ヲトナの普段着

2005年04月30日(土) プロフの写真について5 /トリミング

 レタッチについて身につけて損のないテクニック、それはトリミングだろう。この言葉、なんとなく僕は「写真を部分的にキリトルからトリミングか」なんて覚えてたんだけど、じつはトリム(切って整える)というれっきとした英単語があるのであーる。と言葉の説明をしてるうちに、どういう作業なのかほぼ理解できたよね。問題はその切り取り方だ。
 
 
 じつは世に数多あるお手軽加工ソフトのほとんどは、トリミングしようとすると本当に画像を切り取ってしまう。え?それじゃいけないの?と、いたいけなチャトレくんたちは思うだろうけど、それじゃいけないの。後々微妙な構図の変更もきかないし、なにより、好きな部分を目的の大きさに一発で切り取れる技なんてのは、この僕でも身についてはいない。一度切り取ってしまうと、枠の外の部分には何もなくなっちゃうでしょ。それじゃ駄目なの。
 
 だからここは、「キャンバス」という概念を持ち込んでレタッチを考えてみて欲しい。これ、何かというと、最終的に仕上げる画像の大きさを模した「枠」とでもいいましょうか、要するに絵を描くときのキャンバスなんだけど、ある目的のサイズにキャンバス「枠」をまず作成し、その枠のなかで背後に置かれた写真や文字を操作するということだね。わかる?わからない?ちょっと難しいかっ。
 
 いまここに、横1024pix縦768pixのオリジナル写真があったとしましょう。それを最終的に横800pix縦600pixの画像にレタッチしたいとき、まずやることは、800-600サイズのキャンバスを作ること。すると当然のことながら、写真はキャンバスより大きいんだから、キャンバスには写真のある部分しか表示されてはいないよね。そこで表示されてる写真の部分をマウスでつまんでドラッグしてみよう。枠の外にあって見えなかった部分が、写真を動かすと現れて表示されるようなら、そのツールを使って問題はない。ちゃんとオリジナルの写真は切り取られずに背景に残ってるということだ。けれど、写真を移動してみたら枠外の部分は消えちゃって空白がでてきちゃったというときは、そのツールでのレタッチは考え物。できなくはないけど、かなり困難であると思って欲しい。
 
 きちんとキャンバスの機能を持っていれば、そのキャンバスサイズを目安にあらゆる作業を行える。あわてて縮小せずに、まずはオリジナルサイズの写真をあっちこっちに動かしてみるといいだろう。そうするだけで、それまで気づかなかった新たな構図に出逢えるはずだから。キャンバスのなかで写真を拡縮するということは、言い換えると、ファインダーを覗きながらモデルとの距離感をはかる作業に等しい。なにもオリジナルを等倍縮小した画像だけが正解とは限らないのだ。だって、トリミングなのだから。
 
 キャンバスのなかである程度写真の中心を決めたら、少しずつ縮小してみよう。縮小の感覚というのは、やっていればわりとすぐ身につくかと思う。そうして自分がいいなと思えるところで縮小をやめて、あとは文字を入れ込むなり枠線を入れるなり、他の画像を重ねるなりしてみて欲しい。
 
 ただここでひとつ重要なアドバイス。
 
 レタッチの基本は、最終的に仕上げる画像サイズの下で行うこと、だ。例えば、横800pixで作った文字等を含む画像を、あとから縮小したりしてはいけない。小さな画像を作るときは、きちんと最初からそのサイズでキャンバスを設定し、それにあわせた画像や文字の入れ込みを行うべし。でないと、哀しいほど画質が劣化して、文字も汚くなりますよぉ。
 
 
 さて、最後に画像の大きさについて。
 
 どういうわけか、ライブチャットの世界では、画像の大きさのフォーマットは「横長で縦横比3:4」というものが多い。縦長の写真をアップしたら、なぜかぺっちゃんこになっちゃったーというチャトレもいるだろう。縦長は強制的に横長にされてしまうのである。もちろんこれはギャラリー等のリストで表示される場合の話だから、写真はちゃんとオリジナルの縦長で保存されてて、クリックすれば縦長写真が現れるんだけど、なんか納得いかないよね。でもまあ、従わないとしょーがない。
 
 そこで、ふたつの大きさを目安として教えてあげちゃう。少し大きな画像で見せたいときは、前述の文章にもあるけど、縦600pix横800pix(あるいは540-720pix)というサイズがいいだろう。そして小さくてもいいわというときは、縦240pix横320pixがお勧め。この小さなサイズはいったい何のサイズかというと、いろんなライブチャットで「チャット中」として表示される画像のサイズなんだ。無料窓にチャット中に表示される画像のサイズね。
 
 このサイズより小さい画像だと、チャット中の画像は引き伸ばされてしまうから、どうしても画質が粗くなる。それが厭ならば、最低でも240-320サイズで画像は作っておくといいだろう。
 
 
 あー疲れた。読むのも疲れたでしょ。まだ書き足らないんだけど、あとは個別対応ということで、なにか訊きたいことがあったらお気軽にコメントくださいな。
 
 
【了】



2005年04月29日(金) プロフの写真について4 /レタッチ

 写真のことをまだ書くのかっ!といわれてしまいそうだけど、ライブチャットでのプロフ用写真の考え方や撮影に関してはすでに書いた。しかし、撮った写真の加工方法については何ら触れてはいなかったのである。つまり今回は、写真の加工、レタッチについてのあれこれ……。
 
 
 チャットサイトを眺めていると、デジカメで撮ったオリジナルデータをそのままギャラリーにアップしてるチャトレに出くわすことがある。まあ悪いとは言いません。僕もどうせ写真をみるならよりオリジナルに近いほうがいいとは思うし、なによりオリジナルに勝る高画質はないのだから(ノイズ除去等の上級レタッチを施した写真は除く)。
 
 けれどせっかくウェブに写真をアップするのだから、ましてやそこがライブチャットという働く場なのだから、ときには文字を入れたり画像に変わったアレンジを加えて、宣伝に一役かってもらうのもいいかと思う。
 
 また前回も最後に書いたように、セルフ撮影というのは本当に難しい。カメラマンはカメラを手にモデルに寄ったり引いたりして撮るから、ファインダーのなかで適度な距離感をつかみつつシャッターを切ることができるけど、セルフだとはそうはいかない。写したくないものが映りこんでしまっていたり、イメージしたアングルとは少々違っていたりするケースも少なくないだろう。そういうときには、画像をレタッチする必要が生じてくる。
 
 
 レタッチには、大きく分けてふたつのプロセスがあると思う。ひとつは画質に関する作業で、もうひとつはサイズやレイアウトに関する作業だ。ここは写真講座のコラム集ではないので、あまり詳しくは書かないけれど、レタッチというのはひとつのプロセスを経る毎に画質が劣化するものと思っていて欲しい。つまり、オリジナルから完成品にいたるまでのプロセスが少ないほど、画像は高画質を保った状態で保存されるということになる。
 
 おそらくレタッチに卓越したチャトレというのもそうそういないだろうし、どちらかというと苦手という子が多いだろうから、ここであえて断言してしまうと、画質を細かくどうこうしようなどとは考えないほうがいいかと思う。つまり、画質に関する作業は捨てなさい、ということ。撮ったら撮ったままの写真を、あとは文字入れたりサイズ変更したり、トリミングで構図を変えてみたりするくらいで充分だろう。
 
 
 しかしそれではあまりに無責任だから、手短に(本当か?)画質についてアドバイス。
 
 デジカメというのは、大抵のカメラで撮影時に記録する画像の「解像度」というのを設定できるようになっている。それはときに画質という言葉で表現されてるかもしれないし、写真サイズという言葉で表現されてるかもしれない。いずれにしても、画質であればできるだけ高画質に、サイズであればできるだけ大きなサイズで撮ることをお勧めする。
 
 理由は明快、レタッチすると劣化してくから、せめてデータくらいは綺麗に撮っておきなさい、ということね。粗いデータを修復するのは極めて困難。まず自然な状態で高画質にするのは無理だと思って間違いない。だからいかなるレタッチにも対応できるように、オリジナルデータはできるだけ高画質が望ましいのである。
 
 ついでにちらりアドバイスするなら、後で説明する「トリミング」という加工処理を念頭に置くなら、撮る際にイメージしている画角(撮影する範囲と思ってちょ)を少し広めにしておくといいだろう。ときに余計なものが写ることもあるかもしれないけど、そういうのは加工でどうにでもなる。例えば高画質で顔をどアップで写したところで、最終的に公開する画像の大きさを考えると、あまり意味のある撮影方法だとは思えない。顔出ししたくなくても、オリジナルを公開するのでなければ、撮るときは顔も堂々と入れて撮りなさい。あとでカットすればいいだけだから。
 
 それと、レタッチ後に画像を保存するときに、どういう形式でどれくらいの圧縮をかければよいか悩む子も少なくないだろう。写真の場合は、やはり「Jpg(ジェイペグ)」という形式が僕は最適だと思う。そしてJpgの圧縮率は、画像の大きさにもよるけど、概ね80%から90%の辺りであれば問題なかろう。僕自身はいつも、90%から95%となるようにしている。もちろんファイルサイズもでかくなるし、使用目的がライブチャットという場ではないから、あまり参考にはならないかな。
 
 
【まだあと一回つづくのだ】



2005年04月28日(木) プロフの写真について3 /撮影の実際

 概して女性というのは機械物が苦手なようだ。チャトレちゃんたちと話をしていても、カメラの使い方がよくわからないという声はしばしば耳にする。けれどカメラマンのなかには女性で活躍している人も大勢いる。彼女たちのレベルとまでいかずとも、女性だって写真を趣味にしてる人は大勢いるのだから、苦手意識など持たずに「楽しみながら慣れていく」ことを経験して欲しいと思っている。
 
