ぴんよろ日記
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2008年06月29日(日) タン、から、ちゃん、へ。

 かれこれ2日ほど、もうおむつをはいていないヒコ。夜もおねしょ無し。顔つきまで変わってきた気がする。野口晴哉氏が、排泄のコントロールと人間性の関係を説かれていたが、なるほど、と思う。が、それは1歳にも満たない赤ちゃんを育てるときのお話だったから、もはや3歳近くになっている我が家など、それは「お話にならない」というものであろう。
 でも単純に、感慨深い。
 そして、それと関係あるのかないのか、これまでずっと、私はヒコのことを「ヒコタン」と呼んできたのだが、なんとなく、最近「ヒコちゃん」と呼んでしまう。なんかもう、「タン」じゃないような気がして。何が違うのかと聞かれても、うまく説明はできないけれど、とにかく彼は、タン、ではなくなってしまったのだ。



2008年06月28日(土) 1、2、しゃ〜ん!

 大雨。
 朝から校正した文章を打ち込みまくる。メールには、レイアウトにはめこんだものが、30ページ分ほど送られてきていた。それを見て、さらに文章を削る決意をする。本の制作が着々と進んでいる。

 ちかごろ、ヒコを保育園に送る時、マンションのエレベーターには乗ろうとせず、階段を下りたがる。そして、階数の数字を指差して、何なのか聞く。4、3、2、1…と教えるのだが、そのつど、「1、2、しゃ〜ん!(「世界のナベアツ」の真似)」をしてくれるので、面白い。家で親が見せようが見せるまいが、してほしくなかろうが、保育園では容赦なく渦巻いているお笑いネタ。でも、ナベアツに関しては、数字の学習に一役買っている可能性が高い。



2008年06月27日(金) 見続けたい姉妹

 取材で佐世保へ。ジャズ喫茶と外国人バーをまわる。それぞれに年期と気合いの入った人とお店。特にウエスタンバーの美人姉妹(少々高齢)の存在感ったら、何を質問していいのかわからなくなるほどだった。真っ赤な口紅、鋭いアイライン、スレンダーな革のスカートに、ギンギラ光るバックル、英語ペラペラ。しかも二人は、すこーしだけ、私のばあちゃんとその姉(こちらもまだ健在)に似ていたこともあって、いつまでも見続けていたかった。取材なのに、すごく短時間だったのに、すっかりくつろいでしまって、妙な話だが、惚れた。
 こんなふうに、たったひとつのお店、たったひとつの町にも、面と向かって話を聞き出せば、一晩でも二晩でも時が過ぎていくような人たちが、今日も暮らしている。その数はもう、無限と言ってもいい。あらためてそのことを思い、気が遠くなりつつ、帰りの電車では平戸名物のすぼ巻きとビール。コンビニで買う時に、次に並んでいたおじさんは「みかんヨーグルト」だったのに、私はすぼ巻きとビール。店の中には、アルカスでのコンサートの休憩時間らしき、燕尾服の西洋人(オーケストラ団員)が多数うろうろしていて、ドリフのセットみたいだった。
 行きと帰りの電車の中で、ほぼ、文章の校正を終える。
 ヒコくんは、今夜はお泊まり。10時半ごろ長崎に着いて、ダンナと二人、五島本陣で焼き鳥。



2008年06月26日(木) ザクザク

 写真に引き続き、5年ほど前からの文章に手を入れ続ける。ザクザク削るのはもちろん、内容もグイグイ変えていく。くどい言い回しはもちろん、「私らしさ」が威張りすぎるところなど、どんどん削る。5年前はまだまだ出たがる「私」がいたんだなぁ…。
 もう、その文章を書いてるっていう時点で、立派に「オレオレ」なんだから、ほんと、「私がどうしたこうした」って、うっとうしいったらない。
 ということで、ザクザクと、雪かきをするように削っていく。


