有害図書として糾弾された幻のマンガ、アシュラ。 世界を驚愕させたさとうけいいちが、封印されたケダモノを全世界へ解き放つ。
『アシュラ』 眼を、そむけるな。
15世紀中期、相次ぐ洪水、旱魃、飢饉で荒野と化した京都。 それに追い打ちをかけるように始まった日本史上最大の内戦、応仁の乱。 その死者数、行方不明者はあまりに膨大で、歴史に刻むこともできなかった。 こんな時代に産み落とされた赤子。 母も飢えの極限から逃れられず人間性を失って我が子を食べようとしてしまいます… 寸前で我に返った母は赤ん坊の我が子をそのまま置き去りにして走り去ってしまった。 そんな赤ん坊はただ一人、ケダモノとしてサバイバル余儀なく生きていた― そんな時一人の少女、若狭の優しさ、そして法師の教えに触れアシュラと名付けられる。 アシュラは次第に人間性を備えていく。 言葉を覚え、笑い、喜ぶ日々。 しかしそれは苦しみと悲しみの始まりでもあった。 やがて若狭たちの村まで覆い尽くしていく天災と貧困。 追い詰められた人々は、次第に人間性を失っていく。 ついには若狭さえも… 踏みとどまろうとする若狭を、何とか救おうと苦しむアシュラ。 「こんなに苦しいのなら生まれなければよかった」 悲しみに耐えかねて叫ぶアシュラに法師が言う。 「苦しいのは、お前がケダモノではなく人間である証だ!」
生きることは食べること わたしたちが考える思考は人間か、獣か
「人でなし!」
映画を見ながらおおよそ他人事じゃないのかな、そう思った。 だって食べものがどこかにあるように見えるからです。 だから今のわたしたちとは比べられない、比べられるはずがない。 ギリギリの状況? どこかそうは思えない。
凄い映像なのに、なぜか胸に迫らない
そうだ、じゃあ理性は? 人の理性はどこにあるの? 言葉のない理性がありえると思いますか? 言葉、言語そのものを知らない理性がありえると思いますか? わたしたちは人間社会で育っているからこそコミュニケーションがとれるのです。 じゃあ、そもそも人間社会で育ってなかったら??
こりゃ問題が壮大すぎる
わたしたちがもし一人で世界を生き延びなきゃならないのなら アシュラはまったくの“フツー”です 命を殺めて生きていくのが人間のあらがえない性。 人が人を殺しちゃいけない じゃあ他の動物ならいいのか これはもう終わりのない命題です―
いいもわるいもない、生きること 生きることって何?
若狭の台詞 「人を食べるくらいなら死んだほうがまし」 それは果たして“正しい”の? 自分のエゴだけならありうる。 それを自分が選んだのなら でも、守るものがあったら? この映画は、現代にあてはめることはできません。 社会やその時代背景がまったく違うからです。 わたしたちの“あたりまえ”とアシュラの時代の“あたりまえ”は違う。 どれだけの人が「死にたくない、食べたい」と本気で願うことがあるでしょうか。 アシュラたちはいつ誰に殺されてもおかしくない混沌の乱世です。 人を殺さなきゃ自分を守らなきゃ生きられなかった時代だったのかもしれません。 考えると、わたしたちは言わば法で正義が決められた平和ボケの時代ともいえます。 毎日を何も考えずつつがなくすごすこともできるからです。 あたりまえをあたりまえとすることはどんなにおそろしいことでしょう 人はどこかに危機感を抱いていなければいけないのかもしれません 自らを律することが、人間らしく生きるということなのかもしれません
人が人を食べる映画にしてはあと一歩が足りないとおもう
だって“飢え”の地獄はこんな、こんなもんじゃないはずだ! その表情は、その身体は、わたしたちに想像できるはずがない。
そう、映像が、アニメーションが、キレイすぎる!!
もちろんそれだからいいのかもしれません。 映画なんですから だけど今現在にあれだけの残虐なシーンをつくっているからこそ惜しい。 この内容は、使い捨ての時代だからこそ生半可では伝わりっこない。 人の生死を分けるくらいのひもじい姿はきっと想像をかるく超えているはずです。 あれでは本気で食べたいなどとは思えない それからラスト、あのラストは― わたしたちが生きている今がそんな歴史の上に成り立っていると感じさせるラスト。 思わせぶりではあるけれどもリアリティがどうしても感じられなかった
「人でなし!」 その意味はわたしたちそれぞれが真剣に考えなくては見出せないものだとおもいます
| 2012年09月26日(水) |
まもってあげたいヨガ |
今週は最終週! クラスの難易度が上がりますw なんと半年ぶりくらいに強力な身体柔軟性を武器にするmtミさんがいた。 これはありがたい。 実はこの日、わたしのテンションはおっそろしく下がっていました。 始まりもせず終わった物語が重くのしかかっていたのです。 k野大先輩の「サーフィン土産あるよ」メールがなかったら軽くゾンビ化してました。 お土産がある、それだけを糧に今日という日を耐えてきたのです!! 壊したカラダのためにやっているボディワークとはいえ、困難なのはアドバンスポーズ。
スコーピオンやらされるmtミさんw
うわーそれやっちゃう?? やれちゃうのちくしょー こういうの隣で漠然と見せられると嫌でもテンション上がるな! だってそれはできないから。 やってみたいから
トビウオのポーズ
トビウオのポーズから両足を降ろすとき、わたしはとてつもなくかわいいものを見た。 その両足は腹筋でもって空中に上げているため、筋力技なんである。 後列にいたsト子ちゃん。 仰向けから後方に頭を向けるため後ろが丸見えとなる技なんですね。 sト子ちゃんの腹筋は見るからに限界であった。 奇しくもわたしと同じ誕生日の奇想天外アヤコ先生が言う「あともうひと〜つ」 “もうひとつ”とは呼吸のこと。 そのもうひとつが終わりそうなころ、sト子ちゃんは力尽きましたw その降ろす両足がポテッと地についたときわたしはトキメキを感じたのですね。
そのトキメキは“まもってあげたい”系でしたw
ダンサーとは“まもってあげたい”など皆無、その正体は“王子要らない”系なのです
史上初トリプル受賞! 第24回東京国際映画祭 グランプリ+主演男優賞W受賞 久しぶりに見終わってすがすがしい気持ちになる映画でした!!
