長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2004年10月31日(日)

 ねぇ、別に良いじゃない。如何して、自分の意思を貫くことが悪いの。

 一日を無駄に過ごした。多分、意図して。明日からのことを思うと、今のうちに休んでおかなきゃ、という気分になる。多分、そう。昨日は特別に夜が遅かったわけではないし、朝起きたのも平日よりは遅かったわけで、幾等最近の疲れが溜まっていたとしても、其の所為じゃない。きっと、明日からのフィールドワークの所為。
 鬱陶しいメェルの着信音。善意なのか、嫌がらせなのか、私には判別出来兼ねるようなもの。はっきりと拒絶の意志を示した方が良いのか、其れすら私には解らない。唯認識出来ることは、私自身が不快であるということだけ。

 明日は朝五時起き。五日間の旅行程。色々なところに同じ事を書いているのだけれど――
 ……死んできます。



2004年10月30日(土)

 土曜日はまず図書館へ行く。新着本を確認して、面白そうなものがあれば其の場で借りてしまう。情報処理教室へ向かい、資料組織演習目録法の授業を受ける。正午過ぎに授業を終えて、教室移動をした後、昼食。今年に入ってからはずっと御弁当。朝作るのは面倒だけれど、週六で学食よりは、幾分マシ。13時からはもう一つの授業、レファレンスサービス演習を受講。其の90分後、再び図書館に赴いて、今度はアルバイト。レファレンスで使用された一週間分の雑誌や紀要、其の他資料を配架。其れが終わると書庫の整理に移る。16時45分から19時45分までの中で最低一時間は、カウンタ業務に入る。貸出と返却の処理。19時半には一週間分の新聞を整理。20時には閉館準備に入り、何事も無ければ20時半に無事閉館。
 之が、私の土曜日の一連の動作。毎週毎週、殆ど変わることは無い。

 多分、暇である事と忙しいという事とは、必ずしも相反しない。同時に起こる事だってあるのだ。

 カウンタに座る土曜日の一時間は、大抵暇だ。そもそも大学図書館を土曜日に利用する人が、多い筈が無い。留学生と院生、外部利用者。学部生は極少数。平日のAV資料利用者が優に三桁を超えるのに対し、土曜日は30名前後。返却はあっても貸出は少ないというのも土曜日の特徴か。兎に角、暇。序でに言えば16時ともなれば既に外は暗くなってしまうので、睡魔にも襲われる。だからというわけではないけれど、土曜日のカウンタ担当者は大抵本を一冊用意する。雑誌であったり、語学のテキストであったり、或いは文学であったり、色々だけれど。そうして本に視線を落としながら、時折館内に視線を巡らせて溜息を吐く。

 キーボードをカタカタと鳴らしながら端末で何か検索する人。
 椅子に座って雑誌を捲りながら、分刻みで脚を組み直す人。
 参考図書を片手に勉強をして、半刻置きに立ち上がり館内をぶらつく人。
 書架を嘗め回すように歩き回りながら、携帯を弄る人。
 ――多分、既に見慣れた光景。飽きを感じる事は無いけれど、特別興味を惹かれるものも無い。

 別に、如何という事は無いのだと、思い込む。自分に言い聞かせる。
 後一ヶ月と半分、同じ事を繰り返せば冬休みに入るのだから。其の後は、一週間の通常授業、一週間の期間外試験、そうして定期試験で、長い春休み。他には何も、無い。
 春休みにはまた旅行に行こう――合法な家出をしよう。誰も止めない。誰に求める権利は無い。だって、合法だから。
 私は月に何冊かの本を読んで、独逸語だの英語だのといったテキストに向かい、図書館の現状は如何こうと聴講して、課題をこなし、休日には死んだように眠りたくなるだけ。現実には忘れる事無く朝が来て、私も死ぬ事無く目が覚める。其の、繰り返しだけ。



2004年10月26日(火)

 雲間に見え隠れしていた月の輪郭が、何処かもどかしい。

 天気予報は欠かさずに確認している。だから今日雪が降るかも知れない事も、今夜半から雪が降り、積もるであろうことも、認識はしている。――道理で寒いわけだ。そう感じるのも、理解の上。寒さは物理的なものだけでは決して無い。裡側で蠢く、何か。

