◎再復帰公演の公表はポスターができてから◎ そう、、決めていました。
しかし公演日は2017年1月28日w
もう、、告知忍耐限界ギリギリです!! もちろんもっとも近い友人や唐突に遭遇した人には お知らせしてからお誘いまで。 ですが公表となるといろんな方々のたすけで成り立 つ公演ですのでその方々のことも最大限かんがえな くてはならず、何一つ手は抜けません。 現実は圧倒的シビアです。 ほんとのほんとは年内に、すくなくとも秋までには 再復帰公演を終えているはずでした。 その上でオープニングPARTYやファッションショー で踊る予定だったのです。 術部のリハビリと自主筋力トレーニングはまるで うまくいっていたのですが、右臀筋の故障の回復に 3ヶ月強を費やしてしまいました。。 イメージはとっくの昔に出来上がっていたものの、 実際にやる、となるとイメージだけではたりないこ とも現実です。 さらに、出演者の総和によっても変化します。 その最後には最高の何かが見えるはず!! わたしの思い描けない場所へいくのが本番です☆
イメージを超えていくこと
ここを目指さなければほんものの感動は来ません。 自分たちの今をも超えていく意志。
年末は5時間のクリエーションとかザラでした―
すべてのことにも目をとおさねばなりません。 結局ツケがまわってくるのは自分のソロ。 これは主宰である以上、避けてとおれません。 あたりまえのことではありますが、 そんな年末のことでした。 ポスター製作を依頼していた天才・たくみさんから ついに!待ちに待った連絡がきます。
「今日のオンデマンド印刷当日発送受付が13時 やったのに【発送予定日:01月07日】って メールが来たので問い合わせ中。。。 明日から6日までネット印刷おやすみ」
そう。年末年始は業者もおやすみ突入です― ほんとうのほんとうに崖っぷち… そう思いました 年明け7日とか もう終わりかも… そう思いました
その翌日の今朝。 とつぜんポスター&チラシが、、届いたッッ!!! なに!? ライネンじゃないの??? なんで?! いや、もう「なんで」じゃない! た、、たすかったーーーーーーーーッッッ☆ さっそくたくみさんに連絡しよう!
「え"ーーーーーーーーーッ!!!!! ゴネたけかしら。。。w 」
実は、ネット印刷も年末ギリギリの申し込みで、 分単位のギリギリの時間で間に合ったはずなのに 回答は「間に合っていない」とされてしまった たくみさんは業者にかけあってくださっていた。 フタを開けたら年内ギリギリで業者が仕事を完遂。
奇跡だとおもいます
それも、起こしてくださった奇跡
わたしは わたしだけで公演をしていません これは、このことだけは《真実》です どんなにギリギリになろうとも、 いろんな方に協力していただいていたのです
◎おかげさまでとんでもないチラシが完成◎
ゼロ距離を、超えろ。
復帰公演『Choice』のときにも 製作していただいた たくみさん。 再復帰公演のポスターは更に神がかっていた 今現在(2018年)となっては過去のことでは ございますが、あらためてWebSiteのメインに 載せさせていただいています 是非みてやってください☆ かっこよすぎて身震いしました どんな人が手に取ってくださるかわからない、 そして見たこともないダンスに興味をもって くださるにはチラシしかないのだ そんな希望を一手に背負っているのだ そしてその裏では、そのチラシにプレッシャーを 感じずにはいられなくなる自分w ほんとうに格好よすぎて、、 なみだがでそうになりましたw たくみさん 神☆ わかっていたものの、ほんとうに手に取ったとき その気持ちはそのときはじめて実感するものです
これを手に取ってくださった人 そして見に来てくださる人があらわれたら どんなこともわたしにとっては奇跡かもしれません
この本には、わたしがずっとかんがえている問いに ひとつのこたえがしめされていた とんでもない本ですッッ そして これが著書についての最終稿となります☆ ようやく2016年のおわりが見えてきた!おそっ!涙 ◎是非ともご一読ください◎
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅
「真実は伝えられない」
真実は皮膜の間にある。 これは、人形浄瑠璃、歌舞伎の作者、近松門左衛 門の有名なことばです。 もちろん科学的に、 皮と膜の間にはなにもありません。 なにもないのに、そこに真実がある、というのは どういうことでしょう。 私の従弟で、近松門左衛門の『心中天網島』を 映画化した篠田正浩は、 言葉と言葉の間にあるという意味だろう、 と私に言いました。 真実は、言葉にしえないし、文字にもしえない。 想像力を頼りにしなければ、語れないもの。 近松門左衛門は、そう言いたかったのでしょう。 たとえば、悲しい、という言葉一つとっても、 悲しいという感情が主体であっても、寂しさや 辛さなど、ほかの感情が微かに混ざっているかも しれません。 心の奥底には、本人も自覚して いない安堵感もあるかもしれません。 ですから悲しい、と言葉にした時点で、 ほかの多くの感情は失われてしまいます。 伝えきれないもどかしさ寂しさ。表現には限界が あり、そして真実自体も本人すらはっきりとわか りえない神秘的な、不思議な部分があります。 真実というものは、究極は、 伝えうるものではない。 ですから、私たちは、目に見えたり、聞こえたり するものから、察する。 そうすることで、真実に触れたかもしれないと 感じる瞬間が生まれるのかもしれません。 真実は、想像の中にある。 だから、人は、 真実を探し続けているのかもしれません。
「真実は見えたり聞こえたりするものではなく、 感じる心にある」
おどりはかたちにのこりません。 画家さんに会ったりしたとき、 とてもうらやましい気持ちになります。 自分がつくったものを自分で確認できる! ダンスは、、自分自身が踊っているので、、 そのとき、その場所で確認できることがありません ビデオとかじゃダメなんです できるなら、自分の踊りを、空間を、、 そのときのすべてを確認したい できません しかし、、そのぶんの可能性があります それは《今》をかんじる、かんじとる感性です それも《相手ありき》というのが肝心 なにしろはじまるまえからまわりに人がいます いま、目の前の人に “対して” いること。 その空間に “自分がいる” ということ。 ダンスは自分のすべてをつたえられるわざです。 それも、、嘘いつわりが見抜かれるほどのわざ。 自分のすべてが筒抜けになってしまいます。 ここに恐怖も感じるわけです。 これこそが真実の正体かもしれない 相手あっての ほんとうの自分 すべてが見透かされてしまうリアル 真実は、、丸裸ですw 怖いし、恥ずかしいし、最悪ですッッ 笑笑 でもきっと真実なんてのは、、 そこからしか見えてこないんじゃないか 勇気がなければ真実はとりだせません。 そしてその真実は受けとる側もそれに向き合って いなくては受けとれません これはまるで一方通行ではない話です なにしろこちらは《まるはだか》ですw
きっと しんじつ は きょうどうさぎょう
