ぴんよろ日記
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2003年06月30日(月) よくわからないもの。

昔から「よくわからないなー」って思っているもの。
それは、作家の「がんばった写真」。
役者ばりに、
いっぱいいっぱいカッコ良く&美しく見える角度から撮っているものを、
公式写真というか、たぶん、これ以外は使わないようにって、
新聞や雑誌などに指示しているような写真たち。
それ以外のスナップを使おうものなら、
その出版社からは原稿を引き上げると言わんばかりの、
それ自体はよく撮れている写真たち。

いっそのこと、出さなきゃいいのにな。


2003年06月23日(月) 誘惑に負けて。

毎年楽しみにしている本の刊行案内を、インターネットで見てしまった。
これまでずっと書店で発見していた表紙も見てしまった。
とても損した気分。やめとけばよかった。
本屋さんで「今年はこれか!」と見つけるのが楽しいのに…。
サブタイトルも見てしまった。
忘れよう、忘れよう。見てない、見てない。


◇◆◇


昨日、新聞か雑誌かを読むともなく眺めていたら、
「戻る」という字が目についた。
そしたら、ふと「涙」って、サンズイに戻るだな、と思った。
「水に戻る」で、涙。
泣く時って、かなりナマな自分が露呈する時だ。
人間の存在や精神というものが、
もともとは、たとえば水のようなものだとしたら、
ほろりとそこへ戻る瞬間なのかもしれない。


2003年06月21日(土) 完全なるもの

小さい生き物の成長を日々眺めていると、
小さい生き物でも、初めから魂は完全だな、と思う。
体は一人前に遠く足りなくても、
持って生まれた、生まれる前から持っていた、
そんな、目に見えない丸いようなものは、
初めからコロコロと、存在の中に宿っている。
それはどの生き物、あるいはただの物の中にもあって、
巡りあう時は、巡りあうし、
たとえ体があってもなくても、なくなっても、
巡りあったことに変わりはない。

間違って踏んでしまえばそれで終わりの生き物でも、
対等だな、と強く思う。


2003年06月19日(木) 台風の日に、あれこれ。

台風。
ダンナは朝からバスに乗って行くと言う。
そして出ていった。
しばらくして「バス来んよ」という電話があったので、
県営バスのHPを見たら、「全線運休」だった。
あわてて送っていく。
タクシーの運転手さんなどに、不思議な顔をされたそうだ。
来ないバスを待つ男…。

送った後、なんとなく夢彩都へ。
何冊か本を買って、夕食の材料も買って、旅行のお金をおろす。
帰りに大波止のターミナルの駐輪場を見たら、
ことごとくバイクが倒れていて気の毒だった。

港はザンブラコと白波。

旅行会社へ支払いに。ニコニコ現金払いだ。
昨日、おもいがけず原稿料の振り込みがあっていたので、勢いにまかせて。
お金が底をついていたので、カードで払わなくちゃ…と思っていたのだ。
やっぱり現金払いがすっきりする。

うちで「お金が底をつく」とは、本当にゼロになるという状態だ。
「使わないつもりにしているもの」とか、
「崩したくない定期」とか「いざとなったら解約する保険」とか、
そういうものが全然ない。
でも、そういう状態に関しては、まったく平気なので、平気だ。
「万が一」とよく言うが、万から1引いたら9999だ。
9999いいならいいじゃないかって思ってしまう性分。
「まさか」のことばっかり気にしててもなぁ。

7年くらい、こんな感じで仕事をしているが、
始めた頃は、先がどうなるかなんて思ってなかった。
でも、なんとかやってきている。
だからこの先も、ビジョンは持ちつつ、
「保険的先行き」のことは考えないことにする。


家へ向かう。
荒れた天気やお正月など、
普通じゃない時は、いつも行く店がどうしているか気になる。
だからつい、浜口の通りを、意味もなく走る。
あわよくば「とり皿」を食べて帰ろうかと思っていた「岩川飯店」は休み。
「なかよし食堂」はのれんを中に入れていたけど「営業中」のプレートが。
「五島本陣」の赤ちょうちんは下がっていない。

…なんとなく、見て回る。

玉子ごはんと野菜炒めを食べていると、
もぎがひざに上がってクンクンしているが、
これまでお膳に手を掛けて、私に4回ぶたれているので、
それはもう、したそうにはしているけど、しない。
偉いなー、と思う。




2003年06月16日(月) ずーっと前のことだけど。

ダンナと二人、バイクで走っていたら、
道路に携帯が落ちていた。
道ばたの分かりそうなところに置いておこうと、バイクを止めた。
でも、車がなかなか途切れない。
結局「クシャッ」という音を立てて、
私たちが見守る中、
ダンプに轢かれてしまった。