2008年06月25日(水) 「二人の世界」

 こないだの「羽生永世名人誕生」をきっかけに、すっかり将棋観戦記のファンになってしまった。肝心の部分はもちろんわからないが、それ以外の地の文の語り口が、とても楽しげで面白い。
 「写真仕分け」から「文章校正」に気持ちをチェンジするため机を片付けていたら、数日前の切り抜き(切り抜きなんてめったにしないが、なぜかあった)が出てきたので、私がわかる部分だけを記しておく。伏せ字だらけで、あからさまに官憲が検閲していた頃の新聞のようだが(今は自主規制だからね!)、やり取りされていることそのものがわからないからこそ、楽しめる。ちなみにこれは、毎日新聞のもの(朝日新聞と共催なので、そちらもあるはず)。以下引用。

 封じ手は開けてびっくり●●だった。●●から●●と、●●を狙われるのが厳しく、前日の予想で「これだけはない」と言われていた手である。立ち会いの高橋九段が「開封して一瞬、言葉に詰まった」と苦笑いすれば、屋敷九段は「最初に考えて、最初に捨てる手」だという。控え室の本命は●●●●●●●●(しばらく意味不明)●●●●●●●●と、両者の意見が一致した。「●●はそちらが決めきれなかったらたいへんですよ、という強い手です」と屋敷九段。「感想戦で羽生さんは●●を『これしかないでしょ』とあっさり言いそうですね」と半ば冗談で言っていたら、両者とも「●●は当然」と言わんばかりに、感想戦で素通りしそうになった。まさに「二人の世界」である。

 誰もが驚いたことを、「素通りしそうに」なった「二人の世界」よ!
 この手の話には、本当に心ひかれる。
 「『そちらが決めきれなかったらたいへんですよ』という強い手」っていうのも、しびれるほどクール。

 


2008年06月24日(火) ひとまず、ひとやま。

 本のための写真の仕分けが、ついに終わった。ディスクに焼いて、発送。「もう終わる」という直前に、まだ見ていないディスクを発見してしまい、一瞬、気が遠くなったが「こうなったら意地でも見てやる!」と、パソコンに向かった。ひとまず、一山超えた。次は文章をざくざく削り、変える作業だ。終わったら、絵を描こう。
 ここ数日で、加速度的に、おむつからパンツに移行しているヒコ。がんばれ!



2008年06月23日(月) 玉手箱は…

 高校の時の美術の先生が、油絵の道具をみんな揃って買う時に話してくれたこと。ずーっと忘れられなかったこと。この話を聞けただけで、油絵コースを選んでよかったな、と思ったこと。

 「今は『授業で使うだけなのに』、と思うかもしれません。実際、卒業してしまっても描き続ける人なんていないかもしれません。でも、何年も何年も経って、仕事などに疲れてしまったとき、ふと、ずっとずっと忘れていた絵の具箱のことを思い出して、絵を描きたくなるかもしれません。そのとき、タンスの奥から出してきたこの箱に、たとえ、高校時代はちっとも使わなかった、深緑色の絵の具しか残っていなかったとしても、そんな時に、絵を描くということ、そして描けた絵は、誰に見せなくとも、完成しなくとも、自分にとって、とても大切なものになるでしょう。」

