ぴんよろ日記
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2013年12月20日(金) そもそも誰のものでもないがゆえ

 その後しかし、大きな窓の前には、結局家が建つことになった。施主のおばさまが、うちの窓から目の前で丸見えの自分ち(設計と建設の人は密かに絶句していた)を見ても「私は何とも思わない」と言い放ち、挙げ句の果てには「あなたたちは私の土地を使って景色を眺めている」などと、某国の防空識別圏設定のようなことまで吹っかけてきたので、とりあえず話にならなかった(そういえば某国の広報官に姿も態度もよく似ている…)。そこは親から譲られた土地…つまり地主のお嬢様だから、隣り合っているというだけなのに「本当ならあなたたちの土地も私のもの」という、これまた別の某国の対馬に対する感覚と似たようなものを持っているのだろう。これから先、どうなるかはわからないが、とりあえずは家が建つだろう。隕石が降ってくるとか雷が落ちるとか、まぁ、そんなこともないとは限らないだろうが、そういうことを願う呪いみたいなもので心を満たしたくないので、できそうなことにはトライしつつも、法律的にはどうしようもないみたいだし、ひとまずは巨額の「人生の税金(by甲野先生)」を払ったと思っておく。近くの森は見えなくなったけど、彦山と街はなんとか見えるし。ひょっとしたら実は、森のほうからずっと覗かれてたのかもしれないし。

 ふー。

 それにしても、こういうことに関するトラブルが、熱くなればなるほどとても虚しいのは、土地なんてものが、そもそも誰のものでもないからなのだろう。ないものをあると言い張りあってるというようなことなのだ。


2013年12月11日(水) どっこい大一番

 「聖地巡礼」現地ガイドの大役で今年は燃え尽きたはずだったが、どっこい大一番が待っていた。

 大好きな大好きな彦山を眺めるために奮発した、壁の幅いっぱいの大きな窓。区画ぎっしりのニュータウンではなく、山の上の家のポカンとした土地の、2階に作った大きな窓。その目の前に、なんと家が建った。棟上げの日の夜、帰ってきてみたら、角度によってはその大きな窓の全面に隣の家が立ちはだかっていた。あらためて翌朝見て、腰が抜けそうだった。たとえるなら、満員でもない電車でグイッと隣に座ってくる人がいて、それは「変な人だなぁ」と思いながら百歩譲って我慢しようかと思っていたら、その上に、ぐぐぐーっと首をひねって顔を覗き込んできた状態。無理無理無理無理!頭が真っ白になった。そんでもって、日曜の朝っぱらから、トンビしか横切らないところに、大工のおじさんが(うちから見ると)空中浮揚状態で作業している。丸見えっ!
 これは全力で戦わねばならぬ!すぐに建設会社(以前留守どきに「ご来場ありがとうございます」というのし紙が貼られた、明らかにイベントの残り物のティッシュ1箱を玄関にぶら下げてのご挨拶。来場してないっつーの)に電話をして、とりあえずの作業を止めてもらった。設計会社に写真付きで切々としたためたメールも送った。次の日、建設会社の人が来たので、窓の景色を見てもらうが、その惨状に顔色を変えつつも、彼らは単なる「施工業者」なので、作業を進めさせてくれとしか言わない。設計と施主を呼ぶよう頼む。翌日、設計と建築の人が「ふーん、施主にはどうやら言ってないな。まずは自分たちだけで丸め込もうとしているな感」を漂よわせつつやってきた。設計士も窓の景色を見て「あちゃー、こりゃマズかったな」と顔に書いてあったが、案の定、あれこれはぐらかそうとしてきた。この問題はぜんぜん終わってないので具体的なことは書かないが、夏の造成工事の地獄っぷりからなにから、言いたいことは全部言いつつ、譲れる部分もしっかり伝えた上で、用意していた「切り札」を出すと、しばし沈黙。2人の間で、2階を作り変える相談が始まった。やったー!
 彦山が見えなくなることもさることながら、毎日毎日、隣人を恨んで暮らしたくないのだ。目の前の家の壁に、来る日も来る日も怒りと悲しみを塗り付けながら、しかもそれを見続けて何十年も生きるなんてできない。その家に住む人だってイヤだろう。ギチギチの総二階ならともかく、むしろ違う方向にはゆとりがありつつ、人んちの大窓の前に張り出した部屋を作ったばっかりに、一生、隣の家の人間に憎まれながら過ごすのだ。たぶん彼らは、うちから自分ちがどう見えてるのかイメージできてないと思う。それはまず設計する人間が考えるべきことだ。設計事務所のHPには、環境との調和だのなんだの立派なことが書いてあったが「すぐ裏の家」は「環境」じゃないのか、という話だ。
 まだ新しい2階ができてみないことには終わらないが、今の段階でのベストは尽くした。ずっとお腹減らなかったけど、やっとおいしいものが食べたいと思う。


2013年12月02日(月) 虹の続き

(今回、かなりアヤシイです。)

