「人生は海」にはつづきがあります。
人生は海 身体が船で あなたは船長
ヨガでも似たような言い回しが存在する。 そのどれも重要な部分が類似しているのが肝。 実は、手記に偶然こんな感じのがつづいていた―
生きていればチャンスはある
失敗も 後悔さえも チカラにできる
言葉だけではみんな知ってそうですよね? だって《当たり前》のことだもんね! まったく確かに、その通りなんですよ!! ところが、ホンモノの現実は、、 そんな想像をかるく超えてきます。。 どうしても失敗や後悔に囚われて前に進めない! 失敗や後悔に完全に飲み込まれてしまったら 本気で前に進む気力なんて皆無です☆
自分にも最も危険な時期がありました
こうして難解な哲学書を何冊も通ってみると あの時の最大の敵が見えてきました。それは―
《自分による、他者から見た自分について》
自分による というのに気づけたことが大きい。 そして、その上で、 他者と自分を比べてしまうこと。 当たり前のこともできなくなった自分には もはや生きる意味が、ない、と。 自分にできることを見つけるのは困難を極めます なにしろ自分自身で、自分の力だけで、 それを見つけなきゃいけないからです 誰かが教えてくれるものじゃないからです これが自分にとってのターニングポイント 見つけるものは 他人に評価されるものじゃない、信念のような 希望のような、何かです あー、、評価評価評価。。 これが自分の嫌いなヤツです 生きていていいのは評価されるからじゃない!! 踊っていいのは評価されるからじゃあないんだ! 評価とか価値とか価値基準とか そんなのじゃないんだよ… 自分が求めているのは価値を吹き飛ばす領域 社会にいるかぎり苛まれるのはいつもここです いくら遮っていても忍び寄ってくる!! 誰かが教えてくれる、っていうのは なんて簡単なんでしょうか!! とにかく「楽」ッッ その通りにやってさえいれば間違いがない種類! でも、教えてもらえないものに関しては、、 失敗と後悔の連続になります☆ まったく避けられませんw これがもう、、本当に苦痛だった気がします (リハビリなんかこれしかないぞ!!) それでも今こうやって自分自身がいられるのは―
《なりたい自分》がいるからです
リハビリや自主トレがやめられる時がくるのは すべての痛みが忘れられた時 その時まで地道に勤勉にやるしかない 「えらい」とか「すごい」とか言われることも しばしばありますが、 単に選択肢がないにすぎません 微塵もやる気が起きない楽しくないので 結局は《なりたい自分》の強度に頼りきりです
そう考えたら、、 なりたい自分があるのは救いと 同じくらい苦痛かもしれません
おおっといけないいけない 人生は海!です☆
果てがないからこそ、 自分の進みたい生きたい方向を見定めなきゃ
◎見定められるうちは見定めなきゃ◎
人生の豊かさは失敗と後悔です いつか笑える時がきっと迎えられるために 後悔を封じる術はすでに編み出しました 後悔は封じられても失敗が避けられないなら その失敗をいい失敗に なるべくいい失敗にしたいですね
哲学書と自分を通したまとめです
『エチカ』
人間にとっては 人間ほど有益なものはない。
これこそ本当に真理じゃないかな。 誰かがいるからこそ(わたし)ですよね。 人間関係が面倒くさいなんて 年を重ねるごとに思いがちですが、 そんなのは《最初から》そうですよねw 人の間で生きていくかぎり避けようがない! 俗世を離れて洞窟で悟りを開かないと無理! しかし、引きこもっていたりすると 逆に だんだん自分がわからなくなってきます そんな時に誰かにバッタリ会ったりしたら 光が射したようにパッと自分が顕れますよね?? 誰かによって生かされているのは自分なんです☆
見栄を張ることによって 虚栄心があるからこそ 誰かに対しての自分が確立するのかもしれません
2018年12月『人生論ノート』より
虚栄は人間の存在そのものである。 人間は虚栄によって生きている。 虚栄はあらゆる人間的なもののうち もっとも人間的な部分である。
何回読んでも唸ってしまいます。。 虚栄というと悪いイメージがよぎりますが、 それを(人間的)なんて捉えたことはなかった! わたしたちの個性は、 虚栄心が大きく関わっているのを感じます。 (あの人にこう思われたい) 虚栄にはそんな自分の俯瞰があります。 虚栄には自分の理想があります。 そんな虚栄心をホンモノの向上心とするには 浅はかな虚栄を打ち破らなければならない、 と書かれていました。 最後には、こう記述されています。
他人の目に映る自分ではなく、 《なりたい自分への努力》
読めば読むほどイタイところを突かれる! でも、こういうのを たまには自分に 突きつけておかないと危険ですよねw
『エチカ』
理性に導かれる人間は 恐怖によって服従に導かれることがない。
一人一人の自由を尊重する社会があって はじめて人間社会は長続きしていく、 そこからみんなで守ろう、って決めたルールを 守って生活すること。 個人の本性を抑圧して、 圧し潰すようなことを国家がする限り、 周りに対して慮る気持ちを、親切心を、 人は持てなくなっていくだろう、と。
わたしたちは人権がある社会に生きていますが そもそも人権を奪われている国に生まれたら 何も感じないかもしれません。。 やっちゃいけません、だけかもしれない。 わたしたちがそれはダメだろ、って言えるのは (知っているからこそわかること)のはずです。 これも自転車に乗れるみたいなものかもしれない
あらためて(知っていること)の重大さを感じます 知っていなくちゃ疑うこともできません!