 
 写真を撮るときに最も気をつけて欲しいのは、やはり「光」だろうか。写真というのは、光がレンズを通ってフィルム(デジカメの場合は撮像素子)に撮像を記録する。光が無ければなーんにも写らないのである。だからこそ、この光とどうやって向き合っていくかが、写真を撮るうえでは重要ともなってくる。
 
 チャトレちゃんたちの場合は、まず99パーセントが「人物写真」だよね。自分を撮ることが目的であるはず。であるならば、人間というものに光があたった状態を色々と考えてみるといいだろう。光源の側は明るいけど反対側は暗いよね。その途中にはうっすらと影の稜線が現れる。その光と影を上手に写真に写しこむようにするといい。
 
 別な視点から解説するけど、ストロボ(フラッシュ)を使った写真というのは、ストロボをカメラから遠ざけて被写体の横方向から発光させない限り、被写体に影が落ちてる様子を撮影することはできない。真正面からの光は被写体をのっぺらと明るくするだけだ。写真は二次元、つまり平面で仕上がる。その平面のなかで「現実の世界=三次元」を表現しなければならない。そのために重要となるのが、じつは「影」や「遮蔽物」なんだ。
 
 具体的にアドバイスすると……まずほとんどのチャトレちゃんは、自宅の室内で撮影するだろう。そのとき、「光源」と「自分」そして「カメラ」との位置関係を工夫してみて欲しい。昼間であれば窓からさしこむ太陽光、夜であれば天井にひっついてるベースライトは消して(あるいは弱くして)、スタンド等の横からの灯を利用する。その「光源」と「自分」とを結んだ線を、横からみる位置に「カメラ」を置く。どういうことかというと、自分の体に影が落ちてる様子が見える位置から撮るということね。光源とカメラと自分とで三角形ができあがる、ということになる。
 
 細かく書くと長くなりそうなのでここで光については終わりにするけど、「影のできかたを観察して撮る」ということを、常に頭において撮ってみて欲しい。
 
 
 デジカメの扱いについては、具体的にはカメラのマニュアルを読んでもらうほうがいいんだけど、人物撮影の際に「できればこうして欲しい」という「僕流」のものをいくつか紹介しましょ……。
 
 
 基本的に、「フルオート」で撮らないほうがいいと僕は思っている。フルオートってのは、とにかく何でもバランス良く撮ろうとする。だから、窓辺で写真を撮ってみたら、窓の内側にいる被写体の影の部分が真っ暗になっちゃった、なんてことにもなる。まあ、場合によってはフルオートのほうが綺麗に撮れるシーンもあるんだけど、いまどきのデジカメはマニュアル操作が幅広く可能になっているんだから、少し面倒だけど、露出や距離等をマニュアルで設定して色々試写してみるといいだろう。
 
 「ブラケッティング」といって、露出を段階的に上下させる撮り方がある。最近のコンパクトデジカメにも、みてるとその機能があるようだから、そういう場合は、ブラケッティング撮影を試してみるのもいいかと思う。標準の露出に対して、一段階二段階と露出を上下(明るくしたり暗くしたり)させて撮ってみると、意外と「お、これいいじゃん」という写真に出逢ったりするものなんだ。
 
 おそらく、マニュアル撮影で最も難関となるのが、この「露出」だろうな。露出とは、光の加減で、それは「絞り」と「シャッタースピード」によって決まる。その辺の解説をはじめると、また大変なことになっちゃうので、知りたい人は「ヲトナごっこ」にある「デジカメコラム:撮ってもデジタル」の12、13辺りを読んでください……。
 
 まあ、はじめからいきなりマニュアルでというのも無茶な話だから、カメラの機能や使い勝手に慣れるまでは、オートで色々撮ってみるといいかもね。そうやって撮った写真たちを眺めつつ、「もっとこんな感じにならないかな」とかアイデアを巡らせてみるといいだろう。
 
 
 よく「一眼レフのようなボケ味が好き」という声を耳にすることがある。コンパクトカメラではボケ味は出ないかというとさにあらず。コンパクトでも一眼レフのような絶妙なボケ味は出せるんだな。方法はいくつかありそうだけど、一度お試しいただきたいのが「マクロ撮影」というやつ。
 
 マクロとは「接写」のこと。レンズには「これ以上近づくと合焦しませんよ」という限界点があって、通常の撮影ではその距離より被写体に近づくと、まるでピントがあってない写真になってしまう。けれど、マクロ機能を使うことによって、それ以上に近づくことが可能となり、さらには、合焦ポイント前後の撮像が通常撮影よりボケやすくなるんだ。
 
 極端な話、顔出ししたくないチャトレちゃんがセルフでマクロ撮影すれば、顔の上空から口許にピントをあわせると、目の辺りはボケて写ったりする。それほどマクロというのは、合焦する範囲が狭まるんだな。これは逆も然りで、レンズを望遠側にすると、やはりボケやすくなる。けれど、狭い室内で撮影するのに望遠側で撮るなんてことはそうそうないだろうから、マクロをうまく利用して撮るほうが適当かもしれないね。
 
 で、「そんなに近づいて撮らないわよ」と仰るかもしれないな。でも一度お試しあれ。マクロとはいえ、必ずしも接写しなければならないというものでもないんだ。意外とマクロの許容範囲(距離)というのは広くて、チャトレちゃんたちが撮るであろう構図くらいなら、カバーできるかもしれないと僕には思えるから。
 
 それから、多少システムは大げさになるけど、どんな感じに写るのかが感覚的によくわからないという場合は、パソコンとデジカメとを接続できるならそうしてみるといいだろう。つまり、パソコンの画面をファインダー代わりにして確認しつつ撮るということね。これ、けっこう便利だろうと思いますぜ……。
 
 
 写真には、確かに「基本的撮影方法」というのはある。けれど、そうじゃなければいけないというルールはない。カメラが持つさまざまな撮影機能だって、なにも説明書通りに使わなくてもいいのである。色々と撮ってみて、そこから自分なりの撮影方法を探し出すこともまた、僕は写真の楽しみのように感じている。
 
 楽しくなると工夫する。工夫すると面白い写真が撮れる。面白い写真が撮れると、さらに人は工夫してみようと思い始める。それが大切なのだろう……。
 
 
【まだまだつづくのだ】



2005年04月27日(水) プロフの写真について2 /傾向と対策

 自分をアピールする撮り方が大切だということ、そして視点を色々と変えて自分を撮ってみるのも意外な発見があって有効だという話は前回書いたよね。そのふたつを頭において撮るだけで、きっとそれまでの写真とは違うものが目の前に現れてくると思う。けれど、せっかく撮った素敵な写真を生かすためには、もうひと捻り加えたほうがいいのである。
 
 
 いくら綺麗でいい写真が撮れても、それがチャットサイトのリストで、他のチャトレたちのなかに埋もれてしまっては哀しいよね。「どういう写真が多いのかな」という疑問符を頭におきながら、一度自分が所属するチャットサイトのリストを眺めてみるといいだろう。いわば傾向と対策というやつだな。昔も今も、こいつは何かをやる際に重要な手順なのだ。
 
 大切なのは想像してみるということ。リストを眺めると気づくと思うけど、思いのほかチャトレたちのサムネイル画像というのは似たような写真が多い。悪い言葉でいえば、芸がない。いくら顔写真が可愛くても、可愛い顔写真ばかりが並んでしまったら見栄えも失せてしまうというもの。
 
 客である男の立場に立ってみればわかると思うんだけど、さーっとリストを眺めたときに目に付く写真というのは、その他大勢とはやはり少しばかり違ってるものなんだよね。自分の写真をその他大勢のなかに埋もらせない工夫、それもきっと、ポイントゲットへの近道になるように僕には思える。
 
 そういえば余談なんだけど、ライブチャットのサイト毎のプロフ写真の傾向ってあるよね。つまりは顔出しが多いか少ないか。あらかじめ顔出ししてる子が多いサイトでは、おそらく新人チャトレも「顔出ししたほうがいいのかしら」と顔出し写真を出す。よって更に顔出し写真は多くなる。逆に顔出ししてない子が多いサイトでは、「顔出ししなくても大丈夫なのね」と思って新人ちゃんも口許から下の写真で済ませてしまう。だから、目のない写真のオンパレードとなる。
 
 どちらが是とは僕はいわない。顔出ししてるから有利だとも思わないし、口許から下ばかりだから駄目だとも言いはしない。けれど、あたかも証明書写真を並べたかのような状態であったり、目のない写真が並んでたりすると、どっちにしても面白くないなぁと感じるのは本音。まわりの子たちの写真は別にお手本でも何でもないんだから、自分なりのオリジナリティ溢れる写真を見せて欲しいなぁと思うわけさ。
 
 
 それと、リスト用の写真をちょくちょく入れ替える子がいるけど、あれはいかんですよ。せっかく常連さんがサイトにきても、写真が違っていたために見過ごしてしまうこともあるからだ。チャトレの数が少ないサイトならそういうこともないだろうけど、数が多いと、自然とリストを見る目は記憶のなかの画像で目当てのチャトレを探そうとする。いくら文字で名前が書かれていても、まず目に付くのは写真。リスト用の写真というのは、プロフ以前に自分を宣伝する画像であると心得るべし。
 
 写真に名前などの文字を入れてリスト用画像を作ってる子がいるけど、あれは正解だと僕は考えている(って、自分が置屋稼業でそうやってチャトレの画像加工してるからですけど……)。なによりも、パっと見て見つけやすい。「せっかくの写真に文字なんか入れたくなぁ〜い」と仰るチャトレもいるだろうけど、そういう写真はギャラリーで見せればよろし。リストというのは、自分を「群れ」のなかに置いて「目立たせる」ものなのだから、見つけやすいのが一番さ。
 
