ぴんよろ日記
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2003年02月27日(木) めぐりあった。

昨日、本屋さんに行ったら、
こないだ「レゾネイトクラブくじゅう」の図書ルームでチラリと見て、
とっても気になった人の本が、ずらりと文庫で出版されていた。
思わず、そこにあった5冊を全部買ってしまった。

レゾネイトで見たとき、
「あ、これは大好きな感じだ。名前も覚えたぞ。長崎に帰ったら探そう」
と思ったのだが、これは、ひとつ決定的に間違っている。
「名前も覚えたぞ」というところ。
私はとても記憶力が悪い。固有名詞など、3歩あるけば忘れる。
しかも困ったことに、それを見た瞬間は、おぼえられると思ってしまう。
なんどそれを繰り返しても学習しない。

ということで、長崎に帰って本屋を探したけど、
探そうにも探せない。名前を覚えてないんだから。

星にまつわる本。

それだけを手がかりに、天文コーナーなど探したけれど、
純粋に理科的な天文の本しか並んでいない。
私が探しているのは、星に関するエッセイや物語が、
美しい日本語で綴られている、ちょっと昔の本。

心の隅に引っかかったまま、時は過ぎた。

そして昨日、見つけた。
なんとまぁ新刊の文庫本コーナーにあった。
「名前を見れば分かるんだけど!」と思っていたのだが、
まさか見るとは思わなかった場所で、その名前を見つけた。
なんせ私がレゾネイトで見たのは、古いハードカバーだったから。
もう、とっても嬉しくて、そこにあった2冊を手に取り、
そのままその文庫の既刊本のコーナーに行って、
キョロキョロ探して、あと3冊を手に取った。

いま、5冊の本は、目の前にある。
ゆっくり、じっくり読もう。
どこをパラリとめくっても、好きな波長が充満している。
(こないだ疲れて買った本とは大違い…)

その人の名前は、野尻抱影。
太陽から一番遠い惑星を、
「冥王星」と名付けた人だという。


2003年02月24日(月) ポッカリに立つ。

何日か前、CM撮影の現場というものを、初めて見た。
(一応、コピーライターで参加…)
とある、遠い昔のアイドルグループにいた1人が、
タレントさんとして呼ばれていた。

撮影風景をボーっと見ていると、
タレントさんというのは、孤独だなぁ、と思った。
スタッフは、たくさんいる。
照明さんだけで、何人いたかなぁ。
スタジオがセッティングされて、カメラ・クルーが何人もいて、
演出家もいて、デザイナーも、プランナーも、ディレクターも、
スタイリストも、スチールのカメラマンも、
及ばずながらコピーライターもいて、
もちろんクライアントもいて、みんな一点を見つめている。

そんな台風の目のような空間に、ポンとひとりで入っていって、
そこでセリフを言ったり、ポーズを取ったり、ニッコリしたりする。

昔の人は「カメラに映ると魂を取られる」と言っていたようだが、
それは、あながちウソじゃない。
私もテレビに出ていたことがあるので、すこーしだけわかる。
私的なスナップではない、公的なカメラの前には、
大なり小なり、ポッカリとした空間がある。
そこを自分というもので埋めた上に、何かを生み出さなくてはいけない。
「しゃべり」「ニッコリ」「解説」などなど、質は違っても、何かを。
さらにタレントやアイドルといった人たちは、
それによって「熱狂」や「お金」までも引き寄せることが期待される。

父がこないだ、私が番組をしていたスタジオを見る機会があった。
「娘さんは、ここに座って喋ってたんですよ」と言われ、
テレビで見て想像していたよりも、何かに驚いてしまったらしい。
後日、えらく感心された。
たぶん、その「ポッカリ感」に驚いたんだろう。
私が言うことでもないけど「娘の孤独とその対決」を感じたんだと思う。
番組は、とても楽しんでやっていたし、思ってもないことを言ったり、
おかしくもないのに笑ったりする必要はなかったので、
タレントさんやアイドルたちと比べものにはならないけれど、
その「ポッカリ感」は、小さいながらも体験した。

イジワルに見れば、アイドルなんて、ちょっとカワイイ顔して、
全部お膳立てされた中にホイッと行って、
ニッコリ笑えばいいんだから楽だよな〜、なんて思うかもしれない。
でも、あの台風の目の中は、想像をはるかに越える孤独がある。
その孤独に、意図的な努力か、無意識の性質として耐えることができて、
なおかつニッコリできる人だけが、タレントやアイドルをできる。
だから「台風の目に立つ人」が、少々常識外れでも、
頭が悪いと思われてしまっても、それはまったく無理のない話だ。
あのポッカリに、その身一つで耐えることができるのだから。


