踊ってきました!
『砂時間』 P’s Anniversary event スナドケイが刻む時間のように ゆっくりと流れる中 心に映る心象風景をなぞるよう 自分らしくこれからを過ごしていきたい
美容室 P’s 誕生祭です☆ もうここでだいぶ踊ってきましたね。 年月を感じずにいられなくなってきました! 天才 執行さんの根城です。天才です。
すべての方が少しでも 笑顔であれる そんな場所になれたらな P’s
抱えているものは 底が見えないほど深く そしてエグい だがそこから這い上がってきた 優しさの男
今年のアニバタイトルは― 『心象』そして『らしさ』
そんな男に課題を与えられておりました。 単純に音だけを渡されており、 当時は曲名も知りませんでしたが! 2020年。今こそ調べました(爆)
「Establish I Love You」 (Instrumental) by Jincheng Zhang
2分28秒ほどの曲です Yから始まる有名動画サイトで聴けます 是非とも検索かけてみてください 画面は本人の写真がガンガン入れ替わりますが、、 ガチャガチャした画像とは裏腹に静かな曲ですw なんでこんな風にしちゃったんだろう。。 だいなしじゃんかッッ いや、ほんとうにいい曲です。 繊細に踊りきれた残滓を今なお感じます! たしかこの日は―
左右強く合わせた両の手が 剥がれる瞬間を踊った日
この日、一番よろこんでくれたのは なんと執行さんその人です☆ いや、天才です! これまで本人のLIVE PAINTING本番も 重なっていたために、 わたしの踊りを落ち着いて見た日がなかったのだ よくよく思い返してみたらたしかにそうだw そうかぁそうだったか!! いろんな人たち 以前から見知っている方たち それぞれから「じーんときた」との 感想がいただけました ここで出会った人たちとは一緒に公演もしています その密度がとにかく濃いのです 一重にP’sに集まる人間の気質の賜物でしょう 兎にも角にも執行さん美香さんありきなのだ そして今回はやはり自分の再復帰がありました 「踊ってくださいよ」の一言が どれだけ心に沁みたことか きっと、きっと誰にもわかってもらえないでしょう それくらい嬉しかったのを憶えています 踊る準備はこれまでとは別次元で必要になりました 大きな爆弾をも抱えています 今ではすぐに「いいよ」って答えられません それでもまたこうして踊れるときが来たんです☆
孤独に歩め… 悪をなさず、求めるところは少なく… 林の中の象のように
◎執行さんに美香さんにそしてP’sに感謝◎
赤ちゃんが泣いた日のことを思い出すと 人間社会パブリックの怪異を感じます
たとえば… それを解決しようとする人間の勇気の出し方 考えれば考えるほど迷走してしまいます 一体どうしたら正解なのか、、わからない その行動は、行動を起こしたら 失敗はどうしたって批判に晒されてしまいます 動機はたったひとつです
車内の空気をやわらかくしたい
これが、たったこれだけなのに、、 どんだけ難しいんだ!! こんにゃろう
じゃあ傍観者ならどうだ 赤ちゃんが泣いているのを 見えているのに見えていないものとする やり過ごそう、なのか うるさいなあ、なのか 面倒には関わらない、なのか そんな傍観者になったとしても、、 《希望》はないのか
誰か何とかしてくれないか
そうどこかで願っていたりしないのか 「誰か」に期待しているんじゃないのか ひとに 完全に無関心でないのなら。。 そんな一抹の何かこそが、、
《わたしたちの希望》の正体
もし。もしも車内の人みんなが思っているのなら! その思いは集合有意識じゃないのw 共有できる可能性がここにあるじゃないか! ですが、、その希望を実行していないのが現実です 誰かが実行したとしましょう その誰かが成功したら「おお、よかったよかった」 その誰かが失敗したら「何てことしてくれたんだ」 希望が完結してしまいました… その他大勢ってほんとうにこんなもんでしょうか 「大勢」で囲ってしまえるもんなんでしょうか 希望がただの希望じゃなかったら もし一歩踏み出す勇気がひとりひとりにあったら
世界が変わらないわけがない!!
この一歩がどんなに難しいか いつも考えてしまいます これまでもギリギリのところで攻めてきましたが、 ほとんどこうなりますw 「また やっちまったあああああ」 それはそれでしばらく反芻に苛まれます(爆) 周りにはバカにされてもいるかもしれません でも「やらなきゃいいじゃん」は、なしです 正直、世界を変えたいなんて思ってません ただ、空気は、空気だけは変えられるんじゃないか だってイメージにしっかりと掛かっているんです! 全員に一歩がないのが人類なのかもしれませんよね みんなが一斉に手を差し伸べてきたら怖いもんねw
でも、可能性は 可能性だけは《あり》です☆
だって「出来るかも」しれないじゃない! 全員に出来るかもしれないのが人類です。 幻想だとしてもイメージできますもん!! 赤ちゃんが井戸に落ちそうになったら、、 みんな猛ダッシュするでしょ!!(井戸って… 一斉に手を差し伸べたって決しておかしくないぞ! はーーー俺の、、希望そのものだわ☆ それにしても《誰も行動できない》というのは 寂しいもんです まったくこころが淋しい 失敗にしろ成功にしろ どこかで誰かが示していかなきゃ 示さなきゃ はーーー俺の、、ダンスそのものだわ☆
誰かの失敗が誰かの成功を生み出すはずです (俺はあんたみたいな失敗はしない) 誰かの成功が次の成功を生み出すはずです (私もあの人みたいになりたい)
ゼロから経験を、人生を、積み重ねていく限り 経験が満ちているところから始まらない限り これが、わたしたちの《生きている歴史》のはず!