現代では民主国家よりも専制国家が増えています。 そうなの?と自分の耳を疑ってしまったほどです。 わたしたちが守るべきルールを、法律を超えて、 国家が個人を処罰できるようになったら… もうわたしたちにできることはないかもしれません 法律が守ってくれない国家は危ない。 なんのための法律か、ほとほとわからなくなります
人間が人間である限り、善悪は隣り合わせ。
そもそもルールというのは、 わたしたちが(守りたい)ルールのはずです。 一体いつから そのルールを誰かに委ねるのに慣れてしまったのか 他人事に、認識するだけに、成り果てたのか 自分が考えもせず批判ばかりするようになったのか 考えれば考えるほど怖くなります
いきなり踏みにじられる命があったりしたら アンネ・フランクじゃないか。。 これは、それを学んできた、知っているのなら、 絶対に防がなくちゃ なんのための日記なのかわからなくなります
過ちを繰り返すのが人間というなら 過ちを繰り返さない努力が人間のはずです 自身にそれがもし本当にできないなら 誰かがたすけてくれる社会でなくちゃ 胸を張って生きられる社会は 胸を張って生きたい社会だと言えない気がします
わたしたちには いつも その選択が 突きつけられているのだと 思うのです
わたしたちにはいつも選択肢がありますよね 頭を使うべきときと 頭よりも行動すべきとき
その優先順位の決断の選択肢が。
自分が大事にしているのは その選択肢の苦手な方を試すのをやめないこと 苦手な方というのは いつだってつねに《可能性》です 思い込みをホンモノの思い込みにしないために 信念をホンモノの信念にするために エチカ最終回いきます☆
人生において何よりも有益なのは 知性ないし理性を できるだけ完成することであり、 そしてこの点にのみ 人間の最高の幸福 すなわち至福は存する。
スピノザと公共性
人間にとっては 人間ほど有益なものはない。 あえて言うが、 人間が自己の有を維持するためには、 すべての人間が、 すべての点において一致すること、 すなわち すべての人間の精神と身体が一緒になって あたかも一精神一身体を構成し、 すべての人間が共々に できるだけ自己の有の維持に努め、 すべての人間が共々に すべての人間に共通な利益を求めること そうしたこと以上に 価値ある何事も望み得ないのである。
理性に導かれる人間は 恐怖によって服従に導かれることがない。 むしろ彼は、理性の指図に従って 自己の有を維持しようと努める限りにおいて 言い換えれば、 自由に生活しようと努める限りにおいて 共同の利益を考慮し、 国家の共同の決定に従って 生活することを欲するのである。
「近代の政治思想には、 恐怖によって人間を服従させなければダメだ、 という考え方があります。 例えば、スピノザと同世代の ホッブズがそういう哲学者です。 でも、スピノザはそういう社会ではダメだ、 と考えたのです。 一人一人の自由を尊重するような社会があって はじめて人間社会は長続きしていく、 そこからみんなで守ろうって決めたルールを 守って生活すること、 個人の本性を抑圧して、 圧し潰すようなことを国家がする限り、 周りに対して慮る気持ちを、親切心を、 人は持てなくなって社会がダメになる。 だから、ある意味では、 自分のことをしっかり考えられる人が 集まっているときに社会はうまくいくし、 他人のことも考えられる。 個人主義、って言葉の意味を 考え直してもいいかもしれません。
(自分のことを大切にできる人は、 他人のことを大切にできる)
哲学は万人のためのものなんです。 スピノザは みんなにしあわせになってもらいたい、 みんなに自由になってもらいたい、 ってこのエチカを書いています。 だから、みんな 一人一人が エチカの見方を持っていていいと思います」
わたしたちが心豊かに生活ができる、というのは 《みんなが生きていい世界》があって はじめて成り立つと考えます なにしろ出会う人たち全てが生まれてきたんだから そもそも好き嫌いは超えていくものだと思うのです 好き嫌いを超えてこそ人間なんじゃないでしょうか だってここには(赦し)がつねにあるからです
そんな中で豊かさを諦めないためには 可能性があることを (知っている)ことだと思うんです!!
いつもいつでもその選択肢には逆がある! これしかない、というのはそもそもないはずです。 舞台でもそれぞれに見え方は変化します 見え方が底知れないダンスには可能性しかないw おどりは決して娯楽のものだけではないんです むしろ目に見えないものの方がダンスかもしれない それを丁寧に真摯におどっていきたい
(知っている)を(体得)してそれを(実践)する
エチカではそれをあらためて学びました そして、そのことは、この土台は 我々みんなが(知っている) (当たり前)のもののはずです。 じゃあ、あとは― やるだけじゃない☆
いいおどりを踊るためには踊れるためには 良いことも悪いこともどちらも 生きている限りは、 生きようとする限りは、 もっともっと(今)を深く認識したい
今、目の前にいる人を 今、踊っているこのおどりの その密度を
真理
真理について
いよいよ最終回です! それにしても、、最後が《真理》とは― つい前回、自力でそこにたどり着いたんだけど… もしあの真理がここで否定されたら爆死しますw
それでも、この最終回は度肝です!! 3年前から残しているくらいの度肝なんです! 今あらためて見直しても 今あらためて見直すからこそ こころ打つのも本当でした 長くなりますし哲学です 苦手な人には苦痛かもしれませんが こういうのは学べる時でないと 勉強しないのも事実です ぜひ見ていってください!
人はどのような道をたどって 真理に近づいていくのか そこには近代の社会が選ばなかった、 スピノザの深い人間への洞察がありました スピノザの哲学から、 ヒトが幸せに生きる道に迫ろう!!
先生は始めた 「これまで読んできた、(活動能力の増大)は どうやって確かめるの?と問われると、、 難しいんですよ。。 僕らは客観的に証拠を挙げて証明するとか、 証明がないものを(漠然と信用しちゃいけない) と思っている、と感じますよね? でも、どうやらスピノザは 正しさ、真理、というものを 僕らの考え方とは違うカタチで 認識している気がします。 真理をどういうふうに理解するか― スピノザの場合は真理というよりは 《真理を獲得する》ということ 簡単に言えば、 (何かを正確に認識する)ということです。 物事を正確に認識する、とはどういうことなのか スピノザは考えた。 その際に、私たちが常識だとしているものとは すこし違う考え方が見られます」
真の観念を有する者は、同時に、 自分が真の観念を有することを知り、 かつ そのことの真理を疑うことができない。 実に 光が光自身と闇とを顕すように 真理は真理自身と虚偽との規範である。
「真の観念を持っている人は、 それが(真だな)ってわかる、と 言ってるわけですよ。 物事を正確に認識すると、 持っている認識そのものが その正しさをおしえてくれる感覚。 スピノザは比喩的にも言っていて、
《観念は画板の上に描かれた無言の絵ではない》
観念をしっかり獲得すると、 それが(正しいんですよ)と教えてくれるんだと 言っています。 真理というのは単に人から聞き覚えで なんとなく暗記してるだけじゃなくて、 きちんと理解したときですよ? (これは確かだ、確実だぞ)と腑に落ちる、と スピノザは言おうとしてるんですよ。 自分の中で(こういうことか!)と (感覚が得られるような)そういうものが 真理の獲得であり、正確な認識を得る、 ということなんですよ!
真理は真理自身と虚偽との規範である、これは (真理が真理の基準だ)と言っています。 これね、ちょっとした思考実験をするとすぐに わかります。 何が真理であるか、基準があると便利ですよね? 定規みたいなw これを使ってこれは真理だなこれは真理じゃない なんてわかったらすっごく便利。 そういうのを発見して誰かが持ってきたとします 当然それを持ってきた人に、僕は言います。 (その基準が真なのを君は確かめたのか?)
