断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年11月28日(土) 必殺!この世は混沌スパイラル

今日からしばらく “いつものblog” です 笑笑
大作とか哲学になるとどうしても長丁場に
なってしまう! 南無三ッッ
通い詰めてるジムで商売がはじまった―

◎特別インビテーションカード大売り開始◎

この期間は施設使い放題のチケットが、
お安く手に入るッッ
俺はそもそも会員だから基本関係ありませんw
そう、、これはお友だちを勧誘させる手厚い
商法です(爆)
わたしの場合は自分とのたたかいですので、
お友だちとたのしくなんて遠い彼方!!
うちのめしたいお友だちはk野さ…
ひとりくらいです!
さて、そういうわけでこの期間中スタッフは全員
特別大売り出しTシャツを着ています。

 街には繰り出せない恥ずかしい種類

大売り出し!!って印字された真っ赤なTシャツw
これを着て業務に従事していますww
まず頭をよぎるのはこれ。

 この期間、赤Tシャツ着るのよそう

間違いなく同族だとおもわれてしまうぞ!
勘違いされたくない場合は重要です。
同じくらい赤いやつをもっているだけに。
さてそんな中、大売り出しTシャツが一番似合って
ない人物を発見!!
わたしはそんなのを気兼ねなく打ち明ける男だ。

 「一番似合ってない(爆)」

それは受付のblack woodちゃんだ 笑笑
どうにも赤いTシャツが違和感すぎるのである。
black wood本人は言った。

 「そういえば、、私… 誰からも
  似合ってる!って言われてないですよ!!」

うん、そうだろうね(爆)
すくなくとも “アスリート感” ゼロだからねw
black woodちゃんは無自覚に続けます

 「燃えてないからですかね〜」

俺は相づちを売った―
燃えてない、、たしかにッッ!!
てかそれ売り物じゃないぞッッッ 笑笑
その瞬間、この会話をこのまま終わらせられない
センサーが働いた!

 このままじゃネガティヴ方面だ
 どうせなら、どうせ死ぬなら
 楽しいほうがいいじゃない!!

よおし、起死回生だッッ
9回裏ツーアウト満塁だ!?
必殺!ポジティーヴ 変換ッッ☆☆☆

 「black woodちゃん ふわふわしてるからねぇ
  言葉を替えたら “清楚” って言えるよ!」

悲劇はその瞬間おそった

 「私が “ガサツだ” って言われてるようにしか
  聞こえませんよッッ!!!(ド)」

◎こうして新たなるネガティヴが生まれた◎

 なんでそうなるーーーーーーー

女の子は素直が一番ッッ(爆)
思い込みこそが自分自身の最大の敵ですッッ
俺は隣りにいた受付スタッフに言いました。

 「I梨ちゃん、、
  こんなお姉さんになっちゃいけないよ?」

I梨ちゃんは満遍の笑顔でこたえてくれました!

 「はいッッ 笑笑」



2015年11月22日(日) 正しい教えは滅びない

ブッダの遺言の書ともいえる『涅槃経』
いよいよ最終回です!

 2500年の時を超え、
 今も生き続けるブッダの遺言とは―

旅の最後、死を悟ったブッダは「疲れた」と言って
身体を横たえ、いよいよ涅槃のときを待ちます。
そして、不安がる弟子たちに言い残したのです。

〜弟子たちへの遺言〜

ついにブッダは涅槃に入ります。
最終回は その涅槃のときの様子、
涅槃を受け止めた弟子たちの様子です!
そして、仏教というものが
その後どのように長く維持されていったのか、
その秘密に迫れるのだ!!
是非最後まで見てくださいねw
まとめるのかなりつらかったです!
ほとんどそのまんまなんですけど 笑笑
では、直前涅槃からッッ

ブッダは大勢の弟子たちと共に涅槃の場所となる
クシナーラに向かった。 到着してこう言った。

「アーナンダよ、私は疲れた。 横になりたい」

沙羅双樹の下に静かに横たわり、
最後の時を待つことに。
そしてブッダはこう語った。

「ブッダというものは花や音楽で敬われ
 供養されるものではない。
 ブッダを真に供養するというのは、
 お前たち出家修行者たちや、
 あるいは在家信者たちが 教えにしたがって
 正しい生活を実践することなのだ。
 それこそがブッダを供養するということなのだ
 だからお前たちは
 私の教えに従って正しく修行せよ」

〜ブッダの供養〜

先生は言った。
「ほんとに私を供養するということは、
 私が一生をかけて説き遺した教えに従って
 お前たちがこれからもずっと
 修行生活を送っていくことである、
 こう言うわけです。
 つまり、人が死ぬということは
 その人が一生をかけてやってきたことを
 周りの人たちがどう評価するかという、
 その評価がすばらしいというのが
 正しい供養だと、そういう意味です。
 ブッダの一生を振り返りますと、
 やはり自分のこころの苦しみを感じ取ったところ
 から修行生活がはじまり、そして悟りを開いて、
 その悟りの道を 今度は自分一人のものにせず
 皆に知ってもらいたいと布教活動に入ります。
 一生かけて何をやったかっていうとそれは、
《人を救うために自分の人生をかけた》
 わけですから、
 そのブッダを供養するということは
 その教えを尊重するという以外にないわけです。
 これは私たち自身の人生にも関わることなので。
 私たちはまあ生きてますけど、
 いつか死にますわね? で、死んだときに
 どのように自分を供養してもらいたいか、と
 考えるときにね? 一番大事なのはその
《供養してもらえるような人生をつくってきたか》
 ということなのね。
 ですから、実は毎日暮らしている間、
 私たちは死ぬということを忘れて
 暮らしてますけれども、
 ほんとはこの忘れてる毎日毎日が
 実は死に向かっての人生の積み重ねになってる
 ことを自覚しないと、死というものは
《生きてきた人生全体の総決算》ですから、
 他の人の死を我々が受けとめるときにも
 そういう立場でいるべきだ、ということですね」

ここで先生の発言に度肝きました―

「そういう意味では今のお葬式を考える場合、
 単にひとつの儀式として捉えるのではなく、
 亡くなった方の人生の総決算として
 それを受けとめるのが本当のお葬式です。
 実を言うとお葬式の本質はね、
 儀式よりもその前の、
 《お通夜》にあると僕は思うんです。
 お通夜ってのは知人が皆集まりますね?
 集まって亡くなった故人のことを
 いろいろ話し合うんですよ。
 そうすると皆が頭の中に断片的に思っていた
 その人の人生のいろんな事柄が
 そこで全部集合してひとつの人に蘇ってくる。
 そしてその人のやったこと、言ったことが
 後々の人のこころに残っていく、それが
 ブッダが言っている本当の供養ということです」

これには唸りました!! 《お通夜》です。
故人を甦らせることがわたしたちにはできます
そして甦らせることでわたしたちの力となるのです
苦しくてつらいけど、わたしにもありました
その度に生きること おどることに
つながっています

〜涅槃ブッダ〜

死の直前、嘆き悲しむアーナンダと
弟子たちに向かってこう語りかけます。

「お前たちは “我々の師はもうおられない” と
 考えてはならない。 私の説いた教えと、
 私の定めた法律が、私亡き後の師である」

「私の死後、お前たちは今までの様に
 互いに“友よ”と呼んではならない。
 先輩の比丘は新参の比丘を “名前で”
 あるいは “姓で” あるいは “友よ” と呼べ。
 新参の比丘は先輩の比丘を “尊い方よ”
 あるいは “尊者よ” と呼べ」

僧侶の組織であるサンガの修行者たちに
上下関係をはっきりさせよ、と命じたブッダ。
上下関係といっても能力主義ではなく、

《年功序列》を意味していた―

サンガ内で能力主義を取り入れると、
権力闘争が起こってしまう。《年功序列》は
この権力闘争を避けるための教えでした。
さらにブッダは続けます。

「私の死後、
 もし欲するなら些細な規則は廃止してもよい」

「もろもろの事柄は過ぎ去っていく。
 怠ることなく修行を完成せよ」

この言葉を最期に、ブッダは涅槃に入った―



先生は言います。
「私が偉いんじゃないんだ、
 私が見つけた真理こそが
 お前たちのほんとの導きの元だというんですね。
 それから、何故このような上下関係が必要かと
 いうとこれは単に座るときの席順がスムーズに
 決まるとか、物を分配するときに上の人から
 順番に配っていくとか、
 サンガの運営の中での序列にすぎないんです。
 だから個人の資質はまったくそこに反映しない。
 そうしますと
 《上にあがることの意味がなくなる》んです。
 ですからサンガの中では
 絶対に権力闘争が起こらないんです。
 ライバルを蹴落としてシェアを拡大するという
 場合には能力主義のほうがいいんでしょう。
 しかしながらその場をこれからも
 百年二百年維持していくことが
 その組織の目的だというならば
 こちらのほうがいいです。
 ここまで徹底的に権力闘争を防ぐ状況にして、
 それでやっとサンガは2500年ですw」

〜涅槃後〜

ブッダの死後、まだ煩悩のある弟子たちは
「あまりにも早くお亡くなりになった」と泣き叫び
煩悩から離れた弟子たちは「この世は諸行無常だ」
と泣きたい気持ちを我慢していた―
葬儀は7日間に渡って行われたが、
最後に遺体を焼く場面で事件がおきた。
スバッダという弟子がこう言い出したのだ。

「友よ悲しむな!
 あれこれ行動を指示していたブッダが亡くなって
 我々は自由になった!
 これからはなんでも好き放題だ」

それを聞いた弟子たちの一人
マハーカッサパは改めてブッダの教えを
弟子たちに説きその場を収めます。
一同が落ち着いたあとブッダは火葬されたのです。

あるあるですw
こういう人いるいるですww

仏教サンガを守ってかなきゃいかんよ という、
涅槃経ラストはなんと自戒の段なのです!!
しかし驚嘆すべきはこれ。
◎組織運営の形が “遺言形式” で残されている◎
弟子はこれを読んで《ブッダの遺言》として
組織運営の正しい方針を学んでいくのです。

先生はまとめに入った
「死に向かう自分の在り方を学べますし、
 死んでいく人たちを我々がどのように送るか
 ということもこのお経に明確に書かれています。
 その人の積み重ねてきたものを
 我々は評価する責任がある、ということですね。
 それが人の死を悼むというほんとの意味だと」

“自分がどういう死に方をしたいか”

これをいつも土台にもつことが大事なのでしょう

先生
「考える時間というのが何よりも大切です。
 外からのつまらない価値観に
 翻弄されるんじゃなくて《自分の価値観》で
 今の自分や死んだ後のことを
 予想することがとても大事なことなのです」

瞑想って修行だわ

まず何が自分にとって正しいか、
それは自分で自分を見つめないと見出せない。
その答えがなかなか出ないし近づけなくても
それを考える習慣ができたら それすなわち修行w
ブッダでもこんだけかかってんだから、
ま、今日のところはこれくらいでしょうがないだろ
っていうところまでは頑張ろうww

 無駄に悩んでるのと、
 ちゃんと修行になるような悩み方してるのは
 大きな差です☆

いやあマジ2500年…ヤバイよね―
正しい教えは滅びない!

