断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2022年08月06日(土) 「人は何で生きるか」

今もなお痛みはある
それでも

 この4年間で
 痛みを消せるまでになった

ただし、これが毎日 綱渡りに近い
おどるためには痛みを消す時間が要る
痛みのない人には必要のない時間だろうか
慢心すればたちまち逆戻り
今のところ消せるのには制限時間がある
ドクターの見解はこうだ
「初動の痛みも消せると思うよ」
これが今現在の支えだ
ただ、現状はまったくあまくない
毎日うまくいくかどうか気が気じゃない

 痛みが消えないときがある

それでも《なんとかしたい》
そう思えるのは、、情熱としか思えない
情熱としか言いようがない
なにしろ4年もそうやってきた



ヨガマスターとたまに会うと都度
返ってくることばがある。

「苦しいならやらなくていいのよ」

たしかに苦しい
何よりも苦しさが先に立つ
だけど準備がうまくいったとき
踊りに、踊りだけに向き合えたとき
よろこびが、苦しみをかるく上回っている!
まったく苦しい 確かに苦しいけれど

《おどれる》よろこびが 圧倒する



痛み
これまでずいぶん痛みに向き合って、、
向き合わざるを得ない苦痛が本音だけれど
どうしてもたどりつくところがある

 痛みは、
 いきていることを
 これ以上ないくらいに実感させてくれる

ある意味 よろこびの対極かもしれない
その肉体的 精神的な痛みも、
そして自分の外からやってくる痛みでさえも、
それがどう自分の中にあるべきなのか
どう対処すべきなのか
どうすればいいのか
考えに考えるとき
答えがでない理不尽さの中で、混沌の中で
自分自身をさがすそれ自体のなかに

生命力を感じずにいられなくなる



 『人は何で生きるか』 トルストイ

  トルストイ 53歳に創作した民話

 ある雪の日、
 行き倒れの青年を引き取ることにした、
 貧しい靴職人の夫婦。
 青年は無口だが、人一倍仕事に精を出し
 誰もが認める職人となった。
 いったい青年の正体とは?


ロシアによるウクライナ軍事侵攻。
とても複雑な気分になりますが、
そのロシア文学に
《平和のありか》が述べられています。
これにはうなりました―

(ギリギリの状態でこそ良心は目覚める)

苦しいひとのことを最も考えたのは、
苦しいひとだった


靴職人のセミヨンは真っ裸の男に遭遇する。
一度は通り過ぎたが、気が咎めてもどり、
自分の上着を男に着せて家に連れ帰った。

 良識がこの世でもっとも
 公平に分け与えられているのならば
 良心もきっとそうだ
 知性的なものだけじゃない、
 心の中にあるものも万人に与えられている

連れ帰った男ミハイルは、
どんな仕事も瞬く間にのみこみ、
三日目には もう古くからの職人レベルに!!
そんな工房に、身なりのいい女性と
双子の女の子がやってきた。

「私はねえ、奥さん、
 この子たちの母親でもなければ
 身寄りでもなく、
 あかの他人で―
 ただ引き取って育てているだけですよ
 もう6年前の事ですが、
 この子たちは、たった一週間のうちに
 孤児になってしまったのです。
 おなかの中で父無し子になって
 三日目に、今度はたちまち
 母無し子になったわけです」

彼女は、双子を引き取り
我が子と一緒にそだてました。
しかし2年後、、
自分の子が亡くなってしまいます。

「そして、それからというもの
 子どもが生まれないのです。
 一方、暮らし向きは、
 だんだんよくなってきました。
 結構に暮らさせてもらっていますが、
 自分の子どもというものがいません。
 ほんとにこの子たちがいないのなら、
 一人でどう暮らしていいものやら!
 だから、
 どうしてこの子たちを
 かわいがらずにいられましょう!
 この子たちはわたしにとって、
 まるでろうそくのろうのような
 ものですもの!」

愛を注がれているときには愛は実感しづらく
自分が誰かに愛情を注ぐときに
はじめて(注がれてきた愛)を理解する
そうか そうかもしれない!!

 すると突然
 ミハイルのいるあたりから光が射した
 ほほえむミハイル
 ミハイルは女性たちが帰ると
 セミヨンに真実を告げた

「ではお二人とも、ご機嫌よう。さようなら。
 神様がわたしをゆるしてくださいました。
 わたしの体から光がさしたのは、
 わたしは罰を受けていたのが、
 今、神様からゆるされたからです」

天使の姿にもどったミハイルは
最後にこう言い放ちます

「神は人間がてんでんばらばらに
 生きることをお望みにならず、
 むしろ人々が合一して生きることを
 お望みなのです。
 だからこそ、ひとりひとりには、
 自分のために何が必要かを啓示なさらず、
 すべての人々に、自分にとっても、
 万人にとっても必要なものを
 啓示されたのです。
 今こそわたしは、人々が、
 わが身についての配慮によって
 生きているように思うのは、
 ほんの錯覚にすぎず、
 ほんとうは、ただ愛のみによって
 生きているのだ、ということをさとりました。
 愛の中にあるものは神の中にあり、
 神もまた、その人の中にある」


神とか愛ということばには抵抗があっても
神が、愛が、自分のうちにあるのなら、
(自分)に置き換えてもおかしくはない。
自分の中にこそ―


それにしても うなったのはこれです!!

 人々が協力していきるために
 ひとりひとりに何が必要か啓示しない

自分自身で見つけ出してはじめて
それが実現する一歩になる
これには、、合点がいきます
わたしたちが手と手をとりあうなんてのは
ほんとうに ほんとうに
かんたんなことじゃあないんですよね


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Taisuke [HOMEPAGE]