| 2018年08月31日(金) |
「オクイチモンwith DAI 単独LIVE」 |
夏の終わりの惨劇だった それも「なぜ?どうして?」と迫ってしまったのだ 反省猛省である ただ、その疑問だけは本物だった
『オクラとイチゴとカルダモン with DAI』 -単独LIVE-
単独ライヴは半年ぶりらしい。 局地的に個人的に聴きすぎているために、、 月日についてまったくそんな気持ちは皆無w はじまってすぐに感じた
ほとんど歌える
うたえる自分におどろいた… もうほとんど歌えるじゃないか 彼らの歌を聴いてきた年月はここに感じた おぼえよう、なんて一度も考えたことがないのだ 年月が直結しているのだろうか 「朝飯まえに象に乗る」 その前置きMCだった
「私、高いところダメなんですけど だいぶオーケーでした! 大冒険でしたッッ」
「だいぶオーケー」って。。 いや待て!「だいブオーケン」がかかってる! しっかり韻を踏んでいるというのか?! こういうところが大好きなところです 笑笑 わたしは他界ところがダメですw だいぶどころかまったくダメです。 ついオーケーしそうだったあの日が懐かしい そして歌がはじまった
未知とのそーぐー そーぐー so good
象に〜乗る〜 乗る〜 no route
声に出してみてわかった この歌 意外とハードル高いぞ…
じぶんで歌っているとなんか なんだか、、恥ずかしいぞ!!!
たしかに簡単に口ずさめる。 だがその実、みんなの前で歌うとなると、、 自分に打ち克ててないと無理ッッ 聴くのと歌うじゃ天変地異ですw
す、、すごい歌だ(爆)
別の感動がキました
いや、待てよ? もしかしたらその恥ずかしいは使える! その歌詞を口ずさめば 自動的に 気恥ずかしさで笑顔になってしまうじゃないか スマイル大作戦じゃないか☆ もしかしたら そこまで考えてあるのか!?
な、、なんて狡猾な!!!(爆)
別の感動がキました
さらに route を root に変えてみたら 意味が全然変わってしまう可能性 起源とか根底に七変化です― 経路、進路、人生の航路をかるく超えて 《あなたの起源》、、です!!
象に乗るって 深い。深いな。。
◎たぶん考えすぎでしょうね◎
2018年8月11日
今日は『The3rdBD』で事実上の舞台監督だった 《さとこ》さんに会いに行きました。 この人がいなかったら成功はなかった。 進行&照明プランを裏方のみんなにイラストと文章 で視覚化、明瞭簡潔にしてくれた方です。 もう… 感謝しかない!!
さいしょに会ったのは、、どうだったかな
お、お、お、おぉおおお?! 思い出せないーーー
やるべきことに追い詰められていた気がします
自分自身が企画立案その主催者であるがために、 告知・会場・スタッフ・観客動員数、すべてを 丸くしてなお「成功」させなきゃなりません!! 催しをやるだけなら誰だってできます。 言葉が足りなかったり煙たがられることも 多々あったかもしれませんが全部やりました ですがこここそが鍛えなきゃいけない自力です。 時間に追い詰められるほどこころが削がれて あらゆるすべての場面で余裕がなくなります。。 自主公演に至っていつも思うこと、それは― 《すべてをダンスに回したい》 しかしそれとは裏腹に、舞台が如何に人間関係が 土台となっているかを思い知らされます 演るのは「わたしの舞台」だからです 自分自身が矢面に立てなければ決して始まらない。 ここに使える時間をつくる最後の手段は 本人のダンスを鍛える時間を削ぐしかない
大いなる矛盾
これを助けてくれたのがまいさんです MAI_S TEXTILE&ART 染め/織/ハンドメイドフェルト繊維による造形。 過去、某ダンスステージで同じ共演者でしたw 今となってはとんでもない過去ですが、 それからの付き合いは現在そのものです☆ さとこさんはまいさんが引き会わせてくれました。 舞台監督をしてもらおうと思っていた人が 仕事の都合で手伝っていただけなくなった経緯、、 だった、、記憶があります。 本番当日まで日数のないアクシデントでした。 アクシデントは仕方がない。 そんな中で、超明快に裏方のやるべきことを すっかりまとめていってくれました☆
正直、思いました 「神キタ」
おかげさまで『The3rdBD』は無事に完結☆ たしか《トイレの神様》いましたよねw 神さまがいるのはトイレだけじゃありません。 どんなところにも神さまはいるんだ、と思います! そんな神さまのひとりですw 神さまは山のケーキ屋さんに連れて行ってくれた後 海岸までドライブしてくれました。
