断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2017年05月31日(水) ニケの女神像

つづきです

なにかをおぼえる
なにかをおもいだす

そんなのには衝撃という名のヒミツがある―

《ゲシュタルト崩壊》を簡単に忘れてほしくなかっ
たのがきっと奥底にあったんでしょうw
わたしは風化ちゃん(仮)にそのあとこんな話をし
たのを思い出しましたので言及してしておきます笑

「何歳までNIKEのこと“ニケ”って言ってた?」

同意してくれる人、10%もいるんでしょうか。
その発言をすると大体こう帰ってきます。

「そんなの言ったことないしッッ!!」

風化ちゃんも怒った加減で言いました。
ええ言いましたとも。
見逃すもんですか。
その返答には面白い見解があります。
その大体が、、怒ったように発言することですw
きっとそんなこと言ってたように見られていたのか
という気がした人は大抵吐き捨てるように言います
《私、、どんだけ馬鹿にされてるのかしら》
時々わたしはその返答に殺意すら感じます(超実話
これまで冗談で尋ねてきた話題でしたが、、
◎最近、冗談を超えました◎
同じことを聞いたとき、その人はこう言った―

「自分も言ったことないですけど、
 そもそも《ニケの女神》が語源らしいですよ!」

「ええええええええええええええッッッッ?!」
わたしは叫びましたねw
「ニケの女神ってあの???
 確か、、ルーヴル美術館で展示されてる、
 頭部が破壊されてて背中に翼があるアレ???
 アテネからフランスがパクったやつよね??
 今なお 返せ!って言われてるアレよね―」

冗談じゃ、、なかったのか―

しょ、衝撃でした
思わぬ急展開に驚きました、が!!
世界遺産が語源とか言われたら、、納得です 笑笑
これが人類の遺産というチカラなんでしょうか―

そういうわけでわたしはついにあの殺意に真っ向か
ら対抗できる究極の手駒を手に入れたのです☆

 「えっ?そんなことも知らないの??」(爆)

冗談が通じない子にも、もはや無敵です☆
感動です☆☆☆

風化ちゃんも突然人が変わったみたいに笑顔で
納得して帰っていきましたw
そう。そうです。そうなんですよ。
わたしは最初から馬鹿になんてしてないのです!
だって誰よりも先に自分自身が言ってたんだもの☆

◎真実は、、とんでもないところに落ちていた◎



2017年05月30日(火) ゲシュタルト崩壊JK

来月の福井入りに備えて病院に行きました。
踊りに不安を残さないための理学療法士チェック!
そんな日に、患者友だちの風化ちゃん(仮)と
電気治療エリアで遭遇w
年齢的には全く風化しそうもないレベルです(爆)
そして風化ちゃんの友だちの話になりました。
JK風化ちゃんの友達の脳の話です―

「タイスケさん聞いてくださいよっ!
 友だちがですね。。

 なんでサザエさんの世界に
 バタ子さんがおるとかいなねえ、、
 なんでお魚の名前じゃないのバタ子??

 ッッて言ったんですよッッ
 意味わからなくないですか!?」

風化はその発言に対しこう返したそうです。

「サザエにバターつけたりして食べるやん!
 だいじょうぶよ!!」

わたしはその返事に感服しましたw
こんなの思いつく気がまったくしませんww
だってどう考えても大丈夫じゃないぞ それ!!
とんでもないフォロー返答です。。
女子高生ってこんな感じなのか。。

そもそもの問題は風化ちゃんの友ッッ
《サザエさんとアンパンマン世界の同一化》
日本人にとって当たり前すぎるその世界観がゆえに
当たり前すぎて境目がなくなってしまったのね。。
甚だおそろしいことです…
わたしは風化に用語を教えました

「そういう時は、それ《ゲシュタルト崩壊》よ!
 って すっごい笑顔で言うことッッ」

ゲシュタルト崩壊とは―
:知覚における現象の一つ。
 全体性を持ったまとまりのある構造から
 全体性が失われてしまい、個々の構成部分に
 バラバラに切り離して認識され直してしまう
 現象のこと。

