そこには、お茶の美味しい飲み方は書かれてませんw
『THE BOOK OF TEA』 岡倉天心
この本で日本人の美意識の源流を見出だす!! 原文は英語ですw 美術運動の指導者・思想家、岡倉天心が、 1906年にニューヨークで出版したもの。 日本の伝統文化がなおざりにされていた時代に、 もう一度日本美術を復興しようとした人。 時代の態勢は欧米化、近代化の方向で、日本社会 からはあまり受け入れられず、日本の外に出て 世界に向かって日本を紹介しようとした。 天心の青年期は廃仏棄釈、明治初期、天皇中心の 社会では神道を敬うことが正しいとされ、仏教は 否定され仏像は破壊の対象となっていた― 大学卒業後、文部省に入省した天心は仏像の 復興計画を政府に進言。 さらに東京芸術大学の前身、東京美術学校を設立。 日本画家の育成に努めた。 しかし当時の日本は脱亜入欧を目指しており、 西洋化を急速に進めていた。。 その頃、天心は頻繁に海外を訪れ、日本文化の源流が アジアの風土や人々に根付いていることを確信。 そして1904年、 ボストン美術館で東洋の美術品の収集に励んだ。 日清、日露戦争に勝利した日本は国際社会において 一躍注目を集めることになる。 侍の精神を示した新渡戸稲造『武士道』が評判を呼び 強い日本のイメージが定着。 アメリカでその空気に直に触れた天心は、戦争に 勝ったことだけで文明国とされるのは腑に落ちない、 と感じ、愛してやまない平和的な日本文化を 世界中に広めようと『茶の本』を出版した―
天心は外から日本を見る視点があった、 日本最初のバイリンガルの一人。 こういう人は当時、非常に稀有な存在だったはず。 この本の概要は以下。
明治以降の近代化の時代の中では現実的なものに軸が 置かれていた、それに対してインドの哲学にせよ、 中国の哲学にせよ、もっと物質や現実を超えた精神的 な理想ってものをアジアの文化は追求していたんだ、 近代はやがて物質文化は限界にぶつかる、だからそれ を乗り越えるためには、今見捨てられている精神的な 文化を復活させなきゃいけないんだ、と。 今の近代文明を超えるような世界観・哲学が 《一杯のお茶》の中に凝縮されているんだ、と―
茶はもともと薬として用いられ、 やがて飲み物となったものである。 15世紀には、ついに美をきわめ崇める宗教 すなわち茶道へと高められたのである。 茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に 身を置きながらそこに美を見出し、 敬い尊ぶ儀礼である。 そこから人は、純粋と調和 たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、 社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。
茶を飲むという日常の行為を 文化や思想へと高めたところに日本の独自性がある 私たち日本人の住居、習慣、衣服や料理、陶磁器、 漆器、絵画そして文学に至るまで すべて茶道の影響を受けていないものはない。 日本文化を学ぼうとするなら 茶道の存在を知らずには済まされない。
海外に滞在して現地の人と話すとき、 日本のことを説明できないと大変なことになります。 これは誰もが経験することじゃないでしょうか? ◎確実に恥ずかしい思いをする◎ 自分がどんな国からきて、 どういった生活や生き方をしてきたのか。 これが言えないと周りを激しく疑わせてしまいます。 日本にいればさして問題にしなくても生きられますが 自分自身を説明できない人は一様にそういうことです たとえば舞台。舞台に立てば全てが明るみに出ます。 自分自身がどんな存在であるか。 これを曖昧にしたままでは、舞台には立てません! さあ今こそ日本人としての自分を学ぶときッッ(爆)
日々の中にこそ本当の美とか哲学がある それを思い出さなきゃいけない
我々は現実を生きなければならないが、 その見方を変える手段として、 お茶を飲むということがある。 《お茶を飲む、一息入れる》 置かれている状況を俯瞰してみること これはもう、瞑想といえます。
不完全であるからこそ、 余白の部分に無限の可能性がある
これはまったく踊りにも当てはまります
踊らない部分にこそ無限の可能性がある
茶道の理念はことごとく 暮らしの細々とした事柄のうちに偉大さを見出す、 という禅の考え方に由来する。
茶室こそが茶道の精神。老荘と禅の思想の結晶。 茶室は別名「すきや」と呼ばれますが、 3通りの漢字を当てることが出来る。 「好き家」 かりそめの家。 世の中は移り変わるもの、 その瞬間の美しさを大切にするという 日本人の美意識です 「空き家」 西洋の家と比べるとわかりやすい。 西洋では、 家を美術品や彫刻で飾りたてる傾向にある。 日本人は違う。 茶室では装飾は常に変化するのである。 「数奇屋」 数奇屋。 すなわち非対称の家という呼び名は、 日本の装飾原理のもう一つの特性を示している。 完全そのものより、 完全を追求する過程を重視したのである。 真の美というものは不完全なものを前にして、 それを心の中で完全なものに仕上げようとする、 精神の動きにこそ見出されるというのである。 西洋ではインテリアや建築に完璧なシンメトリー を施し、美しいものとして表現する。 しかし対称的なものは、 見る人の心の動きを固定してしまう。 感覚の広がりがなくなってしまうのだ― 茶室にはシンメトリーのものはありません。 ここに日本人の美しいものに対する感じ方が あらわれているのです。
これには唸りました!! あらためて、わたしは完成された踊りを 目指していないんだと、ほんとに思った 完成されたものじゃない もっと別のものに触れたい
天心は、芸術との向き合い方について こんなエピソードを紹介しています。
昔、森の王ともいうべき立派な桐の木から作った琴がありました。 皇帝のもとに秘蔵されていた琴は真の名人しか弾きこなせないと言われ、多くの音楽人が挑んだものの誰一人として思い通りの音を奏でることができません。 そこに伯牙という琴の名手が登場。 不思議なことに伯牙が琴を弾き始めると春のそよ風が木々をやさしく揺らし、無数の虫の音や雨音がよみがえり、夜の砂漠では剣のように鋭い月が、霜のおりた草の上に輝き、冬になった。 さらに調子を変え愛の歌を歌い始めると、森は熱い想いをかかえて物思いに沈む若者のように打ち震えた。 皇帝は伯牙に技の秘密を尋ねると伯牙は言った。
「ほかの者たちは自分自身のことしか歌おうと しなかったから失敗したのです。 だが、私は、 何について歌うかは琴にまかせました。 そして、そうするうちに 琴が伯牙なのか、伯牙が琴なのか ほんとうにはわからなくなってしまったのです」
自分の考えだけを押しつけず、 自分をからっぽにすることで相手を呼び込み、 相手の思うがままに振る舞わせる。 こうして得られる《自他一体の境地》。 芸術とは、互いの共同作業である―
これはまったく目指すところじゃないか!? 自分が考えていることが文章になっていた 震えましたね… 《自他一体の境地》とは《感動》そのものです
ダンスはお茶だったんです お茶飲めば、踊らなくていいのかも(爆)
わたしにとってのお茶は、ダンスなのでしょう。 ダンスを見ている人の中で完成していくもの。 それには、一方通行じゃダメなんです!!