 高校生の私は、その話を聞きながら、むしろ「早くそんな時が来ないかな」と思った。「人生に疲れたい」と思ったのでは全然なくて、埃をかぶった絵の具箱を、学校の課題でも商売でもなく、「絵を描きたい」という、ただそれだけの気持ちで、取り出してみたいと思ったのだ。そして、そこにはどんな色の絵の具が残っているだろう、とも、わくわくした。今の自分が、ちっとも手を伸ばさなかった色が残っているはずだから…。
 さぁ、ついに、時は20年経ち、油絵を描きたいと思ってしまった。たびたび夢に見る、長崎の光景を描いておきたかったのだ。「おぉ、ついに、埃をかぶった絵の具箱を開ける日が…」と、実家の物入れから、絵の具箱を取り出した。取っ手の革はすっかり痛んで、触っただけでボロボロとこぼれ落ちる。そして、そう、中には、もう固まっていて使えなくなっているかもしれない絵の具が入っているはず。あぁ、何色なんだろう!? 現役で使っていた時には、やたらと磨き上げていたパレットとも、20年ぶりの対面だ。油壷は…これももう、開かないかもしれない。
 ドキドキ…カチャリ。
 高校の時から締まりの甘かった金具の感触も懐かしく、期待を胸に開けてみると、そこには…筆とナイフしかないじゃんっ!
 ほぼ空っぽだった玉手箱を前に「まぁ、これが年を取るってことか」と、妙に納得。…でも、絵の具はともかく、パレットはどこいったんだろう。業務連絡、妹さん、心当たりはありませんか〜?



2008年06月22日(日) ババア出現

 本の写真選びに、かなり時間がかかる日々。数年分の写真が、パソコン3台とディスク3枚に分かれているうえ、自分でも付き合いきれないほどの「凝り性ババア」が出現し、モニターの見過ぎで、もはや吐きそうだ。しかも、いちばん多くの写真が入っているディスクを、新しいパソコンが読まない。画面が明るいデスクトップは、処理能力が遅い。ということで、いちばん画面が暗くて小さいノートでやらざるを得ず、目の疲れは申し訳ないほど。すんません、目よ。終わったら遠くを見ます。


2008年06月19日(木) さよなら人町号。

 「ワゴン車コーヒー」に豆を買いにいったら、移転のお知らせが貼ってあった。移転と言っても、今ある場所の、向かいのビルらしい。これでもう「ワゴン車コーヒー」とは呼べなくなるが、本当は「珈琲人町」という立派な名前がある。
 豆と一緒に、お知らせのチラシをもらう。「この度、珈琲人町は移転することになりました。3年間がんばってくれた人町号とお別れです。」車のイラストのナンバープレートのところには「さよなら人町号」の文字も。じーん…。
 「3年間」。そう。ほんとうに3年間なのだ。
 テレビかなんかで、おいしいコーヒーを出してくれそうな青いワゴン車のお店を見て、当時、お腹が大きかった私は、それでも、まだ、ひとりの静かな時間を過ごしながら、すたこらとお店を訪ね(当時は万屋町のパーキングの一角だった)、まだ顔は合わせていないけれど、時折ぐにゅ〜っと動く「はらお」くんと、はちみつコーヒーを飲んだ。(腹の中にいる人だから「はらお」と呼んでいたのだ)。暑かったけど、影になっていた椅子に腰掛け、夏の雲を見上げたりした。そして秋、「はらお」はついに「ヒコ」となり、ふたたび、数ヶ月前には腹の中にいたヒコをスリングに入れて、コーヒーを飲みにいった。怒濤の1年もなんとかくぐり抜け、ヒコが保育園に行きだしてからは、また、ひとりで…。
 というふうな、ごく個人的な思い入れがあるので、その時々の自分が目指して歩いた「青い車」がなくなるのは。さびしい。あのワゴン車の青は、慌ただしさに満たされていた私の生活の中の、ほんのひとときの静けさを象徴するものだった。ほかにも好きなお店はいくつもあるけれど、ヒコを生んで育てたこの3年と、丸々オーバーラップしていた「ワゴン車コーヒー」には、こうしてみると、格別な感慨がある。
 さよなら人町号! ほんとうにありがとう!