 わかっているものが突然わからなくなるやつ

今回のはたぶんバラバラになるんじゃなくて、、
逆にまとまって認識され直したんだな。
そして風化は言った。

「たぶん家に帰ったら忘れてると思います♡」

言葉は、、言葉は簡単に風化するのでしょうw
踊らなきゃ☆



2017年05月20日(土) 人物が背景を背負う

たまたま偶然に、、、
いつも思うのですが《偶然》ってない気がします!
ふと電源入れたTV、その番組に出会う。
自分にとって、
ほとんどと言っていいほど見ないTV。
本当におそろしいことですが、、
そんなときに限って踊り番組をやってたりします。
特にバレエとかw ピンポイントで。。
踊りをやっている以上は見ざるを得ません!!
昔は必ずチェックしていたんですが、
そういえば 今 全然しなくなりました。
文章にしていて自分でも疑問が湧きました。
どうしてしなくなったのかな??
いつからしなくなったのかな??
思い返してみると、、決定的でした―

 前十字靭帯断裂

おそらく自分自身に「今」できないことを
見るのが苦痛だったからです
カラダや技術は違っても「自分だったら」が
どうしてもかかってきます
自分だったら今のをどう踊るか
頭でイメージしたところでカラダは動きません
どうしたって動かせない
これは本当に苦しくてつらいことでした
思い出すだけでも呼吸が苦しくなります
文章では伝えきれません
たとえば術後、病室TVで見た《体操競技》。。
その着地を見るだけで、
たったそれだけで悪寒が走りました

 見れない

全身に拒絶反応が起きました
これはリハビリでも同じでした
「やって」と指示されたことが、、
《まるで出来る気がしない》のです
わたしたちのカラダは観察できるため、
自分自身としての認知が難しい。
特に 考えもせずに動かせるときには、
五体満足な時なんかには、、
分けて考えるなんてしていないからです。
不自由になったときに、はじめて、
《どうして出来ないのか》考えることになります
これはダンスの練習でも同じことで、
出来る人はできてしまいます。
出来る人に《どうして》はありません。
練り上げる話はそのあとのものですが、
これは事実です☆



…最初から 話題が、、逸れてました!!

したかったのは、、
たまたまつけたらやってた番組の話です(爆)
画面に映ったのは舞台練習風景。
その舞台にはセットがほとんどありませんでした。
そこで長塚圭史が言った一言がこれです

 「人物が背景を背負う」

その発言が胸に突き刺さりました―
これだ!と思った
セットのないステージには役者しかいません。
その舞台がどんなところなのか
朝なのか昼なのか夜なのか
晴れてるのか雨が降っているのか曇り空なのか
それを示せるのは役者しか、、いないのです!
背景が見える役者。。
これをダンスの世界に置き換えると、、
《景色が見えるダンサー》です
演技とダンスは全く違いますが、舞台人として
どこかで重なるところはあるはずです
特に「あたえられた」ものでないのなら、
景色が見えないなんてそれだけで資質不足。
景色のないものはダンスじゃなくてムーヴメント。
ダンスじゃないんですよ!!
そういうわけで、役者も相当大変そうでした。
いや、大変じゃないことなんてひとつもない!
あたえられたことをやればいいだけなら、
自他ともに感動なんてものは訪れません。
どこまで背景を背負えるか
どこまで景色が見えるのか
ここにこそ限界のない世界があります

誰かにやらされるものには感動は来ません
誰かにやらされるものに景色は見えません

誰かの舞台ならその誰かの感性をやれたらOK
振付家や演出家の感性をカタチにするお仕事です
そこに自分の思いや主張は要りません
これが一つの可能性を奪っているとも言えます
自分の思いや主張は洋舞の世界では全否定されがち
ですが、逆を言えば《自分を踊る》ことこそが
忘れられている世界とも言えます。

