ヲトナの普段着

2005年06月07日(火) チャトレの花道 /あとがき

 1月14日に連載開始したこの「チャトレの花道」も、今回をもちまして一応の終了ということになりました。およそ四ヵ月半の間には、コラムにも僕自身にもさまざまなことがあったように思い返されますが、なによりも、この連載を通して素敵な仲間たちと出逢えたことは、「チャトレの花道」を回想する際の一番の想い出となりました。
 
 
 ヲトナごっこをご覧になられてる方がどの程度このウォーカーブログにいるのかわからないのですが、あそこの「作者徒然」というコーナーに、「別冊コラム」というタイトルで1月21日に僕の胸のうちを綴ってあります。当初の目論見がどの程度達成できたかは釈然としないものが残るのですが、完結させることも目的のひとつでしたので、とりあえずはほっと胸を撫で下ろしているところでもあります。
 
 書き上げたコラムは、後々記録に残さないつもりで書いた番外を除いて65篇となりました。データサイズから文字数に換算すると、およそ四百字詰め原稿用紙350枚程度になります。びっしり書いてその量ですので、一冊の本として整えるには充分な量ということになるでしょう。もちろん、本にするという意図はないのですが、そういう形を目標としていたので、とりあえず記録しておきます。
 
 作品としての推敲は、これから追々やっていこうと考えていますけど、全体としてバランスがとれる内容になっていたのか、ライブチャットというものを知らない人たちが目にしたときに、その姿が浮かぶような内容になっていたのか、という辺りが推敲のポイントとなる気がします。つまり、欠落してると思えるものやバランスの悪い点があれば、先々まだ手を入れる可能性もあるということです。
 
 これは僕の「やり方」でして、小説などはその最たるものなのですが、初稿と現在サイトで公開してるものとでは異なっています。粘土細工を丹念に仕上げていく過程において、はじめの形が次々と変化していくというのはままあることで、書き物というのもそういうものであろうと僕は考えているからです。
 
 
 チャトレとチャットの客が集うこのウォーカーという場所で、この花道を連載してみて、僕の率直な感想は「やってよかった」ということです。毎回色んな方からコメントをいただきましたが、おそらくはヲトナごっこで連載していたら得られなかったような、リアルで心あるコメントばかりであったと思います。成功という言い方はあまりしたくないのですが、気持ちとしてはそういう感じでしょうか。本当に良かったと思っています。
 
 とりわけ、男性の方々からコメントをいただき、楽しく交流できたことは大きな収穫でした。と言いますのも、じつは連載を開始するにあたって、男性からのコメントは皆無に等しいであろうと予想していたからです。これは、ヲトナごっこというサイトをこれまで運営してきた立場での予想だったわけですが、見事に裏切られました。嬉しい誤算であったと思います。
 
 書き物を主としたサイトをやっていると、テーマにもよるかとは思うのですが、とにかく男性からのコメントがありません。ほとんど女性からと言っても過言ではないほどです。そんな状況で作品を公開してきた僕のなかには、「男という生き物は、画像や映像という視覚からの情報収集には卓越していても、文章を読むという行為は苦手なようだ」というイメージがありました。いま思えば先入観というやつかなとも思うんですけど、それを打破してくれたことも、ここで花道を連載した意義のひとつであった気がしています。
 
 
 第一回目のコラム「チャトレの王道」の最後で僕は、ここにコラムを綴っていくことで、チャトレの花道というものの輪郭程度でも浮かび上がってくれればという主旨の文章を書きました。花道というのは、きっと人それぞれに自分の手で見つけ出すものなのでしょうけど、僕が綴った文章たちがそのお手伝いをできれば嬉しいという気持ちで綴ったものでした。
 