◎誰かが常にそれを示していかなくては◎
失敗しようとも成功しようとも 何かする誰かがいて初めて可能性が顕現します どれだけ自分を傍観者だと思っていても、 魔が差して行動に移せるかもしれません☆ それは、きっと そんな誰かがいたからです! そして、なりたい自分がいるからです! いつどこでだれにその機会が訪れるかわかりません なりたい自分になれるときが来るだなんて ワクワクしてきませんか?
サッカー ペナルティキック PK ゴールを決めたい決めなきゃいけない場面です いつもいつでも自分が蹴らなきゃいけません 誰かに代わってもらえないのが人生です☆ 結果がどうあろうと― めいいっぱい蹴り込んでいきたいですね!!
2018年コロナ禍なし電車内。 しばらくすると目の前に、 赤ちゃんの座ったベビーカーが現れた。 車内は割と混んでいるほうで、 そのお母さんはどこに居ればいいのか 駅に着くたびに考えていたようだった
乗車してくる人たちに 気を遣って小さな移動を繰り返す
赤ちゃんは泣き出してしまった
きっとママの何かを感じてたんじゃないかな 端にいたわたしは何かできることを考えた 考えに考えた だが
出来ることが、、何もなかった
そもそも話しかけること自体が厳しい。 何さまでもないしお友だちでもない。 本気で助けがいる場面でもない。 それにしてもいい気分じゃない― みんながみんな知らないふりをしていた。 見えていないような感じだった。 この世にはいろんな人がおり、 赤ちゃんは泣くものだが、 それを「躾が悪い」なんて軽く言う人もいる。 わたしたちはみんな泣いてきたはずだがw そんなことを考えてイメージを振り切ったら、 ガハハなオバちゃんになりたい、と思えた。 空気を読まずに赤ちゃんに話しかけられるような どう見ても害がないオバちゃんに。 (そこで声かけるか?)って場面でも、 しっかりと話しかけられるなんてすごいじゃないか それにしても困難がつきまとうのはこれだ。
《害のない人間》に《見える》容姿が要る
そう察するものを備えていなければ成立できない。 どこからどう見てもそうあらねばならないのか。 少なくとも話しかける人にそう感じてもらわなきゃ どんなに自らの本質に害がないと言い張っても、 相手があるなら自分だけで解決できない! (そう見えなきゃ)いけないだなんて… どんだけ爽やかに生きてなきゃならないんだ!!
勇気だけじゃ超えられない絶対の壁
ダンスに置き換えてみてもゾッとします 最初から断崖絶壁で踊らされるようなものか。。 壁が高すぎるじゃないか いや、踊らなきゃいけないダンスは 果てしなく爽やかな― タイトル『無害』です
一般パブリックでは振付に意味を付与できません。 振付よりもその人そのもののダンスを踊らなきゃ!
中身が見せられない以上、外観でしか判断できない なるべくならオーラで勝負したいところです☆
オーラって…(爆)
仮に話しかけられたとしよう。 出来たとしても、ある程度のピエロ感が否めない。 バカを装った方が色々手っ取り早い。 そうでなきゃ人に話しかけられないのか? しかし本物のバカに見えてもダメだ 考えれば考えるほどさみしくなってきた
赤ちゃんは泣き止まなかった
車内の空気が硬い 赤ちゃんのダンスの力か その生命力とはまるで逆じゃないか… 赤ちゃんの鳴き方なのかもしれない 不安 不安じゃないかな ああ、、現実はやっぱり外見じゃないのかな ただそこにいるだけで 空気をやわらかくできる絶対の外見 もしも天然アイドルになれたなら どんな人にも話しかけられるんじゃないかな
出来ることの範囲がまるで違うじゃないか
| 2018年04月20日(金) |
その正体、武者震いかよ |
思い描ける、というのは物凄いことです☆ なぜなら…
人は、思い描けることしか 実行できない
わたしたちは、、 思い描けないものに対してアプローチできない! イメージがなきゃ、でなきゃ、できなきゃ カラダだって動かない動かせない。 イメージや感覚は無意識に働いています。
思い描くのは「夢」や「未来」だけじゃない。 「今」 わたしたちはイメージをつかいながら 現在を生きています 歩く 走る 跳ぶ 食べる 話す 踊る 動くよりも先に… イメージがある! 考えてみると、とても不思議な気分になります わたしたちのイメージは、、 その日常でつかってるほとんどは、、
《出来ること》じゃん☆
カラダが動かなくなったりして はじめてわかったことのひとつでしょうね。。 何かを失ってわかる、なんて 失わないとわからない、なんて 不幸じゃないのかよ!!
失わなくてもわかりたかったよ(爆)
失わなくてもわかりたかったんですが、 それでも失ってみなければ考えもしませんでした もしかしたら想像力は… 出来ること、から始まっているのかもしれません 出来るイメージは 生きることに直結しています そうだとしたら イメージは… イメージというのは、、本来
【すべて出来るものかもしれない】
ただ、間違っちゃいけない点があります そのイメージ・想像力の出自が… 妄想や欲望、「願望」ではないことです ここだけは自ら厳しく裁定しなければなりません ◎叶う、叶わない、の話じゃない◎
イメージが、出来ることに紐付いているのなら 「夢」も「未来」も可能性です 出来ることが イメージ の本懐だとするのなら 出来ないはずがないんです!!!