2008年06月18日(水) コンコンと

 乾け乾け! 洗濯物!
 湿気ているけど晴れていて、風はわりと爽やかで、沖縄にいるような、すばらしい日。どんどん洗濯して、部屋も掃除して、風を通す。これまでヒコの侵入を阻止してきた台所の入り口の段ボールの壁も、なんか空気をよどませている気が、ずーっとしていたので、取っ払った。しちゃいけないことなど、その都度言えば、なんとかわかってくれるだろう、という、甘い読み。

 昨日は宮崎勤&同じ歳の死刑囚に気持ちも沈んだが、今朝の新聞の1面には、宮崎勤より大きい写真で「羽生永世名人誕生」の記事があり、うれしかった。羽生名人も同じ歳なのだ。いつもは読まない将棋欄もじっくり読む。将棋のことはわからないけれど、
 「7五歩に羽生がコンコンと考え始め、定刻の6時半を3分過ぎたところでやっと封じた。1時間47分の大長考だった。すべての儀式が終わって森内が駒を片付けている間も、羽生はほおづえを突いて、ずっと考え込んだままだった。」
 なんて記述に、胸を打たれる。ほんとに「コンコン」って感じだったのだろうな。その間、羽生名人の頭の中は、どれほどの高速回転で、距離にして何光年くらい遠くに行っていたのだろうか?「これはもっと読みたい!」と思って、昨日までの新聞を探したが、ほとんどがはるちゃんのトイレとして使用済みだった。




2008年06月17日(火) うーむ。

 ようやく本づくりのための作業に取りかかる。「ながさきエッセンス」に使っていた写真やイラスト、文章、使っていなかったけど、使いたい写真などを、パソコンやHDのあちこちから引っ張ってきたり、見くらべたり、文章を見つめなおしたり。デザインされると、また全然違って見えてきて、あっさり変えたくなったりするんだろうけど、ひとまず今の時点で、考え抜く。

 宮崎勤がついに死んだ。(これは翌朝書いているのだが)案の定、夢に見た。自分の中に、ある種の「喪失感」があることを、否定できない。宮崎勤がしたことはあまりにひどく、むごく、力が抜けるほど恐ろしいが、おなじ国の、おなじ時代の空気を吸って生きていた人間が(彼の部屋におびただしく積み上がっていたものが、どのように悪趣味な何であるか…彼がいかに『変態』であるか、テレビ画面を見て瞬時にわかるということは、そういうことだ。乾いた風の吹き抜けるサバンナに暮らす人に見せても、まったくわからないだろう。『共有していたが、選択はしなかった』それは大きいことではあるけれど、『それだけだ』とも言える)、明らかに「死んだ」ことは、(どんなにそれが忌々しくとも)しばらくたどっていけば、わりとあっさりたどり着いていたはずの、世界の一部分を失ったということだ。
 あと2人死刑になったうちの1人が、自分とおなじ年だったというのも、衝撃。紙おむつがない頃に生まれ、おなじようにドラえもんやアラレちゃんやドリフやベストテンを見て、住んでいた場所が近ければ同じクラスで居眠りをしていたはずの人間が、人を殺して、縛り首。うーむ。