真理の基準を、真理の外側に設定しようとすると 失敗するんですよ。 だから―
《真理の基準を真理の外側に立てられない》
これ、、意外とショッキングなことです。。 こうなれば、
《真理の基準は、真理の中になければならない》
真理自身が真理の基準になるしかないんです!
スピノザの《真理》は正しさを証明できない
あくまでも (私にとって真理がどう語りかけてくるのか) これをスピノザは考えていた
デカルト的な(真理というのを公に共有しよう) という考え方と、 スピノザ的な(真理と私自身の関係)を 重視する考え方、 ふたつの考え方が17世紀には 並行してあったのではないか?? 後々の私たちが生きている近代という時代は 基本的にデカルトの方を採用したわけです。 でもそれだけではわからないし、 実は使えるものが狭いんです」
わかる、って不思議な感覚ですよね。 自分にとってそれは(ダンス)です。 その人の喜びや悲しみが流れてくる、 嫌でも受け取ってしまう、そんな感覚です。 以前にも超難しい本がありました、、 ヨガスートラです☆ あれは、、ほんとうに難しいよw なにしろ書かれてるほとんどを わたしが(獲得していない)んだから。。 しかし、そんな中でも分かる部分もありました ヨガスートラには、その(感覚)なるものが 余すことない(文章)になっているんです!! 感覚を文章にしてみたこと、ありますか? やってみたことがある人なら… おぞましいものを感じるはずですw 私たちが共有できないだろうそれを 言葉にしてきた人たちがこの世にはいた― それも、、今の私たちが考えられる領域を、 軽く超越しています― そうです、わたしたちは、、 ほとんどそんなものを考えずに生きています! そんでもって、そんな(秘密)は 受け取れる人にしか伝えられなかった そうじゃない人に伝えたりしようものなら 咎められていた時代です (叡智)はそんな風に伝えられていた
「20世紀のフランス哲学者、ミシェル・フーコー が17世紀のことを論じているんですが、 17世紀くらいに真理の捉え方が少し変わった、 って書いているんです。 これを彼は《デカルト的契機》と呼んでいます デカルト以前には真理というのは 自分が変わったりレベルアップして初めて こういうことだったのか、って 分かるものだった、と言ってるんですよね。 ところがデカルト以降、 真理って誰かにおしえてもらって (認識するだけの対象になってしまった) って言うんです。 ところが17世紀にひとり例外がいる、 それがスピノザだ、と。 つまり、スピノザの場合は、 何か、ものを認識するときには、 自分の方も変わんなきゃいけない、 誰でも教えてもらえば分かるようなものじゃない 私たちも それを獲得してなきゃいけないわけです」
スピノザは人間は心も体も絶えず変化していくこと に注目した。 成長し、大人になるにつれて、少しずつ世界を見る 目を養っていくこの変化にこそ真理への道がある、 とスピノザは考えた。
「変化すれば変化するほど 受け取れるものの質や量も変わってくるから アクセスできる真理も変わってくる。 例えば高校生の頃に読んだ本を 大人になって読むと 違うものが見えたりしますよね? 自分自身が主体として変容することによって、 初めて到達できる場所があって、 初めて受け取れるようになるものがある、 というのが、スピノザの真理感覚です」
真理は体得するもの
「例えば自転車とか乗れるようになった瞬間が ありますよね? それって、やっぱり何らかの真理を獲得してる わけですよね? で、それって人と公に共有できないですよね? つまり(こうやって乗るんですよ)と 説明はいくらでもできますが、 やっぱり自分で獲得しないと乗れないわけですよ。 しかも不思議なのは 多くの人が体験できるのに うまく口では説明できない!」
「スピノザはものを認識する、ってことは ものを認識するだけじゃなくって、 (自分の認識する能力)も認識する、って 言ってるんですよ。 だから、 やればやるほど自分のことがわかっていく。 単に知識が増えることじゃない。 他の人、他のものを知ることは 世界を知ることは 自分を知ることにつながる。 ということは 自分が自由になれるキッカケが増える 能動的になるキッカケが増える つまり しあわせになるには 物事を認識していくことを土台としている」
知ることは、とてもつらいことでもありますよね 現実に圧し潰されるのと同義でもありますから… それでも 知っているからこそ それを、その経験を使うことができるのが真理です なにしろ、、知らなかったら何もできませんw だとしたら、知ったことを生かすことが 生きることに 最大限 近い
つづく
終わらなかったーーー
エチカを通した自分について
エチカ(2)の最後。 自殺したいきもちは その人が持っているチカラと比べたときに、 とてもその人のチカラでは対応できないような 大きな出来事や原因によって (圧倒)されて引き起こされる、というものでした
自己の本性に反する 外部の原因に強制されるのでなくては 自己の利益の追求を、 すなわち自己の有の維持を放棄しはしない
生物としての人間をかんがえると そうだ、そのとおりだ、と思ってしまいます 食べること寝ることを放棄するはずがない しかし、未来に読むことになる、人類最強の書 『夜と霧』には、 現実に圧倒された人たちの最期が書かれています 夜と霧は誰もが(知るところの)強制収容所のもの しかしながら(知る)のと(実体験)では 逆立ちしても捉えられない地獄の現実があります 経験は善悪では決定できないし ホンモノの学びは体験を通さざるを得ませんが それでも経験しないほうが 学ばないほうが 幸福なこともあります それを夜と霧は教えてくれます 夜と霧に書かれていたのは、、
自己の有の維持を放棄した人間 自殺したいきもちをも超えてしまった人間 その姿です
これは、、こればかりは、、想像を絶してた 想像では決して捉えることができない現実 人間には、そんな現実があるんだと それを知ってしまうのは 知ってしまうことが途轍もなく苦痛でした
しかし《だからこそ》がうまれるのも本当です
たとえ文章でも、それを知ってしまったら 自分がどう在りたいのか 問わざるを得なくなります
(知る)ことをどうつかうか 忘れてしまうのも これからのチカラにできるのも すべてはわたしたち次第
たくさんの結末を学べば学ぶほど人生は迷路です わたしが経験していないことを あなたは持っていますし それがすなわち人生の豊かさです だからと言ってわたしたちの経験すべてが 豊かさが いいものであるとも言えません わたしにはいいものに見えても 人にはいいものじゃないなんてざらです それでもわたしがわたしを謳歌するためには なかったことにはできません 胸を張れる自分でいるためには、 失敗や過失を嘆き終わったあと それを強引にでもいいものにする努力です 今日よりも明日をいい日にしたいから 行き着く先は《自己肯定》できるかどうか (承認欲求)よりも(自己肯定) そう思います 生きよう、生きたい、という自分(が) あるのなら、他人から見られる自分よりも 自分が自分自身で有ることが先です
人間の心は、 自己の有の維持を放棄できるほどの 自分の生命活動を放棄できるほどの 度を超えたチカラです 自分の大切なもの好きなものだけに すべてを注ぎこめる 注ぎこめてしまう ある意味、これ以上危険なものは ないかもしれません 思い込みと信念は常に隣り合わせ それでも わたしたちの人生を わたしたちの人生にしてくれるのは これなしには考えられません 生きて死ぬことに関してどんな生物も同じなら、 決定的に違うものこそが真実 それを大事にできなくてどうする!!