『最強のふたり』 さぁ、人生に繰り出そう。
事故で全身麻痺となり車いす生活を送る富豪フィリップは、介護士面接にやってきて、開口一番「不採用のサインをくれ、失業手当てがもらえるから」と切りだした、場違いな黒人青年ドリスを採用。 大富豪とスラムヤング、クラシックとソウル、高級スーツとスウェット、文学的な会話と下ネタ─。 全てにわたり二人の世界は衝突し続けるが、やがて互いを受け入れ、とんでもないユーモアに富んだ最強の友情が生まれ始める。 その友情は周りの人々、さらには彼ら自身の運命をも変えて行くことに… ありえない出会い、やがて二人は最強の友に!! 人生に起こる最高の奇跡とは!?
感動の実話
この映画で感じたのは“人生を楽しくする”こと 楽しく生きることです たとえ身体が動かなくても楽しく生きることはできる 大事なのは、独りではダメだってこと 誰かと時間を共有することが幸せだからです このことに気付けば、他人との関係が、その時間がどんな意味をもつのか激変します
笑顔がいい
ふたりが繰り出す笑顔がなんともいえませんでした ◎笑う過度には福来る◎ 誰もが悩みをかかえて生きています だからといってイイコトがないわけじゃない 思いやり、人に対しての小さなおせっかいが実は大きな幸せにつながっています それを余計なお世話だとするかどうかはその人次第ですが、それこそタイミングでしょう
お金の力は絶大です。 しかし、ドリスには天性の才能がありました。 それは富豪フィリップの持つ金銭的な背景にまったく敬意を払わないこと フツーだったらすこしでも取り入ろうとするはずのところです。 お金には人を従属させる力があります。 ところがそれを“あるもの”としてしか見ていないドリスのあの感じ
あの感性は、やろうとおもってできることじゃない
その人間性がお金を大切に生きてきたフィリップに響いたのだとおもいます。 フィリップがドリスに言う台詞。 「お前の一生はここじゃない、終わりにしよう」 この台詞はすごい 自分よりもドリスの未来を考えての言葉だからです 自分よりも他人を思いやる気持ちがすごい 自分にはドリスが必要なのを超えて送り出すこと、わたしにはできるかわかりません
言葉は違いますがこれと同じものをわたし自身ももらったことがあります わたしにもフィリップのように身動きができない、生きることが困難な友人がいました その人の一言が、わたしを今のわたしにしてくれました それはわたしの置かれた絶望を小さなものだと初めて気付かせてくれたひとです
大きなものを背負わされている人たちは誰よりも絶望の淵にいるはずなのに違った
信じられないくらい他人に優しくて、信じられないくらい力をくれました 三年前、一緒に入院していたとき、わたしはその人に笑ってほしくて 自分の踊りを見せたくてリハビリを死ぬ気でがんばったけど間に合わなかった
今のわたしがあるのはそのひとがいたからです 真剣に生きようとしたひとがすぐそばにいたんです なにげない一言が人生を大きく変えることが本当にある
フィリップの台詞は物語の後半で、ドリスもフィリップの力を知っています。 知っているけれど、ドリスは簡単にその言葉を受け容れます。 これは物凄いことです ほとんどのひとが終わりにしないことを考えるはずだからです しかしこの映画は実話に基づくもの。 既にハリウッドリメイクも決定しています。
この映画はファンタジーじゃない
『最強のふたり』のラストはドリスのおせっかいで盛大におわりますw 身動きが一切とれない姿を好きなひとに見られること そこにどれだけの恐怖があるでしょうか 理屈でがんじがらめのフィリップをドリスは簡単に破ってしまいます フィリップほどではないけれど、わたしにもそれがあります 受け容れてくれるかどうかが怖くてたまらないのです そのエンドロールにはフィリップとドリス、本人が映しだされます 背中をそっと押してくれるひと わたしは友だちに会いたくなりました
前日のblogタイトルに似ている気がしますが、きっと気のせいでしょうw この日、夏も終わってからサーフィンに遠出したk野大先輩にメールを撃ちました。
「暑は夏い!と叫んでGO!」って送信しようとしたら 「暑は夏い!土佐犬でGO!」って送信してしまった!!