自分を救えるのは自分自身ですッッ



2015年11月21日(土) 諸行無常なう

ブッダ最後の旅を記した『涅槃経』
一度 大病を患ったブッダは、
旅が進むにつれて刻一刻と死へと向かいます―
ブッダは自らの運命を賭して、移ろいゆく現実を
ありのままに受け容れる生き方を示します。

 《諸行無常》

いよいよブッダの命も終盤!
早速いきましょう☆

大病を患って命を落としそうになったブッダ、
しかしその後気合いで回復。 旅をつづけていた―
チャーターラチェーティアに到着した一行。
ブッダはアーナンダに言った。

「アーナンダよ、
 いかなる人であろうとも
 四神足を成し遂げた者は、
 望めば 寿命のある限り、
 あるいは寿命よりも長く
 この世に留まることができるのだぞ」

しかしこのとき。
アーナンダはマーラ(悪魔)に取り憑かれていたw
マーラはブッダの生涯の中で何度も登場、
仏教を終わらせようと活躍していますw
このときもマーラは
ブッダを早死にさせようと邁進していた!
目に見えない活躍は突然実を結びます。
努力って大事だわ。
あきらめたブッダは言いました。

「アーナンダよ、
 すべてのいとおしい人たちとも死別の時は来る。
 無常転変していくものに向かって
 《壊れずにいつまでもそのままでいてほしい》
 と望んだところで無駄なことだ。
 そんなことはあり得ないことである。
 私は三ヶ月後に涅槃に入るであろう―」

ブッダは「あなた達が望むのなら寿命延ばせるよ」
と言ったのに、アーナンダはきいてなかった(爆)
どうしたアーナンダ!?
こうして、、《こりゃマーラのせいだ!》
っていうことになりましたw
マーラ大活躍ですッッ☆

先生の説明。
「マーラってのは悪魔とか魔とか言われますけど、
 仏教の中にはしょっちゅう出てくるんです。
 目的はひとつ。
 《仏教がこの世に広まらないようにしたいと
  願う存在》です。
 アーナンダは頭の良い弟子ですから、
 ブッダの心を汲み取れないわけがないんです。
 しかしこのときアーナンダはボケてしまった。
 そこでこう考えるんです。
 それは本人の意思ではなくて
 仏教を妨害する何らかのものが
 アーナンダに取り憑いたんだ、とw
 マーラが出てこなかったら…
 ブッダは今日も死んでませんからね(爆)」

ここから先生の超解釈キタ―

「当時の人としては、
 ブッダはとにかく亡くなったんです。
 これは歴史的な事実です。
 しかしブッダほど素晴らしい人が
 《寿命がきたから亡くなりました》
 っていう単純なことでいいんだろうか?
 それには意味があるに違いない!
 それはマーラが画策したんだ。
 だがしかしブッダはその画策を利用して
 《諸行無常》を人々に示すために
 あえて涅槃に入ったんだ、と。
 もしブッダが亡くならなかったら、諸行無常を
 弟子たちが感じることはできなかったのです」

◎伝説とはこうしてうまれるのでしょう◎
〜マーラの登場は人的 言いがかりです〜

先生の興味深い解釈はつづきます
「本来的に仏教で言う諸行無常っていうのは、
 一瞬一瞬に全てのものが生まれて消えてゆく、
 だから一瞬前、
 数百分の1秒前の自分と 今の私とは違うもの。
 例えばこの鉛筆。
 昨日と今日では同じものなんですが、
 千年とか一万年置いとけばボロボロになるわけ。
 ほんで《これはいつボロボロになったのですか》
 と質問した場合、どう考えたってそれは
 一瞬ごとに変化していったものが積み重なって
 ボロボロになったとしか答えようがありません」

〜わたしたちも毎日 絶賛 劣化中〜
 諸行無常なう

「仏教が扱うことは人間の苦しみだけですから。
 その苦しみの原因は何かというと、
 《世の中を正しく見ることができないから》。
 現実と思いの間のギャップが苦しみの素になる。
 で、現実は《諸行無常》なんですが、
 私たちはそれを諸行無常と見ないわけです。
 ブッダは視点を変えて世界観を変えて、
 自分の感性を変えることによって
 “苦しみでないように感じとれる自分” を
 おしえてくれるのです」

苦しみになる、ってたいてい怒りとか激情に
かられたときではないでしょうか?
実のところ心を鎮めたら何とも思わなかったりw
苦しみにしないためにはまず最初に受容。
それから抗ったりするのが順序な気がします。
大事なのはこの《順序》を間違えないこと!!
自分を見つめることができない人に共通する
技は、《誰かのせい》にすること!!w
わたちたちは、いつだって《マーラのせい》に
できるのだ☆

余命三ヶ月となったブッダは自らの死を受け容れ、
精力的に教えを説きはじめた―

つづく



2015年11月20日(金) 人よりも “教え”

『ブッダ最期のことば』第2回
ブッダ最期のことばをまとめた涅槃経。
死の直前、弟子達は不安に駆られ これから何を
道標に生きればよいのかとうろたえました。
そこでブッダは自分がいなくても自己鍛錬を
続けていく方法を授けます。
その教えは今を生きる私たちにとっても、
苦しみをやわらげる処方箋となりうるのです―

〜自分自身との向き合い方〜

実のところ、わたしは仏教を全然知りません。
大乗仏教のことを仏教だと思っていた。
いやあ無知でした。 おそろしく無知
小乗仏教。是非ご一読ください!!
本日のラスト、
のっぴきならないくらい知れちゃいます(爆)
では早速いきます!


 ブッダはナーディカ村へと移動。
 道中、アーナンダがブッダに質問をします。

「尊者さま、ナーディカ村でサールハという名の
 男の僧侶が死にました。
 彼はどこへ行くのでしょう?
 彼の未来はどのようなものですか?
 ナーディカ村でナンダーという名の女の僧侶が
 死にました。 彼女はどこへ行くのでしょう?」

 弟子アーナンダは立て続けに何人もの
 亡くなった修行者の名を上げつづけ、
 彼らはちゃんと涅槃に入ったのか
 ブッダに訊ねたのでした。
 つぎつぎに、何人も、です(爆)
 ブッダはアーナンダを制して言った。

「人というものは皆次々と死ぬものだ。
 その度にブッダのところへやって来て
 あれこれ尋ねるならたいへん煩わしいことになる。
 それゆえアーナンダよ、
 私は今《法の鏡》という名の教えを説こう。
 それを理解した立派な弟子は、
 もし望むなら自分の行く末を
 自分の力で見定めることができるであろう」

 ブッダがいなくても
 涅槃への道がちゃんと保障されているか、
 自分で判断できる基準《法鏡》を授けたのです

◎あなたの涅槃度チェック◎
1. ブッダに対して
 清らかな信頼の気持ちを起こしているか
2. ブッダの教えに対して
 清らかな信頼の気持ちを起こしているか
3. 仏教組織であるサンガに対して
 清らかな信頼の気持ちを起こしているか
4. 最高にすぐれた規律を身につけているか
◎これだけのことをやっていれば必ず涅槃◎

うそ!?
これ難しくなくない?!笑笑
いける。涅槃いけるw

先生は言った。
「すべてのサンガは
 “それぞれが同立して運営していけ”
 となってますから、
 それぞれの中で自分で自分を励まして
 修行していかなくちゃいけません。
 お師匠さんが免許皆伝を出すようになると
 サンガの中に権力構造が生まれてしまい、
 認める人と認められる人ができると
 自分は認める側に回りたいという形で
 今度は権力を巡っていろんな争いごとや
 欲望が起こります。 それを避けたいんですね。
 みんなが等しく生きがいを求めて努力するという
 指針を守りたいのです」

生きがいよりも組織の中で
上に上がることの方が価値をもってきてしまったら
…いかんッッ
《自分で自分を判断する》
これこそが大原則です!!!


