ぴんよろ日記
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2012年07月24日(火) イガイガがのこのこ

 朝、1階に下りようとしたら、10センチくらいのムカデが部屋を悠々と横切っていた。すかさず「凍殺ジェット」噴射。いろいろ試したけれど、これがいちばんいいと思う。
 ムカデが出ると、しばらくビクビクしながら暮らしてしまう。こうして1匹のこのこ歩いているということは、家の中にどれくらい隠れている感じなのだろうか。
 でも、家の虫と自分の意識は連動してる、というような珍説(?)を読んだことがあるのだが、たしかに昨日は、ここ最近の中でトップクラスの、イガイガした精神状態だった。
 凍り死んで丸まったムカデは、私自身なのであろうか。

 なんていう感傷に浸る間もなく、今日も仕事…したいところだが、別件の仕事と、プール監視当番。暑そう…。

 昨日は、ある人の、長崎の写真をたくさん見せてもらった。将来的に出版されるのかどうかはわからないが、いままでにない長崎の写真だった。そしてそれは、私が長崎を見る時の見方と、とても共通するものがあった。「メインのものに焦点を合わせきって、まわりのものは見ないことにすれば、話は簡単になって、わかりやすくなって、いかにも長崎情緒なんだろうけど、哀しいかなそれができない性分。あぁ目に入る、入ってくる、まわりの『どうでもいいもの』が〜、むしろそっちが気になるよぅ〜」とでもいうようなことなど。もしかしたら、その人の写真に文章を付けさせてもらえるかもしれない。楽しみ…。



2012年07月23日(月) 長過ぎる、先

 晴れ。猛烈に洗濯。昨日、帰ってきたらずぶぬれになっていたぶんも。

 次の本のための文章が、あとひと息。とにかく仕事しなくちゃ!とあせる横で、下のコンビニに売ってあったというカードのセットが欲しいと泣きわめく息子。昨日も、コロコロコミックのイベントで小銭を巻き上げられたというのに、夏休みの間のお小遣いはいらないからと泣きわめく、泣きわめく、泣きわめく…。夏休み…。こんな調子で大丈夫か…。ビンタ2発は虐待だろうか? 長い夏休み、ニュースに出たり新聞に載ったりしないようにがんばらなくては…。あぁ、先が長過ぎる。なんで夏休みはあるの?「だいぶ手が離れた」と気がゆるんだ親への試練?
 しかしなにがしんどいって、こんなドメスティックな騒動の波風のあと、文章を書く精神状態に持っていくことである。ほんっともう、修行としか思えない!


2012年07月20日(金) あのブーゲンは、ここに。

 朝から、思わずツイート。



きのう、恵比寿市場が解体中とのニュースを見たので、今朝、あわてて定植。いまはもう、シートに覆われている「ますやラーメン」の名物ブーゲンビリア。何週間か前にちょっともらって、挿し木していたら、新しい葉っぱが出てくれていたもの。

あの、ラーメン屋さんの看板に、旺盛に茂ったブーゲンと、町の建物の隙間から見える中町教会の風景が大好きだった。写真にも撮ったことあるけれど、なかなかこれといったものが撮れないままだった。

私の中では、洋館よりもなによりも、長崎らしい風景だった。それももう、まぼろし。

だけどブーゲンの小さな枝からは、小さな小さな根と、新しい葉っぱが出ている。

恵比寿市場は解体されるけれど、あのブーゲンは、こうして山の上の庭で、ひっそり生きている。

時は過ぎてゆく。あらゆるものは、たぶん、姿を消してゆく。しかし、それはきっと、まったくのゼロになるということではない。消えたと思ったものが、知らないところで、息づいていることもある。

私がやろうとしていることは、きっとこの、ブーゲンを育てるようなことなのだと思う。


 

 挿し木発根用の小さな植木鉢から、大きなものに植え替えて(地植えしようかとも思ったけど、去年お店で買ったやつが、雪で枯れたので)、さて水をやらんとな、と思っていたら猛烈に蚊に咬まれたので、ひとまず部屋に引っ込んだ。そしたらザーッと雨が降ってきた。




2012年07月17日(火) おめでとう!

