。
目覚めると、全身じっとりと汗をかいていて、息も荒かった。

でも、土曜の朝にみる夢は決まって心愉しいものが多い。
だからトクベツ、眠るのが楽しみ。
さて、そろそろベットに入りましょ。


2001年10月06日(土)



 『ほんとうのジャックリーヌ・ディュプレ』

夜、ぽっかりと時間が空いたのでトモダチが録画してくれたビデオを見た。
やけに大袈裟な邦題が付いていたので、ずっと観るのをためらっていた作品だった。

ジャクリーヌ・ディュプレはチェリストだった。
不治の病で42歳という若さでこの世を去ってしまったけれど、
彼女の弾く情熱的な演奏は今も人々の中に生き続けている。

女性だからだろうか、奔放な性格だったからだろうか、
それとも繊細すぎたからだろうか。彼女の弾くチェロの音は、
堅い理性を打ち破り、中に潜む魂をぐらぐらと激しく揺さぶる。
太刀打ちできない情熱を、彼女は正面からぶつけてくる。

私は言葉を使って世の中を説明したがる習性があるけれど、
彼女の音楽をこれっぽっちも表現できない。
どんな美辞麗句を並べたところで、本物の芸術の前で言葉は無力だ。
だから、作り物の映画を見終わったあと、ジャッキーの弾くフランクを聴いた。

その人の「本当の姿」なんて誰にもわからない。
きっと本人だってわからないのに、誰かが作り直すことなんてできない。
私たちは残されたもの---音楽や文章やイメージ---から想像するしかないのだ。



2001年10月04日(木)



 いくつかのライフ・スタイル

貧乏性なのか、心配性なのか、非安定志向なのか、
子供の頃から「ひとつのことに執着する」のが苦手だった。

不注意や衝動性は多少見受けられるものの、最近問題視されている
注意欠陥・多動性障害の類ではないと思う。だいいち私はひとの話しを
ちゃんと最後まで聞くし、課題や活動を順序立てて行うことができたから。

それでも、最後のひとつを決めるのがどうしてもできないのだ。
イチゴのショートケーキとモンブランを最後まで決めかねてしまうように、
最後の審判を下すことができない。だから常に二足のワラジを履いてきたし、
今でもその傾向は続いている。結局のところ、複数の生活を持って自分を
安定させているのかもしれない。疲弊しやすく我慢弱く精神的なバランスも
良い方ではないけれど、こんな生活も悪いことばかりじゃなかった。
人に教えられなくても物事の両面性を感じられる体質になっていたし、
ダブル・ミーニングや二項対立にすんなりと共感できた。

偉そうに聞こえていたらごめんなさい。
ただ私は「あらゆる事象の可能性を見てみたい」という願いのもとに生きてきた。
世界を「そういうものだ」となかば諦め気味に俯瞰するのではなく、
きちんと向き合って自分の頭で考えてみたかったのだ。

この秋から研究室に戻ってきた。
でも好きになった仕事も続けている。
そして音楽も再開した。

何かを選択する上で失うことも多いけれど、私は自分が選んできた
いくつかの可能性を大切にしたい。たとえすべてが不毛に終わったとしても、
通過してきた時間と体験と空間は、私の中の記憶となって、
生きている限り「私」という人間を生かし続けるはずだから。




2001年10月02日(火)



 疲弊した月曜日

いわゆる「ブルー・マンディ」のことではありません。
単に体力がないばかりに、昨日(日曜)の練習で
くたくたに疲れ切ってしまっただけです。
仕事中、クッションに突っ伏してしばらく気絶してしまいました。

昨日は四谷区民センターでオーケストラの練習に参加してきました。
12階の会場からは新宿御苑がすぐ眼下に望めて、絶好のビュースポット。
ではあるが、優雅にお外を眺めている余裕もなく、午後1時から夜の9時まで
延々とTuttiが続く。最初は真剣にリズムをカウントしていたのが、
だんだん集中力が途切れぼーっとしてしまう。
そりゃそうだよな、いくらなんでも長すぎる。
長ければいいってもんじゃない(と個人的には考えている)。

私はどちらかというと短距離選手タイプなので、体力も気力も長時間持続
できない体質らしい。ぶっ続けに何時間もオーケストラを稼働させる
若き指揮者に、しみじみ感動してしまう。そして9時ちょうどに
「おつかれさま」と言い渡されたとき、情けないほど放心してしまった。
水をごくごく飲んで、チェロを抱え、傘をさして地下鉄へ向かう。
ありとあらゆる音が洪水のようにカラダの中を流れるので、
うまく言葉も出てこないありさま。

いっしょに帰ってきた友が「あまーいもの食べて疲れを取ろう」と
TAKANOのメロンのプリンを買ってくれた。こんな日曜がこれから12月まで
続くのかと思うと、少し気が重い。でもね、ボロ雑巾のようにずたずたに
疲弊しても、小さな感動が欲しいから弾くんだろうな、オンガクを。



2001年10月01日(月)
前説 NEW! INDEX MAIL HOME


My追加