ヲトナの普段着

2005年05月31日(火) 好き嫌い

 幼い頃に両親に何を一番に仕付けられたかと振り返ると、やはり食べ物の好き嫌いだったような気がする。おかげで僕は、みずから好んで口にしないものはあるけれど、食べられないものというのがない。そんな僕は、人の好き嫌いもさほど激しいほうでは……ない。
 
 
 きつい論調でコラムを書いていると、「こいつは人の好き嫌いが激しそうだな」と受け取られがちなように感じているんだけど、これほどの博愛主義者もそうそういないと自負している。大仰な物言いはいつものこととしても、人を嫌いになれないのだから仕方がない。
 
 世に棲む人々もそれぞれで、僕のコラムに反感を覚え、反論や批判を寄せてくれる人ももちろんいる。そういう人たちを前にしても、僕のなかに「厭だな」とか「こいつは嫌いだ」という感覚は、不思議なことにそれほど沸き起こってはこない。だからこそ、僕はそれらの言葉に素直に自分の考えを返すし、拒絶したことも一度もなかったような気がする。
 
 相手を認めるというのはとても難しいことで、誰だって自分を認めてもらってはじめて、相手を認めるというプロセスを経るものだろうと思う。されど僕はあえて、自分を否定されても相手を認める立場をとってみたいと考えている。よく性善説性悪説なんて考え方があるようだけど、僕は人の心というのは基本的に善であって、さまざまなしがらみや固有の知性、価値観が、それを見る人の目にさまざまに映してしまうだけだと思っている。だからこそ、それを穿った目で見なければ、そこにはその人が持つ良さも自然と見えてくるのではないだろうか。
 
 
 これまでチャットをしてきて、幾度か「あれ、おれ嫌われてるのか?」と感じた瞬間があった。会話がどうも噛みあわず、チャトレのノリも明らかに悪い。相性というのもあるから、ある程度は仕方がないのかなとも思う反面、チャトレならあわせろよとも思ってしまう。もちろん、僕が暴言吐いたり脈絡のないエロおやじに変身してるなら話は別だろうけど、ごくごく普通にチャットしていてそうなるのだから、「客」としては不満たらたらである。
 
 いつだったか、ウェブデザインを本職でやってるという二十歳そこそこのチャトレちゃんと話したことがあって、僕は素直な気持ちで「ぼくのサイトも見てみてよ」と言ったんだ。彼女は少々かったるそうにその場で「アドレスは?」と訊き、僕が教えたURLをそこで開くや否や、渋い顔をしてあれこれと酷評をしてくださった。率直なところ、どれも承知してそうしているものばかりで、融通のなさにむしろ僕が彼女に対して渋い顔をしたくらいなんだけど、不思議と、自分が彼女を嫌う以前に「おれ嫌われてるのかな」と感じたように覚えている。
 
 正直であることは悪いことではない。いかにチャトレとはいえ、嘘ついたり自分を繕って客と相対すべきではないと僕は思っている。けれど、最低限の心配りというか、人と相対する上でのエチケットのようなものは、チャトレという立場であるなら身につけておくべきだろう。
 
 
 「嫌いなものは嫌いなんだから仕方ないじゃん」と仰るだろうか。現代の風潮をみていると、なんとなくそんな言葉がまかり通ってしまいそうな気がして、僕は少々不安にもなってくる。自己というものが、本当に自己のみで成立してるなら、おやじも口をすっぱくして言いはしないけど、自分以外の人間と関係を持ちつつ存在しているのが自己である限りは、その言葉は間違っていると思うからだ。
 
 好き嫌いがいけないと教えられた幼い頃に、僕はもうひとつ、他人に迷惑をかける生き方をしてはいけないということも教わりつつ育った。迷惑をかけるとはどういうことだろうか。目に見える形で迷惑をかけることのみならず、相対する人の心に影を落とすことも、やはり迷惑ではなかろうか。迷惑とは読んで字の如く、「迷わせ惑わせる」という意味だ。会話している相手の心を不安にさせる行為は、僕は迷惑な行為に値すると思っている。
 
 人間関係もさまざまだから、そういう迷惑行為がむしろ良好な関係を育むことも、僕は否定しない。例えば恋愛という範疇にあっては、心に落ちた不安という影が、むしろふたりの絆を深める結果に繋がることだってあるだろう。されど、チャトレという立場でそれを行っていいのだろうか。
 
 
 好き嫌いは多かれ少なかれ誰にでもあると思う。僕は自分のことを博愛主義者だなどと書いたけれど、嫌いといわぬまでも苦手な人たちはいる。けれど、立場はわきまえる。それすら感じられないチャトレを見かけたとき、「駄目」というハンコをポンと押してあげたくなるのは、おやじのわがままだろうか……。



2005年05月30日(月) その子はチャトレ

 チャトレに恋する男は少なくないだろう。モニターごしの笑顔に胸ときめかせ、あたかも目の前にいるかの如く囁きかけてくれる彼女のことを、恋人のように感じたとしても不思議はない。よほど無謀なことをしない限りは、ふたりの間にはハートフルな会話が流れつづけていくのだから。けれど彼女は、チャットレディなんだよね。
 
 
 インターネットを俯瞰していると、面白いことに気づくことがある。これまでも幾度か触れてはきたけど、パソコンに向かう男たちの意識のなかに「一対一」という構図が根強いのも、そのひとつだろう。掲示板でもブログのコメント欄でも、投稿者は管理者ひとりを相手に書いているような印象が強い。そこが公の場であるにも関わらず、ときに私信とも思える文章を平気で書いている。それが悪いとは思わないものの、なんとなく妙な構図だよなと僕は感じてしまうんだ。
 
 掲示板のシステムを利用した「フォーラム」という場がある。最近はあまり耳にしなくなったような気もするけれど、読んで字の如く、複数の人たちが寄り集まって意見を述べ合う場がフォーラムだ。投稿者はそこに参加している複数の人たちを相手に文章を書き、読み手もそれを前提に読んで自分の意見を投稿する。僕はべつにフォーラムで育ったわけではないけれど、ネットという開かれた場にある掲示板というものは、そういう性質のものであると認識してやってきた。
 
 だから、ブログの記事にコメントを寄せる際も、僕の脳裏には常に複数の人影が浮かんでいる。誰が読んでも構わないような内容、管理者だけでなくその他の人たちにも伝えたいメッセージや話題を込めて書くことを、いつも心がけている。それが、ネットでのコミュニケーションだと思ってもいる。
 
 けれど、それはフォーラムや掲示板を中心に育ってきた者の言い分であって、チャット、とりわけツーショットが中心となるライブチャットにあっては、僕の理屈が見当たらないのも無理ないのかもしれない。しかし、そこに問題の種が根を深くはっているのも……事実のような気がする。
 
 
 チャットというのはリアルタイムに話が進む。僕は、ライブチャットをやる遥か以前からチャットの経験があって、それほどマメにやっていたほうでもないけど、ときには十数人でチャットしたこともあった。ひとつのテーブルを囲んで肉声で会話するのなら、複数相手でも話は成立する。けれどチャットの場合、それを成立させるのはかなり困難だと僕は感じている。大勢でのチャットを眺めていると、全員がひとつの話題で盛り上がるというよりは、幾つかの小さなグループが交錯しながらチャットが進んでいくという状況が多いような気がするからだ。
 
 別な視点でそれを言い換えると、掲示板では同時に複数を相手にできる(書ける)けれど、チャットでは同時に複数相手に会話する(書く)ことが極めて困難もしくは不可能に近いということになるだろう。もちろん、パーティーチャットを得意とするチャトレちゃんは、「わたしは複数相手にできるわよ」と仰るだろうけど、それはきみがチャトレだからであって、その場にいる客のほうはそうではないだろう……という話だね。
 
 これは、スタンスというか、パソコンを使って人とコミュニケートしようとする際の、根本的な意識の話になってくると思う。平たく言えば、ひとりを相手にしてるのか、大勢を相手にしてるのかという違いだ。そして更には、そこに「チャットレディ」という「立場」も加味されるわけだから、話は余計こんがらがってくる……。
 
 
 冒頭に戻るけど、片っ端から誰かれ構わずチャットしてるアウトローならいざ知らず、大抵のチャット客というのは、お目当てのチャトレと会話することを目的としてるだろう。彼の胸のうちに恋心があるか否かは状況にもよるだろうけど、所詮男と女は求め合うという原則に立ち返ると、形こそ違え、そこにはほのかな想いがあるのだろうと僕は想像している。
 
 いつも優しく微笑みかけてくれる彼女に対して、自分に格別な好意を抱いてくれていると思い込むのも無理もないし、それが高じて、あたかも街で知り合った自分好みの女性と恋人同士になったような気分になっても、やはり不思議はないのだろう。恋人なのにどうして逢えないのとか、なぜ自分だけを愛してくれないのなどと口走る手合いの多くは、いわゆるその口だとも思う。けれど、そこには大きな大きな落とし穴があるんだ。
 
 
 「今年はみんなの絵美ちゃんで行きまぁ〜す」という科白を、かなり昔に某テレビ番組で耳にしたことがある。彼女はAV女優。そりゃ女優なら誰かひとりのものでなく、みんなのものだろと、そのときは思ったわけだけど、考えてみたら、チャトレだって同じだろと僕は思い至った。
 
 チャトレがチャトレたり得るのは、そこに数多のファンがいるからに他ならない。もしも彼女にたった一人の客しかつかなかったら、彼女はいずれチャトレを辞めるだろう。そう考えると、大勢の男たちがそこにいてはじめて、彼女はチャトレとして輝いていられるのだということにもなってくる。そう、チャトレはみんなのものなんだ。
 
 それを大前提として念頭におかないと、トラブルはそこかしこで勃発してしまうだろうし、独りよがりや恋の空回りという現象も多発するのも道理だなと、僕にはそう思えてくるわけ。
 
 恋をするのは悪いことじゃない。縁があれば、できるだけ人に恋して恋されて、人間って素敵だなって思いながら生きていくほうが、僕は実りある人生になるような気すらしている。けれど、思い違いはやはりいただけないではないか。ライブチャットという世界に腰を据えるのであれば、そこで上手に生きる術を身につけるべきだろうし、せめて、「チャトレはみんなのアイドルなんだ」という大前提くらいはわきまえるべきだと僕は思う。
 
 色気のないお話だったかもしれないけれど、それをわきまえることができると、意外とその先には、チャトレと客という構図を超越した人間関係が待ち構えているのかも……しれませんよ。



2005年05月29日(日) Shall we ダンス ?

 映画「Shall we Dance ?」が公開された。ご存知の方も多いだろうけど、周防監督作品「Shall we ダンス ?」の米国リメイク版だ。リチャード・ギアにジェニファー・ロペスというハリウッドらしい豪華キャスティングに、原版「〜ダンス?」に見惚れた僕も強く惹かれるものがあるけど、今回は洋画の話というわけでは……ない。
 
 
 「Shall we ダンス ?」の公式サイトを開いてみると、フラッシュムービーの冒頭に「もう一度、人生に恋してみよう」という文字が表示される。あの作品が、なぜあそこまで楽しく切ないのか。役所広司演じる杉山が、なぜ社交ダンスに魅せられ熱中していくのか。その答えが、僕はこの「もう一度、人生に恋してみよう」という文字に現れていると思う。
 
 社会に組して生きていると、幸せというものの基準を、僕らは自然と「比較」のなかから見つけようとしてしまう。安定した職を持ち、社会的立場に恵まれ、マイホームと温かい家族に囲まれた姿を、幸せという言葉に置き換えようとしてしまう。不満があるわけじゃない。後悔しているわけでもない。けれどふと、仕事と家庭というエリアを行き来する狭間で、「自分は何者なんだろう」と考えてしまうことはあるのだと思う。
 
 生きるって何だろうか。人間である意味って何だろうか。そう思い始めたときに、きっと人の心のなかで何かが弾け、覚醒するのかもしれない。道は色々あるだろうけれど、「杉山」が見つけたのは社交ダンスだった。それに打ち込むことで、自分をひとりの「人間」として見、その可能性と生きる意味を手にしていったのだと僕は思う。
 
 とは言え、杉山が社交ダンスの世界に入った切っ掛けは、ダンス教室の先生「舞」に恋したからだった。それが真剣にダンスに打ち込むまでの過程は、僕がここに書くようなことではないのかもしれない。むしろ僕は、恋という切っ掛けにより、自分でも幸せだと思いこんでいたはずの杉山が、もう一度自分の人生を見つめなおそうとしたことにこそ、この作品の素晴らしさがあるような気がしている。
 
 
 人との出逢いというのは、人生という流れのなかにおいて、数限りなく繰り返されてゆく。されどそのひとつひとつに重要な意味を見つけるのは困難で、僕らはいつからか、出逢いが自分に語りかけてくるメッセージを見過ごすことに慣れてしまっているのではなかろうか。
 
 映画や小説に壮大なロマンを感じたりすると、とかく人はドラマティックな人生に憧れるものだ。自分にも何か特別な才能があるのかもしれない。世界にふたつとない出逢いと人生が待ち構えているかもしれない。そうは思っても、一向にその「瞬間」が訪れることはなく、気づけば時間に流されてありきたりな人生をとぼとぼと歩いていたりする。
 
 けれど本当は、その小さな一歩一歩に底知れぬ可能性があって、映画や小説を彷彿とさせるドラマも潜んでいることに、意外と人は気づかず通り過ぎてゆくものなのかもしれない。
 
 
 ライブチャットに集う人の数というのは、果たしてどれくらいなのだろうか。ここでは、日々数多の出逢いがあり、ドラマが生まれ、そして消えてゆく。ひとときの安らぎや快楽も悪いことはぜんぜんないけれど、その一歩先にある「何か」を掴む人は、そうそういないような気がする。
 
 人と出逢うということ。そこで言葉を交わすということ。それが自分にとってどのような意味を持つのかを、考えながらチャットしてる人なんて、きっといないんだろうなとも思える。僕自身、チャットしながらそんなことは考えていない。
 
 けれど振り返ってみると、ひとつひとつに何か意味があったような気がしてくる。見過ごしてしまったかもしれないけど、この手でつかめなかったかもしれないけど、僕はそのときその道を歩いていたんだなと改めて思ったりはする。そしてそんな道の上に、いまも僕はいるんだと思う。
 
 
 もう一度、人生に恋してみよう。
 Shall we チャット ?



2005年05月28日(土) 餌を求めるカメラ小僧

 チャットの宣伝用写真を撮らせて欲しいと言い寄ってくる輩がいるらしい。僕が耳にした範囲ではアダルト系のみだから、ノンアダのチャトレには無縁かもしれないけど、よくよく考えてみるとふざけた野郎だと思えてきたので、彼を槍玉にあげて今回はライブチャットを掘り下げてみたい。その男の名は「シルバー(仮名)」という。
 
 
 チャトレにとってのプロフ用写真の大切さは、僕もこれまで幾度か書いてきた。写真に惹かれてドアをノックしたこともあるし、過去にはお気に入りチャトレがギャラリーにアップする写真を、せっせとコレクションしていたという少々危ない経験もある。チャットをしていても、ときどき写真の話になることがあって、「〜〜ちゃんの写真は綺麗よねぇ」という話を耳にするにつけ、女性として自分の姿を美しく記録してみたいという願望は、チャトレという仕事以前にあるのかなぁと思ったりもする。
 
 そんな僕自身、書き物をする傍らで写真趣味も持っている。かつては風景写真ばかりだったところに、一昨年の後半から女性も被写体として撮るようになって、これまで、バイトのモデルやセミプロモデル、チャトレのプロフ用写真も撮ったことがある。「なんだ、あんたも同類か」と思われるかもしれないけど、まあ話は最後まできいてくださいな……。
 
 
 僕がチャトレの写真を撮ったのは、いま思えば自然な流れのなかでの出来事だったような気がする。普通にチャットサイトで出逢い、普通にチャットを楽しみ、それこそ数ヶ月が経過した頃に、ひょんなことから「じゃ、撮ってみるか」という話になった。ポートレイト(人物写真)はまだ初心者だったんだけど、それでもバイトモデルや撮影会に参加した直後で気合も入っていたし、当時の技量としてはそこそこの写真が撮れたような気がしている。
 
 彼女はその写真を気に入ってくれたようで、その後、彼女のチャトレ仲間に話が飛び火して、紹介という感じで別の子の写真も撮ったりした。以後、何度か撮影依頼を受けては、こそこそとプロフ用写真を撮るようになった。
 
 チャットで写真の話になると、僕は大抵、ヲトナごっこの写真集の宣伝をする。言葉で写真を語るより、現物を見てもらったほうが話が早いからだ。だからといって、「撮らせて欲しい」という話はしない。けれど、「撮って欲しいな」という話は、これまで数名の子からされている。社交辞令だろうと僕自身は受け止めているけど、前述したような「自分の姿を綺麗に残してみたい」という願望はあるんだなぁとしみじみ思う瞬間でもあった。
 