沈む夕日めっちゃ綺麗だった
色々な夢や希望も話した気がします さとこさんの娘の話を憶えています 網膜剥離のリスクを抱えてて衝撃の不安と恐怖に 立ち向かう生活を強いられた そんな娘も結婚してたくましく生きている そのような話です。 どんな人にもいろんな物語が、現実があって、 それを乗り切ろうと努力した体験を持つ人のつよさ 困難に立ち向かう努力が いつの間にかそのひと自身になる日がきます その困難には上も下もないと思うのです だって今に直面しているのはみんな同じだからです どんな人とも分かち合えるはずだと信じます いのちは自分だけで完結できません だからこそ個々それぞれのチカラを あたたかさを 示すことが 誰かをたすけていくのだとおもいます
メモは 2018年8月7日 大きなシリーズものの流れの陰に潜んでいたのだw
電車を降りようとしたら声をかけられました
「ミュージシャンの方ですか?」
「いいえ 違います」
「そうですか すみません! かっこよくてずっと見てました!!」
これは本当にあった超実話です。 つい先日の8月3日、 「料理人ですか?」の後編にあたります(爆) 1週間のうちに2度も声をかけられました。 なんだろう、、 【別の職業に間違えられる期】なんでしょうかw ◎ここまでその周期が早いのは人生初です◎
声をかけられたときは 練習でヘトヘトになっており、 意識がもっていかれそうな状態でした(超実話 そう。そうだ かっこよかったならそうは《見えなかった》はずだ なにしろ声をかけられるくらいです☆ これは自分を信じてもいいんじゃない??
ヘトヘトだったけど胸は張れていたんじゃないか
すくなくともそうでなきゃ俺なら絶対声かけないね っていうか…こちらからは絶対に声はかけられない
だってこの逆はありえない(爆)
男子から女子には、、、無理だろw 言えるもんなら言ってみたいもんです―
「かわいくてずっと見てました!!」 アウトだな
これはアレか? イケメンに限るやつか!? いいや、イケメンでもアウトのはずだ。 状況はパブリック電車!! 全開で人混みの中なんです!!
絶対の壁
人間には超えられない壁があるのか (超えたら終了してしまうやつです) それにしても男女不平等を感じます わけもなくここにだけは怒りを感じる☆
すべてを許してくれるのは想像力だけでしょう
もし声をかけてくれた人がミュージシャンにしか 興味なかったとしよう。
「チッ! ミュージシャンじゃないのかよ。。 声かけるんじゃなかったよ」
この想像、、結構キツイな… 笑笑
いや、待てよ? ミュージシャンってそんな堂々としてる感じある? ボーカルならまだしも、、 どちらかというと猫背だったりしてないかな?? まさか―
なんてこった!!
『ハウルの動く城』
民放ジブリ夏の陣です。 たまたまそれを見ていた友だちが、 画像写メを送りつけてきて知りましたw
「テレビをつけたらハウルやってて ハウル見てたら やっぱりタイスケさんを思い出しました」
ええっ!?ほんとうに?! 嬉しいじゃないか!! いや、、待てよ? 待て待てよ 思い出してくれたのはうれしいのだけど、 なんとなく。なんとなくだけど、、 一体どこで、どのあたりで思い出したの??(爆) だってあのハウルだぞ!? 似てるのか もしかしてこれテロ行為なんじゃないのか? いや… 疑うのはよそうw 甚だ見当つかない 素直に問いただしてみたらもっとこわかった
「ダメ男なところですね」
《外見》とかじゃまったくなかった― いったいこの女はわたしの何を知っているのだ ヒドすぎだろその一言!!! 直撃じゃん!! しかし、復帰公演も再復帰公演も見にきてくれた☆
はっ… まさか
そのとき何か見えてしまったのか!? すくなくともこの人にとってのタイスケという虚像 いや… 真実がおそらくここにあるんじゃないか―
そんな断言できるレベルっすか
度肝に怖い話です わたしたちの真実は わたしらしさとは
《自分よりも他人が知っているのだ》
わたしたち本人がそれを「ちがう」と言い張っても 周りのひとには既に(見えてしまっている) 無意識に自分自身から漏れ出している何かがある そうじゃないとするのなら わたしたちは無意識にバレるよう仕組んでいるのか それを選んでいるのだとしたら― なんてこった
わたしたちの振る舞いや挙動そのすべては 真剣でも怠惰でもない。 いつも、いつでも わたしらしさそのものです
