ぴんよろ日記
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お昼は、イクラとアボカドのスパゲティを作って食べた。 イクラとアボカドを、オリーブオイルとカボスの絞り汁と、 塩、江島醤油、コショウ少々であえておき、そこへゆでたての、 細めのスパゲティを投入して混ぜるだけ。 イクラがおいしかった。私は相変わらずかなりの魚卵好き。 カラスミ、イクラ、タラコ…あぁ、好き好き。特にイクラが好き。 小さなカップで700円なんてするので、いつもは買わないけど、 昨日、これくらいの贅沢はいいだろうと思って買っておいた。 プチプチ、しあわせ。 が、まだお肉は食べる気がしない。
バスに乗って、いつものコーヒー屋さんに3週間ぶりに行って、 ノートを買おうと雑貨屋さんに寄ったら、なぜか指輪を買ってしまい、 水辺の森公園の芝生でゴロゴロした。 大人や、子どもや、犬たちや、ステンドグラスのような指輪を眺めながら。 そして夢彩都で食べものを買う。 が、まだ本屋には行く気がしない。
バス停にいたら、偶然見かけたのか、ダンナからメールが入った。 「疲れた顔してバス停に座るな」 うるせー、と思い、ひとこと「ムカッ」と返信した。
夜はこれから、ひとりなので、タチウオのお刺身をオリーブオイルで。 フランスパン、ブルーチーズ、赤ピーマンムース、じゃがいもスープ、白ワイン。 外人じゃん。 どうやらオリーブオイルに飢えていたことが、かなり判明。 断食のあとはオリーブオイルを飲めっても言うし。
明日から、少しずつ仕事がある。しみじみとやろう。
2004年10月30日(土) |
ごぼう入り鶏団子を練りながら。 |
2ヶ月ぶりにゆっくり昼寝して、 3週間ぶりに料理した。 リハビリ期間なので、鍋にする。 ごぼう入り鶏団子、野菜ときのこ。 まだ私には牛くん豚さんを食べる力がないけれど、 ダンナに豚しゃぶ肉。 大好きだけど、これまた1ヶ月は食べなかったアボカド。 塩とオリーブオイルと、江島醤油で。(私の中でベストの食べ方) ごぼうを削りながら、不思議な気分だった。 いや、その前に、よく行くスーパーで小ネギを選びながら泣きそうだった。 なんと、こういうことが、大切なことか。 と同時に、この3週間の状態もまた、得難く素晴らしかったか。 濃いなぁ、人生、けっこう濃いなぁ、 そう思いながら、りんごジュースをカゴに入れた。
次はどこへ行こう。 そんなことも考えはじめているのだが、 水菜をざっくり切りながら、あぁ、ひとまずはこっちだな、 という確信の走りのようなものがあって、 そっちに行ってみるつもりです。
でもとりあえずは、明日も休み。
番組ができた。 心身ともに、極限まで出し尽くした。 からっぽ感満点。 でも、そのからっぽが、また違うもので満たされているのがわかる。 いつもの次元に自分がいないのがわかる。 これが今後どうなっていくのか、しかしそれはまったくわからない。 ひとまずは休もうと思う。 やらなきゃいけない他の仕事もあるけど、 もう、それすら休みのうちって感じだ。 よくわからないけど、 いま、あらゆるものに、ありがとうございました、と言いたい。
相変わらずの暮らし。 ふだんすることをせず、 ただただ、ひとつのものを作ることに専念している。 新聞も読まないし、料理もしない。長くも寝ない。 まったくする気にもなれない。 いつもはせずにいられないことなのに。 おいしいものを食べたいということさえも、思わない。 逆に、食べると鈍る気がして食べたくない。 それはもう、おもしろいくらい。 このまま修行の道にでも入りたいとさえ。 終わってしまうのが、悲しいとさえ。 いや、本当に悲しくて、それを考えると泣きそうなのだった。
2004年10月23日(土) |
たしかに異常だとは思うけど |
いま、すごい暮らしをしているけれど、 精神的には安定している。妙な次元で。 睡眠時間とか、食事とか、そういうものは、めちゃくちゃだ。 普段の自分からは考えられない。 でもすばらしく楽しい。 だからこそ、もうテレビの番組を作る仕事はしないつもり。 これ以上のことはないと思うので。 あと一週間、魂込めてやります。
先日は2ヶ月ほど前に聴いていたCDだったが、 さっきから、 おもに小学生から高校くらいまでに聴いていた曲を聴きながら仕事をしている。 (いまちょっとひと休み中。あー、もう3時か…) 音楽は、それを聴いていたころの気持ちのありかたを、 びゅーんとタイムマシンでリピートさせてくれるから、 これらの曲を聴けば、 幼く若かった日々は、なんて切実にせつなく生きていたのかと思う。 春だろうと夏だろうと、いつも秋が深まっていくときのような気持ちだった。 でも今またそういう部分があるので、せつなさ2乗ってとこだ。 年取ったなーと思うのは、それが楽しくもあるところ。 当時は、せつなさは冷たさだと思っていたから。 いまはあたたかくさえ感じる。 せつないということは、時の流れを自覚しているということ。 流れは、冷たいけれど、大きく見れば、生きているということだ。 よどんでしまえば腐ってしまう。
冷たいままに、あたたかく!