 誤解がないように明言しておくけど、僕は現在、被写体を募集してはいない。過去に撮った子たちから依頼があれば、それはそのときにスケジュールとにらめっこして考えるだろうけど、こと写真に関しては、本来の僕のテーマであった風景に照準を合わせているからだ。そこのところは、読み違えないでくださいね。
 
 
 ライブチャットというところは、男と女が出逢う場だ。出逢いの形も千差万別で、目的もさまざまだろうと思う。「シルバー」がライブチャットで被写体(兼、餌)をあさったところで、僕がとやかくいう筋合いではないのかもしれない。けれど、シルバーの手口を見る限りでは、ライブチャットという世界を、あまりに莫迦にしているように思えてならない。
 
 つい最近、仲良しのチャトレから「こんなメールが来たの」と相談を受けた。シルバーからの手紙だった。ありのままを見せてくれたけど、いやぁ莫迦だなこいつはと思いました、わたしは。そのまんまここに転載してやりたいとこだけど、それはあまりに度が過ぎてると思うので要点だけ書くことにすると……。
 
 チャットしたこともない状況で「サイトで見かけた」とメールを書き出している。これだけなら、「チャットしてみたいんだけど」という打診で済むだろう。しかし直後に「カメラが趣味だから、チャット宣伝用写真を撮らせて欲しい」と、いきなり本題へと入っているではないか。そのためにチャットの待ち合わせでもするのかなと思いきや、「今日は挨拶程度で」といきなり締めに入り、最後に「自分はYahooのメッセやってるから、声かけてね」とご丁寧にメッセIDとYahooのメルアド(それも二発)が書き添えてある。
 
 
 あきれた。
 
 
 シルバーの噂は、過去に別のチャトレから聞いていたけど、現物みてほとほと呆れた。彼女は「これって、エッチ目的よね」と大笑いしてたけど、誰が見たってそう思うだろう。いや、百歩譲ってそうでなかったとしても、これはライブチャットを愛する者たちにとって、じつにゆゆしき事態に違いないと僕は感じたわけだ。
 
 なぜなら、シルバーは「チャットすること」を目的とはしていない。チャットせずに登録サイトでメール送信し、ポイントを消費しないようにメッセで女の子とやり取りをしようとしているではないか。写真の腕前とか、エッチ目的かどうか以前に、こいつは完全にライブチャットを舐めてると僕はそう感じた。
 
 ヌードを撮りたいのなら、いまどきは素人モデルを探せるサイトなどいくらでもある。僕もかつては、そういうところでモデルを探しては撮ったりしていた。もちろん、彼女たちはバイトだから、撮影には費用がかかる。シルバーはおそらく、金をかけずにヌードを撮ろうとしているのだろう。そしてあわよくば、食っちまおうと思ってるに違いない。
 
 率直に書くけど、本当に芸術性の高い美しい写真を撮る腕前を持つのであれば、ライブチャットで被写体を探すようなことは決してしないと僕は思う。断言する。
 
 
 チャットで親しくなって、その流れで「撮ってあげようか」というならまだ話はわかる。どうぞご自由にやってくださいという感じだ。されど、綺麗な写真に憧れている女性が集まっているからといって、ライブチャットという場の意味をまったく無視したシルバーの手口は、僕は見過ごせるものではないと感じている。
 
 カメラ小僧の風下にも置けない野郎だ、ったく。



2005年05月27日(金) はう・とぅ・らいぶちゃっと2

 前回のつづき……。
 
 
6.フィーリングを大切にしよう
 
 ライブチャットというのは、自分が理想とする女をゲットし玩具にする場所ではない。生身の男と女がそこで出逢い、言葉を交わし、情を深めていくのがライブチャットというものだ。だからそこには、当然のように「相性」というものが介在する。相性抜きに関係が繋がるわけがないのは、現実世界もネットも同じということだ。
 
 少し話をしてみれば、相手とフィーリングが合うか否かくらいは判断できるだろう。言葉を投げても、どうも気持ちよく返ってこないなとか、自分のペースとは違うものをチャトレが持ってるなと感じたりすることがあると思う。そういうときは、変に長居をせず、ごめんねとひとこと入れて部屋を出たほうが賢明だと僕は思う。それがお互いのため、というものだろう。
 
7.ときめきを忘れずに
 
 ときめきという感情は、意識的に持てるものではない。だから、チャットするときは常にときめいていましょうという意味ではないよ。チャトレたちは、待機窓の向こう側でドキドキしながら客を待っている。新しい出逢いがあるのかしら。昨日のあの素敵な人は、また来てくれるかしら。想いはさまざまなれど、チャットにインしている間のチャトレの心理というのは、おそらくときめき満開ではなかろうかと思う。
 
 そんな彼女たちの気持ちを、客は理解してあげるべきだろう。そしてここが大切なポイントなんだけど、ときめきというのは分かち合うことができる感情なんだ。もちろん、防御バリアを張り巡らしたり、無頓着な鈍感男では何も分けてはもらえない。チャトレのハートの熱さを感じてあげて、それを自分なりに返してあげれば、自然とそこから、ときめきの交換はできるのだろうと思う。
 
8.無理はしないこと
 
 ライブチャットのポイントは、ほとんどがプリペイド方式。銀行振り込みなら残高が常に把握できるけど、カード決済で楽しんでいると、いつの間にかとんでもない金額をつぎ込んでいたという憂き目に遭わないとも限らない。お気に入りのチャトレができると、あしげく通いたくなるのが人情というものだろうけど、短期集中よりも長い時間をかけてじっくりと親睦を深めたほうが、僕はチャトレにも客にも利があると思っている。
 
 僕が亡父に教わった言葉のなかで、最も好きな言葉が「無理は通っても無理」というものだ。仕事でも遊びでも、人はどこかで感情に走ってしまうところがある。頭では無理だと理解していても、体が言うことをきかない状態とも言えるだろう。そんなとき、僕はその言葉を思い出す。無理が通ったように見えても、そのじつそこには、何らかの歪が生じてしまう結果が少なくない。やはり、無理はしてはいけないのだろうと思う。
 
9.あ・わ・て・な・い・のっ!
 
 べつに慌てて脱ぐなという話ではないし、焦って脱がそうとするなという話でもない。僕もいまだにあるんだけど、チャットというのは、気をつけないと一方的な「語り状態」に陥ってしまうことが少なくない。会話というのは、相手の言葉と自分の言葉が良い按配に交わって、そこではじめて会話として成立するものだよね。話し好きと聞き好きがいれば、一方的でも構わないような気もするかもしれないけど、チャットというのは相互に言葉を交わして楽しむのが原則だろうから、やはり一方通行はいかがなものかと僕は感じている。
 
 相手の言葉を待つというタイミングの取り方は、じつはとても難しいのかもしれない。別な言い方をすると、熟練したチャトレになればなるほど、その辺のタイミングをわきまえているようにも思える。チャットに慣れた客なら造作ないことかもしれないけど、初心者にとっては、相手の言葉と自分の言葉をかみ合わせることに苦慮する経験もしていくことだろう。そういうとき、むしろ自分で会話のペースを作ろうとはせず、チャトレのリズムにあわせてみるのも賢明だと僕は思う。慌てずに、じっくりとチャトレの世界を味わおうじゃないか。
 
10.メールしちゃおう
 
 チャットで楽しい時間を過せたら、是非、サイトにあるメール機能を利用して、チャトレに恋文をしたためてみて欲しい。僕は長いこと書き物をしてるけど、自分が書いたものへの感想メールをいただくときほど、書いて良かったと感じるときはない。同様に、チャトレたちだって、そこで自分が本当にお客さんに楽しんでもらえたのだろうかと、いつも案じているのだろうと思う。楽しいと感じたら、それを何らかの形でお返ししてあげよう。それが、メールということになる。
 
 不埒な客のなかには、チャットもしてないのにメール送信したり、チャットに顔を出さずメールばかりする客もいるようだけど、そういうメールの利用法は、チャトレたちに悪い印象を植え付けるものと心得るべきだろう。だからといって、メールしてはいけないということではないよ。仕事や何らかの都合でなかなかチャットに顔を出せないようなときには、メールで状況を説明して「近いうちにいくね」と書き添えてあげればいい。そういう近況報告に使うのも良いと僕は思う。要は、自分とチャトレとの糸を繋ぐもののひとつが、メールというものなのだから。
 
 
 思いつくままに10項目を書いてみたけど、冒頭(前回分)に書いたように、ライブチャットの楽しみ方というのも人それぞれで、まさに十人十色なのだろうと思う。ただ何事にも「初め」というのがあって、そのときの初心者心理というのは「何が何やらわからない」ものだろうから、ひとつの拠り所としてこのようなコラムがあっても良いのかなと思って書いてみたわけ。
 
 ドアを叩けば、その向こうでは素敵なあの子が待っている。
 
 
【了】



2005年05月26日(木) はう・とぅ・らいぶちゃっと1

 ライブチャットのコラムを書いていながら、考えてみたら、そのハウツー編というのは書いていなかった。もっとも、遊びというのは自分で体験して身をもって覚えていくものだろうから、僕がここで論ぜずとも何ら過不足もないのだろうけど、せっかく思いついたので、「十戒」というわけでもないが、10項目の迷言を拠り所に書き進めてみることにしよう……ちなみに、二回シリーズの今回は前半。
 
 
1.料金体系がわかりにくいサイトは駄目よ
 
 はじめてライブチャットのドアを叩くとき、一体どのサイトを利用すべきかきっと悩むと思う。正直なところ、サイトも千差万別で、利用者それぞれにとっての優劣があるように思えるから、客観的にここが入門者に最適と言えるサイトもないような気がする。ただ、これはひとつの目安というか、僕自身の経験からアドバイスするならば、サイトを一見して料金体系が把握できるサイトに間違いはないだろう。
 
 いくつもチャットサイトを徘徊していると、料金の明示がじつにわかり難い場所にわかり難く記載してあるサイトに出逢うことがある。いかにも、うさん臭い。まあそういうサイトは、得てしてチャトレの在籍数も少ないんだけど、管理の質を疑ってしまう。楽しめるサイトというのは、管理が良質なサイトであり、客に対しても良心的であるのはどの世界でも同じことだ。
 
2.お試し無料ポイントやキャンペーンは上手に使おう
 
 気になるサイトがあったら、気軽に登録して無料ポイントを使ってみよう。いきなり最高のチャトレと巡りあえる可能性なんてゼロに等しいだろうから、ランキングがあればそれを頼りに、自分好みの子を発見したならその子のもとへ、無料ポイントを携えて「筆おろしして〜」と入ってみてはいかがだろうか。
 
 サイトごとに、さまざまなキャンペーンというのも行っている。既会員向けのキャンペーンが多いのは仕方ないけれど、新入会員向けのキャンペーンもあるから、そういう情報チェックも怠らないようにするといいだろう。
 
3.複数サイトを体験しよう
 
 ひとつのサイトを経験したら、その勢いで他のサイトも覗いてみようじゃないか。無料ポイントは概して短時間だけれど、それでも、システムの使い勝手とかサーバーの重さ(文字や映像の反応)を知ることはできるはず。無料ポイントをチャトレと話す時間に費やすと考えず、サイトの質を判断する目的で使ってみるといいのではなかろうか。
 
 チャトレ目当てで考えてしまうと、無料ポイントでは到底間に合わない。チャトレにほだされ、そこでポイントを正規購入したはいいけど、長時間チャットしてみたら、システムもサイトの雰囲気もどうも今ひとつという気がしてきて、結局ポイントを使い切らずに残しているというケースもあるからだ……誰とは、言わないが。
 
4.プロフと写真は味わい尽くせ
 
 感じ良さそうだなというサイトを見つけたら、まずはそこに在籍しているチャトレちゃんたちのプロフと写真をじっくり味わおう。もちろん、右から順番にというのではなく、サイトを開いたときに待機している子たちのなかから、リスト写真をみて惹かれた子の順番で結構。
 
 なかにはいい加減にプロフを書いてる子もいるけど、多くのチャトレたちは、きちんとプロフを読んで写真に目を通してくれることを望んでいるものだ。そうやって仕入れた情報は、当然のことながら、チャットでの話題の軸となる。プロフを見もせずチャットに突入することほど、愚かな行為はないと覚えよ。
 
5.挨拶を忘れずに
 
 入ったときは「こんにちは」「はじめまして」で、終わるときは「ありがとう」「ばいばーい」という、人が人と向かい合った際の当然の挨拶くらいはすべし。チャトレちゃんは、きみの一挙一動をどきどきしながらみている。挨拶もそこそこに自分勝手にまくしたてる客に対して、好意を覚える道理がないではないか。
 
 これは、逆の立場で考えてみるといいだろう。チャットルームに入った途端、妙なテンションでまくしたてるチャトレと遭遇したら、きみはどう思うだろうか。挨拶もしてないのに、パーティーではなくツーショットに誘われたら、きみはどう思うだろうか。入るときと出るときの挨拶というのは、形はいろいろだけれど、決して割愛してはいけないのである。
 
 
【つづく】



2005年05月25日(水) 【閑話】詩:きみとぼくとの距離

きみはそこにいて
ぼくはここにいる
 
きみがそこにいないと
ぼくはここできみを待つ
 
 
きみをそこで見かけて
ぼくはここで立ちどまって
 
きみはそこで手をふって
ぼくはここで声をかけた
 
きみはそこで笑って
ぼくはここで胸躍らせて
 
きみはそこで泣いて
ぼくはここで戸惑った
 
きみはそこで手をひろげ
ぼくもここで手をひろげ
 
きみはそこでぼくを感じ
ぼくはここできみを感じた
 
 
きみとぼくとの間には
遠い遠い距離(へだたり)があって
 
きみとぼくとの間には
髪の毛一本が入る隙間もない
 
 
きみはそこで恋をして
ぼくはここで恋をして
 
きみはそこで生きてゆく
ぼくはここで生きてゆく
 
 
きみはそこにいて
ぼくはここにいる
 
 
---- PostScript ----------
 手を差し出したくても届かない距離。いつもすぐ隣にいるような一体感。ネットという摩訶不思議な世界は、いつも人の心をおもちゃのようにもてあそびます。リセットすれば消えてしまう存在。オフラインにすると見えない姿。繋がっているようで繋がってないようで、ときめきと不安との狭間で、それはあたかも波間を漂う浮き草のようなものかもしれません。
 
 それでもひとつだけ確かなのは、きみとぼくの存在。そう、ぼくはいつだってここにいる。確かな存在として、ここできみを見ている……。



2005年05月24日(火) 迷惑DMが平気なサイト管理者たち

 このところ、個人のブログに商用宣伝のコメントをするチャットサイト管理者が目立ってきた。覚えのないサイトからのDM(ダイレクトメール:宣伝メール)も相変わらずひっきりなしだけど、メールは自分しか目にしないし、削除すればそれで済んでしまうからまだいい。けれどブログというのは、ネットにあるからには誰もが目にするし、ブログ管理者にとっては「顔」ともいえる場所であろう。そういう場に、平気で宣伝コメントを投稿できる奴らの気がしれない。
 
 
 会社や仕事を宣伝する際に、昔から「ポスティング」というのは広く知られた方法だった。読んで字の如く、宣伝用のチラシ等を一軒ずつポストに入れていくというやりかただ。これに「人間」を投入すると、戸別訪問という方法になる。昔よくあった「押売」というのは、いまではすっかり耳にしなくなってしまったようにも思えるけど、戸別訪問だって押売と何ら変わりはない。
 
 ポスティングも戸別訪問も、経営戦略という観点からすれば、極めて正当でそれなりに効果がある方法として考えられているのだろう。一軒ずつ訪問し、消費者の反応を窺いつつ営業してまわることは、そこから消費者の意識という情報を得られるというマーケッティングにも通じるものがあるからだ。
 
 けれどそれは、売る側の論理でしかない。彼らは、訪問することのメリットを売る側の立場で滔々と論じるだろうが、それは裏返せば、やって来られた側の心理を逆手にとるような行為であることを、おそらく頭に置きはしないのだろう。チラシであれば捨てれば事は済んでしまう。しかしそこに「人」がいることで、来られた側は「断る」という行為を強要される。「断りきれなかった」という声をきくこともあるけど、そういう人の心を逆手にとるような商売方法は、詐欺と何ら変わらないではないか。
 
 
 ネットという世界において、接続料は別として、メールを送信したり個人のブログにコメントするのに費用がかかるということはない。金かけずに手間かけろ、なんて言葉があったけど、DMや宣伝コメント投稿は、まさに費用がかからない宣伝方法ともいえるだろう。しかしやはりそれは、売る側の論理でしかないと思う。
 
 冒頭に書いたように、個人サイトというのはブログで何であれ、そこを管理統括する人の「顔」ともいえる場であろう。そこに、望まれもしないのに、のこのこやってきて、自分勝手な宣伝をしていくというのは、いわば「顔に泥を塗られた」状態に等しい。言葉本来の意味とは異なるけど、やはり奴らは泥を塗ってさっさと立ち去っているのだと僕は感じている。
 