なんてこった―
あまりの変換に激しく吹きましたw 入力変換が賢すぎる最新スマホって相当おもしろい☆ 下手すりゃまるで意味のわからないメールになってしまう危険性!!
このようなメールが勢いで送られる友人たちが不憫でなりません
わたしはLINEとやらの楽なチャット式メールにお世話になっています。 最近、通話設定をようやくしてくれてLINE無料通話ができるようになった人物がいます。 今まで何故通話できないのかわかりませんでしたからできたときは感動を伴いましたw 相手の怠慢でしたから(爆) そんな折の文章入力でした…
「電話できた!」ってトーク送信しようとしたら 「デンジャラスできた!」って変換送信!!
なんてこった―
ちょっと嬉しかったから慌てて送信したのが敗因ですw まぁ大笑いしたらしいから、わたしの勝ちだけど。 待てよ? もしかしたらその人に通話するのがデンジャラスなのかもしれない。 賢すぎるスマホのリアル警告だったりして― きっと気のせいでしょうw
これは、スライド入力で気持ちが入らなくなってきた矢先の出来事です
低温一途青年×さっぱり未亡人×草食系執着霊! 奇妙で切ない、純情三角ラブストーリー! 河内遙の大人気コミックが待望のTVアニメ化。 2011年度“このマンガがすごい!”オンナ編第4位獲得の原作です。 たまたま集めている河内遙作品があったから、きっとタイミングなのでしょう。
『夏雪ランデブー』 たむける花も選ばずに、ずっとそばにいるだけでいい―
目つきは悪いが純情一途な花屋のバイト青年、葉月亮介。 彼がひそかに想いをよせるのは、店長の島尾六花。 一目惚れした六花の花屋に通い詰め、バイト募集を機にそこで働くことに。 念願叶ったものの、8つ年上の彼女は恋愛を諦めている様子。 目の前にいるのに何もできない自分に歯がゆさが募るばかり。 ある日、花屋の2階の彼女の自宅に呼ばれて行くと、そこにはなんと上半身裸の男が。 予期せぬ事態に半ば憤り、半ば呆れる葉月だったが、意外な事実が明らかになる。 その男は六花の、すでに亡くなった旦那の幽霊(島尾篤)だという。 六花には見えないらしい島尾(幽霊)は何かと葉月の恋路の邪魔をし、 葉月もそれに屈せず押しの一点張りで頑張るがなかなか埒が明かない。 そんな中、島尾(幽霊)が切り出した予想外の提案とは―
わたしが劇中で一番だと思った台詞はこれ。
「もし店長が未来で待ってなくても、俺は絶対に会いたいんだよ!!」
これこそが自分自身の“今”を裏切らないものじゃないか 物語でも、むずかしいことだと最初からわかっていての言葉だからなおさらです そもそも恋愛は相手があることだから自分だけの問題じゃない だけどそれを超えなくちゃなんにも、なんにもはじまらない 想いをぶつけなくちゃいけない だから、わたしは告白がこの世で一番うつくしいものだとおもうのです それがどんなに無様でカッコわるくても そのときしか決して言えないものだからです なにも恋愛に限ったことではありません すべてです 実のところタイミングがなくては相手が聞くスタンスにはならず、告白にはなりません どんなときもより告白に近い会話ができるとしたらどんなに素晴らしいでしょうか そんな面倒なこと、と言われるかもしれないけれど、天性の才能でできるひとがいます どんな人にも誤解されない話ができるのは、自分だけではダメなのではないでしょうか 告白とは相手や自分にも痛みを伴うものでしょう だとすれば、相手のことを考えてのものとなります なによりも自分が受け容れる姿勢でなければならないのだとおもいます
すべてがダンスにつながっています
わたしは自分本位のもの、特に暴力的な踊りは絶対に踊りたくありません 相手の、見ている人の気持ちがひらく踊りが踊りたい それは舞台に立てばすべてがたちどころにあきらかになってしまいます こんなにおそろしくも全力が必要な仕事はありません
| 2012年09月21日(金) |
「勝手にふるえてろ」 |
江藤良香、26歳。 中学時代の同級生への片思い以外恋愛経験ナシ。 おたく期が長かったせいで現実世界にうまく順応できないヨシカだったが、 熱烈に愛してくる彼が出現! 理想と現実のはざまで揺れ動くヨシカは時に悩み、 時に暴走しながら現実の扉を開けてゆく。 妄想力爆発のキュートな恋愛小説が待望の文庫化。
『勝手にふるえてろ』 綿矢りさ 好きになった人と結婚したいと思いつめるあまり、 どんどん年を取って生殖の機会を逃そうとしている。 生殖促進効果のはずの恋が、逆に子孫繁栄を阻害している。 私もドードーと同じく、滅びゆく種なのだろうか―
すくなくともキュートな恋愛小説ではなかろう。 この小説で活目すべきは、その冒頭だ。 物語にも入っていないのにどうやらそのすべてが冒頭に仕込まれてる。
がむしゃらにがんばってきてふと後ろをふり返ったとしても、 やりとげた瞬間からそれは過去になるんだから、 ずいぶん後から自分の実績をながめ直してにやにやしても、まあ、そんなでしょ、 べつにたいして幸せじゃないでしょ。 逆にちょっとむなしいくらい。
だから手に入れた瞬間に、手ばなしに、強烈に喜ばなくちゃ意味がない。