 そして、いまもちらっと書いたけど、ギャラリーを充実させて欲しいものですな。あまり枚数が多すぎて何十枚もあったりすると、ほえ〜っと眺めているうちにチャトレがいなくなっちゃったりするからまずいんだけど、適度な枚数を定期的に入れ替えたりしてメンテナンスすることは、僕はチャトレの姿勢として客に好印象を与えると思ってる。いつまでもいつまでも同じ写真が置いてあるようでは、まるでしゃぶり尽くしたスルメをぶら下げられてるようなものではなかろうか……ちょいと喩えが悪かったか。
 
 
 つらつらと書いてしまったけど、セルフ写真ほど難しいものはじつはない。僕は自分で撮る以外にも、過去に某女性主催アダルトサイトの影プロデューサーみたいなこともやっていて、彼女(サイト主催者)がセルフで撮る写真を加工したり、撮影のあれこれをアドバイスしていた時期もあったんだけど、彼女がある程度思うようにセルフで撮れるようになるまでには、それこそ数ヶ月から一年以上の歳月が必要だったからだ。
 
 でもね、コツはあると思うし、努力すれば努力しただけのものがついてくるのも写真の世界だと僕は思ってる。いますぐ思い通りに撮れなくても、コツコツと練習して実績を積み重ねていけば、ちゃんと結果がついてくるのが写真の世界(もちろんプロレベルは話が別よ)。数多くの写真をみて、被写体をつぶさに観察して、考えに考え試行錯誤を繰り返して撮るよう心がけていけば、きっと素敵なセルフ写真が撮れると思う。
 
 きみを一番よく知ってるのは、他の誰でもない、きみ自身なのだから。
 
 
【まだつづくのだ】



2005年04月26日(火) プロフの写真について1 /撮り方

-前置-
 プロフやギャラリーに使う写真について、今回から五日連続でコラム掲載します。これまでのコラムとは趣を異にしていますので、人間観察がお好きな方にはしばしお休みいただくことになるかもしれませんが、写真も僕にとってはライブチャットの重要なエッセンスだと感じていますので、本日より五日間、どうかお付き合いいただきたいと思います……。
 
 
----以下本編----------
 
 
 僕は自分で女性の写真を撮るからかもしれないけど、目に留まったチャトレの写真は、ギャラリーをくまなく拝見している。プロフは、文字と写真の双方がビビビとくれば申し分ないけど、仮に文字方面が少々貧弱であっても、写真が語りかけてくるものが強ければ、自然と右手のマウスに力が入るというもんだ。
 
 
 それにしてもチャトレたちの写真というのも千差万別。じつに眺めていて興味深い。明らかな携帯電話写真を上手に撮ってコーディネイトしてる子もいれば、せっかく立派なデジカメを使ってるであろうに「つまらんっ」と腹立たしくなってくる子もいる。文字も同じなんだけど、写真には目に見えて個人差というのが現れやすい。それだけに、できれば「とりあえずアップしとけばいいや」と安易に撮らず、じっくりと考えて撮って欲しいものである。
 
 「そんなこと言っても、どう撮っていいかわっからなぁ〜い」といういたいけなチャトレも少なくないかと思う。チャット中にそういう話題になることもよくあるし、なにより、ギャラリーの写真たちがそう語りかけてくるからだ。そこで、マニュアルというのではなくヒントとして、僕が思う理想的なチャトレのギャラリーを語ってみましょ。
 
 
 最も大切なことは、自分をアピールするということ。自分のどんなところを見て欲しいのか、相手に知って欲しいのか、それを写真できちんと表現するということだ。可愛いから客が寄り付くとか、エロいからそうだとか、女性というのはどうも男を単細胞のごとく解釈してるきらいがあるけど、必ずしもそうとは限らない。
 
 じゃ、自分のある部分をアピールしたいときにどうすればいいか。それが目とか口元とか脚とか、形になっている場合はわりと簡単かもしれないね。けれど、それが性格であったらどうしよう。明るい性格を見て欲しいとか、しっとりとした落ち着いた感じを見て欲しいという場合だ。そういうときは、まず鏡の前でリハーサルすべし。どういうポーズをとると自分の性格を姿で表現できるのかを、しげしげと研究せよということですな。
 
 いいかい?顔ひとつ撮るとしても、真正面から撮るのと斜め横から撮るのとは違う。カメラ目線と俯きがちの憂いのある目線とは違う。頬杖ついたり髪の毛いじったりするだけで、ただ顔を撮った写真とは仕上がりがぜーんぜん違ってくるんだな。まずは鏡の前でカメリハを行い、自分で「なるほど、こうするとこうなるのか」ということを実感するといいだろう。そのリハーサルのプロセスで、自分をよく表現してると思えるシーンがあったなら、それをカメラに納めればいい。
 
 
 それから、似たようなことかもしれないけど「視点を変えてみる」というのも、いい写真を撮る秘訣だと思う。セルフで撮ってる写真を眺めていると、その多くは「自分の視線」で撮ってるということに気づく。「目線」と書いたほうがニュアンスがつかみやすいかもしれないけど、常に同じ高さで撮ってる写真がじつに多いようだ。
 
 僕が女性の写真を撮るときは、とにかく被写体のまわりを動き回って撮っている。真正面から撮るだけでなく、床に寝転がって見あげてみたり、そこら辺にある椅子や机の上によじ登って見下ろしてみたり、ときにはぜんぜん被写体から遠ざかったところで一見無関係な方向を向きながらシャッターを切ったり、「お願い、やめて」と言われそうなほど接近して撮ったりしている。
 
 なぜそんなことをして撮るのか。それは「自分で美しいと感じる姿を探している」からに他ならない。僕は草花の写真なんかも撮るけど、草花相手でも撮影スタイルは同じようなもので、それこそ地面に這いつくばって花を観察したり、逆行や斜光といった光とは反対の側から花弁を覗き込んだりして写真を撮っている。どこからどうみると自分好みの絵になるのか。それは言い換えると、どこからどうみると自分というひとりの女性を相手にわかりやすく伝えられるのかを考える、ということに他ならないだろう。
 
 カメラを床に置いて撮ってみたり、三脚があればそれでいつもより高い視点から狙ってみたりと、いろいろやってみて欲しい。そうするだけで、写真のバリエーションが格段に広がるに違いない。それまで気づかなかった自分の本当の姿にも、きっと気づくだろうと思うよ。
 
 
【つづくのだ】



2005年04月25日(月) 女王になるな

 ライブチャットに限らないんけど、ウェブには「女王気取り」の女が沢山いる。本人はおそらく気づいてないのだろうが、その状況に慣れてしまうと大変なことになりそうで、遠目にいつも懸念しつつため息を漏らすおやじであった。
 
 女王が生まれる理由は至極明快。へらへらと同調し寄ってくる男が、このウェブにはごまんといるからだ。それはあたかも、動物界で単一の雌に複数の雄が寄り付く姿に似ている。いわば自然の状態とも言えるのかもしれない。ただ動物界と違うのは、ここでは争いごとがなく、仮にあるとすればそれは、中心にいる女王蜂の意に沿わない異端分子を排除しようとする流れくらいだろうか。
 
 そうして生まれた女王様の状態を、この国の言葉では「有頂天」という。ふと思い立って手許の辞書を紐解いてみたら、「喜びで夢中になっているさま:Ecstasy」とあった。最初は「ちょっと違うんじゃないの?」と思いもしたけど、よく考えてみるとこれはじつに言い得て妙であると感じ入った。女王は従う男どもにおだてられていい気になり、喜びで夢中になっている。その味はきっと何物にも代えがたく、いわば彼女のなかではエクスタシーとして認識されているに違いないだろう。そして僕が冒頭に書いた最も危惧すべき状況も、その辺に端を発するということになる……。
 
 
 人間は弱い生き物だと思う。変に知性なんてものを備えているだけ、心はもろくなってしまっているようにも思える。かく言う僕自身、信じようが信じまいが弱い自分を持っている。大勢に流されて自分を見失うこともあれば、傷ついて立ち上がれなくなったこともあった。幸いにもその時々で支えてくれる人がいたおかげで、こうしていま僕は書いているわけだけど、一歩間違えれば、僕だってどんな迷路へと迷い込んでいたかもしれないのである。
 
 現実の生活においては、自分が際立って認められ持ち上げられることなど、じつはそうそうあることではないのだろう。そう、僕らは持て囃されることに慣れていない。それだけに、一度その甘い汁を吸ってしまうと、弱い自分がどこまでもその汁を吸い続けようとしてしまう。数多の男連中の無根拠な言葉に踊らされ、いつしか謙虚さすらなくしてしまって女王のように振舞う女たちは、他方でとても哀しい存在なのだと僕は感じている。
 
 そう、チャトレにとって「初心忘れるべからず」は、座右の銘として傍に置いて欲しい言葉のひとつではなかろうか。おそらくほとんどのチャトレが、デビュー当初は、目の前のお客さんひとりひとりに真摯であるに違いない。けれどそれがいつのまにか、「こんな客ひとり来なくても他に客は大勢いるわ」とか、「この人の言うことよくわからない。さっさと消えてくれないかな」という風に思ったことはないだろうか。デビュー当初には思わなかったようなある種の「高慢」が、ふと首をもたげていたなんてことはないだろうか。そうなってしまう危険性というのが、僕はこのウェブにはそこここにあるように思える。
 
 
 賢い女性になって欲しいと思う。賢い女性とは、決して頭がいいという意味ではない。これについては、かつてヲトナごっこで書いたこともあるので、そちらの文章を少し抜粋するけど、女性に限らず、僕は「人として忘れたくない心構え」のように考えている。
 