 二ヶ月ほどの夏休みを経て、秋学期の開始から一ヶ月――同じ18時に講義を終えてバスを待っているだけなのに、空の色の違いに私は眼を細める事しか出来ない。
 月の位置が違うことと、太陽の昇降時間が変化したこと。風の匂いが変わったこと。残りは、精神的な問題が占める不快感の量の違い。

 冬の、日光の暖かさと、特有の冷気との、入り混じった空気は嫌いではない。夜の冴えた冷たさも、夏の惰性帯びた夜気より良いと感じることもある。其れが爽快感ではないとしても。
 疲労は、確実に私の視力を落としたようで、或いは脚と腕の痛覚に反映されたようで、身体的な疲労は私に睡魔を齎すけれど、私は、寝ることも侭ならない。
 ゼミ旅行の出発まで一週間を既に切っていて――事前調査等の、遣らなければならないこと、を「義務」として、私は、心休まる時を持たない。
 迷路。若しくは永久の回廊。
 合法的な家出を常に目標としてきた私は、つまり、どのような理由をつけてでも其れを正当化して「家」を出ようとしている私は、ずっと、迷路か、回廊か、其れに準ずるところを、走り続けてきたのだろう。
 之からも、ずっと。走り続けていくのだろう。

 腕時計を携帯する事は、私の義務。其の金色の秒針が留まる事無く時を刻み続ける限り、私は何処かへと追い詰められてゆく。



2004年10月23日(土)

 長く果てし無い回廊を歩き続けるように、縦令空回りしながらでも、ずっと思考し続けるのは不可ない?
 デカダンに憧れること。
 記憶の忘却を選択すること。
 狂気を見詰めること。
 素描画を描き、揺籃に身を任せること。
 そうやって、迷宮の中に這入り込んだとしても、誰が、止められるだろう。誰が、出口を教えてくれようか?
 怠惰でありたいと願う一方、私の中では確実に、完璧を求めている。そうあらねばならないという、義務。二重螺旋に刷り込まれた、意思。

 何もしたくない。ずっと、眠っていられたら良いのにとよく思う。朝陽に目が覚めて絶望するより、悪夢にうなされていた方が幸せかも知れないと。所詮、夢は夢だから。
 目が覚めれば「遣らなければならない」という焦燥に、焦慮に駆られ、後は其れを実行する為に自分を追い詰めるだけ。如何ということは無い日常。休日だと解っていても6時には目が覚める。細胞が記憶している、時間の流れ。どれ程疲れを感じていても居眠りを許さないのも、同じこと。

 矛盾を正当化する為の理屈を考えることに専念して、「事実」を作り上げる。
 そうして、自分自身の存在を否定しようと試みる。


 菊の花と、霙が、嗤った気がした。



2004年10月22日(金)

 ……頭痛。吐気。目眩。息切。
 動悸はあまり酷くないけれど。

 私の周囲で流行っている風邪(頭痛と動悸らしい)、とは違う。自分的に風邪っぽくない。薬を飲んでも調子が良くならないのは、経験上、風邪ではないからだ。
 季節の変わり目、だからかも知れない。急に、気温下がったし。

 雪虫大発生。今年は十月中に初雪が降りそう。奈良・京都へのゼミ旅行が十一月初め、其の頃現地は20℃弱らしいので、最高気温の差は約10℃。現地の最低気温より、札幌の最高気温の方が低いのよね。……此の侭の体調で行ったら風邪引くこと間違い無しじゃない。
 そう言えばゼミ旅行、料金の関係でホテルは二人部屋になってしまった。……憂鬱。

 嗚呼、駄目だわ。疲労の所為か普段以上に悲観的。
 今週末は図書館アルバイト。来週一週間を終えると次はゼミ旅行。当分休めそうには無い。



2004年10月19日(火)

 ただただ忙しいだけで、何かを考える間も無く一日は終わる。
 単純な繰り返し、其の行為、一週間前に遣った事を繰り返して、一週間後にはきっとまた同じ行為をするだけ。機械的で、無機的な、何か。