読解が果てしなく困難な哲学に 番組からかじって挑むエチカ第二回☆ 書き写すだけでも、、困難を極めますw しかしここが踏ん張りどころ 笑笑 行きましょう!
自由について
精神の中には絶対的な意志、 すなわち自由な意志は存しない スピノザ
私たちが当然のように(ある)と思っている意志 これをスピノザは否定します。 スピノザが考える意志とは?そして自由とは― その独特の思想は、苦境に置かれた人を、 《自己責任》と突き放すのではない別の見方に 気付かせてくれます! スピノザが考える自由の本当の意味を探る☆
先生は語ります 「最終的にエチカが目指す終着点は 非常にシンプルなんですよね。 《人間の自由》です」
人間が自らを自由であると思っているのは、 (すなわち彼らが自分は自由意志をもって あることを為し、あるいはなさざることが できると思っているのは)誤っている。 そしてそうした誤った意見は、 彼らが《行動は意識する》が 彼らを《行動へ決定する諸原因》を 《知らない》ということにのみ存するのである。
もう本当に文章だけでぶっ飛べるw いやいや頑張ります。 人が(何かをしよう)という意志をもった背後には その人をその行動に導いた何らかの原因がある、 理由がある、という文章です☆
自己の本性の必然性のみによって存在し、 自己自身のみによって行動に決定されるものを 私たちは(自由)と呼んでいる。 これに反して、ある一定の様式において存在し、 作用するように他から決定されるものが必然的、 あるいは(強制)されると呼ぶ。
しかし、スピノザは 私たちの心と体にある 固有の性質や本性があり、 その必然性にうまく従って行為できたときに 《人は自由なのだ》と呼ぶ。 逆に、自分の本性を踏みにじられ 何かを強制されているとき 《人は自由から限りなく遠ざかっている》 不自由とした。
これは大変わかりやすい例えの紹介がありました。 スピノザは魚にたとえている。
「魚は水の中で泳いで暮らすことを 運命付けられていますよね? 魚にとっての制約、条件ですよね。 魚にとってはその水を取り除くことが 自由になる、ということでしょうか?? 水の中で(制約にうまく従って) 生きることができるときに 《最も自由である》というのではないか」
どうやったらその人が力を発揮できるのか
ここに自由の正体を見出していた
これはダンスで学んできたものと一致する わたしの先生の一人、黒沢美香さんなんかは 決定的にそれを見抜いていた。 今となってはわたしもそれを見ている。 どうしたらその人が自由なのか その人がかがやいて見えるそれを おどりと呼んでいます
強制の果ての《自殺》
エチカの中ではなんと、自殺について言及している
自殺する人々は無力な精神の持ち主であって 自己の本性と矛盾する外部の諸原因に まったく征服されるものである。
ここでいう(無力な精神の持ち主)というのは もともとその人の精神が弱かった、 という意味ではなく、生きようとするチカラを その人の本質と相容れない様々なものによって 完全に征服されてしまった無力です。
何びとも自己の本性に反する外部の原因に 強制されるのでなくては 自己の利益の追求を、 すなわち自己の有の維持を放棄しはしない。 あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性に よって食を拒否したり自殺したりするものでなく そうするのは外部の原因に強制されてするのだ。
人は自殺とは言っても、 自分で死を選んだ、と言うより 死ぬことを選ばされている、 死ぬことを強制されている状態なのだ。
これには唸ってしまった… 過去の自分にガチで当てはまってしまう あの時の自分がそうだったからです (このままじゃ踊れない) (このままじゃ終わりだ) そんな決定的な思い込み 自殺したい気持ちを「自分で選んだんだ」と、、 そう思っていた その状態に、できることを諦めてしまっていた
思い返しても、たしかに そのときにおいては たしかに できることがなかった ひとつもなかった
これは、ほとほとおそろしさを感じます そのときには(思い込むこと)を (意志の自由)としていたんだから
先生は言った 「その人が持っているチカラと比べたときに、 とてもその人の力では対応できないような 大きな出来事や原因によって (圧倒)されて起こるんです。 自殺したくなっている人の気持ちを とつぜん(なし)にすることはできません。 だけれども、もしかしたら 人が自殺と呼んでいる現象は 外部にある原因によって 引き起こされているかもしれない、 ということを 知っていたら!! 何かに気付けるかもしれません― 何らかを(知る)ことによって、 人間の気持ちに変化がおとずれる そんな可能性が生まれるんじゃないか」
つづく
勉強したものが面白かったので シェアしたい学びシリーズです☆ この長い断罪blog投稿の歴史の中で、 正直、相当昔からやってきました。 一部の人には、、 長すぎて読まれもしないシリーズですねw 一部の人には吊るし上げられますが、 ここでは全力で歯向かってきました! 笑笑 内容によっては数日回に渡ってさえ 盛大に記し上げるシリーズ(爆) なぜやるのか それは、 大きな発見があるからです!! 気付いてはじめて人間は成長できる☆ 今回は―
◎生きるチカラがもらえる哲学◎
『エチカ』 スピノザ
17世紀オランダの哲学者スピノザは、 レンズ磨きなどで生計を立てながら (人間が幸せに生きる道) (神について)考えた―
その考えはユダヤ教にもキリスト教にも そぐわない、異質なものであった。 結果、異端、無神論者と罵られ、 生涯、名声を得ることはなかった… しかし、彼の死後、出版された『エチカ』 その思想は、後の哲学者や科学者に 多大な影響を与えることになる。
自分の人生で手に取ることがまずないだろう本。 これを某番組を介して勉強していますw 見たのは2018年(涙) やっぱり2018年はまだありました― ちくしょう やりますよ やるしか、、ないんですよ!!