茶会は、主人がお茶をたてるところで終わるわけじゃなくて、お客ひとりひとりがお茶を、飲むことで完成されるわけですよね
日本を代表する建築家はこう言ってました。 「西洋の建築っていうのは、 “西洋の建築は偉い” “人間が作った直線の方が偉い” っていう感じなんですよ。 日本の数奇屋建築は柱の皮を残したり 曲がっていたりちょっと自然の方が偉いかもw 人間の作為なんてfoolish(愚かさ) そういう感じの建築。 その辺のところを天心はついている。 自然に対する態度の違いを鮮明に書いてますよね」
わたしのダンスは《負けるダンス=反洋舞》です。 わたしはそういうものを踊りたい 『茶の本』から自分の目指すダンスが 想起されるだなんて、思いもしませんでした!!
最後に先生は言いました。 天心は100年後の思想を先取りしていた、と。 いずれ近代化の動きは行き詰まりに達すると 見通していた。 そのときにこそ、東洋の伝統文明、あるいは日本の 伝統文化の考え方がふたたび意味をもつことに なると予言していた。 人間はそれを自覚して、 それに添って生きていかなければならないんだ、と。
大事なのはこころなんだ、と。
《ビッグブラザー》率いる党が支配する全体主義的 近未来。 ウィンストン・スミスは真理省記録局に 勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。 彼は 以前より、完璧な屈従を強いる体制に不満を抱いて いた。 ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちた ことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと 噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが… 20世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場!
『一九八四年』 ジョージ・オーウェル
20世紀世界文学の最高傑作!? マジですか?? ほんとうですか?? 入院にあたって、貸してもらった最初の一冊。 激痛や鈍痛、毎日のトレーニングに邁進した結果、 入院中まったく読めませんでした。。 唯一のファンタジー『NAMU』だけ読めた件w 退院してからは大量に積まれた本を片っ端から 読破にかかりました― たぶん12月には、数冊は読み終えていたはず。 しかーし! blogにするのを忘れていました…(爆)
《思考犯罪》は死を伴わない。 《思考犯罪》が即ち “死” なのだ。
自分が死者であると認めてしまうと、可能な限り 生きながらえることが大切に思えてきた。
この小説の世界では《思考》が機械に読み取られて しまいます。 そして一息に裁かれてしまうんです。 とんでもない世界でした… すべてが党に統治され、人間の尊厳が奪われる話。
党の狙いは、単に男女間にコントロールの きかない忠誠心が成立するのを阻止すること だけではない。 公言されてはいないが、 真の目的は性行為からすべての快楽を除去する ことなのだ。 敵視されるのは愛情よりもむしろ 性的興奮であり、それは夫婦間であろうとなかろ うと同じだった。 党員間の結婚はすべて、任命 された専門委員会の承認を得なければならない。 そして、基準は一度も明言されてはいないが、 当事者たる男女が肉体的に惹かれあっていると いう印象を与えてしまうと、決して承認は得られ なかった。 公式に求められている結婚の目的は ただ一つ、党に奉仕する子どもを作ることだけで ある。
こんなのが果たして人間らしい未来といえるものか
彼は思い至った― 危機的瞬間にあって人が闘うのは絶対に外部の敵 ではない、常に自分の肉体と闘うことになるのだ。
この文章には唸りました… ある意味、わたしたちはいつも自分自身の存在と 闘っているんじゃないでしょうか??? これからどうするのか。 どっちを選択するのか。 最後は常に自分に問うているのと同じだからです。 党にその《選択を強いられている》、 ウィンストンはついに “あの本” を手に入れます。
その本は、彼を魅了した。 いや、正確に言えば、彼を安心させた。 ある意味では、何ら新しいことを教えられるわけ ではないのだが、しかしそれも惹きつけられた 一因だった。 その本は、もしバラバラの思考を 自分できちんと秩序立てることができるなら、 自分の言いたかったことを行ってくれているのだ。 これは自分と同じような精神、しかもはるかに 強靭であり、ずっと論理的で、恐怖に怯えてなど いない精神が生み出したものなのだ。 最上の書物とは、読者のすでに知っていることを 教えてくれるものなのだ、と彼は悟った。
もしかしたらこれは “本当” かもしれない。 そう思いました。 感動が巻き起こるとき。 それは、知らなかったことがわかったとき。 そう思ってた… でも、よくよくその “知らなかったこと” を考えたら 実は “知っていた” ことだと気付いたりしませんか? これには驚きました 人間の想像力は偉大で、考えたことがあるからです! わたしはダンスでその “みんなが知っていること” を 掘り起こそうとしているだけなのかもしれません!! 知っているのに忘れている、大事なこと。 そしてウィンストンは捕まってしまいます。
「君自身こうなると分かっていたのだよ」 オブライエンは言った。 「自分を誤魔化してはいけない。 君には分かっていた― ずっと前から分かっていた」 彼はいま悟った、そうなのだ、 前から分かっていたのだ、と。 しかしそれについて考える余裕はなかった。 目が向くのは看守が手にしている棍棒だけ。 どこに打ち下ろされるか分かったものではない。 脳天か、耳の先か、二の腕か、肘か… 肘だった!彼は崩れ落ちるように脚を屈していた。 感覚がほとんど麻痺し、打たれた肘をもう一方の 手で押さえた。 何もかもが爆発して黄色い光になった。 想像できない、想像を絶することだった、 たったの一撃でこれほどの苦痛を感じるとは! 光が消えて、自分を見下ろしている二人の男の姿 が目に映った。 絶対に、どんな理由があろうと、 苦痛が増すことなど望むべくもない。 苦痛について望みうることは一つだけ。 それが止むこと。 肉体の苦痛ほど悪いものはこの世にない。 苦痛を前にしたら、英雄もへったくれもあるものか 床の上で身悶えし、使えなくなった左腕を空しく 抱えようとしながら、繰り返し彼はそう思った。
腕や脚が動かなくなったら― これはもう、そうなってみないとわかりません。 気が付いたら病室にいた、そのときわかること… 苦痛は心を蝕みます。 それも尋常じゃあない わたし自身、何度涙を流したか知れません さあ物語の核心に迫りましょう!! ウィンストンはおそろしい拷問を受け続けました― そんな中でウィンストンは答えを考えるのです。
党は利己的な目的で権力を追求しているのではなく 大多数の利益のためである。 党が権力を追求する のは、人間が全体として意志薄弱で臆病な生物であ って、自由に耐えることも真実と向かい合うことも できないから、自分よりも強い他者によって支配さ れ組織的に瞞着されなければならないためである。 人類は自由と幸福という二つの選択肢を持っている が、その大多数にとっては幸福の方が望ましい。 党は弱者にとって永遠の守護者であり、他者の幸福 のために自らの幸福を犠牲にしてまで、善を招き寄 せようと悪を行う献身的な集団なのだ。 このよう にオブライエンの発言を先取りしたウィンストンが 恐ろしく思うのは、自分がこうした主張を信じてし まいそうなことだった。 相手の顔にそう書いてあ るのが分かる。 世界が現実にどのような状態にあ るか、大多数の人間がどれほど堕落した生活を送っ ているか、党がどのような嘘と残虐行為によって彼 らをそうした状況に閉じ込めているか、オブライエ ンはウィンストンの千倍も熟知している。 彼はそ れをすべて理解してしまい、すべて計算してしまっ た上で、そんなことは問題ではない、究極の目的に よってすべては正当化される、というのだ。 ウィンストンは思う― 自分よりも高度の知性を持った狂人に対して何が言 えるというのだ? こちらの言い分に十分耳を傾けながらも、自らの狂 気じみた主張をやみくもに押し通す人間に対して?
