断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2022年06月20日(月) いのるよりもまえに

とつぜん前触れもなく闇堕ちした…

 自分はどうしてこんなに
 「持っていないんだろう」

みんながフツーに持っているものを
自分が持っていない現実の沼、、、底なしだ
すべてのものを《手に入れてきた》友人がいる
きっとその友だちは思いもしないだろう
それでも思い知るときがある
この人は、
この人は、、
《すべてを手に入れてきたひと》だ、って
そんな人にも悩みがある
悩みがあるのだ
手に入れても悩みがあるのかよ
そんな思いに駆られる
もしかすると自分とは真逆の観点かもしれない
得られないものは想像するしかないが
これがまったく想像でしかない
結論は得た人にしか出せないのだ
誰かが答えをおしえられるものじゃないのだ
それでも自分は、自分には、、
手に入れてきたもののその終着点、
終わりに到達していることに
圧倒的な羨ましさがある
その終わりが幸福でもたとえ虚無だとしても
到達できていること自体が羨ましいのだ
なにしろ手に入れてなくちゃ
そんなものを感じられる瞬間は永遠に来ない
自分には手応えともいうべきものがない
手応えがあるのはダンスを通した舞台芸術における
(目に見えないもの)しかない。
実体が、、ないのだ
自分には目に見えないものの豊かさしかない
それを(どうにかして通せないか)と踊っている。
人によってはどうにも見えないかもしれないもの。
正直、得体が知れない
それでもここに誇りをもっている
そう
持っているものはここだけだ
ここにしか誇りがないのだ



そんなときだった


「…産まれし者よ聞け。
 生とはただ美しきものにあらず。
 生ける者は苦痛を知り、
 災難を知り、絶望を知る。
 あらゆる辛苦は降りかかり続ける。
 焼けた道を行けど褒賞はなく、
 道の傍らにはいつも、死が口を開いている。
 それらはお前を恐れさせ、
 嘆かせ、苛み、悩ませるだろう…
 だが、目を閉じてはならぬ。
 かくのごとき生を見据えよ。
 お前を打ちのめしている辛苦は、
 しかし、お前を弱くはしていない。
 ひとつひとつが
 焼けた鉄に振り下ろされる、鎚に似て…
 お前を、強き… 強き剣と、成すだろう…」


ふと、それを聞いた《そのとき》
《そのとき》にだけ 響くなにかがあった

別の場面ではこうも言っていた


 人の祈り それは―
 人の手が届かない部分を
 せめて思いが埋めるように、人は祈るのだ


祈りは、一歩間違えば、
気休めや偽善とも呼べそうな
希薄なものかもしれない
それでも、できることは、、それくらいしかない
自分の手の届かないところには
どうしたってどうにもならない
だから、
だから、希薄じゃないと言い切りたい
祈りを軽薄で薄情なものにしないために、
本物の祈りにするために、行きつく先はひとつ


自分が胸を張れるものは自分自身だけだ


そのきっかけがたとえ「ものがたり」だとしても
触れたそのとき「だからこそ」響くものがある

ただの言葉じゃない 文章じゃない
誰かが口にしてはじめて響く何かがある
(いま)(いきている)
そのことが、誰かの何かになるときがある
それを痛感するのだ


わたしたちが(いま)(いきている)ことを
その人ひとりひとりが(何をもって)
(いきている)かがわかるとき
(いきている)のをかんじられるそのときに



2022年06月09日(木) SAKANACTION LIVE2017

それは、録画したそのままだった


 『SAKANACTION LIVE2017』
       (※地上波録画)


どれだけ置いたままにしてたのーーー??
録画日、、2018年の1月8日って…

 四年前ッッ!?

そう
あのときは
見ることができなかった
いろんなことがありすぎて
リハビリの日々は
まったくかんたんじゃなかった
好きなものも
見ようとしていたものも
何もかも(すんなりできなかった)
見ようとする気力がなかったんだろう
録画を見終わって振り返ると

自分が如何に重症だったか気づいた

思わぬところから
自分を
あのときの自分を発見してしまった

わかったのは
なによりも(こころの向きよう)だった


サカナクションのLIVEは行ったことがない
当時とても気になる曲がいくつもあったし
フツーのバンドにはない、
なんとも言えない《響き》がある
意味があるようで
ないようにも聴こえるあたりが
これが世界なんだと言わんばかりに…
だからこそ録画していたはずだ
興味ないものを録画なんてしない