先生は言います 「僕らとすごく考え方が違うところが あるんですよね。 スピノザ哲学は数ある哲学のなかでも OSが違うんです。 スピノザ哲学を勉強していくときには、 自分のOSとどこが違っているのか、 気づくことが大切です」
スピノザは44才で亡くなったあと 友人たちが遺稿集を出版するも やっぱり異端とされて発禁に。。 ここにおさめられていたのが『エチカ』 (エチカ)とは(倫理学)という意味。 当時、無神論者には 人権がなかったのがかるく想像できます。 人間社会のおそろしさを感じてしまう… スピノザが明らかにしようとしたのは、、 この(世界)や(人間の性質)でした その考えの出発点になったのが《神》
神は唯一絶対にたしかな存在で無限である。 すべてのものは神の中にあり、 すべては神のあらわれだ。
スピノザは神をこのように説明した
「神とは、絶対に無限なる実有、 言い換えれば おのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に 多くの属性から成っている実体、と解する」
先生がすぐさま注釈をしてくれます 「神さまっていうのは絶対的な存在ですよね? とすると、、 《神さまは有限なはずがない》 制限を受けないのを神さまだとするならば、 《神は無限》なんです。 つまり、、
神は無限である ↓ ならば神に外側はない ↓ すべては神の中にある ↓ 私たちもみな神の一部である
スピノザの場合は神さまはひとつですが、 すべてが神の中にあるし、 ひとつひとつが神のあらわれです、って考えです これって、、 神って云われているものが、、 ほとんど《宇宙》って意味にちかいわけです。 Deus sive Natura 【神即自然】 神という言葉は使っているけれども、 自然科学的な発想だったんです」
スピノザの考えは汎神論のため、 人格神でなかったために異端とされたのだ… なにしろ、カミサマはいるようでいないのだから
「有名な話では、 アインシュタインがこう言ったそうです。 《私はスピノザの神を信じる》」
善悪について
あなたの善悪はなんですか?? わたしの中での善悪はこうです 《つづく》が善 《おわる》が悪
スピノザ『エチカ』はすごいですよ!
エチカ 「我々の活動能力を増大し あるいは 減少し、促進し あるいは阻害するものを 善あるいは悪と呼んでいる」
活動能力ッッッ!!! (活動)(能力)これは考えたことがなかった― いいなあ これはいい☆
ここにたどり着く直前、こんなものを通った
エチカ 「人間が自然物を完全だとか、 不完全だとか 呼び慣れているのは、 物の真の認識に基づくよりも 偏見に基づいていることが分かる」
(たとえ) 生まれつきツノが片方しかない牛を見た時、 牛の一般的観念と比較して 不完全な牛だと人間は思うのです
人間はあくまで一般的観念に基づいて 完全か不完全かを判断しているが、 自然界に完全なものと不完全なものが あるわけではない あるものすべてが《完全》なのだ 完全でなかったら存在していないはずである わたしにも事故で失ったものがあるが、 失ったからといって不完全ではない (わたし)は(わたし)なのだ
先生は言った。 善悪は 基本的に《命令》と結びついている。 →やっていいのが善 →やったらダメなのが悪 しかしスピノザはそれじゃあない、という 発想に基づく、 一般的観念ではないものだと説明する。
エチカ 「善および悪の認識は、 我々に意識された限りにおける、 喜び あるいは悲しみの感情に他ならない」
喜びを高めることが善 それは、その人その人で違うものなのだ 誰にでも同じ善悪は当てはまらない! ここを通り抜けてしまったら、、 善と悪は決められない!! なんてこった
善悪なんて、日々の生活で まず考えることもないやつです。 一部のひとにはこっぴどくバカにされるような 話題かもしれません。 でも、その善悪を、自分にとっての善悪を 取り出して はじめて、分かることもある。 自分を前にすすめられることがあります
これこそが人間のすごいところだと 人類のすごいところだと思えるのです
「賢者というのは、 色々な楽しみ方を知っているひとのこと」 スピノザ
折りしも戦争が引き起こされている現在 外側をつくる、境目をつくるというのは どうしても可能性を摘んでしまう気がします 人間はこうである、 日本人はこうである、 社会はこうである、 世界はこうである、 私はこうである、 そんな思い込みが、一般的概念が わたしたちを縛っているのだと思います 物事を複雑にしているのはわたしたち自身 わたしが わたしたちが そのいのちを全うできること いのちを謳歌できる世界を わたしたちはイメージできますよね! 人間はイメージできるものは《実現できます》 逆を言えばイメージできないものは 決してできません リハビリをしていても 自分のカラダができないものに対しては ジャンプさえイメージできなくなります 不思議ですよね 不思議なのはイメージがとおったとき 壁が「なくなる」ことです 乗り越える、なんてことはしません とつぜんに「無くなる」んです
わたしたちは 思い込みではないイメージを 自由を 決して忘れてはいけないのだと思います
つづく
◎いよいよ2019年本編です◎ いやいや、、2019年!? このblogおそすぎる。。 時間の流れが度を超えてる… ええと現在2022年4月4日 令和四年四月四日で444!!! ヤバイ まだ全然3年前だった― いやいや、、知ってます 全部知ってますとも!! 笑笑 行きましょう☆
(2019年1月1日) 親友が言いました「初詣に行こうぜ」 わたしは術後から神社参り+初詣など 一切をやめています(爆) やめている、というのは語弊かw カミサマは筋力を育ててはくれませんし、 からだの反応を引き出してはくれません。 カミサマよりも完全に(以前の)問題です。 正直にいうと祈る暇なんかなかった
神頼みは最後の最後 自身の努力のうえに どうにもならない時
これ以外で行ってません。 いや、マジで行ってませんからね。 そんなわたしには金沢での衝撃があります 当時記も投稿しているのですが、 あまりにも劇的すぎて、もはやネタですw ダンス再復帰後、21世紀美術館ホールでの 本番を終えて観光していたときのこと。 金沢に降り立って神社参りしないのも どうかと思い、断腸の思いで祈祷して 記念におみくじまで引きました そこに書かれていたものは、、
《神様を信じなさい》
衝撃です わたしの人生において おみくじの引きで これほどのショックはもうないかもしれません☆
さあそんなわたしですが友人が行きたいと 言うのならついて行きますとも! なにしろ自分ひとりでは絶対に行きませんw 着いた神社は―
宇美八幡宮
第十五代應神天皇御降誕の聖地。 日本書紀には 「皇后新羅より還り給う 十二月十四日應神天皇を 筑紫の蚊田に生み給う時 今其の御子の生地を號けて宇彌という」 とあり、江戸時代の儒学者 貝原益軒翁は、 「この里は山中にあれど、四方平原にして広く、 都邑ここにたつともゆたかなる所なりと、 洵に山紫水明の佳境にて、 神功皇后皇子発祥地にふさわしい地なりと 実にすばらしい里であると。」 と称えています。 主祭神である神功皇后・應神天皇の母子神、 玉依姫命、住吉大神、伊弉諾尊の五柱が お祀りされており、八幡様は殖産文化の 祖神として遍く崇敬されておりますが、 八幡神御降誕の聖地と伝えられる当宮は、 《安産・育児》の信仰が特に篤く、 多くの方が安産祈願やお礼参りに参拝されます。
今流行り(2022)の柱が!! 五柱も祀られてる―(違) いいや、そういうことじゃないんだ! なぜここなんだ!? いくら皇族に所縁があって 格式が高い神格だとしても― 安産も育児も俺たちには関係ないぞw