これは、生きていれば必ず出くわすんじゃないかな… そんな人がこの世にはわんさかいます。 わたしたちでさえ、そうなり得る人間の一人です。 わたし自身もウィンストンのようにギリギリまで なんとかしようとしましたが、 それでもダメだったケースがありました。。 狂人だと思った人さえいます。 わたしたちがすべきことは、 あやまちから学んで成長することです! その原因を決してそのままにしないことです!!
次第に眠っている時間が短くなってきたものの、 ベッドから出たいという気持ちにはまだならな かった。 頭にあるのは、静かに横になってい ると身体に力の溜まってくるのが感じられると いうことだけ。 何度も指で身体をあちこち触 っては、筋肉が徐々に盛り上がり、皮膚に張り が戻ってきているのは幻覚でないことを確かめ ようとした。 ついには、体力の回復している ことに何ら疑いの余地がなくなった。 腿はは っきり膝よりも太くなった。 それからは、最 初は気乗りがしなかたものの、規則的に運動を 始めた。 少し経つと、監房内を歩き回る歩数 で計って、三キロほどを歩けるようになり、前 屈みになっていた肩も元のようにまっすぐにな ってきた。 だが、さらに難しい運動を試みよ うとしたところ、できないことが多すぎて驚き また屈辱を覚えた。 歩くのはいいのだが、走 ろうとするとそれは無理。 腕を伸ばしたまま 椅子を持つこともできない。 片足で立とうと すると倒れてしまう。 深くしゃがんで立ち上 がろうとすると、必ず腿とふくらはぎに激痛が 走る。 腹這いからの腕立て伏せを試みたが、 まったく話にならず、身体が一センチも上がら ない。 それでもさらに数日経つと― 何回かの食事を終えた後で、ということだが― そんな芸当も何とかできるようになった。 そのうち六回も続けてやれるまでになった。
その文章は、正直、リハビリを続けるわたしにとって とんでもないリアルでした 術後、太ももが膝よりも細くなってしまったんです 試みてダメだったときのあの気持ちがよぎった。。
その後、ウィンストンがどうなったのか… ここでは語りますまい。 この小説は1949年に発表されたものですが、 今読んでも全然堪えます。 1984年の未来を描いた小説は、 2015年の今を軽く凌いでいます! そう考えたら物凄い小説ですッッ ここでもう一度記述して終わりにしましょう☆
党が権力を追求するのは、人間が全体として 意思薄弱で臆病な生物であって、 自由に耐えることも真実と向かい合うことも できないから、 自分よりも強い他者によって支配され、 組織的に瞞着されなければならないためである。 人類は自由と幸福という 二つの選択肢を持っているが、 その大多数にとっては幸福の方が望ましい。 党は弱者にとって永遠の守護者であり、 他者の幸福のために自らの幸福を犠牲にしてまで、 善を招き寄せようと悪を行う献身的な集団なのだ。
世界が現実にどのような状態にあるか、大多数の 人間がどれほど堕落した生活を送っているか、 党がどのような嘘と残虐行為によって 彼らをそうした状況に閉じ込めているか。
幸福って何なのでしょうか。。 自由と引き換えにして得るものなんでしょうか?? わたしは自由に踊る勇気を持ちたい そして自由に耐えて真実と向き合いながら ダンスの中に、幸福を見出だしたい!!
台湾で歴史的大ヒット感動巨編、日本凱旋上陸! 甲子園に台湾代表が出場したことを知っていますか?
『KANO』〜1931 海の向こうの甲子園〜 僕らは、あの日、同じ夢を追いかけ、 一球たりとも、あきらめなかった。
海を越え、民族を超えて、僕らは同じ夢を見た。 1931年。甲子園、台湾代表。 日本中を感動で包み込んだ伝説の試合へ―
まさか甲子園に台湾代表が出場していたとか… ぜんっぜん知りませんでした!! 日本統治時代の台湾から甲子園に出場し、 決勝まで勝ち進んだ伝説のチーム。 嘉義農林学校野球部《KANO》。 それまで1勝もしたことがなかった弱小チーム。 大人たちや他校の嘲笑をよそに予選で快進撃。 そこにはかつて名門・松山商業を監督として率いた 近藤兵太郎の特訓があった― 守備に長けた日本人、打撃力ある台湾人、 俊足の台湾原住民。 それぞれの強みを生かし、分け隔てない指導のもと ついに甲子園の切符を手に入れる―
「男なら堂々としなさい」
「勝つためには当然のこと」
「勝ちたいと思うな、負けられないと思え!! お前たちには無限の力があるんだ」
「野球は呼吸だ!! 呼吸を合わせるんだ。 忘れるなッッ」
台湾からまだ見ぬ甲子園へ。 そして決勝戦― これは、実話をもとにつくられた映画です! 本物の甲子園での撮影じゃなかったけれど、 その熱意は伝わりました!! 感動した 野球ってすごい。 甲子園って物凄い《引力》だと思う。 この映画が見れてほんとうによかった
泣きまくったな…
台湾。台湾といえば忘れもしない。 留学していたとき、台湾の女の子と仲良くなって、 帰国した後、台湾から手紙が届きました。 返事を書こうとしたときに、まさかの台湾大震災。。
結局、手紙を出すことができませんでした
いつ何が起こるか、ほんとうにわからない世界。 天災や事故、そして病気。 だからこそ一生懸命に生きて、今を大事にしたい 何かに情熱を傾けられること。 仲間がいること。 それはかけがえのない時間をしあわせに変える 魔法なんじゃないか、そうおもいます
| 2015年01月28日(水) |
何度でも生まれ変わる |
今日は、診察b… 誕生日ッッ☆ そんな日に朝9時〜16時まで病院にいるリアルw
【MRI → 診察 → リハビリ → 自主地味トレ】
◎最高の誕生日にしようとして、かるく7時間◎ 2015年。最長の院内密度です☆ こんなのは入院していたとき以来w
あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない あり得るッッ
自分が自分自身だからこそ《あり得る》 今の自分には “これしかない” からです! ある意味で《最高の最低の日》かもしれません。 ですが、きっと… きっと!! 今日という日が明日を支えてくれるはずッッ
だけど… その “支え” なんてものは 行き着くところまで その気持ちと、そのカラダの 行けるところまで、行かなけりゃ “支え” になりもしない。 もう知っています
気を抜いた瞬間、ネガティブにのまれるリハビリ。 特に今日という日は猛烈に襲ってきた―
踊れなければ死んでるも同じ
こうしている間にも世界から忘れ去られていく事実 それでもわたしは “生きています” !! くやしい。 今が腹立たしくてたまらなくなる。。 《ここにいるって大声で叫びたい》 そんな気持ちでした いつもいつだってそう思っているのかもしれません そして、《生きてる》より《輝いていたい》 どうやったら《今の自分》が輝いていられるのか これがわたしの土台なんでしょう その上でないと、やりたいことにたどりつけない
自分だけじゃなく、人と 生きている輝き「今」を分かち合いたい
自分一人じゃ、もう一息の力が出せません 人がいる、人といるから 力が湧いてくるんです わたしは人が大好きです どんな人も 好きでも嫌いでも。
だって、“生きているんだもの”
そんな自分が疎ましく思われることも知っています それでも向き合いたい ひとりひとりの “ほんとう” がしりたい そのためには「今」を超えていかなくちゃ。 今の自分の力を超えて、もっと自分自身にしたい!
弱者のままでは人と向き合えない
同情の目で見られるわけにはいきません ダンスは《ダンス》だからです ダンスはその人そのもの。
ダンスは “自分” というよりも “見ている人” の鏡にならなければ!!
