長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2005年05月29日(日)

 ようやく、少しずつ、温かくなってきた北国。テラスでのんびりできる場所が徐々に増えるのかも知れない。テラスでのんびり過ごす時間は、無いかも知れないけれど。

 そう、例えば、曇で寒い日は嫌い。頭が痛くなる。身体が縮こまる。動くのも喋るのも、思考するのでさえ億劫になる。反面、晴れて暖かい、穏やかな日は良い。怠惰にはなりがちだけれども、気持ちは良い。心地良い。シェスタなんかできるのならば、最高だと思う。それから、雨は案外好き。風の無い日の小雨なんかは特に好き。爽やかだ。清々しい。とても。嵐はいけない。風が強い日は晴れていてもいけない。好ましくない。私にとっては。
 そういう感覚が、最近の私を支配している。小説の中で天気が主人公の心情を表しているとか教わった記憶があるけれど、きっとそうではないのだ。天気でさえも人間の心を左右させる。小説は其れを顕現させているに過ぎない。

 春になると桜が咲くでしょう。そうして一週間もすれば、散ってゆくでしょう。其れを見て、人は様々な思いを抱くかもしれない。潔いとか。可哀想とか。綺麗とか。其の他、様々、人其々に。
 フラワーアレンジメントの写真の中で、洋風の花器に切り揃えられた無数の薔薇が顔を覗かせていた。此処彼処と、ひしめくように。其の花器の根元に、わざと、数枚の花弁と首から上の花の頭を、転がしていた。写真に撮っているのだから、之は意図して遣ったに違いない。如何いう気持ちで作り、如何いう気持ちで撮影したのかしら。其処にあるのは桜が散らす花弁と同じ、或いは椿が花ごと地に落ちるのと同じ情景だけれども。作られた世界。

 週末には少しずつ、色々なものを整理してゆく。部屋の雑貨だったり、或いは思考だったり。そういう時間は、必要だと思う。



2005年05月24日(火)

 毎日を忙しいと感じられることは、其れは本当に幸せであると思っている。其れは、真実。また、忙しいことを理由にしてある特定分野を疎かにしたくないと思うことも、真実。同時に、忙し過ぎて本当に自分が望んでいることを見失いたくないと思っていることも、事実。難しいのは、きっといつもバランス。

 私は、自分は酷く保守的な人間であると思う(仕方が無いという諦観もある、私は所詮あの人の血を継いでいるのだから、つまりあれ、蛙の子は蛙、瓜の蔓に茄子はならぬ)。保守的でありながら、私は多分異端でもある(異端という定義にもよるけれど、多分異端じゃない人を探す方が難しいのだろうとも思う、要は自覚の有無くらいなもので)。人前で如何に振舞おうと(或る場合であれば、決して弱みを見せず、凛としてる姿、或いは誰にでも明るく振舞う、もしくは笑顔を絶やさない姿)、人前でない時には、悩みもするし惑いもする。落ち込むことも、其れ以上に鬱になるときもある。そういう傾向が顕著になる場合もあるだろうし、本人以外に伝わる場合も、決して伝わらない場合も、あるだろうし。誰かにとっては笑って済ませられる事象が、彼もしくは彼女或いは私やあなたにとっては物凄く負担になることだって、あるじゃない。あって当然。其れは忙しいこと自体が負担なのではなくて、もっと、些細なこと。そういう瑣末事に気を取られるのを、私は酷く嫌う性質にあるのだけれども、いつも身から遠ざけていられるわけじゃない。
 だから、逃げたいのではなくて(否、勿論短絡的に逃亡したいと思うときはある、というか殆ど常にそうなのだけれど、冷静に考えると現在からの逃亡ではなくて)、考える時間とか、逆に何も考えなくてもいい時間とか、そういうものを望むときもある。引き篭もり――っていうのは、そういう意味なら、私は大いに賛成なわけ。もっと言えば、精神的な引き篭もりっていうのは素晴らしいとさえ思うわけ。だって、常に外界に接していて精神的に安定していられるとは思わない。また同時に、常に内側に閉じこもっているのは好ましくないと思う。引き篭もりが永遠に続くというのはあってはいけない、自給自足で完全に社会から隔絶して隠遁生活を送るというのなら、話は別だけれども。