ブッダの旅はつづきます。

アンバパーリーという遊女の林に滞在したブッダ。
遊女でも悩みをかかえ、
熱心な信者だったアンバパーリーは
ブッダたちを食事に招待。
ブッダは感謝しそれを承諾。
しかし、そこにリッチャヴィ族の裕福な者たちが
やってきます。
「私どものところでお食事を召して下さいませ」
「リッチャヴィの方々、私はすでに
 遊女のアンバパーリーから明日の食事を
 もらうことを承知してしまったのです」
「ああ、女にまけるとはなあ!
 女に出し抜かれるとはなあ!」
次の日アンバパーリーを尋ねたブッダ。
喜んだアンバパーリーは言った。
「尊者さま、私はこのマンゴーの林を
 尊者さまを指導者とするサンガの皆様のために
 お布施いたします」
こうしてブッダはマンゴーを…
教えを説いたのですw

先生は言った。
「インドは仏教が生まれる前からカースト制度が
 あった。 それを否定する形で仏教は生まれて
 きましたから、本来的に人間を生まれながらに
 差別することを絶対的に拒否する宗教です。
 お金もあるし土地もある、それでも遊女という
 立場は当時のインドでは低く卑しい身分だと
 考えられていたのです。
 リッチャヴィ族は物凄く腹が立ったから
 捨て台詞というわけですw
 ただし、この《平等》というのは
 我々が今考えている《平等でみんなよかった》
 という話じゃないんです。
 《全員 平等に不幸》がブッダの考え方。
 仏教の平等主義というのは《平等に苦しい》
 という意味での平等主義。
 生きものとして生まれていること自体が苦しみ。
 それは、年をとって病気になって死ぬという
 現象から絶対に逃れることができないからです。
 ◎生きていること自体が苦しみの原因◎
 マンゴーの林をブッダは受け付けますw
 ご飯から何から全部、
 一般の人たちからもらうことになる僧侶生活。
 いただくためには律に基づいて
 正しい生活をしなければなりません。
 これにより、お布施をしてくれるのです。
 その生活に説得力があるからなのです」

どんなことも、敬われる土台とは
こういうことではないでしょうか―


ブッダの旅はつづきます。

 大病を患ったブッダ。
 ちょうど雨季で、おそろしい病が流行っていた―
 死を意識したブッダは考えた。
「私が皆に別れを告げず、
 今すぐの涅槃はふさわしくない。
 私はこの病気をこらえて
 寿命を留めることにしよう」
 ブッダはほんとはここで死ぬだろうと感じていた
 アーナンダは不安になった。
「指導者がいなくなった時、
 私たちは何を拠り所にして道を歩めばよいのか」
 ブッダは言います。
「私は一切の隔てなく、すべての法を説いた。
 弟子に隠すような秘密などない。
 私をサンガの指導者だと言うのなら、
 何かを命じることもあるであろうが、
 私は指導者だと思っていないのだから
 何も命じることがない。
 自分自身を島とし、
 自分自身を拠り所として生きよ。
 それ以外のものを拠り所にしてはならない。
 ブッダの教えを島とし、
 ブッダの教えを拠り所として生きよ。
 それ以外のものを拠り所にしてはならない」

《自灯明法灯明》

先生は言います。
「ブッダというのは我々と同じ人間です。
 人間が正しい道を発見したわけですから、
 私たちにとって大事なのは
 人間そのものじゃなくて、
 その人が見つけてくれた《教え》
 それを拠り所にせよ、と言っています。
 もう一つは《自》
 つまり自分を拠り所にし、
 ブッダの教えを拠り所にする。
 これは2つなければなりません。
 自分だけ拠り所にしたら自分勝手になりますw
 ブッダの教えだけだと狂信的な活動になるw
 教えに沿って自分で努力せよ、ということです」

な、なるほどおおおおお これには唸りましたッッ
そしてさらに唸りを上げることになります!

「全ての人にそのままこれをやりなさい、
 って話じゃないんですよ?
 仏教っていうのは、あくまで生きてることに
 苦しみを感じた人を受け容れる宗教ですから、
 そういう人にこれを教えるんです。
 今しあわせいっぱいで、
 何の憂いもなく夢を抱えてる人に
 こんな話をしたって意味ありません。
 しかしながら、苦しみが増えてきた人に実は
 それを価値転換することで消す方法があります、
 とその時初めて教える、そういうものなんです。
 私はいつも《仏教は心の病院》と言っています。
 病院というのは出かけていく仕事じゃありません
 病気になった人に玄関を開いて
 いつでも入って来てください、
 と待ってる宗教です。
 その時にたすけてもらえなくても、
 たすけてもらえる場所があるということを
 知っているだけでやすらぎがうまれてきます」


宗教とは押し付けられるものだと思ってました。
戒律を押し付けられる、そう思っていたのです。

仏教が一気に開いた瞬間でした

子供の頃から仏像に向かって手を合わせてきました
しかしそれは自分と向き合うというより、
圧倒的に《他力本願》でした―

そう、今こそ自分自身に問おう!!

神様がわたしたちを導くんじゃありません。
導いてくれるのはわたしたち自身です☆


つづく



2015年11月19日(木) 手をとりあって

ブッダつづいてますが、話はずしますw
明日はつづけますね(爆)

魔が差して、むかあしやったゲームの、
おそろしいほどやったゲームの、
新装リメイク版動画を、
エンディングまで見てしまいました―
やめられなかったんです!! 笑笑
思い返しても、明らかに神ゲーですw
その名は…

 『Tactics Ogre』
  運命の輪

自分が遊んでたのはスーパーファミコン版!
まったく後戻りできないゲームでした。
なにしろ、プレイ次第で未来が変わります。
あの人を仲間にできたり、たすけられなかったり、
はたまた敵になってしまったりw
選択肢を間違えるとバッドエンド確定でした。
しかし、現代に復活したリメイク版は
なんと物語を重複しながらすすめることが可能!?
進行が厳しかっただけにわたしは叫びました

 ふざっけんなッッ(爆)

あの時代。それはもう取り戻せない失敗の連続…
今では最初から取り戻せるんです!!
なにそれ!? 意味わからんッッ
リメイクって聞いたときには買おうと思いました。
そして、思ったあとに思ったのです。

 あの過酷な時間は今の自分には無理w

すべてを撃ち込む姿勢でなきゃやれない!!
過去、いったいどういう姿勢で取り組んでしまった
のでしょうか―
当時、それほどまでに魅力があったのですw
そして今。
リメイク版でも同じ気持ちが巻き起こる!!

 なんてこった―

今日は、その物語後半。
(※神とか魔から始まる壮大な歴史叙事詩断編)
聖騎士ランスロットと暗黒騎士ランスロットの会話
をお送りします☆
同じランスロットの名前でもその性質は対極w
しかしこれが… もうね、唸るんですよッッ
今なお そんなゲームでした!!
こんなゲームがあることは偉大だと思います
わたしたちはどこで気付きがおこるかわかりません
そして気付かなければ変わっていけないのです
そんな一端をゲームの中に備えているのでした―


 「…日増しに高まる民衆の不満を
  押さえきれないようだな…?」

 「所詮、バクラム人は我々と違い
  劣等民族だからな。
  彼らには少々荷が重すぎたということだ」

 「力で人を縛り付ける、
  そうしたローディスのやり方に問題がある―
  そうは思わないのか?」

 「縛り付けた覚えなどないな。
  彼らは力で支配されることを望んだのだ」

 「望んだだと?」

 「世の中を見渡してみろ。
  どれだけの人間が自分だけの判断で
  物事を成し遂げるというのだ?
  自らの手を汚し、リスクを背負い、
  そして自分の足だけで歩いていく。
  そんなヤツがどれだけ
  この世の中にいるというのだ?」

 「…」

 「貴公らの革命を思い出してみよ。
  貴公らが血を流し、
  命を懸けて守った民はどうだ?
  自分のみを安全な場所に置きながら
  勝手な事ばかり言っていたのではないのか?」

 「彼らは自分の生活を維持するだけで
  精一杯だったのだ…」

 「いや、違う。 被害者でいる方が楽なのだ。
  弱者だから不平を言うのではない。
  不満をこぼしたいからこそ、
  弱者の立場に身を置く。
  彼らは望んで “弱者” になるのだよ」

 「ばかな!
  人には自分の人生を決定する権利がある。
  自由があるのだ!!」

 「わからぬか! 本当の自由とは
  誰かに与えてもらうものではない。
  自分で勝ち取るものだ。
  しかし、民は自分以外の誰かにそれを求める。
  自らは何もしないくせに権利だけは主張する。
  救世主の登場を今か、今かと待っているくせに
  自分がその救世主になろうとはしない」

 「人はそこまで怠惰な動物じゃない。
  ただ、我々ほど強くないだけだ」

 「聖騎士よ、貴公は純粋すぎる。
  民に自分の夢を求めてはならない。
  支配者は与えるだけでよい」

 「何を与えるというのだ?」

 「支配されるという特権をだ!」

 「ばかなことを!」

 「人は生まれながらにして深い業を背負った
  生き物だ。 幸せという快楽のために
  他人を平気で犠牲にする…
  より楽な生活を望み、
  そのためなら人を殺すことだっていとわない。
  しかし、そうした者でも罪悪感を感じることは
  できる。
  彼らは思う…、これは自分のせいじゃない。
  世の中のせいだ、と。
  ならば、我々が乱れた世を正そうではないか。
  秩序ある世界にしてやろう。
  快楽を貪ることしかできぬ愚民には
  ふさわしい役目を与えてやろう。
  すべては我々が管理するのだ!」

 「意にそぐわぬ者を虐げることが管理なのか!」

 「虐げているのではない。
  我々は病に冒されたこの世界から
  その病因を取り除こうとしているにすぎん。
  他組織に影響を及ぼす前に悪質な腫瘍は
  排除せねばならんのだ!」

 「身体に自浄作用が備わっているように
  心にもそれを正そうという働きはある!」

 「それを待つというのか!?
  フフフ…、
  貴公は人という動物を信用しすぎている。
  民はより力のある方へ、
  より安全な方へ身を寄せる。
  そのためなら愛する者を裏切ることもできる―


こんなゲームを本気でやってましたw
それも、圧倒的思春期にやってた(爆)
ゾッとするほどのゲームですw
今でも突き刺さるその台詞が痛すぎる―

不平不満ばかり言ってる人たしかにいるもんねw

そして、そんな人はたいてい不平不満を叫ぶだけ。
その困難に対して自分ができること。
それを見出だすことを、しなくては!
見出だすことは苦しく決断を迫られます。
何よりも自分に決断しなくてはなりません!