このLIVEでは6.1チャンネル、
スピーカー242本とか、、
とんでもない数が
会場の前後左右に配置され
立体的な音を実現しているらしい
こればかりは
音に包まれる感じだけは
会場でないと経験できない
どんな感じなんだろうか
それは映る観客の顔を見れば明らかだった
観客の人波が 手を振る波が 尋常じゃない
LIVEはすごい
あらためてそのすばらしさを
にんげんのすばらしさを
感じずにはいられなくなる


ラストの『目が明く藍色』には震えた

どうやったら
こんな曲ができるんだろう
すごい曲だ


 悲しみの終着点は歓びへの執着さ


ラストは ラストは
ただ泣きそうに
泣きそうになった

自分のさがすおどりにもつうじる感覚がある
そう
いつのまにかおどりになっているようなあれだ
すんなりうまくいくことはないし
こんなんなことしかない
それでも
さがしつづけると
いつのまにかおどっているときがくる
いつのまにかできあがっているのだ


そこには(どうやったら)はない


やりつづけた先の
さがしつづけるそのものが
おどりになっているのだ

そう
そうかもしれない

これがやりたい
自分にはこれがおどりたいんじゃないか


いいものに触れると
わかることがある

それは(自分)なんだろう



2022年06月04日(土) ロマンシング サガ オーケストラ祭 2022

大阪。
コロナ禍。
オーケストラホールに向かった―


『ロマンシング サガ オーケストラ祭』
 会場:The Symphony Hall
 指揮:松沼俊彦
 演奏:STAND UP! ORCHESTRA
 作曲・ゲスト:伊藤賢治
 MC:結
 ゲストアーティスト:
 山崎まさよし 岸川恭子 KOCHO


その初演。

かつて大いに遊んでしまったサガシリーズたち。
その楽曲がオーケストラアレンジで胸に迫る!
自分の中ではこれまでサガシリーズに関して
オリジナル曲を超えるアレンジは少なかった。
ファンなりにアレンジ版も相当数聴覇している。

だからこそ近年のアレンジが、、凄い!!

生放送でも演奏が度々行われている。
放送でも画面だとしてもこれが凄かった
オリジナルを、遊んできた音源を、
記憶の美化すら、超えてきているのを感じる
以前のコンサートはコロナで無観客になって
流れてしまっていたが、
その内実は涙が出そうなほどだった
そんな今だから、身も蓋もない確信がある


 もうこれは避けられない

 ホンモノを感じたいのなら

 会場に行くしか選択肢はない



会場には40分前に到着してしまった…
そこには、わたし同様、
遠方からやってきた者たちだろうか
会場前の階段に壮絶に座っていた―
わたしは瞬時に判断する。

 あそこには直前に行こう… 笑笑

一般人を超えたゲームファンの出で立ちは凄いw
なんだろう、、どう見てもアレなのだ。
絵に描いたような
マンガでよく見るアレは、、本当にいる。
もしかすると大阪だからこそかもしれないけど、
とにかく一目でわかるアレなのだ!
それにしてもゲームを遊んできた者としては、
自分の内実は断じて負けていないと思うw
おおよそやり込みの度が過ぎている(爆)
現在のソシャゲ関連こそ遊んでいないが、
往年の豊かさの強度は誰にも負けないww

そんな観客たちもいるからだろうか、
開場したあとの
ホール員たちの注意喚起が異常だったw

「途中で退席されますと、
 再入場するタイミングは限られております」

この文句が何度も叫ばれていた。
初めてオーケストラに来た人のためだろう。
こんなに叫んでいるのを耳にするのは初めてだ。
たしかにオーケストラファンからすると
本当に途中で席を立たれたりしたら
すべてが台無しになりかねない。
ホール員たちにはそれが通達されていたはずだ。

わたしの座席左隣に座っていた男は
早速ぐったりして寝てしまっている。
仕事疲れだろうか
だが、それにしても、、イビキが酷かった。。

「グゴー グガー」

これは、、さすがに厳しかった
右隣だったら存在を消去できたけど、
イビキまでは消去できない!!
コロナ禍でずっと会場とご無沙汰していれば
しているほど怒りが込み上げてくる
開演前だからこれ以上はなかったけれど、
わたしも舞台人の一人。
すぐさま真理にたどり着いた