 僕は常々、切っ掛けを提供できる人になりたいと考えて、さまざまな書き物をしてきました。コラムというのはもちろん、自分のなかにある考えや意見を込めて書くわけですが、とどめを刺さずに読者に先を考えてもらえる文章が理想だとも思っています。つまりは、展開可能なコラムです。そしてそこで「情報」を提供することで、コラムを読んだ人たちが何かを考え見つける切っ掛けを提供できたとすれば、それが僕にとっては一番嬉しいことでもあるわけです。
 
 人にはそれぞれ「役回り」というのがあると僕は感じています。かつて「僕はトランポリンみたいなもんだから」と話したことを思い出しましたけど、信頼して乗ってくれた人を、何度も何度も繰り返し跳ね上げて、最後はあの澄み渡った青空に飛ばしてあげるのが、僕の仕事だと思うときがあるんです。コラムという文章に僕がこだわる理由も、もしかしたらその辺にあるのかもしれませんね。
 
 
 四ヵ月半の間、僕のコラムを読み続けてくれた皆さん、本当にありがとうございました。心から感謝します。花道を終了するにあたって、最後にひとこと、心ある愛しいチャトレたちにメッセージを書かせてください……。
 
 
花道は、きみの目の前にあります
臆せず、卑下せず、傲慢にならず
一歩ずつでもいいから
きみの足で歩いてみてください
そして
その小さな一歩を
いつまでも大切にしてください
 
 
【チャトレの花道 完】



2005年06月06日(月) チャトレになろう /知への欲望

 古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「人間は生まれつき知ることを欲する」と言った。行動の大きな要因でもある衝動と目的を考えたとき、そのいずれにも知への欲望が密接に関係していることを思えば、この言葉はまさに真理だと思えるし、人生という自分の足跡にもそして未来においても、知ることは常に解釈の鍵となるのだろう……。
 
 
 若い頃はそれほど気にもしてなかったんだけど、ここ数年とみに、人は「知る」ために生きてるんだなと感じることが多くなってきた。本を読みたいと思うこと、音楽を聴きたいと思うこと、映画をみたいと思うこと、そして、人と出逢いたいと思うこと、生きたいと思うこと。そこにはいつでも、知りたいという衝動があった。
 
 無意識に、あるいは受動的に知識を得ている状態と、みずから進んで知識を得ようとするのとでは、当然のことながら結果は異なってくる。学生の頃に嫌いで嫌いで仕方が無かったはずの語学が、三十歳を過ぎた頃に急に興味深くなったり、やはり苦手だった歴史というものが、いまでは得意技のようになりつつある。意識を持つということの重要性は、年端を重ねれば重ねるほどに、身に染みてわかるものなのかもしれない。
 
 考えることを拒絶する人たちがいる。「人間は理屈じゃないから」と、いかにも正論を口にし考えることを斜に見てしまう人たちだ。しかし、正論というのは理屈の上に成り立っている。そしてその理屈というのは、考えることで具現化される。経験のない人間が口にする言葉が薄っぺらく感じられるように、考えない人たちの理屈はやはりどこか軽い。
 
 考えると言うと、どこか堅苦しい行動のように思われがちだけど、じつはそれほどたいそうな行動でもないと僕は思っている。心に留め置くこと、だけで充分だとすら思う。考えることを拒絶する人たちは、心に「問題」や「課題」を留め置こうとはしない。それが、なにげない日常のさまざまな出来事を素通りさせてしまい、知へと結びつかなくさせているような気がする。切っ掛けを手にし、何かに覚醒し、心に留め置く意識を持つことは、僕は自分自身の人生のために、とても有意義なことだろうとそう思っている。
 
 
 チャットレディという仕事に対する人々の目は、やはりさまざまだと言わざるを得ないのだろう。チャトレといえどもひとりの人間だと真摯に応対する人もいれば、ゲームのキャラクターをもてあそぶような目でみる人もいる。男に飢えた女の集まりだ、とか、女郎宿に居並ぶ娼婦と変わらないだろと言う者もいる。いつの世も、人の価値観に画一化されたものなどないのだから、それは仕方が無いことのようにも思える。
 