 「遣らなければならないこと」に追われるばかりで、其れ以上の事をしている余裕がない。毎週出される課題であったり、検定の勉強であったり、其れは様々だけれども、如何しても今遣らなければならないことで、放り出すわけにはいかないもの。
 適当に手を抜く事が出来る部分は手を抜いてしまえば良いのに、其の判別が出来ない私は取り敢えず全部やり遂げようとする。やり遂げようとはするのだけれど、私は人以上に怠惰なので、直前になって非常に焦るだけ。
 元々余裕を持ってやり遂げられるほどの時間は持っていないのだけれど。其れにしても、私は常に自分の怠惰さにさえ苛立つ。然し、私は私の怠惰さを許してしまうだろう。

 ゼミ旅行の準備が着々と、進んでいる。資料集めを、始めなければならない。
 また、時間を奪われる。



2004年10月16日(土)

 何と無く、苛々している。別に何か気に障るようなことがあったわけではなく、唯、苛立ちが収まらない。指先の震えが止まらない。肌の粟立つような感覚が拭い去れない。視界が、靄がかかったように判然としない。
 疲れているのだ。確かに、私は疲れている。朝から晩まで休みの無いタイムスケジュールにも、課題が多い其々の授業にも、週末夜遅くまでのアルバイトにも、或いは対人関係にも。
 休めば治る。其の休む時間さえ無い事に、原因が在るなんていうことは解りきっている。解ってはいるが、如何しようもならない事実も認識している。

 秋学期は春学期よりも短い。実際には同じ授業数なのだけれど、冬休みを挿んだ後直ぐに試験が行われること、冬を含むために昼の長さが短く一日一日が加速するように過ぎていくことが、秋学期を短く感じさせる。少なくとも、私が友人と話し合った結果はこうだった。
 実際が如何であるかなんて如何でも良いこと。短く感じられる。だから、そう信じ込むことによって、短くなる。短いから、頑張れる。

 私は、苛立ちに対して耐えることしか知らない。我慢するのは難しく、そして容易だ。何よりも。



2004年10月15日(金)

 好き嫌い以前の問題で苦手な人物、というのは私にとってきっととても多くて、私は生理的に拒絶するのだけれど、世間は其れ程甘くないので幾等私が苦手な人でも付き合わなければならない時は如何足掻いたところで付き合わなければならないことも、沢山ある。引き攣りながらでも笑って付き合える自信はあるので、無視できるところは完全に無視して、そうでない時は引き攣りながら笑って誤魔化す。
 ……でも、限界を超えることだって、あるじゃないか。

 年齢とか関係なく。たとえ年上だろうが年下だろうが、笑って見過ごせないことだってある。思い出すだけで苛立ちと腹立たしさが蘇るのだけれど、出来ることなら、私の前で口を開かないで頂きたい。自信を持って自分自身を卑下するのも辞めて頂きたい。見苦しいとしか言えないし、見ていて不快だ。


 ……二十歳を超えていて十二支を星座と同じと考える訳の解らない奴が何処に居る。



2004年10月14日(木)

 京都へのゼミ旅行を決行(強行?)するという事実が決定してから三日経過。教授が「スペシャルウィークの中で行くので旅行に参加しなくても単位には影響ありません」などと言ってくれた御蔭で参加者は非常に少ない、様子。明日金曜日の正午が参加希望の締切。……ゼミ生十五人中、今のところ判明している参加者は私を含めて三人。……。

 4限と5限の間の移動中、ゼミ生に呼び止められた。曰く、「京都行く?」勿論行くと私は答えて、暫く彼らの話に耳を傾けてみる。
 ……単位に関係ないなら行かない。という意見が多数を占めている様子。私が、単位には関係なくても成績には直結だと思う、と意見を述べると、単位さえ貰えれば其れで良いと。優・良・可、の区別は無いらしい。
 ……。嗚呼、貴方達、京都に行かずして後期のレポートで何を書くつもりなの。摩訶不思議。(*後期レポートは今日と旅行を本に書くことになっている。)
 別れ際、耳にした。「明日の午前中、学生会館に集まって相談しようねー」
 …………。貴方達、相談しなければそんなことも決められないの。摩訶不思議。