2003年02月22日(土) また失敗。

疲れは、判断力を鈍らせる。
たくさんの人がワラワラいるところで生まれた疲れだったからか、
自然と「家で好きなジャンルの本を一気読み欲」が出てきたので、
本屋で本を選んだ。
こんな時は特に目新しいことが載ってなくてもよくて、
日本人が水戸黄門を喜ぶように、
水戸黄門が嫌いな私が「仕事人」ではすっきりするように、
予定調和というか、「そうだよね〜」と自分の知ってることがじゃんじゃん出てきて、
整理されるようなものがいい。

ということで、東京の名所案内の文庫本を買った。
名所…私にとってはつまり、
皇居とか吉原とか、将門の首塚とか、刑場跡とかですね、
魔界系の名所なんですが、まぁそれがいかがなものかということは棚に上げて。

ジャンルとしてはぴったり。
しかし普段疲れない部分の疲れを抱えていたので、
パラリとめくったり、ちょっと文章を読んでみたりという、
基本的指さし確認を怠ってしまいました。

お風呂に入って、ゴハンを食べて、お湯割りをかたわらに置いて、
さぁ嬉しい本読みタイム…と読み出したのはいいが、
…うーん…なんだこれ?

つまり文章の波長が合わなかったんです。
ちょっとした言い回しとか、締め方などが、とにかく私の頭をかき乱す。
内容自体は「知ってることをスイスイ確認する快感満載」なので、
しばらく我慢して読んでました。
これはとても個人的な判断基準なので、
「ここがイヤだったんだ」と言っても伝わらないとは思うんですが、
極端な一例を挙げると…
「霊にはさらに強力な霊を、ってか?」
…いまどき「ってか?」って言われても…。
あとは、ダジャレ。
普段の会話の中に出てくるのは、まぁ好きではないけど、やりすごせる。
でも文章の中で出てくるのは、とても苦手。
しかも結論の大切な部分で、ダジャレに落とされると、これはもう激高ものです。

ダメだった。放り出してしまいました。読めなかった。

「うわー」「いやだよー」「絵と写真だけでも見よう」「あー、でもいやー」
と叫びながら本を読む私を、ダンナは不思議そうに見ていました。
だから、
「ベースの車は大好きな車なのに、
そこにワケのわからん妙ちきりんなパーツを付けて自慢しているのを見せられたような感じ」
と解説すると、
「わー、のぼすんなー、ゆるせんなー」と共感してくれた。

本屋で目次だけでも目を通しておけば、こんな気持ちにならずに済んだのにと後悔。
普段はこんなことないんです。
本を買ったり読んだりすることも、商売のうちですし。

教訓。
疲れたときにきびなごと本を買うのはやめましょう。




2003年02月21日(金) よりによって

きのうは、久しぶりに1日外で仕事だったので、
とても疲れて帰ってきた。
なのに、なんとなく外ではごはんを食べたくなくて、
材料を買って帰った。
こんな日は、簡単に、パパッと作れるものがいいはずだ。
なのに、なのに、何をトチ狂っていたのか、
きびなごを買ってしまった。
(銀色のラインが美しい、小さな魚です。刺身にすると、2匹が一口分くらいの)
延々ときびなごを刺身にした。
ものすごく後悔しながら。
しかもボーっとしていて、うまく行かず、
何度も深くため息をついた。
疲れた日には、きびなごを買わないほうがいい。
よくわかった。


2003年02月20日(木) 春の常。

よく知る範囲で、大幅な人事異動があり、
悲喜こもごもな感じだ。
そういうものとは、完全に無縁な人生を選んでいるので、
どういう気持ちになるのか、想像がつかない。
いろんな仕事をしているという意味では、
自分のことをしばしば「セルフ人事異動」させているとも言えるが、
それはたぶん、まったくもって程遠い感じであるだろう。
「ブーメラン」の話を受けたときは、
自分の中の人事部長が「そういうことをやってみるのもいいんじゃないのかね?」と、
言ったような気もするが、
そこには「やらない」という選択肢もあったわけだから、
やっぱりちょっと違うな。