そう、親友は気分の男なのだ
そういえば わたしも気分屋だ そうか。それで親友なのかもしれない 笑笑
そんなことを悟ってる場合じゃあない! めっちゃ並んでるぞ 都会ほどではないが100m?くらいだろうか?? わたしたちは並んだ 安産も育児も祈願できないがw
こうして2019年。初詣してしまいました しかし、初詣するからには本気です☆
「誰かの子が健やかに育ちますように 誰かの子が健やかに生まれますように!!」
2019年元旦 やりきった☆
2018年はいよいよこの投稿で終わりです☆ な、、ながかった…w (どこかで手記が見つからないかぎり) それにしても、数年経って あらためてみると… ゾッとするほど羞恥心湧きました 我ながら決意が清々しすぎて。。 でもこの時は、確かにこれでした! 間違いなくこれでした― ちょっと泣きそうになってしまった… 2018年 年末の総括は 2019年に 明日に向かうために
2018年11月のおわり
膝に激痛が走ります レッスンに行けなくなりました
すぐに病院に行きます
執刀医の診察
「OVER USE」
医者の診断はたったの一言でした
しかし、自分にとっては
まったく一言で済まない問題です
なんとかしようとあらがっていた矢先で 診断には心が折れそうにもなりました 以前の投稿の通り、 自らやっていた自主トレで 症状を悪くしていたことがわかったからです
生きてはいる
何よりも(自分が)生きているってなんなのか
自分が一番いきいきとしていられるのは
どんなときなのか いきようとしたいのはどうしてなのか
問わずにはいられなくなりました
年々できることは少なくなるかもしれません
だからこそ、今できることを思う存分やりたい 今できることは「今」しかありません
そうしていつもすこし先の今を冒険したい
《いまのその先》に挑もうとするとき いつも必要になるのは《ゆうき》 そして《すこし無茶ができる余裕》です! なにしろ(その先は見えない)からです
自分にとって(いきてる)って、、
もしかしたら
ずっと探しつづけることなんじゃないかな
探し続けることをやめたら、、
きっと生きてる気分にはなれない
後悔しないのは今を発揮すること 常に発揮していれば後悔はあり得ません
できなくたっていいじゃない!
できなくたって胸は張れます!
だって生きているんだから!!
本当は笑われることなんて一切ない
《そうわかっていても笑われたくない》
妙な羞恥心がいつだってつきまといます プロの世界は厳しいからこそ
つまらないプライドがいつも影に居やがります
やっぱ、、勇気だw
勇気しかない 自分を発揮するって
これからどれだけ生きられるかわかりません
わかりませんが、、
生きているからには 生きようとしたい
「タイスケくんならまた復活するよね?」 鋭く突き刺さる何気ないひとこと まったく簡単じゃない
笑顔で返事ができない 一歩間違ったら ぶちまけてしまいそうです
術後、数年かかって再復帰してきた現実は 一言で済みません
すぎる時間は残酷で
動けなければダンスの踊り方を忘れてしまいます
かといって無理をすれば取り返しがつきません
リハビリを頑張れば頑張るほど
夜に鈍痛がきます
施術の時は(もう動ける)と思うくらいなのに
朝になれば不安と恐怖が戻ってくる
その繰り返しに
…
いつも隣には混沌がいます
いるけどさ、、
俺は 生きてるぞ!!!
みんなみんな 生きていてほしい☆
「生きてる」「呼吸してる」だけじゃない、 笑顔になれる
最高の自分でいてください!!
いつもいつでも 《最高のその人》を
感じていたいんです!
なにしろ俺には一目でわかる☆
だったら、自分も、
痛くても生きる!!
心が痛いのは生きてる証拠だろ!!
◎踊れなくても 踊る◎
わたしたちにできる(いきている)は いつでも、つねに、(発揮すること) ◎誰にでもできる◎
2018年12月、平成のおわり
叔母の隆子さんが亡くなりました
わたしの母の、弟の妻、隆子さん
当時の、別の手記が見つかって 内容を見ると、 これもまた自分にとって大事なことだと あらためて、この人のあの日のことを 忘れないために
年齢を重ねるたびに
親族が揃うのは葬儀になります
寂しい気持ちで心臓が押し潰されそうになる それでも、、
遺体を見ても
まるで実感がわきません
ウソみたいです
確信したのは、従姉妹マオちゃんの声
「お母さん!!お母さん!!!」
葬儀場に響くその嗚咽でした
生きる、生きてるって、、
一体どういうこと?どういうもの?
その都度、嫌でも考えさせられるこの問いの答えは
問うまえに片が付いています
《その人をまるごと感じるとき》
身体だけじゃ足りない、 たとえ
魂が感じられたとしても不十分
そうだ
ダンスは 自分のすべてを 会場にいる人たちに対して 空間に投げ打つもの そこにわたしは直面してきました そしていつも、いつでも直面します おどりだけではない、どうやって(生きたいのか) 自分が(おどりたい)のは 自らのすべてで相手に対して生きる 隠しようがない嘘の姿のままだとしても ただただそこに誠実に向き合った自分を発揮する 人の間で生きていくかぎり そうやって自分自身を生かしてやりたい だって、、いまこのときを生きているんだから
そんなみなもとを、単純に、単純に感じるのは 自分がいつか死ぬからです
シンプルになるのは それを切実に眼前にしているからです
おどりを踊りたい理由 それを はっきりと自覚した
2018年 12月14日 作品クリエーション(臨スペイン)の日。 水を買っていなかったのを思い出して、 通りかかったスーパーで買うことにしました。 水ペットボトル一本もってレジに並びます。 すると、前の女性がふっと後ろを振り返りました。
女性の買物量が多かったのと、 わたしの、水だけ持ってる姿を見て どうやら「先にどうぞ」と 言ってくれたのだと思います
しかし! しかしです!! わたしはワイヤレスイヤホンをつけていて 声が聞こえず、気づけませんでした― 女性も声をかけた後、 聞こえていないことに気づいたようでした。。 わたしがその場の状況を読み取るのが 遅れてしまったために、、 レジはそのままの並びで進行してしまいます…
厚意を無駄にしてしまった
見ず知らずの人に声をかけるというのは 存外 勇気が必要ですよね! そして、この《勇気》というのが 実は、、 世界をまるく、あたたかくしていく源泉です 少しでも《良くしよう》とする人の考慮。 誰かに、相手に、好きな人に、 そんな風にずうっと続いていく、そんなチカラです 何気ない一言に、わたしはこれまでたくさん たくさん救われてきました だからこそ、そのときの繋げなかった何かに 無性に腹が立ちました 自分の会計が済んだ後、その人にあらためて、 聞こえていなかったことを詫びました。 その女性にはすごく驚かれてしまいました
そのときの、あのときの、一言が通るか通らないか それはわたしたちにとてもとても大事なことです。 些細なことでも(通る)ことが、 その繋ぐチカラを紡いでいくからです。 通らないのが もしも続いたら、、 もう声をかけようなんて思いませんよね? 勇気と書くと大げさに聞こえるかもしれませんが、 きっと《勇気》は出さなくなっていくはずです。 誰だって嫌な気分は味わいたくない。 本来なら声をかけなくてもいい場面です。 みんなが並んでいてその順番通りで済むお話です。 だからこそここに人のあたたかさを感じるのです ◎だってその勇気には “限界がない” ◎ なんにせよ、その女性と話すのもきっと わたしの人生でたった一度きりのことです。 だからこそ、その時に、その一瞬に
できること、今できることをしたい!!