限界まで努力してやっと達成したくせに、すぐに顔をきりりとひきしめて “さらに上を目指します”なんて、 言葉だけなら志の高い人って感じでかっこいいけれど、 もっともっと進化したいなんて実はただの本能なんだから、 本能のまま生きすぎで、野蛮です。 足るを知れ、ってい言いたいのかって? ちょっと違う、足らざるを知れって言いたいの。 足りますか、足りません。 でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、 あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。 色あせてなんかいません、まだ十分使えます。 ほかの誰かにとっては十分うらやましいんじゃないですか、 そのふちが欠けたマグカップ。 水玉柄がかわいい。 求めすぎるな、他人にも自分にも。
その文章は単刀直入で明朗会計w なかなか唸る文章表記でした そのゴタゴタが延々とつづくお話なので実のところ冒頭文が一番すっきりしている。 求めすぎるな冒頭文の冒頭が以下の文章だというのは結局つまるところ混沌です。
このよくばりな人間の性が人類を進化させてきたのなら、 やはり人である以上、生きている間はつねに欲しがるべきなのかもしれない。 みんなの欲しがる気持ちが競争を生み、 切磋琢磨で質の高いものが生みだされていくのですね。 でも疲れたな。 まず首が疲れた。
欲しがることと欲しがらないこと。 行きつく先は“選択”と“バランス”です だから、わたしはいいでもなくわるいでもなくこんな選択になりました。 ※あくまでも私見です。
とにかくヨシカが曖昧で愚図
結局はリスクをとらずに安心をとっちゃうんだから根性なしだ。 はっきりいってイライラする小説でした。 ゴタゴタゴタゴタ曖昧で中途半端がつづくのです。 自分の恋の決着は相手があることなのに自分で決着をつける。 “もういい、想っている私に美がある”などと言いだす。 それも二彼が出現してからの話であるのがあまりに陳腐すぎる。
誰かが現れないと気づかないのか
自分を偽り続けて見ないフリをしていたツケはいつか必ずやってくるのにね。 いつまで悩んでいたって解決しないことをいつまでああだこうだやってるんだ。 自分の気持ちに正直になりさえすればおのずと答えがでるというのに。
傷つかない人生をえらぶヨシカがまったく気に入らない
がんばることではなく、自分を納得させることを選ぶのはただの怠慢です
レッスン後、時間ができたのでヘアサロンに行くことができました。 いつもどおり予約なし、行き当たりバッタリw
入店するとmy stylistが自身の髪をストレート施術しているところに出くわした!
タイミングよすぎたw そもそもお休みの日だったらしいのだが、お店にはいたのだ。 しかしスタイリスト本人が施術されているのでわたしの相手はできない。 そういうわけで、わたしはわたしの担当stylistと共に席に座っていた―
まったくあべこべな気分ですw
だってstylistが客であるわたしと同じ時間に施術されているんです!! もうわけわからん!! 不可思議すぎる!! 基本的にはNGでしょ!! あんまり面白かったのでスタイリストを撮影しました。 いつもなら絶対ピースなんてしない御仁が無理に頑張ってピースまでしてくれたw きっとタイミングの勝利でしょう。 わたしのような行動の読めない客はきっと大迷惑のはず。 出血大サービスです
そんな担当スタイリストはストレート施術中に爆睡
そうだ、わたしたちだってあの時間は日々の疲れでぐったりくるとき。 スタイリストだって例外じゃない。 しかし、しかし複雑な気分です。 施術する側のプロの首がかっくり折れてる…
なんだかわからないけれど罪悪感がわいた
なんだかわからないけれど申し訳ない気持ちにおそわれました
お休みなさい
| 2012年09月15日(土) |
「コンドルズ日本縦断大開放ツアー'12」 |
これを見なくちゃ2012年は越せないw とにかく笑うのです! 〜笑う過度には福来る〜
コンドルズ日本縦断大開放ツアー2012 『Knockin'on Heaven's Door』 ニライカナイ・スペシャル リカカナイスペシャルw
今回は顕作さんがいませんからね、どうでしょう。 挨拶文があったので載せてみますw
【OKハウスからの手紙一二三】 みなさん、お元気でしょうか。 何年たっても変わりませんね。 いろんなことが変わってゆきます。 が、やっぱり、変わりません。
作品を創る作業は非常にやっかいです。
創るのが上手になったとも言えます。 あいかわらず下手とも言えます。 でも、悪戦苦闘しつつ幕を開け、お客さんの皆さんの前にさらして、 作品が、初めて作品らしくなってゆく、そのダイナミックさは、 何よりも魅力的で、楽しい出来事です。
その瞬間の興奮と喜びも変わりません。
今回は、ノック、ヘヴン、ドアと、興味深い言葉を連ねたタイトルです。 個人的には「ヘヴン」が好きです。 そんな事はどうでもいいですね。 この世には色んな「ヘヴン」があります。 十代の頃に夢見た「ヘヴン」。 違う国の違う文化の人が見てる「ヘヴン」。 打ちのめされた後に見えてくる「ヘヴン」。 誰かと一緒に見る「ヘヴン」。 犬の散歩をしながら見る「ヘヴン」。
でも、そのどれもが結局は、立ち止まったり、回り道をしたりしながら、 たったひとつの、同じ幸福に向かっているような気がします。
今回は全部で十六人。 大所帯です。 それも男ばかり。 もはやすでに、ミラクルが起きる条件は揃っています。
本日、コンドルズは、コンドルズの「ヘヴン」のドアを大開放して、皆様を大歓迎します。 さあ皆様、ココロを拓いて、ネジを少しゆるめて、思う存分楽しんでいってください。 本日はご来場いただき、ありがとうございます。
コンドルズ主宰 構成・映像・振付 近藤良平
ネジが少しどころかゆるまりすぎだ!! 特に人形劇ではネジが吹き飛んでしまいました!!