 ねぇ、バランスでしょ、要は。自分の中で、折り合いをつけたいだけなの。不安定さと安定さの、不安と自信の、思考と行動と、そういう、折り合い。



2005年05月22日(日)

 嗚呼、何て忙しい週末! 部誌の印刷にも結局行けなかった。何だかなぁ、溜息ばかり。幸せなんてどれだけあっても逃げていくばかり。

 時々、自分の痕跡を全て消したくなる。全て。特にネット上の痕跡。別段、理由があるわけではなく。本当に何と無く、気分的な問題なのだけれども。
 痕跡が残っているというのは、恐ろしいと思うときがある。つまり、ネット上であれば私が「私」であるとわからなければ全く問題無いことでもあるのだけれども。何と表現すべきか難しいのだけれども、たとえば時折溜まっていた日記のログを全て削除してしまうとか、そういうことも含む。過去を消す、というわけではなく。単に、一部での痕跡を消すというニュアンス。微妙。

 血液検査の結果が出るまでは当面絶対安静(ということになっているの)だけれども、まあいつもの通りであろうという安易な予測の上で、相変わらず両手に抱えきれないほどの様々な事物を抱え込んでいる。強く在る為には相応の対応をしなければならないと――私は信じ込んでいる。他者に弱みを見せるほど弱くはないよ、と。増して他者に弱みを握られるほど優しくはないよ、と。其れは決して、楽ではないけれど。



2005年05月20日(金)

 一週間近く間が空いてしまう、ね。週にニ、三度は書き始めるのだけれど、途中で書き止めて消してしまうのよ、ね。書きたいのと、書けないのと、書かなければならないと思うのと。嗚呼、そろそろ脱却だと思ったのだけれどなぁ、五月病。
 書くという作業に追われているから書けないのか、書くという作業に追われているから書きたくないのか。兎に角、書きたいような書きたくないような。曖昧で微妙な感覚。しかもこういう感覚は日和見なので困る。せめて明日は平気で在りますようにと祈るばかり。

 そういうわけで、書けないんです。



2005年05月15日(日)

 如何してこんなことでこれほどまでに気を使っているのだろう――と思うことが、しばしばある。ただ、多分、向かい合っているときは其れが最善なのだろう。少し時間が経って、改めてゆっくり考えることが出来た時、なんだかなぁ――と思うだけで。

 流石にそろそろ忙しくなってきているのだけれども、まあ、昨年度に比べれば大したことは無い。そう思い込んで一応何とか乗り切っている五月。倒れたら其れは其の時。去年だって何だかんだと言いながら――確かに二度ほど倒れたけれども、乗り切ったわけだし。死ななきゃ何とかなる、寧ろ何とかしなければならない。そんな感じの五月病はそろそろ末期(の筈である)。本領発揮(しなければならない)六月までは残すところ半月しかない。
 他者の自分に対する評価と、私の私自身に対する評価との、差が大きければ大きいほど、辛い。遣る瀬無い。其れがどれ程些細な事であっても。嗚呼そういう風に思われてるんだなぁ、という単純さではなくて。嗚呼そういう風に振舞わなければならないのかなぁ、という日常的な演技に対しての瑣末事。此処では何度も書いたかも知れないけれど、演じるのは非常に簡単な事だと私は思っている。演じることと嘘を吐くこととは違う。演じるのは、容易だ。慣れてくれば演じ分けるのも然程難しくはない。慣れてくれば。


 もう少しだけ、殻の内側に、繭の内側に、眠りの如き安寧の中で微睡んでいたいなと思う。何も思考することなしに。そういう気楽さは、如何遣っても手には入れられない。限り無い努力をしても。全てを投げ出しても。決して。



2005年05月08日(日)

 新しい書棚(に相当するもの)を購入したので、部屋の模様替えを少し。序でに晴れていた端午の節句の日に山積みにされていた本たちを全て整理して虫干し。そんなこんなで現在自室は寝る場所と書く場所とパソコン場所のみ確保、他は雑然と散々と。足の踏み場は、まあ其処其処。