あの超有名リゾート列車で演奏する弾くん。 ◎ヴァイオリニストです◎ 友人であり尊敬するオペラ歌手から、 「弾くんはどうか」と推されたのだ。 そういうわけで 弾くん直近の本番日を 本人から教えてもらって本番を直撃した。
次回公演のためです☆
空っぽになっていましたが、ようやく初動です! とくに自分自身の公演をやると 毎回やりきれているからか全て失ってしまいます 自分に何ものこっていない おどる理由がない どんなおどりを踊ったのかも消し飛んでいます あれからイギリスにおどりで滞在しながら 少しずつビジョンを引き寄せたいま 自分自身がしたいやりたいイメージは 自分が客として見たいそのイメージは 誰でもできるものじゃありません。 (イメージを共有できるかどうか) (そして何よりもフィーリング) 会話もしていましたが、プロである以上は本番です 観客に対してどんな向き合い方をしているのか 本番は… それが一目でわかる☆
BAR CAVALLO the Salon -ヴァイオリンとワインのマリアージュ-
ラグジュアリーなワインサロン ゆったりとソファで寛ぎながら、 400種類以上のワインをお楽しみください。
瀟洒な大人の空間に演奏空間がつくられていました わたしは ワインは人並み以下に詳しくないので、 マスターのおすすめと特注カツサンドをオーダー。 演奏準備をしていた弾くんには―
「カツサンド!この店のことよくわかってますね☆ めちゃくちゃ美味いですよ!!」
って、、全然わかってないのに言われました(爆) ともあれ、狙い撃ちは間違っていなかったw こういうところも意外と重要です。
すでにたたかいは始まっているのだ 笑笑
わたしも同じく人前に立つ種類の人間です。 だからこそ、なめられちゃあ終わりってもんです!
それにしても、、今さらお店を調べてみると―
【海外のリゾートホテルラウンジを思わせる ダイニングバー。 著名人も訪れる食通屈指のラグジュアリー空間】
そんな文言までありました。 本当でしょうか? そんな疑惑は料理を食べれば解消。 このカツサンドは度肝すぎる☆ カツが厚い マジでヤバイ ワインが美味い 酔いがマワル 入店すると財布の中身が心配になりますw だって大人空間が度を超えてすごいのだ。 カウンターには伝統工芸《大川組子》の扉!! 大林素子じゃありません。大川組子です(爆) そして角本丈治 制作によるステンドグラス!! ホテル◎ークラ チャペルなどの作家。 ほんと誰が見てもカッコイイ大人のBARです☆
そういうわけで少し飲みすぎてしまいました
弾くんは素晴らしい演奏でした 途中からピアノ伴奏も入って一気に聴き入りました あらためて伴奏の驚異的なチカラを感じさせられた どう言えばいいんだろう (演奏全体がやわらかくなる) 対して、やはりヴァイオリンはインパクト よくもわるくも抜きん出てしまう したがって演奏者の力量が問われるというわけです! クラシックの人たちがすごいのはあたりまえ。 なにしろその努力の時間が桁違いです。 もうこればかりはひっくり返っても勝てない。 突然バレエは踊れやしません。 絶対に、ない
演奏で特に痺れたのは、弾くんの超絶テクニックで おそろしいくらいのカッコよさに変貌を遂げた… 「かごめかごめ」 無茶苦茶カッコ良かった 本日MAXの度肝です かごめかごめが、、 あんなにカッコイイ曲だったなんて知らなかった もう一回聴けるもんなら聴きたい―
生ヴァイオリンが聴けるサロン すばらしいなあ こんなサロンは人生で初めてです 目の前で曲が、音が抜けるからだにひびく豊かさ 目の前だからこその迫力 テレビや動画では(絶対に)超えられない
演奏最後にマスターの了解を得て、弾くん作曲 「danny sky」で踊ることになりました☆
わたしの職業といえばここに命張れるか、です。 この一瞬でどれだけのことができるか 床、場所、距離、高さ、お客さんの存在 それを超えて《今》をおどることができるか
やりきりましたが お酒のせいにはできません 決しておどりに行ったわけではないのですが 踊らせてもらえるのは光栄なことです いつもいつでも《まだまだできた》 《やれたはずだ》がつきまとう以上は 限界じゃありません
弾くんの演奏でおどれたことで 見えた未来がたくさん たくさんありました お店に、そして弾くんに感謝です☆
| 2018年08月08日(水) |
戦争童話「ウミガメと少年」 |
8月。この月以外で戦争のこと 書くことない気がします
だから 書こう!!