 莫迦か……と、僕は思う。自分が行っていることが押売に等しいと受け取られてるとも思わず、ただひたすら自分のサイトを認知させる、言い換えれば自分を認めてもらうためだけに、片っ端から宣伝しまくって、挙句に自分の首を絞めている。これを莫迦といわずして何という。
 
 
 率直なところ、それを見過ごしている側にも、僕は問題があると思っている。ブログのコメントであれ、DMであれ、無視したり削除すればそれで済んでしまう。けれどそれでいいのだろうか。少なからず「嫌な思い」をしたのなら、それを公にすべきではないだろうか。「身に降りかかった火の粉を払いのけたから、あとはどこに火の粉が降り注ごうが火種が大きくなろうが、わたしは構わないの」で、果たして本当に良いのだろうか。
 
 DMや宣伝コメントを平気でやれるチャットサイトなど、ろくなもんじゃないと僕は思う。その程度の脳みそしか持ち合わせない奴が管理してるサイトに、輝かしい未来などあろうべくもない。チャトレだって奉仕稼業ではないはずだ。莫迦な管理の下にいては、末永く安定した収入を得られる道理がないだろう。そんな迷惑な宣伝行為を行っているサイトにもしも自分が属しているならば、さっさと辞めることをお勧めする。なぜなら、きみたちもその「押売」に一役買ってるわけだから。
 
 
 インターネットのメリットって何だろう。それは言わずとしれた「ネットワーク」に違いない。ネットワークをいかに上手に利用できるか否かが、ここでの成功を意味するようにも思える。サイトを宣伝しようとしたとき、ネットワークを上手に利用できれば成功する、とも言えるだろう。
 
 ネットには「相互リンク」という方法がある。各種サーチエンジンに登録するのももちろん宣伝方法の基本だけど、商用であるのなら、この相互リンクを活用しない手はないだろう。それに、リンク集やランキング形式のものもある。それらはいずれも、すぐに効果が目に見えて出てくるというものではない。早くとも、二ヶ月から三ヶ月はかかるだろう。
 
 けれどその間に、管理者が何を行うかによって、サイトの将来は二分されるような気がする。別な言い方をすると、効果が出るまで待ってる間の作業こそが、管理者の腕が問われているのだということだ。莫迦な奴らは、そこでDMや宣伝コメントに汗を流す。自分で自分の首を絞めてるとも気づかず、日夜一生懸命自分の足許をぐちょぐちょにしてるわけだ。
 
 
 優れた商品には、自然と人が群がる。品物が売れるのは、確かに宣伝という行為も一役買ってるかもしれないけど、本質的には「その品物が優れているから」だろう。消費者を舐めてはいけない。小手先の作業だけで事が巧く運ぶなんてのは、現実世界にもこのネットにも、僕はないのだと思っている。優れた商品を開発できる管理者がこのライブチャット界に増えてくれることを、祈らずにはいられない……。



2005年05月23日(月) 時間を歩いて旅しよう

 アインシュタインの特殊相対性理論によると、光速で移動するロケット内における時間の流れは緩くなり、地球を出発して戻ってくると時間にずれが生じるらしい。しかしそんなことは確認のしようもなく、反対論が噴出するのもうなずけるけれど、時間感覚のずれというのは、日常生活とネット世界との間で、誰もが感じるものではなかろうか。
 
 
 まだ僕が建築系学生だった頃、教授にくどいほど叩き込まれたのが「ヒューマンスケールで考えろ」ということだった。勘の良い人ならわかると思うけど、ヒューマンスケールとは「人間的な縮尺」という意味で、建物を考える際には常に人間の大きさを基準に考えなさいということになる。
 
 何を基準にするかということは、僕ら人間が生きていく上でそこかしこで登場する。家族という小さな単位のなかにも沢山あるだろうし、もちろん社会にも星の数ほど基準は存在している。僕らはそういう沢山ある基準のなかを生きながら、自然と「複数の基準に自分を適合させる」習慣を、学習し身につけているともいえるだろう。
 
 そしてここにまたひとつ、本日のお題ともなっている摩訶不思議な基準が存在する。およそ絶対的であろうと思われる「時間」の概念を、根底から覆してしまう「ネットでの時間の速さ」だ。アインシュタインは論理的に真正面から「時間」と戦ったようだけど、おそらくこのネットでの時間感覚までは、考えも及ばなかったのではなかろうか。
 
 
 ネットで出逢った人たちは、男女の区別なく、驚くような速さで親しくなってゆく。昨日は赤の他人であっても、今日出逢って明日には恋人となっていることも珍しくないのが、このインターネットという世界だろう。かと思えば、呆れるほどあっさりと縁が切れてしまう。出逢いから別れまでの歳月も、現実世界と比べると極めて短いことが多いようだ。
 
 それを「関係が希薄なんだよ」と言う人がいる。そうだろうかと僕は首をかしげてしまう。自分の過去を振り返ってみて、たしかに希薄な関係の相手もいるにはいたが、むしろ概して濃密であったように思い出される。そう、関係が希薄なのではなく、通常にも増して密度が濃すぎたんだ。そして、その状態を自分で咀嚼しきれず、愛だろうか恋だろうか友情だろうかと思いあぐねている間に、あれよあれよと時間に流されてしまっていたような気がする。
 
 
 手紙というものを考えてみよう。現実世界で恋人に手紙を書いたとする。ひと文字ずつ彼女のことを想いつつ、僕は文章をしたためてゆく。書き終えるまでに何十分かかるだろうか。もしかすると、彼女のことを考えながら、一時間以上かけて恋文をしたためるかもしれない。そうやって書き終えた手紙を封筒に入れ、郵便局まで持っていく。投函した恋文が相手に届くまで何日かかるだろう。近ければ翌日には配達されるだろうけど、遠隔地だと三日から四日かかるかもしれない。
 
 そうやって届いた僕からの手紙を、彼女は開いて目を通す。読みながらもう返事の言葉が脳裏をかすめ、はやる気持ちを抑えるようにしながら、彼女は僕への返信をひと文字ずつ丁寧に記してゆく。そう、僕のことを考えながらだ。何枚の便箋を使うのかわからないけど、返信を書き終えた彼女は、それを封筒に入れ郵便局へと向かう。そうして僕の手許に、一週間ぶりくらいに彼女の言葉が届けられる。それが手紙というものだ。
 
 けれどネットでは、Eメールという便利なものがあって、書いて送信すると即座に相手に届いてしまう。もしその場に相手がいれば、数分後には返信メールが舞い込んでくるかもしれない。それを読んで再び僕はメールを書いて送信する。手紙に比べて遥かに時間が短縮でき、これほど便利なものはないような気もしなくもない。
 
 けれど、そう、時間があまりに早すぎる。相手のことを考え、自分のことも考え、自分のなかで状況を充分に消化するだけの時間的余裕がそこにはない。恋愛における「想いを温め熟成する」だけの時間というものが、どうも欠落しているように思えてならない。手紙を送り、それが返ってくるまでの時間は、関係を熟成させていく上で必要不可欠なものだろう。そうやって時間を経ることこそが、人間として適したプロセスであり、ヒューマンスケールなのだと僕には思える。
 
 
 チャットというのはリアルタイムに会話がなされる。メールより遥かに反応が早い。それだけに、そこで交わした言葉の数に惑わされて、たいした時間をシェアしてるわけでもないのに、自分と相手との関係を現実以上に深く受け止めている人は少なくないような気がする。そしてそれが、トラブルの種となっている状況を、僕はよく目にしてもいる。
 
 時間の道は、ゆっくりと自分のペースで歩みましょう。速い反応に慣れてしまうと、ときに相手の反応の遅さにいらだつこともあるかもしれないけど、そういうときこそ「ゆっくりと、じっくりと」と自分に言い聞かせ、相手のこと、そして自分自身のことを、時間をかけて考えてみてはいかがだろうか。
 
 慌てることはない。焦る必要だってどこにもない。時間の流れが速くなることなどなくて、普段のまんま、時間はいつだって同じペースで刻まれているのだから。



2005年05月22日(日) 異性を理解するということ

 人はなにかを判断する際、常に自分の価値観や感性を拠り所にする。考えるのは自分で、感じるのも自分であることを思えば、それは至極当然のことなんだけど、異なる性を理解しようとするときに、それら己の価値観や感性が適切な判断を邪魔してしまうことが少なくない。そう、ライブチャットに集う人たちが男と女という異なる性であることも、忘れてはいけないのだろう。
 
 
 その言葉、誤解されるかもしれないよ
 その言葉、鵜呑みにしないほうがいいよ
 
 賢明な読者諸氏であればもうお気づきだろうけど、上はチャトレに向けたもので下は男性客に向けたもの。ここで読み違えないで欲しいのは、僕は「言葉の使い方の難しさ」をいいたいのではなく、「男と女とでは、同じ言葉でも受け止め方が異なる場合が少なくない」ということね。
 
 例えば「好き」という言葉を、みなさんはどう使いどう受け止めてるのだろうか。僕はわりとこの言葉は「普段使い」している。だって、好きなもんは好きなんだもん。という、わけのわからない言い訳してるけど、「好き」という気持ちがある以上は、僕はそれを素直に伝えるようにしている。けれど、それを相手がどう受け止めるかは、相手によって異なるのだと思える。だから僕は、「好き」の前後にいろんな言葉をオマケとしてくっつける。そうやって僕の「好き」を、相手に伝えるように心がけている。
 
 それでもときどき、僕の真意がうまく相手に伝わっていないと感じることがある。「口が達者」と言われるヒロイさんですらそうなのだから、そうでない人たちはもしかすると、さんざんな目にあっているのかも……しれない。
 
 
 そもそも、誤解や鵜呑みはどうして生じるのだろうか。ひとつの拠り所として、いま「スタンス」というものを考えてみよう。「姿勢」と解釈していいだろうね。チャトレがチャットする際にお客さんに対して抱いている心理的な姿勢。そして、客がチャトレと相対するときに心に抱くもの。それらの違いを考えると、誤解と鵜呑みの仕掛けが見えてくるような気がするんだ。
 
 チャトレにとって客は大勢いる。「いや、おれはあの子にとって一番の客に違いない」ときみが思い込んだところで、そんなことは何の根拠もない。たしかに大勢の男を相手にしていれば、そのなかで自然と「序列」はできてくるかと推察している。けれど、それらの序列は「仲良し」の序列であることが多いような気がする。男が期待してるような序列ではないということだ。
 
 一方客にとってチャトレはそう多くはいない。現実には数百人いたとしても、そこで言葉を交わし「好き」になっちゃうチャトレとなると、極めて数は限られてくるだろう。おそらく多くの男たちが、チャトレを恋愛の対象としてみているとも思う。仮想と現実との住み分けが下手な男という生き物にとっては、チャトレとの関係は「一対一」が理想系なのである。
 
 この違いはとても大きい。一方は「お友だちとして」と思いつつ他方は「恋人として」向き合っているのだから、それらを双方が理解しない限りは、誤解と鵜呑みは堂々巡りをするようにも僕には思える。
 
 
 チャトレは多くのリスクを背負ってその場にいる。これも理解しなければいけない客との違いだろうと僕は思う。現住所や電話番号を明記はしてないものの、ネットという公の場で顔を出しているということは、一歩間違えると色々な危険が身に降りかかってくる可能性だってあるからだ。当然のことながら、普段以上に相手に対して距離を置くこととなる。その気持ちを、男は察してあげないといけない。
 
 チャトレ側も、客である男衆が自分のそういう立場を理解してくれているかを、そっと推し量る必要はあるだろう。言い換えると、そういうリスクを負う立場を理解しきれずにチャットルームに来ているお客さんも、ことのほか多いかもしれないということになる。立場を理解してもらうということではなく、相手がそれを理解してないということを、チャトレであるなら前提に把握して会話に臨むべきかもしれないということだ。
 
 
 こんなことを書くと元も子もなくなってしまうんだけど、常々僕は「所詮、男と女は理解しあえない間柄にある」と思っている。なんか投げやりな物言いに聞こえるかもしれないけど、理解しあえないから理解しようとしても無意味だということではないよ。
 
 男である僕がいくら女の立場を考え論じたところで、それは男である僕の言葉でしかない。理解したつもりではいても、自分が本当に女になってその立場を経験しない限りは、それは「本当の理解」とはいえないような気がするんだ。だから、理解しあえない間柄なのかな、と思う。
 
 大切なのは、「理解しきれないのなら、謙虚に思いやりを持とう」ということではなかろうか。自分の考えや行動に、ほんの少しでもいいから疑問符を投げかけ、相手を認める努力をしてみることではないだろうか。チャトレと客との間には、そういう関係があって欲しいなと、僕はそう思っている。



2005年05月21日(土) ライブチャットの流出動画について

 ライブチャット流出動画というのがある。知らない子ももしかしたらいるかもしれないけど、チャットの様子をキャプチャー(録画)して動画ファイルにし、それを種々のネット媒介によってばら撒かれたものが一般にそう呼ばれているのである。今回はその流出動画にまつわるお話。
 
 
 流出動画のほとんどは、おそらくアダルト系のものだろう。女の子が単にお喋りしてる様子を動画にして流したところで、それに食いつく輩がそうそういるとも思えないからね。ということは、ノンアダチャトレにとっては関係ない代物なのだろうか。そうかもしれない。けれど、これは自己防衛知識のひとつとして、やはり知っておいて損はないと僕は思う。
 
 基本的に、パソコンに映し出される映像は、キャプチャーすることができる。いつだったか馴染みのチャトレちゃんに「試しにやってみて」と言われて、手許の無料ツールでキャプチャーしたことがあったけど、彼女もそれをみて驚いていた。そのとき僕が使ったツールは低機能だから、それこそ動画がかくかくしちゃってたけど、高機能なツールを使えば臨場感溢れる動画ファイルを作り出すことも可能だろう。
 
 そのとき彼女から、相手にキャプチャーされてるかどうかを判別する方法はあるか、てな質問を受けた覚えがあるんだけど、僕にはあるとは思えない。彼女の弁によると、相手がキャプチャーしはじめるとチャトレ側のカメラ映像の動きが鈍くなると聞いたということだったけど、キャプチャーしてるのは客側のマシンであって、それがチャトレ側のマシン負荷に影響するとは思えない。「気のせいじゃないの」と返事した記憶があるんだけど、いまでもそう思っている。
 
 
 ライブチャットの流出動画とは直接関係ないんだけど、動画の裏事情というのを少しお話ししておこうか。僕はかつて、ネットのアダルト動画関係に手を染めていた時期があった。自分が動画をみたいというよりは、ファイルを操作したり仲間と共有する方法を模索したりするのが好きだったんだ。どこにいてもこの男は、そういう裏方的作業が好きらしい。
 
 物の真贋はさておき、いわゆる有名人の流出動画というのもけっこう目にしてきた。もちろん、動画の世界には素人物も沢山あって、援交物からホテルの盗撮まで、およそこの世にある男女の性行為を感じさせるところには、キャプチャー(盗み取られる)可能性がそこここに潜んでいるものだなぁと少々怖くなったほどだった。
 
 僕は自分でキャプチャーして配布したことがないから(あったら誰にも相手にされなくなってたかもしれないけど)、正直なところ、彼らの心理というものが掴みきれない。そんなことして何が面白いんだ、とすら思う。ただ、他人の生活を覗き見るということへの興味は、形こそ違え、多くの人たちが持っているものだろうし、それが高じてキャプチャーへと走ったと解釈できるような気はしている。それと、やはり「腕試し」なのかな。ハッキングにもそういう心理があると思うけど、「してはいけないもの」を自分の技術でやってしまうことの快感というのも、おそらくあるんだろうなと想像している。
 
 それでもかつては、パソコンの処理能力やネットの転送速度の関係で、動画もどちらかというとこじんまりとした隆盛ぶりだったような気がする。それが近年、マシンのスペックが飛躍的に向上し、さまざまな高機能ツールの登場とトラフィックのブロードバンド化によって、大きなファイルが大量にネットワークを流れるようになってきた。
 
 率直なところ、ライブチャットの映像をキャプチャーして動画ファイルに変換し流すなんてことは、もうお茶の子さいさいの時代なのである。そういう「技術の現状」を、僕はチャトレのみんなにも把握しておいて欲しいなと思う。だから、こんなコラム書いてるわけ。
 
 
 とはいえ、冒頭に書いたように、流出動画の多くはアダルト系に違いないだろうから、ノンアダでやってる子たちがそう神経質になることもないとは思っている。ただ、ノンアダであっても、自分の姿や素性がわけのわからんところに流れるのを嫌う子はいるだろうし(ほとんどそうだと思うけど)、チャトレをやってること自体を恋人や親兄弟に隠してる子だって少なくないと思う。そう考えると、まんざら他人事でもなく、充分注意しておくに越したことはないのかなという気がしてくるんだな。
 
 こう書いてきて、ひとつとしてお得意の「傾向と対策」がないじゃないか、と怒られそうだけど、正直なところ、ないものは書きようがない。動画世界を歩いてきた僕が言うんだから、おそらくないと思う。仮にあったとしても、それなりにノウハウを身につけないと処理できない方法であるのなら、それは汎用とは呼べないだろう……。
 