 勇気です
 いつもそのときに勇気が出せる自分でいたい

ダンスを踊るのも勇気に他なりません。
舞台に立つその瞬間まで不安と隣り合わせの毎日!
“これでいい” なんてものはないッッ

勇気をあたりまえにすることができたら
すなわち自由なのかもしれませんね☆



2015年11月18日(水) 「ブッダ最期のことば」

とつぜん仏教ですみませんw
いきなり学んじゃったもので(爆)
わたしは宗教家でもなんでもないのですが、
楽しみにしている番組で取り上げられたので、
是非もありません 笑笑
でもね、それがとんでもなく興味深くてッッ!!
そういうわけで是非是非ご一読ください。
おおよそまとめましたw

 『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』
  =大般涅槃経
  偉大なるブッダの死を語るお経

死の直前のブッダ《最期の旅》の様子がストーリー
仕立てで描かれる2000年前の仏教教典のひとつ。
涅槃経には2種類が存在します。
 釈迦の仏教涅槃経
 大乗仏教の涅槃経
その違いは番組でこう説かれました。
釈迦仏教=自分で修行し苦しみを克服する道
大乗仏教=外部の不思議な力によって救われる道
先生は言った。
「もともと日本はすべて大乗仏教の国ですから
 我々が仏教って言ったら大乗仏教しか周りに
 はないんです。 釈迦の仏教はというとスリ
 ランカや東南アジアの黄色い衣で鉢を持って
 歩いておられるあのお坊さまたちの世界。
 釈迦仏教では外に我々を救ってくれるような
 特別な力は “ない” と考えます。 ですから、
 自分の苦しみを消すためにはどうすればいい
 ですか?と聞かれたら《自分で努力せよ》と
 なります」

まずは仏教基礎知識のおさらいです!
学校で習ったくらいのやつです!

 ブッダは紀元前5、6世紀頃 現在のインドと
 ネパールの国境近くにあったルンビニで王子
 として生まれた。(※コンビニ王子じゃない)
 ゴータマ・シッダッタと名付けられ、何不自由
 なく暮らしていた。
 ある日、貧しさや病に苦しむ人々を目の当たり
 にし、人生は《生・老・病・死》という苦しみ
 の連続であると気付きます。
 29歳 なにもかも捨てて出家
 肉体苦行の末、瞑想に入り煩悩と戦ったシッダ
 ッタ。
 35歳 悟りをひらく
 そして、ブッダ=目覚めた人 となり、
 人々を救うために旅立ったのです!
 その後45年もの間、布教し多くの弟子を育て
 80歳で涅槃に入りました。
 涅槃はフツーの死とは違い、完全な死を意味
 します。
 当時、インドでは《輪廻》という思想が浸透。
 天・人・畜生・餓鬼・地獄 の5つの世界を
 行き来しながら生死は繰り返すものだ、と
 考えられていた。
 この生死のサイクルから抜け出すのが涅槃です

先生は言った。
「仏教では、煩悩を起こすとその煩悩が原動力に
 なって輪廻すると考えるんです。
 煩悩が働いていたのは我々の心に生まれつき
 起こってくる悪い要素です。
 もっと簡単に言うと、
 《自分中心に世界を見る見方》
 もちろん生存するためには必要ですが、回り
 回って苦しみの元にもなる、と考えるわけです。
 もちろん今の人たちは輪廻信じてませんよね?
 フツーはねw
 しかしながら、自分の煩悩を消すことによって
 非常に安定した状態で死んでいける。
 そこが仏教が現代に意味をもつポイントです」

やばいw マジでわかりやすいぞこれ!!

【仏法僧】
教は、この3つが揃った状態を
“そこに仏教がある” というふうに言います。
仏法僧は仏教を構成する三大要素。
仏はブッダ自身を意味し、法はブッダの教え、
そして最後の僧はサンガと呼ばれる自己鍛錬の
ための組織を指します。
ブッダを信頼し、その教えに従い、サンガを維持
することが一番大切だとブッダは教えました。
サンガは4人以上のグループで成り立っており、
そこにはブッダの深い意図がありました。
ひとりではなく、複数で支えあうことで自己鍛錬
を長い期間着実に積み重ねていくことができる。
ブッダはそう考えていた―

 しかし私亡き後、サンガはどうなるのだろうか
 末長く人々を救うためには
 サンガを維持しなければならない

涅槃経には、ブッダの死後 サンガをどう維持する
のか、その方法が記されていた―

先生は言った。
「仏法僧、最後の《僧》。
 僧というのは元々がインド語のサンガ、
 そしてその意味はひとりのお坊さんじゃなくて
 《集団》を指します。
 ブッダという人は神様のような存在じゃありま
 せん。 自分が修行して最初に道を進んで、
 あとでその道を後輩に教えてあげようという、
 一種のインストラクターの働きをした人です。
 悟りのためのマニュアル(お経)を遺した人。
 実践するためには修行する場が必要です。
 その組織を設計したのもブッダです。
 信じるモノはない、拝むものもない、
 することは毎日の修行ですw
 自分が決めた生きがいを徹底的に追及できる組織
 ということです。
 サンガの理念は別に宗教の問題じゃないんです。
 サンガの運営の方法は現代の組織にも役立つの
 です! 組織として一番古いのはサンガです。
 2500年前にできて、今でもつづいています」


おさらい終わり。 いよいよ本編です☆(爆)
涅槃経はブッダがインド北部マガダ王国首都、
ラージャガハに滞在していたときのエピソードから
始まります。

 ある日、マガダ国の大臣がブッダを訪ね、
 こう切り出した。
「敵対しているヴァッジ族と戦争を始めたいが
 勝つことができるだろうか?」
 ブッダは傍らにいた弟子のアーナンダに尋ねた。
「ヴァッジ族というのは、どういう部族か?
 みんなで会議を開いているか?
 規律を守って暮らしているか?
 長老を敬っているか?」
「ヴァッジ族は会議も開いていますし、規律も守
 っています。 長老も敬っています」
「それならば…無理だ。
 ヴァッジ族と戦ったところで勝ち目はない」
 ブッダがそう答えるとマガダ国の大臣は
「戦うのをやめる」と言って、
 納得して帰っていったのだった―
 さらにブッダは弟子たちを集め、
 組織が衰退しないための条件を説いた。

 1. 会議を開く
 2. 全員で一丸となって活動する
 3. 法律を守る
 4. 先輩を敬う
 5. 欲望に心うごかされない
 6. 俗世間の中に身を置かない
 7. 仲間を大切にする

【戒と律】
 戒=個人の心構え
 律=集団における法律

 集団を維持するために律が作用し、
 その中の一人一人のメンバーがよりよい人間に
 なっていくために戒が働く。
 この二重構造が組織を強くするのである―


つづく



2015年11月17日(火) 「終わりのセラフ」

ある日突然、未知のウイルスにより世界は滅びた。
生き残ったのは子供だけ…
そして、その子供たちは地の底より現れた吸血鬼に
支配された。
百夜優一郎は家族同然の絆を持つ百夜ミカエラたち
孤児たちと、吸血鬼に血を捧げさせられていた。
家畜同然の扱いに耐えかねた優一郎。
共に生活していたミカエラ、そして
幼い孤児たちと外世界への脱出を謀るが―
◎見事に優一郎だけが脱出成功◎
っていうか、家族みんな… 全滅です!!
四年後。
日本帝鬼軍・吸血鬼殲滅部隊、
《月鬼ノ組》に入隊を果たした百夜優一郎。
吸血鬼たちとの戦いにその身を投じていく―

 『終わりのセラフ』
  世界の命運を握る禁断の業

なんだかわかりませんが、昔から吸血鬼いる世界!
地の底から出てきてなかっただけらしいぞw
そんでもって無茶苦茶強い。
四肢を切断してもあとでくっつくくらい強い。
吸血鬼貴族に至っては瞬間移動できます!!
どう見てもフツーの人間じゃ太刀打ちできんッッ
吸血鬼の描かれ方が実にタチが悪い本編。
なんたって…《強さの基準》まるでわからないw
そんなに強いんなら最初から地上支配できたよね?

 主人公と戦う吸血鬼は
 なぜかフツーにやられてくれます(爆)

身体能力差どこいったーーーーーーー!? 笑笑
正直言って主人公たちの都合でやられていきますw
その曖昧さがもうね、ほんとね、、見てて嫌でした

 吸血鬼… 意味わからんッッ

世界観や生物に違和感はぬぐえませんが、
意外にも衝撃的な発言が三つもありました 笑笑
物語には特段感想がないので一点突破しますッッ
じゃあ早速《終わりのセリフ》いってみよう☆
まずはこれ!ドーン

 「俺の評価は俺が決めるんだよ」

これ…言えちゃうって物凄いことですよね!?
なぜなら。
わたしたちは他人の評価を常に恐れているからです

自分が決めるというのは自分に自信を持つのと同じ

自分に自信がもてない人の決定はたいてい危うさが
つきまとうものです。
危険なのは努力を伴わない選択かもしれません。
努力は “自分を律すること” ではないでしょうか?
自分を律さずに健全な自信なんて生まれないのでは
ないでしょうか??
努力して乗り越えるからこそ自信になる!
努力がなかったら後ろ向きになり得ます!!
“一か八か” そりゃ自信とは程遠い選択です!!
主人公・優ちゃんの場合は超自意識過剰w
やみくもに自信があるタイプww
これが、これがねえ、、
主人公なので最後はできてしまうんです!