それは、、恐ろしいまでの完成度でした しかし戦争は、その現実が、、どれほどのものか まったく想像を超えてくるものだと いや… 想像さえできないものなんだと 感じざるを得ませんでした―
『ウミガメと少年』
平和だった沖縄が激戦地となったため、 疎開することになったテツオ。 疎開先で友達になったノリオと花子。 楽しい日々を過ごしていたある日のこと、、 米軍の空襲が激化。 街中を逃げ回る中、テツオの眼前で爆弾が爆発 ノリオも花子も命を奪われてしまいます。。 逃げ延びられたのはテツオひとり。 ガマ(自然壕)に逃れたテツオは浜辺に、 産卵するウミガメが目に入ります! 「いつか一緒に見よう」 ノリオと花子、三人が そう約束したウミガメの産卵でした。 その卵を砲撃から守ろうと テツオはガマへと卵を移します。 無事に孵化できるように…
視聴したのは、まだ画面がワイドでない時代の アニメーション作品です。 内容については上記のように要約されていました。 テツオはきっとウミガメを孵化させるのだろう、 そう漫然と見ていたのです。 しかしそんなラストでは《まったくなかった》 見れるものなら実際に見てほしいところですが、 この慟哭に、書かないわけにはいかない気持ちです
テツオは空襲から逃げ延びたものの、、 ノリオ、花子を失い、 そして肉親、親族をも失ってしまいました 誰も、誰もいないのです 目の前で花子が死んでいるとわかったときの 映像は凄まじく なにかを感じずにはいられなくなりました 戦争がなんたるか思いを馳せないわけにいかない ことばにできない壮絶な描写でした そんなテツオがたどり着いた浜辺 浜辺にはウミガメがいた ウミガメを見たときのテツオの希望ったら、、 しかし何日が経過したのでしょうか 丸刈りだった髪はいつの間にか伸びています それに比例してテツオのからだはボロボロでした フラフラで今にも体が半分に折れそうでしたが なんとかウミガメの卵を世話していたのです しかしテツオはついに倒れてしまいます そのとき、大事にしていたウミガメの卵をひとつ 割ってしまった! テツオは、割れた卵の中身の美しさに 時が止まってしまいます 卵のあまりの美しさにテツオは卵をすすります 自ら生きるために ウミガメの卵を食べつづけてしまうテツオ
このお話はその姿が最後です
守ろうとして努力していたものを 食べてしまうという圧倒的なラストでした 戦争の愚かしさと 食べなければ生きられない人間のその業 ウミガメを守ろうとした、テツオのこころ その人としての心と、、食べてしまう矛盾とが それでも生きようとしてしまう人間の姿が 戦争のことを間違いなく教えている、 そんな確信がありました
人が《気づく》というのは どうしてこんなに痛みや苦しみを伴うんでしょうか わたし自身、自分が死ぬような目にあって はじめて奥底にあった自分自身を見つけました それまで大切にしていたものは そこにはありませんでした わたしたちの世界は、社会は、常識とかいうものに 見えない横暴に、囚われているところがあります わかっていると思っている自分自身が、どれだけ そのような世間のあたりまえに縛られているのか あたりまえすぎて実のところ 気づきもしません
大切なものを本当に《大切》だとわかるのは 奪われたときです
できていたことができなくなったとき はじめてそれを考えることをしたとき 想像ではない本物の体験がそれを真実に変えます わたしたちひとりひとりが それを紡いでいる者だと思うのです
わたしたちひとりひとりがたどりついた真実は 渡そうとしなくても気がつかないうちに 知らずに紡いでしまうものかもしれません 油断すると人に見えてしまうからです
ほんとうに大切なものは 失うことなしに伝わるのでしょうか
わたしたちはいつか必ず死にます 死ぬことを実感したとき、 生きることを考えないわけにはいかなくなります
感動は決して喜怒哀楽というところだけじゃない、 生きている というのは その全部のこと たのしい うれしい だけでは決しておさまらない そんな気がするのです
つづきです。
『いのちって何?』 相 大二郎
「いのち」は、自分のものではない! 小学校、中学校、高校あわせての 全校生徒100人弱。 個性豊かな生徒たちと 密にふれあう中から生まれた、 生きることについての「気づき」を、 世の中に問いかける。
日本一小さな私立学校長のメッセージ
一燈園が百年を迎えたと言うことは 奇跡ともいえよう。 その奇跡の秘密はやはり創立者 西田天香の 思想と業績にあったことを痛感する。 そしてその奇跡の秘密の内容は本文の中で 触れてゆきたいと思うが、そのポイントは 「大自然の神秘さ」に軸を置いた 「精神性」ではないかと私は受け止めている。
