ぴんよろ日記
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2010年10月31日(日) 一緒感@教授ライブ

 とにかくあの仕事に決着つけなきゃ…とパソコンを開いた日曜日のお昼。なんと、まさに坂本教授のシアトルからのネット中継が始まるとのこと。クリックしたら、そこは荒い画像ながらも開演直前のホール!え!マジで!今から!?半分オロオロしながら見ていると、ほんとに教授が現れて、コンサートが始まった。PAのラインから取ってるとかで、音は荒くない。みるみる視聴者数が増えるのも、ツイートがびゅんびゅん流れていくのも、なんとも不思議な感じ。かたわらではヒコが仮面ライダーの音をガンガンに鳴らしているし、料理もしていたから、時にイヤホンをつけながら、しかし時に様々な音にかき消されながら、必死に聴く。基本的にはこないだ行ったライブとおなじだったけれど、その時よりも好きな曲が多かったので、さらに感動。実際のホールとあわせたら1万人が一緒に聴いてたらしいのだけど、そう、なんともいえない「一緒感」みたいなものがあった。見ることもさわることもできない人たちなんだけど、その人たちと、見えないどこかで一緒にいる感じがした。それって、本当はそうなんじゃないかな。もちろんおなじ空間で、生で聴くのがいちばんいいのかもしれないけど、これも「あり」だと思うし、なにか大きな可能性が秘められているという気がする。まだうまく言えないんだけど、初めての感覚だった。悪く言われることもありがちなネットやツイッターだけど、やっぱりそれはすべての道具と一緒で、使い方だと思うし、「いいものもある、だけど、わるいものもある(@増殖)」のだ。今日のこの時間は、心から、ネットさんありがとう、ツイッターやるじゃん!と思った。


2010年10月29日(金) いまはまだ

 いま、いちばんしたいこと。庭いじり。いや、それ以前の庭づくり。いまは荒れ地の庭を楽園にしたい。道のりは遠いが、千里の道も一歩から、庭は十年先を見よ、という心持ちで進むのである。まずは草木を植えられる状態まで持っていこう。道のりは遠いが、石を1つ1つ持ち上げることからしか始まらない。そして、この庭の作業が一段落するころ、私の「休み」も終わるような気がする。
 私は庭である。いまはまだ荒れ地だ。


 (ということで、庭木の図鑑を図書館から借りてきたけど、著者名が椎葉林弘さんだった。本名かなぁ?あまりに植物すぎる…。)


2010年10月27日(水) あかんぼスパイ

 昨日は「休み」などと言いつつ、みっしり忙しい今週。予定のあいまに見上げた空が、見たことないくらいの青空で、40年も生きといて「見たことない」ってのも変な話だが、それはもうくっきり青くて、あと1ミリ青さが深まったら群青って呼ばなくてはならないくらいのギリギリの青で、行ったことはないけれど「アンダルシアの青空って、こんなかしら」とまで思った。

 「赤ん坊を抱っこした母親」って、かなり相手のガードをゆるめる存在だ。ややこしい調べものなんて絶対しなさそうに思ってもらえるから、これを逆手に取った諜報活動などもやれるんじゃないかと、ミサキンを抱っこして街を歩いたりすると、だいたいいつも考えてしまう。母子スパイ。こないだも、ふだんはちょっと近寄りがたい青空将棋のおじちゃんたちとすんなりしゃべれたし。いや、母子よりも赤ん坊がすごいんだ。赤ん坊がスパイなら最強なんだろうけど…。抱っこされて顔やら腕やらかわいらしくすりつけて「こらこら、鼻水つけるなよう…」と言われながら超小型マイクを仕込む、とか。