だからこそ、何よりもまずは自分自身。 全力の自分が引き出せなきゃ、なにも始まらない。 今というときはとてもつらい場所にいるんだと あらためて自覚する誕生日でした―
そんな中で、わたしは進化を遂げます!! どんなに悩んでいても現実は《順調》w これこそは、毎日の努力の成果ッッ^^ 【DONJOY装具 卒業】 Dr.からようやく許可がでました!! 来月からはついに脱ガンダム装具。 金属装具から、軟性装具にCHANGEッッ☆ (※デニムがギリギリはける!) もうガンダムは卒業だ!! 笑笑
◎毎日は、あたらしい誕生日です◎
| 2015年01月25日(日) |
「Adventure of Little Pirates」 |
〜Website制作委員会より〜 当blogがついに80000hitsを記録ッッ☆ これも一重にみなさまのおかげです!! この数字を励みとして、より一層、 過去を現在に近づけていきますッッ(涙)
南さんから赤紙が届きました。 中にはチケットとメッセージが入っていた。 「来ないと知らないわよ」 その一言に背筋がゾッとした― 笑笑
AOKI TAP DANCING PRESENTS 『Adventure of Little Pirates』
過去、自分もAOKI先生のもとでTAP踏んでました。 そんなわたしは会場に松葉杖持参。 ほとほと不甲斐ない自分に嫌気がさします… 舞台を見に行くと踊れない自分が苦しくてたまらない
何やってんだ、って
かつて、同じ舞台に立った先輩たち。 その中でも わたしが大ファンの、 そして大先輩でもある南さんと奥さんが登場。 この二人のTAPにはいつも感動が押し寄せます。
二人が舞台にいるだけで満足してしまう
その明るさとその笑顔がたまらなイイんですッッ 見てるだけで、どうしても微笑んでしまいます!!
《ダンス》というよりも《二人の情熱》だと思う
見ているうちに満ち満ちてくる気持ち。 ダンスを踊るって、、なんて素晴らしいんだろう 踊りが上手いとか下手だとか、そんなんじゃない!
“踊るということ自体に何かがある”
二人はいつもそんな秘密を教えてくださいます 赤紙に感謝w そんな舞台は宝を探しに男の子海賊3人が大活躍。 宝の地図にしたがって進むと… なんと現代のこの劇場にしるしがされていた― そして度肝を抜くその宝の中身ッッ
【本公演の告知フライヤー(大量)】
敵にも味方にも、3人は配給しまくります!! ま…マジで!? 気が付いたら、宝を狙っていた全登場人物が、 いきなり仲良しになっていた―
そ、そんなバカな!!
さっきまでコロ…しあってまではないけれどw 対立していた敵ともいきなりわかりあえるんです☆ いいね!いいね!いいね!いいね!いいね!いいね! 現実もこうだったら一体どんな世界なんでしょうか。
ありえないありえないありえないありえない 舞台では… ありえる!!!
これこそ、これこそが舞台の力なんですw わたしはあらためてその力を思い知りました。 こんなミラクルがあるから舞台は面白い☆
◎南さん、ありがとう!まだまだ踊って下さいね◎
| 2015年01月24日(土) |
「APPLESEED α」 |
アップルシードの起源がここに―
『APPLESEED α』 伝説の “種” が、いま芽吹く
世界大戦後、国家や情報網が破壊し尽くされ、 廃墟となったニューヨーク。 元SWATのデュナンと彼女の恋人で全身サイボーグの ブリアレオスは不本意ながらギャングから依頼された 仕事をこなして日々の糧を得ていた。 街を出たいと思いながらも叶えられない日々が続く中 自動兵器に襲われている男女を助けた二人。 アイリスとオルソンと名乗る人物との出会いは やがて、人類の希望を守るための戦いへと 二人の運命を導いていく―
「あなたが教えてくれたのよ… 生きる意味と、そして希望を!!」
「この世界を受け入れるか、希望のために戦うか」
力が湧くのはいつだって現状を打破しようとする意思 意思の力がわたしたちのカラダを運んでくれる。
脚が痛いなら、松葉杖があるじゃない!!
わたしは《自動平気》に襲われてるんでしょうねw たどり着いた映画館。観客4人。 またかよ〜〜笑笑 さぁ特に語る内容はありません!!(爆) 『アバター』『タイタニック』の ジェームズ・キャメロン監督は言った。 「もはや新次元の領域だ」 たしかに映像はすごかった。 じゃあ映像が新次元なら即ち映画は面白いの? 否!
◎心が揺れる感動は更に別次元です◎
しかし、その技術が未来を変えていくのでしょう。 そういうわけで一息に台詞の紹介で完結させますw
「可能性がゼロに近くても、 やらなきゃいけないことがある!!」
最後に、本編中のギャングボス:双角について。 この双角がほんとうに憎めない奴でw 最初はデュナンとブリアレオスをこきつかって いたんですが、いつの間にか二人と共闘。 遂には人類の未来を救ってしまいますw 最後まで死なない悪役。 久しぶりに見たよ 笑笑
双角がいなかったら人類は死滅したね
俺は思った。 双角を主人公にしてもいいじゃない! チョイ悪が漠然と状況に巻き込まれて救世主☆ そのエンドロールに燦然と輝く《文化庁》ロゴッッ 映像には血税が支払われていたんですw もしよかったら、次は感動にしてください。 おねがいしますッッ
| 2015年01月23日(金) |
いち、に、サイベックス |
【CYBEX 第一回戦】 ついにこの日が来た。 1月23日。 いち に さ… つい叫んでしまった―
「いち、に、サイベックス!!」(爆)
今日という日は、定められし “運命” に違いない! その日付の、あまりの韻の響きに。 あまりにも日が揃いすぎてて必然を感じましたw 初筋力測定、初マシン測定、初Cybexデス☆ この日のためにこれまでの日々を費やしてきたんだ!
ここで左脚力の数値がどれだけ出せるか
わたしのリハビリ担当PTマッキー&PTソーム君が、 その数値結果を鑑みて、患者の努力を推し量る日。 そしてDr.への提出に至ります。 つまり…
これまでのわたしの努力が裁かれる日
〜努力が数値として現れる〜 なんとおそろしい日でしょうか。。 数値。数値です!! 結果が数値で出てしまう― 術後、CPMの数値にどれだけ悩まされてきたか。。 あの日々がロングバージョンで帰ってきた!! 今日でちょうど術後150日。 この5ヶ月で一体どのくらいの力が出るのか…
こればかりは やってみなくちゃわからない
◎わたしはこの病院でCybexを知りました◎ 初めて知ったのは6年前のあのときになります。 右肩。 あのときは肩でした リハビリ室の中にある特殊なイス。 マシンに拘束された患者が、PTの大声を浴びながら 必死の形相で膝の曲げ伸ばしをしていた― まさか自分がそれをやらなければならなくなるとは 今でさえ、ほんとうに信じられません!!