 しかし彼らは、大切なことに気づいていない。人間が人間である由縁、何が人間を人間らしくしてくれるかという根本に、彼らは気づいていない。それは他でもない、人には知性と理性が与えられ、知ることによって成長するということだ。そしてその知ることの基本、いやおそらくはほとんどの部分が、自分以外の人間との接触や交流から得られるものであろうということだ。
 
 僕はこれまで、夜の街に生きる女性たちを数多くみてきた。彼女たちは皆、いちように美しかった。見た目の話ではなく、人間として美しいと僕は感じていた。僕自身が夜の街に生きたわけではないので確証はないものの、それはおそらく、より多くの人間の喜怒哀楽に触れた証ではなかろうかと思っている。人と接し人と交わることで、彼女たちは自らの存在を美しくしてきたのではなかろうか。
 
 そう考えたとき、このネットという摩訶不思議な世界のなかにあって、チャトレという仕事ほど魅力的な仕事はないような気がしてくる。日々数多の男性が目の前に現れ、ときに想像もつかないような姿をそこで披露してくれる。知りたいという欲望を満たし、知ることを自分自身の糧とできる仕事が、チャットレディという仕事だという風にも思えてくる。
 
 
 人間には幾つかの大きな目的があるような気がするんだけど、そのうちのひとつは、きっと「自分を見極めること」なのだろう。そのためには、また幾つもの道がありそうな気がするものの、チャトレという仕事、世界には、その道先を案内してくれる可能性が極めて豊富に散在してるのではなかろうか。人に触れるということ、心に触れるということ、それはとりもなおさず、自分自身の心を見つめる作業に他ならないのだから。
 
 もちろん、人には得手不得手というのがある。チャトレのような仕事からは得るものがないという人もいるだろう。それもまた正論に違いない。だから総ての女性にとは言わないけれど、少しでも興味を持ったり「見知った」ならば、知ることの意識を心の片隅に常に留め置いて、自分と目の前に現れる「人間」との対話を味わってみて欲しい。きっとそれまでにはなかった何かが、そこできらりと光り輝いているはずだから……。



2005年06月05日(日) チャトレの花咲く丘 /花畑に埋もれて

 ライブチャットと出逢って二年が経過した。腹立たしいことや悲しいこともあったけど、こうしていまでもチャットの世界に身を置いている。僕をここに留まらせたものは、一体何だったのだろうか。僕はここで、何を感じ、何を求め探しつづけてきたのだろうか……。
 
 
 アダルト動画の世界からひょんなことでライブチャットの世界へと足を踏み入れた当初、僕はこのコンテンツを単に、お決まりの内容でしかないエロ動画よりは、ばんたび違う素人の姿が楽しめたほうがいいだろうくらいにしか考えていなかった。いま思えば莫迦げている気がするものの、ライブチャット草創期にあって情報も乏しい環境では、そう考えるのも道理かと思ったりもする。
 
 始めて数ヶ月のうちは、それこそこの花道に書いてきたようなとんちんかんな男の醜態に近いものを、僕自身が演じてきていたのかもしれない。非道ともいえるような行為には及ばなかったものの、肌身で感じたものや自身の心の葛藤はあったわけで、いきなり現在のような心境に至るなどということはあろうべくもないだろう。
 
 わりと早い段階でアダルトチャットに飽きてしまったのは、年齢や性格的なものが理由として大きいのかなと思える。例えば温泉場に男衆で遊びに行った際に、若い頃はひと夜を伴にできる女たちを選んだものだが、ある頃から、同じ時間に金かけるなら皆でわいわいと楽しめる女たちのほうがいいと思うようになったそれに似ている気がする。金で買った時間というものを、自分なりにどう過すか。それはもしかすると、日本人が最も苦手な分野なのかもしれないけど、裏返せばそれが、ライブチャットを楽しむ秘訣でもあるような気がしている。
 