見え方というのはおそろしいもので、
《自分を踊る》踊りは、
とかく好き嫌いが分かれます。
ですが、ほんとうにその人が踊りたいものを
見れる機会がもっとあっていいように思うのです
だって景色はわたしたちの数だけあるのです
もちろん見ていただく前提での話なので、
実のところ好き放題というわけにはいきません。
その人の器量や方向性その全てが明るみですw
誰かにあたえられないものだからこそ、
ホンモノの勇気が問われてしまいます。

好き嫌いで判断できないものがダンスの本懐です

好き嫌いを超えていくその意志が
みんなに見える景色に繋がっている
そんな気がするのです



2017年05月18日(木) 「愛と美の法則」

積ん読の中に、、、既読の本が常駐してました!
なんてこった、、読んだの数年前じゃん―

 『愛と美の法則』  美輪明宏
  愛と美の力がこの世の全てを解く鍵なのです

 『人生学校 虎の巻』  美輪明宏

 『人生はドンマイドンマイ』  美輪明宏

美輪明宏本、、これまでかなり読みました。
それも全部とある人に課されたものです(爆)
おそらく美輪明宏の全著書もってますよ 絶対w
これだけ読破してもまだまだあるくらいです!
全部読んだらすなわち人格者☆
そう言って過言じゃないです。 読めばわかる。
さて、読破した中で『あぁ正負の法則』に次ぐ
威力的な本でした『愛と美の法則』。
正負からの順番で読むのをおすすめします☆
上記の下の二冊は《悩み相談本》なので、、
さささと目を通すくらいでしたw
しかし相談というより、打ち首レベルがほとんど!
女子供も真っ二つです(超実話)
悩みは、正負の法則と愛と美の法則を実践すれば、
相談せずとも自力で突破できるはずなのです☆

 「生活」とは文化を暮らしに活かすこと

 文化を持たずに生きている人間は、
 ただの人糞製造機です。
 ただ、朝起きてご飯を大急ぎで食べて、
 テレビでも見て、会社へ走って行って、
 帰りに一杯飲んで上司の悪口でも言って、
 そして帰ってからメシ・フロ・寝るで、
 テレビをちょっと見て床に就くという、
 それの繰り返しでは、人間というよりは、
 ただ生きているだけのアニマル、つまり獣です。
 文化を上手に生活に取り入れることができる、
 それが人間なのだと思うのです。
 たとえば、お食事を「召し上がる」というのと
 「食らう」というのは別です。
 そうしたことを勉強なさったほうがよろしいの
 ではないかと思います。

わたしも ダンスを踊っていなかったら、、
人糞製造機だったかもしれません。。

 私が中学一年のとき、高校生だった方から
 「ラジオのどのダイヤルを回しても
  楽しめる人間になりなさい。
  音楽でも、クラシック、ジャズ、シャンソン、
  タンゴ、流行歌、童謡から全部を楽しめる。
  また、政治、経済、社会、スポーツ、
  あらゆるジャンルのものを聞いていても、
  それはそれで楽しめるような
  人間になりなさい」
 と言われたことが記憶に残っています。
 最初、私はなんのことかわかりませんでしたが、
 どこか頭の中に残るものがあって、
 一生懸命にその言葉に従おうとしました。
 それで現在、自分が芝居をやるときには台本も
 書き、照明プランを立て、美術も衣裳も音楽も
 やり、俳優として演じもするようになりました。
 歌は日本のものから外国のものまで、クラシック
 シャンソン、ジャズ、タンゴと、とにかく世界
 各国のいろいろなものをそれぞれの言葉で歌うこ
 ともできます。
 浅く広く、全方位的に180度、
 360度という知識ではなく、
 必要に応じて知識は深くもなければいけない。
 それを念頭に置いて、そういう生活をしていると
 人様の十倍も二十倍もの人生を生きることが
 できます。
 自分の可能性をいろいろなところで試すという
 ふうになると、人生が二倍も三倍も楽しく
 生きられます。 人間は本来、
 いろいろな可能性を持っていますから、
 自分はこれしかないと決めるのは損なのです。