しんじつはどうやったらつたわるんだろう これまでおどってきてその問いは常にありました “しんじつ” というよりも “ほんもの” をさがしていました なにしろダンスはことばの前です ことばになる直前のからだの様相 音楽家ならば音になるまえの― どんなこともダンスがなによりもはやい。 そうおもうのです なにかに表す前のもの 誰かになにかをつたえたい もしかしたらダンスとは 《誰かになにかをつたえたい》という 《そのもの》かもしれません。 そうかんがえるとダンスはかたちや結果ではなく、 つねに表される “まえ” のものではないか そんな気がします “ダンス” へと変容していくカラダ そこになにかをかんじずにはいられない ダンスとはそんなものではないか、 いまはそんな気がするのです あらわされるまえである以上は どんなことともとらえられるかのうせいがあるもの かもしれません もしくはどうともとらえられない まるでわからないもののかのうせいもあります じぶんのなかの “ほんとう” をとりだすのは いつも困難です なにしろこころにはいつも雑音が鳴り響いていて とてもうるさいからです どうしたらその “雑音” をなくせるか いつもその方法をさがしています このとおりみちはほとんど《瞑想》かもしれません ほんもののじぶんをてにいれること こうして《しんじつ》をつたえるためには じぶんじしんが《しんじつ》そのものになればいい のだと気がつきました
《ほんもの》になれさえすれば すなわちすべてが《しんじつ》
ほんものに、しんじつに、なる方法を これからもきっと、 ずっとさがすのだろうとおもいます うけとられるまえに わたしにできることは これだけです。
おどったあとは手から放れてしまいます
ほんとうのじぶん、っていったいなんなのか みんなのまえにたつ以上は それを自分自身でたしかめなくてはなりません とてもとてもむずかしいことです
きょうこの日まで こころがふるえるしゅんかんが わたしにはありました ダンスに涙がとまらなくなるような そんなしゅんかんがたくさんありました そんなダンスをおどれるひとはひとにぎりです
そのひとが《しんじつ そのもの》だからです
つづきです。 やっぱりどうしてもその内容を避けられない!! どうやら2016年のXmasを突き抜けそうですッッ
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅
「誰もやらないときに、やったことが大事」
昔、私の展覧会でのことです。 ある人が私に、 「墨で線を引けばいいだけだろう。 こんなもの誰にだって描けるよ」と言うので、 「それならあなたもおやりになったら どうですか」と応じたことがありました。 のちに、「悪かった」と謝ってきましたが、 誰かがやったことを自分もすることは誰にでも できることです。 しかし、まだ、誰もやらないときに、それを やった、ということが大事です。 まだ誰もやらないうちにやった人は、それだけの 自信を蓄え、自分の責任でやっています。 その結果が、受け入れられるか、受け入れられな いかはわかりませんが、なかには、高く評価して くれる人がいるかもしれませんし、認めてくれる 人がいつか現れるかもしれません。 人の成功を見届けてから、私もできます、という のは、後出しジャンケンをしているようなもの。 誰もやらないときに、やった、ということで、 私が最初に思い出すのは、20世紀のアメリカの 画家、ジャクソン・ポロックです。 私が1956年に初めて渡米したとき、最も会いたか った人でした。 彼は、当時、まだ誰もやらなかった、絵の具を、 筆ではなく撒いて描きました。 彼の作品を見て 私は子どものときにさせられていた水撒きを思い 出しました。 家の玄関から門まで続く踏み石に 柄杓で水を撒いていたのですが、垂らしたり、 飛び散らせたり、自分の撒き方次第で、水のかた ちがさまざまに変わり、撒いた水に濡れて、踏み 石の景色が移り変わるのを、子ども心ながらに 美しいと感じて眺めていました。 ジャクソン・ポロックは、白いキャンバスを床に 広げて、キャンバスの上から、絵の具の入った バケツを手に、撒いていましたが、撒くという 新しい描き方を生み出し、絵というものは自由に 描いていいものだと、人々の心を解放しました。 そうした手法は、アクション・ペインティングと 呼ばれるようになり、のちに大きな芸術運動の 基礎にもなりました。 しかし、彼自身はひどい躁鬱病に苦しみ、自らが 運転する車を大木にぶつけて、44歳で亡くなりま した。 それは自殺としか思えない事故死で、 いまだ自殺なのか事故死なのかは謎です。 彼がニューヨークで事故死を遂げたとき、私は 自分の展覧会のためにボストンにいました。 ボストンに行く前に、ニューヨークに立ち寄って おけばよかったと、今でも時折、悔やみます。 若くして亡くなったジャクソン・ポロックは、 自分のやったことが、世界の美術界に多大な影響 を与えたこと、150ドルでしか売れなかった 自分の作品が、のちに史上最高額の 1億4千万ドルの値がついたことを知りません。 彼のように、誰もやらないときにやった人がいた から、新しい境地が拓け、後世の私たちもそれを 享受することができています。
「受け入れられるか、認められるかよりも 行動したことに意義がある」
行動というのはなかなかできないものです。 しかし《衝動》を具えてしまうと、、 突然できてしまいます! いわゆるアレです。 “何かに突き動かされている感じ” 「行動したことに意義がある」というのは 今年ついにblog化できた『ヨーガ・スートラ』に 書かれていた真理です。 わたしたちに大事なのは 《結果ではなく、行動すること》 到達点が同じなのにびっくりしたのと同時に、 やっぱりそうだよな、と腑に落ちるものでした― 行動できる、というのは人間がもつ得体の知れな いチカラだとおもうのです。 「評価」というのはわたしが大嫌いなことばの ひとつですが、誰がそんなものをつけているのか いつも疑問なのです。 たいていは影響力のある人のキャッチコピーとか 有名人が訪れたというものではないでしょうか。 人に来てもらうための宣伝です。 わたしが入院しているときお見舞いに来てくれた 友人がこんなメモをのこしてくれました。
「もうすぐ時代が追いつくよ!!」
そのメモはわたしのささえでした。 わたしのかんがえではありますが、篠田桃紅さんに しても、ジャクソン・ポロックにしても、 “誰もしていないことをしたかった” わけでは ないとおもいます。 単なる思いつきでは芸術の域に到達なんてできない そう思うからです。 自分自身に向き合って、その衝動と向き合ったら、 “しぜんとそうなった” とおもうのです。 これは、行動するにあたってたいへんな問題です。 わたし自身もそういった “誰もやってないこと” を したかったわけじゃありません。 自分がつたえたいとおもったことを、、 ふたを開けたら、、他の誰もやっていない!! ここ10年くらいいろんなダンスを見てきましたが、 一発芸の人は生き残っていません。 ひとつの作品を当てただけで、それ以降のものを、 その人自体を見たことがないのです。 わたしはやはり中身の問題だとおもいます。 その衝動がホンモノでなければ伝わったりしない。 インパクトだけでは景色が見えたりはしません。
見えないものにこそほんとうがあるとおもいます
| 2016年12月23日(金) |
おどる先になにがあるのか2 |
芸術のさきのこと うけとってもらったさきのこと
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅 人との競争で生き抜くのではなく、 人を愛するから生きる