2008年06月16日(月) 「監督」の惜しげなさ。

 車の調子に気になるところがあるので、「コミネ監督」のところへ持っていく。「コミネ監督」と言ってもサッカーのあの方ではなく、でも、名前がコミネさんで、車に関してはとても頼りになるので、うちでは「コミネ監督」と呼ばせていただいている。「監督」のたたずまいは、一目見ただけで、ただ者じゃない感じ。某外車系ディーラーのメカニックからも頼られたりするらしく、ひいては、大きくて高い外車に乗るような方々や、保険屋さんやら各種業者さんやらとも渡り合う、ということで、車の修理に関する判断も含め、ちょっとした侍のよう。目の鋭さが、その辺のオッサンとは全然違う。しかし、普段の物腰は、あくまでやわらかい。やわらかいんだけど、へなちょこのやわらかさでは、まったくない。インタビューしたらべらぼうに面白そうだけど、書けない話が大半のような気もする。
 車好きのダンナに付き合い、その世界での有名人を何人か見てきたけど、やはりそれぞれに、それなりのオーラというか存在感があるし、それはそのまま、その人が作り出す車の雰囲気と、とても似ている。さらに、独自の話法…話し方のスタイルみたいなものがあって、それがまた、心をつかんでくる。いや、むしろそれかも。
 「監督」も、車に関しては、どんどん説明してくれる。悪いところもいいところも、治したほうがいいところも、無理してなおさず、だましだましやったほうがいいところも。出てくる用語は、特に私などにはまったくわからないのだけど、「こんな機能を果たす部品が、こんな感じでダメになってて、いまんとこ、こんな対処がベストなんだな」ということはわかる。「交換第一」「工賃ぶんどり」のディーラー(こんなディーラーだけじゃないけど、えてして。)の説明とは全く逆だ。
 すごい人は、惜し気がない。たぶん、その人にとっての「すごい」部分は、その人にしかわからないし、使えないから、逆に、ほかの部分は、惜し気もなく見せてくれるのだろう。あんまりすごくない人は、見せたら減る気がして、もったいつけるし、目先の商売に使おうとしたりするので、ますますセコい空気を醸し出すのだった。




2008年06月15日(日) だれが乗っとると?

 幼児はとかく「なぜ?」「なに?」を連発すると言われていて、それは、わりと楽しみにしていることでもあった。私自身が、いらんことまで「なぜ?」「なに?」を考えるほうだから、苦になるとは思っていなかった。
 そして、やってきました「なぜなに」攻撃。1日の中で、しかし、ヒコがたずねることの8割は、「遠くに音が聴こえる(聴こえた)救急車には、どんな人が乗せられているか(いたか)」である。「そんなのエスパーじゃないからわかんないよ」は、もちろん通じない(時々うんざりして言ってはみるが)。遠くで音が鳴ってる救急車に、どんな状態のケガ人病人が乗せられているかなんて、そりゃもう、でっち上げるしかないので、このごろは毎日毎日、救急車で運ばれるレベルの病気やケガがどんなものか? という想像ばかりしている。
 なんかもっと、出来事や存在の根源を問うて来る、とか、そういうものかと思っていたのだが…。



2008年06月14日(土) 次の曲が参ります白線の内側までお下がりください

 昨日、龍踊のガネカミ(子どもたちの先導行列。先曳き。)参加の説明会に行こうとしたけどバスに間に合わず、宝町までくだるために階段を走っていたら、足下にザザッ!と気配がして、なんと、ヘビだった。「うひゃっ!ちょちょちょちょ…っ!」と、色気のない悲鳴を上げつつ、一段ずつ階段を下る蛇を、遠巻きに見入った。狭い階段だったので、追い越す勇気もなく、蛇が下りきるのを待っていたら、鳥山明が描いたらよく似るであろう、白いヒゲのおじいさん(いまダンナに「ドラゴンボールのヒゲのじいさんって何ていうと?」と聞いたら「亀仙人」という答え。)が現れて、「これくらいの蛇の抜け殻なら持っとるよ」と言う。まぁ、蛇の抜け殻持ってる年寄りってよくいるよなー、って思ってうなずいたら、なんとリュックを開き、「ほら」と、ビニール袋に入った、巻き巻きの立派な抜け殻を見せてくれた。龍踊りの説明会に向かう途中で、本物の蛇と、蛇の抜け殻を持った亀仙人に遭遇することなんて、この先の人生には、もうあるまい。

 さっき車に乗ってて、「FMでしゃべる人って、男でも女でも、なんで似たようなしゃべり方なのかな」と、ブツクサ言ってたら、時々、めっぽう鋭いダンナが「車掌さんとおなじじゃ?」と答えたので、一瞬なんのことかわからなかったけど、つまりは、プライベートではどんな話し方をしているかはしらないが、車掌さんがホームでは独特のしゃべり方をするように、八百屋さんが八百屋さんらしい発声で大根、キャベツを売るように、FMのDJはFMのDJ特有の「お仕事節」があるという解釈をしてくれたので、ものすごく納得し、尊敬した。これでもう、巻き舌の日本語や、とってつけたようなネイティブ発音の曲名紹介を耳にしても、「あぁ、これは『白線の内側までお下がりください』なのだ」と、いちいち癇に障ることもなくなった。