「一燈園とは何か」という質問に対して、 天香さんは常に 「一燈園は宗教ではない、生活そのものである」 と説明されていた。 またその生活については 「自然に適った生活である」と説明された。 この「自然に適った生活」という言葉に対して 私は幼い頃から大きな疑問と、 そしてより大きな魅力を感じていた。 この言葉はさらに次のように丁寧に説明される。
「自然に適った生活をすれば人は何ものをも 所有しなくとも許されて生かされる」
この本を開いて 【第一章 水がお湯になるとき】 第一章ですでに全開で気づかされます。 この《気づき》は、例えるならこうでしょうか
脱ぎ捨てられた靴をそっと揃える
感覚で例えるのはとても難しいのですが、 そういった《何でもないようなこと》が こころに染み入る瞬間そのものだと思います。 このことについては大好きな人にも言ってみました が、大して響かなかった(ように見えた) ひとのあたたかさのようなものは わたしたちには得難いものだと心底思っています そしてそれが分かち合えたら 分かち合える時がどんなに奇跡的なことか
一般的には大きなことを成し遂げたとき。 それも、ひとりでは叶えられないことを 成し遂げたときに分かち合える瞬間が来ます。 舞台を終えたときでしょうか。 ひとりでは叶えられない達成感をイメージするには いちばん分かりやすいかと思います。 しかし、そのあたたかさはいたるところにあります 決して特別なときだけじゃない!! だって、あたりまえすぎて気づかないレベルですw さあ《行願》について復習しておきましょう☆ 《行願》とは(トイレ掃除) 見知らぬ町の見知らぬ家を一軒一軒訪ねて回り、 トイレ掃除をさせていただく、というもの。
水がお湯になった (一燈園高校2年R.Y)
一月八日、年頭行願出発の日。 朝食を済ませて 行願式が終わるとすぐに出発した。 草履に慣れていない素足が冷たくなっていたが 一燈園の門で見送ってくれる人たちを見て、 頑張ろうという気が湧いてきて 冷たいことも気にならなくなっていった。 今度の行願で一番心に残っているのは 初日の戸別行願である。 最初は不安感や緊張感が頭の中を渦巻いて どうにかなりそうであった。 「さあやるぞっ」と思っても 一軒目に入るのに苦労した。 八軒目の靴屋さんでなんとかお願いをして させてもらうことになった。 そのときは本当にうれしくて、 バケツに水をもらい扉から拭き始めた。 冷たい水であったが汚れがひどいので 何度も雑巾をしぼってゆすぐうちに バケツの水も汚れてきた。 そばで見ていた家のご主人が 「水を変えてこよう」といって 汚れた水を換えてくださった。 雑巾をゆすごうとすると 水の代わりにお湯が入れてあった。 ご主人が気を遣ってくださったのか、 バケツの中にしばらく両手をつっこんでいると 手にしみ込んでくるお湯の温かさがご主人の 心の温かさのような気がしてうれしかった。 そして帰るときには 何度もお礼を言ってその家を出た。 戸別行願は他に二軒やらせてもらったが 最初にやったこの体験が一番心に残っている。
特別と思ってもいなかったことが特別になる瞬間 その感動は、、自分になる瞬間です わたしにも自分になった瞬間がありました それは《挨拶》です 忘れもしません これもその時にblogとして残しているはずですが あのとき。リアルあの時期のわたしは、、 自分自身をバカ笑いするくらいでないと 明日が手に入れられませんでした 笑い飛ばさないと生きようとできませんでした みんな笑ってくれるようにblogにしているのを、 無理やりに笑いにしようとしているのを、 自分で確認できるなんて、、 それほどに笑おうとしていたんだと思います
救命救急病棟からリハビリを始めるために転院。 はじめて自分の状態を理学療法士に計測されます。 分度器みたいなのとか定規みたいなので測られる。 どん底でした… まるで右腕が上がらなかった 「これからリハビリできる!」 やる気で満ちていたはずでしたが その現実は 機能を失ってしまった部位への絶望でした その絶望感はまったく文字じゃ足りません ホンモノのどん底でした なにしろ涙が尽きたくらいです あのときは夜を起きてたら 極端なことしか考られませんでした しかし、太陽の光があるうちは 不思議とそんな気は起こしません だから昼間に根こそぎ体力を奪いました 夜、寝るためです そんなときの、とある朝でした わたしは転べない要注意患者だったので 看護師に見張られていました 部屋を出て看護師に挨拶したとき、 挨拶を返されたとき とつぜん
自分がひとりじゃない、って気づいた
挨拶して挨拶を返されただけのことですが、 自分にとっては人生で初めての瞬間でした 挨拶する誰かがいてくれること そしてその人が挨拶を返してくれたこと その挨拶に心がこもっていたとか、 特別な何かがあったわけじゃありません 挨拶には気持ちがなくてもいいんです -それでも応えてくれる誰かがいる- 全身でそれを感じました たったそれだけであんな感動が襲うだなんて 挨拶って、、すごい