「あらゆる人に平等で美しい」
芸術は、あらゆる職業、あらゆる階級、 どの人にも平等に、「美しい」というのは どういうことか、ないがほんとうに「美しい」 のかを考えさせる存在だと思います。 そのため、私は自分の作品を介して、 あらゆるかたに会いました。 そのなかで、外国の王室のかたが、東京のアト リエに訪ねてくださったのは、おそらく、 このかたが最初で最後のこととなるでしょう。 人口約50万人で、私がご訪問を受けた1999年 は一人当たりの国民総所得が世界一位のルク センブルク大公国のジョゼフィーヌ・シャルロ ット大公妃(1927〜2005)です。 ジャン大公とともに、国賓として来日されてい た間、私のアトリエを訪ねたい、とご所望され ました。 ルクセンブルク大公妃は、ベルギーのレオポル ド三世国王のプリンセスとして生まれました。 少女のころ、父が運転する車の事故で、母の アストリッド王妃を亡くし、第二次世界大戦中 は、ナチス・ドイツの占領下、一家は監禁され 一時期、スイスに亡命しました。 亡命のときの様子を、スイスの国境まで裸足で 逃げて、一歩入ったそのとき、やっと助かった、 心底ほっとしました、と大公妃は述懐されて いました。 足は血まみれだったそうです。 王室のご身分で、ヒットラーに狙われたら、 戦時中は、生きた心地はしなかったことでしょ う。 戦後、のちのルクセンブルク大公となる ジャン大公世子とご結婚されたのですが、 まさしく二十世紀の歴史を背負われた方でした 私とは、置かれた境遇も、身分も違いますが、 同じ第二次世界大戦中、食べるものがなくて、 野生のタンポポを口にしたという逸話をもつ 大公妃と、地面にひょろひょろと生えている草 があれば、食べられるかしらと思って見ていた 私。 東と西の別々の地で、それぞれ異なる 境遇で死と隣り合わせになりながら生き抜き、 出会ったことを、私は感慨深く思いました。 大公妃は絵のたいへんお好きなかたでした。 私たちは、フランスの画家の話など、アートの 話に余念がありませんでした。 大公妃はもっ と話していたかったようでしたが、十数名の 身辺警護のもと、一分たりともスケジュールを 遅らせるわけにはいかず、定刻どおりにご出発 されました。 私も、名残惜しい思いでお別れ をいたしました。
芸術を愛する人の心は普遍的で、人と人に、 実り豊かな縁をもたらします。 この普遍性が、世界の平和の一助になることを いつか地球上から戦争と飢餓がなくなる日が 来ることを、私は願っています。
どんなことも。 人前にでれば、相手と正対すれば、 勇気がひつようです。 自分のかんがえや思いをうけとってもらえるか、 否定されやしないか、 勇気がなければいつも 怯えながら生きていなければなりません。 自分らしく生きることは堂々と生きることです。 生きることは ただ呼吸することじゃあない! 誰になにを言われても自分らしく生きる。 それを選べることが自分自身への近道。 選択できることが “自由” だからです。 わたしの復帰公演タイトルは『Choice』でした。 勇気をもって選択することで初めて “わたし” が “ダンス” がうまれます。 その選択をどう受けとられるか どんなにいっしょうけんめいおどっても 好きか嫌いかはわかれます ただ、芸術となればそれを突き抜けなくては! 好みだけではとても芸術とは呼べません。 わたしも最初は好みだけで判断していた気がします ですが、これまでの偉大な先人たちのおどりは 決してそんな好みの問題だけで帰してくれることは ありませんでした その踊りがどんなに醜くて醜悪でも、 どこかに避けてとおれない《何か》を感じました どんなに苦しいものでも目が離せない ここにこそ言葉にならない感動があるのだと わたしはそうおもうのです そうした《何か》がアートなのではないか その《何か》も定まったものではなく、 多種多様な《何か》なのです これを受けとれるようになるまでは いろんなものを見て感じなければたどりつけません なにしろ好みの問題ではないので、 自分だけの主観ではないものだからです。 こうした感性には “なにがほんとうに美しいのか” をひとつに決めつけないこと ひいては多種多様なものに目が向けられることに つながっているようにおもえます
そうかんがえたら、、 好き嫌いの観点でいけば、 【徹底的に嫌われること】というのは アートの条件かもしれません。 ただし、好き嫌いは超えていくことw
わたしたちはいつもいつでも、誰とでも そんなものを共有していけるのだと信じたい そのためにいっしょうけんめいというのは 双方にとってはなはだあたりまえのことです それをこれまで出会ったひとたちが、おどりが、 おしえてくれました わたしもそれにはじないダンスをおどっていきたい そうおもっています
| 2016年12月22日(木) |
おどる先になにがあるのか |
わたしはそのさきのこと かんがえたことがありませんでした 自分にできること。それをいっしょうけんめいに それが自分の精一杯だったのだとおもいます そのずっと先のことを示してくれたのは、 この本がはじめてです
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅 ずっと人はいきいきと生きていた
「平和な心を育てる」
ジョン・D・ロックフェラー三世は、 父の意志を継いだ、たいへんな慈善家でした。 慈善活動を行うために母体となる財団を 幾つも設立し、公共、私立の文化、教育、 医療機関などへの支援を熱心に行っていました。 その支援は、米国内にとどまらず、戦後のアジア ・ソサエティを設立し、財政破綻をしていた ジャパン・ソサエティも復興しました。 巨万の富を得た一族の長男自らが、生涯を慈善 活動に費やした、桁外れのスケールの一端を、 その時代、アメリカで作品を発表していた私は、 垣間見ることがありました。 三世のブランシェット夫人に、何回か食事に招 かれ、また、二世が寄贈したメトロポリタン美 術館の別館、ハドソン河沿いのクロイスターズ 美術館にも案内していただいたことがあります。 すばらしい庭園を抜けると、河岸には舟が係留 されており、ハドソン河の遊覧を楽しむことが できました。 マーク・ロスコ、ウィレム・デ ・クーニングなど、当代の抽象表現主義の旗手 といわれた画家たちの絵、そして私の絵もクロ イスターズ美術館に、当時保管されていました。 ブランシェット夫人もまた、慈善家として忙し く過ごすかたわら、アジアのアート、そして近代 アートの支援と収集を熱心に行っていました。 戦後間もない年から、積極的にニューヨークの 近代美術館の運営に関わり、理事も務めていま した。彼女には私設のキューレーターが数名おり 収集するアート作品の候補を選んでいました。 私の作品展のときもそうでしたが、最初は一人 が観に来て、その人がいいと思ったら二人目が 観に来ます。二人以上のキューレーターが推薦 すれば、収集の対象となりました。 そのことを私が知ったのは、二人目が観に来た とき、たまたま私もギャラリーに居合わせたか らでした。 ギャラリーのオーナーに、あの人 はロックフェラー夫人のキューレーターだから あなたはすぐに隠れて!と言われました。 美術評論家もそうでしたが、キューレーターも また、作家に会うことで作品への厳選な判断が 損なわれることを嫌ったのです。 身を隠した私に、オーナーが事情を説明してく れました。 美術家がゆえに、私は、世にも稀な人に会うこ とができたわけですが、ジョン・D・ロックフ ェラー三世のご実家は、世界の美しいアートや 工芸品に囲まれていたそうです。 それは、ご自分たちが好きだったということも ありますが、子どもたちが物心ついたときから 世界中の《美》に触れていれば、おのずと、 その《美》を生み出した文化とその人々に対し て、敬愛の念が培われるという、ご両親のジョ ン・D・ロックフェラー二世とアビー夫人の 教育信念によるものだったそうです。