 
 チャトレから、「どうしてチャットに金かけなきゃいけないんだ」とお客さんに言われたと聞かされたことが何度かあった。じつは僕自身、ライブチャットを始めた頃にはそう思っていた。このようなコンテンツができる以前からチャットと親しみ、さまざまなフリーサイトでチャットしてきた者にとっては、金をかけてチャットすること自体が難解に違いない。
 
 けれどある頃から、僕のなかから「垣根」のようなものが取り払われていった。金をかけるかかけないかではなく、楽しい時間を過せるか否か。メッセでやり取りできる相手とはメッセで交流するし、そこに行かなければ逢えない相手であればポイント片手に出向いていく。ただそれだけのことだということに気づいた。
 
 チャトレのなかにも、そういう意識の子はいる。ライブチャットでチャトレとして客の相手をしながらも、逆にお金を払ってボーイズチャットに遊びに行ったり、フリーのチャットサイトで楽しんでる子だっている。お金がどうこうではなく、そこで楽しむためにお金が必要なら払うし、必要なければ払わないというだけの話なんだ。それを、あまり強引に、チャトレやライブチャットというものと結びつけてしまうのも、もしかしたら考え物なのかもしれない……花道に書いてきたこととは少々異なる物言いではありますが。
 
 
 ライブチャットには、「客を待っているチャトレ」がいる。それも、写真やプロフ、時間制限はあっても無料でみられるリアルタイムな動画付でだ。フリーのチャットサイトで好みの相手を探すよりは、確実にこちらのほうが速くて正確。そりゃもちろん、キャリアの違いや人間性の違いはあるけれど、フリーサイトでは体験できない世界が、ここには間違いなくある。
 
 僕がライブチャットをつづけてきたのは、他でもない、ここにチャトレがいるからだ。色とりどりの花を咲かすチャトレたちが、このライブチャットという名の丘では咲き誇っている。そんなお花畑のなかにこの身を横たえ、悠長に青空を流れる雲を眺めているのが好きだったのかもしれない。ときには、その花のなかのひとつに手を伸ばし、恋人を見つめる眼差しで花に語りかけたこともあっただろう。そしてときには、風に揺れる花々の様子を、静かに傍観していたときもあったように思える。
 
 「要するに女が好きなのね」と言われてもぐうの音も出ない状況ではあるけれど、綺麗な花に囲まれれば誰だって気分がいいだろと開き直れるのは、やはり歳をとったからなのだろうか。
 
 チャトレの花咲く丘で、きみも心を休めてみるといい……。



2005年06月04日(土) 女を愛せない男たち

 愛するってなんだろう。人を好きになるって、どういうことなんだろう。逢いたさが募るほどに苦しくて、逢えない時間が切なくて、それなのに目の前にその子が現れた途端に、苦しさや切なさがすぅーっと消えていってしまう。それが愛するっていうことなんだろうか。それが、人を好きになるということなんだろうか……。
 
 
 ライブチャットでは、日々そこかしこで恋愛争奪戦が繰り広げられている。上手に波に乗る人もいるだろうし、振り回されてしまう人もいるだろう。一生懸命なのにちっとも思い通りにいかないとうなだれる人もいれば、無意識に恋絵巻を描きあげていく人もいるのだと思う。どちらかというと、巧くいかないことのほうが多いような気がするのは、僕の視野が狭いせいだろうか。ライブチャットには、女の愛し方を知らない、女を愛せない男が多いように感じられてならない。
 
 愛するという行為を考えるとき、僕の脳裏には幾つかのシーンが思い浮かんでくる。それは、子どもを慈しみ育てる親の姿であったり、見返りを求めずに奉仕する人々の姿であったり、無言で寄り添う老夫婦の後姿であったりする。愛というものほど、形がありそうでないものもないのかもしれない。いがみあっているのに愛し合う人たちもいれば、求め合っても愛し合えない人たちというのもいる。それらを分け隔ててしまうものとは、いったい何なのだろうか。
 