 四月に履修登録をする際も、友達が履修するから私も履修する、とかとか。此の先生の講義は単位を取りやすいらしいから履修する、とかとか。
 嗚呼、何の為に大学に通っているの。
 摩訶不思議を通り越して、可哀想。



 友人の、惚気話か痴話喧嘩の話か良く解らない話を聞きながら、好い加減に私の方が滅入ってくるので適当に聞き流す。厭なら同棲生活を辞めれば良いのに。同棲を続けたいなら我慢すればいいのに。其れも厭なら別れれば良いのに。学生と、高卒で借金持ちの社会人と、付き合う事がどれほど大変なのかということは本人が一番良く解っていると思っていたのに。……盲目とか、そういう次元を超えている。毎日毎日、懲りもせずによくよく話す内容があるものだ。
 恋ってそういうものですか?――よくわからない。何より、鬱陶しい。



2004年10月10日(日)

 勝ち組であるとか、負け組であるとか、そういう言葉が流行ったのは此処近年だと思う。メディアは事ある毎に人生の勝ち負けを判断し、幼稚園や小学校の運動会等では差別であると言って勝敗をつけなくなり、徒競走が消えつつある。

 勝ち組、負け組。
 人生の勝敗なんて、主観的な問題だろうと思う。成績優秀、学力が高く一般的に良いとされる大学を出て、キャリア組と言われるような職業に就いて、仕事をバリバリこなして高給取りになって……それから? 素敵なパートナーと結婚して、子供を生んで、財産もあって、子々孫々「幸せ」な家庭?
 宛ら夢の国のお話ですか。其れは其れで興味深いけれど。
 之って日本独特の考え方なのかしら、と最近思う。諸外国では如何なのだろう。御国柄というものは、恐ろしいものだと思う。
 階級分けは嫌いなのだけれど、便宜上。所謂中流階級と呼ばれる多くの人々は、上の状況に当てはまる事など殆ど無いと、思う。況してプロレタリア、は、無理、だろうし。極一部の上流階級の特権みたいなもの。
 ところで英吉利では上流、中流、労働者の階級を更に其々三つに分けた九つの区分が未だに残っているわけだけれども、階級が変わることは(滅多に)無いらしい。読む新聞でさえも階級を意識するとか。或る意味では、恐ろしい。流石、保守の国。

 幼稚園、小学校。
 ……言うこと無し。将来は「受験戦争」の中に放り込もうとしているくせに、幼ければ「差別」の一言で済むのか。
 世の中、随分と便利になったものである。


 勝負なんて、死ぬ間際まで解らないだろうに。
 如何してそういうことに、しがみつかなければならないのだろう。しがみつくことで、安堵を生み出すのだろう。
 他人からの評価、が、必要なのかしら。



2004年10月06日(水)

 ところで先日、そろそろ一週間経つかも知れないけれど、登校途中に地下鉄の中で久しく会わなかった友人を見つけた。
 私は――恐らく彼女同様、御互いに、意図的に、連絡を取り合うことはしなかった。私は彼女を含めた彼等と既に自ら連絡を取る事はなくなっているし、彼女もまた、そうなのだろう。地下鉄の中で私は一瞬躊躇った後、声を掛けたわけだけれども、未だに其の理由は良く解らない。咄嗟の出来事であったし、唐突に何かが反応した、というより他無い。(別に私は電波系ではない、念の為)

 高々十分足らずの時間ではあったけれど、或いは其の事にさえ、私は安堵した。彼女の話す内容、其れは当然ながら私の知らない世界であるし、夏休みに会った彼等の内の五人同様、私の領域と被る一部分さえ持たない。私も亦、彼女の領域からは既に排除された存在なのだろう。
 極々些細な事、ではあるのだけれど、私は彼らを枷と思った事も無かったけれど、或る意味では、私は自由になりつつあるのだと、そんな事さえ思った。

 別れ際が淡々としていたのは、通勤通学のラッシュに巻き込まれたという以上に、別段御互いに拘る事も無くて、たとえもう二度と逢うことが無いとしても、其れは其れと割り切れるくらいの関係を築いたのだと、私は思う。其れは決して悪い事ではなくて、寧ろ御互いにとって、今を大切にしているという意味も含めて、良い事なのだ。
 結局私は一度も振り返る事無く彼女と別れ、其の後彼女にメール一本送る事もしていない。そうする必要性を感じない、淡白な付き合いもある。或いは、連絡が無いということだけで私は彼女が何事も無く彼女にとっての日常を送り続けているのだと、信じる事が出来る。