----ヲトナごっこコラム「02-05-01 賢いヲンナってナニ?」より抜粋----------
 自分の中に潜む欲望をよく知り、高慢にならず卑下もせず、適度な謙虚さをわきまえている。それはきっと、幼い頃から年齢相応の感受性を経験し、喜びや悲しみや怒りという人間が持つ感情の波を、きちんと段階を経て覚えてきたからこそ、身に付くもののように思える。その常識こそが、僕はヲンナの賢さの基本のように感じている。
 
 流行や周囲の価値観に流されるよりも、自分に適した自分が望む形を持っているほうが美しい。地味に見えても、ネクラと思われようとも、自分をよく知っている女は美しいと感じる。結局、賢さの基準というのは、自分をいかに的確に把握しているかということになるのかも知れない。
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 抜粋ついでにもうひとつ。かの宮沢賢治さんの有名な詩になぞらえて、僕が自分の理想の女性を書いてみたことがあった。いま振り返ると、それはこのウェブ世界の「大勢」に抗したいという気持ちも込められていたような気がする。女王になどならずとも、人は幸福を手にできる。自分を知り、自分を必要としてくれる場でそれを生かせる人のほうが、僕は遥かに美しく幸せなのだろうと想像している。
 
----「02-04-03 理想の女」より抜粋----------
理想の女 / 宮沢賢治風に
 
 
アメにも負けず
ムチにも負けず
侮辱にもカラの世辞にも負けぬ
丈夫な心を持ち
慾を知り
決して卑下せず
いつも静かにわらっている
 
一日にワイン少々と
パンと少しのチーズを食べ
あらゆることを
自分を感情に入れずに
よく見聞きしてわかり
そして忘れず
  
海辺の椰子の林の蔭の
小さな高床のコテージにいて
 
東に涙する女あれば
行って話を聞いてやり
西に疲れた男あれば
行ってその膝を枕にし
南に迷える人あれば
行ってこわがらなくてもいいと言い
北に論争や自慢話があれば
つまらないからやめろと言い
 
実らぬ想いに涙をながし
思わぬ現実にオロオロあるき
みんなにネクラと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう女性に
わたしは逢いたい
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 人の心のなかに潜む「高慢」という名の悪魔。それを心の中で飼いつづけるのも排除するのも、その心を持つ本人の意思次第に違いない。女王になどならないでください……。



2005年04月24日(日) チップを考えサービスの対価を考える

 日本には「チップ」という習慣がない。サービスは料金のうちに含まれ、さまざまな場面においていちいちチップの心配をしなくて済む社会ができあがっている。それが良いという人もいるだろう。けれど僕はあえて、サービスの価値をわかり難くし、しいては傲慢な客の態度を生み出してる元凶がそこにあると言いたいのである。
 
 
 インドネシア語ではチップのことを「persen;プルセン」という。僕は言語学者ではないので、その語源を正確には知らないのだけど、自分で勝手に「英語のpresentからきたんだろうな」と想像している。そういえば日本には「心づけ」という言葉がある。やはりチップのことだ。相手がしてくれたことに対して「お金」という形で気持ちを表すのは、僕はとても自然な行動であると感じている。
 
 しかしこのチップ、日本人にとってとても厄介な代物だろう。いつだったかバリ島に行ったとき、親しくしてる女友達の友人が働くカラオケに出向いたことがあった。もちろん彼女同伴だ。そこで数時間楽しんでから店を出るとき、彼女が僕にそっと「友達に〜だけチップをあげてね」とアドバイスしてくれた。僕はうなずきながら、ポケットに手を入れて言われた金額より少し多い紙幣を彼女に出してみせたんだな。すると彼女は突然怖い顔をして、「〜だけでいいの」と僕をにらみつけた。
 
 率直なところ、インドネシアの貨幣価値と日本のそれとでは比較にならない。僕が多少チップに色をつけたところで、日本ではガム一枚も買えない値段だ。それでも彼女は怒った。なぜか。それは、僕らよりもはるかに彼女たちのほうが、お金の怖さを知っているからだろう。そう、チップという習慣を持つ人たちは、日頃から細かいお金を「流通」させているから、それだけにお金の価値や意味をよく知っているのだと思う。それが日本人には乏しい。
 
 
 僕は年に数回、上野公園を散策する。学生の頃から好きだったエリアで、春には桜の花が舞い、秋には木々が綺麗に色づく居心地の良い場所でもある。そんな上野公園で、よく大道芸をやってる人たちを見かける。最近では、駅前で生ギターを抱えて歌っている若者も珍しくなくなったけど、そういう人たちに対して、傍観者はどうのような視線を送っているのだろうか。
 
 内容が良ければお金を払う、悪ければ払わない。そう考えている人であれば、彼はお金の意味を知っている人なのだろうと僕は想像する。けれど多くは、「素人に金など払えるか」とか「無料で見られて得した」といった感覚で眺めていないだろうか。もちろん「彼ら」は、依頼されてそこで演じているわけではない。いわば勝手にやってるだけだ。しかし、ふと足を止めて彼らのパフォーマンスを見た以上は、それを評価する責務とまでは言わないが、何がしかの反応を返してあげるのが礼儀ではなかろうか。ここで言う反応とは、当然のことながら「つまらなければさっさと立ち去る」という行動も含まれるんだけど……。
 
 
 ライブチャットはサービス業だと僕は思っている。サービスには、じつは決まった値段などないのだ。彼女に怖い顔をされようが予想以上に楽しい時間を過せれば、僕の手は相場以上の紙幣を握ろうとするし、通りすがりの路傍で見かけた青年の歌声が心に響けば、僕は急ぎ足でもコインを置いていく。
 
 どうもこの国の人たちは、金というものの捉え方が歪んでるというか変わっていて、自分の「気持ち」と「金」とを素直に結び付けられないところがあるように感じられてならない。ときどき、ライブチャットで楽しい時間を過した最後に、チャトレにチップをプレゼントすることがあるんだけど、しばしば驚いた顔をされる。まさかチップに「裏心」があるとでも思っているのか、はたまた本当にチップをあげる客が少ないのか……。
 
 楽しかったらその気持ちをどうにかして相手に伝えたいと思う。もちろん言葉で伝えることはいつでもやってるけど、チップという形で表すことも僕は自然な行為だと思うよ。「その分、またお話ししてくれたほうが嬉しい」という言葉も目にするけど、それはそれ、これはこれじゃなかろうか。
 
 
 ライブチャットはポイントを消費する。だからこそ、そこには「いかに安くあげるか」を考える輩も現れてくる。チャトレの部屋に入って開口一番「脱いで」とくる奴らもそうだし、ポイント割安な逆指名というシステムがあるサイトであれば、初対面にもかかわらず最初から逆指名を要求してくる奴らもそうだ。可哀想だなぁと僕は思う。だって彼らの価値観には、ポイントを「消費してしまった」という感覚しかないのだから。
 
 かと思うと、チャトレのなかにもポイントにしがみつく女がいるのは、見ていて呆れてしまうな。どのような「サービス」を提供できるかも明示せず、プロフ欄に「チップくれるといいことあるかもよ」などと御託を並べる莫迦チャトレ。ひとことこの場を借りて言わせてもらいます。「お前の体がナンボのもんだと思ってやがんだ!」……おっと、失礼しました。
 
 
 言霊という言葉がある。読んで字の如く、言葉にも魂が宿るという意味だ。もしかするとお金というものにも、僕は心が宿るのではなかろうかと思っている。感謝という名の心が。そしてそれを、上手に使いこなせる大人になりたいなと思うし、チャトレちゃんたちには、それを上手に受けとる気持ちを養って欲しいとも思うな。



2005年04月23日(土) 【閑話】オトナになれないヲトナたち

 明日2月18日、僕がしこしこと運営しているサイト「ヲトナごっこ」が、開設丸三年を迎える(注釈:本編最初の公開は2月17日)。そして何を隠そうこの僕自身も、明日でひとつ年をとる。そう、人は黙っていても年をとる。好むと好まざるとにかかわらず、年端を重ねて大人の仲間入りを強いられる。けれど本当に大人として歩めるようになるのは、いったいいつのことなのだろうか……。
 
 
 僕がインターネットを利用しはじめたのは、97年の秋だった。翌98年の春に親友某とふたりで個人サイトを立ち上げ、以来、某有名アダルトサイトの手伝いをしたり、女性主催アダルトサイト(セルフヌード等を公開してるアレね)をプロデュースしたり、仲良しの女性とコラボサイトを作ったりしてきた。その間の02年2月にヲトナごっこは生まれたわけだけど、開設してから丸三年の間、僕のなかに常にあったのは「オトナになりきれないヲトナの姿」だったように思える。
 
 ヲトナごっこを立ち上げた一番の衝動は、「こそこそせずに、大人が大人らしく堂々と愉しめるアダルトコンテンツを作りたい」というものだった。日本の法律では、二十歳になると成人として認められ、さまざまな権利を手にすることができる。成人映画等も含めて俗にアダルトコンテンツと呼ばれるものも、それを楽しむ権利は成人であれば手にしているということになる。けれど実際はどうだろう。アダルトという言葉すら口にするのをためらう大人が大勢いる。
 
 ヲトナごっこを立ち上げた当初、「アダルトはこそこそ愉しむからアダルトなんじゃない」とサイトの主旨そのものを批判してくれた女性がいた。「そうだろうか」と僕はそのとき思った。確かに「隠れて愉しむ」という感覚はあるだろう。それを否定はしない。けれど僕には、そういう「アダルトはこそこそ愉しむからアダルトなんだ」などという固定観念のようなものこそが、成長という過程における大人への入口を狭くしたり歪めたりしているように思えてならないのである。
 