疑ったりする前に、 足が震える前に、 すでに出来ることだとしたら― 疑うのも足が震えるのも、、
《武者震い》じゃんw
イメージが「在る」のなら、 それが「出来る」のは確定事項です☆ そりゃあ震えたりもするだろう!!
その震えは臆病者だからじゃない! もともと不安や恐怖からくる震えじゃなかった! 捉え方を、受け取り方を、 間違えているだけじゃないかッッ
わたしたちにできること それは《自分に出来ることをする》です その単純で明快なさまは、 “ひと” の、 「今を生きる意味」そのものかもしれません だからこそ… 自分に出来ることを 間違えずにいたいですね! だって、、 わたしたちは出来ることしか出来ないんだから☆
| 2018年04月19日(木) |
勝ちたいという想いが夢を目標に変える |
やっぱり避けられませんでした!
人はやらない理由を探す 夢を諦める理由を探す
自分自身がやりたいことに対して起きる、 心の現象です。 自分がほんとうにしたいこと。 ほんとうになりたい自分と向き合ったとき。 とつぜん巻き起こる不安と恐怖。 おそらくは…
それが《困難》だと知っているからです
そんな自分に立ち向かえるかどうか 自分がやれるかどうか やり切れるかどうか 自分自身でたしかめられない、見定められない 見通せない その不安と恐怖
きっと人間、楽したいんです 楽がしたいからさ! 困難を自らしなければ一生楽をしていられます!!
できない理由さえあれば… できないことにしてしまえば… 納得して「やらない」を選べる!
それにしても、《なりたい自分》は偉大です。 だって理想像って完全無欠じゃん(爆) そりゃあ… 頑張らないと、、無理だろw 頑張らなくてなれる《なりたい自分》って何? そのままの自分、、か
でもね、意外と多いっすよ!そんな人
さあここで《輝き》の話です☆ あきらめと受け入れること。 あきらめと受容は最重要です。 あきらめと受容が現在の自分を示してくれる。 ですが一転、受け入れすぎると危険です。 現在の自分は、得てして なりたい自分に足りません。 現在のままで居られたら、 こんなに楽なことは、、ありません!
輝きが見えるのは なりたい自分になろうとしている人
別に、別にいいんですよね 息をしているだけでも なりたいものがなくっても そのままでも 生きているんだからさ!
わたしたちは生きて死ぬだけなんだから☆
どんなわたしたちでも生きていていいんだ☆
よし。ふりだしに戻る。 ヨガ・スートラにはこんな真理がありました
何かの想いに触れたとき そのときが《完成》である
たしか、そういった真言だった気がします 自分自身の何かに気付いたとき なりたい自分を見つけたときかもしれません その想いが《ほんもの》であれば すでに完成している、というものです なぜなら、真にそれを求めるならば 途中で諦めたりしない ずっと追いかけていける その《心の強度がほんもの》だからです
なれる人はなれるし なれない人はなれない
すごく単純で明快で、、度肝でした☆ 「思い描いたときが完成」だなんて。。 しかし面白いのはわたしの実体験にもあります!
イメージできないものは絶対にできない
カラダもそうなんです どこか怪我していたら痛めていたら できるイメージそのものができなくなります 防衛本能が記憶している激痛が無意識に、強烈に、 そのイメージを剥ぎ取るからでしょうか。。 ところが、カラダの準備が整ったら、整ったとき、 とつぜん《出来るイメージ》が湧くんですよ!!
わたしたちは創造力と共にあるようです
人間が人間である、っていうのはこれかも! 自分だけだったら諦めてしまえるかもしれません だけど、それができる人がどこかにいる 同じものじゃないかもしれないけれど 似たものを成し遂げている人がいるんじゃないか 誰かができるなら自分にもできるんじゃないのか 同じじゃないからやりたいと思うんじゃないのか 誰かがいる世界というのは 誰かが「何かをしている」というのは やりたいイメージを できるイメージを その可能性を教えてくれているんじゃないのか だとしたら、やっぱり抗わねばッッ 抗うのは不安と恐怖 抗うのは自分自身の在り方です これも誰の発言か忘却の彼方なんですが、 勝敗のトップアスリートだったと思います。
「勝ちたいという想いが夢を目標に変える」
夢を夢のままにしないこと。 その行動が夢を目標にする。 なんというゴリ押し直球勝負の言葉でしょう!! 迷う、なんて選択肢がそもそも… ないw やりたいから、やっているんだもんね。 スポーツの世界には勝敗があるので わかりやすいのですが、 勝敗でなくともその想いはあります。 わたしにとってはこうでしょうか
伝えたいという想いが夢を目標に変える
どうやったら、というところが常に困難です 原点はそういったものかもしれません わたしはそれをやめていないだけですね☆
| 2018年04月18日(水) |
いい練習が奇跡を必然に変える |
2017年12月28日の手記が、、 見つかってしまいましt また過去かよ― でも、これがまたいい手記だったんです☆
「いい練習が奇跡を必然に変える」
いい結果を出すのは簡単 いい練習をしてそれを自信に変えるのです
食べる 筋トレ 寝る
発言が誰だったかは忘却の彼方ですが、、 アスリート番組だった気がします! 脳筋。 脳筋ってヤツでしょうかw それにしても考えすぎて迷走してしまうのが われわれ人間です。断言です。 術後なんかは《真にできることがありません》 頑張りたいことに頑張れない。 これが心にとって最難関です。 回復させるために手術を選んだはずですが、 術後の何も出来なさ加減に心が折られてしまいます どうしてこんなことになってしまったのか したくもないリハビリとトレーニングを 延々と続けなくてはならない毎日 これが長引けば長引くほどじわじわキます 例えるならこれがいいかな。。 入院中の【食事摂取五段階評価】。 全力で満点だった日々。 良くなるには何よりも食事、ですよね? もちろん勤勉に取り組みましたとも! ですが、、その日はとつぜんやって来ます…
食べたものすべてを嘔吐してしまった
自分で意識しなくとも身体は無意識です 出来ること、多くない出来ること やれることをやっていただけのはずでした その日から無理をやめました 「無理」だなんて思ってもいなかったことです さて、そういうわけで 考えて悩んで足が止まってしまうくらいなら! それだったらやることやれることのみを引き出して 考えることを奪えばいいじゃない☆ こうすれば即ちハッピーですw 考えて苦しいなら考えなければいい! わたしにもそんな時期がありました。 決して脳筋ではないんですが、 脳筋にすることで乗り切っていたのも本音です これが「ハッピー」なのかどうか、、 たぶん… ちがうよなあ 笑笑
それにしても《手記》というやつは そのとき感じた何かを思い出させてくれます 良いも悪いもありますが なるべくポジティブ前向きになれる言葉があれば 書き記すことにしています なにしろ毎日は「毎日」ではありませんし、 ここに思い至らなかったら 毎日は何も起こらないことになります 繰り返しじゃないのに繰り返す気持ちは、、 苦しいために、自分自身が暗くなってしまいます! そんな自分自身に立ち向かう努力かもしれません。
わたし自身も 踊りにしたいものを 《手記》として記していることがあります。 今回はそれを紹介したいと思います。 いつも開いてくれてありがとうございます!