 さて仕事仕事。


2010年10月26日(火) お大師さまに教えられ

 昨日おとといと、雨の小国ツアー。「見える」お姉さんと話すうちに、やはりというか、なんというか、私はしばらく「休む」べきなのだという結論に達した。「きっと復活するから、今は休め」と。そして「仕事ばかりが、心の充実を約束するものではない」と。
 もちろん今まで通り仕事はするし、しないと生活もできないが、それとはちょっと別の部分にある、この先挑戦したいと思っている「仕事」について、あせることはやめておこう、ということだ。プラス、古典や基礎的な文献などを読んだりしておきたいというような気持ちも大きかったから、ちょうどいい機会だとも思う。
 休むべき、ということは、ずっと感じては来た。心にも体にも余裕がなくて、自分の中から言葉や記憶がうまく出て来ないことが時々ある。精度が落ちているというか。それって、いまやっている仕事にも失礼だし、私がこの先やりたいと思っている「仕事」にとっては致命的だ。そして小さい子供のエネルギーはすさまじい。自由業者に産休なし、育休なんて考えもしないままに突っ走ってきたが、絶対的に無理があることなのかもしれない。そういえば、こんなに「仕事仕事!」ってあせってるけど、ミサキンを産んでまだ半年も経ってないんだった。
 そして今朝、「お大師さまにお参りしましょう」というのぼりが眼についたとき「空海は真言宗、ふたつの密教のもういっちょはなんだっけ?空海と、そうそう最澄、最澄だから、…あ〜、何だ?何宗だ?え?マジで?出て来ない!えーっと!真言立川流…それ、問題の主旨と違うし!え?何?本気で出て来ない!」と、真剣に思い出せず、こりゃやっぱり休んだほうがいいのかも、と思った。「立川流が出てきて天台宗が出て来ないというのは、相当に疲弊しておるぞよ。要充電。しばらく休んでおれ!」と、お大師さまはおっしゃいましたとさ。


2010年10月24日(日) かなり素晴らしき

 猫が2匹。子供がふたり。ダンナも。この先どういう人生展開になるかはわからないけど、家族の人数としては、いまがいちばん多いのかもしれない。日々はとってもめまぐるしくて、このみんなに関する世話だ準備だというだけでもヘトヘトだが、かなり素晴らしい日々なんだと思う。…というようなことって、だいたい「失ってみて気付く」というのがよくあるパターンだけど、幸か不幸か子どもを産んだのが遅かったので、いま気付けているのだろう。亀の甲より年の功…。
 で、これより「家族」が多くなるとしたら…バアさんになって猫8匹、とか?
 ピンクの壁の家にバアさん一人と猫8匹って、まぁ、ほぼ変人だな。

 さて、冬支度して小国に行こう。


2010年10月21日(木) スピード&ルート

 考えていたことやしたことが、現代科学的には少々説明しづらいスピードとルートでつながっていたり届いていたり…ということが続き続けている(変な日本語だけど、そんな感じなのだ)が、これが普通だと思えば生きやすい。いちいち理屈や説明を通そうとするからつまんなくなるので、もう、そういうことはやめだ。特に自分に対して。

 ミサキンが、あまりにかわいくて笑える。おもしろい表情が増えて、とにかく見飽きない。見ているだけではなく、真似してみるともっと楽しくて愉快になる。赤ん坊と同調できるのも今のうちなので、ミサキンが先生だと思って柔らかい動きや表情を教えていただく。

 でも、現実生活としては、昼に寝る時間が少しずつ短くなってきて、仕事ができなくなってきた…。


2010年10月20日(水) 2冊。

 どんとの死について妻のチーコさんが書いた本を探していたら、チロ(アラーキーの猫)が死んだ写真集もあって、どっちも買ってしまった。死の色濃すぎ。どちらも「いつかは出るだろう」と思っていた本だったが、一緒になるとは…。チロは、もちろん会ったこともないけれど、写真では見たことあるし、うちのもぎくんと若干模様も似ているし、なによりもぎくんも歳を取ってきていて、こないだペットコーナーで試供品をくれるというので「7歳です」って言ったら、シニア用を渡されたりしている今日このごろ。あと10年くらいはよろしく、とは思っているけれど、こればかりはわからない。私にとってもぎくんは人生の激動期を共にしている特別な存在なので、「その日」を思うと気を失いそうだが、ダンナと猫に関しては、自分が「船長」として責任を持つつもりでいるから(子どもたちは「順番」を間違わないように!)、チロの最後の写真もじっと見つめた。やせ細ってぼろぼろクタクタだけど、とってもきれいで立派だ。