 甚だ説得力のない結論になるけど、やはりチャトレ個々が「人を見る目」を養うしかないのかなぁと僕は思っている。それと、危険を察知する心構えを常に持っておくこと、かな。ただ繰り返すけど、ノンアダであればそれほど案ずることはない。誰かにばれるのを怖れていても、ノンアダであれば、キャプチャーしようと考える輩そのものがそうそういるわけでもないからね。
 
 ひとつの知識として、心に留め置いてください。



2005年05月20日(金) みんな脱いでるよ

 過去数回、チャトレになりたての新人さんと話をする機会があった。そしてほぼ全員から「ねぇ、他の子たちはみんな脱いでるの?」と訊かれた。「またかぁ」と思いつつ苦笑いするしかないんだけど……そんなことは絶対にないからね。
 
 
 新人ちゃんというのは、低レベルチャッターどもの格好の餌食となりやすい。彼らがシャルル・ペローの「赤ずきんちゃん」を読んでるかは定かでないけど(注釈:グリム童話とは違い、ペローの赤ずきんちゃんは最後に狼に食べられてしまう)、社会を知らぬ若葉マークをあの手この手で悪の道へと引きずり込もうとする手口は、裏返せば使い古された手ともいえる気がする。
 
 けれど人には「不安な心」というのがあって、同じ言葉が度重なると「そうかな」とも思うし、言い捨てられればその言葉はいつまでも心にしがみついてしまって、言い放った側の意図とは無縁にいつまでも心を痛め続けてしまうことも少なくないだろう。そういう不安な心理を逆手にとったのが、いわゆる「詐欺」というやつで、新人チャトレにあることないこと吹き込む輩も、要するに詐欺師と何ら変わらないということになる。
 
 それだけに、「まわりは皆やってるのにどうしてきみはやらないの」と脱ぎを持ちかける輩の存在は、腹立たしくてならない。奴らには「自分は詐欺師なんだ。嘘つきなんだ」という意識はおそらくないだろう。あってやってるとしたら言語道断。人を傷つけるということを意識してやってるのだから、たしかに罰則はうけないかもしれないけど、犯罪者となんら変わらぬ存在だと僕は思う。
 
 
 僕はどちらかといえば「あまのじゃく」だと思う。手許の辞書では「わざと逆らう人。へそまがり:天邪鬼」とある。へそまがりかどうかはわからないけど、偏屈だと自己解析はしている。あまり良い意味の言葉ではないようだけど、僕は自分をそう呼ぶことに何ら抵抗がないんだ。なぜかというと、そうすることで僕は、自分を他とは引き離して見つめることができたし、そこから自分なりのスタイルを模索できれば、それはそれで良いことではなかろうかと考えているから。
 
 けれど実のところ、あまのじゃくはとても寂しい。抵抗することで己を立てるということは、往々にして大勢から離れてしまうことをも意味するのだから。華やかに揺れる神輿に群がる嬉々とした顔を眺めながら、自分もそこに入りたいと思いつつ踏みとどまってしまうようなところもあるような気がする。厭な性格だなと、自嘲することも幾度となくあった。
 
 ただどうしても、「世界に広げよう友だちの輪!」といわれたときに、まわりが皆両手をあげて輪を作っていても、僕は作りたくないと思ってしまう。輪がいけないというのではない。周囲に流されて手をあげることをしたくないだけなんだ。けれどそれを人は、あまのじゃくと呼ぶ。そんな僕から見ると、「みんな脱いでるよ」と詐欺師が囁く背景には、集団に組していないと不安になってしまう心理の弱点が見え隠れしているようにも思えてくる。
 
 
 「個の時代」といわれるようになって何年経ったのだろうか。大江健三郎さんがノーベル平和賞を受賞されたとき、新聞の対談にある氏の言葉に強い感銘をうけた。集団でことを為してきた時代から、日本も確実に脱皮しつつある。若い才能が世界中に広がり、そこここで日本の新しい青年像を見せ付けてくれているのも事実だ。それなのに詐欺師の手口から、「みんなやってるのに」という言葉が消えることはない。そんなところに、輝ける個など存在のしようもないではないか。
 
 数多のチャトレたちに僕は言いたいことがある。このコラムを読んでるのは、そのなかのほんのひと握りに過ぎないだろうけれど、叶うなら、それを口伝に広めて欲しいと願っている言葉だ。
 
 人はみな、固有の美を持っている。それは見た目だけでなく、精神的にも固有の美だ。確かに人は、比較によって優劣を判断してしまうけれど、それを判断する人もまた、固有の美的感覚を手にしているのだから、誰かを基準に自分の価値を決めてしまうことほど、愚かで自分を蔑んだ行為はないと僕は思っている。
 
 同じように、チャトレという立場の女性たちにも、僕は基本的に優劣などないのだと思っている。みなそれぞれに美しく、みなそれぞれに素敵だからだ。大切なのは、群れのなかで己を高めることではなく、本当の自分を見極め表現することではなかろうか。誰かに好かれようとするよりも、素顔の自分を愛してくれる人を探すべきではなかろうか。
 
 そうすればそこには、きみにしか手にできない「個」が生まれる。まわりが仮にみんな本当に脱いでいたとしても、自分を信じて自分の道を歩めるきみがそこにはいるはずだ。それを是非見つけ出して欲しいと、僕は願っている。
 
 
 詐欺師は人の不安につけこむ。そんな奴らを撲滅するためには、ひとりひとりが、自分をしっかりと持つことでしかないような気もする。誰のものでもない、自分だけの自分をね。



2005年05月19日(木) 管理人の差別とえこひいき

 腹立たしい話を耳にした。それは、チャットサイト管理人によるチャトレへの差別、えこひいき。率直なところ、サイト名を公表して弾劾したい気分だけど、さすがに誹謗中傷に抵触しないとも限らないので……「ピ」とだけ書いておこう。公表してるようなものか、激汗。
 
 
 ご存知のようにライブチャットにはアダルトとノンアダとあるわけだけど、ノンアダと呼ばれるサイトのなかには、「ある程度のアダルト行為を容認」するサイトも数多く存在している。では、その「程度」ってどの辺なの?と尋ねると、それはもう千差万別。客観的に「それじゃアダルトと変わらないじゃん」というものもあれば、「なんだ、それだけか」というものもある。
 
 聞くところによると、管理人はチャトレからの質問を受ければ、それなりにガイドラインらしきものを彼女に伝えて、自分のサイトではこの程度までにしてくれと返信しているらしい。行為そのものは、自サイトを統制していく上で重要なことであり、マメな対応は好感すら持てると思う。しかし、その対応に差別があったとしたら、それはゆゆしき問題ではなかろうか。
 
 
 あるチャトレが、ガイドラインを超える行為をサイトで行い、IDを削除された。それはある意味仕方がないことだとも思えるのだが、後日、別のチャトレが同じ行為を行ったにも関わらず、管理人は彼女のIDを削除しなかった。それだけでも不信感がつのる管理体制だと思うけど、ガイドラインに抵触してないのに、一方的にIDを削除されたというチャトレを僕は知っている。
 
 さらにひどいことには、管理人に可愛がられてる「お局チャトレ」がいて、彼女の心象を害するとろくなことがない状態にもなっているらしい。これはもう完璧な「えこひいき」以外のなにものでもない。万人が納得する説得力あるガイドラインを持たず、自分の感情でサイトを運営しているということではないか。
 
 
 もちろん、管理人といえども人間だ。虫の居所が悪いときもあれば、自分好みのチャトレが登録してきて親しくなることだってあるだろう。されど、まがいなりにもひとつの組織を動かす立場にあるのなら、そんな私的事情をサイト管理に持ち込んでいいものだろうか。特定の自サイト登録チャトレと親しくなるのは構わないと思う。いや、詭弁でなくそう思う。親しくするのは構わない。しかし、それを管理という仕事に持ち込むのは間違っていると僕は思う。
 
 僕はこれまで、チャトレちゃんたちに「凛とした姿勢を持ってね」と語ってきた。そして同時に、サイトを統括する人なり組織に対しても、同じことが言えるだろうとも考えてきた。自分がどうしたいかではなく、何がサイトのためになるかを考えることこそが、管理する立場にいる者の責務ではなかろうか。
 
 「おれが作ったサイトだから、おれの自由にして何が悪い」と言うだろうか。僕は「ふざけるな」と言葉を返してさしあげたい。自分ひとりでサイトを作り、自分だけがそこに属しているなら、僕もこれほど口角泡を飛ばして言ったりはしない。されど少なくとも、そこに自分以外の「チャトレ」を抱えているのなら、組織の責任者としての公正な姿勢は持つべきだと思う。いや、百歩譲って、「おれには彼女たちを解雇する権限がある」とのたまったとしてもだ。それが果たして、作り上げたサイトのためになるのだろうか。
 
 資本主義社会の原則、そのなかに、「誰もがハッピーになることを目指す」というのがある。会社というのは、経営者だけではなく、従業員も投資家もすべてが儲かってハッピーにならなければいけないというものだ。そのために、経営者というのは自我を捨ててことにあたらねばならないときもある。何が組織のためになるかを考えることが、トップにいる人間の責務だともいえるだろう。
 
 そう考えたときに、トップにいるはずの人間が、自分の感情で出来事を処理していいものだろうか。お抱えのトップチャトレから「あの子嫌いなのよね、なんか危ないこともやってるようだし」と通告され、事実関係を公平に調べることもなく、さっさとIDを削除してしまって、それでいいのだろうか。
 
 
 古い格言に、「泣いて馬謖(ばしょく)を切る」というものがある。中国三国志の時代、蜀の軍師として名高き諸葛亮孔明が、自分の右腕と目していた智将「馬謖」の失態を前に、涙ながらに彼を切り捨てたというものだ。情にほだされて組織のルールをまげてしまうのは、組織のためとならず、リーダーとして失格であるという意味の言葉でもある。
 
 昨年の国営放送大河ドラマにもなった「新撰組」にあっては、副長土方歳三が組織のルールを厳しく取り締まっていた。やはり参謀格の山南敬助が隊を抜けたとき、彼を捕えて涙ながらに切腹を命じたという。前例はルールをいい加減なものとし、処罰はルールに凛とした姿勢を植えつける。そういう心構えを持てないのなら、僕はトップに立つべきではないとすら思う。
 
 差別やえこひいきは、いずれ噂となり広まってゆく。ここだけの話だけど、その「お局チャトレ」とは、驚いたことに例の「冤罪事件」の相手であった。率直なところ、僕はあのサイトでポイントを追加購入する意欲が、かなり薄れている。わりと気に入っていたサイトだけに、残念で仕方がない。僕ひとりが反旗を翻したところで、あちらさんは痛くも痒くもないのだろうけど、知ってしまった以上、僕は僕なりに小さくとも態度を示さねばならないだろう。
 
 願わくば、一日も早く、数多の登録チャトレが反旗を翻すことを祈りつつ……。



2005年05月18日(水) 【閑話】ラブレター

きみへ
 
 窓越しに、風が吹く笛の音がきこえてくるよ。この様子だと、今朝きみとみた公園の桜も、ひとときの春を謳歌して散ってしまうかもしれないね。ほら、ベンチに桜の花びらが二枚落ちてただろ。きみは何も言わずに見つめていたけど、僕は、あれが僕らみたいな気がしてたんだ。いや、なんとなくだけど。
 
 毎日顔をあわせて、毎日言葉を交わしているのに、どうして手紙なんか書くのかってきみは思うかもしれないね。本当に僕らは、いろんな話を沢山してきた。そりゃときにきみを怒らせたり、きみの涙に戸惑ったり、一緒に大声で笑ったりもしてきたけど、僕はね、いつまでもいつまでも、それを忘れたくないし、折に触れて、そのときどきのきみの心を、もう一回味わってみたいって思うんだ。
 
 言葉も、笑顔も泣き顔も、きちんと僕の心には刻まれている。そうだね、きみの心にもしっかりと刻まれている。それを僕はいつでも思い出すことができるし、きみもそうだと思うんだ。
 
 でもさ、ほら、初心忘れずなんて言うでしょ。人は頭でそのときの気持ちを覚えているようでいながら、心がそれをどう感じていたかっていうところは、時の流れとともに感じにくくなってしまうのかもしれない。僕はね、それを忘れたくないというか、いつも思い出せるようにしていたいんだ。だからこうして、きみに手紙を書いている。
 
 きみはあまり手紙を書かないけれど、それでも幾つかの手紙が僕の手許にはある。思い出したときくらいなんだけど、ふとそんな手紙たちを読み返していると、そのときどきの、きみの心のなかを感じられる気がするんだ。ああ、このときは怒ってたんだなとか、このときは寂しかったんだなって。
 
 この手紙たちをきみが書いていた瞬間は、間違いなく僕がきみの心のなかにいた。そして、小さな文字のひとつひとつから、きみのそのときどきの笑い顔や泣き顔が浮かんでくるんだ。僕はもちろん、いまのきみも大好きだけど、そんな手紙のなかにいるきみも、同じように大好きで、愛しいと感じて、大切にしていきたいと思ってる。
 
 だからね、僕はきみに手紙を書くんだ。いまこの瞬間の僕のきみへの想いを、そのまま言葉にすることはできないけれど、何か文字をつづっていくことで、そこに僕のこの気持ちが織り込まれるようにと祈りながら、ひと文字ずつ考えて、丁寧に手紙を書いてる。
 
 きみは、この手紙を読み返すことがあるんだろうか。そうだな、できれば、僕への想いに切なくなったとき、僕のきみへの想いに不安を感じたときに、これを読んでくれると僕はうれしいな。きみと同じことを僕は考えていて、きみと同じように想いを重ねているということを、もしかすると、手紙は語りかけてくれるかもしれないから。
 
 形で残すことよりも、心に深く刻むことのほうが大切だときみは言うだろうか。僕もね、それはわかるんだ。咲き誇る桜に向かってカメラを構えるよりも、肩を並べて一緒に桜を見あげていたほうが、ずっとずっと幸せになれるってこともね。
 
 けれど、形に込められた想いもあるでしょ。心が弱くなっているときとか、霧がかかって先が見えなくなっているときとかに、そっと手を伸ばして触れてみると、それだけで指先から伝わってくる何かが心を癒してくれるように、手紙っていうのもいいものだと思うよ。
 
 そうは言っても、やはりきみはそうそう手紙を僕に書いてはくれないだろうな。うん、べつにそれで構わないと思ってる。言葉にできない想いっていうのを、きみは人一倍大切にしている人だから。そんなきみが、僕は大好きなんだから。
 
 明日も明後日も、きっと僕らは言葉を交わすんだろうね。そして、一ヵ月後も、一年後も、十年後も、もっともっと先になっても、僕はこうして、きみに手紙を書いていたいなって思う。心と心が、いつまでも向かい合っていられるように……。
 
僕より
 
 
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 チャットのログを記録している人っているのでしょうか。そんなことをしてる人は、おそらくほとんどゼロに近いでしょうね。それが、チャットというものだとも思います。そしてやもすると、想いもそのままその場に置き去りにしてしまうなんてことも、もしかするとあるのかもしれません。
 
 ラブレターの束を、いつまでも捨てられずにいた頃のことを、忘れたくないですね。ラブレター、あなたは書いていますか?