自分自身の中で水がお湯になった瞬間でした
わたしたちは気持ちを最優先しがちですが、 気持ちは決して重要なんかじゃなかった そのときに誰かがいること 応えてくれる人がいること それがどんなにしあわせなことか
あの瞬間を感じていなかったら今の自分はいません
今でこそ希望を失わないのは あの時のどん底があるからだと断言できます あの時からです 《楽勝っすね》
「水がお湯になる」…。 我々大人が、「生命が大事だ」「心が大事だ」と 何百回 口にしたところで、 「生命の大切さ」「心の大切さ」は 生徒たちの心に伝わるものではない。 おそらくその言葉はそよ風のように 彼らの頭の上を通り過ぎるだけではあるまいか。 なぜなら彼らは、「生命が大切だ」 「いじめはいけない」という言葉は、サウンド (響き)としては嫌というほど耳にしている、 つまり知識としてはすでに知っているからである では子供たちに「生命の大切さ」を実感させる にはどうすればよいのか。 「その言葉使わず」…。 私は、本当に真剣に「生命の大切さ」を子供たち に伝えようとするならば、 「生命は大切だ」というその言葉を使わない方が よいと思う。 子供たちが、彼ら自身の行動を通して 「自ら気づく」「自然に伝わる」方法を 大人は常に工夫することが必要である。 そのために大人には率先垂範という情熱と責任性 が要求される。 その要求に応えられないとき、大人は一番安易な 正しい「その言葉」を口にする。 水がお湯になるのはガスや電気ばかりではない 「水は心でもお湯になるのだ」という事実を 生徒から教えられた思いである。
我々人間は本来、生を授かると同時に、一人一人 すでに余命宣告を受けている存在であった。 改めて六ヶ月、六十年という数字には 表れないだけであって、人が「生きてゆく」と いうことは「死んでゆく」ということを 意味しているのであった。 従って、 自分の生命は大自然からの預かりものであり、 自分のものではない、ということを実感すれば、 今まで気づかなかったことに気づく世界空間が、 広がってきても不思議ではない。 そして大自然はすべての人間に、 そのような能力を与えてくれているように思う。 そしてそのことに気づくことこそ、 人間の生きがいではないかと思う。
先日のパーティーでは、 相先生にきっちり話しかけました☆
相先生 「うちにもダンサーになった子がいるんですよ! ええとあのコンクールの審査とかやってます。
(ローザンヌか? ローザンヌだな! ダンサーはダンサーでもバレエダンサーだろう)
よかったらこちらにメールください チカラになれると思いますよ!」
名刺をいただいた― 名刺は両面タイプで、ひとつは学園長として。 もう一方は京都ユネスコ協会の会長としてだった! 名刺ひとつとっても唸ってしまう。 正直言うと色々聞きたいことが山ほどあった。 ダンスよりも聞きたいことがたくさんあった。 でも、、答えてはくれないだろう こればかりは自分で見つけるしかない
相先生が教えてくれるとしたら、 きっと答えが見つかるだろう場所だと思う これまでで知り得たすべてを教えてくれる気がする こういう《場所を示す》というのは 教育とは呼べないかもしれないが もしかしたら先生たちの目指す教育かもしれない
気づくチャンスを与えつづける
ことばにする、というのは 答えを示すものじゃないかもしれません ことばにするとある意味でとても簡単です インターネットに近い気がします 答えが瞬時に手に入ってしまう 意思の疎通を図るための共通の《認識》 考えれば考えるほどすごい発明ですよね→ 言語 だけど!! 意思の疎通がズレたら別の《認識》になります。 同じ認識じゃないから考えなくちゃなりません。 どうやったら同じになるのか はじめて考えることになります。 だとしたら 同じ認識じゃないことが新しい何かを生みだすのか
同じじゃないから可能性がうまれるんじゃないかな
同じにならないことは(問題)なんだろうか わたしたちは同じじゃないことに特に敏感です 何を考えているのかわからない、とか あの人はアレだから、とか そんな枠を 頭の中につくってしまう つくってしまうその前に 一歩だけ踏み込んでいたい
その人のこと もう一歩くらいは頑張りたい
わからない、って怖いよね 今のご時世 下手すれば殺されたっておかしくない そんな中で一歩は もう勇気しかない おどりは ダンスは 勇気しかない
会場の外には相先生の著書が山積みされていた!! 迷うことなど何もない☆ 相先生のことを知る大チャンスだ 笑笑
『いのちって何』 相 大二郎
つづく。
| 2018年08月05日(日) |
フリースクール玄海 設立20周年 |