実行している人にとっては特に響きません。
だって《楽しいこと》というのは、、
《できることじゃない》からです。
挑戦していることが、
挑戦することが、楽しさです。
わたしたちは年を重ねるごとに新しいものに
挑戦しなくなります。
できないことが恥ずかしいからです。
もっと押し迫ると、、
できないことを見られるのが怖いからです。
人の目よりも自分がやりたいこと。
臆病者には決してできないことです。
できないからこそ、
できたときの感動がひとしおなんですよね!

 皆さまに申し上げたいのは、
 人として生まれてきた以上、
 この世の中は知らねばならぬこと、
 知りたいことが山のようにあるはずです。
 とにかく人間は一歩一歩、毎日毎日、一秒一秒、
 死んでいるわけですから、完全に息が止まるまで
 の時間、一つでも多くのことを知り、知るだけで
 はなくそれを生活に活かしていく。
 知識と教養は違うということです。
 知識とはものごとを知ることですが、
 その知識を実際に自分の体の中に入れて、
 咀嚼し、そしてそれを暮らしの中に活かす。
 それが教養です。
 つまり、自分自身の細胞として、知を暮らしの
 中に活かしていく。対人関係でもなんでもそう。
 知識を活かして、人間的なものを磨いて、その
 生活の中に投影させる。
 それが教養だと思うのです。
 あらゆることを知れば、あらゆる楽しみ方が
 あります。 もちろん苦しみもあります。
 しかし、その苦しみをも超越できるように
 なるのです。
 楽しみのほうが数が多くなってくるということ。
 そうすると、いたずらに悩んだり苦しんだり
 落ち込んだりする必要がなくなる。
 つまり、全方位的で多重構造的な生き方を
 していると、人間というのは本当に自分自身を
 救うことができます。
 地獄・極楽は胸三寸にあり、
 自分の思想の転換しだいで一つの出来事も
 極楽にすることもできれば
 地獄にすることもできる。
 そういうことではないかと思います。

自分が死ぬことがわかったとき、
人は真に生きることに直面するのだと思います
知識を学んでもそれを現実に投影できるか、
知識を知識のままにしないことは
実はたいへんなことです
《投影できる》のは《自分がどう生きたいのか》
それを知ってはじめて、
できることではないでしょうか
いい本を読んだままにしないこと
失敗をくりかえさないこと
なりたい自分になる
それには意外にも努力が要りますよね


 恋には裏切りがありますが、
 愛には裏切りは存在しません。

 何故なら、どんな欠点であろうが何であろうが、
 全部受け入れてしまうのですから。

この本の終盤ではエディット・ピアフについて
書かれています。
「愛の讃歌」は最も有名な歌の一つですが、その
歌詞をあらためて読んだことありませんでした。
ここでは美輪明宏が訳した《愛の讃歌》や
《愛の権利》が載せられています。
その歌詞はとても胸を打つもので、
ぜひとも自分の目で確かめていただきたく存じます


できることがあるのはしあわせなことです
わたしはこう見えて、、
いくつか身体機能を失っています
事故がもとで記憶も雑になってしまいました
だからこそいろいろなものが見えます
失ったときにはそれこそ心底落ち込みましたが
小さくてもできること
それがどんなに光りかがやくものか
大きいことをするよりも
できることをしっかりと磨き上げていく
すると、、不思議なことに
次のできることが見えてきます!!
それも、、たのしさとともに☆
それは人の光そのものだと感じています



2017年05月17日(水) 空のBLUE

空を写メってる時が多々あります。
だって同じ空はただの一度もない!
その中でも特に多いのは青天です☆
そして、ただただ青い画像を送っています。
いろんな人に、何の言葉も添えずに(爆)
そうしているうちに気づいたことがあります。
まず、その青天写メの送付にあたって。
グラデーションはあるものの、本当に青いだけの
画像であるために《送信間違い》と思う人。
もしくは文章も何もないために、《失礼な人》と
思っている人もあるかもわかりません。