だって人形の首がねじり切れましたからねw
さて、特筆すべきは古賀剛さんのほぼ単独ソロダンス模様でしょう。 「また来たか!」感ではありましたがそのインパクトは著しく強烈でした… 初めて見たときは、その破壊力に冷や汗を流したものですがw 今回は安定したパフォーマンスに優雅さまで垣間見えちまいました!!
なんてこった
さて公演が終わって鎌倉さんに訊ねて知ったことですが、 イケメンヨガ開祖・青田さんは昼公演で左脚を肉離れ!! その現状は大阪公演の出演が危ぶまれるほどでした。
なんてこった
舞台にぜんぜん出てこない理由はこれだったか。。 出てこないんじゃない、出てこれなかったのだ! ダンサーとはいつなんどき不慮の事故がおこるかしれない職業なのです。 そういうわけで、わたしたちは楽屋見舞いにいき証拠写真を撮りました。
その写真は青田さん以外みんなピースで笑顔っていうw
人様の怪我をなんと思ってるんでしょうね、これじゃあ単なる冷やかしです!! 青田さんごめんなさい イケメンリンクしてるのにごめんなさい 世界中にごめんなさい わたしたち観客にとって、選ばれし者しか入れない楽屋とはある意味で「ヘヴン」です。 これも青田さんが肉離れだったおかげですね!
Knockin'on 楽屋's Door また来年w
| 2012年09月11日(火) |
意識の有意義な使い方 |
久しぶりに早起きしすぎて余裕のある出立ができました。 軽い奇跡です JRに乗り込むと途中の駅でやたら姿勢のよい小柄なおばあさんが乗車してきました。 するとどうでしょう、電車が走り出すとおばあさんは目を見張る行動を開始!!
ヒールアップ、ヒールダウン
同業者か?!(リハビリとか) 目が離せないでいると更なる衝撃がおそいました。
今度はつま先の上げ下げから首まわしまで!!
おどろきましたw すばらしいのは、どんな時間も無駄にしないその“意識” そう、そんな人は姿勢がよくてあたりまえなのだ。 逆に言えば、姿勢がわるいはずがない。 わたしはそれを見ながらただひたすら怠惰に座っていました… そう、わたしが全力を傾けるべきは自らのレッスンです。 どんなに怠惰に見えようともこれは体力温存なのだ!
俺は負けてないぞ、断じて負けてない!!
| 2012年09月08日(土) |
「放課後ミッドナイターズ」 |
世界が絶賛!これが噂の和製「不思議の国のアリス」 驚きの日本・韓国・香港・台湾・シンガポール同時公開! この夏、真夜中の学校が空前絶後の大アトラクションになる! ようこそ!あなたの知らない放課後へ!!
『放課後ミッドナイターズ』 でっかい夢、みてる?
取り壊し予定となっている、名門・聖クレア小学校の古びた時代遅れの理科室。 陳列されている人体模型のキュンストレーキと骨格標本のゴスも廃棄処分だ。 理科室を長年守ってきた二人?だったが、自分たちを救う方法が見つからない。 そんな時、学校見学に来た幼稚園児マコ・ミーコ・ムツコ(通称マミム)が迷い込む。 二人?は幼稚園児に八つ当たりすることで廃棄処分を回避する作戦を思いつく。 その名も“放課後ミッドナイトパーティ”。 それは学校中の“ミッドナイターズ”を呼び覚ます、最後の手段であった。 理科室解体まであと6時間。 果たして結末は―
知らない放課後は、ほとんど予想がつく感じでしたねw ところが想像を超える人?がいた!!! 最終ボスが黒い禍々しいオーラを発する“蝿”だなんて、これまでにない展開w ここだけは「不思議の国のアリス」を明らかに超えてます!! っていうか「不思議の国のアリス」に明らかに失礼だろ!! おぞましい力があるのにトイレのドアが破壊できなかったらしい。 開かずの扉から解放された蝿は、圧倒的な暴力で二人?の命?を奪おうとします。 しかしキュン様とゴスはある物質を差し出して自らの命を拾おうとします。 それは―
「××こ」
映像にはモザイクがかけられていますが明らかに「う×こ」。 さすがにこればっかりは大笑いしちゃいましたねw さて映画は幼稚園児が登場したらいちいち拍子抜けしてしまいます。 はっきり言いましょう。
人体模型と骨格標本の宣伝trailarのほうが遥かにおもしろい
その台詞まわしだけで十分すぎるほど面白いんだけどな〜 ですがターゲット対象年齢を低くすると会話の面白さだけではダメなのでしょう。。 物語はすすめなきゃいけないし、とにかく場面転換が速すぎてうるさい。 幼稚園児がメダイを集める真摯な理由がない。 〜ただおもしろがってるだけ〜
そう、これはまったく暇つぶし映画の様相なのだ
内容がない、マジでない。 相当期待してたのに― それだったら物語よりも人体と骸骨、二人の漫才だけでじゅうぶん成立するよ? フツーに二人がラジオ体操踊るだけでおもしろいもんw キュン氏とゴス、二人?のお笑い映画だったらよかったのにな… すくなくともマミムに理科室を救いたい意識がほしかった。 物語はもうとにかく八方塞がりの映画でした!!