招待状をいただいておりました!! もちろん正装で出席してきましたよ☆
『フリースクール玄海 設立20周年記念パーティー』
会場 グランドハイアットーーーッッ わたしは講師として末席します。 このパーティー会場は人生初。 広い! ホールスタッフも食事も完璧です!! いやあ言うことがない ダメ出しできないw 講師席にはいろんな先生たちが集っていた。 ボクサー プロレスラー 何と言ってもこのジャンルは特殊でした!! このパーティーに出席していなかったら、、 人生で遭遇できていない気がしますw お話しできて光栄でしたし、、 もっともっと話していたかったーーー それにしてもわたしもダンサーです。 いったいこの学園はどこまで手を出しているんだw すごい。すごいな… しかし一番凄い人は特別ゲストにいた
相 大二郎 先生 一燈園・燈影学園 学園長
わたしの公演をいつも助けてくれるジョーさんは 一燈園研修に行ったことがある、と言っていた。 一燈園には《行願》という行事がある。 見知らぬ町の見知らぬ家を一軒一軒訪ねて回り、 五軒十軒と断られ続け、ようやく、 「若いのにご苦労さんです、どうぞ」と言われた時 生徒たちはトイレに飛んでゆく。 そして白い便器を磨きながら、 「一体自分はなぜトイレの掃除をさせてもらって うれしいのか」という新たな自己発見に気づく。 スクール生も年に一度必ず研修を受けに赴く。 そして《行願》を行うのだ。 とにかく噂だけは聞いていた。 それも単なる噂じゃない、凄い噂だ。 そんな学園長の相先生(あいせんせい)の言葉に 一気に引き込まれてしまった
「言葉や文章は平面だ 実践してはじめて立体的な人生となる
いのちやこころは教えられない 教えることができるのは知識と技術 いのちやこころは答えがないから教えられない 教えてもいいけど なんの説得力もない
一燈園の教育は 正しい教育を教えているわけではない」
相先生の祝辞を静聴してわかった その言葉はどれもダンスに、おどりに適っていた 自分がおどりたい理由そのものじゃないか なんてこった
自分がまちがっていないのを感じました
わたくしごとですが、ホンモノのおどりはダンスは 教えられるものじゃありません 例えば振付を教える そしてその振付を完璧にこなすことができる それがダンス?おどりなのか!? じゃあ歌手のバックダンサーの踊りはどうだ バックダンサーだけを見る人がどれだけいる? 歌の上にダンスがあるのを見たことがあるか? エンターテインメント、娯楽のダンスは特殊です。 わたしからすれば― みんなが見知ってるダンスとやらの方が特殊。 見た目のかっこよさ 群舞のインパクト そのどれも、それぞれが頂点のひとつでしょう だけど、、それだけじゃあない。 ステージと客席に分けられない場所ならどうだ 音も歌もないダンスならどうだ そんなダンスに心が締め付けられたことがあるか 涙が止まらなくなったことがあるか
与えられないおどりが、ダンスがこの世にはある 誰にも踊れない自分だけの踊りがこの世にはある
じゃあそのおどりって何? ダンスって何さ!?
じゃあいきるって何? いきるって何さ!?
じゃあ いのちは? こころは??
◎それを踊っていたいのだ◎
その答えはことばにできませんでした ことばにすればするほど間違っていくのを感じます 一言では絶対に足りない 説明したいんじゃない 答えは、、説明するものじゃないはずです!! ことばの限界 -すべてはことばにならない- 相先生の言う「答えがない」は わたしたちに(等しく当てはまる答え)です。 わたしたちそれぞれにとっての答えは「ある」 ここまで来るのには長い長い時間がかかりました 踊れるか踊れないか そんなギリギリの身体でたどり着いた地点が今です 頭で知っていることは 本当には知らないことです 自分が死ぬことは知っていても 本当に死ぬのはただの一度です 《わかった気になっているだけ》なんですよね これが後に読むことになる「バカの壁」の正体です 壁を超えられるかどうかはわたしたち次第 たどり着いた地点にはまだまだ先があります 生きているかぎり終点じゃありません 生きようとするかぎり 自分で見つけようとしたい 見つけようとする自分でいたい そのおかげで今の自分の地点を知ることができます
実は、、先日、過去のガラケーが発掘されました☆ その中には事故後、 みんなからの受信メールがそのまま残ったままでした ロックがかけられたメールのひとつ
「動きたいのに動けない… 辛すぎますよね。。 でも、焦らないでください!! 皆 待ってますからっ 数多くのダンサーが大怪我を経験しながらも 今日も踊ってる 技術や体の変化が… って心配しなくても大丈夫です
踊りって中身だから☆
やっぱり経験や精神面、人間性だから☆
だから焦らずにリハビリ頑張ってください 待ってます」