 興味深いのは「空」だとすぐにわかる人

まず、そんな人は必ずメッセージをくれます!
そんな人たちに共通しているのは、
《心に余裕がある》という点です。
または《想像力がある》でしょうか。
なにせほんとに青いだけなので、、
ただの迷惑行為の可能性が満載です(爆)
そんなものを超えて、、
超えてみると、、たいへんなゆたかさなんです!!
わたしは、青空だとわかる人たちが大好きです。
だって明らかに話が通るんです。
芸術の話、感じる心はいつだって感性の話です。
何をどう感じるか。
それをどうやったら伝えられるか。
言葉で足りないからこそ想像力をつかいます。
下手すれば「わけがわからない」そんな一言で
終わってしまいかねない世界。。
でもそこにこそわたしたちのすべてがある、
そんな気がしています。
だってわたしたちはいつだって混沌だからです☆
わからないくらいのものだからこそ、
言葉をかるく超えていける。
感じることは考えることとは違う

 デスクワークしている人に青天を送ると―

これがまた不思議でした。
後から「あの青い画像は何だったの?」って
拷m、、尋ねられることよくあります。

 毎日デスクワークしている人たちは、
 特に忙しく働いている人たちは、、
 《青空》だと本気で気づかないのです!!!

きっと空を見上げることもないほどに
仕事をしているのだと思いました。

その時に感じたのです

わたしたちダンサーや芸術家というのは、
きっとここにこそ心血をそそぐ者だと思いました。

わたしは復帰公演と再復帰公演、
自分自身の物語とはいえ、
かなり暗く辛いものを踊ってしまいました
あのときに後悔はないのですが、
果たしてそれがよかったのか
わるかったのかはわかりません
自分でもわからないのです
どう伝えればいいのかわかりませんが、、

 青空をみんなで共有したい

踊りたいその源泉が
今はそんな小さなことだと感じています
ただ、そんな小さなことでも上記の通り、、
たいへんな困難です―

どんなダンスを踊ればここにたどり着けるのか

空のような生き方がしたい
そんなこと思わなくても空は、、
きっとわたしたちそのものではないでしょうか
雨の日も風の日もあれば、晴天もあります。
それは、毎日は「毎日」ではないものです。
1日1日に同じ日はありません。
そして生きているわたしたちにとって、
わるい日なんて1日もありません☆

どんなことが起ころうとも
この世に生きていること
それ自体がどれだけの奇跡かわかりません
それを勇気に変えていけたら、、
いや、勇気に変えていきたいですね☆



2017年05月16日(火) 自分には見えないもの

時間があるときは、
某スタジオでクラスを受けています。
毎回息が切れるくらいの練習をしています。
練習。おそらくわたしはカラダ優先です。
カウントや振付よりも

 すべてを発揮できるところを目指す

見ている人と共有したい何かはその先にしかないし
よくよく考えて娯楽を見せたいわけじゃないのです
ダンスって本当に何なんでしょうね☆
「すごい!」しか例えようがないものもありますが
できるなら、そうじゃない何かが見たい。
振付があるものを練りこんで踊ること、
時間をかけて練り上げること。
それ自体がものすごいことであると同時に、
この辺だろうというところで安定してしまうと
途端に輝きを失ってしまいます。。
その境界は目に見えてしまうほど明快です!
真似できない境地のものをいつも踊れたら、、
それは果たしてダンスなのか

たまに見ますが、
関節があらぬ方向に動く人のダンス動画とか。
あれって《ダンス》にまで昇華している人を、、
ほとんど見たことがありません。
とんでもない動きに度肝を抜かれますが、
それより先のことは一切感じられないからです

人の優しさや強さ、そんな《人の持つ何か》

たしかに出来るというのはものすごいことです。
誰にでも出来ないことならなおさらです。
しかし、出来る出来ないではない
そのものさしでは測れないダンスがあります
いつもそれを目指して頑張りたい