 さりとて、人目もはばからずに所構わずアダルトを叫ぶことを是とも思いはしない。「堂々と愉しめる」というのはそういうことではなくて、良識を兼ね備えて自然にアダルトを愉しむ、他のさまざまな趣味と同じように、ごくごく自然体で接することができるアダルトコンテンツ、そして「オトナ」になったほうがいいのではないでしょうか、という意味なのだ。
 
 
 外国映画をみていると、夫婦がひとつのベッドでやすみ、子どもたちがそこにおやすみのキスをしにくるなんて場面をみることがよくある。お父さんとお母さんはひとつのベッドで寝るということが、彼らにとっては当たり前のことなんだ。けれど日本はどうだろう。「川の字に寝る」なんて物言いがあるけど、夫婦の間には常に子どもの姿がありはしまいか。子どもができた瞬間からセックスの回数が減ったなんて話も、日常茶飯事のように耳にする。
 
 数年前に、タイのプーケットという島で「ゴーゴーバー」に入った。これまた外国映画で何度か目にした覚えがあるんだけど、ステージに何本もの鉄の棒が立てられていて、セミヌードのおねいさんたちが棒に絡みつきながらくねくね踊るアレだ。日本人は立ち入ることすらためらいそうな空間かもしれないが、あそこでは老齢の紳士や女性までもが客となって愉しんでいる。もうごくごく自然な社交場という感すらある。
 
 上手に年をとるというのはどういうことなのだろうか。おそらくここに集まっているチャトレちゃんたちには、まだ想像もつかない世界かもしれないけど、きみらもいずれは確実に老いてゆく。そしてその老いてゆくプロセスにおいて、それまで自分のなかで培われてきた価値観や生活というものが、ときに理想への高いハードルになることも少なくないんだ。いかに素敵に年をとりたくても、経験がそれを邪魔してしまうことはままあることなのだ。
 
 四十にして惑わず、と孔子は言った。不惑の四十歳になって、環境も急激に変化してきて、僕のなかに少なからず「惑わない自分」が目覚めてきたように感じたとき、じつは僕は大いにうろたえた。過去の経験が、僕自身の「夢」を邪魔していることに気づいたからだ。自分を変えることは容易ではない。されど、ほんの一センチずつでも進もうとしないことには、到底自分は変わっていかないだろう。
 
 それから三年、僕は大いなる「夢」に向かって、たどたどしくも少しずつは歩けていると実感している。若い頃より遥かに、自分の「老い」に夢を持てるようにもなった。人間とは面白いもので、見えてくると怖れなくなる。怖れなくなると前に進める。前に進むとそのまた先が見えてくる。そうやって自身に道筋をつけ、自分だけの幸せを手にし、充実した日々を送れるようになっていく気が最近はしている。
 
 
 幸福の基準なんてのは人それぞれだ。「これが幸福だ」という決まったものなどあろうはずがない。だからもしかすると、僕が口角泡を飛ばしてヲトナを論じることも、どこか無意味な行為なのかもしれない。けれどときどき、本当にときどきだけど、そんな僕の文章に何かを感じて言葉を届けてくれる人がいる。そんなとき、僕は書いてて良かったと素直に思う。
 
 書くことは正直に言うと、とても辛い。僕のこれまでを本当にしっかりと見てくれている人には、きっとその僕の言葉がよく理解できると思う。けれど、それほど辛く苦しい作業なんだけど、僕には表現する術がこれしかないのだということだろう。僕自身、果たしていつ、本物のオトナになれるのかもわからない。しかし僕のこの胸の中に「言葉」がある限りは、いつまでも書き続けていきたいと思っている。
 
 「ヲトナごっこ」は僕が創出し構築しつづけている。けれどきっと、ヲトナごっこは誰の心のなかにもあって、色んな形で日々変化しつづけていくのだろう。そうあって欲しいと、僕は心から願っています。



2005年04月22日(金) ドレサージュとエセS野郎

 なんだか某製薬メーカーの名前みたいだな。エセとは似て非なるもの。似非(えせ)のことである。したがってエセS野郎とは、Sの仮面をかぶったにせもの男。とりわけライブチャット界にあっては、話題にことかかないアノ罵詈雑言しっちゃかめっちゃか悪党のことをいうのであった。いや、僕がそう呼んでるだけですが……。
 
 
 人を人とも思わないという物言いがあるけど、「ひどいこと言われたのっ」といういたいけなチャトレちゃんの苦情は、ほんと後を絶たない。「どうにかならないかしら?」と言われるけど、例によって「どうにもならんがね」と返答するしかないのが哀しい。切ない。
 
 人間には支配欲というものがある。人によって個人差はあるものの、多かれ少なかれ誰もが胸に覚えがあるのではなかろうか。僕はSMというものにそれほど造詣が深いわけではないんだけど、Sの真髄というのは、Mが支配されることによって覚える快楽を「認めて」はじめて自身のSが成立することを知ってる人であろうと想像している。ちょっとわかり難い言い回しだったけど、相手を支配しててめーが悦に浸ってるだけのSは偽物だということ。
 
 これはセックスの醍醐味(?)に通じるものがあって、僕の場合だけど、相手の女性が快楽に浸っている表情を浮かべたり声に出したりすると、それが自身の快楽へと繋がってくるんだな。つまりそれは、僕が相手を快楽へと導いてあげてるからに他ならず、相手の快楽があってはじめて自分の快楽も存在するということになってくる。と書くとわかるかな?
 
 すなわち、一方的に暴言を浴びせたり命令口調でまくしたてる野郎は、Sでもなんでもなくて、単なる野蛮人に過ぎないということだ。本物のSであったなら、相手の反応を窺いながら手を変え品を変えるのではなかろうか。一方的に跪かせるのではなく、相手が跪きたくなるように仕向けるのではなかろうか。と、僕は思うわけ。
 
 けれど現実には、そこまで極めちゃってるS男なんてそうそういるもんじゃない。そのくせ弱い奴ほど強い男に憧れるのか、わけのわからんSもどきが、このウェブ世界にはうようよいるのが現実だ。実生活で思い通りにならないものだから、ネットで憂さ晴らししてやがる。ほんと始末におえない。
 
 
 ドレサージュという言葉は耳慣れないだろうか。日本語では「調教」と訳されるのかな。ドレサージュでふと頭に浮かぶのは、あのエマニエル夫人であったりO嬢であったりするわけだけど、およそ人の心に支配欲というものがあって、それが快楽と何らかの繋がりを持つからには、男と女が社会生活を営むようになったはるか大昔の時代から、ドレサージュは夜毎どこかで繰り広げられてきたのだろうと想像している。
 
 僕はドレサージュそのものを悪だとは思っていない。需要と供給という言葉があるけど、人間の欲望というものを俯瞰したときに、おそらくそれはしっかりとしたバランスで成立しているものなのだろうから。けれど、できもしないのにそこに手を触れたり、責任持ちきれないのに真似っこしたりするのは大嫌いだ。なぜなら往々にして、そういう奴らには、相手を慮る心が欠けているから。本物のSがMの快楽を認めているような、相互に行き来する心のバランスが皆無だからである。
 
 いまはあるのか知らないんだけど、パソコンゲームには育成シミュレーションというのがあって、女の子を自分好みの「女」へと育て上げるなんてのもあった。育て方次第で彼女はレディにもなれば娼婦にもなる。いわば彼女の運命は、かなりな部分をプレーヤーが握っているということになろう。しかしあの手のゲームでは、必ず「プロセス」というのがあった。エロい女にしたいからといって、いきなり「脱げ、おまえはエロいのだ」というひと言で彼女が娼婦になったりはしないのである。
 
 ドレサージュだって育成ゲームだって、そこにおけるプロセスが重要だというのは自明の理であろう。セックスだって同じだ。さっさと脱がせていきなりペニスぶち込もうったってそうはいかない。レイプまがいに犯罪おかすならいざしらず、共に快楽の道を歩むなら、やはり足並みそろえて段階を経ていかねばならないのだ。
 
 
 しかしライブチャットの世界には、そういうプロセスを経ることのできない余裕のない野蛮人が多すぎる。前述したような「憂さ晴らし」という背景もあるだろうし、また、分刻みにポイントを消費していくからという経済的理由もそこにはあるように思える。いずれにしても、それはてめーの欲望を満たすための論理でしかなく、やはり野蛮人の行為には違いないだろう。
 
 そういえばYahooのメッセにはメッセージアーカイブというのがあって、会話の記録が保存される仕組みになっている。あれをライブチャットの世界でも活用するといいのではなかろうか。あまりにひどい罵詈雑言を浴びせられたら、チャトレはその一部始終をID付で公表するのだ。そしてサイトに強制退室させる機能が備わっていれば、そういう輩を追い出すことも可能になってくるだろう。
 
 ネットにおける匿名性を覆すことは、そう容易いことではないと思う。それだけに、このような問題は、防御するシステムをしっかりとさせなければいけないはずだ。なんでもかんでもポイントを売ろうとする風潮を鑑みると、はなはだ険しい道のりなのかもしれないけど、チャトレが安心してチャットに専念できる環境を整えることも、サイトとして大切なことなんだと考えを改めて欲しい限りである。



2005年04月21日(木) すぐ逢いたがる男たち

 ライブチャットは「出逢い系」なんだろうか。たしかにそこでは、日々数多の男と女が出逢ってはいる。しかし出逢いのみを出逢い系の条件とするならば、個人のホームページにある掲示板だって立派な出逢い系に違いない。けれど人は、そこを出逢い系と呼んだりはしないのである……。
 