 最高の舞台鑑賞は、
 すべての環境が整わなければ成し得ない

 最高の舞台は最高の観客がつくるのだ


たった一人の行動や振る舞いで
すべてを損ねてしまう繊細なものがこの世にはある
この男はこの日のわたしにとって災厄だった
なにしろ大阪には前日入りして、
開場の40分前に到着しているくらいだ
きっと周囲も同じ気持ちだったろう
とにかく、ケチがついてしまった…
「アイツさえいなかったら!!」
こんな気持ちは抱えて帰りたくない





開場直後、
ロビーには市川雅統さん&ペンギンズノブオ氏。
その真後ろをすり抜けて客席に向かったのだが、
市川さんの身長に負けてたのが悔しかった 笑笑
そしてついに河津秋敏さん(神)も客席に座った!
前列と後列を分ける通路の下手側。
音を遮るものがない通路を前にする席なのが憎い☆
サガシリーズディレクター陣がそろって横並びだ。
ファンからするとどうしても近くで目撃したいw
休憩時 ついに河津さんを直視できた。
人生で、最初で最後かもしれない 笑笑

 オーケストラ演奏は素晴らしかった

会場は大ホールからしてみれば、かなり小さい。
座席数1704。
満席時、残響2秒を実現するために
理想的な座席数として設定されているらしい。
そのおかげでオーケストラが目前にいるみたいだ。
この距離感がすごく良かった
生きている音を感じずにはいられないし、
音の抑揚が全身に、繊細に圧して迫ってきた

 舞台はその初演にすべてが乗ってくる

出演者自身のドキドキややる気が上回るのは
圧倒的に初演なのだ
このくらいのことをやれば上手くいく、のが
わかってしまうと突然に何かを失ってしまう

初演独特の緊張感。これがたまらないw
自分じゃない人がやるのを見るのがたまらないw
さあ見せてもらおうか 聴かせてもらおうか
わたしも舞台人がゆえに そんな気持ちになる
自分が踊る場合は心臓が破れそうなんだけどw
自主公演ともなると食事は喉を通らないし、
完全に追い詰められる☆

会場を案内してもらっている際に、
ホール員の人が話してくれた。
このホールはリニューアル後に
最新の設備が更新されたらしい。
ウェブサイトには逸話が掲載されている。
1982年の開館以来、
音響基準の究極形態《残響2秒》の逸話
1984年にベルリンフィルを率いた、
ヘルベルト・フォン・カラヤンは演奏後、
「ウィーン楽友協会大ホールに比肩するほどの
 世界一の音響だ」と言って
舞台に口づけまでしたらしい☆

まず客席の高さが低い。
ステージ自体の高さも低い気がする。
オーケストラが見える角度がとても自然だ。
上空には常設のパイプオルガン。
客イスの背もたれがとても楽。

 そして、わたしはその背もたれを捨てた

後ろの人には悪いけれど、
頭ひとつ抜けることで届く音がまったくちがう!!
終演後、使いすぎた背筋が絶してしまうのだが、、
ここで力を使わなくていつ使うんだ?な件。
鍛えてきた姿勢が唸りをあげた 笑笑
(※その姿勢はこの会場を圧倒した)


 オーバーチュア〜オープニングタイトルメドレー
 ポドールイ
 聖王廟〜魔王殿 メドレー
 (休憩)
 アビスゲート〜四魔貴族バトルメドレー
 最終試練〜死への招待状 メドレー
 熱情の律動
 女道化師イゴマール〜
 オリアクス -世界を穿ち、時を射る者- メドレー


このコンサートでは稀なる楽曲が演奏された。
それは、熱情の律動とイゴマール〜オリアクス。
ゲスト歌手の岸川恭子そしてKOCHOによる、
その歌詞がフツーに歌詞じゃないのだ―
もう何というか擬声語?造語?気合い?なのだ!
それをオーケストラ演奏だなんて、、
まず、聴ける機会がありえない!!
特にイゴマール〜オリアクスは
歌がなく演奏だけの部分が多いために、
舞台人としては歌手の在り方が気になってしまう
とにかく立って揺れているだけというのには
何とも言えない気分になってしまう
そんなこと言ってここで踊る?踊れるの??
そうなると(コンサート)から離れてしまう…
しかし棒立ちは見るのがツライ。
歌手の歌わない間がなんだかものすごくツライ。
つまり、、たぐい稀なる楽曲なのだ―
その辺を置いておいて目を閉ざせば
激動の音楽で、素晴らしいものだった
聴けて本当に良かった
聴きに行けて本当に良かった 勇気が湧いた