 昨日はそもそも、武雄にでも行こうと思っていた。昔ながらのラーメン食べて、かろうじて残ってるかもしれない紅葉を見て、温泉入って、ホワイト餃子を買って帰ろうかな、なんて。でもなんとなく、なぜか反対方向の島原に「白石の唐揚げ」を食べに行くことになった。そしていざ調べてみたら、お店で定食を食べられるのは、島原よりももっと南にある布津のお店だったので、そこを目指した。唐揚げも照り焼きも、期待していたよりもおいしかったのでホクホクとして、せっかくここまで来たので、島原半島を南回りで帰ることにした。(唐揚げが島原だったら北上するつもりだった)
 いまでこそ合併して、みんな「南島原市」になってしまっているが、島原を南に出ると、深江、布津、有家、西有家、北有馬、南有馬、口之津、加津佐と続く。それぞれに少しずつ、空気が違う。しばらく走ると、「日野江城」の看板があって「あっ…こっちは、そうか、そうだった…キリシタンの史跡だらけだ…っていうか…ってことは、も、もうすぐ…」と思う間もなく、島原の乱の「原城」が近づいてきた。こないだの「旅」の重さがまだ抜けていないので、行く気にはまったくなれなかったが、車から見たその丘には、「そう思って見るから」では説明のつかない「なにかたち」が、ものすごい密度で立ちのぼっていて、しかもこちらを向いている気がして、その瞬間、体中の細胞が「もはぁっ」とむせるような、吐き気とも震えともつかないような、とにかく原城の丘が視界から消えるまで、異様な感覚に包まれた。
 それはしかし、私を攻撃したり非難している感じではなくて、そのあと「あれはなんだったんだろう…」とゆっくり反芻していてよぎったのは…「私たちもいますよ」ということだった。長崎と外海をめぐり、五島のこともわりと話した先日の「聖地巡礼」だったが、島原半島でのことは、あまり触れなかった。もちろん無視したわけではないのだが、どちらかといえば「いまとつながっている」部分を見ていったので、島原の乱で「全滅」して断絶した信仰、あるいは雲仙の地獄での拷問など、1泊2日で回るには、距離的にも心理的にもあまりに重かったのだ。だから、そう思っていた私の無意識が、原城の丘を見たときの妙な感覚を起こさせたのだ、というのが「科学的」な答えではあるのだろうけれど。
 そしてあらためてわかったのは、原城のすぐ近くに、平和祈念像を作った北村西望の生家があることだった。私は平和祈念像がちっとも好きじゃないけれど、あの、某プロレスラーがモデルと言われるだけあって、平和というよりは戦いっぽいあの像が、なぜあそこで妙な格好をして座り続けているのかの理由のひとつが、こりゃトンデモ説だとわかりつつも、浮かんできた。あれは、原城にいまもいる人たちの想念のようなものでもあるんじゃないかって。西望氏がどういう心情であれを作ったのかはわからない。でも、あの地にいまだ強く存在するものたちが、「使えそうな」彼を動かしたのかもと思う。自分たちが島原の乱で死に絶えたあとも、命を長らえながら信仰を守り、復活させた浦上。そこに落とされた原爆。浦上のキリシタンの大部分を含む死者は、約7万4千人。しかし、あの小さな原城の丘では、その半分に当たる3万7千人が亡くなっているのだ。その「ピンポイント死者密度」の高さは、原爆とさえも比べものにならない。
 原爆落下中心地や平和公園とその周辺には、平和祈念像を「親玉」に、異様な彫刻やらなにやらがうごめいているのだが、それは原爆というものがあまりに激烈なものであったから、70年が経とうとしているいまも、衝撃や痛みが未消化、未浄化であり、そのひとつの現れなのではないかということが、こないだの「旅」で話された。私も「あまりに強くぶん殴られたから、いまもまだ脳震盪状態」ということは、ずっと感じてきた。だって「普通の死」であれば、五十回忌でもう弔い上げのお祝いなのに、8月9日の式典は、遺族や参列者はもちろん、それを撮影するニュースのカメラマンだってまだ喪服なのだから。それと似たようなことで、島原の乱はまだぜんぜん「終わってない」のじゃないだろうか。「キリシタンの受難」という点ではおなじ意味を持つ場所で、あの像は密かに「かつて私たちは戦って死んだ!私たちはたしかに生きた!」と、訴え続けているのではないか。
 長崎で処刑されたキリシタンは「殉教者」と呼ばれるが、島原の乱は、百姓一揆その他の要素もあるために、だれも殉教者とは認められていないらしい。「そうでない人」も多くいたのかもしれないが、「そうだった人」は、やりきれないだろう。つまりはぜんぜん「弔い上がってない」わけだ。
 とにかくもう、どっちにしても、なにもかもがつらいな…といろいろ考えながら、南蛮船来航の口之津の公園でひと休みしたら、原城方向に、消えかけている虹の根っこがあった。「聖地巡礼」の2日間、何度も虹が出ていたから、「あぁ、続きだったんだ。『ここにもある』って教えてくれたんだ。忘れてたわけではないけど、やっぱり申し訳なかった」と思うしかなかった。でも思い出せてよかった。加津佐の海でガラスを拾い、小浜の「おたっしゃん湯」に入って帰った。


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