 この2〜3日、梅雨軍と夏軍が押したり引いたりの戦いを続けていたが、本日は、夏軍の勝利宣言が高らかに響き渡っている。…暑いよう…。我が家自慢のパノラマの窓に、いそいそと日よけを広げる。洗濯も2回する。ダンナの分厚い冬物のシャツなど洗う。

 梅雨前にコツコツと作業した庭だが、自分が植えた草花がどこに行ったのかわからないほどの、ツユクサ・ジャングルと化している。ツユクサって、名前こそ、はかなげだけど、猛烈な威張りっぷりだ。へなちょこ庭師は完敗。そっと見ないふりをして、秋になったら考えることにしたいけど、それじゃぁ植えたものたちが枯れ果ててしまうかもしれない。

 昨日は、いつもお世話になっている酒屋さん「諏訪の杜たけやま」のしんぺーさんの結婚式だった。「男子の母」となった今、すっかりお母さんに感情移入。お色直しのエスコートのシーンなど、涙腺堤防決壊ポイントがいくつも仕掛けられており、始終うるうる。岡野さん(祝!単行本出版&映画化!)のステージでは、初めての「チンチンシスターズ(『寺町坊譚』という曲のバックに出現するダンサー)」も務めた。
 いやー、それにしても、結婚式って、いいなぁ。なにがあっても、これでいいのだ!って感じ。おめでとう!


2012年07月13日(金) 標準仕様あれこれ

このところ何度か、ダンナ母の付き添いで大学病院に行くのだが、かならず、知り合いに会ったり見かけたりする。あるいは、表立って…ブログになんかは書いたりしないが、実際に話してみると、自分やら家族やらに関する、生々しく、重い悩みを(お互い)抱えていたりする。
ということはむしろ、何らかの病老死苦まじりの状態のほうが「標準的」な状態であり、手放しで何の悩みも問題もない人なんて、まずはいないのだと思ったほうがいいのだろう。だからその上で、日々をどうとらえて、少しでも気分よく暮らせるか、ということなのだろう。
それにしてもダンナ母。何を見ても聞いても、まずはこの世の終わりが来たみたいなため息をつくことから話を始めるのだが、こないだ思わず「まずはそのため息をやめてみませんか」と提案したところ、本人はそんなネガティブな気持ちはまったく持っていないとのこと。逆に「そんなにため息ついてるかしら?」と質問された…。そうだったのか…。それとも、ハイパーネガティブシンキングがあまりにデフォルトで自覚症状がないのかも。
いずれにしても、これを機に、少しずつでも明るい人生を送ってほしい。(余計なお世話?)


2012年07月11日(水) 走る。

 Apple純正のワイヤレスキーボードが、iPodで使えると判明して、買いに走る。こないだ買ったのが無駄になるし、3千円くらい高いけれど、買いに走る。Apple信奉者というわけではないけれど、毎日自分が触れるものについて、「あきらかにカッコいいもの、大好きなもの」を3千円高で買うのはぜんぜん贅沢じゃないと思うので、買いに走る。そしてうっとり。ギャラクシータブレットが「だってカッコ悪いじゃん」という理由で「iPadと似てない判決」が出たそうだけど、まったくだ。
 そしてそのまま、ダンナ母を病院に連れて行く。延々と検査。本の校正をたくさんしようと思っていたのだが、私までもが入院の説明などに呼ばれ、まったくはかどらない。そして明日も治療。どうなる…校正…。


2012年07月10日(火) はじめての

 ヒコから、初めての置き手紙。

  しくだいかえてきたらする

 しびれた…。いろんな意味で。


2012年07月08日(日) ほどく人たち

 久々に新しい道具を購入。iPod touch。勢い余って64G。入力用キーボードも。今日は久しぶりの「購入時設定祭り」だった。それはさておき、iPodを買ったお店でも、スタンドを探した西友の携帯コーナーでも、とても感じのいい、さばける店員さんに当たってうれしかった。なにを聞いても、なにひとつめんどくさがらず、さくさくと解決してくれた。携帯コーナーは普段の私の行動範囲とは全然違う場所にあるけれど、もし携帯を替えることになったら、わざわざそこに行こうかと思うくらい。その手の店でありがちな「マニュアルロボット感」が全然ないのが、ほんとにうれしかったのだ。みんなが口々に「こんな世の中」と嘆くのかもしれないけれど、一方では、そういう人たちが、そんな大ざっぱで無責任なくくりを、少しずつ、意識はせずとも、ほどいてくれているのだと思う。