 人を好きになったとき、まずはじめに心に浮かぶのは、「自分を見つけて欲しい」という願いのような気がする。「こっちを向いて欲しい」とか、「気持ちに気づいて欲しい」とか言葉は色々あるけれど、あなたのことが好きなんだという自分に気づき、それを認めて欲しいと願う心が、人を好きになった際にはまず胸を焦がすのではなかろうか。そして、考えてみたら、そのままの状態でどこまでも行ってしまっているが故に、想いが食い違ったりすれ違ったり、ときに空回りしてしまい、愛という段階へと入ることなく終わってしまうもののようにも思える。
 
 人間というのは知性と理性を兼ね備えている。それを言い換えると、僕は「心」という言葉になるのではなかろうかと思うわけだけど、その心があるために、人は自分を守ろうとしてしまう。心本来のあり方に気づかぬまま、最も感じやすい己の心を守ろうとしてしまう。それは、行動としてどのような形になるかというと、そう、「求める」という行動に他ならないだろう。「求めよ、さらば与えられん」と誰かさんが言ったみたいだけど、求めるという行動は、人間がとる衝動的行動の基本なのかもしれない。
 
 「こんなに愛してるのに」という人がいる。「一生懸命なのに、どうしてわかってくれないんだ」という人がいる。彼は確かに、相手に対して強い想いを抱いているに違いないんだけど、はたしてそれが愛と呼べるのだろうか。強く求めることも、たしかに愛には違いないけど、求めるだけでは成立しないのもまた、愛の難しいところではなかろうか。求めることの裏返し、つまりは「受けとめること」があってはじめて、それは愛と呼べるように僕には思える。
 
 
 ライブチャットというシステムは、形の上では男性客優位のシステムだと僕は感じている。客はチャトレを選べるが、チャトレは客を選べない。客はチャトレの待機状態やチャット状態を把握できるけど、チャトレが客の状態を把握することは叶わない。そういう世界が、ライブチャットというものだとも思える。
 
 男性優位であるということの意味。それは色々ありそうだけど、殊に弊害という視点で考えてみると、男の女に対する一方的な想いを生み出しやすい環境に違いないのだろう。選択権というのは、裏返せばそういうことになるからだ。古い時代に、この国の男女関係がそうであったように、対等でない立場や境遇というのは、人の心を屈折させ偏見で縛ってしまう危惧すらある。
 
 もっと平たく書くと、男性優位のシステムに染まってしまうと、男という生き物は、女の扱いが粗雑になる傾向が強いということだ。アダルトチャットで自分本位にさっさと抜いて立ち去る輩などその最たるもので、ノーマルチャットにあっても、女の立場や気持ちなど推し量ることなく、自分の想いだけを必至に伝える恋愛押売の手合いが後を絶たないではないか。
 
 ライブチャットは、女を愛せない男を生み出している。僕にはそう思えるときがある。愛するということの本当の意味と甘美さに気づかず、気持ちを伝えることだけが愛だと信じてしまう男たちを、このライブチャットは生み出しているように思えてならない。
 
 
 愛するって……とても難しい。



2005年06月03日(金) 恋のお試し期間

 ネットでは瞬く間に恋が生まれそして消えてゆくという話は、ネットにおける時間感覚についてのコラムでも書いた。考えてみると、ネットにあるさまざまなコミュニケーション手段のなかでも、とりわけこのチャットというのは流れが速いのかもしれない。そんな急流を上手に渡っていくヒントのような科白を、僕の経験のなかからご紹介しましょう……って、タイトルに書いちゃってるんだけど、汗。
 