そもそも夏に関係なく、学校自体が最初から大アトラクションw
そういうわけで、夢は小さくなるばかりです。。 できることならキュン死してみたいもんですね
ドゥマゴ文学賞、紫式部文学賞受賞短篇集。 この物語の中で著しくおもしろかったのは【離さない】。 人魚の話。 ゾッとしたw 夏の終わりにはもってこいでした!! 誰にでも好きになるものがあるはずです。 しかし逆に魅入られると逃げ場がなくなるものですよね。。
『神様』 川上弘美 くまにさそわれて散歩に出る。 川原に行くのである― 四季おりおりに現れる、不思議な<生き物>たちとのふれあいと別れ。 心がぽかぽかとあたたまり、なぜだか少し泣けてくれる、 うららかでせつない九つの物語。
◎神様を読むことになるきっかけstory◎ このとき、なんとなく読みたい本はあらかた読んでしまった感がありました。 自分でこれだという本を探すのは一苦労です。 そういうわけで、自分の感性ではなく人様の感性をいただく作戦にでました! あたらしい世界を拡げるには友だちのチカラを借りるのが一等楽ですw さて、そんなチャンスがおとずれたのはスマホを修理に出す日のこと。 ド○モshopで「待ち時間は1時間ほどになります」と笑顔で軽く言われました。 仕方がないので某ブティックに取り置きしておいたものを引き取りにでかけました。 するとわたし担当のM藤さんが凄いテンションでこう言いました。
「下のドーナツ屋さん行かれました? めっちゃ美味しいっすよ! 何も言わずハニーシュガー食べてみてくださいw 」
勢いで行ってみると、ハニーシュガーは最後の一個だった… これはもう食べろってことですね― 店内に入るとsnえちゃんがフツーにいた…
奇遇すぎだろそれ
いいや、実はこの流れこそがわたしによくおこるミステリー宿命w つい言いそうになった「なんでこんなとこにいるの?」 なんで?って言葉自体がご無体なものですよね。 〜だっているんだもん〜 お互いこんなところで遭遇しようとはおもいもよらず話ははずみました! そう、突然お薦めの本を聞けるチャンス到来!!w こんなときでもなきゃじっくり聞けるもんじゃない。 snえちゃんは『1Q84』を一番に挙げました、が、わたしは短編を要求w 文庫化したのはいいけど長編ですから“今”読むにはキツイ。 そういうわけで、『神様』です。 きっかけstoryおわり
この小説はちょっとした白昼夢を見ているようでしたw ファンタジーのようなリアル。 とらえどころのない文章におっそろしく戸惑いましたが読み進めると慣れてきます。 なかでもはずせないのがこれ。
「生き返りたいね」 かわいた声で言う。 「生き返って、秩序や無秩序の中で暮らしてみたいもんだ」 地面を見つめながら、叔父は洟をかんだ。 ポケットからくしゃくしゃになった白いハンケチを出して、大きな音をたててかんだ。 低く飛んでいる赤とんぼが一匹、叔父の体を通り抜けた。
【花野】は死んだ叔父の話です。 いつか失うものだとわかれば、どんなこともいとおしくなるのではないでしょうか 曲がりなりにもわたしは秩序や無秩序の中で暮らせているしあわせを感じるからです わたしたちがあたりまえとおもっていることがあたりまでなくなるときが必ずくる 怒ったり笑ったり、苦しくて悲しい、そんなことも感じなくなる日がくるかもしれない わたしたちはあまりにも現実にのみこまれている生活があります のみこまれすぎると厳しいだけのものに一気に傾いてしまいます だからどこかで自分を俯瞰することがバランスを生み出してくれるのかもしれません
「あのさ、熱いっていう感じをかたちにすると、どんなかたちになると思う?」 火を見つめながら、えび男くんがふと聞いた。 かたちねえ。 かたち。 やっぱり火かなあ。 「ぼくはね、熱いっていうのは、 手を天に向かって差し上げてる太ったおじいさんみたいなかたちだと思う」 ふうん。 それはなんだかおもしろいね。 「別におもしろくもないけどさ。 じゃね寒いっていうかたちは?」 寒い、ね。 寒いはね、星みたいなものかなあ。 「ぼくの寒いはね、小さくて青い色の空き瓶だよ」