クリエーションメンバー同僚にその時のことを 話すと、「それは丁寧すぎですよ!ははは」って 笑われてしまいましたが、、 わたしにとって まるで笑い話じゃありません。 人が誰かに対してすることは 誰かに対してしたいことは わたしが踊りたいダンスそのものだからです
人の想いは消え入りそうなほど小さなものですが、 だからこそ人が人である尊さを感じます
わたしたちが伝えたいものは 下手をすると 受け取ってもらえないくらい小さくて大きい なにしろ目に見えないものなんだから
だったら 先ずは 自分が 自分自身がそれを大切にしなくては
その日の夜、国際報道を見ていると、 レディー・ガガが出てました。 ほんとうにたまたま見ていた映像でしたが、 その内容はガガの、トランプ大統領ツイッターに 対してのコメントです。 アメリカのとんでもない規模の山火事で、 トランプは 「もっと賢くなれ! そうすれば山火事は防げるはずだ」と投稿。 もしかすると、レディー・ガガの別荘も 焼けてしまったかもしれません。 ガガはトランプの発言に一矢投じます。 「もっと国民に寄り添いなさい」
痛みを共有、共感することが大事だ、と
そうインタビューで発言していました。 亡くなった人たちや家を失った人たち。 そんな人たちがまず先にいるのだ、と。 そして、 その時の一言がどれだけみんなに勇気を与えるか そして支援をつないでいくチカラになるか、と。 そしてインタビューではその行動の根源を語って います。
「私は髪の毛のことですごいイジメを受けました。 どうにもならなくて母に相談したところ、 母はこう言ってくれたのです」
「あなたみたいな歌に夢を抱いている人に そんなことをする人たちがいるの!? そんなのは、、 《優しさ》でやっつけちゃいなさい!!!」
ここを原点としてガガは精力的にLGBTなど 性的マイノリティの支援を行なっている、 ということでした。 「優しさでやっつけちゃいなさい!」って、、 スゴイぞガガのママ!! そんな優しさの用法フツーできるもんじゃないぞ☆ インタビューを聞いて、 ガガも《小さな勇気》そして《繋がるチカラ》の ことを知っているんだと思いました あまりにも物凄いパフォーマンスとその歌唱力に、 度肝しか頭になかったことを詫びよう(爆)
大げさに言ったところで始まりはしません ですが、わたしたちが持っているのは 実は大げさ以上の 《とんでもないチカラ》です 優しさでやっつけれるくらいなんです!! 人の優しさはどこにあるのか どこから取り出せるのか 意識的に優しさを取り出すと嫌味にも、 高圧的にも聞こえるかもしれません。 取り出すところを間違えるとベツモノになる、 きわめて繊細なものです わたしたちの可能性 誰にでも(通る)自然体 それはきっと無意識のうちにある気がします☆ そんな自然体にいつもいられたら、、 いや、きっと「いつも」はいられまい。。 人間社会には責任がつきまとうんだから。 もしそうなら、 おどりを踊るときだけはそうなりたい
意識を超えて無意識にいつもいけるなら そんな無為自然のダンスはどんなだろう ◎きっと すべてがありのままのダンス◎ 自分の中に、すべてをとおせる もしかしたら誰の体にも通れるかもしれない
| 2019年01月02日(水) |
「ベイビーステップ」 |
2018年11月23日の投稿「Spark」 アニ×パラでコラボされていたのは
『ベイビーステップ』
たとえ目標がどんなに遠くても どんなに自分の一歩が小さくても 立ち止まりさえしなければ きっといつかは届く
テニス漫画原作のN◎Kが放送したアニメです! わたしは気がついた時から ウィンブルドンテニスをTv観戦していました。 母が熱心に観戦していたのが原因です 笑笑 母は高校生時代、テニス部だったらしい。 そういうわけでベイビーステップ一気見しましたw 一気見するほどの秀作です。 主人公 丸尾栄一郎は体格こそ恵まれていませんが 度を超えた頭脳派タイプ。 これは、プレー中のその頭脳の作品と言えます☆
なんせ、ほとんどの視聴者投稿がこちらですw
「一瞬の間にどんだけ考えてんだよ!!」
そんな暇ねえよ!っていうツッコミです 笑笑 でも、これこそがベイビーステップの醍醐味。 瞬間の判断を、思考を漫画にした偉大な作品です! オープニングソングの歌詞で、作品内容が おそろしく伺えますので紹介しておきましょうw
やれるだけやりきったかなんて自分しか分からない だから自分に嘘つくな 自分にはズルするな 誰かと自分を比べるよりも 己を誇れる人になりたい 自分を投げ出さず生きた今日を 褒め続けられる日々を送ろう 君にしか分からなくたって楽な道は選ぶな 最後に報われるのは逃げずに居た君自身だから Believe in Yourself!
さあ、さあさあ どうですか?? 結構刺さりますよね?? 笑笑 アスリートはもうこれですよねw いつだってこれしかないくらいですからね!