2005年05月17日(火) ノンアダサイトが荒れる理由/遊びを知らない男たち

 じつはこのコラムには、当初もうひとつのタイトルが用意されていた。それは「ライブチャットは高級クラブだ」というもので、僕としては核心をついたタイトルだと思えたんだけど、少なからず逃げ腰のところがあって、上記のようなタイトルに納まったのである……。
 
 
 アダルトとノンアダルト、その区別はおそらく人それぞれに持っているのだろうが、今回はあえて「料金体系」による区分けで本編を読み進めていただきたい。すなわち、1分80円から90円くらいでチャットできるサイトをノンアダ、200円前後かかるサイトをアダルトと捉えて欲しいわけ。
 
 双方経験してないチャトレにはわからない話かもしれないけど、これまで折に触れて双方経験してるチャトレちゃんに話をきくと、概ね「アダルトサイトのお客さんのほうがマナーをわきまえてる」と話してくれたような気がする。もちろん総てとは言わないけれど、ノンアダサイトを荒らしまわっている輩(ちんちんマンや暴言男など)は、アダルトサイトではあまり見られないということらしい。
 
 なぜだろうか。
 
 
 いつだったか、「それは、アダルトは高級クラブで、ノンアダは居酒屋だからじゃないの」と答えたことがあった。その比喩の根拠は明快で、要するに「費用」でありお金ということなんだけど、それに留まらない「高級クラブと居酒屋」との違いが、僕はあるような気がしている。
 
 僕はときどき、仕事仲間と夜の街に繰り出すことがある。はじめは馴染みの居酒屋で美味い肴に舌鼓をうち、腹が落ち着いたらそこから馴染みの高級クラブへとなだれ込む。かつてはそれがキャバクラであったりしたんだけど、ここ数年はもっぱらクラブ。それも、わざわざ高いところに行っている。
 
 居酒屋の時点でそこそこ酒も入ってるので、クラブに入っても酒を飲まないときだってある。それこそウーロン茶(もしくは水)だけで三万円以上払うこともある。けれど僕は、それで充分に満足してるし、また行きたいなぁと思う。その店には大きなグランドピアノがあって、若いおにいちゃんがときどきリクエストに応えて曲を弾いてくれるし、気さくで話しやすいお姉さんもいて、雰囲気が僕は大好きだからだ。三万円を惜しいと思ったことは一度もない。
 
 一緒に行く仲間たちは、金を使って遊ぶということに対する価値観を、僕と共有していると感じることがある。みんな特別に金持ちというわけではない。この不景気のご時世に、夜毎大枚はたいておおっぴらに遊べるほどの豪快なやつは、僕のまわりにはいない。遊ぶのは、本当に「ときどき」だ。けれどそのときは、せこいこと言わずに雰囲気をみんなで楽しんでいる。
 
 
 二十代後半から三十代にかけて、僕はとにかく夜遊びしまくっていた。女遊びではない。夜遊び。たしかに夜遊びをすれば、その延長に女の影がないとは言わないけれど、僕はそれを女遊びだと思ったことはなかった。なぜならそういう結果の女関係は、きちんとした恋愛感情のプロセスを経て成立していたからだ。それは女遊びとは言わないだろう。
 
 もちろんその頃に、泥沼の底辺も味わった。書くのに抵抗があるけど、家族を犠牲にもした。けれど一貫して僕のなかにあったのは、夜の世界で働く女性たちの魅力であり、いきざまであり、それを大枚はたいて教えてもらってるような気分でいた覚えがある。甚だふざけたおやじに違いない。
 
 そんな僕からみて、ノンアダを徘徊しているふざけた野郎どもは、ケチでせこい貧乏人だと思えてならない。貧乏とは経済的なものを指すというよりも、「精神的に遊べない貧乏」であると解釈して欲しい。遊びというものを知らないくせに、偉そうに遊ぼうとしてやがる。だから間違いをおかす。身の程をわきまえろってんだ。
 
 
 アダルトチャットをそれなりに継続してつづけていくには、客には相応の経済力が必要となる。これまた総てとは言い切れないけれど、経済力がある男というのは、それなりに遊びというものを心得てるだろうと僕は想像している。だから、サイトでばんたびエッチだけを望むわけでもなく、ときにはアダルトであってもお話しだけで済ませて充分に満足できるのだろう。僕もそうだった。
 
 何を対価に金を払うかということを、本当にわかっているのがアダルトチャット客には多いのだと僕は感じている。それがノンアダを荒らす輩には見当たらない。そうじゃないから荒らすし、自分が荒らしてるのかすら自覚してないのだろうとも思う。そう、ライブチャットという世界は、基本的には金がかかる世界なんだ。居酒屋などではなく、アダルトもノンアダも高級クラブなんだと僕は思っている。それだけに、遊びを知らない輩の存在が疎ましくてならない。
 
 
 インターネットは、開かれた空間だ。そこにあるコンテンツは、アダルトであれ何であれ、誰もが利用する「権利」を手にしている。しかし「権利」というものには、常に「義務」が付随することを身をもって知っている利用者は、悲しい事にそれほど多くはない気がしている。義務とはすなわち、ルールやマナーを守るということだ。
 
 開かれた空間だけに、誰もが入ってくる。ライブチャットは高級クラブだと僕が叫んだところで、彼らはそこを居酒屋だと思って気軽に入ってくるに違いない。同じように女の子と楽しい時間を過したりエッチしたりできるなら、高いサイトより安いサイトでエッチしようぜと思う彼らの心理もわからなくはない。けれどそこには、確実に「サービスに対する対価」の概念はないだろうし、雰囲気を重んじるチャトレの姿勢などまったく無関係なのだろうと想像している。
 
 
 僕を基準に書くのは少々乱暴かもしれないけど、僕が「遊び」をわきまえるようになったのは、それこそ呆れるような金を夜の街につぎ込んで、三十を超えた頃だったような気がする。そう思うと、二十代そこそこで高級クラブであるライブチャットに来るなんぞ、百年早いとどやしつけてやりたい気分にもなってくる。
 
 そういえば、現実の高級クラブにも、わけのわからん若造がときどきふんぞりかえってるのを見かけることがある。見ていてじつに哀れで、情けない姿だなと僕は感じる。金には恵まれていても、その使い方を知らないのは人間として哀しいじゃないか。それを学ぶ絶好の場が夜の世界であり、このライブチャットだと僕は感じてるんだけど、それを身に染みている男たちは、果たしてどれくらいいるのだろうか……僕にはよくわからない。



2005年05月16日(月) 心に残る珠玉の言葉

 ライブチャットにまつわる話ではないんだけど、チャットというものを考えるときに、できれば頭の片隅にでも置いて欲しいなと思う言葉がある。それはまだ、僕がネットをはじめて二年くらいの頃で、年齢的にも精神的にも突っ走っていた頃の出来事だった……。
 
 
 当時僕は、ある女性とネットを通じて親しくしていた。というか、インターネットという世界に僕が入り込んで、一番最初に言葉を交わした女性が彼女だった。いわゆるホームページを介したお付き合いというやつで、お互いのサイトにある掲示板を軸に友人を増やしていったのもその頃だった。
 
 遠隔地に住んでいたので実際に逢えるとは思っていなかったんだけど、あるとき彼女が所要で上京し、ふいに、本当にふいに僕は彼女と直接言葉を交わした。それは俗に言うオフ会というやつで、僕らのほかにも数名の仲間たちがいたんだけど、主催者の策略で彼女が参加することは僕には秘密にされていて、おかげで僕の記憶のなかにあっては、いまでも物語のような出逢いとして刻まれている。
 
 そのときから、僕と彼女とはそれまでとは異なるスタンスで親しくするようになっていった。チャットのCGIを自分たち専用に設置し、夜に昼にそこでお喋りに興じては情を深めていったと記憶している。もちろんライブカメラなどというものはまだない。ネットの常時接続すらない頃だから、従量課金制という条件のなかで、テレホーダイを使ったりタイマーをみながらというネット風景が普通の時代だった。
 
 彼女は、僕が書くものをある意味で愛してくれていたと思っている。とかく感情ばかりが先走る恋愛模様のなかにあって、彼女はよく、文章に対する感想や意見を率直に伝えてくれた。そしてときに、僕のネットやネット仲間に対する姿勢を批判することもあった。僕も彼女とは真剣にぶつかった。なぜ伝わらないんだろうかと悩み、文字が万能でないことを悟り始めたのも、もしかするとあの頃だったのかもしれない。
 
 
 そんな彼女とチャットしていたある夜のこと、僕らはひょんなことで喧嘩をしてしまった。険悪な雰囲気のなかで、関係を修復しようと言葉を送信しても、それは空回りするだけ。言葉をやり取りすればするほど、険悪という名の炎に油を注ぐような感じだった。そのとき、彼女がそっと呟いた……
 
「目と目をみて、声で言葉を交わせれば、こんなことにはならないのにね……」
 
 そのひとことに、僕ははっとした。僕らは「会話」というものを、生身の人間が面と向かって交わすものだと認識している。そこにはその人の声のトーンがあったり、目の動きや顔全体の表情があったり、ときに手や体全体による動きも加味された「雰囲気」も伴ったものを、相手からの会話として受け止めているに違いない。けれど文字によるチャットでは、そこには無機質な文字だけしかありえない。
 
 文字は万能ではないんだと思った。そして、その不充分さを補う「配慮」を持たねば、文字で人とコミュニケートすることはとても危険なのだとも悟った。僕は書き物を趣味としている。その頃もいまも、僕にとって主たる表現手段は、この文字たちだ。僕はどこか、そんな文字たちを「操る」ことばかりを考えていたのではなかろうか。自分の「想い」を伝えるために、彼らをただ綺麗に並べ形作ることばかりを考えていたのではなかろうか。
 
 涙が出そうになった。自分の思い上がりに打ちのめされた。常より「ネットの向こう側には生身の人間がいる」などとほざいておきながら、「自分の文字を相手がどう読むか」という配慮すらおざなりにしてしまっていた自分に、僕は情けない想いがこみあげてくるのを抑え切れなかった。
 
 
 ライブチャットでは、客からは常にチャトレの姿が見えている。客にとってチャトレの発する声なり文字は、カメラに映る様子、つまり雰囲気とともに味わうことができる。けれど、双方向カメラでない限りは、彼女たちにとっての僕らの情報は文字でしかない。僕らが怒っていようが笑っていようが、彼女たちには文字でしか伝わらない。
 
 僕らはそれを理解しなければいけないのだと思う。普段はなんでもないような会話の内容であっても、それが文字チャットの世界では喧嘩の引き金となりかねないことを、充分に承知した上で文字を打たなければいけないのだと思う。そして、充分に伝わりきるものではないという謙虚な心と、相手への配慮を忘れてはいけないのだろう。
 
 
 前出の彼女とはその後、僕が当時動かしていたサイトが活動休止したのを機に、他の多くのネット仲間たちとともに縁が切れてしまった。いや、正確に書くと、メールは繋がっているのだから、その後も折に触れてメールはあったような気がする。しかし、サイトを休止してしまってからは、それから僕が「ヲトナごっこ」を開設したことすら、あの頃の仲間たちは知らない。
 
 ヲトナごっこ二年目の頃だろうか。当初のサイト休止からは三年か四年が経過していたと思うのだが、ヲトナごっこのパンドラの箱という私書箱に、一通の便りが舞い込んできた。「ネットで、あるキーワードで検索していたら、偶然このサイトをみつけました」という便りは、驚いたことにその彼女からのものだった。彼女も驚いただろうと思う。本当にあの頃の仲間たちには、一部の例外を除いてヲトナごっこのことは教えてなかったのだから。
 
 そんな彼女は、いま、この花道コラムも読んでくれているようだ。



2005年05月15日(日) ブラインドタッチ/音声チャットについて

 べつに暗闇でアイマスクして女の子の体を追いかけるという話ではない。ブラインドタッチ、目を閉じていても触れる……もとい、文字が打てることをいう。昨今はタイピングソフトもゲーム感覚になってきたから、チャトレちゃんたちのなかにも「おまえは既に死んでいる」なんてタイピングしながら遊んだ子がいるかもしれないけど、ときどきタイピングが覚束ない子と出逢ったりすると、「いいんだよ、おじさん優しいから待ってあげちゃう」なんて言いながらマメに残ポイントを確認してしまうのであった。
 
 
 ブロードバンドってのはほんと便利なもんで、僕がネットをはじめた頃にはとっても大変だった双方向のテレビ電話なんてのも手軽にできるようになってきた。もちろん、チャットの世界でも音声チャットは当たり前のように使われてるわけだけど、やはりチャットの基本は文字を打つことであって、「文字打つの慣れてないから音声でね」というチャトレをみるにつけ、何考えてんだこいつはと眉をしかめてしまうのはおやじだからだろうか。
 
 実のところ、僕のネット時間というのはほぼ会社の営業時間内なのだ。自宅にもパソコンはあるけど、帰宅後に僕がそれに触れることはほとんどない。ましてやネットに繋ぐなどということもない。つまり夜間はネットしなーい。で、社内に自分ひとりしかいなければ音声も構わないとは思うんだけど、いつ誰が疾風の如く入ってくるかもわからないような場所で、のんびり音声チャットなんぞできよう道理がないでしょ。
 
 僕のデスクは、他の従業員のほうを向いている。僕がそうレイアウトした。だから僕のデスクのパソコン画面は、他の誰からも見えないということになる。建前上は「みんなの顔をみながら仕事したほうがいいでしょぉ」と健全なしゃちょーさんを気取ってはいるが、その実、怖い顔をしながらモニター見つめて心で大笑いしているのであった。器用な奴かもしれない。だから「爆笑」レベルの話になるとまじ困る。それまで背筋を伸ばして仕事(の振り)してたのが、突然モニターの影に顔を隠すのだから、怪しいことこの上ない……。
 
 
 まあ僕の事情はさておき、チャットにおける「文字の重要性」をくどくど書くには理由がある。それは「音声言葉より文字のほうが的確かつ修正がきく」からだ。そしておそらく「より考える」だろうとも想像している。
 
 かつての僕は、人と会話するときに「感覚」で喋っていた。口から出る言葉を論理的に選び出し組み立てるのではなく、それまでの経験に委ねた感覚で言葉を発していたような気がする。それが、ウェブで文章を書くようになってから変わってきた。それを「年をとったからだ」と言う人もいるだろうけど、年食っても感覚で喋る人はいる。やはり僕は、ひとつひとつの文字を組み立てる作業を身につけることで、「言葉」を脳で一旦整理してから排出するというプロセスを自然と覚えてきたのだと感じている。
 
 チャットというのは、メール等の文章と比べれば明らかに感覚的な会話となるだろう。しかしそれが音声でなく文字であるというだけで、人は文字を目でみて頭で読み解こうとする。返事の言葉も、顔文字びしばしで「これ何語?」というような文章は別として、普通に普通の日本語で会話をしているのなら、文字で打ち込みながらも「もっと別の表現方法があるかな」と、ふと指を止めた経験を持つ方は少なくないはずだ。
 
 耳だけでなく目を使うということが、人間の脳にとってどれだけ意味があるかは、僕にはちゃんと説明できないんだけど(おいおい)、たぶんプラス要因が多いんだろうなぁと想像しているのである。だから、音声チャットでなく文字チャットに励みましょうということになる。
 
 
 僕は趣味で書き物をしている。ネットで文章を公開しはじめたのがおよそ七年半ほど前。それ以前から、パソコンで文章は書いていた。僕がパソコンを手にした時代は、ウィンドウズなんて気の利いたものはなくて、まだまだDOSがはびこる世界でもあったのだ。いわばコマンドを文字で打ち込んでパソコンを動かす時代ね。だから、僕も初めはブラインドタッチのソフトを傍らに練習もした。しかし実際にブラインドタッチが本当に身についたのは、ネットをはじめ、チャットをはじめてからだったような気がする。
 
 いまブラインドタッチができないチャトレちゃんたちも、決して臆することはない。はじめは誰だって初心者だ。誰だって苦労して技術を身につけるのは、どの世界でも同じことなんだ。ただそこで分岐点となるのは、楽なほうへと足を向けてしまうのか、必要だからとそこで地道な鍛錬を受け入れるのかの違いだろう。冒頭で僕は、タイピングの覚束ないチャトレちゃんのことを書いたけど、一生懸命タイピングしようとしている姿を厭だと思ったことは一度もない。僕だって初めはそうだったんだから……。
 
 好きこそものの上手なれという。チャットが好きであるならば、いまは覚束ないタイピングであっても、日々頑張ってキーボードと向かい合っていけば、いつか必ず手元を見ずにキーが打てるようになる。ましてや好きなチャットという手段を利用しない手は無いだろう。おじさんも時には「声が聞いてみたいなぁ」と思うときはあるんだけど、まずは文字で、しっかりと言葉を交わしましょうね。



2005年05月14日(土) チャトレの輪

 待機中の過し方というのも、チャトレによってさまざまなようだけど、これといってやることもなしにただ待機してるのって辛いよね。ぽつりぽつりとでも来客があればいいものの、待てど暮らせど覗いてくれる客すらいないときがあるかもしれない。そんなとき、暇つぶしというわけでもないだろうけど、他のチャトレの待機窓を開いたり、勉強がてら自分でポイント購入してお隣さんを訪ねた経験があるチャトレも少なくないだろう。そしてそこから、チャトレの輪は広がっていく。
 
 
 入る気もなくライブチャットを眺めていると(厭な客ですんまへん)、たまにチャトレ同士が待機窓で会話しているシーンに出くわすことがある。思わず「相手は誰だ?どこだ?」と探しまくり、見つけたときにはもう宝物を掘り出したような心持。会話にあわせてあっちを見たりこっちを見たりと、「アナタ何やってんの?」と言われてもぐうの音も出ない行為に浸ってしまうことがある。
 
 チャトレ同士の横繋がりは、サイトによってはチャトレ用の掲示板を用意しているところもあるようだけど、掲示板はどうしたものかなぁと少々首を捻ってしまう。なぜかというと、チャットと違って掲示板というのはとにかく大勢が目にして書き込みをするものだよね。なかにはどうしても相容れない相性のふたりがそこで衝突しないとも限らないし、どこでもありがちなように「徒党」を組まないとも限らない。
 
 掲示板というのはどこでもそうなんだけど、管理者がしっかりしてないと立ち行かなくなるケースが少なくない。単なる「親睦の場」と捉えてる人が多いかもしれないけど、文字が記録され残るということの意味を念頭に置くべきだし、そう考えると、チャットサイトでのチャトレ用掲示板を管理することがいかに難しいことかもおのずと理解できるだろう。
 
 となると、やはりチャトレ同士の友達付き合いは、待機窓を利用したチャットや資金投入してのチャット訪問、あるいはブログがあればそれぞれのブログでということになるんだろうね。
 