今見ても言葉を失うほどの威力です あの頃は不安と恐怖で《焦らず》なんて まったく出来なかった。。 相先生の言う通りその時が来ないとわからない 自分で気づかなきゃ自分のものにできない
自然に適う教育 ヒント
相先生はこのふたつをおっしゃっていた わたしたちが子どもたちに出来ること もしかしたらそれを渡し続けることかもしれません それも、渡そうとするものじゃない気がします
経験・精神面・人間性、、だもんね
全体写真を見返したら鼻血出そうになりました。 わたしはがっつり相先生の隣に座っていたのだw そんなところに座れる人物じゃなくないかな 笑笑 いやあ我ながら間違ってない。 確かなのは今だけだ 下手すればもう二度と会えない
きっとそれがわかっていたんだろうな
スタジオの女の子がいよいよ旅立つ。 その前夜、スタジオ生のクラスの後。 壮行会のような時間になりました!! (ギリギリ間に合った) その女の子はスタジオ最強の女です。 わたしの最強のライバルでした。 わたしは再復帰できたものの、 如何せん術後の身。。 クラシックに於いてはできないことしかない。 何をもって《できる》とするのか バレエは青空のように明快です☆
挑めるだけでも地獄
スタジオでいちばんのお姉さんが、 スタジオを去る日です。 みんなめちゃくちゃ泣いてた 自分にはそんな経験がない。 おどりに関しては、、 自分自身で叩き上げるしかなかった。 スキルを上げるには道場破りのように 乗り込んでは手当たり次第挑むしかなかった。 祝福されるような時間は一度もなかった
めちゃくちゃ羨ましかった
わたしはこれまでの勝手に世話になったお礼を サプライズを、手紙とともに渡しました
「新しい門出おめでとう!! いろいろ悩んだりすることもあるだろうけれど 《エストニアにいる》 その事実だけで日本にいるわたしたちにとって 《希望の光》そのものです 誰に左右されるものではない、 自分にしか踊れない踊りをきわめてください」
こんな手紙を渡すような大人、自分くらいだろうか そしてそれを怖れず出来るようにもなった。 再復帰して技術がどうしても追いつかない自分に、 扉を開けてくれた先生にスタジオに感謝しかない。
稽古場は真剣に挑む者のみの場所 そして、挑むのは自分自身の可能性です 何年もこのスタジオに通って挑みつづけた結果は 誰もが得られるものじゃありません
いつの日か、この女の子の踊りがまた見たいなあ それが日本じゃない場所でありつづけることを 願っています
-スペイン団クリエーション2日目-
正午をまたぐクリエーションを終えて、 正福に寄りました。 食べて力を充填する。
【味の正福】
もう何年も通っている有名店です。 マスターは、わたしが身体に拘束具を つけていた時代をも知っていますw あの時は右上半身が砕けてました… あれから復帰してさらに再起まで遂げました。 カウンターを示されて座り、注文を経て、完食。 すると、隣のおばさまに声をかけられた!!
「あなた、料理人ですか?」
料理人ーーーーーーーーーー!!! これは、、この台詞は人生はじめてです☆ どうしてそうなった!? 意味わからんッッ 笑笑 おばさまはつづけます
「いや、あなたに会ったのは 今が初めてじゃないのよ。 以前に食べてたお魚料理も通のものだったし、 それでいてマスターに 「食べるのが上手じゃなくてすみません」 とも言ってたし、、 それで食べるときも姿勢がすごく良くて 目に止まってたのよ」
えええええ?! すごいなぁその推察!! その魚料理の真実は《ただの偶然》ですw それが食べたかっただけですよッッ そして「食べるのが上手じゃなくてすみません」も 真実は《リアル事実》なんですよッッ(涙)
そのおばさまは身なりがいい。 清潔感もあって好感がもてます。 すごい人なのかもしれない予感がありました
「娘がフランス人と結婚して私を呼び寄せて フランスで暮らすことになったのよ。 それでみんなを集めてお別れ会までやったの。 だけど数ヶ月経って、 どうしても食べものが入らなくなった。 それで…恥ずかしいけど戻ってきちゃったのよ」
そうだったのか― 食べものは、、たしかにキツイだろうな それも年齢を重ねれば重ねているほどキツイはずだ 順応なんて、本当の意味で出来るのだろうか そうだ。もしかしたら きっと話し相手もほしかったんじゃないかな それで自分に話しかけてくれたのかもしれない わたしはずっと話を聞いていました そして一言「ありがとう」と言って去られた
どんな人にも悩みがあって それを打ち明けられる人が要るのかもしれない 豊かであっても こころも同じく豊か、だとは限らない
やっぱり人が人にするんだろうな
自分が自分でいられる場所 自分を自分にしてくれるのは自分じゃないんだろう
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