丸尾栄一郎、愛称エーちゃんがプロを目指し、 力をつけていく過程で、 対戦選手にこんなことを言われます。
「楽しいだけじゃ勝てないと言ったんだよ。 でもそれは違ってた。 僕も、ほんとうにやりたい絵を志して 気付いたんだけど 人生をかけて何かを目指すなら (楽しい)って感情より、 前に進む原動力になるものはないと思う。 幾度となく壁に当たるたびに なんとか乗り越えようと全力で考えて その都度 前を向いて立ち上がる君は 誰よりもこの試合を楽しんでるように見えた」
やってみて楽しい方へ 楽しい方へ その力はどこから来るのか この作品では 下記の台詞に集約されそうです!
「どうすればいい? どうすれば勝てる??」
試合中、マルオ君の脳内に響き渡るセリフです☆
このセリフに全てが凝縮していると言っても 過言じゃありません!! ある意味、《生きるうえで》もっとも重要な チカラだと思えます。 自分が進みたい方向に向かっていく、 困難に抗うチカラとも言えるんじゃないか!? この気持ちがなかったら ひとつのことを続けられない気がします。
そして、このセリフを単純に(楽しい)とは 置き換えられないようにも感じます。 それこそ本人は死に物狂いの最中ですw 興味深いのは、それを、 第三者は(楽しんでいる)のだと 断言してしまうことです。
ここに決定的な秘密があるように感じます
(楽しい)(楽しむ)って《ほんとう》は 一体どういうものなんでしょうね? 見ている人の内に湧き上がる熱感だけが 自分自身の内に湧き上がる熱量だけが それを教えてくれるのかもしれません。
おどりをおどるのも 決して(楽しんでいる)とは断言できません お客さまがいる以上は 「先ず」為さねばならないことがあります それを圧して、いいや すべてを通り越して、 (楽しむ)ところに持っていくために (楽しむ)ところにいられる、いけるように できることを全力でやるだけなんです!
そう、このお話は、、そして人生は、 最後の最後に問われる最終問題なんですよ☆
(楽しかった?)
| 2019年01月01日(火) |
「NoN GENRE」 |
目出度く数字上は2019年に突入しましたが、、 身に起こったことを忘れてはいけない都合で 元日からX'masに戻る、という… 普段なら絶対に起こせないことを 不本意ながらやります。。 blogではそれが出来るんだなあって ひしひしと感じています☆ いいや待てよ、、 むしろそれしかやってない気さえします(殴)
あーーーまだ2018年は終われませんでした! この日は学びと不思議の 後にも先にもない1日でした―
2018年12月23日、、X'mas イヴ(爆) この日も人生で今のところ壱ドキリのものに 遭遇してしまっています!! blog化は、、避けられない!! 笑笑 どうぞ不穏さを味わっていってくださいw
2018年12月23日。 友達が本番でした ギリギリ見に行けました!! なっちゃんを焦点に出かけたのは 第三の人生で初めてのことです わたしの再復帰公演にも駆けつけてくれて 心配してくれていた、二児のお母さん 今こそ そのダンスをこの目で見なくてはッッ
『NoN GENRE』
ピアノ / 三村磨紀予 オンド・マルトノ / 西山恭子 ダンス / 辻菜津子 小林陽子 振付 / 井野禎子 インスタレーション / yuiyu
アーティストが純粋に今考えていること 表現をぶつける場として発足しました 成功は量的なもの、幸福は質的なもの 質的な幸福、オリジナルな幸福を 仲間と皆様と共に共有できる時間になれば 幸いです
なっちゃんは元より知っていますが、 プロデューサー&振付の先生も知人です。 そんな本番に、さらに知っている出演者が!? ピアノの三村磨紀予さん☆ こんなところで目にするとは驚愕です! 知っている人がいればいるほど 期待してしまうのは人間のサガでしょう☆
しかしこれはおそろしく前衛的でした
どう文章に為すべきなのか吐血しそうです!
まずは、楽しい感じがない。 心おどる感じがありません。。 X'mas イヴなのに超暗いな。。 質的な幸福とは、、一体なんなのだろうか わ、わからない!! とにかく空間を占めているのは無機質感 有機的な何かが著しく削られているようだった
感情が、、わかない!
なっちゃんは言っていた そのダンスはとにかく難解で困難を極めた、と。 どうやら完璧にカウントで決まっているらしい。 しかし、しかしだ。。 気持ちに何も変化が訪れない… もちろんわたしの超個人見解なので みんながそうではないだろう。 ないだろう、ないだろうが、、難しい そして(楽しくはなかった)
実は、人生で初めてのことは 既に この会場にたどり着くまでに遭遇した 初めて降り立った駅だったし、 会場に足を踏み入れるのもそうだ 初めての土地にはワクワクしてしまう ここがどんなところなのか、 それは歩くことで体感できる気がする 《実感》が湧くのは体感することなのだ しかし今は会場に急がなくちゃ、 そう思って地図どおりにすす、、、、
その道には叩きつけられたケーキがあった
箱ごと叩き潰されたケーキの箱の中で 丸ごとケーキが潰れて、、いた。。
一体ここで、何が… 起きたんだーーーー
それもこんな道端で。。 あまりにも尋常でないケーキの姿に、 思わず写メ撮っちゃったよ! どうにもこうにも不穏な物語がよぎる… 頭によぎってしまう!! いやいや、、よぎってる場合じゃない!!
数年経って思い返してみると本日の本番とおして 《不穏なものがよぎっていた》 明らかにわたしたちが考える幸福に満ちたその (幸福)じゃあなかったのだ!! なっちゃんたちがやっていたのも もしかしたら もしかしたら同じ《幸福》かもしれないが 角度が、道筋が、見え方が、斜め上すぎる!!
もしかしたら もしかしたらだが 潰されたケーキにも幸福があるのかもしれない
だとすると幸福のすべては わたしたちに依存しているのかもしれない
こんなことを考えられるのも もしかしたらステージを見られたからかもしれない
会場にはヨ、、チョン様がいたw わたしが京都にいたときや灯明ダンスに参加した、 韓国の気鋭の振付家です。 会うのは数年ぶりでした― 自分に色々なことが起こった後会ったのは初めて。 チョン様はわたしのことを憶えてくれていた どうも自分の事情も誰かから聞いていたようだ なんだかとても嬉しい こうしてまた会えるのは奇跡にも思えます
そうだ、この感じこそが幸福そのものじゃないか
幸福に難しさが 幸福に別の角度が 果たして必要なのだろうか
もっともっと単純なところに幸福はある気がする そして単純なものであればあるほどいい気がする
その帰り道。
潰れたケーキは、あとかたもなく消えていた…
驚いたのは、、ケーキの欠片も生クリームの欠片も まったく無くなっていた 何もかもが消えていた どうやったらこうなるの!? 夢だったんじゃないかと思うくらいに マジックだったんじゃないかと思うくらいに (何もない道だった)
こんなイヴは、、もう二度と来ない気がしますw
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