フツー、これ 絶対 勘違いだからね?(爆)

なんたって努力の裏付けがまるでないのだw
“できちゃう” っていうのは、
人間社会では最高の武器なのです。
努力なしにできるって気持ちわるいよね? 笑笑
それも “天賦の才じゃなくて” ですッッ
気持ちや気合いだけで困難が乗り越えられるんだっ
たら、誰も苦労しやしませんw
次はこちら!ドーン

 「過去にはなにもねえぞ。あるのは未来だけだ」

この考え方はある意味、非情です!
しかし、この台詞は、つらいことや思い出に囚われ
そうになるときに使える奥義に他なりません☆
◎前を向くことを何よりも最優先させる技術◎
こんな台詞を言ってくれる人が友だちにいると、、
おそろしく進めます!  実体験です(爆)
ラストです!ドーン

 「強くなるには実戦が一番だ。
  死ななきゃ強くなる」

この作品でもっとも度肝抜かれた台詞です。
“死ななきゃ強くなる”
要は《生きる=すなわち強い》!!!
6年前、わたしは救命病棟で寝たきりでした。
正直に言えば本気で《死にたい》と思いました。
カラダがまったく動かずこれからどうすればいい
のか、本当にわからなくなりました。
今では冷静にあのときを振り返れますが、自分の
人生、自らのカラダで、一番苦しかった時代です。
それを乗り越えようとしたとき、実は上記三つの
台詞にかなり近いものを支えにしていました
人間、なんとかしようともがいたら、あがいたら、
強くなるしかありません
自分を生かそうとすることは強さだとおもいます
「死ななきゃ強くなる」
この台詞には唸りました
生きているかぎり強くなれるんです



2015年11月16日(月) 「アメリカvs.日本」

テレビ前。死ぬ気で感染しました。

 RUGBY WorldCup 2015
 『アメリカ 対 日本』

一ヶ月前の観戦を投稿し忘れてました(爆)
なんてこった―
なんかおかしいと思ってたんですよッッ
見出しに『南アフリカ vs.日本』もはやなし!
試合がそんな離れてるわけがない!!
時間の感覚がずいぶんわからなくなっt

生きていれば取り戻せます。 絶対。

《ラグビーW杯 2015 最終戦》
 アメリカ × 日本

2015ラグビー日本代表。
南アフリカを破る快挙でいきなり伝説へ☆
本当にものすごい試合でした。
あんな試合は見たことがない!!!
今日の試合も絶対に見逃せません―
(いつの今日だよ―

 するぜ応援ッッ

日本初のW杯3勝目をあげることができるのか―
アメリカはこれまで全敗。
死にものぐるいで勝ちにくる特攻の精神です。

 特攻って日本の特許だとおもってましたw

試合開始後、短いパスで強烈に突撃してきます。
アメリカのペナルティキック炸裂。
直後日本の逆転トライが炸裂。
完璧な攻撃でした!
五郎丸のキックも決まって 3 対 7 見事です!
あらためて。ラグビーは陣地を取り合う肉弾戦。
そして圧倒的にチームプレイ競技。
こんなスポーツはまずありません。

◎ボール所持者に全員が襲いかかるスポーツです◎

死ぬ。フツーの人、絶対。
鍛え抜かれたフィジカル大前提!!
お互いの猛攻がつづきます。
アメリカ逆転トライ炸裂。
キックが外れて 8 対 7
直後、日本の逆転トライ炸裂。
五郎丸キックも決まり 8対14
正直、何度だって手に汗にぎるッッ
物凄い試合なんですよ!!!
日本代表の集中力は凄まじく、アメリカ選手の
強烈な突進を見事に止めてしまいます。
日本タックルまじヤバい!!
相手を一撃で仕留めるたいへんな技術です

 いや、ほんと日本強いからッッ

しかしアメリカも負けてません。
集中を切らせば負ける。 全力でそう感じました

 前半終了 8 対 17

チームワークの正体は個々の能力の積み重ね。
それは、お互いがお互いを鍛え上げた結果です。
やはり人間の力は “すべて” だとおもいます
何もかもが人を強くするのだとおもうのです
自分自身を裏切らない毎日
そんなものを感じずにいられない試合です!

 試合終了 18 対 28

◎日本ラグビー 歴史的3勝目◎
アメリカの猛攻を上回った日本。
日本史上初のW杯一次リーグ 3勝です!
歴史的大勝利なんです!!
ですが、、
直後のインタビューに度肝を抜かれました
五郎丸選手は涙をこらえながらこう答えます

「我々の目標は…準々決勝に行くことでした」

日本は決勝リーグにすすめませんでした
勝利に湧く場面でしたが、気持ちが一変した
“これだ” そうおもいました
歴史的快挙へとつながった力の在処。
伝説はただでついてきたりしやしません。
そもそも心の強度が不可欠だとおもいます
強くなければ苦しい練習に挑めやしません!

 一言にそのすべてを見た気がしました

目標。目標です。
わたしたちに応用できるのはこれしかない。
目標を見失わず、どれだけの気持ちで臨めるか。
すべてはその強度だとおもうのです
その気持ちで達成できなかった目標。
五郎丸選手の悔しさ、その涙が、
生きていることを圧倒的に語っていました

3勝1敗で次戦にすすめない理由は得失点差。
日本の最大の弱点は得点力でした。
それを補って余りあるディフェンスで勝ち上がって
きたのです。
これだけの試合をして次にすすめないなんて、
正直、まるで納得できません!!

この投稿にあたって試合を見直しましたが、
何度見ても感動が込み上げてきます。
ほんとうにすばらしいものには
何度見ても感動をおぼえますよねッッ
観戦できてよかった!!! 涙がでた!!

 感動はいくらでもやってくる

2019年は日本でラグビーW杯が開催されます。
なんと初のアジア開催です!
日本の活躍を楽しみにしたいですね☆



2015年11月15日(日) 死ぬまでつづく試験

『愛の話 幸福の話』
てか、、チェック差し込みどんだけあるんだよ―
あるんだよ― あるんだよ―  最終回ッッ

 ひとつわかっておいてほしいのは、
 宗教と信仰は違うということです。
 宗教は企業です。
 神様と人間の間に立って、こういう拝み方が
 ありまっせ、こんなグッズ売ってまっせと、
 中間の卸問屋をやっているのです。
 その企業の中には優良企業もあれば、
 「お金を持ってきなさい」としか言わない
 インチキ企業もあります。
 尊いわけでも神秘的なわけでもないのです。
 信仰というのは教祖もお金も関係ありません。
 神仏を信じ、仰ぐことです。
 そしてまた、日常生活の中で憎愛嘆悲怒哀楽を
 体験し、反省、分析、思慮し、
 やがては自分自身をも信じ仰ぐ、価値のある
 人に磨き上げていく作業を信仰というのです

 釈迦もキリストも日蓮も、聖者といわれている
 存在はみんな悲惨な人生を送っています。
 しかし何が起こってもビクともしない、
 強靭で清らかな魂の持ち主になるには、
 それ相応の試練が必要なわけです。
 苦労が絶えない、試練の連続だ、そういう人は
 魂の上級試験を受けさせられていると思えば
 いいのです。
 何かのせいにしたり、
 誰かを恨んだりするから余計につらくなる。
 自分が自分を育てる親であり、師であり、
 子でも弟子でもあるのだと思ってください。
 すると 自分を信じ愛する力もわいてきます

復帰公演を果たした2013年。
一気に全国で踊る算段が整った2014年。
直後、襲うリハーサルアクシデント
術後かるく過ぎ去るリハビリ年月にゾッとして
「またゼロだよね、、」
気を抜くといつもそう感じてしまいます
だけどまるで寝たきりだったあの時に比べれば、
あの時に比べれば!!

圧倒的にたすけてくれる友だちがいる

それは、やっぱり自分が頑張ってきたからだと、
そう実感するのです。

頑張ってない人を誰がたすけてくれますか

かといって自分自身とのたたかいは、
苦しくて何とも言えません。
痛い 苦しい その程度の差こそあれ、
今でも続行中のたたかいです。
意志を強くもたなければ即座に自分を見失います。
誰かのせいにしようとしたり、どうしてこうなっ
てしまったのか、そんなもうひとりの自分が
いつだってその意志を砕こうと窺っています!
もうひとりの自分に負けないように、
追いつかれないように、逃げまくった日もあります
今では冷静にあの時を振り返れますが、
現実は苦痛と涙のド真ん中です
無理矢理にでも明るく振る舞うことで、
なんとか逃げ切ってきた気がします。
今から考えればそれは《技術》でした

“どうせなら楽しいほうがいいじゃない”

自分から暗くする必要なんて何一つありゃしない
そんな日が今では板についてしまい、
軽んじて見られることも少なくありませんw

魂の上級試験パネエっす

こうして自分自身と対峙していけるのも、
たすけてくれる人が絶えないからです
自分を間違えない、気付かせてくれる人がいる
そんな友人たちに感謝して、そして
そんな自分でいられることをプライドとして、今を
がんばっています
今の自分にはこれしかない!