2008年06月13日(金) 浮上

 オンエアから一夜明けて、「編集に悔いなし」と言ってはみたものの、一点、どうしても消えない致命的な悔いが浮上してしまい、どうすればいいか考えながら起きる。こんなモヤモヤした時は、おすわさんにお参りするに限る。いつもよりお賽銭を奮発し、「たけやま」でカフェオレを飲むと、やはり考えついたので、これから作りなおしてみよう。
 今の携帯(モトローラ社)はとても気に入っているが、どうやら新しい機種は出そうにない。壊れるまでは使おうと思うが、その次はたぶん…iPhoneだろうな…。なんかくやしいけど…。



2008年06月12日(木) だって家に帰ると

 ヒコが「牛乳ついで〜」、と起こしてくれたのを天の声に、朝の3時から、またもや岡野さん漬け。時間があると思えば、またあれこれやりだして、結局、8時までかかって編集終了。「きっちりしすぎなさ」も含め、とりあえず悔いなし。今回はちょっと、自分がしゃべりすぎているが、そんなものはもう、岡野さんの唄で吹っ飛ぶのでいいのだ。「なんか、あのねーちゃんが得意げにいろいろ言いよったけど、唄を聴いたら忘れた」ということになると思う。
 朝からケーブルでミーティングののち、明け方、編集しながら自分に誓った「豆ちゃんでボーッとランチを食べて、カフェラテを飲みながら本を読むのだ。だって家に帰ると寝ちゃうから。」という目標を達成。ちょうど始まっていた川合一民さんの吹きガラス展で、ぐい呑みも買った。「夏の寝しなに、氷一個で泡盛飲むのに良さそう…」と思いついたら、レジに持っていっていた。その後、古本屋さんにも行き、なぜか長崎コーナーにあった山陰の歴史の本と、長崎の草花の本(どちらも30数年前のもの)を買う。道ばたの草花と、もっと話したい。



2008年06月11日(水) 3日経てば、自分すら

 「ペコロスの唄地図」第二回目の編集。終日、岡野さんと向き合う。へたにパソコンと編集ソフトを買ってしまったばかりに、「きっちり作り込みすぎてない感じも残しつつ」という方針でありながら、「そがんとこ、だい(誰)も気付かんって!」というような細部に凝りまくったりして、時はとめどなく過ぎてゆく。ほんとに誰も気付かなそう。3日経てば、自分すら…。
 夜はダンナのリクエストで、焼き肉。本当は、昨日買っていた沖縄のアグー豚のしゃぶしゃぶのつもりだったのだが、牛カルビを買い足して、私は焼きしゃぶ。


2008年06月10日(火) 断髪式!

 2歳8ヶ月を目前にした今日、ついに、やっと、ヒコ氏、初めての断髪式。生まれてこのかた、ずっと頼りなくそよいでいた髪を、ついに。1歳頃、抱っこして市場を歩いていたら、気の毒そうな表情をしたおばさんが近づいてきて、「大丈夫。大きくなれば増えるとよ」と、頼みもしないのに慰められたこともあった。生まれてからずっと見慣れていたから、そんなこと言われるのがどうしてだかわからなかったけど、いま、当時の写真を見ると、たしかにちょっと心配する。
 でも、晴れて、美容院へ。自分で切っても良かったけど、日常モードの中でヒコをじっとさせておくなんて、それは無理。何日も前から「美容院に行って、かっこよくしてもらおう!」「おもしろいよー!てるてる坊主みたいなのかぶるんだよ」などと、気持ちを高めていた。その成果もあり、美容院のお兄さんもびっくりするほど、ほぼ、じっとしていてくれた。
 結果は…。かわいいんだけど、なんだか、ちょっとだけ、おっちゃんみたい。まぁ、よしとしよう。