これはダンスそのものだ、と思った。 このやりとりはまったくダンスだとおもうのです。 人にはみんなそれぞれにイメージがあり、そこには絶対の自由があります。 そのイメージには、実はすごいチカラがある。 ここではそれが言葉のやりとりですが、まったくダンスにおきかえることができます。 言葉のないダンスにすればまたぜんぜん違った性質になるかもしれません。 だけど、その出どころは同じだとおもうのです。 「それはなんだかおもしろいね」、もうこれだけでじゅうぶん。 もちろん「つまらない」という言葉にもなりえますがそれにも意味はあります。 ここは理屈ではありませんが、価値が、値打ちがダンスを決めるものじゃない。 唸ったのはそれを伝えるえび男くんの台詞、“別におもしろくもないけどさ” これにはかんがえさせられました 踊っている自分にもそんなふしがあるからです。 個人的な踊りは、決しておもしろいとおもって踊るものとは限らないし、 おもしろいとおもってもらおうなどと媚びることが踊りではないとおもうからです もちろんおもしろい楽しいとおもわないことはありません。 ダンスのあり方、有様が、ダンサーのありようを分けること。 考えようによっては「別におもしろくもない」ことを真剣に踊っているのかもしれない ただ、純粋に投げかける何かがなくては人前では踊れません すべては相手の受け取り方次第 そこにアクセスできるからだを整えることが仕事です 会話でもそうだけど、すべてがおもしろいものじゃありません。 純粋な話になれば、“おもしろい”ではないはずです。
「あんたが好きみたい」 カナエさんがある日ためしに言ってみると、男は、「好きたあ、なんのことだ」と返した。 「好きっていうのは、好くことよ」 「なるほどなるほど」 男は言い、カナエさんをまるめに来た。 「好きっていうのは、好かれたいことよ」
人の神様は人に似たものだとするたら、 自分の神様は自分を赦してくれるものかもしれませんね
呆けていました。。 なんにもしたくなかった まったくすっきりいかない、いくわけがない
見に来た人の寿命が縮む踊り
いつ甚大な失敗をしてもおかしくない、そんなギリギリの踊りでした。 実際見に来てくれた友人からのメール。
「コケるんじゃないかとドキドキしたよ」
できることならドキドキってのは恋愛文句で聞きたい! ハラハラ?ドキドキ?、もうずいぶん使ってないw ともあれ、どんな踊りに見えたとしても挑戦を見てもらえたことは感謝です。 今わたしが基礎を積み上げている種類の踊りですからある意味で無謀そのものでした。 さて、いつもなら両親にも見てもらうところです。が、今回は呼ばなかった。
両親の寿命を縮めてたまるか
これからまさに親孝行していかなくちゃいけない、していきたいんです! 呼ばなかったんじゃない、呼べなかった… 悔しいけれど結果は受け入れるしかない。 ただ、全力を傾けてきたのはたしかな事実です。 その全力がいくら足りないと言われても、それを評価してやれるのは自分だけだ。
どんなに罵倒されても、真摯に向き合ったことは絶対の真実
これだけは同じ舞台に立った人間にしか共有できない。 こんなわたしでも「良かったよ」と言ってくれる人がいたことは最大の救いです。 決して無駄じゃなかった。 なによりも先生に言われたことが―
いいや まったく帳消しにはできない
ええ、ええ、足りません、まったく足りてない!! この気持ちは同じクラシックでしか打ち払えない 他のダンスをいくら踊っても気持ちは晴れない まだここでは終われない 自分の力はこんなもんじゃないはずだ!