◎課される美輪明宏本にも終わりはありません◎
 次回もおたのしみにッッ 笑笑



2015年11月14日(土) 俺達の足はカニの足じゃない

『愛の話 幸福の話』
てか、、チェック差し込みどんだけあるんだよ―
あるんだよ― あるんだよ―  つづきます

 人生の岐路にさしかかった時、たいていの人は
 悩み、嘆いて飲みに行きます。 カラオケで歌
 います。 わめきます。 でも、お酒なんてい
 くら飲んだって、おしっこになって出て行くだ
 け。 何も答えは出ません。 エネルギーと時
 間とお金の無駄遣いです。 そういう時、人間
 にとっていちばん大事なのは理知。 冷たい理
 性と知性です。 そして、いちばん邪魔になる
 ものが感情、情念、センチメンタル。 それら
 を徹底的に切り捨て、何が今の自分に必要なの
 か、それを将来どう役立てていくのか、クール
 にクールに考え抜かなければいけないのです。
 悩むことと考えるということは違います。
 悩むというのは、同じところをぐるぐる回るだ
 けで、心身のエネルギーと時間とお金の無駄遣
 いというだけです。 一歩も前進はなく、問題
 は解決するわけではありません。

まったくそのとおりですよね。。
うんうん、みんな、みんな、みーんなわかってる
ことですよね? わかっててしてないんですよねw
これはまことにおそろしいことですよね―
前進。
前進ってすごく。すごく難しいことですよね!
《こうすれば解決に近づく》
これを見出だすことができなきゃ行動できません!
そんでもって、見出だすことが出来ても実際やる
には “勇気” がいるんですッッ
ええ、ええ、もうこれしか言えません!!

《できる人はできる》《できない人はできない》

おそろしい現実リアルです☆

 若い人たちはみんな教えれば吸収します。
 興味を持てば、さらに知ろうとする。
 でもみんな、
 口を揃えて「時間がない」と言います。
 でも何に追われているのかといえば、
 何も追われていないのです。
 ただ情緒的に慌ただしいと感じているだけ。
 現実には時間は十分あるのに、
 みんな時間割のつくり方が下手なのです

これもずぶりと我が身にめりこむ刃物のようですw
自分を怠惰だと自覚していればしているほど
圧倒的にその通りすぎてぐうの音も出ない。
痛いですよね?苦しいですよね??
切腹なんてしてた時代がおそろしくてなりません!

 本当にもてる女というのは、自分の生活の中に
 文化を持っている女。 そして、そういうこと
 を全部知っていて、決してひけらかさない。
 生活とは《生きること》を《活かす》という
 ことです。
 朝起きて、そこいらへんのファーストフードで
 適当に食べ、会社に行って、飲んで、寝て、
 なんにも考えないでただ生きてるだけ。
 これは動物と同じです。
 生きてるだけというのはもったいないんです。
 せっかくこの世に生まれてきたのですから、
 いかにストイックに、いかに充実させて生きるか
 を考えないとあっという間に老けてしまいます

“ただ生きる” ということができる人。
実は、すごくしあわせな人じゃないでしょうか。
特別なにかに抗って生きることをしなくていい。
主義や主張をもたなくてもいい生き方ができるん
です! 行動しなくていいんです!!
わたしたちはたいていうまくいかないことに直面
しています。
それに対して自分がどう向き合うか。
いつも。いつも目の前にある現実です。
どうにかするには《行動》するしかありません!

 やりたい仕事に就けたから、あとは平和で
 幸せな日々が続くなんて思ったら大間違い。
 それに匹敵する苦しみや悲しみがあります。
 そこから逃げ出したらどうなるか。
 ずっと横ばいで成長しない人間になってしまう

 人間の足は、カニの足とは違います
 横ばいではなく、前に進むためにあるのです


長い入院や手術を味わってしまうと、
どうしたって自分自身と向き合うことになります
自分がほんとうにしたいことが何なのか?
フツーに歩けたり、腕が動いたり。
できることがあるということはそれだけで前進でき
るのだと気付かされます。
生きてさえいれば挽回できる!
それまでの自分を “圧倒的に” 挽回できる!!

生きていることに感謝したいですね☆



2015年11月13日(金) 寝ブタ祭

『愛の話 幸福の話』
てか、、チェック差し込みどんだけあるんだよ―
あるんだよ― あるんだよ―  つづきです

 これから結婚して家庭を持つ人たちにできる
 ことはなんなのか。 ひとつ頭に入れておい
 てもらいたいことがあります。 家族という
 ものは、いつもハッピーで素敵なものではな
 いということです。 家族は学校の教室と同
 じ。 寮生活と同じ。 ひとつ屋根の下にふ
 たり以上の人間が暮らすということは、忍耐
 と努力と諦め以外の何ものでもありません。
 放っておけば、無味乾燥で息苦しくてぶつか
 りあうばかり。 それを中和させ救うのが
 文化というものなのです。
 家の中にあふれる叙情 つまりリリシズムは
 家族のオゾンになるのです

ここで《文化》という言葉が出てきたのに驚きま
した。 文化は「文化」としか聞いたことがない。
ハッとさせられました

世直し対談でもこれがまた唸るんですよ!!
瀬戸内寂聴 × 美輪明宏

 美輪
 自分で自分を苦しめてる人って多いですね。
 自分は人付き合いが下手だ、口下手で恋人に
 逃げられる。 そういう不平不満だけ数えて
 努力をしない。 自分だけが閉塞感を感じて
 いると勘違いしている。

 瀬戸内
 その閉塞感の原因は、想像力がないからだと
 思いますよ。 自分のことしか見えてなくて
 相手が何をしてほしいかということがわから
 ないんですよ。
 相手が今どこか痛いんじゃないか、つらいん
 じゃないかとか、顔を見ればわかると思うん
 ですけどね。

ここでは《想像力》です!!
わたしの場合はこの想像力にこそアクセスする
職業です。 わたしが踊った暁、その感想には
このような文面が少なからず上がってきます。
「わからなかった」
わたしの場合ではありますが、そもそも
“わかってもらおう” として踊っていません。
“何かを感じとってもらおう” と踊っています。
従って、「わからない」では、その人にとって
ダンスになっていないということになります。
この感想は絶対に超えなくてはならない壁です。
なにしろわたしたちには《想像力》があるはず
だからです!

 この世に増殖しているのはヒトの形をしている
 けれど、人ではない有機物たちです。
 そんな有機物たちが叫んでいる声が私には聞こ
 えます。
 「素敵になりたい」 「幸せになりたい」
 そのためには、まずやらなくてはならないこと
 があります。
 自分という人間の中身を構築することです。
 その作業を今からすぐに始めましょう。

 私らしく生きたい。
 そう思うなら、まず自分を知ることから始めな
 ければなりません。
 容姿、容貌から好き嫌い、得手と不得手、
 成功と失敗、過去と未来、長所と短所。
 自分のすべてを表に書き出してごらんなさい。
 その表は、それはそれは残酷なものかもしれま
 せん。 でも目をそむけてはいけません。
 そんな今の自分を一度分析して細部まで理解で
 きないと自分らしさなんて見つかりっこありま
 せん。

自分らしく踊りたい、そう思ってずいぶんとりく
んできました。
特に。音楽を使わずにダンスを見てもらおうとし
たら、実のところ自分を深く深く掘り下げるほか
ないのです。音の力は甚大で甚だ楽ができます。
生身だけというのはまったく拠り所がありません
頼れるのは自身だけです

自分がいったい何がしたいのか

その衝動を自分自身がわかっていなければ、人前
に出られません。
受け取ってもらいたいものがないのに踊りを踊る
なんてできっこない!
そういうわけで、即興ダンスともなればその究極
《今を感じ取る能力》を磨くほかありませんッッ

 「今の私は本当の私じゃない」
 よくこんな声を耳にします。
 では、どんな私になりたいの?
 そう尋ねると具体的なイメージなんてないのです
 ただ、もっとほかに私らしい仕事があるはず、も
 っと私らしく生きられるはず、そう思い込んでい
 るのです。 私らしい仕事に出合えないから、今
 の私は本当の私じゃない。 私らしい生き方がで
 きていないから、今の私は本当の私じゃない。
 そう言ってる人たちの生活が、私には透けて見え
 るようです。
 「このままじゃダメだ」と言いながら、何もして
 いないのです。 寝ブタみたいに、何もしないで
 ボケーッと部屋にいて棚からぼた餅を待ってる。
 ぼた餅だって、見つけたら手を伸ばして取ってく
 る努力が必要です。 そして、食べたら口を動か
 さなければいけません。 そのまま飲み込んだら
 のどに詰まって死んでしまうのです―

寝ブタきたーーーーー(爆)



2015年11月12日(木) 「愛の話 幸福の話」

全世界待望、個人的に課される本ッッ☆
After 退院です! ちょっと進んだ!!

 『愛の話 幸福の話』 美輪明宏
  恋には裏切りがあっても、
  愛には裏切りはありません。

  幸せとは充足感。
  これ以上何も望むものはないと
  しみじみ思う気持ち。
  一度手に入れたからといって、
  永久不変に維持できる固形物ではないのです。
  永遠に幸せでいる方法はたったひとつ。
  感謝の心を忘れないこと。
  そうすれば、
  幸せはいくらでも自前で調達できます。