2008年06月09日(月) 生肉事件

 昨日は、久々に不調だったヒコ。おとといの夜、どうしても食べるときかなかったので、焼く前のステーキを少し切ってやったのが悪かったのか、種なしぶどうを食べ過ぎたのか、昼から夜にかけて何度も吐いた。やはり生肉は…。ダメだと思いつつも、「そこまで欲しがるには、子どもにしかわからない理由が…?」なんて、ちょっとやってみたのが悪かった。しかもそのあと、焼いた肉もほとんど彼のおなかに収まった。おいしい肉を焼くと、大人はほとんど食べられない(昨日は200gほど焼いて、私1切れ、ダンナ2切れ)。ものすごいスピードで、そして、人が食べようとすると怒りながら、どんどん食べてゆく。あぁ、今思えば、そのステーキも、かなりレアに焼いたし…。
 ヒコが実家に泊まった時、ホットケーキのたねもバンバンなめたというので(妹もそう。「こんなとこに、血のつながりが!」と笑うしかなかった。)、特殊な「生好き」かと思ったのだが、やはり生肉は生肉であったようだ。吐いて苦しそうなときに「お肉は焼いて食べようね」と言ったら、珍しく素直にうなずいていた。
 今朝はほぼ回復していたが、私もなんとか休めたので、大事を取って休ませる。しかしそれが運の尽きで、昼には通常の暴れん坊となり、ちょっと掃除をしていた隙にベランダからレゴをまき散らしたり、電源を入れていたご老体のデスクトップパソコンのコンセントをひっこ抜いていたりと、やりたい放題。ダンナが出張なので、夜は這々の体で実家へ。
 近くの川へ、蛍を見に行った。帰り際に、ひとつ、心に願っていることを、「もう1匹見えたら叶うことにしよう」と、車から川のほうを振り返ったら、1匹だけ、ふわっと見えたので、すっかり叶った気になった。


2008年06月07日(土) わかっちゃいたけど

 いささかの二日酔いを抱えて、原稿書きや撮影など、夕方までみっちりと。
 昨日は、わかっちゃいるのについ飲み過ぎるメンバーだったので、やっぱり、わかっちゃいたけどつい飲み過ぎた。そんときはおいしいんだから、どうしようもない。まったく気を使わない大好きな人々と、暑くも寒くもない夜の屋台で飲むぬる燗。これを飲み過ぎることのない酒飲みが、果たして、いるだろうか? 



2008年06月06日(金) マリアさまの「あじゅら」

 ヒコの保育園へ。半年ぶりの「保育士体験」だ。同級生たちも、半年分成長していた。運動場で遊んでいたら、大きい組の子からも「ヒコのおかあさーん!」と声がかかる。
 これまでの人生で、保育士(昔は保母さんって言ってた)になるなんて、一度も考えたことなかったけど、「案外向いてるかも」と思えるほど楽しいのが、自分でも意外だ。
 今回の保育士体験の、ひそかなねらいは、歌の歌詞を知ること。ヒコが通っているのはカトリック系の保育園で、最近よく「マリアさまのこ〜ころ それ〜は『あじゅら』〜 わたしたちをま〜もる〜 つよ〜い『あじゅら』〜」と歌ってくれていたのだが、「あじゅら」がなんなのかわからなかった。「『愛情』かなぁ?」なんて話していたのだが、今日、ようやく「青空」だと判った。1番と2番があって、ヒコの中では混ざっているようだが、「私たちを包む広い青空」と「私たちを守る強い樫の木」だった。
 今日はなかったけど、食前のお祈りもあるらしく、家でもやってくれる。「ちょーちょーせいとみにおいてアーメン」が何なのかよくわからなかったが、これは「父と子と精霊の御名において」だろうか。
 この時期、ことばの正確さを差し置いて、身体にしみ込んでいくものって、すごく大きいだろうな、と思う。ヒコがこの先、いろんな気持ちで数知れない青空を見上げたあとに、あらためて、「マリアさまのあじゅら」が「青空」だったことを知るとき、そこには「生きててよかった」的なよろこびが広がっているのではないだろうか。