 
 そもそも「出逢い系」なんて意味不明な呼称がどうしてこうも持て囃されたのか。インターネットをコミュニケーションツールとして捉えれば、そこでは必ず人と人との出逢いがある。出逢い系なんてカテゴリーをわざわざ作らなくても、ネットは出逢いの場じゃないか。商用バレンタインデーに踊らされた民族は、ネットでも見事に「呼称;言葉」に踊らされてしまったということなのか。「出逢い系」ときくとなんとなく出逢いが待っていそうな気がする。ときめきがそこで両手を広げて迎えてくれそうな気がする。だから「出逢い系」は持て囃されるんだろうけど、その実、やってることは(全てとは言わないが)、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。
 
 おそらく、出逢い系サイトを利用する男の大半は、セックス目的だろうと僕は想像している。なんだかんだ言ったって、遊興が文化を牽引するのはあのファミコンにはじまるゲーム業界の繁栄をみても確かだし、このパソコンの世界だって、昔に遡れば8ビットから16ビット、そして32ビットとマシンを進化させたのは他でもないゲームの世界だった。男と女という生き物がうごめく世界にあって、三大欲のひとつとも言われる性欲を満たすものがこのネット世界を牛耳ろうとしていても、なんら不思議はないのである。
 
 そのような状況のなかで、男と女がカメラ映像と音声や文字でやり取りする場が登場すれば、それを出逢い系と捉える向きもわからなくはない。しかしそれでも、僕がここであえて言いたいのは、「ライブチャットをいわゆる出逢い系と一緒にするな」ということなんだ。
 
 
 うちの「置屋」がサポートしてるチャトレに話をきくと、とにかくノッケから「どうにかして逢えないだろうか」という道を模索してる客が多いことに驚かされる。すぐ逢いたがる男たち、だ。ライブチャットで働いているチャトレたちは、あたかも「欲求不満の女たち」とでも思っているのか、何のためらいもなくその手合いは「逢ってセックス」を目指すらしい。ニッポン男児も、ついにそこまで成り下がったかっ!の心境である。
 
 そういう男連中の話を耳にするにつけ、おやじは心底「遊びを知らない男の増殖」を嘆くわけさ。ライブチャットとはいえ、チャトレだって生身の女だ。ときに客に真剣に恋をし、オフラインで逢瀬を重ね、心のみならず肉体を絡めることだってあるだろう。それが間違った道だとはぜんぜん僕は思ったりしない。しかしそれは、恋愛という手順をしっかりと踏んだ上での流れであって、「誰でもいいからオレの精子を受け止めてくれ」というアホの論理とはまったく別のものなのだ。
 
 これは別口で書こうかとも思ってたんだけど、とにかくこのライブチャット界においては、女の愛し方を知らない男が多すぎる。チャットエッチが悪いとは僕は思わないけど、相手の心と体を考えられない一方的な行為は、エッチとは言わないんだ。それは単なるオナニーでしかない。だったら、チャトレ相手にせずにビニ本抱えてろと、いつか書いた覚えもあるな……。
 
 夜の繁華街を徘徊するときも、「抜き目的」のヘルスやサロンならいざ知らず、おねーちゃんとの会話を楽しむクラブでいきなりズボンを脱ぐアホがいますか?ソファに座って開口一番「ホテル行こうぜ」と言うアホがいますか?遊びにだってね、手順ってのがあるんだ。ホステスを口説きたければ、あしげく通って優しさをアピールし、更に心と心で交われる相性があってこそ口説き落とせるんだよ。それが「すぐ逢いたがる男たち」にはまーるでない。ぜんぜんない。
 
 
 いわゆる出逢い系サイトというのは、女を求める男が集い、男を求める女が集う場だろう。だから双方の思惑が絡み合って出逢いは成就する。綺麗だろうが汚かろうが、セックスのみであろうが、それは双方の目的が合致して成立する出逢いなんだ。でもね、ライブチャットってのはそこが違う。チャトレたちすべてが出逢いを求めているわけじゃない。密かにそれを求めているとしても、来る男すべてにそれを求めているわけじゃないんだ。だから僕は、ライブチャットは出逢い系ではないと考えている。片方だけの思惑でカテゴリーにはめ込んでしまうのは、やはり無理があるだろうから。
 
 本当の遊びを知っている大人たちは、本当の女の愛し方も心得ているのだと僕は思う。てめーの欲望を最優先するのではなく、それを抑えこんでもチャトレの幸せを願える姿勢こそが、僕はチャッターの真髄ではなかろうかとも思っている。そういう真のチャッターがこのライブチャット世界に少ないのが、僕は本当に悲しい。大好きな世界だけに、汚されかき回され乱されていくのが、厭で厭で仕方がないんだ。
 
 女を愛することすらできないくせに逢おうなんて思うんじゃない。まずはてめーの心を鍛えなおせよ。出逢いはそれからだ。悔しかったら、黙ってても女のほうから逢いたくなるような男になってみやがれ。どうせ「すぐ逢おう」くんには無理な離れ業だろうがね。



2005年04月20日(水) 列伝番外 空前絶後のパフォーマンス!

 平たくいえば「痴態」ともいえるかもしれないんだけど、アダルトチャットを眺めていると、ときどき無料窓でとんでもないパフォーマンスに出くわすことがある。最近は管理が行き届いてきたせいか、かつてほど派手(?)ではなくなってきた気がするな。多少腐りつつある脳みそを洗浄しつつ、今日は僕の記憶にある珍パフォーマンスをご紹介……。
 
 
其の壱:まじやばいっしょ!
 
 ライブカメラというのは「ライブ」なのだから、予期せぬ出来事が映し出されてしまうことはままある。けれど、この国にはきちんと法律というものがあって、公共の場でこういうものを見せたりしちゃいかんぜよという決まりがあるんだな。その辺をきちんと理解してないチャトレもいるようで、いまほどガイドラインがしっかりしてないライブチャット草創期には、ほんと話のネタに尽きないほどの珍事件が相次いでいたものだ。
 
 女性の陰部、すなわちヴァギナがカメラに映ってしまうということはよくあった。無料窓は画質を落としてるのが普通だから、それほど鮮明でなく「ヘアーが見えますよ」程度のものが多かったようだけど、なかにはIDを削除されてしまうほど露骨なケースも少なくなかったときく。
 
 僕がたまたま見かけたのは、無料窓でカメラの前に裸で座り、両脚を広げてご丁寧にヘアの手入れをしていたチャトレさん。それもいわゆるパイパンというやつで、少し生えてきたお毛々ちゃんを、ピンセットで一本ずつ処理してた。遠目なら「なんかもぞもぞやってるな」で済むんだけど、これがどアップで映してるもんだから、手入れの最中に少し腰を動かしたりすると、それこそラビアがくっきりと画面に入り込んでしまうのである。
 
 ちょっと話は横道に逸れるけど、無料窓であまり露骨なパフォーマンスをやるのは考え違いというもので、それで客が入ってくると思ってるのかもしれないけど、無料で満足してしまう男のほうが多いのではなかろうか。次を期待させないパフォーマンスほど、無駄なものはないように僕には思える。
 
 で、このお毛々手入れ中のチャトレだけど、「あらまぁ〜」としばらく放心状態で眺めていると、突然「ぷつっ」とオフラインになってしまいました。その後再登場しなかったところをみると、あれは管理に強制切断されたんですな。IDが削除されたかまでは追跡調査しなかったけど、かなりなお小言をいただいたであろうことは想像に難くないのである。
 
 
其の弐:おいこら、何やってんだ
 
 某アダルトチャットでは、カップルでライブを行っているチャトレがいる。女性ふたりのペアというのはよくあるけど、男と女の純正カップルのライブエッチだな。これも出始めは「思い切ったことをはじめましたねぇ」と思ったけど、最近あまり見ないような……わたしの活動が鎮まってしまったせいだろうか。
 
 いつだったか、かなり以前のような記憶があるんだけど、無料窓を開いたら、ソファにシースルーのスリップ姿でチャトレちゃんが横になってもそもそ何かをやってる絵が映し出された。画面向かって右に首があって、左に腰がある状態。両手を下腹部に持っていってもそもそやってれば、誰だって「ああ、やってるのね」と想像できるんだろうけど、このときは両手を首の上にあげていた。つまりは、手の先が映ってない。
 
 時折腰を左右によじるように動かしたり、綺麗なおみ足がちらっと画面に映ったりしている。何やってるんだろうか?と思いつつしばらく眺めていたら、首や肩が映ってる画面右のほうに、ちらっと別の足が映りこんできたではないか。それも毛むくじゃらの……明らかに男の足。それも素足。
 
 そのとき僕は得心した。「こいつ、フェラしてるのか」と。引き続き観察をつづけていたら、チャトレの胸の辺りに男の手が伸びてきた。あらまぁ、と思うがはやいか、ついにチャトレ彼氏の下半身までカメラの射程範囲内に。もちろん、その股間にはチャトレの顔がくっついた状態でもぞもぞしてるではあーりませんか。なんという痴態。いや、僕もフェラくらいはしてもらったことありますけど、公衆の面前ではございませんことよ。となると、それは痴態と呼ばれるのではなかろうか。
 
 たしかに「映しちゃいけないモノ」は映ってない。チャトレの顔で隠れてるんだから。ふと、テレビの温泉番組で、お笑いタレントが手桶でちんちんを隠してるシーンが連想されたけど、まさにあんな感じ。エロいと思えばエロいけど、情けないと思えば情けない絵である。じつはこのときは、それからほどなくライブが始まってしまったから、その後の成り行きは知らない。きっと、しこしこやってる客の面前で(カメラ前だけど)、ふたりは見事に果てたのだろうなぁと思います。勝手にやってろー!
 