 
 余談だけど、待機中のチャトレちゃんの様子がみられる待機窓。あれに制限時間があるのは、僕はどうもせこい考え方だと感じられてしまう。たしかに2ちゃんに見られるような世情を鑑みると、チャトレを守る意味でも制限時間はあったほうがいいように思えるものの、会員ページにおいても制限されるのはどんなものだろうか。
 
 僕が登録しているあるサイトでは、一般用には制限時間が設けられていて会員ページに入るとそれが解除される、つまりは待機窓をずっと見ていられるというサイトがある。ライブチャットの基本はチャトレとチャットすることであって、様子をただ眺めて楽しむというものではないよね。おそらくは多くの客だって、それくらいのことは承知しているはずだ(アダルトは何とも言えない気もするけど)。であるなら、会員と非会員との差別化をはかる意味でも、会員ページにおける待機窓の制限解除は、僕はとても有効だろうと感じている。もちろん、そういう環境であれば、チャトレちゃんたちが待機窓を利用して相互にお喋りすることだってできるわけだから。
 
 
 チャトレにとって、自分以外のチャトレたちは、ある意味においてライバルとなる。ライバルと仲良くなってどうするんだと考えるチャトレちゃんもいるかもしれないね。でも僕は思うんだけど、天涯孤独なアウトローチャトレでいるよりは、同じ職場で似たような経験と悩みを持つであろう仲間を増やしたほうが、遥かに自分自身のためにもなるのではなかろうか。わからないことを教えてくれるかもしれないし、相談に乗ってくれるかもしれない。そういう仲間は、どんな世界にいても必要だろうと僕は思うんだ。
 
 そして、そうやってできたチャトレの輪が、じつは客たちのライブチャットをも変えていくのだと僕は想像している。馴染みのチャトレちゃんAがいたとしよう。彼女との話のなかで、彼女が同じサイトのBという子と親しいという話を耳にする。ある日、サイトを開いてみるとAはいなかったけどBがいた。まったく客の関心範囲外であれば話は別だけど、僕が彼であったなら、ちょいとBとも言葉を交わしてみようかなという気になってくる。「Aと仲良しなんだってね」と入っていけば、小心者の僕(?)でも入りやすいというものだ。
 
 あれ?それじゃ客をとられちゃうじゃない!と思うチャトレはまだ青い。客がよそに行くのはね、他でもないきみ自身に原因があるんだ。きみとの時間を楽しみにしている客であれば、よそに行っても必ず戻ってくる。どころか、そうやってチャトレ同士が輪を広げることで、きみのお友達のところから客が流れてくることだって考えられるんじゃないの。
 
 そう、「グループ交際」というのが昔からあるけど、もしかするとライブチャットの醍醐味はその辺に隠れているのかもしれないとすら思えてくる。確かに一対一の仮想恋人も悪くはないけど、せっかくこうして大勢の男女が集まってきてるんだから、より多くの異性と言葉を交わしてみて、自分の世界を広げていくことだってライブチャットの楽しみに違いないだろう。
 
 
 人間には知への欲望というのが備わっている。人は知るために生きているとすら思えなくもない。ひとりの異性に満足せず、その向こう側にちらちら見えてる別の誰かが気になってしまうのも、そういう知ることへの欲望が疼いているのだとも思える。それを隠そうとする、言い換えると、他の異性には目もくれない状況を作ってしまうということは、そこに「嘘」という種をまくようなものなのかもしれない。
 
 清く正しく、おおっぴらにグループ交際をし、そこから絆を深めていくことも、僕は決して悪くないような気がする。客同士が輪を作るのは難しいけど、チャトレ同士が手を携えることは、ちょっとした姿勢と行動で為せることなんだから……。



2005年05月13日(金) チャトレと客との感覚差を考える

 少々分かり難いタイトルかもしれないけど、チャトレが客に対して覚えるリアル感覚と客がチャトレに対して感じるそれとの違いを、ライブチャットにおけるハード環境を拠り所に考えてみようというのが今回のお題。ハード環境とはすなわち、カメラ映像のことね。
 
 
 ライブチャット草創期(とはいっても、ほんの2〜3年前)にあっては、双方向カメラでお互いの姿を確認しつつ行うチャットは、ライブチャット世界でも珍しいものだった。いまでは多くのサイトで採用されているし、双方向カメラでもポイント消費が一方向(チャトレ側の映像のみ映る)と変わらないサイトも数多く見られるけど、当初は双方向にするだけでポイント二倍というサイトも珍しくなかったのである。
 
 まあその辺の事情はさておき、このカメラ映像があるのとないのとでは、人の心にどのような心理的変化が起こるのであろうか。それを知らずに感覚の違いに疑問を感じているお客さんも、ライブチャット界には多くいるような気がする……。
 
 
 僕がネットをはじめた頃、仲間とのやりとりはメールか掲示板だった。例えばいま、あるひとりの女性とメールで交流をはじめたとする。僕と彼女とは文字で常に意思を伝達してるよね。文字は適切な使い方をすれば、かなり高い確率でその人を正確に伝えてくれると僕は感じてるんだけど、それでもどこかつかみ所が無いというか、現実世界の人を相手にしてないような錯覚を覚えることも無くはない。
 
 それがある日、サイトなりメールなりで彼女の写真を見た瞬間に、「ああ、この人は現実に存在している人なんだ」という感覚が僕のなかに芽生えてくる。写真を見ながら、この人が僕宛にこういう文章をメールしてくれてるんだなと、そこで初めてリアルな相手を認識するわけですな。すると僕のなかでは(少々特異かもしれないけど)、次に彼女から送られてくるメールの文字たちを見た刹那、そこには彼女の姿が思い浮かぶんだ。それまでは姿かたちがなかったのに、写真一枚を見ただけで、文字の向こう側に姿が見えるようになるわけ。
 
 
 チャットサイトにあって、僕をはじめとする客たちは、常にチャトレの姿を見ながら会話を楽しんでいる。だから僕にとっては、相対するチャトレたちは常にリアルな存在として認識しやすい。当たり前だよね。目の前で笑ったり怒ったりする表情がつぶさに見られるんだから。けれど彼女たちからすればそうはいかないんだな。双方向カメラで姿を確認できれば話は別だけど、客の姿が見えない状態で行っているチャットは、単なる文字チャットと何ら変わらないということ。
 
 これまで過去数回、チャットのなかで「ヒロイさんの写真はどこかにないの?」と訊かれたことがあった。僕自身はもう数年前からサイトで姿を出してるから、たいていはその話をして確認してもらうか、差し支えなければメール添付で相手に写真を届けるということをしている。双方向カメラを使えば手っ取り早いのはわかっているんだけど、いかんせん……会社で営業中に繋ぐのがほとんどですので、現実問題としてこちらからカメラ映像を送るのは難しいんでございます。
 
 写真を見てもらうと、まあ反応はさまざまだけど、概ね「安心した」という声が返ってきたように思える。それは何も僕が「化け物」か何かではなかったということではなく、現実にここに存在している生身の男であることを、彼女たちが写真から感じてくれたからだろうと僕は解釈している。写真一枚が持つ力の凄さは、前述したように僕自身がこれまで幾度となく感じてきたものだからね。
 
 
 文字だけではどうしても今ひとつリアルに感じられない。個人差はあるだろうけど、多かれ少なかれそういう感覚を人は覚えるのではなかろうか。ということは、僕らがチャトレたちに対して抱くリアル感覚とはまるで別の感覚を、文字しか見ていない彼女たちは感じているということにもなってくる。それを客は理解しなければいけないんだろうな。
 
 客が自分のリアル感覚で想いの丈をチャトレに伝えたとしよう。客にしてみれば目の前にいる「姿ある女性」に語りかけるわけだから、そりゃリアルでしょう。けれど、チャトレにしてみれば、映像や写真がなければそれは「ただの文字情報」とも受け取れる。姿かたちがないところから愛の告白をされたところで、そこにリアルな感覚を見いだせというほうに無理がありはしないだろうか。
 
 そういう環境の違いがもたらす感覚の違いをふまえないと、やはりトラブルの種となりそうな気がしてならない。せっかくの縁で出会ったふたりが、限られた時間を楽しく過すためにも、お互いがどのような感覚でその場にいるのかを推し量ることは、きっと必要な思いやりなんだろうな。



2005年05月12日(木) どこにでもいる妄想男

 チャトレしてると一度は相手したことがあるだろう「妄想男」くん。あちらこちらでチャトレに取材を試みると、誰もが幾つかの体験談を聞かせてくれるというありがたいネタ男なんだけど、ほんと、どこにでもいるって感じ。いや、どこにでもいちゃまずいんですけど……。
 
 
 軽いところでは、チャトレの言葉を自分の都合のいいように解釈する男。まあ「思い込み」に近いような気はするんだけど、やはり広義の妄想系には違いないだろう。人間には防御本能というのがある。傷つけられまいとする本能だよね。それが、相手の言葉を自分にとって都合のいい方向に解釈させてしまうのだろうと僕は想像している。
 
 とかく「相手を傷つけない言動」を心がけることが是であると思いすぎると、言葉はどうしても曖昧になり、ときに相手を肯定する意味の言葉の連続となってしまうものだ。肯定されていれば、誰だって「思い込む」だろう。曖昧な言葉がこうした軽度の妄想男を生み出しているとも考えられる。甘やかして育てた子どもはそのようにしか育たないのと同じで、ネットでの妄想男も「誰か」が無意識に、そのように育てているのかもしれないな。
 
 対策は至って簡単で、はっきりと言うことでしかない。ここをチャトレちゃんには誤解して欲しくないんだけど、「楽しい時間を過す」ということは「相手を喜ばせる」という意味ではないと僕は思っている。心と心が通じ合うことこそが人と人とが言葉を交わす上での最大の醍醐味であって、そこではときに、率直な意見もしくは辛らつな言葉ですら是となることを忘れて欲しくはない。間違いをそのままにしておくと、大変なことになりますよ。
 
 
 この軽度妄想男が進化すると、妄想系リアル男に変身する。普段は明らかな妄想系のノリで会話してて、相対してるチャトレちゃんの多くが「なんか楽しい人だわ」と感じつつ妄想ペースをあわせていると、当の本人は妄想と現実との境目がわからなくなって「リアル認識」してしまうというタイプ。これはかなり始末におえない。
 
 妄想が妄想であるうちはいい。いくら話を展開しようとも、それは妄想世界の話でしかないからだ。けれどそれと現実とが交錯しはじめるとまずいよね。現実は妄想のようにはいかない。妄想世界で恋人同士だったからといって、現実世界でそうなれるとは限らないということだ。それでも妄想系リアル男は、妄想を現実のものと認識してしまう。現実であるからには、彼らはきっとゴールを目指すだろう。
 
 そう、実際に逢おうとするだろうし、逢えなければ「どうして逢えないの?」と疑問を投げかけてくるに違いない。相手にしてみれば妄想は妄想でなく現実であって、愛し合う者同士が直接逢って愛を確かめ合うのは至極当然の論理だからだ。逢う気がないのに妄想世界で相槌打っておいて、彼にそういう問いを投げられたらどうする?ね、始末におえないでしょ。
 
 
 ただし、妄想男も筋金入りのレベルに達すると、また話は異なってくる。自分が妄想世界で生きていることをしっかりと自覚してる本物の妄想男だ。この手合いは、前述の二例とはまったく反対で、扱いも極めて楽ちん。一緒にどこまでも妄想世界を楽しんであげればいいだろう。
 
 自分が妄想世界に生きてることを自覚している男たちは、おそらくはそのプロセスを重要視して楽しんでいるのだと思う。妄想世界が破綻して消え去ることを嫌うだろうから、リアル男のような強硬手段もとらないだろう。ゴールのない世界で、ひたすら「恋人」との時間を楽しむのが彼らだ。その望みに応え、願いをかなえてあげるのも、僕はチャトレの大切な仕事なのかもしれないと思うことすらある。
 
 さりとて、本物の妄想男であるか否かを見分けるというのも、かなり至難な気がする。本人が「天地神明に誓ってわたしは妄想男です」と公言していれば話は別だけど、いきなり会話で妄想世界に入られても判断の下しようがないからだ。やはり序盤戦は控えめに状況を観察し、相手が筋金入りだと感じられたら徐々にペースを上げていくというのがいいかな。妙なアドバイスだとは思うんだけど……。
 
 
 妄想が好き、もしくは妄想を受け入れやすい男というのも、ネットにありがちな歪のような気が僕はしている。だからといってそれを完全悪だとは思わない。誰だって生きていくうえでの心の拠り所ってのは求めるのが自然で、妄想世界にそれを求める者がいても、彼を批難することはできないだろうと思うからだ。
 
 しかしそれがときに、犯罪にまで発展するケースがあることも忘れてはいけないだろう。人の心というのはどこか一触即発のような性質を秘めていて、良いほうに転がればいいんだけど、悪いほうに転がると大変な事態を引き起こしかねない。そしてライブチャットという世界にあっては、そういういわばもろい部分を持つ人の心と相対しているのだという自覚を、是非持って欲しいとも思う。
 
 楽しけりゃいい、では済まされない。相手を見極める観察眼と凛とした態度は、チャトレにとって必須であろうと僕は思うよ。



2005年05月11日(水) 【閑話】詩:好きだから、遠ざかる

たぶんぼくがいなくても
きみは生きていける
たくさんの素敵な仲間たちが
きみのまわりにはいるから
 
たぶんぼくがいなくても
きみは幸せになれる
もっと近くに
もっと確かな
幸せの芽があるから
 
 
いくら好きになっても
きみを抱くことはできない
いくら好きになっても
きみのそばにいき
そっと支えることはおろか
手を繋ぐことすら
ぼくにはできない
 
ぼくにできることといったら
きみが確かな愛に触れ
きみが幸せになれるよう
遠く離れたここでひとり
祈ることくらいだろう
 
だからぼくは後ずさる
 
きみが誰かに笑顔を向けたり
きみが誰かと話していると
そっと後ろにさがってしまう
きみから離れようとしてしまう
 
 
たぶんぼくがいなくても
きみの心は潤いつづける
 
たぶんぼくがいなくても
きみの未来は変わりはしない
 
 
けれどぼくがいなければ
きみはぼくを知らなかったはずだ
 
 
 
---- PostScript ----------
 
 閑話として詩を入れてみようかと思って書きました。もちろんここは「チャトレの花道」ですので、ネットやチャットというものを主題においています。これからも折に触れて書いてみようと考えていますので、脳みその骨休めにでもご覧ください。



2005年05月10日(火) チャット客の懐事情

 前回の数字に引き続きというわけでもないんだけど、今回はライブチャットという蟻地獄にはまってしまった男達の懐事情について。とはいっても、特定の男をあげて「あいつはケチだ」「こいつはリッチだ」という下世話な話ではない。数字をもとに、チャトレに客側の苦労を考えて欲しいという話。同時に、ライブチャットを知らない人たち(も、このコラムを読んでます)にその辺の事情を紹介する意図もある。
 
 
 ライブチャットというのは大別してアダルトとノーマル(ノンアダルト)に分かれるわけだけど、それらでは当然のことながら「単価;1分間チャットするのに必要な費用」が異なっている。全てのサイトをリサーチしたわけではないけど、僕が知る範囲では、1分間の単価が「アダルト:160〜220円」「ノーマル:80〜90円」といったあたりだろうか。アダルトがかなり幅があるのに対して、ノーマルは激戦という状況になっているわけだけど、概ね、ノーマルの2倍から2.5倍がアダルトという感じになるかと思う。
 
 さて、高いほうの話よりできるだけ安いほうで話を進めたほうがいいと思うので、ここで「1分間80円」のサイトがあったと仮定して計算してみよう。
 
 そこで、一ヶ月という期間を目安に考えることにするけど、いま「一ヶ月間にライブチャットで使うお金の限度を5万円」と設定すると、「50000÷80=625」となって625分間、すなわちおよそ10時間強のチャット時間が買えることになる。ひとりが毎度チャトレちゃんと話す時間なんか個人差があって皆目見当がつかないんだけど、少々強引に「1回につき1時間」と考えると、彼は一ヶ月の間に1時間のチャットを10回できるという勘定になるよね。
 
 そこで、一ヶ月(=約30日)で平均的に10回分を消費しようとすると、「3日に1回」ということになる。つまり、一ヶ月に5万円使ってライブチャットしようとする人が、1回につき1時間チャットするとなると、3日に1回の割合で「吉原大門をくぐれる」という按配だ。
 
 さあ、これは多いのだろうか少ないのだろうか。
 
 この計算では、「1回のチャット」として計算はしたが、それはあくまで「1回」であって、1名のチャトレにもっぱら使うかどうかはわからない。相手にしているチャトレが2名いれば、「3日に1回」が「6日に1回」となってしまう。ほぼ一週間に1度という割合だ。
 