2004年10月04日(月)

 ……一体誰が此処を見ているのかしらと思いつつ。所詮自己記録と思えば如何でも良いわけではあるのだけれど。


 以前にも此処か何処かで書いたかも知れないけれど、書いていないかも知れないけれど、兎に角私は或る程度日常が戻ってきたことに対して、安堵している。夏休みというのは何処か不自然で、違和感の塊で、非日常でしかない。私にとっての日常は、所詮大学に通う平日のことを差すだけ。日曜日でさえ、非日常的な一部、或いは日常の一番端に位置するもの。
 講座も始まって愈々私は本格的な日常を取り戻す。毎週の課題やら宿題やらも春学期同様に出されるようになった。こうしてまた私は、自分の時間と共に、多くのもを失ってゆく。

 得たものは、小さくないけれど。失ったものの大きさとの比較は出来ない。同じ物差しでは計れないものであるし、情の注ぎ方も異なる。

 ところで再三言ってきた通り、私はゼミの中で孤立しているわけだけれども。……嗚呼、常識を疑うような数々の発言を耳にした。此の人達を「学友」とは絶対に呼びたくない。


 Norah Jonesは好きだけれど南国らしい怠惰さがあるので、今はKEANEを聞く。夏休みはNorah Jonesで充分だったのだけれど。今は、駄目。クラシックならChopinとかRavelとか、静かで詩的な曲が良い。

 ところでそろそろマフラーが恋しい季節。朝晩はとても寒い、辺境北国。



2004年10月02日(土)

 耐え難い苛立ち。意味も理由も無くて、其れは葛藤でも何でも無くて、只管に自分の中だけで沸々と湧き上がる苛立ち。其の対処は、多分呆気無いほど簡単だ。ただ、弧の攻撃性を外に向ければ良いだけ。此の苛立ちを解消しようと思ったら、椅子の一つでも投げて硝子窓を割れば良い。唯、其れだけ。其れだけで、多分私の苛立ちは解消される。其れが出来ないなら、ゴミ箱の一つでも思い切り蹴り倒塵芥をばら撒けば良い。其れも出来ないのなら、壁を蹴るだけだって良い。
 其れすら出来ないのなら、自分に向けるしかないじゃない、此の攻撃性を。
 切るという行為は、無意識のうちに始めてしまったとしても、物凄く神経を使う。切った後の脱力感といったら、無い。苛立ちは私に心臓を抉り出させるほどの殺意を生むけれど、此の脱力感は心臓を握り潰す。息が出来なくなるほどの疲労と安堵。それと、罪悪感。誰かに対しての罪悪感なんかじゃない、唯、此の行為に対しての罪悪感。
 こんなにも気力体力を使うような行為は、面倒だ。刃物なんて使うから悪い。元々、私は血を見るのは苦手だし、嫌いだ。そうして刃物を握らなくなった私は、然し苛立ちを如何する事も出来なくて、スクラッチへと至る。簡単だ。眠っている間に爪が勝手に肌を切り裂いてくれるだけ。意識の仕様が無い。アトピーの私にとって爪は凶器。痛烈な疲労と安堵と罪悪感を伴う脱力感を味わうことなく、此の攻撃性も殺意も苛立ちも、無くなってしまうのであれば。
 ――とは言うものの、結局自分の意思で苛立ちを解消しているわけではない、と感じてしまうものだから、スクラッチは意味が無い。しかも何時私の無意識が爪を凶器に変えてくれるかも解らない。だから、切るしかないじゃない。

 …………と、苛々しながら理論立ててみる。物事を正当化するのって簡単だと、思う。私は物心ついたときからそうしてきたわけだし、そういうわけでディベートとかディスカッションとかでは負けたこと無いし。自分がどれほど破綻した理論を立てているか理解しているし、其の上で反論されれば反駁を返すだけだし。相手に反駁されないような反論するのも、容易だし。

 ――最悪だな、色々な意味で。










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