「蹴る!曲げる!蹴る!曲げる!蹴る!曲げる! 曲げる!蹴る!曲げる!蹴る!曲げる!蹴る! 蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って 曲げる曲げる曲げる曲げる曲げる曲げる曲げる まだまだぁああぁああああぁああぁぁあぁ!! うるぁあああぁぁあああぁあああぁあああ!!」
患者に向かっていきなり叫び声を張り上げるPT。 それは、《患者に本気を出させるため》 手抜きをさせないためです!! そうしないとその数値は何の役にも立たないw わたしも例に漏れず怒号を浴びました―
まるで罵声を浴びせられてる気分ですッッ
そして結果がプリントアウトされてきた。 マッキーは笑顔でわたしに裁きを言い渡します。
「打ち首」
嘘ですw ほんとうはこっち(爆)
「見事な放物線ですね〜!! 放物線、出ない人もいますから♪」
おお!確かになかなか美しいねw このほうぶつせ― じゃないッッッ ちょッと待ていっっっ それフォローなの?? フォローになってるの?? 右脚と左脚の数値の差は―?? それはおそるべき結果でした… な、なんてこった
トルクパラメータ 右側 171 左側 107
今明かされる衝撃の現状。 こんなに違うのか… 落ち込んだ 落ち込まないわけがない
全治半年じゃないの!?
こんな数値、全くよろこべない。無理。 ソーム君もその結果にさらりとこう言った。 「こんなもんじゃないですか〜♪」 マッキーもソーム君もこれまでいろんな患者を診て きているはず。 そこからの発言なら… ほんとうは、よろこんだっていいくらいです! だけど… 自分自身が一番わかってる
“ぜんぜん蹴れてない”
よろこべやしないよ… この《蹴る動作》は今日初めてやらされたことです。 その未知の動作に、恐怖感が伴わないわけがない。 そしてマッキーは続けました。
「毎日地味トレしててこれくらい、っていう まるで教科書みたいな模範生ですよ☆ みんながんばりましょう! みたいなッッ」
えっと… それって何気に褒めてるんだよね?? なんたって、わたしは首席患者です。 毎日欠かさず一生懸命リハビリしている人間です。 こんなつまらない人間でも何らかの役に立ちたい。 今の自分には、頑張る姿しかない。 それを誰かが受け取ってくれると信じています!!
こんな数値でお手本になってたまるか
1月21日の早朝、父が倒れ救急車で運ばれました さいわい 命に別状はありませんでしたが、 父はしばらくの間 入院することに…
こころ、心が揺れすぎて
自分がしなければいけないこと すべきこと 自分のことに集中しすぎていたのかな
いろんなことがわからなくなりました
| 2015年01月20日(火) |
「アゲイン 28年目の甲子園」 |
直球勝負してみないか。人生に。
『アゲイン 〜28年目の甲子園〜』 あの日の自分は、大切な君は、 見ていてくれるだろうか。
元高校球児、坂町晴彦(中井貴一)46歳。 あの白球を追った日々は遠い昔。 もはや仕事に張りはなく、離婚した妻が亡くなって 以来、一人娘の沙奈美とも絶縁状態。 そんなある日、坂町のもとに元チームメイト松川典夫 の娘・美枝(波留)が訪ねてくる。 坂町は彼女から、長年音信不通だった松川が去年の 震災で死んだことを知らされる。 彼女は別居していた父親の遺品の中に、坂町や 元ピッチャーの高橋(柳葉敏郎)ら、チームメイト 全員に宛てた27年分の年賀状の束を見つけ、 なぜ毎年書きながらも出さずにいたのか、 知りたいと願っていた。 元高校球児が再び甲子園を目指す 《マスターズ甲子園》のスタッフとして働く美枝は、 坂町に大会への参加を持ち掛ける。 予測がつかないことは敬遠する、いわゆるサビついた オヤジである坂町は「今さら」と断ったが、 本当の理由は別にあった。 坂町達が甲子園に行けなかった原因は、 美枝の父にあったのだ。 28年前のある事件。 それは美枝だけには話したくなかった。 父親の思い出を追い求める美枝と接するうちに坂町は 娘・沙奈美とちゃんと向き合うことをせず、 ずっと逃げてきたことに気付く。 そして現実と折り合いをつけ、思い出を上手に 諦めることで、自分自身を騙してきたことにも。 「あの夏」に決着をつけなければ前へは進めない。 坂町は人生のグラウンドへ走り出す― 28年間しまいこまれた一つの真実。 「あの夏」を越えて今、夢の続きが始まる
映画館。 観客は、わたし以外 おじさん一匹 おばさん二体。 って… たったの四人かよ―(爆) まあ、そういう時間帯選んだのはたしかだけどw さあできるなら、できることなら、剛球させてくれ爆 中井貴一演じる坂町は初対面の美枝に言った。
「俺たちの甲子園はそんなもんじゃないの! 遊びで甲子園行ってどうするよ??」
たしかにそうかもしれない。 高校生、あの時の情熱はあの時しかないものです。 わたしが通院する病院には、 プロ野球選手はもちろん野球人が常にいます。 入院していたとき、某野球有名校の高校球児と話して いてこんな話になったのを憶えています。
「もう僕は3年生になるので、状況を判断して 試合に出るかどうか決めなきゃいけない。 これから先のことを考えて、 もし出ないことになれば即引退です」
この切実さに心打たれない者はいないと思います。 その子は腰ヘルニアに悩まされていました。 高校生が目指す《甲子園》がどんなものなのか。 それは、その子のフィジカルを見れば一目でわかる。 大人顔負けですよ? 俺は負けないけどッッ ただし、方向性が違う!! 笑笑
意志力はカラダに現れる
高校野球地方大会決勝戦前夜。 チームは戦うこともできずに夢を断たれてしまった。 それからの人生を左右しかねない事件。 この映画でもあの台詞が聞けました―
「進むときは、ちゃんと負けて進めよ!!」
人生でたいせつなのは “ちゃんと負けること” 。 これには “全力で挑む” 姿勢が大前提ですッッ 悔いを残さない生き方は、 いつでも前を向かせてくれるものなんじゃないか
逃げないこと、立ち向かうことが、 どれだけ人を育てるかしれません
病気や障害をはじめ、自分の置かれた状況。 これに苦しんだところで何も、何も打開できません。 だから、できることをかんがえる。 期待しない生き方を選ぶ人もあるかもしれません。 しかし、わたしは人生に、 もっと期待していいんじゃないかとおもっています。 だって期待したほうがたのしいんだものねw でもそれには自分ができることを先ずしなくては!!
もう少しよくなれば もうちょっとできるようになったら
今では呪いのようにもおもえている「もうちょっと」 この “もうちょっと” がどれほどつらいか。 なんとかここにたのしみを見出だしていきたい。
【マスターズ甲子園】 地区大会は4回以降、本大会は3回以降、35歳以上の メンバーだけで戦わなければならない。 ピッチャーは最初から30歳以上で1人2イニング以内と 決められている。 試合は1時間30分の時間制。 時間内に全員の夢を叶えるためには すべての選手を 交代させながら勝利を目指さなくてはならない。
マスターズ甲子園は、究極の全員野球
あらためて《野球》の引力を見た気がします。 《野球》ってすごい!!
「コントロールよりコレステロールが気になるもん」 「一球人魂」
当時のマネージャーから明かされる驚愕の真実。
「全力で送りバント。 最後までそんな生き方をしてたんじゃないかって」
「絶対勝つぞ!!」
うわ、これ涙がボタボタだ… できすぎ感はすごいけど、泣いてしまった 全力で送りバント。 それもまた最高の人生かもしれません! わたしは病院に通い出した6年前、 病院で出会った野球人たちがいなかったら、 これほど野球を身近に感じなかったんじゃないかな。
年齢を重ねればこそ、とりもどせる夢もある。 そんな希望を感じさせてくれた映画でした!!