長い休暇には毒がある
人はやらない理由を探す 夢を諦める理由を探してしまう
心身を鍛えていくと怠惰な立ち姿ができなくなる
色が見えるように
出来上がったものをお見せするのではなく、 本番で出来上がる
伝えたつもりにならない
交差しつづける
流れの中に入る
そうして 拾い上げていくうちに 謎の手記にぶち当たってしまいました―
チミーはソーリー村に住んでいます
一体… わたしに何が起こったんでしょうか(爆) 《そのとき感じた何か》って、、なに?? どんな踊りを踊るつもりだったんだ 俺は!!
すべては、、時の彼方です☆
| 2018年04月17日(火) |
「燦然たるオブジェたち」 |
急遽おどりが決まりました! ゲストパフォーマンスしたのは― こちら☆
アートプランナー美術展 vol.4 『燦然たるオブジェたち』 秋本順子 うえむらゆきえ 加生幸彦 小嶋勇 草間囍雄 角間貴生 久保直美 清水まゆみ 多賀谷哉明 徳永龍門 トビー 中村文 西村幸広 野末育利 藤村信子 福田紀代 松尾ヒロシ みねこうしろう 村田和文 山本裕一 山口旭江
2018.4.12(木)〜17(火) アジア美術館 8F 交流ギャラリー その最終日! 再再起公演『The3rdBD』で多大なる強力、 協力をいただいた!まゆみさんの名がッッ!! わたしにとっては―
「燦然たる清水まゆみ」です☆
それにしても突然のダンス要請だった気がします。 アートギャラリー。ゾクゾクきましたね! なんたってこれだけの数の作家たちです! ここまで多人数の展示会はなかなか出会えない! なかなかない、ほとんどない、貴重である こういうところにプレッシャーは介在してきます☆
バカな真似は絶対にできんぞッッ
まずはギャラリーを巡っていきました。 この美術館では何度も踊ってきましたが、 今回の会場はまた別で… 踊っていない場所です! たとえ踊ったことのある場所でも、 そこにあるオブジェが、 美術が違えば、驚きと発見の空間となる。 作家陣には京都や山口からの参加者もいます。 それはもうたくさんの作品が展示してありました! どこで踊っても雰囲気が成立してしまいそうです! 中でも、立体造形家・山本裕一さんの多面体が、、 一緒に踊りたくなってしまうほど ヤバかった!! もうこれ… ほんとどうやって組み上げてるんだ― 写メあるので貼りたいです! だが、ここではあえての文章勝負(爆) 綿棒で作られた多面体、、ですね? それも…
黄金に塗られた多面体 作品名「金剛」
それは小包強の大きさで出来た作品でした! これ、、持って踊り、、たい☆ 多重構造が凄すぎて… 多面体が膨れ上がって終わりが見えない! 多面体が多面体すぎて言葉に、できない! 一体どれくらい時間かかってるのか… いや、もう、これは、、見てもらわないと 説明できないww 文章の限界をひしひしと感じます。。 もう… 踊りたいです(爆)
許可を得て持たせていただきました 金剛を持たせてもらった写メがこt
綿棒で作られているにも関わらず、結構頑丈! 某神社には純白の多面体を寄贈されたそうです! 球型多面体は社の天井に飾られていました。 一見くすだまのように見えちゃいますね。 歴史を感じる社に、、現代アート純白多面体ッッ どう言ったらいいのか… そうだ アレです!
