ぴんよろ日記
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2013年11月29日(金) 静かに泣き、そして

 こないだの土曜日は、ヒコの空手の試合だった。これまで昇級試験は何度も受けてきたけれど、試合は初めて。ヒコがやってる空手は、かなりマジで戦うやつなので(だって本人が『なにか戦うことがしたい』って言ったから)、幼稚園児でもけっこうな迫力だ。先生は「顔面蒼白になって、直前でやめるって言う子もおるとですよ〜」とおっしゃっていた。ヒコは会場に行くまで「楽しみ〜」と余裕かましていたが、いざ他の人の試合が始まってみると、どんどん挙動不審に。いままで見たことないような、能面みたいな顔つきになってきて、キョロキョロそわそわ。果たして試合では…完敗。なにかの間違いだったのか、7キロも重い相手だったのもあるかもしれないが、どう見ても彼は初試合ではない感じだったし、完全に場に飲まれていた。まぁ、そういうものだろう、と思って「お疲れ〜!がんばったね!カッコ良かったよ〜!」と迎えたら、それまでは複雑な笑顔だったのがみるみる崩れて突っ伏して、そのまましばらく、静かに泣いていた。いままでに感じたことのない緊張と悔しさだったようだ。「本番」「試合」が持つ力というのは、やはり次元が違うのだ。こればっかりは、自分の身をもって、数を当たっていくしかない。あんまり泣くので、ひょっとしてもうやめると言い出すかも…と思ったら、なんのなんの、ひとつ上のクラスの練習に行くことに決めなさった。ほ〜、やるなぁ。がんばれ〜。


2013年11月25日(月) 龍頭巌の上の

 そろそろ11月が終わろうとしている。びっくり。
 11月に入った時、11月が終わるなんて思ってもみなかった。
 これまで長崎にまつわるいろんな仕事をしてきたが、その集大成とでも言うべき仕事があった。小さいころから感じたり考えたり見たり読んだりしてきた、私なりの「長崎」をつぎ込んで、内田樹・釈撤宗両先生と、巡礼部のみなさんをお迎えして、「聖地巡礼・長崎編」の現地ガイドを務めさせていただいた。「キリシタン」がテーマだったので、限られた時間の中、唐寺など泣く泣く割愛したが、それでも、長崎のよろこび、かなしみ…それぞれに深く感じ取っていただけたのではと思う。2日間で何度も虹が出て、雨が降り、雹が降り、しかし要所要所では陽も差して、なにもかもが、だれかの語りかけのようだった。私自身も、あらためて、しかもみなさんと一緒に巡ったことで、またあらたな長崎を垣間見た瞬間もあったし、キリシタンについては、いろいろあって、ちょっと避けていた部分もあるので、それもまた思うところあった。でも私にとってなによりは、これまで長崎について考えていたこと(それはしばし、長崎の人に言ってもスルーされがち)を、ここぞとばかり話してみたら、それをみなさんがまっすぐ受け止めてくださったことだった。ある意味「信仰告白」みたいな瞬間だった。これでもう、多少長崎で干されようと陰口叩かれようと、ぜーんぜん怖くないね、と、明るい光に包まれた。ドラクエのレベルアップの音楽が鳴り響いた感じ。3回くらい。はぐれメタル級!
 いま出ている第一弾(『聖地巡礼ビギニング』http://www.amazon.co.jp/聖地巡礼-ビギニング-内田-樹/dp/4487806380)もとっても面白かったけれど、「長崎キリシタン編」がどんな本になるのか、まったくわからない。わからないけれど、これまで読んだことのないような、そして今を生きる人の心にとって、とても大切な本になるのは確かだと思う。そのお手伝いができて、本当にうれしい。

 それにしても、城の古址の龍頭巌の上で背中合わせにニコニコ座る両先生を見上げたときは、ほえ〜、生きるって素晴らしすぎ!と思うしかなかった。ますます「長崎イタコ」の修行を積むことを心に決めた。合掌。

 


2013年11月02日(土) 芽吹き

 昨日は佐世保の「武学研究会」へ。ダイヤ変更だったのか、ネットで見た時刻表が間違っていたのか、はたまた単なる自分の大ボケかはわからないが、行きは超鈍行に乗って30分遅れ、帰りも最終に間に合わない!と思って会の途中で失礼してタクシーに飛び乗ったはいいが、発車は30分後。計1時間を「損」したことになってしまったが、それでも…実質滞在時間1時間半でも、光岡先生から教えていただいたことはあまりにも大きかった。いまの自分が、心と身体の底から必要としていることの第一歩を受け取ったような。それがなにかは、言ってしまえば、簡単な(でもやろうとすると難しい)身体の動き、型、なので、だからどうしたと言われればそれまでだが、それを必要とするに至った自分の中のあれこれと、その動きが持つ、その動きがその動きになるための膨大ななにかが、がっちりスパークしたというところだろう。そしてすべてのものごとは、きっとこういうことだから、人とその時期によって、必要とする本や音楽や、思想、信仰、その他もろもろは、違うのだから、人とおなじものを求めても、あるいはやみくもに「いいわよ〜」と勧めても、なにも生みはしない。

 庭に水仙の芽がたくさん。もともとあったものもあるが、いくつかは、いまやどっかの残土で固く埋められてしまったとなりの土地のもの。工事が始まったころ、青々と茂っていた水仙たち…翌日にはその兄弟が無惨に踏みつけられ、掘り返され、埋められてしまったいくつかの束を、うちに移植したものだ。どうぞ元気に咲いてください!


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