「会社員という生き方」とは、そういうものなのだと言うこともできるが、
日々の暮らしの中では、目の前の仕事をして生きているわけで、
それが「ハイ、明日からアレね」ということになったときに、
やっぱり1人の人間としては、そうそうスムーズに行くもんでもなかろうと思う。

どっちがいいかなんて、それはその人による、としか言いようがないし、わからない。
人によって「平気なこと」「どうしてもダメなこと」などは全然違うので。
「普通はこうでしょ」「それがどうかしたの?」って、
それぞれが思ってることって、全然違うんだから。

まぁ何と言うか、体は大事にがんばってください。

お前に言われたかないか。



2003年02月10日(月) 春が来やがった。

頼んでもいないのに、また春がやってきました。
そう、ぼんやりした自分が、より一層のぼんやりになる、
花粉症の季節です。
効くとかいうので、にがりを飲んでいましたが、
今日から、明らかに花粉症です。
去年はあまり薬を飲みたくなかったので飲まなかったら、
やっぱりひどくて、鼻をかみすぎたのか、
まわりまわって親しらずが腫れました。
今年は観念して薬を飲もうかとも思っています。
漢方系で押さえられるといいんですが。
あぁ…。


2003年02月07日(金) じじのにじ。

今日はたぶん、じじの命日だ。
「じじ」とは、じいちゃんのこと。
私によく似たじいちゃん。
宝くじを買ってしまうところなど、遺伝子を色濃く感じる一人だ。

「たぶん命日」なんて、バチが当たりそうだが、
2月の2や3や4でもなく、8、9でもなく、
5でも6でもなかったような気もするし…ということで、7だろう。
ひょっとしたら違うかもしれない。

たぶん命日だろうということで、骨がある寺に行ってみた。
寺町の由緒ある古いお寺だ。
といっても、代々そこの檀家だったわけでもなんでもなく、
乱暴に言えば、じじの死後、なりゆきでそこに決まった。
よく言うと「縁あって」ですね。
実は戒名も2つ目だ。戒名変えるヤツなんていないぞ、普通。
カッコイイなぁ。さすがじじ。
2つの戒名に共通しているのは「梅」。
最初のは「梅渓登関信士」で、次のは「梅林院登詣信士」だったかな?
違うかも。でもそんな感じの。
つまりは「梅の季節に死んじゃった登(のぼる)さん」ということだ。
今日もお寺には梅が咲いていた。

古いお寺の新参者なので(といっても、もう10年近く経つなぁ)、
納骨堂すら順番待ちで、骨は納骨堂のどっかに置かれている。
本人はたぶん、どんな戒名が付いていようが、どこに骨が置いてあろうが、
あんまり気にしてないと思う。

お寺の庭のベンチに座って、ぼーっとしていた。
そのお寺の庭は、日当たりがよくて、いろんな木や花があって、
小さな極楽みたいなところだ。
かすかに梅の匂いがして、絵に描いたように鴬も飛んできた。
遠くの木に目をやると、風で動いている。
音は聞こえないけど、近くに行ったら「ざぁ〜」といっているのだろう。
その揺らぎを見ていたら「じじは自然に戻ったんだなぁ」と思った。
その揺らぎそのものが、じじなんだろうと。
梅の花も、蘇鉄も、鴬も、「来ないかなぁ」と思ったら来た猫も、
みんなじじなんだ。

自然というのは、ぼよーんと大きな存在で、いつも揺れてて、
その揺れから生まれた波が形になって、時々人間になったり、
木になったり、猫になったり、雨になったりする。
形になっている時間は、人間だと平均7〜80年、雨だと数分。
その時間が終わったら、さらさらと、また元の自然に戻っていく。
…そんなことを、「思った」と言うよりも、「わかった」。

そういえばゴル(長年飼っていた猫)が死んだときも、
翌日別の猫を見て「これからはどの猫もみんなゴルなんだなぁ」と、
妙に明らかに思えた。

家に帰って仕事をしていたら、窓の空に、
すうっと虹色の光が1本出た。
この部屋に3年暮らしているけど、初めて見るような光だ。
なんだろう、と思ったけど、すぐに「じじだ」と思った。

こんなふうに思うことって、受け入れられないことの方が多いし、
説明しろって言われてもできないけど、
そうなんじゃないのかなぁ。


※命日は6日でしたとさ。



2003年02月06日(木) 行方不明、リンチ、いじめ。

水槽の水替えをした。

掃除をしていたら、茂った水草の間から、
見かけなくなっていた魚の「遺体の一部」が発見された。
「名前は忘れたけど、最近買った黒くて細いナマズみたいな魚行方不明事件」は、
最悪の結末を迎えた。