2008年06月05日(木) 「まだまだ」がいっぱい。

 本のデザインの見本が届く。ドキドキ。思っていたよりあっさりしたものだったが、デザイナーさんの「長く手元においてもらうために」というコメントに、うれしくなった。材料自体は揃っているけれど、完成する…成仏するには、まだまだいろいろなことを考えたり、作業したりしなくてはならないだろう。その「まだまだ」が、たっぷり存在する感じが、これまたうれしい。どんな本になるだろう?2ヶ月後には手元にある予定だが…。



2008年06月04日(水) 制服の裏地  

 午前中に打ち合わせ。今日はさして急用もないので、そのまま、カメラを持って町をさまよう。久しぶりに丸山あたりなど歩いてみたが、行くたびに何かが失われていく感じは、いつものこと。というより、松亭の脇の道は、松亭がなくなったので、絶句ものの変わりようだった。嘆いてばかりいても仕方ないので、気の向くままにシャッターを押す。
 夜は歴史文化博物館で撮影。ケーブルテレビで、週に1つずつ、収蔵品を紹介する企画だ。今日はガラスの盆栽と、刀の鍔。鍔がとにかく面白かった。恐ろしいまでの細工のこりように、江戸時代らしい、自由のふりをした閉塞感の部分が伝わってくる。縛りがあるゆえの遊び、愉しみ。制服の補正や見えないところの生地やボタンをどんなにオシャレにしても、そもそも制服の中の話じゃん!と突っ込みたくなるような、あの感じ。でも、鍔は面白い。もっといろんな鍔を見てみたいし、あわよくば手に入れたいものだ。



2008年06月03日(火) 第2回目

 岡野さんの「ペコロスの唄地図」、第2回目の収録。
 港をウロウロしつつ、あれこれ話した。
 編集がどう上がるか楽しみだが(別人格がやるので、私は感知しない)、またひとつ、これまで語られなかった「長崎のひだ」をとらえることができたのではないかと思う。
 夜はなぜかそのまま、岡野さんのラジオに出演してしまった。「こんなんでいいのか?」というようなゆるさだったが、その後の「反省会」も含め、とても楽しいひとときだった。


2008年06月01日(日) あの日あの場を

 ヒコくんに小屋入りを見せようと思ったが、なかなか起きず、行ってみたが間に合わなかった。何年かぶりに松の森神社で遊んで、さらに近くの公園で遊んで、ごはんを食べて、午後の打ち込みには顔を出す。
 龍囃子に釘付けのヒコ。今年はなんと、諏訪町のガネカミさん(先曵き)に出してもらえることになった。…ということは、私も手を引いて、くんちの朝のお諏訪の踊り馬場を踏むということである。これまでも客席から見たことはあるし、取材でそばにいたことはあるけど、あの空間を踏みしめたことはない。子どものころは踊町に住んでいたが、小学校の6年間が、くんちの7年サイクルの間にすっぽり入っていて、出ることはできなかった。踊りを習ってもいなかったから、一生、あの日のあの空間に身を置くことなんてないと思っていたが、なるほど…こんな手があったか…。
 それにしても、いったいどんな空気なんだろうか。今だって、あそこを通るときは、なにかが「チリッ」と身体を刺してくるのだが。
 夜は一回り年下の友人・まっつんが来たので、野菜たっぷりの料理をじゃんじゃん作って食べる。ダンナとヒコは渋い料理を全然食べてくれないが、食べてくれる人がいると作り甲斐があるというものだ。




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