クラスが終わって圧倒的美人受付嬢 Kちゃんが、
クラスを見学に来た人の発言を教えてくれました。

 「あの人だけオーラが違いますよ!!」

あの人はわたしだったそうです(爆)
何だかとてもうれしかったです☆
何しろ自分ではオーラなんてものは見えません。
あるかどうかさえわかりません。

ただ何かが見えるように毎日努力しているだけです

その一言は《今》を間違っていないことを
教えてくれるものかもしれませんね



2017年05月09日(火) 生パーカーの日

その日は突然やってきた―

 レッスン着
 バッグに入れたはずが、、入ってなかった

寝坊からの飛び起きでぶち込んだものを
電車内で取り出してみもしました

 黒タイツ。

瞬殺でした!! 瞬時にバッグに戻しました!!
その速度は、、恥ずかしさに比例します(爆)

黒Tシャツじゃなかったかなーーーーそれ。。

わたしは途方に暮れました。
ちなみに朝イチです。
普段着でクラスに出ることにしました、、
止むを得ない理由です。
その時、せんせいは言った。

「あー!それ私もあるある!! 笑笑」

そして台詞はこう続いた

「それは私たちが《どうにかなる》って、
 思ってるからよね〜♪」

間違いない(爆)
その会話のすぐ隣にいたA子ちゃんにも
尋ねてみると―

「私はないですね」

あっさり全否定されましたw
あくまでもわたしの感覚ですが、、
その表情に 血は通っていなかった。
ともあれ、A子のあの感じからすると
おそらくは《起こりようがない話》なのだ。
A子は準備の女なのでしょう。
それも完璧な度合いでw
そうじゃなきゃあの表情はできまい☆

そしてひとつの仮説がうまれました。
もし。
もしもそんなA子がレッスン着を忘れたとする。
その時、A子はクラスに参加せずに
帰るのではないだろうか??
もしもアクシデントが起こるはずがない人物なら、
アクシデントが起きたらどうなるの―???

その時、割と自分のほうが生存力ある気がしました
だってさ、、裸でもダンスは踊れるよ!

 はい。あべこべに取り違えちゃいけません。
 基本的にはわたしの完全敗北です 笑笑

アクシデント。
まあアクシデントが起こらないほうが世の人の
お手本になりますよね。
でもね、俺はアクシデントも楽しめる☆
どんなときも受け容れられるほうが、
楽しい気がするんです!

そのぶんわたしは、、ダメ人間かもしれませんw

クラス後。
仕方がない。生パーカーで帰ろう。。
生パーカーとは《生肌にパーカー》の略称です。
(生:作為をほどこさず、自然のままであること)
今日はロイヤルブルーのパーカーを着ていた。
前面のチャックをひらけばもれなく裸です。
こうして止むを得ずワイルドに!! 笑笑
我が人生においてかつてないほどの進化です☆
そしてそんな時に限って召集メッセージが届く。

「ドーム球場に集合」

ホークスvsブルージェイズ。プロ野球観戦です。
わたしがドームに到着したのは6回裏。
って、、ええええええ?! ははははは早ッッ
試合は両エースの好投で恐ろしく進んでいた!
すぐにラッキーセブン。
エース千賀からのさわやかサファテ。
気がついたら試合は終わっていた―

何だろう、、この得点するのを見てない感ッッ
得点するのを見ることなく勝どきをあげましたw
これはこれで、、新しい体験でした(爆)

 レッスン着 Tシャツ忘れて 生パーカー
 何だかわからないまま勝ちどきまで上げました
 生きててよかったです☆

この世にはこんな日もあるんだね〜
どこかでTシャツ買おうとも考えましたが、
《こんな日はもうない》って思ったら、
生パーカー満喫に舵を切ってました 笑笑
リスクがあるほうが人生はたのしいものです☆
人生なにが起きるかわかリマ戦!

◎今日もまたとない一日でした◎


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