 夜はOKNさん夫妻、KNZさん一家、K姉ちゃん親子、SPさん(って書くとすごいな)が続々といらして飲む。ベランダが気持ちよく、寒くもなく、けっこう遅くまで外でくつろいだ。久々の大人数に「居酒屋おばちゃん魂」が再生。じゃんじゃん料理を作るよろこび…。また開店したい。「とりあえずベランダで始めて寒くなったら部屋にあがればいいしおでん会」など。


2010年10月17日(日) 家ごとの

 上の高校のブラスバンドが熱心に練習している。楽器それぞれに練習していたり、みんなで音を合わせたり。低いとこから高いとこまで、音のらせん階段が上がっていく。聞くともなく聞いているのだけど、いつの間にかこちらの息やリズムも同調していたりして。

 日記が滞りがちになると、「一日」というものの大きさと可能性におどろく。

 新しい家…なのだけど、別に「家」を目標にして生きてきたわけじゃないので、そういう意味での達成感はない。でも、こうしてみると、本当に建ててよかったと思うし、環境が変わることによる心身への影響って、予想を超えて大きいというのはわかる。だから、感覚として近いのは「ものすごく大きな、家ごとの模様替え」かな、と思う。

 なにか、したい、というエネルギーが、ふつふつしていて、ざわざわする。なんだろうな。いままでよりも、もちょっと外に向かっている気もする。


2010年10月15日(金) 組み変わり中、そして今日は。

 どんどんびゅんびゅん日が過ぎていく。追われていると言えば言えるが、でも、案外そうでもない。組み変わっている感じだ。行動したこと、考えたことは手帳に書き付けつつ、日記としては書き残さないまま日々は過ぎていくが、悪い気はしない。

 さて、今日はヒコの誕生日!5歳おめでとう!これからもよろしく!


2010年10月05日(火) 成長を思い出す

 ヒコのエネルギーに太刀打ちできない日々が続くと、保育園の連絡帳につい泣き言を書いてしまう。そして先生のお返事に救われる。私よりもはるかに若いのに、休みの日にはギャルみたいなお姿なのに、毎日たくさんの子どもたちと精一杯向き合ってくれている人の言葉は、地に足がついていて、なんとも素晴らしい。特に昨日の「彦太くんの心の成長を感じます」には参った。そうなんだよね…。日々の疲れにかまけて、それでもしっかり成長してくれてる、ってことを忘れがちだった。できることは「当然」で、できないことに怒るのって、ぜんぜんハッピーなやりかたじゃなかった。赤ちゃんのころから見ていてくれる先生だから、実感を込めて言ってくれてるのがわかる。ありがとうございます。

 


2010年10月04日(月) 山に登って見渡して

 昨日の庭見せは、ミサキングさんをスリングで抱えて、2人で回った。ダンナとヒコはベンツくんの足回りのバネを換えに朝早くから福岡へ行った。お昼ごろには中国領事館前で行われていた右翼の凱旋を電話中継してくれた。すごいボリューム!さすがのヒコも固まっていたらしい。
 庭見せは、最近流行りの「大会場で一気に」方式の町は少なく、あちこちの家や店がそれぞれに飾り付けられていて見ごたえがあった。中国領事館前の右翼ほどではないが、アーケードにはシャギリがガンガンかかっていた。それがどうしようもなく気持ちいい。よく「血が騒ぐ」っていうけど、それとはまたちょっと違う、ベーシックな部分のもの。「地球人だから地球の酸素がおいしい!」というような感じだ。

 「くんちで血が騒ぐ」ことに関しては、この町や祭の成り立ちから、屈折した見方、言い方をする人も多いけれど、そしてそれが御説ごもっとも真実でござるかもしれないけれど、じゃぁどこまで正しければいいんだ。楽しきゃいいとも言わないけれど、正しけりゃいいのか?あなたの説に従って、みんなが神妙な顔して反省すればそれで満足なのかい?と思う。