美しいものは、多少の好みはありますが、どの 国の人も美しいと感じます。 そうした敬愛の念を抱けるものが地球上で増え れば増えるほど、共通の心を持つ人は多くなり、 価値観の違いや自己の利益を第一にした戦争は 少なくなっていく。 そう考えたのではないかと、私は思います。
わたしのダンスもそんなものになれるように、 そんな踊りをおどっていきたい そうおもいました。 ジャンルにとらわれないダンスをおどっているから こそきっとできることがあるとおもうのです。 それを信じています。 信じていなければ人前には出られません! そもそもダンスというもののはじまりには、 ジャンルなんてなかったはずです☆
「どの国の人にも美しい、と感じるものが 増えれば増えるほど 共通の心が広がる」
亡くなったマイヤ・プリセツカヤの言葉を、 これに足しておきたいとおもいます。
「 “ほんとうに” 美しいものをおどれば 100人いたら その100人が “美しい” と 感じるはずです」
わたしの “おどり” はまだまだで、否定的な感想も 少なからずいただいています。 そのときに上の言葉を思い出します。 やさしい友だちは言ってくれます。 「わからない人は放っておいていいのよ」 涙がでるほどありがたい言葉ですが、 マイヤ・プリセツカヤも篠田桃紅さんも、 きっと放ってはいない、そう思うのです。 どうしたら “ほんとう” をつたえられるのか 徹底的にやってこなければそんな言葉は出せない、 そう思うからです。 どの国のひとにも美しいと、感じるものは なみたいていのことでは現出できないはずです それを言えるのはやってきた人のみ そうおもうのです
| 2016年12月21日(水) |
自分の心が、自分の道をつくる |
この本には唸ることしか、、ない☆ 篠田桃紅さんはほんとうにすごい!
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅 人生を楽しむためには、人間的な力量が要る
「自分の心が、自分の道をつくる」
私は美術家ですが、美術家になりたいと思った ことは一度もありませんでした。 自らの人生を、自由に選択すること自体が困難 な時代に育ちましたので、自由に生きることを 希求していたら、美術家になっていた、という 感じです。 私の十代、二十代は、日中戦争そして第二次世 界大戦がありました。 戦時中は、誰もが生きることの制約を受けまし たが、なかでも、私の胸に刺さった女学校時代 の教師の言葉があります。 それは歴史の授業でしたが、「あなたがたはこ うして座って私の講義を受けていますが、今こ の瞬間にも、あなたがたと同じ年齢の貧しい農 家の娘たちは、凶作のために売られてお女郎に なっているんですよ」。 当時の若い女性にとって、女学校を卒業したら 学校の先生や親がすすめる相手に嫁ぐことが、 生きていくための最上の手段でした。 私の友人も次々とお見合い結婚していきました。 しかし、その時代は、家制度による古い慣習が 重んじられていましたので、なかには、夫を戦 地で亡くし、子どもがいないにもかかわらず、 嫁いだ夫の家を出ることができず、奉公を続け ていた友人もいました。 夫が戦死した友人は、幾人もいました。 結婚するなら、家制度に縛られず、自分の納得 できる相手としたい、と私は考えましたが、 戦時下に、男の人がそういるわけでもなく、 かといって、実家に居座っているわけにもいか なくなりました。 実家には、時間の問題で、一番上の兄のお嫁さ んが嫁いで来ることになっていたからです。 厄介者の私は家を出なくてはならず、私には、 自らが身を立てて生きていくよりほかはありま せんでした。 そこで、私は、書の先生から、あなたの実力な ら教えていいです。と言われていましたので、 お弟子さんをとって、教えることにしました。 そして、書に専念しているうちに、私はどんどん 深みにはまり、次第に文字は、こう書かなければ ならない、という決まりごとに窮屈さを覚えるよ うになりました。 たとえば川という字には、タテ三本の線を引くと いう決まりごとがあります。 しかし、私は、川を三本ではなく、無数の線で 表したくなったのです。 あるいは、長い一本の線で、川を表したい。 文字の決まりごとから離れて自由になりたい、 新しいかたちを生み出したい、と私は願うように なり、墨による抽象表現という、自分の心のまま を表現する新しい分野を拓きました。 幸いにも、私の作品は、ニューヨークで評価され て、世界にも少々広がりました。 ですから、私の場合は、こうなりたい、と目標を 掲げて、それに向かって精進する、という生き方 ではありませんでした。 自由を求める私の心が、私の道をつくりました。 すべては私の心が求めて、今の私がいます。
救われるような気持ちでした わたし自身。ものすごいちっぽけな存在です。 ただ自分にできることを、 いろいろできなくなったことがふえるなかで、 自分にできることを、そのぎりぎりを 無我夢中にやってきました そうしたらダンサーになっていました もちろんダンサーになりたかったのも事実です。 しかし《誰かに選ばれることでないダンサー》に なったのはそれほどむかしのことではありません。
それこそ いつのまにか なっていた
「川を三本の線ではなく、 無数の線で表したくなった」 ここに桃紅さんの《衝動》が見えます!! わたしにもそんな《衝動》があるんです!! それを自覚したのはこんなことを考えるように なってからです 「誰かがやってくれたら 自分が踊らなくてもいいのに」 この問いにはつづきがあります。
結局のところ、誰もわたしをおどれない
誰かがわたしを発揮してくれることはありません 自分がおどるしかないのです
わたしは “一般のひとのイメージ” の “ダンス” を おどっていません。 先人たちが築いてきたゆたかさにどうしようもなく 感動し、涙をながしました こんなダンスがあるのか、と。 こんなにもゆたかなものがおどれるのか、と。
そんなダンスをほとんどの人が知らないのです
わたしの先生のひとりである黒沢美香さんは、 こんなふうに言っていました。 「もしかしたら私がおどっているのは “ダンス” ではないのかもしれない。 いろんな言葉をさがしたけれど、いまのところ “ダンス” としか言いようがない。 そのとき “ダンス” ということばの奥深さを 意味の広さ、包容力を知った」 わたしのおどりは美香さんに遠くおよびません。 ですが自分自身のダンスをいつも信じる者です。 美香さんと同じダンスはおどれません。 だからこそダンスがおどれるのだとおもうのです
12月はじめ。 黒沢美香さんと懇意にされている方から、 黒沢美香さんが亡くなったことを聞きました 声にもならないくらいのショックで 数日間なにもできなかった ヒザがよくなったら、会いにいって、 クラスをうけて、そして叱ってもらおう そんなふうに簡単にかんがえていました “今” は永遠じゃありません 黒沢美香さんにおしえてもらった “ダンス” を おどりたい! 自分なりにつむいできた、いっしょうけんめいに 向きあったその時間をどうにかしてつたえたい