 
其の参:画期的なお手本
 
 胸を揉み揉みしたり、股間で手をもぞもぞさせるというのは、いまでもあちらこちらで見られるけど、僕の記憶のなかで、この子のパフォーマンスと同じものを同じ質で見せてくれたのは他になかった。前述のふたつはどちらかというと「これは駄目よ」の例だけど、この三つめは違う。これぞパフォーマンスだと僕を唸らせたチャトレくんの登場だ。
 
 いつものように無料窓をパっと開くと、そこにはなんとも形容しがたい表情の女性の顔が映っていた。なんとなくぼーっとしてるようにも見えるし、何かを探しているようにも見える。時折口許を少し開いては、ちらちらと白い歯とピンク色の舌が顔を覗かせる。肩が一定のリズムを刻むように前後左右に動いて、見方によっては不思議なダンスを踊っているようにもみえる。
 
 賢明な諸氏であればもうおわかりだろう。そう、彼女は真剣にオナニーにふけっていた。男を呼び込むという不埒な考えなぞ微塵も感じさせない怖い表情で、彼女は自分ひとりの世界に没頭していたのである。しかも、胸より下の部分はまったく画面には登場しない。ずーーーっと顔だけなのだ。
 
 これは僕の持論というか推論なんだけど、男にはふた通りあって、女の胸や陰部に強い関心を示すタイプと、快楽の表情に関心を示すタイプとがあるような気がしている。少々露骨なたとえ方をすると、AV見ながらオナニーするとき、射精のタイミングをどこに持っていくかという違い。結合してる様子を見ながらイクのが前者で、女のよがってる顔を見ながらイクのが後者。僕はどちらかというと後者。面白いことに、写真仲間も同じように分別されるんだけど、僕はハメ撮りとか陰部ばっかの写真にはぜんぜん興味がない。やはり表情を追いかけてしまうのであった……ちょっと余談入ってました。
 
 さて、いつまでもオナってる顔しか映ってないこのチャトレさん。じつはほどなくライブ中と相成った。けれど僕のパソコンの画面には、ずっと彼女が映ってた。あ、おれが入ったんじゃん……あれ、いつの間にっ!
 
 と思わせるほど、素晴らしいパフォーマンスだったと僕は立て続けに賞賛した覚えがある。信じようが信じまいが、入ったときから僕は普通に会話しちゃってたから、彼女は「邪魔なやろーが来やがったな」と思ったかもしれないけど、それはそれ。きちんと楽しい会話の相手をしてくれたのである。できてるチャトレというのは、そういう使い分けも上手なのだ。
 
 
 日進月歩という言葉があるけど、このライブチャット界も日々変化と進化をつづけている。時間の流れが速いネットであるだけに、ほんの1〜2年前の出来事が、もう昔話のような気すらしてしまうほどだ。もしかすると現在のライブチャットでは、僕が今日書いたようなパフォーマンスはもう必要ないのかもしれない。そして、いま定番となっているライブチャットの手法も、来年にはもう過去のものとなっているのかもしれない。
 
 けれどできれば、そこで繰り広げられていた「人間の姿」を、僕は忘れたくはないと思う。理由はどうあれ、そのときそこにあった男と女の目論見というのは、間違いなく人間の業が成したものであり、自分を知る手がかりにもなるのだろうから。空前絶後ではあるけれど、記憶の奥底には、ずっとずっと刻まれていくに違いない……。



2005年04月19日(火) 必殺プロフメイカーになれ!

 チャットルームに入ってくる男たちは、いったい何を目安にその子を選ぶのだろうか。いわゆる馴染み、常連という類は別として、初めての客がまず目にするのは無料窓、そしてプロフ。それなのに、無料窓には退屈そうな顔があればまだ救われるものの、ときに寂しげな椅子だけが映っていることも少なくないし、頼りのプロフをみると「ヒミツ」の嵐ときた日には、どう頑張ってもチャトレの情報など手にできない。つまりドアもノックしないということ。
 
 
 プロフをどの程度の位置づけでチャトレたちが考えているかは、みてると千差万別という気がしてくるんだけど、およそプロフをしっかりと作れないチャトレに花道はないと僕は想像している。プロフとはいわば自己紹介。就職時の履歴書。見合いするときの経歴書と同じなんだ。自分を売り込みたいと思うなら、自分がどんな女性であるかを必死に伝えようとするべきではなかろうか。
 
 ひとくちにプロフといっても、文字と写真とがある。最近では動画もあるようだけど、どこのサイトでも共通してるのは文字と写真だよね。僕はいつも、初めて見かける子のプロフは隅々まで目を通している。サイトなりブログを持っていれば、そっちに出向いて拝見もする。とても真面目なお客さんなのである。
 
 と、ここで余談だけど、無料窓に制限時間があるってアレ。あれはほんといかんよね。無料窓開いてのんびりプロフを読んでいると、読み終わらないうちに窓がパタっと閉じちゃうんだ。無料なんだけど、すげー損した気分。腹立ち紛れに「最後まで読んでやる」と意地になってプロフを完読し、さて気持ちよくドアをノックすべかと窓を開くと、すでにチャット中になっていたりする。いや、そこにいればまだいい。既にログアウトしてるなんてこともあるんだから。そういうときは、すげータイミングを逸した気分。もしかすると人生に二度と巡ってこない良縁かもしれないのにだぞ。ということは、きっとないんだろうけど……。
 
 
 客はプロフを拠り所にする。かといって、何から何まで正直に書かねばならないというものでもないだろう。誰だって知られたくないことはあるのだから。けれどせめて、自分という女性を伝えるための項目くらいは、真摯な言葉でうめて欲しいものだ。
 
 ネットという世界には、自分を別の人格に変えようとする人が少なくなく、また手軽にそれができてしまうのもネットの特性に違いない。本来の自分から逸脱できるということ、それはときに、人生という長い道程の上で有効に働くことも僕は否定しない。しかしそれは、あくまで自分がそれを充分に認識した上での話ではなかろうか。
 
 いたずらに願望のみでプロフを仕立てるのは良くないし、自分のためにもならない。いいかい。女の子だって、男の好みが十人十色なように、男だって女の子の好みは十人十色なんだ。すべての男に好まれる女なんてのは存在しない。自分を生かすということは、どれだけ本当の自分をみてくれる人と巡り会えるかということに他ならないだろう。であるなら、自己紹介であるプロフは、本当の自分を書くべきだと僕は思う。
 
 それでも、「こんな自分が厭だから」というチャトレもいるだろう。よくわかる。僕だって同じだ。そういうときは、「〜なんだけど〜な風になりたい」と書けばいい。そうすれば、それを読んで答えを導いてくれる白馬の騎士(いまどきいないかもしれないけど)が颯爽と現れるかもしれないではないか。そう、チャットというのは相手と話してナンボと思ってるかもしれないけど、既にプロフの段階でコミュニケーションは始まっているのである。おお、目から鱗が……。
 
 だからといって、だらだらだらだらと書くのは良くないよ。前述したように、読んでるうちに窓が閉じちゃうから。長文が可能なプロフなら、自分をアピールしたい項目は常に最上部に、オマケは下にと心がけて欲しい。これ、おじさんからのお願い。
 
 それから、「どんな人に来て欲しいか。どんな人とお話ししたいか」というのを書いておくのも、僕は悪くないような気がする。そういう「客を限定するようなこと」を書くと、チャトレ側にしてみれば「お客さん減っちゃうじゃん」と思うかもしれないけど、「この子と話が合うかな」と不安で入れない客も意外といるのではなかろうか。客が入りやすくする環境を整えることも、僕は大切だと思うけどね。
 
 
 プロフといえば、写真も重要だと僕は感じている。自分が女性の写真を撮るから余計そう思うのかもしれないけど、写真が魅力あるチャトレは、そのとき話をしなくても後々まで確実に記憶に残っている。そしていつか、お話しする日も巡ってくるだろう。だからといって、男が好みそうな写真を撮るにはどうすればいいか、なんてことは下手に考えないように。この写真については、いずれ改めて書くことにしましょう。なんせ、いろいろあるから……。
 
 とにもかくにも、プロフは真摯に必死に書くべし。きみが書いた文字の行間から、きっと素顔のきみが笑顔をみせて、お客さんをおいでおいでしてくれるに違いないのだから。



2005年04月18日(月) ビジネスチャンスの話

 ウェブという世界にはビジネスチャンスが結構ごろごろしていて、二番煎じではなかなか成功が難しいものの、見事に的を得たアイデアとノウハウで颯爽と登場できればおもしろいことになるケースは少なくないのだろう。
 
 かく言う僕の胸のうちにも、このライブチャット業界に関係するビジネスのアイデアがひとつあった。「あった」と過去形で書いているのは、藁しかつまってない頭を必死に稼動させてみても、ひとりではどうにも道を探し出せなかったということで、つまりは自力成就を諦めたということである。
 
 
 ひとことで言えば「ポイント交換システム」だ。すでにここのコラムにもちらっと書いたように、複数のチャットサイトに登録していると、半端なポイントがあっちこっちに残っているということが少なくない。それらを一ヶ所で集計して、お好きなサイトのポイントに変換しましょ、というサービス。
 
 チャット業界ではないけれど、ウェブではすでに、そのようなポイント交換サービスは稼動している。有名なところでは、クレジットのVISAが、自分とこの利用者が蓄えた利用ポイントを、他の各種オンライン店舗のポイントへと交換するサービスを行っているのだ。僕もよくそうしてポイントを有効に活用してるんだけどね。
 