 あと「長崎ではくんちが云々」というような話が始まると、「長崎の人はすぐ『長崎』って言うけど、佐世保だって長崎でしょう」的な「正しい」イチャモンをつけたがるのも困る。肌感覚の話に行政区分で水を差す。そりゃ正しいさ、正しいけど、違うだろう!違うってわかるだろう!
 そのへんでいちばん高い山に登って、パッと見渡せるくらいのエリアが、人が話をするときの地名の範囲だと思う。どんなに合併したって、グーグルで見れたって、人の大きさはせいぜい50cmから2mのあいだ。感覚として把握できる範囲は限られている。

 銅座町にさしかかったあたりでお腹が減りすぎてつらくなってきたので、気楽なお寿司屋さんを覗いたが、考えることは皆おなじらしく満席。そこでおにぎりの「かに家」へ。赤ん坊を抱えた女がひとりなので、当然「お持ち帰りですか〜?」と声をかけられつつ、串焼き4本と生ビールとおにぎり4個とさらに追加でおにぎり2個となめこ汁で大豪遊した。無理すればあと2個くらいは食べられそうな気もしたが、南蛮船の音が聞こえてきたのでやめる。
 エネルギー充填して、またウロウロしていたら、ダンナから悲痛な電話があった。取り付けたばかりのベンツくんのバネ(新品)が、目の前で折れたらしい。お店の人が試運転に出たとたん、バキッ!と音を立てて。あまりの気の毒さではあったが、ヘタに走ったあげく高速で折れなくて良かった…。

 今日は人数揃い。八坂町を見たあと、湊公園に行ったら、龍踊と南蛮船を見られた。湊公園の青空将棋や青空飲酒のおじちゃんたちに交じって、遠目に眺める。秋の風が吹く。昔ながらの昆布屋さんで、とろろこんぶとたたきこんぶを買って帰る。とろろこんぶは常温保管でね!と教えてもらう。これまで大事に冷蔵庫に入れてたのは間違いだった。ほかにもあるんだろうな「いかにも冷蔵庫に入れとけば良さそうだけど、ほんとうは冷蔵庫に入れないほうがいいもの」って。


2010年10月01日(金) 交信

 家を移って変わったことはいろいろあるのだけど、これまで使ってなかったお皿が急に活躍したり、ということがある。家だけの問題じゃなくて、ごはんを食べる人間の事情が変化(朝ごはんに必ず塩おにぎりを食べる男児出現、など)したとかいう要素もあるのだろうけど、空間と器、この部屋だから出したくなっちゃう皿、というようなことも、きっとからんでいる気がするのだ。
 たとえ息をしていないものでも、それにはやはり固有の「生命」があって、当然、相性その他も発生すると思う。超高級フランス料理屋さんで出前の中華ドンブリが出てきたらギョッとすることを考えれば、そりゃそうなんだけど、そういう目に見える意匠とかいうことにとどまらない存在感の周波数みたいなものまで含めたもの。それが心地よく響きあうか、なんかよくわかんないけど、おさまり悪いのか。
 目に見える形や意匠を超えた「存在の周波数」があることについて強烈に確信したのは、何年か前に東京まで見に行った青山二郎展でだった。彼が「一夏のヨット生活」と交換したりしていた器…写真で何度も見たことがあったはずの杯や皿や印刷物は、思っていたのよりも遥かに遥かに密度というか解像度が恐ろしく高く、ちっこいぐい呑みひとつにも宇宙が圧縮されているようだった。何度も刷りなおしたといわれる名品録は、昨今の印刷物がみんな新聞紙に見えてしまいそうな繊細さだった。そしてここに並んでいるもののどれひとつとっても、自分の部屋には置けないと思った。不釣り合い…と言ってしまえばそれまでなんだけど、波長がちがうのだ。もしこのぐい呑みを持ちたいのなら、部屋をぜーんぶ変えないといけないだろうな、と。そしてこういうハイレベルの骨董を手元に置く人々も、やはりそれなりの強いエネルギーを持っているのだろう。そうでなければやられてしまう。物の力はおそろしい。現代の人は、物を物としか思っていないけれど、物には絶対に命がある。「家は住まないと傷む」というのも、空気がよどむとか、そういうことだけのものじゃないはずだ。
 家も、そこにある人も物も、お互いにエネルギーをやりとりしていると思う。境目はもっとゆるい。


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