コンサート最後の曲は作曲者・伊藤賢治本人の
ピアノ演奏が入る「エピローグ」だった

これは、、もう反則だろ…
涙がボロボロに落ちた
この曲を聴いてるうちは
死んでもいい、くらいの曲
ホンモノのエピローグ、終章を感じてしまう
走馬灯みたいなのが次々とあらわれて
自分が生きてきたその瞬間たちを
感じずにはいられなくなってしまう
自分も死ぬときにこれが聴けたらなあ、って
本気で思っていた
ああ本当に本当に大阪に来れてよかった
サガが好きでよかったッッ!!



2022年06月01日(水) 開眼

(著しく現在のことのため数日UPになります)


とつぜん
自分がやりたいことが わかった

でもこれはとうとつにわかったことじゃない
いつもどこかで
かんがえにかんがえていたものだった

つい先日
某クラシック全幕の
自分が出演する場面の振りうつしに出向いた、
そのときに圧倒的に感じた圧
言葉にするなら…

「このとおりに踊ってくれればいいから」

そういった《仕事》の話だった

これは《おどり》なのか

自分にとってこれはおどりなんだろうか

激しくうたがった
うたがってしまった

もちろん見たままを捉えるなら
おどりには見える
だけど…

はっきり言えることはひとつ
これこそがプロの世界だ

自分がそこにいられるのは
わたしを推挙してくれた3大先生のひとりの
某先生のおかげだ
出向いたからには責任が伴う
大先生の顔に泥を塗るわけにはいかない

そうはいっても
クラシックは今の自分には出来ないことしかない
どんなことをしても痛みが出かねない
いつもいつでも不安がよぎる
先生の要請に応えるために
大先生の厚意でレッスンに参加できることとなった
5月17日。
リハビリ4年目にして《初めて》
クラシックのレッスンに参加できた
もちろんレッスン前には2時間くらい準備した
なにしろ痛みが出たらそこで試合終了してしまう
ただ、今の自分は通院卒業レベルに到達している
こればかりはホントウのことだった
そして5月31日。
左脚を軸にして初めて
患部を、術部を軸にして初めて
ピルエットができた―
無意識にやってしまった、というのが正しい
たったの1回転だったけど
自分にとって この1回転は
(ただの)1回転じゃない

 まる3年ぶんの回転だった

これまでの時間からはありえないくらいの事件

この事件はきっと誰にもわかってもらえない、
そんなものだろうか
そうだ、自転車に初めて乗れたアレなんだからw
そして、その1回転でとつぜんわかった

《自分にとってのダンスはこの1回転のことだ》

ダンスは
決してできることをすることじゃなかった
そして
その先も見えた

《これを受け取ってもらいたい》

自分がやりたいことは
できることを
見てもらうことじゃない
その場所で出来ることを探すことだ

どうやったら成長を
どうにかして《そのおどりを獲得すること》
それを見てもらうことができないだろうか


このおどりには弱点ともいうべき欠陥がある。
その欠陥は 先ほど述べた、
(出来ることをする)じゃない、
ということに尽きる。
いつもいつでも挑まなきゃいけない種類
それに決して答えがあるわけじゃない種類
その答えを、その場所で、見つけるおどりのこと

見つけるおどりは限りなく冒険に近くて、
本当に(見つけるおどり)になる。
カタチが見えるかどうかさえわからない、
言葉にしようとするなら
(曖昧なおどり)とも言えようか。
これが、カタチを踊りと見る人にとっては
完全に相反するものに見えてしまいかねない

ただ、そうだ…
自分がおどりたいのは
感動させたいものじゃない
自分のこころの動きを刹那を
ただただからだに流す
その時間に
その場所で湧き上がった
自分の何かを
そのすべてを
受け取ってもらいたい
その何かがホンモノだと信じて

今までの公演でも
出演者の仲間たちには踊ってもらったり
その人に無理矢理にでもやってもらうのは
あの1回転を
感じてもらいたかったからだろうか
だって自分だけじゃない
それを見ている人にだって
伝わらないはずがない
その顔に 表情に ダンスがあるんだから


 < 過去  INDEX  未来 >


Taisuke [HOMEPAGE]