さあ今回は台詞の発表はありませんッッ(爆) この映画の一番はなんと台詞じゃなくて一場面です!
甲子園球場での父と娘のキャッチボール
そのキャッチボールは “ダンス” だとおもった 言葉をかるく超えてたもんw
この二日。 これまでで一番曲がらない!! おしりにはつく。 つくがッッ
悶絶感が尋常じゃない!!
マッキー施術中、わたしの爆笑がこだました― リハビリ室に響く、やむを得ない限度絶叫。 〜その爆笑は喜んでるんじゃない〜 白目、白目なんです、目が裏返っていくんです!! そんな中、マッキーは冷静に言った。
「センター試験。 緊張感があれば最後まで集中できるそうです! 結果が出るんですよ〜」
えーっと… 「膝のパフォーマンスには集中関係ないじゃんw むしろ気を逸らせたほうが曲がるよね??」
「そうですね 笑笑」
っておいおいおいおいヲイ〜〜〜〜 何だその比喩わああああああぁぁあああぁあああああ もしやマッキーともあろう者が、 痛がってる俺に気を遣ってくれたとでもいうのか!? 正直、ほとんど気を遣ってもらったことないもんなw
気を遣うのにきっと慣れてないんだろう(爆)
◎さて、ここで限度爆笑について検証してみます◎ 症状:痛みの度が過ぎると自動的に爆笑に至る 術後のわたしに悶絶爆笑が途絶えたことはありません しかし、室長施術のときに気付かされたこと。
この世には悶絶爆笑を超える施術がある
あのときはもはや《激痛》でした。 動かされるのに歯をくいしばって耐えるしかできない 冷や汗が止まらない時間です じゃあ…爆笑の正体とは、一体何なの?? いよいよ秘密に迫ろう!! 明日にも手が届こう!!
痛みの度が過ぎると笑いが出る 痛みの度合いが行き過ぎると声も出ない
つまり、爆笑ってのは限界の手前☆ 爆笑してるあたりは《まだ余裕がある》 これはたった今考えたことじゃありません。 悶絶中にいつも考えていたことです(超実話)
爆笑って《若さ》なんじゃないか??
わたしは年齢ではなく若さに焦点を当てました― たまたまマッキー&ソーム君が休みのとき、 oき先生に爆笑のことを尋ねてみた。 oき先生はまるで新幹線のような速さで歩きます! 《歩く新幹線》ですねw
「まずお年寄りの方にはそんな施術しませんよね」
そっかw なるほどッッ そりゃそうだ!!(爆) 〜厳しくいける人にしかやっていなかった〜 じゃあ、わたしの見解はあながち間違っていない!!
わたしは確信した 爆笑=若さ、だと。
そしてその瞬間に思った。
おじいさんになっても、 リハビリ室に爆笑を響かせる男でいたい
理学療法士に “この人なら大丈夫だろう” って、 いつまでもそんな人間でいたい。
いつも可能性に向かって生きていたい
『花子とアン』スピンオフドラマ見ました!
『朝市の嫁さん』 花子とアンが遺伝 外伝です…
そのラスト。 はじめて花子が白蓮を超えたと思った― 本編では白蓮の生き様が鮮烈すぎて、 花子の未来なんかぜんぜん憂えてませんでしたw 花子を主人公として見れたのは、 白蓮が登場しなくなってからです(爆) 花子。 この外伝では、 本編の収録が終わって感極まっていたんでしょう。
『花子とアン』自体に感謝がこもっていた―
これが “演技” を超えた秘密だと直感した 《演者の気持ちが溢れて、漏れ出すこと》 さて、今回はそんな花子の話じゃありません。 正直言うと花子なんてどうでもいい。 花子の幼馴染・木場朝市の、その行く末です!! 朝市ほどの男、そうそう現実にはいやしないw
花子のしあわせを誰よりも願った男です
そんな朝市のしあわせが放送されたんですよッッ 婚約相手・堀部ちづ江が朝市の母に、 「朝市は花ちゃんが好きだった」と聞いてしまい、 朝市に隠れてコソドロのように上京。 花子と会う 朝市に不安と疑いをもったちづ江。 その行動は完全にストーカーでしたw 花子の家も知らないのに調査に乗り出します!! おそろしく純真w 等身大のかわいさ加減です こんな女の子がいたら一瞬で恋に落ちるな… 早速、朝市サイコーの台詞言っときましょう!
「一生懸命やって勝つことの次に良いことは、 一生懸命やって負けることだ」
人のしあわせを祈って生きることはとても、 とても素晴らしいことだと、そう思わせてくれました たとえ自分がしあわせになれなくても、 人のしあわせを本物のしあわせにできたら、 どんなにしあわせでしょうか そんな朝市に、しあわせがおとずれたんです
朝市は今のわたしを救ってくれました
ついこないだ読んだマンガに、それが極端に 台詞化されたものを発見! それも載せときますね☆
「てめーらの乗るこのロボットは 一戦闘駆動するかわりに、操縦者の命を奪う。 てめーらは命とひきかえに 絶大な力を自由にできて、仲間を救えるんだ。 うれしいだろ?
とんでもない上から台詞でしたね 笑笑 ここにうれしさを見出だすには自発的でなければ。 なんたって、操縦したら絶対に死んでしまいます! 最初は興味本位だけで操縦した友だちの死。 それを見て、選ばれた少年少女は考えた。 “死にたくない” “なんで自分が” そんなこといくら悩んでも敵は現れます。 少年少女でさえ、行き着く先はひとつ。
死ねる理由です
その理由は子どもたちそれぞれでした。 死んでもいいと思えるほどの理由。
“誰かのため” なんて簡単に言えちゃいますが、 実のところは自分自身の奥底を覗く作業です。 最後には《自分を納得させる》理由だからです
だから、考えれば考えるほど気分わるくなる。 自分でさえ触れたくない、見たくない部分を 通らないわけにはいかないからです。
朝市も “花子のしあわせ” を祈るまでの葛藤は 堪え難いものだったんじゃないのか?? 明るさの裏側にはとんでもない深淵があるんです!
人のしあわせを祈るって、ものすごいことです けっして浅はかには言えないことなんじゃないかな
さっきの台詞も言い換えてしまえばこうなります。 《絶大な力》にできるもできないも自分次第でしょう
「てめーらは、生まれたからには死ぬ。 人生を歩めるかわりに、苦痛をも味わう。 てめーらは命とひきかえに 絶大な力を自由にできて、この世界で遊べるんだ うれしいだろ?