自分にできることはダンスをおどることだけです
| 2016年12月20日(火) |
頼らずに、自分の目で見る |
つづきです。
主催公演を打つたびに避けられない問題。 それは、公演タイトルです― わたしが催すダンス公演は、 “感じてもらうこと” を主旨とします。 なので答えをタイトルにするというのは 極力避けたいのです。 むしろかんがえてもらえるようにしたい。 ダンスには無限の可能性があり、 どうとらえられるかうけとられるかというものに わたしは真摯に向き合う者です。 “感じてもらえない” というのは ダンサーの、出演者の、実力不足! いのちの力を知る者として揺るがないリアルです
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅 過去を見る自分の目に変化が生まれる
「頼らずに、自分の目で見る」
アメリカ屈指の美術批評家、 ニューヨーク・タイムズ紙の ジョン・キャナディ氏が、生前、 私にこんなことを言いました。 「絵には作品名がないほうがいい。 作品名があると、見る側がそれに左右されて しまう。自分の目で判断しているので、 僕は展覧会へ行っても、作品名は見ない」 もちろん、キャナディ氏は、 ギャラリーから作品の説明は一切、受けません。 作家本人に会うこともしませんでした。 説明を受けたら、自分の判断が鈍るかもしれない 作家に会うと、情が移るかもしれない、 と考えたからです。 自らを律した厳しい目で作品を見て、批評をして いました。 それだから、世界的な美術批評家と して高い信頼を得ていたのでしょう。 キャナディ氏に否定的なことを書かれたら、 アーティストとしておしまいだと、 美術関係者はおそれていました。 このごろはずいぶん減りましたが、 私も、展覧会などで、 「これはなにを表している絵なのですか?」 とよく聞かれたものでした。 絵というものは、自分のなかに湧いてくる思いを 目に見えるようにしたものなので、なにを、と いう質問には、私はいつも戸惑いました。 絵に表れているものこそが、質問の「なにを」で そしてその「なにを」は見る人によって、 どのように受け止めてもいいものだからです。 人は、説明を頼りになにかを見ていると、 永遠に説明を頼りに見るようになってしまいます たとえば、それが絵であれば、絵の鑑賞の幅を 自ら狭めていることになります。 参考にできることは、おおいに参考にしたほうが いいと思いますが、頼るのではなく、 自分の目で見て、考える。 キャナディ氏の言葉は、私たちの日常の 生きる姿勢にも通じると思います。
わたし自身。いち芸術家として、 この文章には唸ってしましました。 《絵》は《ダンス》にかるく置き換わります。 質問のこたえもまったく上記のとおりです! わたしはよく喩えをつかいます。 【ゴッホの絵】 ゴッホの絵だったらどれも、 すべての絵画は、いい絵なのでしょうか?? 自分自身の目を養わなければ!! 自分の感性ではなく他人の評価に左右されないこと それが《自分自身》への最短距離です。 自分はこう感じる、それを大事にしてほしいのです わたしの公演タイトルも同じです。 しかし、公演のお誘いをする際、 タイトルがないというのはさすがにできません! これにはいつも悩まされます。。 ひとの創造性にアクセスするというのは、 いつだって困難なのです。 絵とダンスの違いも明白です。 そのときどんなダンスが生まれるのか。 わたし自身にもわからない!! こんなにスリルがある大冒険は他の誰にも出来ない そう思うのです☆ 大冒険というと聞こえはいいですが、 ここに責任をもつというのは恐怖そのものです。 恐怖を超えていく覚悟がなければ、 舞台には絶対に立てません。
これは、実は日常にあてはまってしまいます
自分自身がない人、見えない人というのは、 おおよそ他人の評価で動きます。 当たり障りのない生き方とも言えるかも。 永遠に誰かに迎合しながら生きていってください。 自分の中に湧き上がる思いが、衝動があるかぎり、 わたしたちの人生はゆたかさそのものです。 それをひとにつたえられるというのは なんてすばらしいことでしょうか わたしはきっとそういったもののために おどっているのかもしれません
| 2016年12月19日(月) |
どうしたら死は怖くなくなるのか |
つづきです。
たまたま見た番組など、それを誰かに伝えたら 世界が瞬く間にひろがってしまう… そんなことがわたしにはたくさんおとずれます! とても不思議なことですが、 そんな人がまわりにたくさんいるらしいのだw 巡ってくると途端に密度が、知識が高まる。 そのことをもっと知っている人がいる。 考えてみると、、ものすごいことです☆
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅 人生は一人でも面白い
「どうしたら死は怖くなくなるのか」
百歳を過ぎると、人は次第に「無」に近づいて いると感じます。 その一つに、私は作品を描き始めると、 一切、なにも思わなくなりました。 作品と私の間には筆があるだけで、 ただ描いているだけです。 それは、筆が勝手に描いているという感覚で、 なにかを表現したい、想像したい、 造形をつくりたい、といった私の意識は どこにもありません。 描いているという意識すらありません。 無意識のうちに、自然にできあがっていた。 しかも、これまで見たことのない、 まったく新しい境地の作品です。 このことを無理矢理、意味づけるとしたら、 今まで何十年来と一生懸命に生きてきたから、 あらゆる角度からさまざまな表現の試みをして きたから、過去の集積からこぼれ出た、とも 言えるでしょう。 あるいはまったくのただの偶然にすぎない、 とも言えるでしょう。 先日、「どうしたら死は怖くなくなるのか」と 若い友人に尋ねられました。 私は「考えることをやめれば、怖くない」と 助言しました。 どうせ、死はいつか訪れると決まっています。 そう遠からず、私も死ぬだろうと、 漠然とですが、思っています。 人は老いて、日常が「無」の境地にも至り、 やがて、ほんとうの「無」を迎える。 それが死である。 そう感じるようになりました。
百歳を超えた超人が言うことです。 そのうえ、、現役の芸術家ッッ 計り知れない何かを感じないわけにいきません! 「無」ってなんなのでしょうねw わたしたちも百歳を超えないと、、 そんな境地には至れない気がいたします☆ ただ、ひとつ気付いたことがあります。 《芸術》に関して。 それは「自分をわすれる」というものです! わたし自身も踊り続けているうちに、いつの間にか 自分をわすれています。 目指すところは、もしかするとここかもしれません
お客さんと私の間にはダンスがあるだけで、 ただ踊っているだけ。 それは、ダンスが勝手にやってくるという感覚で なにかを表現したい、想像したい、 共有したい、といった私の意識はどこにもない。
これまでいろいろな本を読んで、課されて? 笑笑 研究をかさねて、現時点の成果はこれです―
【ホンモノの自分は観察できない】
“わたしらしさ” というものは 自分をわすれるくらいに没入した先に あるのではないか、ということです
つまり「自分 “が” 」の部分がないのです!