2003年06月07日(土) ナメ店考〜最終回〜

ずいぶんと間が開いてしまったが、なかなか反響のあるシリーズだった。
男に逃げられそうなお姉ちゃんが将来を思いながら注文を取ったあとは、
(あくまで形容)
前の人が使ったオシボリをテーブルと窓の間に発見したり、
隣のテーブルのお客さんが「えー、ワインって、赤と白があるの?」
「ロゼとかもある」と盛り上がっていたり、
私たちはいっぱしにコース的注文をしたけれど、
他の人はほとんどハンバーグやスパゲティで、
やっぱり最初から思っていたものが違っていたと分かったりした。

肝心の料理は、例の5種盛りオードブルまでは、
まだ無難なホテル料理という感じで良かったのだが、
(アスパラのチーズ掛けはおいしかった。)
メインの肉も魚も、特に魚にいたってはちょっとあんまりだろうという味だった。
白身を軽く焼いて、フレッシュトマト仕立てのソースで、という、
書いてしまえばとてもおいしそうなのだが、
油は多すぎるし(ほとんど魚が泳いでた)、
トマトはなんだかあまりにも冷たいし(意図的じゃない感じで)、
なんといっても魚の身が、二度焼きかというくらい火が通り過ぎ。
(あ、ここで別の店の話をします。これは実名を出す。
浜口の「日本橋」という居酒屋で、アナゴの天ぷらが二度揚げだった。
アツアツだがカチカチという、頭を抱えるような代物。かなり眉間にしわが寄った)
私が頼んだチキンのハーブ焼きも、もちろんハーブはドライだし、
(あとで見たら、鶏は冷凍もの)
無理矢理ご飯の(ライスってとこも、まっとうなフレンチではありえない)
おかずにして口に押し込んだ。
このあたりまで来ると、暗い気持ちというよりも、
このひどさをどう表現するかで2人は盛り上がり、
それなりに楽しいといえば楽しい食事だったかもしれない。
全般的に油っぽかったので、コーヒーを飲みたいとは思ったが、
これ以上この店にお金を落とすのはやめようということになり、出ることにした。
帰り際に厨房を見てみると、ふきんは真っ黒だわ、物はゴチャゴチャだわ、
シェフ様はガム噛みながらつまんない顔してるわで、
(また蒸し返しますが、目の前に支払いをしている客がいるのに、一瞥もしない)
「さもありなん」とはこのことだと分かった。
この時ハハは、ケーキのケースをまじまじと眺めていたらしい。
「どれもカピカピに乾いていた」と報告してくれた。

外に出ると、漁り火が浮かぶ海が、相変わらず美しかった。
それだけにこの時間の空しさが、胸をよぎっていく。

とにかく「愛されていない料理」なのだ。
きっとあのシェフ様だって、初めからこんなじゃなかっただろう。
事実、この店に行ったことがある人からは「そんなにひどくなかった」ということも聞いた。
でも、なんかいろんなことがあって、こうなっちゃったんだろうと思う。
(クリスマスツリーを飾ったあたりで時が止まったのかもしれない)

「ダメな店」と「ナメた」店というのは微妙に違っている。
「やり方」が悪いのが「ダメな店」で、「あり方」が悪いのが「ナメた店」だ。
それはどんなに高級な店だろうが、街の定食屋だろうが、路地裏のお好み焼きやだろうが、
それぞれに「ナメた店」はある。
だからほら、ビンボーを脱出するとかいう番組で、
気持ちの持ち方と、ちょっとしたやり方を変えれば繁盛していったりする。
でも、また前のように良くない気持ちでやるようになると、ぱたりとダメになる。

ピントが合ってない店も、最終的には料理と客をなめてると思う。
「すし/焼き肉/ラーメン」だなんて看板が上がってる店が、
おいしいはずがない。人間はそんなに器用じゃない。

もちろん、シビアに味を追求する店ばかりじゃなくていい。
それはそれで、「ほどほどの料理がいろいろあってくつろげる」という、
「味シビア」店とはちがった方向性もあっていいのだ。
いつも繁盛してる居酒屋なんかは、これだと思う。
こだわりの押しつけというのもつらいから。

つらいのは、やっぱり、今回の店のように、
作っている人が、自分のことを悪い意味で減点しちゃってるところ。
「しょせんこんなものさ」という切ないあきらめが、
現実的経済不安定要素とないまぜになって、
寂しい料理となって出てくる。

「客の目を見ることができない店」

何をおいても、これがナメ店の神髄だと思うのであった。






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