もう… 見るの何回目かいな(遠い目) もう… しわけありませんが独断と偏見いきます☆
『オペラ座の怪人』 ミュージカルクリエーション版
Dancing課長ならぬファントム課長です。 さすがに秋t… いいや、どうなる今回はッッ わたしは理解します。
大作ミュージカルは歌唱力なしには遊べない
そもそもファントムこそは徹底的に嘘くさい話です。 歌が客席に押し寄せてくるものでないと、 演技がすべて目障りにしか見えてきません!! そんな中、特筆すべきはマダム・ジリー☆ 彼女の演技はよかった。 真に迫るものを見出せました! Story上でもその役をまっとうした一人でしょう。 彼女がいなければファントム課長以外、 オペラ座が見えてこなかったようにおもえますッッ さあ、ファントム課長。
◎これまでのファントム課長史上最高◎
鬼気迫る演技からの歌唱は明らかに突出しており、 その他の者がまるで素人にしか見えません。
本気を感じない 格差がありすぎる
なんたってDancing課長は没入の天才です。 本番のなりきりモードと気迫は半端じゃない。 半端じゃないからこそ、 まわりの追いついてなさが癇に障ってしまいます
見ようによっちゃピエロ課長だ
あの人だけ何で本気なの??みたいな(爆) これは客席で圧倒的に感じたことです。 まず “おかしいな” と直感したのはクリスティーヌ。
ファントムと全然目を合わせようとしない
明らかに変でした… あれでは “愛” なんか全く見えてきやしません。 いや、最初からなかったのかもしれん。。 一体何があったんだクリスティーーーーヌ!? これまでちゃんと向き合って演じてたじゃない!! 客席ばかり向いてたらまるっきり嘘みたいですッッ
ラウルジョー子爵。 ファントム課長がこれまでにないほどの名演で、 今回の軽い男さ加減が裏目に出て相当なズレを現出。 ファントムと子爵のバランスはオペラ座のキモ。 その程度が極端すぎて客席は「おや?」ってなってた たいへん残念です
個々の演技がまとまらないと 大作ミュージカルでは致命傷
このオペラ座ではファントム課長は浮いたはずです。 力がありすぎて浮きに浮いていたはずなんです。 しかしオペラ座にはそれくらいの力がいるのでしょう 事実、客席は落ち着いていたからです これは一重にファントム課長の力だとおもいます。 わたしはその秘密を暴こうと全力を投じました― そして、見つけたぞ こんにゃろうッッ!! 今回のファントム課長の演技には、 妙なものが混じっている― いつもならその役を全力で “つくってくる” 課長です。
今回は確実に《自分》が漏れ出していた
何か理由があったんでしょうね。。 かつてこんなDancing課長を見たことがありません。
いつだって《偽装》しているのが《フツー》の男です
奇しくも 自分が漏れていることで、演技を超えた。 伊達に長年Dancing課長にダメ出ししてきてませんw わたしは課長におそろしく《リアル》を感じました!
嘘が嘘になってないんです
感動した
今までの課長の殻を破った瞬間じゃないのか!? もしかしたら凄いものを見たのかもしれん。。 まぁ次にも出来るかどうかは知りませんがw せいぜい頑張ってほしいですね☆
生きるべきか 死ぬべきか それが問題だ―
『ハムレット』 なるようになればよい
物語の舞台は中世デンマーク。 ハムレットは王である父の急死で、 留学先から呼び戻される。 王位に就いたのは亡き父の弟クローディアス。 母は叔父を結婚相手に選んだのだ。 ある晩、父の亡霊が現れ、 「自分を殺したのはクローディアスだ」と告げる。 ハムレットは叔父への復讐を誓うが、 なかなか実行に移すことができない… そんなハムレットに翻弄される恋人オフィーリア。 やがて彼女は狂気に堕ちてゆく… また、ハムレットの復讐心に気付いた、 クローディアスはその命を狙うようになる。 〜復讐が遅れるほどに悲劇は拡大していくのだった〜
さて年末は『ハムレット』でした。 去年のことだし、見なかったふり…できん!! 舞台人なら、できるわけがないッッ(爆) あらためて番組を復讐w 一気見してきました―
さて、まず第一回で明らかになる原作ハムレット像。 今回はT大の先生が親身におしえてくれましたw
ハムレットは太っていた そして優柔不断ではなかった
わたしたちが思い描くハムレットは、 18〜19世紀のロマン派の作家たちによってでっち… 作り上げられたものらしい。 原文のハムレットは太っててヒゲまで生やしていた。 シェイクスピアの時代では、 太っている者がイケメ… 理想とされていた― 貧しい人は痩せており、 太っていること自体がステータスだったのである。 痩せているのは軽蔑対象になるほどです。
中世に生まれてなくてほんとうによかった
中世は宗教が大きな力を持つ時代。 人は神と悪魔の間にいた熱情の時代 近代は “我思う 故に我あり” 神の存在を前提としないで、考えるという理性の時代 神がいなくても自分だけで人間は存在できる、と いうのが近代的な《自我》。 つまりハムレットは近代的な人間の先駆けらしい!!
【人間の価値観の転換期における芝居】
なんと第五幕に入ると父の亡霊は一切出てきませんw それを見ても、 《亡霊の命令を実行するというお芝居》ではなくて、 《人間としてどう生きるべきか》ということを 題材とした芝居だということが見えてきます、と。
価値観が激動する時代。 時代の中で自分の生き方を探ってかなきゃいけない。 そうなるとハムレットという作品は、 単なる優柔不断な性格の男の物語ではなくて、 誰にでも当てはまる、理性と熱情の状況に落ち込んで 動けなくなった男の話だと解釈できると思うんですね
【すべての人間に共通する悩みを芝居にしていた】
番組では例の台詞が語られました。 わたしもその冒頭部しか知らなかった。
「生きるべきか 死ぬべきか それが問題だ」
これだけを見ると生死に焦点がありますが、 実はこの台詞の先に本物の焦点があったんです―
「生きるべきか 死ぬべきか それが問題だ。 どちらが気高い心にふさわしいのか。 非道な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶか、 それとも 怒濤の苦難に斬りかかり、 戦って相果てるか。 死ぬことは眠ること、それだけだ。 眠りによって、心の痛みも、 肉体が抱える数限りない苦しみも終わりを告げる それこそ願ってもない最上の結末だ。 死ぬ、眠る。 眠る、おそらくは夢を見る そう、そこでひっかかる。 一体、死という眠りの中でどんな夢を見るのか? ようやく人生のしがらみを振り切ったというのに だから、ためらう」
これには度肝を抜かれました!! 生きるべきか 死ぬべきか。 その最も大事な部分は… 《より気高い生き方はどちらか》なんです☆ 「生きる」「死ぬ」が問題じゃないんですよッッ
◎理想的な生き方とは何か◎
わたしはこれから『ハムレット』の話が出たら、 この台詞でいこうと思います。
「尼寺へ行け」
弱き者、汝の名は女。 さて最終回には狂言師 野村萬斎氏が登場。 彼はシェイクスピア演劇的哲学を語ってくれました!
「芝居は世の中を映し出す鏡である」
これはもうシェイクスピアに限らず、 演劇や芸術の基本なのではないでしょうか??