他殺の可能性も否定できない。

こないだは「ヤマトヌマエビ集団リンチ事件」も目撃した。
新入りのヤマトヌマエビを、
古参のミッキーマウス(魚の品種の名前。別にディズニーファンではありません)が、
猛烈に突っついていて、弱ったところをプレコ(でかい。怪獣みたい)が頭からワシワシかぶりつくという、
もう、リンチと言うよりも傷害致死事件であった。
死んだし。

しかも5匹入れて5匹とも。
最初の4匹は死因が分からなくて「水が合わなかったのかなぁ」と悲しんでいたけど、
なんのことはない、
私たちがノンキに「水槽のお掃除屋さん。丈夫で飼いやすい!」と信じていたヤマトヌマエビは、
ただの「生き餌」にしか過ぎなかったというわけだ。
最後の一匹でようやくコトの真相を知ることとなった。

エビをワシワシするプレコ同士にも感情の行き違いがあるらしく、
大プレコはいつも小プレコをいじめている。
小プレコが時々逆ギレしていることもあるが。

しかし、目の前にあるというのに、水槽の中の世界には手出しができない。
たとえ一時的にいじめるものを、いじめられるものから箸でつっついて離しても、
四六時中は無理だから、どうしようもない。
病気もそうだ。死にかけているからといって、どうしてやりようもない。
生きるまま、いじめるまま、いじめられるまま、死ぬままを眺めているしかない。

今日、いつもは「夫婦の共同作業」として行う水替えを一人でやったのも、
ずーっと昔からいる一匹の様子がなんだかおかしかったからだ。
なんとなく、水がイヤそうだったので、替えてみた。
でも、できるのはこれだけ。
一度おかしくなってしまった魚が、元の元気を取り戻す確率が低いことは、経験上よく分かっている。

やれることをやって、あとは祈るしかない。
古今東西でよく言われるそんなことを、魚たちが実感として教えてくれる。
がんばれ、コリドラ。
神様じゃないけど見守ってるよ。




2003年02月05日(水) 黄金伝説。

大学の時は「民俗学コース」なるものに在籍しておりました。
特に何を深くどうこう、ということはまったくなく、
ごく一般的な日本のダメな大学生な感じで、なんとなく卒業しました。
でもまぁ、それなりにいろんな本などを読んでみるわけです。
そこで知ったのが、世界各地だか日本各地だかにある、黄金にまつわる伝説。
ビンボー家族の所に、これまたビンボー神のようなオッサンが訪れて、
しょうがないから台所にでも泊めとくと、そのオッサンは死んでて、
死体が黄金になってる、とか、まぁ、いわゆるウンコが黄金になってるとか、
そんな感じの。

で、それがずーっと頭に残ってて、たとえば「ウンコの夢を見たら、運が付くんじゃないか」なんて、
よくわかんない考えにとらわれたりもしている部分があるのが、否定できない。

ということで、おととい「何かを触った拍子に、手に少量のウンコが付く」という素敵にショッキングな夢を見ました。
だから、大好きなスクラッチくじを、普段の倍量(いつも5枚なので10枚)買ってみました。

(スクラッチくじって、絶妙なバカバカしさと後ぐされのなさが好きなんです。)

で、どうだったか、というと、これがじぇんじぇんダメ。
2000円で200円の当たり。
普段は5枚買うと、かなりの確率で500円が当たるので、半分は取り返すんですが、
じぇんじぇん、ダメ。

「ちっ、ウンコがどうした」と心もすさみがちになっていたので、
部屋の片づけなどしておりましたら、まー、出てくるわ出てくるわ、
以前のスクラッチくじのへなちょこ当たり券が。
そもそも「どきどきしながら買う」「ちょっと夢見る」「削る」という行為にお金を払っているので、
1等2等、いや3等くらいまでならともかく、4等5等の当たり券をこまめに換金するということを、
あまり積極的にはしないわけで、その結果、いろんな所に散らばってたりします。
それがどんどん出て来ちゃいました。
こないだのジャンボの末等券も。
全部合わせると3000円でした。

なんとなく、「ちょっとだけ手に付いたウンコ」と共通するものがあったので、
ひとり笑っていたわけです。

すいませんね、ヘンな話で。



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