 
「まだわたしたちって、お試し期間中よね?」
 
 
 いつだったか、ウェブで知り合った女性と急速に親しくなりはじめたとき、ふと彼女の口からそんな科白が零れ落ちたことがあった。人間ってのはどこか傲慢な生き物で、自らの意識で親近感を覚えると、相手を理解したようなつもりになってしまいがちなように思える。そしてそれは、暗黙のうちに「恋愛関係進行中」という名の鎖で、自分と相手とを雁字搦めにしようとする。
 
 冷静に考えれば、そう易々と人の心や背景を理解できる道理などあろうはずもなく、たかが一ヶ月や二ヶ月で理解しあったつもりになるなど、笑止千万という気もしなくもない。たしかそのときは、「大抵は、何でも三ヶ月くらいがお試し期間よね」と彼女がいい、親しくなって一ヵ月半程度で勇み足を踏んでいる僕をたしなめてくれたのであった。
 
 
 長く関係をつづけられる間柄、例えば夫婦というものを思い浮かべたとき、そこには喜怒哀楽が幻灯機が映す絵物語のように展開されるものだろう。人と人との絆は、決して楽しいことばかりで織り込まれるものではない。そこに怒りや哀しみ、そして深い喜びがあってはじめて、絆は堅固に作られていくのだと思う。
 
 そう考えたとき、楽しいばかりの最初の短い時間だけで、相手と自分との関係を定義づけてしまうのは、かなり乱暴かもしれないとすら思えてくる。喧嘩をしたり、嫉妬したりされたり、そういうさまざまなシーンを共有していくなかで、少しずつふたりの絆は出来上がっていくに違いない。
 
 そのためのお試し期間であるのなら、率直に気持ちをぶつけあい心を開きあい、ときに崩れかかった関係を修復する辛苦すら味わっておいたほうがいいのだろう。そして何よりも、「なぜ相手がそこまでして自分のほうを向いてくれるのか」という想いの核心を、その間に深く深く心に刻むべきだろうとも思う。僕もどちらかというと苦手なほうなんだけど、直接的な言葉に頼らず、相手の行動から想いを受け取ることは、とても大切だと思えるから。
 
 
 さて、ライブチャットにまつわるコラム集であるはずの花道に、なぜこのような恋のハウツーみたいなことを書いてるかというと、ライブチャットに見られる「レンアイ」の多くが、このお試し期間が満了する以前に萎んでしまっているように感じられるからだ。なかには、お試しを無視していきなり本格的恋愛モードに突入する人も少なくないだろうが、そのうちの多くは、きっとほどなく撃沈してるのではなかろうかと想像もしている。
 
 そういえば、このライブチャットには、「段階を経ない客」が大勢いる。チャトレの気持ちを上手にリードして濡らすなどということはせず、のっけから「脱いで」「見せて」とかます輩などはその最たるもので、エッチ系に走らずとも、たかが数回チャットしただけで真の恋人気分になってる野郎どもは、きっと溢れかえるほどいるに違いない。
 
 次のステップのために何かをするということ。相互理解のために時間を費やすということ。それは何もライブチャットに限らず、世の人間関係では必須に違いないのだろうけど、なぜかネットではそれが軽んじられてるように思えてならない。お試し期間というのは、何も「恋人としてとりあってくれない」のではなくて、そういう関係をその後構築していくために、お互いがお互いをじっくりと吟味する期間であり、同時に、自分自身の想いを固めていく期間でもあると思う。
 
 
 チャトレを長くやっていると、付かず離れず長く繋がっているお客さんというのが、ひとりやふたりはいるものだと思う。一方客サイドからみても、同様に長く繋がるチャトレというのもいる。それらの間柄において、必ずしもお試し期間があったとは言い切れないと思うけど、お試しを通り越して初めから突進していたということも、ないのではなかろうか。仮にあったとしても、どこかで冷却期間を置くというか、足並みを揃えるようなペース調整があってはじめて、長くつづく関係の礎が築かれてきたのではなかろうかと想像する。
 
 あなたなりの恋のお試し期間を、どうぞ演出してみてください。


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ヒロイ