わたしたちは “つたえたい” とか、 “想像したい” とか、頭で考えられているうちは もしかしたら《芸術》ではないのかもしれません すくなくとも “わかってもらいたい” とか そんな卑屈なものではない気がします 芸術とはそんな「わたし “が” 」の部分を超えて、 “わかってしまう” “感じずにはいられない” そんなものだと、わたしはおもうのです 芸術は主張ではない 芸術は自己顕示欲ではない
ホンモノの自分というのは わすれるくらいの自分 おぼえていられないくらいの自分 そんな気がするのです
| 2016年12月18日(日) |
「103歳になってわかったこと」 |
N◎KでSWITCHという対談番組があります。 興味がある人じゃないとてんで見ませんが、 おおよそ《芸術家》のときくらいですかねw 妙な俳優とか出てるのは一切見ません 笑笑
篠田桃紅 × 日野原重明
番組放送100回記念で100歳超えの対談でした☆ 篠田桃紅(103)日野原重明(104) すごすぎる これッッ 究極対談だろ! 最初で最後だろうな… きっとw というか篠田桃紅さんが、その作品がッッ すごすぎて… メガ離せない!! 2016年1月9日放送。 現在2016年12月…おいおいおーーーい 見てた際、再復帰公演で美術担当していただく ことになる瞳さんにメッセージを送信していた。 たしかこんな感じ。 「今ね!篠田桃紅さんっていう美術家がね!」 即答返事キタ。 「私、篠田桃紅さんの本もってるよ!課すよ」 読了を紐解くと2016年5月。 そして忘却の彼方へ(爆) ◎2018年になってわかったこと◎ いまこそ、2016年を超えていない今こそ! 断ざ、、ブログ化ですッッ
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅
「いつ死んでもいい」なんて嘘。 生きているかぎり、人間は未完成。
わたしは再復帰公演にあたり、 その本を、篠田桃紅さんをとおって、 そしてたどりついたのだとおもうのです
篠田桃紅さんは美術家です。 もともとは書道家でした。 しかし墨を用いた抽象表現に目覚めて渡米。 現在では世界的に知られる美術家です。 その人のエッセイ集。 対談番組でも度肝を抜かれましたが、 やはりその年齢からの知性は計り知れません。 どんなことも、ひとつの真理でした―
「誰か式、誰か風、ではなく その人にしかできない生き方を自然体と言う」
わたし自身、年を重ねてきて まことにそのとおりだとおもう一言があります。
「あなたの人生を枠におさめない」
歳相応という言葉がありますが、 百歳を過ぎた私には、 なにをすることが歳相応なのかわかりません。 しかし、「年甲斐もなく」とか、 「いい歳をして」とか、何歳でなにをするかと いうことが人の生き方の指標となっています。 たとえば、ムダに歳をとっていない。 派手な身なりなどをしていると、 歳のわりには若づくりをしている。 おそらく私のことも 「いい歳をして、 まだあんなことを言っているのね」 と言う人はいるでしょう。 人を批評するのに、 年齢はたいへん便利な言葉です。 私は歳には無頓着です。 これまで歳を基準に、 ものごとを考えたことは一度もありません。 なにかを決めて行動することに、 歳が関係したことはありません。 この歳になったからこれをしてはいけない、 この歳だからこうしなくてはいけないと思った ことがないのです。 自分の生き方を年齢で判断する、 これほど愚かな価値観はないと思っています。 私が、自由に作品をつくることができるように なったのは、戦後になってからのことで、 三十代後半になっていました。 初めて個展を開いたのは、戦後の混乱期で、 四十歳を過ぎていました。 その後、四十三歳で渡米しましたが、 この渡米がきっかけとなり、 私の作品は世界中に広まることとなりました。 当時は、女性が仕事をスタートさせるのには たいへん遅い年齢でしたが、自らを年齢で 縛りつける生き方をすることのほうが、 私には不思議でした。 こうして私が長生きしているのも、 自らの人生を枠におさめなかったことが、 幸いして、精神的にいい影響を及ぼしているの かもしれません。
自らのすすむ方向に、 自らがすすみたい方向に向いてさえいれば。 どんなことも どんな境地であっても、 その方角を、自分自身を照らしてくれます。 わたしのダンスは “できること” でない以上、 そのときその場所で感じるものに光をあたえ どうにかしてみなさんと共有できないか、 そのことだけしか頭にありません。 どうしたら自分自身を筒抜けにできるか。 できうるならば とおってきたものに感性を かんじてもらえないか。 そのすこしの感性があたたかいものであることを それを信じているものです “いったいダンスとはなんなのか” それはきっと最後の最後までいつも隣にあります
今日はピラティスクラスに出ました。 バカみたいに練習してもカラダを壊すだけ! できるときにしっかりカラダを整える。 &壊れないように鍛える。 ちなみに、ダンスを外して最も苦しいクラス。 ダンスに比べればまるで及びやしませんが、 とにかく次から次に課されるトレーニング。 休憩なんかまったくありません。ゼロ。 一般の人からは “キツそう” って想像だけで 敬遠されている崇高なクラスのひとつですw そんなトレーニング中の出来事。 ひとみ先生は言った―
「鼻先目線で、 私はクレオパトラよ〜☆ って感じでやってね! マーメイドも同じです。 私は人魚姫よ〜☆ って感じよ!」
それは、大変に難しいメソッドでした… どこをどうとってもそのまま受け止めるとまずい。 では、主語を《俺》に変換してみましょう★
俺はクレオパトラ 俺は人魚姫
最初から困難であることが わかってもらえるかとおもいますw ◎どんな感じなのかなんて考えたくもない◎ しかし。わたしもクラスの一員である以上。 やりますよ!やりますとも! とにかくやるのだ(爆) そのときでしたッッ ひとみ先生の視線がわたしに止まった。。 そしてクラス中に先生の声がこだました―
「いちばんクレオパトラっぽ〜い♡」
ダメ押しかよーーーーーッッッ っていうかそれ血祭りじゃないのか!? 最初から罠じゃないかーーーッッッ てかね、わたしは舞踊家ですよ?? 舞台人なんですよ?? やれと言われればやりますよッッ 一般人ではないのですから突き抜けますよ!!