全力で《脳シナプス》
もしかしたらこれ、記憶のカタチかもしれません! 複雑に見えますがどう見ても美が現出しています。 こんな風に記憶が補完されているのかもしれん!! いつか拝借して一生に一度のダンスを踊りたいッ
textile artist 清水まゆみ / 織りとフェルト 4/17 15:00〜 dancer タイスケによる アートパフォーマンス “nowhere with mask”
まゆみさんの作品もしっかりと並んでいます! フェルトの仮面と織り布のセット。 そして細くて長いフェルトの、、 キャンドルスタンド?? まるでムーミソのニョロニョ□のような? もし本物の炎を入れたら完全燃焼でしょう! いやあカワイイ。 なんだろうやっぱりフェルトの質感でしょうか☆ モコモコでふしぎと落ち着く気持ちになる。 固い印象がありませんよね! どこか人間らしさや営みのあたたかさを感じます。
それにしても… そんなタイトルがあったの!? 俺、、知らなかったよ!! それも、、2年間もだよッッ(爆) 2020年にしてww 美術展 諸事情の確認でわかった新事実(超実話 いやー知らんかったーーー
たしかにマスクを手に 踊りきりました
再再起してから、さらに強い思いになりました。 いつもいつでも これが良くも悪くもで、、 妙なプレッシャーにもなり兼ねない諸刃の剣! 箱根の山は天下の剣! 病院生活が本気で長かったのもあり、 本番の感覚は一手一手が職業リハビリです
踊り終えて色々な人たちから声をかけられました 中でも作家の方たちの声がうれしかった!! やはりダンスは、、ダンスは、、 認知度が、、低い!!
ダンスは 大きな舞台だけじゃない
どんなに狭くてもダンスは踊れるんです! 小さなところでも 小さなところだからこそ しっかりと踊っていきたい!!
◎まゆみさんに感謝◎
「燦然たるオブジェたち」+ 清水まゆみ 検索で 写真でます☆ 万が一じゃなくとも是非!
「あんたの地元 燃えてるわよ!大丈夫?」
この日、実家のある地元で火災が発生。 友人知人からのメッセージにゾッとしました。。 少なくない人からドッと着信。 記事になったヘリコプター撮影画像を見ると、 そこに実家が目視できてしまった!
なんてこった
燃えていたのは製麺工場。 決して近いとは言えないけれど、遠くは… ない! わたしはその製麺工場の間の小道を通って 小学校に通学していたんです― 生きていて《はじめからある建物》だった 何の建物なのか知らないくらいから見知っている なにしろ小学生ともなれば毎日 毎日通学していた道です
そんな建物が燃えてしまった
記憶、、みたいなものが失われた気がします 記憶。 延いては… 自分自身の一部でしょうか 何だかよくわからない 言葉にできないような何かが、 自分の中で失われた気がしました
とても、とても寂しい
見知っている《あたりまえ》が 自分にとっての当たり前が 焼け落ちてしまった
不思議なのは、 それが《ひと》でなくても起こったことです 心に起きる、心に影響を与える実感 喪失感 年を経るといろんなものが 変化していることに気づきます 周りの風景だけじゃない、人の性質だったりも あのときこうだったのに 今はこうなっている そして自分自身 周りがこれだけ変わっていて 自分が変わってない、なんてこと 絶対にない
生きているひと、に比べたら 度合いは小さなものかもしれません その心に与える影響は それでも影響は《ほんもの》です ここに言葉にできないような何かがある そんな気がしました
気持ち、気持ちって、、 一言に集約・再現できませんよね そしてそんな《気持ちの話》は 《会話にならないもの》ではないでしょうか なにしろ再現できない 一人一人ちがう感性 適切にそのものを伝えられないからには 再現できない曖昧な表現で立ち向かうしかない ああ、「表現」って言葉にしたくないなあ… それに「曖昧」も違うよなあ… 実態は、本人から見れば、それが それこそが《たしかなもの》なんだから できる限り “そのもの” に寄せた本物です そんなものを、みんな見たことありますよね?
そう「ART」です☆
ARTは、、おそらく会話じゃあない! 誰かと話し合うようなものじゃない 話し合う、じゃなく話し合えない 「わかる」とか「わからない」じゃない その人が感じた激情 気持ち 動揺 普段では伝えようともできないような 心の機微
ARTは「わかる」じゃなくて「受け取る」
わたしたちには喜怒哀楽で分別できない、寄らない 言葉では当てはめきれない混沌がありますよね それを大切なものとしたい 誰にも説明できない、話せないものだとしても 時間とともに流れていくだけのものだとしても たしかに在る たしかな気持ち それを伝えたい 伝えてみたいのです 会話にもならないような些細なものかもしれません だとしてもこれが、これこそが、わたしたちです! それを現実に「今」できるのは ダンス
今というものを共有できるのは「今」だけです
ここにすべてを賭してもわるくない気がしています
ああ、、考えれば考えるほど この域のダンスには完成がありえません きっとずっと悩みながらいくんでしょう (目標:心の機微、そのものになる) そのものになりさえすれば ダンスを踊らなくてもいい! だってダンスそのものじゃん☆
悩んで悩んで悩み抜いて、そして放り出す!
ダンスの正体は… どこだッッ
| 2018年04月12日(木) |
ダンスは天のくれらすもんでござす |
今日も洋舞のクラスに出ています。 わたしは出来のわるい子、ですので 頑張らなきゃいけません。
もう《子》じゃないしね
そんなわたしですが、子どもたちの クラスにも出させてもらっています。 事故後と術後で再再起して、、 そのリハビリの時代が長すぎて… めっきり技術が失われてしまいました。。 小さい頃から修練してきたわけではないので、 洋舞スキルは忘却の彼方です。 それをなんとかしようと とにかくゴリ押しでなんとかしようとしました
それが2020現在の有り様への発端です
回顧録にしたいわけではないんですが、、 たいせつなことなのでそうしました 自分にとっても 誰かにとっても役立つかもしれません
「根性」を「無理」にしてはいけなかった
「根性」の使い方は別のところにあった
根性は、ケガを再発させない体づくりに! (リハビリは単に筋力を上げる問題ではなく、 身体反応を出させるための地味トレです。 上げたいのは、間違った方向に(痛みに) 力を向かわせないための抑止筋力。 どうやったら痛みなく正しく使えるのか、 自分の身体への自己研究と実践。 もうこれが「退屈」としか言いようがない。。 やりたいこととはかけ離れた本物の苦痛です。 ※ここにこそ「根性」が必要なんです!)