『ああ正負の法則』から始まった課されるシリーズ
第二夜の幕開けですw

てか、、チェック差し込みどんだけあるんだよ―

blog一日分じゃかるく終わらんよなあ(遠い目)
がんばろう! とにかく進めよう!!
書かないと終わらないッッ まだ2015年ッッ

 《恋愛》という言葉があります。
 見てわかるとおり、《恋》と《愛》が一緒に
 なった言葉です。
 恋も愛も同じだと思っている人は多いけど、
 このふたつはまったく違うもの。
 恋という文字が先にくるのにはわけがあります。
 恋をすると、会いたい、寝たい、相手を自分の
 ものにしたいと思うでしょう。
 その気持ちは、好きになればなるほど
 エスカレートしていきます。
 たとえば相手が待ち合わせに遅れてくると、
 「私をこんなに待たせるなんてひどい!」
 「なんて失礼なの?」と怒ります。
 そして相手が現れると、自分を待たせたことに
 ついて文句を言うのです。
 相手に何かあったのでは?ということには
 思いがめぐらず、とにかく自分のプライドが
 傷つけられたことが許せない。
 もしも相手が「ほかに好きな人ができた」なんて
 言い出したらもう大変。
 カーッと頭にきて、悔しい、チキショー、
 許せない、ということになってしまいます。
 なのに自分は、相手のスープの吸い方が下品だと
 か、靴下が臭いとか、そんな些細なことでスーッ
 と気持ちが冷めてしまう。
 つまり恋とは自分本位なものなのです。
 自分の欲望を満足させるために相手が必要な
 だけなのです。
 愛は恋から始まります。
 しかし恋と違うのは、ものごとすべてが自分本位
 から相手本位になれることです。
 待ち合わせに相手が遅れたら、「何があったの
 かしら」「忙しいのに無理をさせて悪かったな」
 と気遣う。 相手にほかに好きな人ができたと
 打ち明けられても、カッとするし悲しいけれど、
 相手が幸せそうにしているのを見て身を引ける。
 常に相手のことを思って行動できるのです。
 だから恋には裏切りがあっても、愛には裏切りは
 ないのです。
 裏切りもまた許せるのですから。
 「愛の裏切り」という言葉を使う作家は
 インチキです。

最初の差し込みでこの事態です 笑笑
そして、悟りには感想を書く隙がありませんッッ

納得しすぎて ため息しか出ない(爆)

しかし読むほど、だよねだよねそうだよねです!!
あの人も、あの人もあの人でさえ自分本位でした!
しかし、自分本位だからこそ未熟さを、
人間を感じたりもします(爆)
たいせつなのはバランスでしょう。
極端な人にはすべからく拒絶を覚えますよね?
逆にすべての人が無償の愛を備えていたらと思うと
ちょっと気色わるいのもたしかです!
もしかしたら愛を体現するって人超えることかも
しれん。 ってか著者そもそも美輪明宏ッッ
我々はどうしても突出した人を “分けて” 考えて
しまいがちです。
だけど、忘れちゃいけない。
わたしたちも頑張り次第で美輪さんにも迫れる☆

やっぱ一日じゃあ無理だ!!

自分本位ですいません。。  つづく



2015年11月10日(火) 「最後の恋 Men’s」

◎入院中にいただいた本 読了の段3◎

 『最後の恋 Men’s』
  つまり、自分史上最高の恋。

  男は、とっておきの恋ほど誰にも見せない。
  本当の恋のクライマックスは、
  自分の心だけが知っている。
  忘れられない、忘れたくない気持ちはきっと、
  ひとりで大切にするものと解っているから―
  男たちがどこか奥のほうにしまいこんだ
  《本気の恋》
  7人の作家が描き出すのは、女には解らない、
  ゆえに愛すべき男心。
  恋人たちの距離を少しずつ、
  でも確かに近づける究極の恋愛アンソロジー。

いただいた本の中で最も後回しにした小説。
なんかもうね、ぜんぜん読む気がなかったとですw
だってこの帯、明らかにターゲットは女子だろ。
なんだろうこの売り文句、気持ちわるッッ!!
「愛すべき男心」とか全然興味ないぜ 実際ッッ
しかしわたしは読みましたw

魔がさしたとです 笑笑

さて、感想なんですがおおよそ面白くなかった!
だって差し込みが一カ所しかないしッッ(爆)
でもこの人の文章だけはとても綺麗で、清々しく
そして考えさせられました

 『水曜日の南階段は綺麗』 朝井リョウ

予備知識を見ないで読みましたが、読み終わって
知識入れてみたら、『桐島、部活やめるってよ』の
作家でした!! なるほど。
わたしは映画しか見ていませんが納得した。
なぜかって、この人の焦点は甚だ興味深いのです!
この作品ではざっくりこれ。

夢を公言している人間と
夢をたいせつに育てている人間

遠い昔。わたしはある女の子に夢を尋ねました。
その返答に度肝を抜かれたのを憶えています。

「なんで言わなきゃいけないんですか?」

言えるなんてフツーのことだと思ってた。
言える人じゃないと信用もしていませんでした。
したいとかなりたいとか、口にできない、
曖昧な人に夢は叶いっこないと思っていたからです
その子は頑張っていたし、何か助けになりたいと
おもったのだけど全否定された気がしました。
いろいろな記憶が事故の後遺症で消し飛んだりし
ましたが、これは残っていたw

 俺は、夕子さんの夢だけが、本物だと思った。
 誰にも言わないで、自分の中で大切に大切に
 育て上げて、努力を続けた夕子さんの夢だけが、
 本物だと思った。 M大に入って憧れのバンドが
 いるサークルに入りたいとか、ライブハウスを
 満席にしたいとか、そんな夢は、きっと偽物だ。
 俺は本当にミュージシャンになれるなんて思って
 いない。 そんなこと思えない。
 そんな覚悟、俺にはできなかった。
 俺は、夢を口に出すことで、無理やりにでも固め
 てきた。 夢がぎゅうぎゅうづめになっている
 教室の中で、とにかく一番大きな音を出さなけれ
 ば、と、必死だった。
 自分には夢があるって思いたかった。
 夢に向かって精いっぱい頑張っている人間だって
 誰かに思ってもらいたかった。

わたしにとっては自分自身の再確認です。
口に出すってそういうこと。
口に出せるってそんな意志力の問題です。
でも虚構でそれができる人もいるのか、と思った。
この主人公もウソとはいえ、引力のない人間じゃ
ありません。 どちらかといえば人気者。
人気者だからこそそう思いたかったかもしれん。
持てる者の明るいウソな気がしました。
だからこそ夕子は主人公に惹かれたかもしれん。

本物に出会うと自分を問い質さずにはいられなく
なりませんか?

主人公はそもそも知っていたことです。
《自分には夢があるって思いたかった》
たいていの人間はここらへんで手を打ってますが、
主人公はその奥を見通してしまいます。
《頑張っている人間だと誰かに思ってもらいたい》
そう、これは夢の話じゃないのです!

夕子は 自分の夢を夢のままにしない、
夢を叶えて、したいことを持っていた

その決定的な違いに唸ってしまったのです

夢。 夢ってなんでしょうね!?
これも人それぞれ違うものだとおもいます
叶わないから夢だ、と言う人もいるかもしれん
ですが、なるものよりもしたいことを夢に置くと、
夢にはまったくおわりが見えなくなりますw

どこまでもしたいことが増えていくからです



2015年11月08日(日) 「風の海 迷宮の岸」

◎入院中にお見舞いでいただいた本 読了の段2◎

 『風の海 迷宮の岸』十二国記  小野不由美
  幼き麒麟に迫り来る決断の時―

  神獣である麒麟が王を選び玉座に据える
  十二国。 その一つ戴国麒麟の泰麒は、
  天地を揺るがす《蝕》で蓬莱に流され、
  人の子として育った。 十年の時を経て
  故国へと戻されるも、役割を理解できぬ
  麒麟の葛藤が始まる。 我こそはと名乗り
  を挙げる者たちを前に、この国の命運を
  担うべき《王》を泰麒は選ぶことができ
  るのだろうか!?

役割。この小説は自身の役割を自分で理解して
受け容れられるか、そんな内容な気がします。
十二国では生まれた時点でその役割が決められて
いるため、悩む必要は基本的にはないはずですが
物語ですのでそれを思いっきり苦悩に苦難を重ね
ながら受け容れるお話です(爆)
なんと、その主人公の置かれた境遇は意外にも
わたしたちにも当てはまってしまいます!
仕事につけば嫌が王でも役割をさせられるものです
し、仕事である以上しなければならないし、
その仕事の現実に等しく苦悩が生まれますよね?
突然 突き付けられる役割。

心が揺れて当たり前の状況

やらされる現実と本当にそれを自分でやれるのか
やれるかやれないかというよりしなきゃならない。
そんなリアルに圧し潰されるお話です!

 「転変できない麒麟はおりません」

 「ぼくはできないんです。。
  …やり方が分からなくて…」

 景麒は泰麒を見た。
 その眼は鮮やかな紫をしている。

 「手を上げるのに、やり方を訊きますか?
  歩く方法を習いますか?」

 「いえ…」

 「それと同じです。
  転変の方法を訊かれても答えられないし、
  答えたところでお分かりになるとは思えない」

転変。この物語では変身のこと。
この会話にはおそろしい真実があります。
わたしたちが “当たり前” とおもっているものは、
“教えられない” というものです!

“できる” ものは “できる”

フツーに出来ることが出来なくなったとき。
術後は、意外にも泰麒と同じ気分でした―

 やり方が分からない

これは甚だおそろしいことです
自分でもどうしてだかわからないからです
思い出すとか、そんな話じゃあない!!