そう、タイトルを見てわかるとおり。これは… 《クレオパトラの謎》じゃありませんw 《謎のクレオパトラ》です
以降、クレオパトラのときには “いちばんクレオパトラっぽいかどうか” かならずチェックされるようになりました… ◎誰もクレオパトラの実体知らないのにね◎
いつも笑顔の先生がなによりも怖いです☆
| 2016年12月16日(金) |
まるで中身の濃い薄いさん |
「知ってますか?」と質問されて 「知らない」とかるく答えられる問いだった―
【恋ダンス】 【PPAP】
聞くところによれば、、 もう数ヶ月も前から話題になっているらしい…
ま、、まるで知らない(爆)
薄いさん(仮)に初めて会ったとき。 あのときを忘れもしません。 一般に知られすぎている芸人を答えられなかった
「タイスケさん… もしかして 刑務所から出てきたばかりとかですか?!」
真顔でした。 あれは、真顔でした。 あの目は、、本気だった。。(超実話 笑い話のはずなんですが、
実は かなりのダメージを背負っていた―
薄いさん(狩り)はテレビに詳しい。 わたしはN◎Kの番組くらいしか見ていない。 というかほとんど。まるっきり見ていません。 みんながあたりまえに知っていることを知らない。 正直に言って薄いさんに会う以前は、 そんなことを気にも留めていなかったのである…
こうして如何にわたしが無知であるかを悟ったのだ
薄いさんとは定期的にお会いするため、 そのうち薄いさんはいろいろなことを教えてくださ るようになりましたw わたしは出来の悪い子です 教えてくださるもの そのほとんど。 ほとんどと言うか、140% 知りませんでした― そうして世界は変わっていきました。
変わっていったのは主に薄いさんの世界です(爆)
この日も「知らない」を連発していたわたしに、 薄いさんは なんとこんな発言をします!!
「私は、、俗物ですね… タイスケさんが知らないことを こんなに知ってますものね」
なぜだか その声にはさみしさがこもっていた そうしてこう続いた
「タイスケさんは貴重ですッッ!」
これはあの図式でしょうか…
【タイスケ=珍獣】
今さらですけどねw まぁしょうがないッッ ほんとうのほんとうに知らないんだもんね(涙 あべこべに讃えられてしまうほどです★ これって一歩間違えば吊るし上げですよね★ わたしもささやかながら抵抗はしました!!
「それ、超失礼ですよねッッ??」
しかし間髪入れない返し技に度肝を抜かれます
「タイスケさんはそうじゃないといけませんッッ」
どうやってこの台詞になるのか、、 甚だ疑問だけが残りますが、 強引にポジティヴサイドに押し切られた感★ しかし、その根本は最初の一声がすべてです。 原点を忘れちゃいけません。 再確認しましょう!
「刑務所から出てきたところですか?」
人の成長は早いですね 俺は… 騙されんぞッッ 笑笑 「俺はなるべく一過性のものを見たいと思って いないだけなんだ!!」 ここから薄いさんの名言が繰り出されたのです
「でもね!タイスケさん!! たとえ一過性のものでも毎日わらうほうが ネガティヴ免疫力あがるんですよ!!!」
たしかに、、そのとおりッッ すいませんでしたッッ(爆) これ、ほんとうに名言だわ。。
このとき、わたしは 全力を込めてその台詞を放つ薄いさんに 圧倒的な “ダンス” を感じました
◎いつもその人が最高のその人たらんことを◎
| 2016年12月13日(火) |
たまには見た方がいい番組 |
鬼Tube しゃべってるだけの鬼が見れるのはN◎Kだけ。 朝。6時すぎ。 メガ覚めました― ギガじゃありません。
目です 笑笑
2016年12月は再復帰公演の万策を尽くしました。 正直、まるで忙しすぎて忘却の彼方です! そんな12月の本日。 こんな手記だけが残されていた―
つめきりゆびきりおにぎり つめきりゆびきりおにぎり ゆびきりつめきりゆびきりおにぎり おにぎりおにぎりつめきりつめきり
はい。すぐさま思い出せるのがホラーですw これはそう。朝の番組だなッッ 『シャキーン!』 N◎K 良いテレで平日7時から15分間の放送。 よくわからないジュモクのもとで繰り広げられる なんともご無体な番組。 見たことある人ならすぐにわかってもらえるはずw 基本的に子どもたちの目をゴリ押しで覚まさせる、 そんな番組ですww しかしこれが大の大人が見ても目が覚めるのだ! それも、この番組が途轍もないほどまで 《陰険》な番組だからだ― 上の(爪切り、指切り、おにぎり)にも 例外なく度肝を抜かれたわけですッッ さあ詳細を説明しよう☆
テレビ画面に 【爪切り】と 【指切り】と 【おにぎり】、この3種類の絵が出ます。 その絵を見たらその名称を声に出そう! というもの。 いたってフツーだな、と思ったそこのキミ! ちがうよッッ ぜんぜんフツーじゃないよ 笑笑 最初はまあゆっくり絵が変わっていきますよ? でもね、、 途中から、、 いきなり、、 度肝を抜く超高速で絵が変わるんだよッッッ あのスピード、、おかしいよッッッ!!! ほんとうに “言え” たりしたら、、 舌がねじりきれるよッッッ!!!(爆)
わたしは《陰険》だとおもっています 笑笑 素直な自分はマジメにクリアしたいわけですw でもね、、あのスピードはね、、絶対 無理ッッ つまり。
素直であれば確実に目は覚めます
完全に術中にはまってしまうからですw だって、最後はわからなくなるスピードなんだよ! これをつくってる人。 嫌がらせの域を完全に超えていますw 以前、アニメーションでこんなのもありました。
「今から家の中にネコが出入りします。 そのネコを数えよう!」
いたって真剣にネコの数を数えたそのあと。 とんでもないことを言われます。
「さて、今、家の中にいるネコの数は?」
そう。わたしは全部のネコは数えました。 しかし、家の中にいるネコの数はわかりません。 第一、そんな問題ではなかったはずですw こうして怒りとともに目が覚める、そんな番組。 見たことない人は見た方がいいでしょう☆ 人生がゆたかになること間違いなし☆ こんなレベルの高い番組が朝っぱらから展開して いるんですッッ!! おかしいよッッ 笑笑
| 2016年12月03日(土) |
「しどのウール&しみずのウール2人展」 |
ついにその日はやってきました!! あの日、ながさきで見えたイメージを、 いまこそ超えていくときです☆
『しどのウール&しみずのウール2人展』 11/29〜12/4 11:00〜19:00 (※最終日17時まで) 会場:ギャラリー とくなが
織/ 志戸朋子 染・紡・織・デザイン・仕立て トータルの制作でウールの力と 着る人の個性で表情を変える自由な服を 驚き楽しんでいただきたいと思います
フェルト/ 清水まゆみ 体を包むソフトハウス(柔らかい家)を テーマにしたコートやベスト・ストールと 帽子やバッグなどなどウールフェルトの 魅力にときめいていただければ…
【ファッションショー&ダンス】(約50分予定 12/3 [1st] 11:00より [2nd] 14:30より ダンス/ 神田法子・タイスケ 音楽/ 渡辺信子・前畑夕美(チェロ演奏)