そもそもダンスは終わりのないたたかいです 結局たどりつくのは同じ場所。 だから、今のわたしに必要なのは気晴らしでした― そんなときのメールでした。
「なんかCM出演の依頼がきたけど、タイスケさん応募してみたらぁ?」
いつもならまったく興味のない話ですが、 テキトーに返事してみたら通ったので暇つぶしにいくことにしましたw 選ぶのは相手ですから気負う必要がまったくない。 そう、気晴らしにはもってこいです☆
遊ぶぞ
久しぶりに来た某テレビ局内。 CM製作会社さんには失礼な言葉にあたるかもしれませんが悪気はありません。 遊ぶといっても踊ることに変わりないからですw 事前に送られてきた絵コンテを見ましたが大変面白いものでした! 開発中のシステム、それを使いながら踊るのは舞台でも使えるとおもった。 実はそれよりも面白かったことがあります。 そこで遭遇した人たちが、なんとほとんど知人だったのですw これって同窓会!? びっくりです 5年? 8年? 会えていなかった人たちだったから、もうそれだけで行った甲斐があった! 生きていてほんとうによかった 踊りに向かえる自分でほんとうによかった そんなわけで緊張感なんてまるでどこ吹く風w
遊んだ ほんと遊んだ みんなで遊んだ
一瞬ではあったけれどつらいことの一切を忘れることができました
この日、初めて勉強会というものを経験しました。 アカデミックな踊りを、技術を学んでこなかったわたしです。 これは本当にくるしい闘いとなりました。 言ってしまえば、その“くるしい”とやらはこの世界ではあたりまえのことです。 子どもの頃からこの世界に身を置けばこの闘いの連続です。 踊りに対してのもまれかたが違う。
すべての基礎が“決められた種類”のものである以上、学ばなければ習得できない
わたしがやってきた踊りはこの真逆です。 踊りたい、その気持ちがあればどんな人でも踊れる。 踊りは決して技術じゃない。 ほんとうに純化された踊りにはとてつもない力があります その踊りには動きがどうあらなければならない、なんてものはまったくないのです この世には鍛え上げる技術とは真逆の力がある
それはこころ、こころです
この話はアカデミックな踊りをやってきた人にはまず通じません。 なぜならその踊りが鍛え抜かれた技術の上にしか成立しないものだからです。 どれだけの力をそそいで技術を手に入れてきたのか。 その踊りがどれほどの厳しさの上にあるのか。 このお話はダンサーのプライドがここにある世界です。 わたしはそれを知るために今、ここに身を置いています。 はっきり言えば大人から始める時点でアウトな世界です。 本来なら子どものときに知っていなくてはならない知識がない。 子どものときに、その踊りを踊るためのカラダづくりをしていないのです。
できるはずがない
事実、わたしは子どもに問われたことがあります。 「タイスケさん、ここにきて何になるつもりですか?」 つまらない話と思われる方もおられると思いますがこれには堪えました。 そんなわたしがここに挑戦しているんです。 笑いたければ笑え そう、やるからには真剣です。 わたしはダンサーですから わたしは踊りが大好きです。 だから、あらゆるダンスを知っていたい そこに懸けるひとたちの熱意のほどを知っていなくちゃいけない 知れば知るほど、浅はかなダンスは踊れないことがわかります。 ダンスを踊ることは厳しいものだからです。 それはわたし自身の踊りにもまったく通じるものです。
さぁ話を戻します! そもそもわたしは勉強会にでるつもりなど毛頭ありませんでした。 それは上に書いたとおりです。 でれるはずがない レッスンの帰り、先輩の姉さんたちと会話しているときに大惨事がおきました。 姉1「タイちゃん出るのよね?」 このときわたしは冗談で言ってしまいました。 「俺、絶対でませんよ!!」 そのとき先生が、尊敬する先生が死角にいた―
「何言ってるの? でなさいよ! そのつもりで教えてるのに」
先生に聞かれたこと、それはたとえ冗談でも決してゆるされないことです。 わたしは思わずそこにあった電柱に何度も頭突きしました(超実話) 姉2「電柱が壊れるからやめてね」 誰もわたしの頭の心配はしてくれなかった(超実話) 次に先生に会うまでわたしは煮えたぎる心中と数日格闘しました。 覚悟を決めなくてはならなかった。 先生に恩をかえすにはあくまでもアカデミックな踊りでなくちゃいけない。 面と向かって先生に「でます」と言うと、先生に笑顔で「2曲?」と言われました。。 その笑顔がなによりも怖かった。 「1曲で…おねがいします」 今考えても2曲なんて焼け石に水、暖簾に腕押し、ぬかに釘。 鬼に金棒です!! 曲はグランパクラシック! こうして出来ないことに挑む日々がつづきました。 先生もわたしをなんとかしようと様々な、ほんとうに様々なことを注意してくれました。 ところがうまくいくときはうまくいっても安定しません。 自分でもどうしてできないのかわからないのです。 腹が立ちました。 一人でできない自分に腹が立ちました たとえ勉強会といえども本番は本番です。 出来ないことは「努力が足りない」の一言で済んでしまいます。 そんなわたしは当日、舞台上でまったく回転が入らなくなりました。 これまでの練習でなんとか曲がりなりに立ててきたのに、突然でした。
通しリハーサルで回転のすべてを失敗した
わたしはわけがわからなくなっていました。 こんなことあってたまるか 先生にメイク最終チェックをしてもらったとき声をかけられました。
「舞台では客席にあおられて身体が反ってしまうから視線を落とさなきゃ失敗するわよ」
このとき、先生の言葉がなければわたしの本番は大変なことになったと思います。 本番直前、先生に汗だくになるまで練習、注意されたことで踏ん切りはつきました。 たとえ失敗しても縮こまった踊りをするな、そう最後にいわれました。 そして本番。 やれはしましたが、やれたなどと決して言えません。 “できないことを思い知った”としか言いようがない。 達成感などまったく感じることもなく、ただ“おわった”と思った。 わたしはダンサーですが、いざ他の踊りをやれば“がんばった”にすぎないのです。 そんな自分を知ることがどんなに苦しいことかわかりますか? それは踊りで同情以外なんにも感じてもらえないという事実です。 勉強会というのは名ばかりではなく心底勉強するための会なのでしょう。
わたしは先生がいなければクラシックはまったく踊れないことを知ったのです
ひとりじゃなんにもできない 悔しいけれど、これが現実でした 自分にたりないもの、“今”のすべてを知ることができたのだとおもいます
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