 これは僕の感想なんだけど、僕は「意外と少ないんだなぁ」と感じた。別な言い方をすれば、思ったほどチャットできないということ。ここで思い出して欲しいんだけど、僕はこの計算を「1分間80円」という低い価格レベルで行った。一ヶ月に5万円という限度額を設けてだ。確かに一ヶ月に10万20万使う人もいるとは思うけど(僕も苦い過去があるし)、コンスタントに続けていくとなると、やはり5万円くらいが「いいところ」ではなかろうかと想像している。それでも「そんなに使ってるのかっ!ふ・ざ・け・る・なっ!」という妻の声が聞こえてきそうだ……いや、現実にはそれ以上使ってるんですけど(懺悔パート3につづく予定は未定)。
 
 
 チャトレちゃんたちは、チャットの最後に笑顔で「また来てくださいねぇ〜」という。僕のようなどーしょーもないおやじなんかは、「来てくれって言われたら、行かなきゃしょーがないよな」と思いつつ残ポイントを恨めしげに見つめてしまう。
 
 楽しい時間を過すためには、やはりチャトレちゃんに「それなりに」気に入ってもらいたいと考えるのが人情だろう。そのためには、メールばっかりしてるわけにもいかない。懐具合を心配しつつ、そんなこたーおくびにも出さずにサイトに出かけていくわけだ。なんかね、もうこの肩の辺りに哀愁が漂ってる気さえするよ、ほんと。夜更けの歓楽街で、もういい加減酔っ払ってて「そろそろ帰りたいなぁ」と思ってはいても、なぜか足が次の店へと向かっていくアレにも似てる。
 
 チャトレちゃんたちにはね、寛大であって欲しいなぁと思う。前述のつまらない計算を見てもわかるように、一般庶民の懐具合でそうそう日参できる世界じゃないんだから。かといって、「ときどき来てくれればいい」とか「ポイントがもったいない」というのは甚だお門違いな考え方でね、良心的な客ってのは「楽しんでナンボ」を熟知しているのだから、チャットして消費するポイントの話なんかしないの。って、誰が計算したんだよ、おいこら。
 
 いや、そうじゃなくて……
 
 ポイントの大切さを本当に客の身になって理解してくれるなら、与えられたチャット時間を、チャトレなりに精一杯素敵な夢のある時間に演出して欲しいってこと。そして、自分のもとへ来てくれるお客さんたちは、皆一様に懐具合をどこかで心配しながらも、笑顔で逢いにきてくれるのだから、その優しさをしっかりと評価してあげて欲しいな。
 
 ホント、大変なんすから……。



2005年05月09日(月) またまた懺悔します

 先日ふと、「僕はこれまで何名のチャトレちゃんと言葉を交わしてきたのだろうか」と思い立って、朽ちかけている脳みそをぽこぽこ叩きながらリストアップしてみた。じっくりと思い出してみたので抜け落ちてる子はいないと思うんだけど、弾き出された人数を見て、しばし僕は腕組みをしてしまった。この数が多いのか、はたまた少ないのか……。
  
 
 僕がライブチャットをはじめたのは、既にコラムでも書いているようにおよそ二年前から。途中、創作活動に没頭していたために七ヶ月程度のブランクはあったけど、その間もチャットこそしなくともときどきサイトを開いたりはしていた。ただし、ブランクというのはやはりチャトレとの繋がりを考える上で大きな溝となったのは否めず、いま思えばそこで途切れてしまった糸もけっこうあるような気がしている。
 
 35名。
 
 この数字を皆さんはどう感じるだろうか。もちろん、僕がこれまでに言葉を交わしてきたチャトレちゃんの総数だ。僕と話したことがあるチャトレからすれば「おいこら、わたしゃ35分の1かよ」と思われるかもしれないが、日々増殖しているチャトレの数を思えば、ほんのひと握りにも満たない数であることがわかる。
 
 当然のことながら、この35名すべてと現在も繋がっているわけではない。途絶えてしまった理由は、前述のブランクであったり、2〜3度話をしてもどうも波長があわなかったり、資金面が覚束なくなって泣く泣く縁遠くなってしまったりとさまざまではあるけれど、僕の記憶にはしっかりと刻まれたチャトレたちでもある。
 
 
 僕の場合、衝動でチャトレのドアをノックするということはほとんどない。無くはないけど、極めて稀なケース。日頃からサイトで見て知っていて、いつか話してみたいなぁと思いつつ踏ん切りがつかず(意外と臆病者?)、それこそ清水の舞台から飛び降りる心地で「当たって砕けろー」と部屋に入っていく場合がほとんどだ。
 
 それだけに、砕けた瞬間の落差たるや筆舌に尽くし難いものがあるんだけど、そんなのは「あれとあれとあれ」って数えるほどしかない。じっくり時間をかけてリサーチ(ちなみに、ブログやサイトを持っていれば、初めて入るその前にほぼ目を通しているのがほとんど)しているだけに、入ってからはわりとすんなり会話が弾んでいるような気がする。
 
 その結果が……35名。
 
 我ながら素晴らしいと思うのは、なかでもライブチャットに身をそめた二年前から現在に至るまで繋がっている糸があるということだろうか。もちろん10本も20本もあろうはずもなく、それは本当に数少なくさほどポイント貢献もしてないような糸ではあるけれど、大切に大切にしていきたい糸だなという風に思っている。
 
 
 今回僕がこんな話を持ち出し、それを「懺悔」と書いたのには理由がある。別に特定のチャトレに懺悔したいとか妻に懺悔したいとかではなくて(妻に懺悔したらきっと殺されるだろうから)、僕が接してきた35名のチャトレちゃんたちに対して、僕は常に真摯であっただろうかという視点での懺悔なのである。
 
 男というのは哀しい生き物で、獲物を捕獲するためには手段を選ばないようなところがある。女の気を引くために「浮気なんかするわけないじゃないか」と歯の浮いた科白を並べ立て、翌日は別の女のところで似たような会話を平気でしている。僕にそんなところが無かったかというと、大見得きって無かったとは言い切れない気がするんだ。だから僕は、彼女たちに懺悔しなければならないのだろうという気持ちになった。
 
 ただ、ずるい男の言い訳がひとつだけ許されるのならば、僕はその35名のチャトレちゃんたち全ての名前をリストアップできたということだろうか。そんなの簡単なことだと言われるかもしれないけど、二年近く前の記憶にまで遡って名前を思い出すのは、おやじの脳みそには辛い作業だったんだから……と本音がぽろっと。
 
 
 歴史などという大仰な物言いはこっ恥ずかしい限りだけど、その35名と僕との間には、なんとなく歴史を感じさせるものがあるような気が僕はした。長い人生のなかでは、ほんの一瞬に過ぎないような歴史かもしれないけど、僕の心の奥底に、しっかりと刻まれている歴史だ。
 
 さて、36人目のチャトレちゃんは、いまどこで何をしてるのだろうか……って、いま懺悔したばっかりだろっ。



2005年05月08日(日) 話題をください

 過日とあるチャトレちゃんに、「僕って本当は寡黙なんだよ」という話をしたら、「うっそー」と目一杯驚かれた。そういうことは何も初めてではなくて、これまで幾度となく「信じられない」といわれ続けてきたんだけど……ボクって寡黙なんすよ、ほんとは。
 
 
 誰もが僕を「饒舌な男」と思うらしい。そこで済めばまだいいが、「口が達者」と言われることもある。まあそれは決して否定はしないけど、口が達者というのは少々意味合いが違うんじゃありませんか、と思いつつも反論せずに目の下をピクピクさせてしまう。何がいったい僕を饒舌な男に仕立て上げたのか。それは他でもない。これです、これ。このパっと見た瞬間に読む気が遠くシベリアの彼方にまで飛んでいってしまうような長文。これだけあれこれ書く男が寡黙なわけがなかろうというのが、彼女たちの大方の言い分なわけ。
 
 まったく喋らないということはない。いくら寡黙といえども、必要な会話はするし、最低限社交的な話術はわきまえているつもりだから。けれど僕の会話のレベルが饒舌であるとは、僕には到底思えない。むしろ現実の僕は、聞く側にまわることのほうが多いくらいだ。お喋り好きな実母と、相手の状態を無視して話しかけてくる妻に鍛えられてるおかげか、僕はひと一倍聞き上手だとも自負している。
 
 前出の彼女がこうも言っていた。「チャットする人ってお話し好きよね」と。僕もそう思う。でも僕は饒舌ではない。それじゃなぜチャットしてるのか。それはお話ししたいから。意味わっかんなーい、じゃなくて、チャットする人たちにも幾つかのタイプがあるということだろうと、僕はそのとき思ったんだ。つまりは、本当にお話し好きなタイプと、出逢い目的に目を輝かせているタイプと、お話聞くのが好きなタイプの三つね。ま、エロ系は脇に置いといて……。
 
 僕はこの三つのどれかなぁと考えると、最後の「聞くタイプ」かなぁと思う。もちろん僕から話題を出すこともけっこうあるけど、多くの場合、僕は相手の話題提供を待っているから。そしてその話題に対して「自分を展開」していく。というのが僕のチャットの基本形のような気がするんだ。
 
 
 ライブチャットのコラムを書いていながら妙な物言いだけど、僕はそれほどチャットマメな奴ではない。マシンにはメッセンジャーも二種類搭載してあって、毎日デスクにいるときは常駐してるけど、用事がなければ使いはしない。たまには「ちょっとお話ししましょうねぇ」もあるけど、メッセをやってるから常時チャットしたい民族という解釈は間違ってるとすら思う。ま、その反面、お気に入りのチャトレちゃんのもとには足げく通うわけですが……。
 
 僕がネットを始めた当初から、チャットと掲示板というのはコミュニティーの二大派閥だった。双方に手を染めて僕が「自分にはこれがあってるな」と感じたのは、チャットよりはむしろ掲示板。リアルタイムでお話しするよりも、ひとつひとつの文字や文章をゆっくり自分のペースで考える作業のほうが、僕には向いていたということだろう。じじつ、僕は書き物をやっている。小説にしてもエッセイやコラムにしても、僕は自分のペースで文章を推敲し形作っている。それがきっと、性格ってやつなんだろうな、とも思っている。
 
 
 役者という職業の人たちがいるよね。なかには役柄そのまんまな人もいるようだけど、僕が「役者」という呼び名で思い浮かべる人たちは、皆一様に役柄とは違う人格を持つ人たち。彼らは「役者」であって、役としての人物そのものではないからだ。けれど彼らにとっての「役」は、ときに自己以上の存在になるのだとも想像している。それが役者というものだろうとね。
 
 僕は自分をそういう人たちと結びつけようとは思わないけれど、文章を沢山書くから饒舌だろうとイメージする根底には、役者の人格を役のそれと重ね合わせて見る姿と似たものがあるような気がしている。役の上で快活だから彼自身もそういう人間であるとは限らない。彼らは「役を作る」のが仕事だから、その仕事を自分なりに一生懸命こなした結果、そこに自分とは違う人格が役として具現化されるのだろう。
 
 同様に、ものを書く人にとって文章が自分を表現する手段であるならば、それに必死に取り組んだ結果がロシアの向こうのほうにまで飛んで行きそうになる長い文章なのであって、その量が書いた本人そのものの「お喋り度」を測ることにはならないだろう。もちろん、そこに展開されている内容については、その限りではないけどね。
 
 
 僕がチャットしていて一番困るチャトレちゃん。それは、新たな話題が出てこないチャトレちゃん。これ、ほんと困る。指が止まって動かなくなり、思わず画面とにらめっこしてしまう。その手のチャトレちゃんたちは、ある話題を僕が展開しようと試みても、なぜか展開し難い返答をしてくれる。そう、すぐにお話にエンドマークがついてしまうのだ。展開のしようがなく、僕は深い海の底にぶくぶくと沈んでいくしかなくなる……。
 
 お願いだから、話題をください。チャットレディっていうのは、話してナンボなんでしょ。であるなら、自分で果てしなく展開できる話題のひとつやふたつ、常に小脇に抱えていてください。どんなお客さんが来ても楽しい時間を過せるような、そういう環境作りこそが、きみたちの仕事なのだろうから。



2005年05月07日(土) スーパーチャトレ列伝 玲子(仮名)

 チャトレにはそれぞれに「引力」があると感じることがある。宇宙物理学の世界では、この引力は質量に比例していて、同じ姿かたちをした物質であっても、その質量が大きいほうが引力がより強いということになっている。さしずめチャトレの引力とはすなわち、その女性が持つ奥深い魅力だろうか。多少の差こそあれ、似たような大きさの体つきをしているのに、おもしろいようにその引力の度合いは異なっているようだ……。
 
 
 玲子を初めて見たのは、とあるチャットサイトに新規登録してまもなくの頃だった。リストに居並ぶチャトレたちのなかでふと目に留まり、クリックしてプロフと写真を眺めて興味を持った。あいにく彼女は他の客とチャット中だったのだが、そのときだったか次の機会だったかに、チャット中の様子を「覗き」で入って確認した覚えがある。そのとき玲子は……ばか笑いしていた。
 
 ばか笑いと書くと語弊があるかもしれないけど、そのときの印象が僕のなかではすこぶる良かった。けれどどういう星の巡り合わせか、僕がそのサイトを開くと常に彼女はチャット中。いつになっても「はじめまして」すら言うことが叶わず一ヵ月半ほどの月日が経過したある日のこと、僕は別のサイトで彼女を見かけた。もちろん即座にドアをノックし、そこでようやく玲子と初めて言葉を交わすことに成功したわけだ。
 
 しかしその後も、初めて彼女を見たサイトで言葉を交わすことは叶わなかった。とにかくいつ行ってもチャット中、もしくはオフライン。玲子と二度目のチャットをしたサイトは、これまたまったく別のサイトだったのだから、よほどそのサイトと縁がないのかふたりの星が数万光年離れていたのか定かでないものの、妙な縁だなと感じたのは確かだった。
 
 それから楽しいチャット付き合いが始まるかと思いきや、じきに彼女はサイトから姿を消してしまった。IDごとなくなっていた。どのような事情があったのかは皆目見当がつかなかったけれど、玲子がネットから姿を消したのは明らかで、かろうじて見つけ出した某サイトのIDを経由してメールしてみたものの、返事が来ることはなかった。
 
 それから二ヶ月くらいが経過した頃だろうか、いつも出入りしているサイトで、僕は玲子を見かけた。二度目に言葉を交わしたサイトだった。もちろん即座にドアをノックし、再会を心から喜んだのは言うまでもない。そしてそのときから、僕らは急速に接近していった……。
 
 
 単なる恋物語だと思われるだろうか。そうかもしれない。僕は決して運命論者ではないけれど、どこか運命めいたものをそのとき感じたのは確かだ。けれど親しさを増すにつれて僕は、玲子がただならぬ女性なんだと感じるようになっていった。そしてそれが、僕のなかで彼女をトップクラスのチャトレとしても認識させたのだから、やはり僕は筆を進めるべきだろうと思う……。
 
 
 子どもの頃、「変わり玉」という飴玉が好きだった。1センチ程度の小さな飴玉のくせに、口の中に入れると甘さと一緒に芳香が鼻の内側から立ち上るような飴だ。それだけならどこにでもある飴玉に違いないが、変わり玉は舐めていると色が変化した。ピンク色だったはずがいつしか緑色になり、次は黄色でその次は青と、舐めるにつれて色が変化していく。
 
 多くの友達は、青の次に赤くなったところで口から出すのを止めてしまっていた。けれど僕は、飴玉がそれこそ1ミリくらいになったところで口から取り出し、赤から白へと変わる瞬間を確認するのが好きだった。どのような色を羽織っていても、最後は白になることが、なんとなく嬉しかった。
 
 玲子は、そんな変わり玉みたいな女だった。舐めるにつれて色を変えていく。味わえば味わうほど、そこからまだ先があることを匂わせるようなところがあった。
 
 確か僕はあのとき、「毒性の強い女だな」と語った覚えがある。失笑しつつそれを否定しない玲子が、僕は好きだった。そして表層の鮮やかな色が抜け落ちていった最後の「白」を本当は見て欲しいのに、それを見る前に過ぎ去っていく男たちに哀しげな目を向ける玲子に、そこはかとなく胸が焼ける想いがした。僕は玲子の「白」を見たいと思った……。
 
 
 人はそれぞれに固有の魅力を秘めている。玲子の変わり玉が総ての男を虜にするとは、僕ももちろん思いはしない。けれど圧倒的な引力で僕を引寄せたその存在は、やはり特別であったのかなと思えてくる。
 
 人生の機微という言葉がある。機微とは、表面に現れない微妙な趣をさす言葉で、辛いことや哀しいことを乗り越えて年端を重ねた者には、おのずと人生の機微が刻まれているということだと僕は感じている。そしてそれが、人としての魅力として現れる人とそうでない人とがいるような気もしている。玲子が持つ引力は、いま思えば、その機微であったのかもしれない。極めて高密度に濃縮された彼女の機微に、僕はある瞬間に触れてしまったのかもしれない。
 
 赤が白へと変化する、その瞬間を見てしまったのかもしれない。



2005年05月06日(金) ちんちんマンをやっつけろ!