依頼されたモデルのお仕事も込みッッ [1st]と[2nd]、2回の本番です!! 一緒に踊る神田さんは長崎の手足のながーい御仁☆ 先日は長崎でクリエーション&練習を重ねました! 昨夜はチェロ生演奏のお二人と初の顔合わせ。 2度の通し練習をおこないました! あとは本番どうなるか。。 これこそはいつだって勝負です。
なんたって甲子園には魔物がいるのだ
というか、甲子園につくまえに既に魔物はいたw 睡魔である。 わたしは不覚にも寝坊してしまったのです…
そんな、、ば、かなーーーーーーーッッッ
時計を見た瞬間、心臓がとまりました 実際 とまったとおもいます とにかく猛スピードで支度をし、自宅を飛び出して ギリギリでゲネプロ直前に到着。。 諸氏に謝罪する時間もなくそのままゲネプロ入り。 とにかくギリギリのギリギリで胃もギリギリでした ほんとうに間に合ってよかった しかしリハーサル自体がほどなく押しており、 1st本番は目前!! ゲネプロ最中もお客さんは続々来場されていた― そういうわけで、ダンスのゲネプロはナシ。 すべては[1st]本番に託されたのです
本番。神田さんの魔の手がのびていた
後半、それはとつぜん襲ってきます!! 本番中に神田さんがわたしに手渡したのは― 《ナマタマゴ》!! 《ナマタマゴ》!? ナマタマゴは何の打ち合わせもありません。 わたしへの完全なる不意打ちでした☆ ただし、相手はわたしです。 相手がわるかったw わたしは驚きよりも楽しさを見出だします もちろん驚かなかったわけじゃありません。 でももうそのときには《ダンスに没入》しており、 常軌は逸していた わたしの何かがナマタマゴにすうっと入りました わたしじゃなくてナマタマゴになった感じです ひとしきりナマタマゴを踊ってから会場のお客さん にお渡ししたのです
本番中というのはとても空気が敏感です わたしたちを通したナマタマゴはもうただの ナマタマゴではないのです これは舞台の持つ魔力 いつもなら何でもないものに魔法がかかる それはほんとうに日常では得られない感覚です わたしたちが取り憑かれるのも道理でしょう
神田さんは、というと… あまりに動じなさすぎるわたしに、 業を煮やしたそうです(爆) 過去、わたしはオックスフォードでナマタマゴを 使ったダンスをおどっているのですw それにこれまでもいろんなものと踊ってきました 驚いておどれなくなるなんてことはないなw ナマタマゴの感覚はすごく懐かしくて新しかった ◎神田さんに感謝◎ 本番の日、朝目覚めた瞬間に神田さんに降りてきた そうです。「たまご!」とw わたしたちのボスまゆみさんにすぐさま電話をして ナマタマゴを準備してもらったそうな 笑笑
【電話口のやりとり】(再現) 神田さん「たまご!たまごとボウル!!」 まゆみさんはボウルをボールと勘違いして、 「うちにボールはないわ!!」 と叫び返したらしいw 神田さん「そのボールじゃないわよ!! たまごを入れる “ボウル” よッッ」
何かが降りてくるというのは、 こういった成り行きを生みますよね! きっと《今すぐ》という思いからでしょう☆ そんなやりとりをつゆ知らずわたしはダンスに、 ダンスだけに没入していたのです そのDuoダンスは ArtSpace bloom での ひとりで踊るダンスではなかった 神田さんが一緒なのだ ダンサーがひとりでないということが こんなにも創造力が備わるものか、と感じました “とにかくからだが軽い” 自分のダンス力がまるで尽きません 湯水のようにガンガンに湧き出していました ふと相手を感じるだけでダンスがうまれる ひとりでおどるよりも圧倒的に自分が、 自分自身が自由なのを感じたのです 自分自身が、というよりも “イメージが自由” どこまでも自由でした
◎たのしすぎて、どこにでもいけた◎
そのダンスがどう見えたかはわかりません。 わかりませんが、わたし自身はこれ以上ないくらい ゆたかさを感じていました
ダンスというよりも えんえんとつづいてくるおしよせてくるせかい
わたしはそもそも自分を踊るということが苦手です いつも「誰かのために」そんな気持ちがなければ ダンスになれないのです bloomではひとりで踊る手前、 どうしてもチカラを見せなければならないという 何かがありました とにかくそれまでの流れが、すごい人たちの歌が、 重圧となっていたのも否めません。 その重圧があったからこそ踊れたのも事実ですが、 こと創造力ということに関しては かなり苦しみ抜いた感覚でした かなえもんのクリスタルボウルと瞳さんの絵画が なかったらダンスになっていなかったかもしれない ダンスというのはいつもどこでなれるか わかりません。 最初からなれるときもあるし、一歩まちがうと全然 なれないときもあるかもしれません。 没入というのも自分だけが没入してもダメ。 なによりも先ず、相手があること。 そして空間を感じること。 ここを常にまちがえないことです
わたしたちはチェロ生演奏のチカラを借りて、 今をおどりました はじまり LIBERTANGO(リベルタンゴ) 中盤 無音 ラスト Playing Love(Legend of 1900) やはりどんなものも生演奏はちがう。 人の手というのはあたたかさを内蔵しています。 既成音でないというのはすなわちゆたかさです。 後半。 まゆみさんの2種類の長い フェルト作品とわたしたちは踊ります [1st]と[2nd]のおどりの内容は別物です [2nd]本番のさいごはこんなふうになっていた― あのときは、ダンスに もう “これしかない” 必然を感じていました 踊りながら曲は終わり 静寂のなか、 神田さんとわたしは並んでフェルトを掲げながら 客席へ前進していきました ゆっくりと ゆっくりと
本番を終えたとき、まゆみさんは号泣していた
そのとき気付いたのです ここにいる誰よりも心血注いでこの日を迎えたのは しどさんとまゆみさんでした 神田さんとわたしはどんなにがんばってもその一部 それまでの時間と作品を超えられません 《今》にすべてをそそぐというのは、 ある意味で時間を蓄積することがありません それがいいことかわるいことかはわかりませんが 《今》という瞬間がとても《儚い》こと それを、そのときに実現したようにおもうのです ダンスのものがたりは見ている人が紡ぐもの わたしたちは紡いでもらえるように踊っています 自分たちの踊りは忘れ去られていくような風です だからこそ生き生きと、そんな風でいたい 今わたしたちがおどった風がまゆみさんの、 その涙のようなひとときになれたこと
“誰かの何かにわたしたちはなれる”
ダンスの可能性を、あらためて感じたとき 生きているその意味をあらためて感じたとき わたしの再復帰公演の流れは決まりました このときの2つのかけがえのない本番が 【The 3rd BIRTHDAY】をそだててくれたのです
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