「演技を言葉に合わせ、 言葉を演技に合わせるのだ 特に厳守してもらいたいのは、 《自然の節度を超えないこと》 何事もやりすぎは芝居の目的に反する 芝居の目的とは 昔も今も いわば 自然に向かって鏡を掲げること つまり美徳には美徳の様相を 愚には愚のイメージを 時代と風潮にはその形や姿を示すことだ やりすぎたり いい加減であったりすれば 一般客は笑っても 目利きの客は悲しむことになる」
萬斎氏は続けます。
人間が劇場にやら映画館やら いろんなものに足を運んで鑑賞するっていったとき には演者であったりミュージシャンを見るのかも しれませんけど、 やっぱりそこに自分を映すってことでもある。 ◎舞台を見ると自分自身のことも見えてくる◎ 劇場の鏡面構造ってものを端的に言い表しているし 私たち作り手も良い鏡にならなければならない、 というね。 まあ我々は型があるので、型に従って演じますけど やっぱり心がないと形だけになってしまいますしね そういう意味で言うと… 《人間を磨くしかないんだ》って気がしますけどね
今の人が見て感じる、時代がそのまま映るという、 そこがシェイクスピアの魅力かな、 という気がしますね。
この論理は非情に納得がいくものでした! わたしが踊るダンスには型がありません。 だからこそ型を練習するんです。 心の力は物凄いもので、没入すると制御できなくなり どうしても《やりすぎ》に傾いてしまうのです! 結果これにどう立ち向かうかが問われることになる。 自分本位の解放ならいくらでも出来ますが、 届けたい相手がいるのを決して忘れてはいけません。 自分の力を満足に発揮したいのはやまやまですが、 それよりも大事なことがある。 わたしはそんなダンスを踊っていきたい。
本当に《人間を磨くしかない》 そう感じています
| 2015年01月05日(月) |
無意識がおしえてくれるもの |
階段を降りようとしたとき、無意識に足を揃えた その時、ふとおもった どう考えてもおかしい
“ なんで足を揃えてるわけ??? ”
階段手前で、無意識に階段を降りる準備をした。 わたしには、そんな指令を出した覚えなど無い。
「なんで足揃えてるんですか? 意味わからん!!」
懐かしい台詞を久しぶりに叫んでしまいました… ハッシー、元気にしてるかな?? もうわたしからは連絡できる手段ないけれど。
さあこの無意識を裁きたい。 こんな無意識はあっちゃいけない。 あっちゃいけないわけじゃないが、制御したい。
恐れをなくす努力を続けているんだからッッ
無意識に足を揃えたってことは… 《危険》だと奥底が感じているからでしょう。 階段を下りるのにひと呼吸ついてしまったんです!! バカにされるかもしれませんが、 猛烈に怒りが湧きました―
あたりまえのことができない
もし庇うのに慣れてしまったらもう戻れない気がした いつも階段前で《ひと呼吸》する人間になってしまう これじゃ人前で踊るなんてことできない、そう思った
無意識ほど怖いものはありません
わたしたちが無意識にとっている行動が、 どれだけ習慣として未来につながっているか
カラダの歪みをはじめ、性格にまで及んでしまいます
足を揃えたことはカラダを守るためかもしれません。 だけど、わたしは軽々と階段を下りれるはずです。 ◎手術したのは出来なくなるためじゃない◎ 下りれないはずがない!! こんなのは自分じゃない!! 意識とは裏腹に、裏切るカラダがそこにいました。 防衛本能め。こいつを何とかしないと…
松葉杖は持っていると使ってしまいます。 手摺があったら添えようとしてしまいます。 楽をしようとするのが人間だからです。
とにかく力をつかわない方法を、 痛みのない方法を、カラダが編み出してしまう
それを《無意識》がおしえてくれました。 無意識はあくまでも《今の自分》が引き出しています だとしたら、抗わなくては!! 今に抗う。 現状に抗う。 運命に抗う。
今の自分を強くしなくちゃ明日はありません
はやく無意識を味方にしたいですね☆
これからの活動を占う年になるはずだった2014年。 全国各地でダンスを踊っていく。 2014年は 飛躍を誓った年でした その3月に刊行された『宇宙兄弟 23』。 物語に君臨する最高の宇宙飛行士 ブライアン・J。 その台詞が自分を奮い立たせてくれました。
「人の人生にはいくつもの “夢のドア” がある 人は… 例えば《宇宙へ行く》みたいな大きな 夢を持った時、目の前に現れたバカでかい ドアに畏縮して向こう側へ行くことを 諦めちまう
“開けられるわけがない” ―ってな
だがビビることはないんだよ 本当ははじめから― そんな “バカでかいドア” なんてものはない
小さなドアがいっぱいあるだけだ
“成長のドア” “発見のドア” “勝利のドア” “賞賛のドア” 他にもいろいろ見つかるだろう そしてその小さなドアを開けるたび 君らの夢が ひとつずつ叶っていくのがわかるはずだ
君らには そのためにやるべきことがある 手探りでも何でもいい
意地でも次のドアに手をのばし続けることだ
そんなことしてる間に― 気付いたら宇宙遊泳とかしてるかもよ?」
あのときは未来にあふれていました。 ドアは開かれていたからです 踊っていける希望とStageに。 今は… とても離れてしまったように感じます。。 踊るよりも以前の段階で地団駄を踏んでる気がして… そんなとき、この台詞をあらためて目にしたら、 ドッと涙が落ちました
今のほうが圧倒的に《その通りだ》と思った
“膝がいきなりよくなるなんてことはない” 毎日リハビリに、リハビリだけに邁進しすぎると、 自分の未来が不安でたまらなくなる一瞬があります。
脚がこれ以上伸びなかったらどうしよう 痛みや違和感、恐怖感がとれなかったら―
ダンスのドアがバカでかくなりすぎて、 圧し潰されそうになる それでも、 “すこしずつ動くようになってきた” そのことを決して忘れてはいけないのだと思います
《今》というものがまだ《動けない》ものでも 確実によくなってきていること
この成果は、意地でも手をのばし続けた結果です 小さな積み重ねでわたし自身が開いてきた小さなドア 動ける人から見れば努力にも見えないかもしれません 正直、地味に辛くてすぐにでも投げ出してしまいたい それでも続けるのは、続けられているのは、
あのときの夢がまるで変わっていないからです
得体の知れない感動を どうやったら受け取ってもらえるのか
踊れない《今》にどうしても不安が募りますが、 それが感受性を成長させているのを感じます。 《踊る理由》とも呼べるかもしれません “ダンスを踊るということ” を遠く感じても もしかしたら、伝えたいことには 最短距離を突っ切っているんじゃないか
離れているように感じるだけで、 ダンスがこれ以上ないくらい 近づいてきているのかもしれません
そんなことを考えているうちに― 気付いたら踊っているんでしょうね☆ 毎日 “そうありたい” と思っています
| 2015年01月01日(木) |
覚醒☆ 無神論者2015 |
〜2015年 信念明けましておめでとうございます〜 どうぞ今年もよろしくお願いいたします。 幸先よく? いきなり一句できました!!
「初詣 行くくらいなら 自主トレだ」
今、わたしに必要なのは願い事なんかじゃないw
筋力ですッッ
かみさま に祈るよりも、できることをする。 まだまだ かみさま の出る幕じゃありません!! さあ《信念》貫こうッッ
現実には、当blog 9/17更新時に正月迎えてた(爆) …不愉快です!! でも、しょ、しょうがナインですッッ 入院の記憶がありすぎて…いっぱいいっぱいでした 入院中の出来事に一日たりとも抜きがない。。 まさかこんなことになるとは思いもしませんでした すべては入院中のリハビリ邁進が原因です って、患者がリハビリするのは当たり前ッッ 笑笑 こんちくしょう!! 今何ヶ月遅れだよ?? 涙涙
4ヶ月とか5ヶ月前のことをblog化してるなんて、 実はとんでもないことやってるんじゃないの??
すごい。すごすぎる。。 そんな自分が怖い… ◎だからといって誰も褒めてくれやしません◎ 結局は自虐の様相から抜けきれないw
自分との戦いです―
いつか、いつか… 解脱してみたいもんです。 そういうわけで元日から差を縮める段階です。 ってか、いつもいつでも縮める段階ww
今年は追いついてみせようじゃない
目指すは《一ヶ月前》!! 冷静になれて、古いと怒られないギリギリのラインw 元日から怒濤の追い上げを!! 絶え間ない記憶への挑戦からの脱却を!!
2015年、今こそ記憶を思い出にするときです
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