そして「無理できる」は本番のみに!!
毎日の練習は無理をすべき場所じゃなかった
この頃は《根性が出せる》状態でした 言い換えれば《無理できる》でしょうか わたしにとっては、この状態が 人前で踊れる最低ラインだと思っています 舞台とはおそろしい場所で、 舞台の上では「フツー」じゃ足りません。 わたしたちの(普段)では演劇もダンスも 歌も、、受け取ってもらえないでしょう なぜって特別な場所だからです。
日常にお金を支払うことはない
わたしたちが息をすることに対価なんてない!
そういうわけで、(普段)のことで 感動したり 気づく 悟る なんてことは 起きにくいはずです! 特別な場所で、特別な集中があって、はじめて 見ている人が感じとる《何か》が生まれる。 そう考えれば、わたしたちがしなきゃいけないこと 自ずと決まっています。 避けられない努力。 当たり前の努力です そういうわけで、この日もスタジオロビーで 年下の先生に技術確認してもらってました 手がかかる生徒で誠に申し訳ない。。
この日、スタジオに来客がありました。 ロビーで動きの確認をしていたわたしたちに、 来客した女性は運悪く鉢合わせてしまいます― なんてこった! そしてその発言は生まれたのです
「いきなり きれいなお兄さんと きれいなお姉さんがいて…びっくりしました」
いやあ此の方、人生で面と向かって 「きれいなお兄さん」なーんて呼ばれたことないよ なんという素敵な形容詞なんでしょうか!! 一瞬 心臓が止まったよ!! 召されても、、よかったよ!!(爆)
過剰な親切ありがとうございます
さて仮に万が一そんなわたしだったとしても、、 この場所での現実は最下層ですw ほとんど《おいたわしや》レベル。。 なんとかしなければなりません。
イギリスまで、、あと1ヶ月☆
この日、とんでもないニュースを見ました! それも【国際報道2018】 テレビを基本的につけないわたしですが、 世界の出来事を唯一知ろうとする番組ですw blog化にあたって 改めて調べてみると、 世界ふし◎発見(2018年2月3日回)が テレビ初出のようでした!
その村には あるひとりのおばあちゃんがいた その人は 村の英雄だった インド最高齢 射撃選手 その名は―
チャンドロさん(86)
インド北部ジョバリ。 どこからどう見ても田舎の農村でした。 チャンドロさん自身も牛の乳搾りが日課のひとつ。 見た感じ、、電気もそんなに通ってる様子がない。 一体このおばあちゃんはなぜ射撃を始めたの??? きっかけは―
孫を遊ばせようと村の射撃場に行ったこと
孫よりも自分の方が面白くなってしまったのか!? それにしても本物の農村でした。 とても射撃なんてイメージできないほどの農村。 電灯、、街灯が、その自宅付近には見当たらない。 どうやって選手になったのか その練習法に、、度肝を抜かれてしまいました
チャンドロさんが射撃をはじめたのは65歳 孫と初めて撃った射撃場 孫の眼前で全ての的に命中させてしまった その時に自分の才能に気づいたらしい 50人家族みんなに反対されたものの 家事仕事をパーフェクトに完遂することを条件に 家事を終えた深夜、練習を開始
銃に見立てたのは…《水差し》だった
ピッチャーに水を入れて銃の重さに設定 その水差しを構えて毎日2時間。 まったくブレない射撃フォームが完成 メダルを取れない大会は、、なかった― エアピストル・ライフル射撃プロ選手となる そして伝説へ
家には夥しい数のメダルとトロフィーが!!! その量が、、半端じゃない。。 とんでもないおばあちゃんです… どう見ても見た目が《おばあちゃん》なんですよ? 射撃のできない水差しで2時間とか… そんな度肝な練習を毎日毎夜ですよ!? 6人の子どもと15人の孫を育てながら、 インド全国大会優勝歴25回!! 度を超えた情熱を、、いやもう情熱超えてるよ! そう感じないわけにはいきませんでした―
並外れた数のトロフィーや盾が飾られていたのを この目で見たのは、黒沢美香さんのスタジオ 「スタジオクロちゃん」稽古場天井あたりには びっしりと、そりゃあもう隙間ないほどまで トロフィーと盾とメダルが置かれてた… ダンスで、、あんなにもプライズが並んでいるのを わたしは見たことがありません
番組では、家屋外のあらゆるところに設置した的に 笑顔で全弾命中させてました(爆) こんな人が暗殺者だったら、、 そう思ったら、ゾッとしたww だって、、永遠に暗殺できそうなんです… 察せないだろ 絶対にッッッ だって「おばあちゃん」なんですよ!!! 是非とも(チャンドロ・トマルさん)検索で その顔を拝謁してください☆
インドでは未だカースト制度が残っている インドでは女性の権利が与えられていない そんな中でチャンドロさんは 若い女の子たちに射撃を教えていた 英雄であるチャンドロさんのところには、 射撃を教わりたいと女の子が続々やってくるのだ チャンドロさんは言ってました 差別社会を乗り越えていきたい、 射撃選手になったら壁を超えられる。 どんなに身分が低くとも世界に出られる、 一流企業に就職できるチャンスが掴めるのだ、と
チャンドロさんは大統領から シニア国民栄誉賞を授与されている
村のメイン道路には、 チャンドロさんが描かれた大看板が立っています 大きさ一流企業並みの巨大看板です(超実話) 65歳からでも自分の才能に気づいて、 それを開花させた人がこの世にはいます☆ 自分の情熱が、才能が、いつどこで覚醒するか? それは誰にもわかりません☆ そんな《何か》を感じたら、、 やってみること なんでしょうね!