 ノンアダサイトなのに、入ってくるなり双方向カメラに映し出されるちんちん。チャトレであれば、おそらく一度は経験があるのではなかろうか。それほどよく耳にするこの手の話。たぶんほぼ毎日。「そんなに見せたいかね、そんなに自信あるのかね」と、近づきつつあろう退役宣告におどおどしてるおやじさんは苦笑いしつつ首を傾げるのであった。
 
 
 基本的にちんちんマンたちは、ライブチャットを「抜く場」としか考えていない。だから、彼らに僕の論理を展開するつもりもない。意味ないもん。管理側が厳しく取り締まらない限りは、きっとなくならないとも思う。もっとも、暴言撒き散らしたり我が物顔で他人の家に土足で上がりこむ輩と比べれば、自分の欲求を満たすという目的が明確なだけ楽かもしれない。
 
 なくならないのなら、対処法を考えるほうが筋が通ってる。「見たいからわたしはいいの」というチャトレちゃんはとりあえず脇に置いといて、困ってるチャトレちゃんたちのために、少しその辺を考えてみることにしましょ。
 
 
 一蹴に付す度胸があるなら、きっと悩みはしないだろう。「またかよ」と多少厭な思いはするだろうけど、二の句をつがせず強制退室してしまえばそれで済むからだ。ゴミは箒で掃くに限る。ストーカーされやしないだろうかと不安になる子もいるかもしれないけど、再度入室すればそこで確実にポイントは落とされる。奴らだって莫迦じゃない。無駄にポイント消費するような真似はしないだろう。
 
 ただ、無言でさっさと追い出してしまうのでは、ちとつまらない気がする。厭な思いをさせられた分だけは、しっかりとお返ししてあげようではないか。ということで、追い出す前に「管理に通報させてもらいます」と一言贈り物を届けることをお勧めする。実際に管理に通報しなくてもいい。脅せばいい……ま、できれば本当に通報したほうがいいと僕は考えるけど。
 
 そういう行為に抵抗があるチャトレちゃんもいるかもしれないね。でもね、職場を働きやすくするも悪くするも、それはチャトレひとりひとりの普段の心がけなんだ。某チャットサイトでは、違反行為を行った客のIDを削除し、サイトにその旨を掲載していた。ルール違反をおかすとどうなるかということを、サイトは客に毅然とした態度で示す必要があるだろう。そしてそれを後押しするのは、チャトレひとりひとりの姿勢なんだと僕は思う。
 
 
 強硬手段をとれないという子もいるよね。はて、そういうときはどうしよう。過去にその手の相談を受けたとき、僕がいつも言っていたのは「じっくりと冷静に観察してやれ」ということ。これは言い換えると、「決して相手のペースには乗るな」ということになる。あくまで自分のペースをちんちんマンに押し付けるのである。
 
 「意外と小さいのね」とか「その程度にしかならないの?」と投げかけてやればいい。抜き目的ということは、いわばオナニーと一緒。オナニーの基本は自分のペースだよね。それは男も女も一緒だろうからわかるでしょ。それを殺いでやるわけ。客が何を言おうが徹底して「ちんちん観察」をつづけ、あることないこと片っ端から言ってやればいい。間違っても「すご〜い」なんて言っちゃ駄目だよ。それ、逆効果なんだから。
 
 「私の彼のほうがいい形してるわ」と、恋人の話を持ち出すのもいいだろう。実際に彼氏がいなくてもいい。いる「ふり」をする。これは僕の憶測なんだけど、そういう手合いはいわゆる「暗い」奴らが多いだろうから、おそらくは恋愛経験もそれほど豊富ではないと思う。そしておそらく、比較されることにも慣れてはいない。社会から隔離された空間でのみ、ちんちんマンに変身できるのである。だから、架空の彼氏であっても、自分以外の男の登場に彼はペースを乱すだろう。
 
 ただし、ここでも要注意なのは、恋人とのセックス話をしてはいけないということ。これまた逆効果。話を持ち出して相手が「いつもどうやってしてるの?」なんて問いかけてきても無視無視。あくまで自分のペースで「なんだかすぐにいっちゃいそうね」と冷ややかに返してあげるべし。基本は観察姿勢を崩さないこと。サディスティックな立場を匂わせる言葉も使ってはいけない。そいつがエセM野郎だったら始末におえないから……。
 
 
 さあ、一蹴に付すこともできない、観察もちょっと苦手という場合はどうしよう。そういうときは「逃げるが勝ち」ということで……逃げましょう。「ごめんなさ〜い、わたしそういうの苦手なの〜」とひたすらそれを繰り返して、低姿勢に逃げまくる。色々せりふを考える必要はない。同じせりふをただ繰り返していればいい。それも「相手のペースに乗らない」という手になるのだから。
 
 見たくもないちんちん見せられてるうちに、もしかすると素敵な白馬の騎士が門前までやってきていて「あれ、チャット中か。残念だな」ときびすを返してしまっているかもしれない。適当に構ってりゃポイントゲットだぜ、なんて考えないで、望んでないならさっさと帰ってもらうことだ。
 
 
 おそらく、ちんちんマンにはカラータイマーがついている。それが地球上で三分間なのか五分間なのか僕にはわからないけど、うだうだやってる間にもピコンピコンとポイントは消費されてくわけだから、ちんちんマンだってそうのんびり構えてはいないだろう。あちらのペースに乗りさえしなければ、地球防衛軍がやってくる前に逃げ出すだろうと……想像するけど、逃げなかったら逃げるべし。



2005年05月02日(月) 姿を変える男たち

 ネットという世界は変幻自在、自分をどのような姿にでも変えられる。そしてこのライブチャットの世界にあっては、あろうことか日々姿を変えつつ「いくつもの名を持つ男」が闊歩しているのであった。そう、「顔」じゃなくて「名」を持つ男。そこがなんとも可愛い。やくざになりきれないチンピラみたいな感じ(お、危険発言か)。
 
 
 チャットサイトによっては、登録したIDの他に「チャットネーム」を自分で好きなように設定できるサイトがある。そういうサイトでは、チャット開始と同時に、自分の発言には設定したチャットネームが表示されるというわけだ。自分で設定できるのだから、いつだって好きなように変更できる。Aちゃんのところへは「タケシくん」で登場して、Bちゃんのところへは「ハジメくん」で登場するなんてこともできちゃう。
 
 あるチャトレちゃんがある日「ねぇねぇ、ひとりの人がふたりになるなんてことある?」とわけのわからぬことを口走った。「分身の術か?」と応えはしなかったけど、「違う名前でメールがきてるんだけど……同じ人みたいなのよねぇ」という言葉に得心した。そう、賢明な諸氏であればもうおわかりだろう。彼はAちゃんのところへ「タケシくん」で登場していて、ある日、Bちゃんと「ハジメくん」でお喋りしたその足(チャットネーム)で、Aちゃんにメールしてしまったのだ。だから、タケシくんであるはずの男がハジメくんでメールを書いてしまったということ。
 
 そりゃ行き届かなかったねぇ、お笑い種だねぇ、と返すしかなかったんだけど、いくらチャットネームを変更しようが「IDは変わらない」というところに気づかなかったのだろうか。
 
 ネットでは「自由自在に自分を変えられる」と多くの人たちが考えていると思う。名前や所在、言葉遣いを操れば、およそ己の真実の姿は相手にばれないだろうと考えている輩もいる。でもね、法的に行き届かない点はあるんだけど、ホストをつきとめていくなどして、かなりな線までその人物を特定することは可能なんだ。つまり、誰もがネットに接続しているからには「ID」と同じものを持っているということ。
 
 語弊がないように書き添えておくけど、現在の法律では簡単にそれを特定することは不可能。「それじゃ意味ないじゃん」と仰るだろうけど、徐々に警察の手もその辺に届き始めているのだから、不埒な考えを持っている人たちは、そろそろ考えを改めたほうがいいと思うよ。って、なにアドバイスしてるんだ、おれは……あ、忠告か。
 
 
 タケシくんがハジメくんに変身する理由は明白。「ボクはあっちこっちの女に手を出したりしないよ。きみだけさ。一途なんだ」というところを見せたいから。そして同時に「AちゃんにBちゃんと仲良くしてることを知られたくないもんな」という心がそこには付随する。人間って弱いね。そんなところで要らぬ嘘(そう、これは「嘘」なんだ)ついてどうするよ、と思うわけさ。
 
 チャトレちゃんの前にでると、決まって「彼女や妻の悪口をいう」男がいる。悪口とまでいかなくても、「相手はいるんだけど不仲なんだ」とこぼす男と出くわしたことは、それなりに経験のあるチャトレであれば身に覚えがあるところだろう。彼らの心理も至って明白。「ボクの前にはきみしかいないんだよ」と言いたいのだ。確かに「恋人」や「妻」という形ある伴侶はいても、「そこに愛はないんだ、あるのはきみとだけなんだ」という意識が見え見えの行動のように僕には思える。
 
 なんでこうも稚拙なんだろう。一途であれば女は落ちると思っているのか。自分の境遇を不幸におとしめれば、同情に火がついて愛情に変化すると本気で考えているのだろうか。精子を突進させる本能しか身につけてないおぼっちゃまの行動に、僕は首をかしげるばかりだ。
 
 
 嫌われたくないんだろうな、と思う。相手を引きこむまで至らなくとも、せめて相手の意識から排除されないようにしていたいんだろうなと。僕だって同じだ。嫌われるのは怖い。けれどそれ以上に、自分を捨ててしまうことができない。したくない。
 
 名前は、創作という行為を手にウェブを自己表現の場と心得ている僕にとっては、とてもとても大切なものだ。その大切な名前を偽って遊ぼうなどとは思わないし、自分を変身させたいとも思わない。嫌われようが嘲笑を受けようが、僕はありのままの自分をここに構築したいと望んだいじょうは、逃げ出さずそこに己を存在させつづけるのが最低限の責務だと考えている。
 
 だから、家族のことも偽ったりはしない。妻とは紆余曲折あって、確かに過去に三度くらいは離婚騒動もあったけど、ふたりの子どもたちとともに、いまでは命を賭して守りたい存在となっている。男だからという物言いはしたくないけど、あっちにふらふらこっちにふらふらすることはある。ときめきには幾つになっても憧れるし、僕が感じる美には吸い込まれてしまう。だからといって、大切なものを隠したり偽ったりしたいとは思わない。
 
 
 チャットは、人と人とが接する空間だ。そこには作られたロボットではなく、常に生身の人間が存在している。異種雑多な人間が。だからチャットはおもしろく魅力的なのだとも思う。そのような場で自己を偽ることが何を意味するのか。明言は避けるけど、考えて欲しいなと思う。きみという存在は、きみ以外の何ものでもないのだから。



2005年05月01日(日) 所得税の確定申告はお早めに

 あらかじめ書いておきますが、僕は税務署の関係者ではありません……。
 (注釈:本編最初の公開は3月1日でした)
 
 ライブチャットのコラムになぜ確定申告?と思われるかもしれないけど、チャットレディという仕事はれっきとした「個人事業」であって、年間の収入(所得)に応じて、確定申告をし納税する必要も当然のことながら生じてくるのである。知らなかった?
 
注釈:サイト側で源泉徴収している場合は、当然のことながら確定申告の必要はない。源泉徴収を行っているサイトがどれくらいあるのか、きちんとそれに基づいて納税してるか否かについては、とんとわかりませんが……。
 
----国税庁ホームページより抜粋------
・所得税の確定申告をする必要がある方
(1) 事業所得や不動産所得などがある方の場合
 平成16年分の各種の所得金額の合計額から基礎控除その他の所得控除を差し引き、その金額に基づいて計算した税額から配当控除額と定率減税額を差し引いて残額のある方は、申告をしなければなりません。
----------了----------
 
 ここにあるように、所得税には幾つかの「控除」というのがあるから、それを差し引いた税額が「無いっすよ」という人は申告する必要はないのね。けれど僕は、数ヶ月でチャトレを辞めるならいざ知らず、一年二年と続けてみたいと考えているのであれば、是非この機会に、税金というものを考える切っ掛けを手にして欲しいと願っているわけ。
 
 
 「黙ってればわかんないんじゃないの?」「税金なんて、払うのいやだー」という子もいるかもしれないね。けれどよーく考えてみよう。きみたちに「賃金」を払っているチャットサイト管理者たちは、まず確実に所得税の申告をしてるだろう(内容はどうであれ……)。ということは、きみたちに支払われたお金の内訳というのは、すべて税務署に届けられているということになる。
 
 そう、毎月10万円ずつ収入があれば、一年で120万円になる。もう立派な事業所得者だ。それなのに所得税を払わず「ぜんぶお洋服に化けちゃったぁ〜」なんて言い訳が通用すると思う?そういう行為を「脱税」と呼ぶのね。犯罪意識が薄いかもしれないけど、立派な犯罪。
 
 権利を主張するのなら、義務もしっかりと負いなさい。それが大人というものでしょ。好むと好まざるとに関わらず、この国に属して生きているのであれば、国の決まりに従うのは義務というもの。それをきちんと負った上で権利を主張するのが筋というものだろうと僕は思うけどね。
 
 
 それにね、じつはこの確定申告、まんざら捨てたものでもないんだ。じつは過日、とあるチャトレちゃんと申告の話になったんだけど、僕は彼女に「できれば青色申告したほうがいい」とすすめた。提出書類は多少ややっこしくなるけど、白色(一般)で申告するより控除もあるし、さまざまな「経費」という美味しいオマケもついてくる。
 
 チャトレちゃんたちの多くは、おそらく自分の行為を「事業」とは認識してないだろうね。「仕事」とは考えても、なかなか「事業」とまでは思いつかないような気がする。けれど、れっきとした事業なんだ。そして事業を行う際に必要となるさまざまな費用は、事業経費ということになる。これね、経費として認められると、所得から差し引いて税額を計算するのね。つまり、納税額が少なくなるということ。
 
 例えば、チャトレちゃんたちが日々使っているパソコン。その多くは「個人で買いました」だと思うんだけど、事業(=チャトレ)を行うためにパソコンは必要なのだから、考え方によっては、「パソコンはチャトレ稼業をやる際の経費で購入」という解釈も成り立つと思うんだ。いや、冗談ではなくて、きわめて真面目な意見。
 
 ね、そうやって自分がチャトレをやる際にかかる「経費」ってのに思いを巡らせると、払う税金を少しでも少なくすることができる。これはね、脱税とはいわないよ。節税っていうの。そりゃ、ありもしない架空領収書を用意して経費上増ししちゃ明らかに脱税だけど、事業として考えたときに必要な経費は正当な経費なのだから。
 
 
 と、ここで「何か」に気づいたチャトレちゃんはいるだろうか。そう、源泉徴収をされていても、申告すると内容によっては「税金が還付(つまり戻ってくる)」されることもある。源泉というのは支払った賃金に一定の割合で課せられる。つまりそこには「これだけお金を払ったよ=相手はこれだけ所得があるよ」という意味は込められていても、前述のような「経費」には触れてないからだ。
 
 付け加えれば、確定申告には基礎控除の他にさまざまな控除があって、身近なところでは、扶養家族(子ども等)がいれば扶養控除を受けることもできる。チャットサイトに登録する際、そういう家庭の事情も申告した?しないでしょ?ということは、あちらはそういうことを知らずに源泉徴収してるということになるのね。
 
 実際の所得に対して、事業者として経費がかかった。その経費は所得から差し引くことが可能となる場合があるから、税務上の所得というのはもっと少なくなるに違いない。基礎控除や扶養控除まで含めると更に減額される。けれど源泉徴収によって、税務署には「賃金のみ」相当の税金が納められている……。さあ大変だ。「税金なんか払いたくなーい」といってたつもりが、必要以上に納税してるという事態になってしまったではないか。
 
 そんなことがあるの?と思われるかもしれないけど、これは税金の仕組みを理解すれば当たり前の出来事であって、だから税金のことを少しでも知っておいたほうがいいんじゃないですかという話になる。所得税というのは、「前払い」なんだな。前年の納税額に照らし合わせて前もって納付し(予定納税)、後から申告に基づいて清算するという仕組みになっている。だから「還付」という現象も当たり前のように起きてくるわけね。
 
 
 もっとも、申告しなかったからどうなったという話は、じつは耳にしてないから、そのままうやむやに処理されちゃってるケースが多いのか少ないのかも僕にはわからない。けれどさっきも書いたけど、社会の一員として生きている以上は、定められたルールは守って欲しいと思う。それがしいては、きみの行動を社会的にも正当化するのだから。堂々とやろうよ、堂々と。
 
 そして、よく「国民の税金を無駄遣いしやがって」という言葉を耳にするけど、言ってる本人は税金の仕組みを本当に熟知し理解しているのだろうか。国を動かすにはお金がかかる。そのお金は税金からまかなわれる。であるならば、うだうだ能書きたれる前に、自分の納税義務という姿勢を明確にし、税金を知ることが先決ではなかろうか。
 
 「せっかく稼いだのに税金で持ってかれちゃうなんていやー」なんて言わずに、そのきみが納税するお金こそが、きみの身の回りの社会を作っているということを、「一事業者」であるならば自覚して欲しいとも思う。
 
 所得税の確定申告はお早めに。僕は……もう済ませました。
 
 
国税庁ホームページ
http://www.nta.go.jp/


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ヒロイ