ぴんよろ日記
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2002年03月05日(火) |
珍しく、人にすすめてみる。 |
最近テレビを見ていて思うのは、 CMにジョン・レノンの曲がたくさん使われているということ。 ジョン・レノン本人が歌っているのもあれば、アレンジされているものもある。 ジョン・レノンの歌だと思って聴いていない人も多いに違いない。 20代前半までの人は、初めて聴くのかもしれない。 ジョンが死んだ年、私は小学4年生だった。 その時のことはよく覚えている。 ハハがビートルズが好きで、死んでしまったことを知ると、 「もうビートルズは揃わんとね…」と言って、温風機の前で泣いていた。 (いま思えば、その時のハハは、今の私と同じ年だ…)
広告というのは、なんてヘッポコ・コピーライターが言うのも何だけど、 どんな簡単な、安直に見える表現でも、たとえば趣味の同人誌の凝った表現の、 何倍も考え抜かれて作られている場合が多い。 ためしにその辺にあるものの広告を作ってみると思って、 コピーを考えてみるとよく分かると思う。 どっかで聞いたような陳腐なものしか出てこなくて、 それはそれは笑ってしまうくらいだから。 一度その作業に取り組んでみて、世の広告を見渡すと、妙に感心すること請け合い。 自分が納得すれば良いってものではなく、様々なベクトルの集合体があって、 さらにそれをひとつにまとめる力が必要とされるから、その辺が難しい。 普通の文章では面白くても使えない言葉もたくさんある。 まー、たとえば社長が好きなタレントを使えば、それでいい、という場合もありますが。 だから、曲も、まともなCMなら、様々な選択肢を考えた上で決められている、はず。 ということは、ジョン・レノンの曲が使われているCMにしても、 今生きているミュージシャンの曲を使うなり、新しく作るなりしてもいい。 そのそれぞれに複数の候補があったはずだ。 でも結局はジョン・レノンの歌。これはどういうことだろうか。
ひとつには、テレビで流れているCMを作っている人の能力が低下して、 新しいものを使う勇気とセンスが無いという場合。 あるいはいくつかの選択肢の中で、それを選ぶ企業の方が及び腰で、 聴いたことある曲の方を選んだという場合。 またあるいは、今を生きる人によって作られている曲自体の力が無いという場合。 いや、これはそもそもジョン・レノンと比べるのは、 そりゃ多くのミュージシャンにとって酷な話なんだけど、 CMって、「今」のものだから、そのぶん本当は、ジョン・レノンは弱いはず。 でも。あえて。どうしても。 ということは、結果的にはジョンの歌が必要とされている「今」なのだろうと思う。
…と、ここまでは、実はマクラです。 私は最近、オノヨーコさんのことをいろいろ読んだりしていて、 みんなが今必要としているジョン・レノンは、ヨーコ&レノンなのに、 どうしてやっぱりジョン・レノンだけになっちゃうんだろうってことを思う。 テロのあと「自粛曲」として話題になった「イマジン」だって、 「環境としての奥さん」つまり「内助の功」(げー。)としてのヨーコさんじゃなく、 強烈な才能の持ち主としてのヨーコさんに負うところが、 普通に「イマジンって、いいなー」と思っている人が想像するより、 たぶん、はるかに多い。 私も最近いろんなものを見たり聴いたりして、初めて知った。 彼女が作った「アート」も、極限までシンプルで、想像力をかき立てる、 まさに「イマジン」な、素晴らしいものが多い。 彼女のあれこれを知ると、ジョンの歌がより深く響く。
日本人(特に男)は、ヨーコさんのことを、とかく良くはとらえない。 でも、曲がりなりにもジョン・レノンの歌に共感する人は、 好き嫌いは後で決めていいから、ヨーコさんが作ったものを見たり、 書いた物を読んだりしてみる義務があると思う。
最近出たのは中公文庫の「ジョン・レノン・ラストインタビュー」 (ほら、この本のタイトルだってジョンだけ。2人で話してるのに) ジョンが撃たれて間もなく出た本で、絶版になっていたらしい。 訳者は池澤夏樹。復刊を考えていたら、テロ事件が起こったとか。 水声社の「ヨーコ・オノ 人と作品」(飯村隆彦)では、アート作品も見られる。 「どうして人はヨーコを嫌うのか」という分析もしっかり。 あとは講談社文庫で「ただの私」「グレープフルーツ・ジュース」など。 これもすごいが、いきなり読んでもとっつきにくいかもしれない。 あ、ビデオ屋さんで「イマジン」を借りてみるのが、まずはいいかも。
あんまり読んだ本のことなんて人には勧めないんだけど、 これからを生きていくために、心の根っこに置いておきたいことが見つかると思う。 テロ事件の後、なにより必要とされた歌は、 ヨーコがいなくては「絶対に」生まれなかった。 それは、事実だし、知ってていいことだ。
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