「歳なんて関係ないわ。 自分のできることに集中すればね」 チャンドロ
(前日のつづきです) その後『ヤミツキ人生!』で紹介された人には こんな方もいらっしゃいました
全国の動物園ゴリラすべてを見分けられ すべてのゴリラを名前で呼べる人
記憶が曖昧で申し訳ないのですが この方は一般家庭のお母さんみたいな人でした ゴリラの絵をたくさん描いていた気がします
とにかくゴリラが好き
後ろ姿に独特の哀愁を感じる
ゴリラの体毛をこの上ない宝としていた
この人もイカ画家同様に異常なまでの根性です 各地の動物園に朝イチから赴いて 動物園の終業時間までずっとゴリラフロアにいる。 その人のことは動物園のゴリラ係の人なら 全員が見知っていた 場合によってはゴリラ係の人よりも ゴリラの体調がわかって伝えることもあるようです そんなとんでも人でした
完全に《好き》を超えている気がした
その絵もまた圧倒的描写力で、、 ゴリラがどの動物園のゴリラなのかわかるレベル。 それもそのはず
番組スタッフがゴリラの写真を見せると どこの動物園のゴリラなのか即答できました 写真も正面からというだけでなく 後ろ姿だけなものもあった
そして最後にはこう言ってました
《ゴリラの気持ちがわかる》
ゴリラが伝えようとしているかはわかりません この人の思い込みかもしれません ですが、それほどまでの、好きを超えた何かなら ほんとうに《わかる》気がします 伝えようとしなくてもわかる、というのは 感じる、というのならダンスじゃないか!!! しかしこれは、この場合は、、 《相手を見つめつづけることで体得した技術》 おそらくは(共感)を超えています ものすごいことではないでしょうか
これはダンスにも応用が利きます やはりダンスは見てもらうことが何よりも先 だとしたら見ずにはいられなくなる何か そうさせる何か、これが欠かせないのは明らかです そうじゃなきゃ《わかる》なんてたどり着けない 実のところ、この世界には《わかる》を飛び越えた 【究極の美】なる世界があります 見ただけで涙が出てしまうような。。 ここには意外にも《伝えたい何か》なんて 要らない気がします 個人的な想い、とやらが要らないのです なにしろ言葉では伝えられないほどの美だからです その世界は俗物には無理です 伝えたい何か、とは完全な別次元 目指すものがちがう したがって《その努力もちがう》 わたしたち全員がその領域に到達できない以上 見てもらうために 見てもらえるためには 技術とはちがう何かを体得しなくちゃなりません!
美とはちがう本懐がある
さて、『ヤミツキ人生!』は度肝を抜く人たちが 今もなお不定期で放送されています 度肝を抜いているのは 誰かに見てもらいたいためではなく あくまでも自身からの衝動でした これが行き過ぎて突き抜けているわけですが ここには誰にも媚びていない何かを感じずには いられなくなります 誰かの役に立たなくては人間社会では認められない そんな世ではありますが、 その人の《純粋さ》は、他の誰にも貫けません そして、特筆すべきは コレクター止まりではない、ということです 好きなものを集める、を超えて 《自分自身が何かをする》に至っていることです それが誰のためでもなかったとしても 自分だけのものだったとしても こうして誰かが触れる機会があるということ これこそが人間なんじゃないか これこそが可能性なんじゃないのか そう思うのです
それは、、とんでも人物を紹介する番組だった―
『ヤミツキ人生!』 あることに “ヤミツキ” 人生を捧げる人々を 見つめるドキュメントバラエティー
カネでも、出生でも、家族のためでもない。 ただ自分が《それをしたい》という過剰な愛に 人生を捧げる人を紹介する番組ですw
登場したのは、、「イカ画家」でした
14年のキャリアの中で、 「イカ」しか描いたことがない女流画家☆
その《イカ愛》は、食事が毎食イカ。 絵の具すらもイカ本体から自作していた― 個展で飾られたその絵の枚数ったら…
正直言って、、度肝を抜かれました
とにかくイカだったんです! しかしこれはまさしく突き抜けた先でした
決して誰にも真似できない人生と思われる
とにかく度を超えすぎている どう見ても笑えないレベルでした
イカが好きで好きでたまらないのだ
イカにしか目が心が向いていないのだ
両親もそして姉妹さえも完全に諦めていた 本人も《これしかない》そう言い切っていました どんなジャンルであろうとも 突き抜けた人、というのはこういう人のことを 言うんだろうと心の底から思いました
自分でも理解できないほどまで イカに魅入られてしまっている
その絵はイカ研究者ですらも唸るほどの描写です 生き生きと泳ぐイカ 何ヶ月もかけてその絵を完成させていた そうやってイカの絵だけを描き続けていた―
もしかしたら どんなこともその境地にたどり着くのでしょうか
自分自身でもわからないほどの衝動
わたしはダンスを踊っていますから その衝動が自分にもあるのを感じます 理由もなく、ただただ踊りたい そんな衝動に駆られることがままあるからです
だからと言ってその衝動が 毎日押し寄せるわけではありません!!
