昨夜、香港についてのニュースがありました。
「香港から海外に脱出する人々が増加、 日本にも永住権を求めて―」
言論の自由がない、というのは 言論の自由を知っているから言えること。 中国にはそもそも《ない》のだとするなら 中国共産党のやっていることは いたって簡潔明瞭にも思えてしまいます。
だって《ない》んだものね―
わたしたちの、 いわば人類の(あたりまえ)のようにも 感じる気持ちは、決して (あたりまえじゃない)ことを思い知ります。 なにしろ、わたしは、ついこないだまで 近代戦争にはそれぞれの(正義)が あるものだと本気で思っていた。 明確な理由がなければ国民が納得するはずがない。 世界が許すはずがない。 本気でそう思っていたんです。。 それが、、どうだ 街で生活していただけの人たちが、 銃弾でとつぜん殺されている現実。。 こんなことが許されていいのか!? 歩いているだけで自転車に乗ってるだけで それを殺されていた あの映像は、、 あの映像には、、憤りを禁じ得ない 戦争には法律が通じない 国民の同意など必要ない 国際法なんて完全に無視 人って一体、、国って、、 現代でこんな気持ちになるなんて
人って、国って、法律って、一体なんなんだろう
各地で反戦デモが行われています それに随行している各国の人たちを見ていて 別の側面に気づかされることがありました たしかに(訴える)ことは重要です でも、他国でやっているデモでは 遠い自国が変わることはない なにしろ他国にはできることがありません 他国が簡単に介入できる問題じゃないんですよね これまで学んできたけれど アウシュビッツを独自の国家が 助けられなかった現実があります ある国がアウシュビッツを解放したとしよう すると解放した国が責任を負うことになる (たすけたのはお前の国だろ) いかにそれが人道的な行動だとしても (その後)のことに関しては別問題なのだ
地球では民主主義よりも専制国家の方が多い。 わたしたちが考えているものの考え方の方が、 (おかしい)と思われていても不思議じゃない
さあデモに話を戻します! 難民や移住者のデモを見ていて感じるのは
《自分を守るため》
わたしたちが国に帰属している、というなら そしてそこに精神的な拠り所があるのなら (わたしたちに自国があること) それ自体が幸せなのです。 わたしたちは個人よりも「国民性」とやらで 判断する何かがありますよね?? あの人は〜人だからね、みたいな感じで。。 そうなると外国人と相対したとき、 そもそも立派な自国ありき、が 大前提になってしまいます。 大げさに言うと、 その国がないとその人を判断できない! わたしたち日本人には大陸性がありません。 海外に行って身にしみたのは、 わたしがお世話になったステイ先でした。 その夫婦はヨーロッパを5カ国 渡り歩いて、 イギリスオックスフォードに落ち着いていた。 5カ国!? 5カ国って― まったく想像できなかった。。 自分の世界観の小ささを痛感してしまう。 陸続きの国のありようにどうしても実感がない。 しかし、そんなわたしたちの実体を取り巻いてる 空気のような(事情)よりも、ほんとうは もっと大事な本質がありますよね?? わたしたちは先ず、 何よりも先んじてあるのは《身の安全》です。 出身国にどんな惨事があろうとも、 それを訴えることで(私)を知ってもらうこと。 そして、生きていていいのだと認めてもらうこと。 デモにはそんな側面があるのを感じるのです。 自国じゃない国で生活をする、とは、 きっとこういう目に見えない厳しさがあるのだと。 世界が変わるそれ以前の問題が先にあるのだと。
まずは自分が生きていられる世界でなければ!!
でも、どうしても自分には葛藤がのこります やっぱり他国で正義をいくら訴えても 何も変えられないんじゃないのか!! わたしたち民主主義国家はある意味で弱小国です。 結束しなければ何もできないからです。 根本的な解決策なしに時間を過ごしても、、 結局は未来に先送りにしてしまうだけです
ウクライナはクラウドファンディングで 「無人偵察機を購入した」って言ってました…
支援したいのは兵器を買わせるためじゃない!!
変えなきゃいけないのは―
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