 嗚呼、何か面白いことないかなー……と言っていた中学高校時代が懐かしい。与えられた「面白いこと」に興ずることしか知らなかった時期。当時は、今の私から見ても相当不安定だったわけで、不安定であることが当時の安定した状態だった。今は、不安定になればなるほど軌道修正して安定しようと努める、というか足掻く。見苦しいけれども。興味深いこと、というものを自分から努めて求め探せるようになったのは、つい最近のことのように思う。そんなんだから、大学に集う遣る瀬無い顔をしている学生たちを見ては、子供だなぁ、と思ってしまう。自分だって、あの頃は子供だったわけだけれども。
 何処に居たって、多分同じ事。留学先だって、やる気のある学生とそうでない学生は顔つきが違ったもの。やる気、其れは勉学に対してだけでなく、何かを熱心に、或いは遣り遂げようとする意思。自分の内側に求めようと、外側に求めようと、別に構わないけれど。外側に求めてどんどん外へ解放して、見当違いの方向へ進んでのめり込んでしまう人も、たくさん見た。そういう意味では、内側に求める、回帰というのも必要なのかしらと思う。

 未だに、私は相当見苦しく足掻き続けているけれども。何処か一部では本能と理性とを完全に切り離して、主観と客観を完全に二分させている。嗚呼、こういうのって安定しているとは言い難いのかも知れないけれど。結局自分はこういうものの見方をするんだなぁ、っていう諦観が半分、其処に安住できる安堵が半分。二十年間こうやって付き合ってきた思考、という自負もある。これからも付き合っていくんだなぁ、という朧な感覚も。
 どうしようもないじゃん――そんな感じ。



2005年05月03日(火)

 頻りに吐気と頭痛と苛立ちが襲ってくるので、ガムばかり噛んでいる。誰が悪いわけでもないということくらいは理解しているけれども誰かに八つ当たりしたくなりそうで恐ろしいのでメッセンジャは暫くオフの侭。嗚呼、折角の連休だというのに! 序でに言うと私が悪いわけでもないのだろうけれどなぁ。自己嫌悪の塊。

 極度の疲労倦怠感――というものが、何処から生じるものなのかはわからない。深く深く、目覚めないくらいには深く、眠っていたいと思うだけ。出来ることならば、二度と目覚めないくらいに深く。浅い眠りで一晩を過ごすのは、辛い。眠っているのか起きているのか不明瞭な、半覚醒の状態。そういう状態に陥るくらいならば、底無し沼にゆっくりと沈んでいく深い夢を見た一瞬で目覚める方がどれ程潔いだろう。
 昨年度よりは随分暇になった――なんて言ってはいるけれど、確かに時間は有るのかも知れないけれど、其の分遣るべきことも増えた。執筆の手も御留守になっている日々。……嗚呼、モチベーションを自己管理できないことが一番の苛立ちかも知れない。



2005年05月01日(日)

 あの頃と何が変わったのだろうと、考える。

 何かに対して、或いは全てに対して、希望を持っていた時期。熱意を持って眼前に在る事象に取り組むことが出来た時期。寝る間も惜しんで立ち向かう確固たる意思と意志とを持っていた時期。
 ――あの頃は若かったから。とは言えまい。数年、ものの五年前か、其れより短いか。二十年の人生の四分の一が、大きいか小さいかは別として。別段大きな環境の変化があったわけでもなく、人付き合いが変化したわけでもなく、何も、何も――傍から見て変わったことなど何も無いというのに。

 遣ろうとする意思と、実際に何かを遣り遂げる気力とが、比例しなくなった。意思だけが先行し、後には疲労感だけが付いて回る。
 其れは単なる五月病ではないか。――嗚呼、はいはい、そうですね。どうも御世話掛けました。……と、投げ遣りに答えるだけの遣る瀬無さは持っているのだけれども。如何にも、表面的なものは兎も角、深い意味での誠実さというものを持ち合わせていないらしい。常に客観的に、疲れるな、と思うだけで。










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