 金曜日の夜から、OK一家と2泊3日も「合宿」状態。子どもたちは遊び、大人たちは飲んだ。そして久しぶりに吐く私…。そんなに飲んだつもりはなかったのだが、寝不足だった模様。でも、吐いといてなんだが、なんとなく、深酒はもういいか…という気になってきた。ようやくすぎて笑えるが、食べるほうはすでにその次元に達しているので、次はお酒をほどほどにできる人間に…有言実行できるかしら…。


2012年07月03日(火) 深謝

 現在、大発生中。
 窓を開ければ1つ潰れ、庭に出れば2つ踏み、草むしりをしようものなら、3つも4つも5つも6つも…グシャ、バリ、ゴショッ。

 本日は、道徳の授業参観へ。「はい、みなさん!小さな小さなカタツムリにも、私たちとおなじものがあります」(コツコツコツ…黒板に書く音)「せーの」「いのち〜!」

 すんませーん!


2012年07月02日(月) ベクトル、あるいはバージョンの違い。

 雨&子ども漬けの土日をなんとか乗り切り、月曜日。ヒコの学校へ、授業を観に行く。「この日この時に」という授業参観は明日なのだが、ここ1週間ほどは、どの時間を覗きに行ってもいいということになっていて、ヒコから見に来いと言われたので。ミサキンを送ってそのまま行ったら、算数の引き算の授業だった。一生懸命、引き算をがんばる小さな人たち。大人はもう、一桁の計算なんて、パッと見たらわかるようになってしまっているけれど、彼らはこれから、ひとつひとつ、できるようになっていくのだ。できるようになるには、こうして1時間1時間、ちょこんと椅子に座って、計算をする時間を積み重ねていくしかない。その大切さと膨大さに、なんだかぼーっとなる。学校って、すごいところだ。
 その授業で帰ろうかと思っていたけれど、次の時間は、テレビでもよく見かける被爆者の方の講話だった。いわゆる「語り部」の話を、自分から聞きに行くことなんてまずないし、どんなものなんだろう…と思って、聞いてみることにした。
 たぶん、何百回もおなじ話をされているから、子どもたちには耳慣れない用語や地名も、けっこうな早口でどんどん繰り出されるし、ひとつの「語り物」として完成している感じもあるし、「だから平和を!核廃絶を!」と言われて、それはそうなんだけど、そういう語り口に100%同調できるかというと、口ごもる自分がいるのもたしかだ。でもやっぱり、そこで語られる事実のすさまじさは別次元のもので、彼女の身に起きたことのどれを取っても、その時の衝撃と感情がどんなものであったのか、想像がつかない。原爆…いまさらながら、恐ろしすぎる。とにかく、聞いてよかったと思う。

 それとはぜんぜん別の話だが、死ぬ時って、少なからず、痛かったり苦しかったりするのかもしれないけれど、そういえば、と、思いついた。
 子どもを産むのよりは、たいていの場合、静かなもんなんじゃないだろうか。あれより痛いことって、そうそうないのでは?ヒコの時は時々気を失ったけど、つまりあれでそのまんま、あっちの世界に行きっぱなしということだろうから(あれは夢だったのかもしれないけれど、なんだかムニョムニョした、暗くてなにかが満ち満ちたような場所に降りて行った記憶がある。そこにタッチしたら、また浮かぶように戻ってきて、ヒコが生まれた)、それだったら、まぁなんとか、その時になったら乗り越えていけるだろう。
 と、思いついて、少しだけ「死への恐怖」というものが軽くなった気がする。
 すべての人にやがてやってくる瞬間が、恐怖一色で捉えられているというのも、それはそれで変な話だろう。子どもを産んだことのある人なら、痛みや苦しみにまみれがちとはいえ、あの「なにやらわからん世界とアクセスしている妙な気持ち」を思えば、たぶん、それのちょっと違ったバージョンなんじゃないだろうか。
 臨死体験が、死というベクトルで「あっち」とアクセスした記憶とすれば、出産は、ベクトルの向きが違う「臨生体験」ということだろう。


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