イカを描きたい、という手が止まらない衝動 その無尽蔵な衝動が一体どこから来ているのか 好き、が突き抜けて本人にもわからない段階です
もうどう見ても《好き》で収まってない でも言葉にするのなら《好き》しかない 言葉じゃ、、足りないんですよね!! これを伝えたいと思ったら、、 もう踊るしかないと思うんですよ!!
きっと研究者みたいな人は 例外なく全員こういう感じのはずです そうじゃなきゃひとつのことを 度を超えてやり続けられるはずがありません
イカに出会って運がいいか悪いか
ダンスに出会って運がいいか悪いか
少なくとも良い悪いの話ではないことが真実です 誰かのため、だなんて考えたこともない衝動です
だってこれしか目に入らないんだものね☆
己のことなのに自分でも判断がつかない、なんて どうしてもここにしか自分がいられない、だなんて そんな人が、そんな人たちが、、この世にはいる!
ジョーさんに課された小説です! 直木三十五賞受賞作☆
『蜩ノ記』 葉室麟
城内で刃傷騒ぎを起こした檀野庄三郎は、 家老・中野兵右衛門の温情で切腹を免れたものの 僻村にいる とある男の監視を命じられる。 その男とは、7年前に藩主の側室との不義密通の 罪で10年後の切腹と家譜の編纂を命じられ、 向山村に幽閉されている戸田秋谷だった― 秋谷の切腹の期日まで寝食を共にし、 家譜の編纂を手伝いながら秋谷の誠実な人柄を 目の当たりにするうちに、庄三郎は秋谷に 敬愛の念を抱き、次第に秋谷の無実を確信する。 やがて庄三郎は、秋谷が切腹を命じられる原因と なった側室襲撃事件の裏に隠された、 もう一人の側室の出自に関する重大な疑惑に 辿り着く。
ひぐらしの記 課された日は術前か術後でした― とにかく入院していたときです! 少なくない友人から本をお見舞いにもらいました。 みんな “時間がある” と思いますよね。 なにしろ “術後は動けない” ですもんね。 わたしも勿論 “読める” と思ってました! ですが、、裏腹に読めませんでした… 鈍痛で本なんてとても読める状態じゃなかった。。 夜中に疼いたら冷や汗すごくて耐えるしかなかった そうそう。いつも深夜3時あたりだったかな… うおおおお 思い出したくない 鈍痛を忘れるまでは無理です無理でした。。 そういうわけで年月だけが嵩んでしまいました。 秀作ですね☆ 気にならなくても是非レベルです! 今回はあえて感想なしに、別の問題を扱います!!
《切腹》
これはギロチンの死に様の対極でしょう。 死ぬのは同じですが死に様の中身が違う。 自らが己の腹に刀をぶっ刺す方法と、 上から巨大な刃が首めがけて落ちてくる方法です。 考えれば考えるほど恐怖で震えてきますよね… なにしろ人間は現実にそれをやっていたのです 日本では勇猛果敢な者に情けをかけてきました 世に謳う「名誉ある死」というやつです! 今となってはそれが本物の名誉なのかわかりません そんなものが本当にあった時代 映画や舞台では完全無欠の切腹シーンばかりですが 実際には究極の困難のはずです なにしろ自分の腹に、死ぬほどの激痛を自らの手で 刺し込まなくてはなりません その死ぬほどの苦痛に泣き叫び、わめいた者の方が 多かったのではないか、そんな気がしてなりません もしもその激痛に耐えられず、頭が地面に落ちて しまったら、、介錯が極めて困難になります 介錯についても上手下手が問われます もしも一撃を失敗してしまったら 何度も撃ち込まなくてはなりません 首が落ちなかったら、、気絶しなかったら、、 死ぬほどの激痛を何度も味わうことになります 最も信頼できる人間に介錯を任せる、 そんな場面も少なくないと思います つまり切腹はこうです
簡単には死ねないかもしれない
さあどうですか? ギロチンが突然輝き出してきませんか? なぜなら
確実に一撃で首が飛ぶ
自分で手を下さないとは、なんと楽なんでしょうか 何も考えなくても自動的に首は飛びます 人間が人間に手を下さないことが確実だなんて…
さて、そういうわけで 時代とともに《切腹も形骸化》します
腹を切るのは様式として100%介錯で決める
腹を切っても人間は即、死にません 死ねないことの方が 死ぬことよりも苦痛かもしれないのです
そんなものに挑んだ人たちが かつての日の本にはいた
まず自分自身でそれができるのか 問わないわけにいきません 勝手に刃は降ってきません
わかりませんわかりませんが わからないのもあたりまえですが 問われようが問われなかろうが 確かにそんな日本人たちがいた
日本以外に《切腹》はない
日本刀は 鎧ごと叩き潰す西洋剣とは違う 切腹は、、日本刀の切れ味ありきなのです
すべてを受け入れられたと仮定して、 果たして切腹できるんでしょうか? わたしにはできる気がしません 自分でやらなきゃいけない矛盾 それを乗り越えるには矛盾への怒りしかない 死ぬ瞬間その時まで 何かに抗わなければ切腹なんてできない そんな気がします あきらめでは出来ない気がするんです 生きようとしなければ、自分の腹を切るなんて そんな馬鹿げた芸当できる気が…しません!
わたしたちは、生きようとしたその瞬間に、 困難が襲いかかってくるような気がします 楽に生きて 楽に死ぬなんて、 そんな幻想が本当にあるなんて思えません
生きようとすることに名誉がある、 そんな気がするのです
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