ふた月くらい前に買って、よく聞いていたCDを、ふとかけた。 そしたらびっくりするくらい、どばーっと涙が出たので、 まぁいろいろあるわな、と我ながら思った。 別に悲しいことがあったわけでもなく、 時の止まらなさに泣けたのだ。 その曲を聴いていたころとは、 いろいろな点で、間違いなく自分が違うところにいるという、 ただそれだけだった。 頭はわりとスピーディだが、 体はそういうことについていくのに大変なので、 涙で訴えたのだろう。 泣けるときは、泣ければ楽だ。
くんち3日間、コッコデショについて回った。 朝から晩まで、アスファルトの道をほぼ歩き通しだ。 3日間は足の裏がパンパンで、ちょっと座ると、次に立ち上がるときはよろよろした。 そして、2日たった今、まだ時々ひょんな時に足が言うこと聞かなくなるし、 足の指に至っては、ずーっと軽く麻痺したみたいになってる。
いくらインドア派とはいえ、ただついて歩いた私ですらこんなだから、 同じ道で担いだり放ったり走ったりした担ぎ手さんたちの大変さは…。
しかし、その1000分の1くらいは、共有できたと思おう。
コッコデショの取材が終わった。 いちばんの収穫は、 「人間は、自分が思いたがるほど複雑ではない」 ということへの確信のようなものだ。 そしてそれは、ここ最近、ずっと証明したいと思い続けていることなので、 どれほど形にできるか、がんばってみたいと思う。
なんてなぁ、すぐややこしいことを持ち出してしまうけど、 もっと違うレベルで行けば、ずっと話しづらかった人に、 向こうから話しかけてもらったことや、 最後の最後、浜の町のアーケードと樺島町で、 それぞれ偶然に父と母に会ったことが嬉しかったです。 あぁ、親に偶然会えるほど、自分はこの取材をがんばってたんだと。
そういうこともあわせて、人間は単純だな。 でも、いまの世の中はその単純にたどり着くまでがあまりにも複雑なのだった。 コッコデショ人気がこんなにも高まるのは、 たくさんの人が本来の姿を見失っている証拠だ。 あまりにも複雑すぎてうんざりしてて、 くんちの演し物の中でも、 いわば「精緻を極めた単純」であるコッコデショに絶叫してしまうのだろう。
それにしても…眠いけど寝たくない。
いよいよ明日は、くんち本番だ。 コッコデショも本番だ。
長かったようで、あっという間だった。 いま思えば、いろんな後悔がある。 もっとこんなことを聞くんだった、とか。 でもそれは、ここまで見たから湧いた疑問であって、 もう、あるもの勝負だ。
ここ何日か、神社などでお参りする機会が何度かあって、 よくするように、お賽銭を入れて、柏手を打って、頭を下げる。 いつもパッと頭に浮かんだことをそのままお願いしていて、 それはほとんど自分のことだ。 でも最近は、パッと浮かぶのが、 「コッコデショが上がりますように」 なので、我ながらハマっちょるなぁ、と思う。
上がりますように!
2004年10月02日(土) |
この町へのスタンス。 |
長崎の町についての、私のスタンス。 いくらどこかの何かが好きでも、 声高に、しかも外から首を突っ込んで反対運動などをするのは、 私の気持ちには合わない。 でも、自分が歩いたときの気持ちや考えを書いていくことで、それを読んだ人が、 「あぁ、あそこのあれは、そう思って見てみるといいなぁ、 残らないかなぁ」と思ってくれて、 それが、直接的ではないかもしれないけど、 めぐりめぐって、少しでもいい方に響けば本望と思って書いています。 無責任なようだけど、私なりの、この町への責任の持ち方です。
無責任と誤解されついでに宣言をすれば、 私は「たくさんの人と力を合わせる」ということができませんし、 したいとも思いません。 どれほど素晴らしい主義主張信条に基づいていても、 「たくさんの人と」という部分に、猛烈なストレスを感じてしまうので、 誰に何と言われようと、 私はひとりでやれることを、信頼する人たちの力をお借りしつつ、 コツコツやっていこうと思います。 そういう意味で、今度の本を出せたことは、まさにその最高のかたちでした。
嫌いになりかけたこともあるけど、私はやはり長崎の町が好きだし、 いろんなものが片っ端から壊されていくならば、 悲しみつつも、その姿を文や絵や写真に残したりしながら、 いまある「残した方がいいもの」が、次にまた壊されないよう、 流れに棹さしていきたい。 密かな、でもじわじわと効く棹になりたいと願っています。
肩こりは、肩こりって思ったときから生まれるらしい。 同じくらい固くても、肩こりって思わない人にとっては肩こりじゃないと。 そんな話を、ずいぶん前にテレビで見た。 肩に固さの計測器を当てられていた白人女性は、 肩こりだという日本人と同じくらいの固さを持っていたが、 肩こりなんて思ったこともないっていってた。
それって、いろんなことに当てはまりそう。 世の中、怖い人ばっかりじゃないって思って暮らしたいけど、 そう思えないような風潮なんかが、そうかも。 いつの世も、怖い人は同じくらいの比率で存在するけど、 その比率以上に思ってしまっている、とか。
社会の肩こり。 でも、そう思わせていた方が、湿布屋は儲かる。
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