小説を読んでいて、全然他人事じゃなかった

泰麒は麒麟の先輩・景麒に教えを乞います。
もうね、泰麒はほとんど出来ない子ですからねw

 「それが言葉にするのが難しい。
  私にもよく分からないのです、実を言うと。
  ただ、“気迫” なのだと思う。
  この妖魔を自分の支配かに置くのだという
  強い意志の力。
  ただそれは、ひたすら強く願えばいいという
  ものではない」

 景麒が言うと、泰麒は困り果てた表情をした。

 「こう考えるのがよろしかろう。
  麒麟は《力》を持っているのだと。
  力の大きさは麒麟によって異なる。
  しかしながら、どの麒麟も確実に
  持っているものです」

 「その力が、麒麟を転変させる?」

 「はい。それは力だから、
  願いとはあまり関係がない。
  どれほど強く願っても、
  持っている力が小さければ
  いくらの足しにもなりはしない。
  そういうことです」

この会話、言い換えたら “自分を信じろ” ですw
自分に力があるのだと信じること。
その土台がなければ はじまらない
めちゃくちゃ当たり前のことですが、
失ったものだと《当たり前》になりません。

自分のことがわからなくなっているからです

泰麒の場合だとそんな力を持っているとも思って
もいない、知らなかったことなので、
理解のしようがありません!
でもこの会話で思い出しました。
できるようにするために手術したこと

できるようにならないはずがない
これを信じないと前へすすめない

そんな毎日でした。


いよいよ王選びがはじまります。
そんな中での台詞。

 「そうそう。
  顔に品格が出るということだろう。
  王になるべきお方は、
  見かけも王に足る品格があるもんだ」

顔。表情ってどうしてその人が透けて見えるのか!
おだやかな人はおだやかな顔。
神経質な人は神経質な顔をしています!
その性格が確実に見えているのです。
これはダンスでも同じ。
その人の踊りにはその性格が確実に現れます。
偽りのないものを踊りたいとおもっているなら
結果として “自分が自分である” を実践して、
そんな間違いのない毎日を送らなくてはなりません

一日一日の積み重ね。 これしかないッッ


物語後半。
泰麒に訪れる絶体絶命のピンチ。
ピンチを切り抜けた泰麒はついに実感を得ます。

 人ではなかった己の実感

その実感はとんでもない妖魔を従えたときでした。
“突然 出来た”
これがまた意外にも自分に通じるものでした―

リハビリを続けて筋力が整ってくると
これまで出来なかったことが “突然 出来る”

不思議。不思議な気分です
いきなりわかる実感
その実感を得るところまでいかなければ、
ずっと。ずーっと悩みっぱなしかもしれません!!
この実感こそが、
自分を自分だと思えるものではないでしょうか



2015年11月07日(土) 「魔性の子」

入院中にいただいた本たち読了の段w
すっかり投稿し忘れてましたッッ 笑笑
まずは7月に読み終わったと思われる一冊からw
〜要点に挟んでるレシートでわかる読了日〜

 『魔性の子』十二国記 小野不由美
  どこにも、僕のいる場所はない―

  教育実習のため母校に戻った広瀬は、
  高里という生徒が気にかかる。
  周囲に馴染まぬ姿が、
  過ぎし日の自分に重なった。
  彼を虐めたものが不慮の事故に遭うため
  「高里は祟る」と恐れられていたが、
  彼を取り巻く謎は、“神隠し” を体験した
  ことに関わっているのか。
  広瀬が庇おうとするなか、更なる悲劇が…
  心に潜む暗部が繙かれる、
  『十二国記』旋律の序章!!

『魔性の子』その謎に迫る『風の海 迷宮の岸』
その時期、いっぺんに読み進めた模様w
大人が読んでもおもしろいファンタジー。
※ぜんぜん痛快ではありません

もうね、ドロドロな感じ(爆)

この物語では周囲の人間がこてんぱんに死にます。
読んでてゾッとしたw
最終的には二百名あまりの死者を叩き出します。

死にすぎだろ!

その原因は 誰もが一度は考えるだろうこれ。
“どうして、自分はこんなところにいるんだろう”
それをもとに、わたしたちの、人間の暗部が、
軒並み現実に引き起こす惨劇。
そんな小説ですw

もし、わたしたちに等しくそんなチカラあったら
世界には惨劇しかないかもしれん(爆)

仮に日本が銃社会だったりしたら
アメリカよりもひどい惨事がおこる気がします
日本人ってそんな感じだとおもうのです

俺たちが簡単に銃を買えない世界サイコー!

“どうして、自分はこんなところにいるんだろう”
正直言って こりゃ大変な難題です
悩みすぎると大事件になりかねない問題です

若気の至りで自殺か、見てほしくて他殺か
それは意外にもいろんな事件の共通項です

どちらにしても答えを出すのはわたしたち自身。
生きていく上で、その答えがどんなに大事か。
なんとなくそんなことが浮き彫りになりやがります

いやあ人間の暗部ってヤバい!

“間違って” 戻ってきた高里。
どこかで同じ思いをかかえていた広瀬。
決定的に違うのは戻れる場所があるかないか。
高里を救いたいと思っている広瀬の真実は、
おそろしくもわたしたちにあてはまってしまいます
そんな広瀬に対する後藤の台詞。

「誰だって全部の人間に良くしてやれるんなら
 そうしたいさ! しかし順番を決めなきゃ
 いけないときもあるんだよ。 全員を好きだ
 ってことは、誰も好きじゃねえってことだ。
 少なくとも俺はそう思う」

 人が人を大切に思う情愛は貴いもののはず
 なのに、その裏側にはこれほど醜いものが
 存在する。 人が人として生きていくことは、
 それ自体がこんなに汚い。
 そんなことを広瀬は思った。

読み返してみると後藤の人間分析力はんぱない。
広瀬のことは最初から射抜いています。
チェックはほとんど後藤の台詞でした(爆)

「この野郎消えちまえ!と思うのと、
 相手のいない世界を夢見るのと、
 いったいどこがどう違うんだ?
 それは表裏だ。
 俺の言ってることが分かるだろう?」

 分かりたくない、と思った。
 そんな理屈は分かりたくない。
 広瀬は首を振った。

いやあ深い!!



2015年11月05日(木) 運命の導き

朝からリハビリに出掛けた日。
病院では午前中の時間すべてを使います。

だって待ち時間がなっがっいっっからッッ!!

結果、やる気の低次元化が促進w
それでも午後からはジムに出掛けます。
今日は “泳がずに歩こう” そう決めてプールに…
って、おいおーい!!
眼前には 以前わたしが初戦完敗を遂げた、
超光速で歩行するおじさんが―
えーっと。。

 本気を出さざるを得ん!!!

このおじさんはマジで。ほんとうに。速い!
全力出さなかったら かるく追いつかれるッッ
この方はめったに見かけない人なのですが、
なぜかこういう日にピンポイント存在するのです!
えーっと。。
わたしの前に立ちはだかる人たちって、
一様にみ〜んなこんな感じですよねw

 “居るときには絶対居る”(爆)

ありがとう運命☆
やる気だとかなんだとかさぁ、、
そんな、そんなのもう、全然関係ナイス!! 笑笑

 おかげさまで今日も全力リハビリでした

なんてこった…
こりゃそうとうなしあわせものかもしれません。
いや、キツイです。毎日キツイですよ? 笑笑
ほら、たまにはね、休んだりしたいんですよ??
そんな思いとは裏腹に運命が押し寄せるリアル。

 こんちくしょう!! ありがとうッッ(爆)

疲れてたし、早く帰ろうと思っていたはずですが、
気が付いてみれば 営業終了アナウンスw
駅ではいつもと同じ電車です

ホームでひとり大爆笑してしまいました

もうぜんぜん早いいね!
うんうん、早いじゃないの こんにゃろーうww



2015年11月04日(水) 白鳥大暴走

湖ランチしながら笑顔でけしかけられた件。

 「白鳥乗る〜?」

おそらくは “テキトー” に出た台詞。
しかしわたしはテキトーに済ませやしないw
こんなタイミングもそうそうありゃしません。

 口にしたことに責任をとってもらおう☆

そのときできることをやらない選択肢は、ない
まあ…そういうわけでこうなります 笑笑

◎本日、人生初!!白鳥号 搭乗◎
 ※ペダル漕ぎで進む憎いヤツw

湖を優雅にすすむ白鳥号〜
そんなのは… 見たくもない!!

 見たいのは 暴走してる白鳥ですッッ(爆)

優雅さなんかより、一生懸命な白鳥がいい!!
いつの日か 乗ったときは、そうしよう
そう誓っていた(超実話)
まさかそれが今日になるとは思わなかったけどw
白鳥号は二人で漕げるようになっていたが、
わたしは気にもとめず、いきなり全力で漕ぎ出した
隣から聞こえる悲鳴

 「わあーーーーーーー!!!」

知らんw
やるからにはいつだって全力ですッッ
ハンドルは真ん中にあるので大変運転しづらいが、
汗だくになりながらとにかくペダルを全力で回す。
白鳥は飛沫を上げながら、
そして、断末魔を上げながら爆走した―

 そんな白鳥はあっという間に湖を縦断w

我ながら目下リハビリ中最高のスピードです!!
よくもこれだけ漕げるようになったよねw

 リハビリの成果を風で感じます

ビュンビュンとはいかなかったけれど地味に 笑笑
空は大晴天。

 これ以上ない暴走日和だ☆

どうしてこんな一日になってしまったんでしょう。
それは、湖の畔に目的地の美術館があったからw
そもそも白鳥はその通過点にすぎません。
白鳥が目的ではないのだ


 『明日へのメッセージ 2015』作家の視点
  この地に生まれて


そこで、断末魔を上げてる友だちの友だちの作品が
展示されているらしい。
リハビリ白鳥も終わったし、いざ突撃!!
日常こそが最高のリハビリです 笑笑

 「よみがえる細胞」 アクリル 145.5 × 145.5
  木戸 瞳

その作品を一目見たとき “生きてる” のを感じた
他者の作品にまったく目がいきません!!
生命力 その混沌 混沌の中に輝きが見える
そんな絵でした

 「踊りましょうか?」

作者を前に、つい声が出た 出てしまった
思い出しても不思議です…
これまでの人生で、
そんな発言をしたことは一度もないッッッ

 こころがうごいたってこのときを言うのかも

ほんの数十秒ではありましたが
お客さんが途切れた瞬間にこっそり踊りました
言葉よりも踊りたい、そうおもったんだと思います
何よりもここは美術館w 基本絶対NGッッ(爆)

 それほどの引力があったのでしょう

生命力って一体なんだとおもいますか?
情熱。 情熱のようなものではないでしょうか
“生きてる” ではなく、“生きようとする”
そこにこそ《命の魅力》を感じるのです

◎踊りたい、そうおもいました◎


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