 ただしこのアイデアを実現するには、幾つかの山を越えねばならない。僕が考えるだけで「幾つか」なのだから、実際に取り組むと途方もない山の連続かもしれないけど、ライブチャットを利用している側にとっては、きっとこれは夢のようなサービスになるのではなかろうか。わたしゃ早くそういうサービスが登場してくれることを祈ってます……。
 
 
 半ば諦め半分のやけっぱちだから、僕が頭のなかで考えたことを洗いざらい書いちゃうけど、まず最初の難関として、サイトごとのポイントシステムの違いが挙げられるだろう。いわゆる「単価」の違いであり、サイトごとに「サービスでつけるポイントの比率」が異なっているという点だ。千円買ったときのオマケと五千円買ったときのオマケ、そして一万円買ったときのオマケが異なるということは、同一サイト内においても、ポイント購入時の単価は異なるということになる。
 
 最も手っ取り早いのは、すべてのチャットサイトでその辺の「オマケ比率」を統一してくれるといいんだけど、そんなことはおそらく不可能。となると、「なにかを基準」にしてサイト同士のバランスをとらないといけなくなる。為替レートとも少々違うようには思えるけど、考え方としては似たようなものなのかな。「あそこのサイトは1ポイント〜円だけど、きみのところは1ポイント〜円ね」てな按配である。
 
 そう、登録時にもらえる無料ポイントの扱いにも苦慮せねばならない。何らかのガイドラインを設けないと、無料ポイントばかりを集めてどこぞのポイントに交換して、無料でチャットやり放題なんて輩が現れないとも限らないからだ。これはあくまで継続してライブチャットを楽しむ人のためのサービスなのだから、野球界のFAみたいなシステムも考慮する必要があるかもしれない。
 
 
 ポイントはプリペイドだから、客がポイントを移動する際には当然のことながら、サイト間で金銭の授受が行われるということになる。せっかく客を騙してせしめた金(というのは口が悪すぎますな)を他のサイトにとられるなんぞ言語道断。と思うサイト運営者もいるだろう。
 
 そう、このサービスは一見、「客をよそにとられる」というサービスに思われるかもしれないけど、じつはそんなことはない。あちらからお客様がやってくる可能性だってあるからだ。半端なポイントを集計してどこかで使えるとなれば、客のほうだって安心して色んなサイトに登録できる。それはチャット界全体の活性化に寄与することとなり、客と運営側双方にとってプラスになるだろうと僕は想像している。
 
 もちろん、駄目なサイトからは客は遠のいて、優良なサイトに集まることになる。だから競争はいま以上に激化するだろうし、サイトとしてもおちおちしてられないということになるに違いない。されど、半端なポイントを有効活用できるという「逃げ道」を客側に提供することで、客はサイトに登録しポイントを購入しやすくするわけだから、むしろ仕事がやりやすい環境になるという見方もできるだろう。
 
 
 ビジネスなのだから、ポイントを交換するプロセスにおいて、当然のことながらマージンはいただく。割合はどうであれ、かき集めたポイントが若干減ってしまうことにはなる。けれどそれでも、僕は客の立場として、使いようがないポイントをあっちこっちに置いておくよりは、多少減ってでも有効に使えればと思う。
 
 どうだろう、やってみる気をおこした人はいるだろうか。考えれば考えるほど、数多の障害がでてきそうなアイデアとも思えるけど、これが実現するようであれば、このライブチャットという世界もそこで、一段大きく階段をのぼることになるような気が僕はしている。本当は、僕がやってみたいんだけど……ね。



2005年04月17日(日) 【閑話】僕が「おやじ」である理由

 最近は「おやじ」が少なくなったなぁと思う。僕が若い頃は、イケナイ事をすると、縁もゆかりもないおやじに怒鳴られたものだ。友達の家に遊びに行って悪さをし、ダチと一緒にダチ親に叱られるなんてのは日常茶飯事。それが現代はどうだ。すっかり「おやじ」は鳴りを潜めてしまったor絶滅寸前の危惧種に成り果ててしまったではないか。
 
 
 いまやおやじが絶滅危惧種に指定されつつあるのは、振り返ればじつに長い時間に色々なことがあったように思える。つい先日残念にも他界された中尊寺さん発祥の「おやじギャル」ではギャルにお株を奪われたし、「おやじ狩」なんていう怖ろしい言葉もあった。一体全体おやじのどこが悪いんだ?などと書いてる僕自身、おやじという存在を疎ましく感じていた時代はあったのである。
 
 そんな僕が、「おやじ」になろうとしている。いや、「おやじであろうとしている」。疎まれようが「莫迦じゃないの」と言われようが、自身を鼓舞しておやじであろうとしている。堅苦しい文章や長い文章はやめたほうがいいよと言われようとも、書いたことで誰かに「アンタなんか大嫌い」と叫ばれようとも、世間の隅の隅のそのまた隅っこのほうに追いやられようとも、頑として「おれは言っちゃうよ、書いちゃうよ、おやじだから」と強がる男であろうとしている。
 
 人間ってのは不思議なもので、若い頃は父が夜な夜な見ているテレビの時代劇が、僕は嫌いで嫌いで仕方なかった。それがいまはどうだ。どうにかして子どもらにも時代劇の面白さを教え込もうとしてるではないか。そう、人間は年端を重ねると変化していく。それまでは感じなかったものも感じるようになる。それなのに、「おやじ」になるにつれて、現代の大人たちは口を閉ざしはじめてしまうのである。それでいいんだろうか。
 
 
 ネットという摩訶不思議な世界と付き合うようになって、はや七年半の歳月が流れた。「ヲトナごっこ」をはじめたのはちょうど三年前だったけど、それ以前にも僕は幾つかのサイトを手がけ、ウェブを通して本当に数多くの人たちと交わってきた。そして僕は、常に「なにものか」とぶつかりつづけてもきた。迎合できないのは性格かもしれないけど、納得いかないものを自分の正論として持つことはできなかった。
 
 仲良くすることはいいことだ。人と険悪になれなどと説教たれる莫迦もいないだろう。ブログやリンク集もそうだけど、相互にコメント入れて親睦を深めていくことは、きっと悪いことではないのだと僕は思っている。
 
 けれどそこには、本当に心の底から納得できる状態があるんだろうか。「本当はそう思わないんだけど、それを書くと嫌われちゃうかもしれないから……ま、いっか」てな按配で本意でないコメントを書いたことはないだろうか。チャトレにとって男連中は「客」に違いない。だから、「こんなことを言ったら(書いたら)、もうチャットに来てくれなくなるかな」なんて思って書けなかったってことも少なくないだろう。
 
 確かに、世の中には「口にしてはいけないこと」というのはある。親しき仲にも礼儀あり、というように、触れてはいけない世界というのはあるものなのだ。しかし反面、「言わねばならないこと」や「言わねば伝わらないもの」というのも間違いなく存在している。大の大人であるのなら、その辺の使い分けができて当然なはずなのにそれができないのは、馴れ合いが暗黙の了解となってしまっているこのウェブ世界の落とし穴であり、いけない部分なのではないだろうか。
 
 
 僕は、偏屈な因業おやじになりたい。絶滅危惧種となりつつあるおやじに、あえて今なってみせたい。それはひとえに、僕がこのウェブ世界というものを愛しているからで、将来にとてつもなく大きな不安を抱いているからに他ならないだろう。
 
 ネットは文字を身近にしてくれた。誰もが気軽に活字を打ち、一夜で俄か作家ができあがってしまうような世の中になってきた。けれどその背後で、確実に文学は衰退しようとしている。顔文字が流行し、美しい日本語が消え去ろうとしている。僕はそれが厭で厭で仕方がない。日本語の美しさに気づき、これからそれを学ぼうとしている身にとって、わけのわからん記号と文字との世界をどうしても認めるわけにはいかないのである。
 
 もちろん、文化というのは後々評価されることがあるという側面も僕は否定しない。絵文字や顔文字だって、もしかすると遠い未来においては、過去の輝かしい遺物となっているかもしれないだろう。しかし僕には、これまで累々と積み重ねられてきた日本語の美しさを無視した行為が、歴然とした文化となるなどとは思えないのだ。
 
 軽薄短小が悪いとは僕は言わない。いや決して言葉のあやなどでなく、心底そう思っている。それがその人のライフスタイルであり信念であるのなら、誰がとやかくいう筋合いのものでもないだろう。けれど、それでいいのかと思う気持ちはある。それで果たして、本当にいいのだろうか。
 
 
 だから僕は、「おやじ」であろうと思っている。捨石であろうが楔であろうが構わない。自分が美しいと思い描いている世界をまぶたに浮かべ、目一杯強がっておやじとして生きていってやろうと思っている。それがきっと僕が僕である所以なのだと、そう思っているんだ。



2005年04月07日(木) 心のパトロンを持て

 いい響きですな。心のパトロン。僕の愛読書「小説新潮」に連載されてる神崎京介(オ!同じ苗字じゃないかっ)の小説で「ショコラティエ」ってのがあって、物語のなかにフランスはパリのケーキ屋さんが登場するんだけど、フランスでは店のオーナーのことを「パトロン」と呼ぶらしい。なんとも粋だなぁと思ったさ。日本でパトロンと呼ぶと、なんか妙な想像しませんこと……?
 
 
 「チャットは趣味だからいいの、気ままにやるわ」と仰るチャトレさんならいざ知らず、多少に関わらずそれを生計の足しにしている職業チャトレにとっては、仕事(つまりチャット)で厭な想いをすることも少なくないだろう。なんでこんなことしてるんだと、ふと我に返ることもあれば、迎合すべきか独自路線を貫くべきかとジレンマに陥ることもあると想像している。
 
 厭な想いは楽しい想いで吹き飛ばせというのは常道で、そういうときほど、気の置けない仲間や心優しき常連客がありがたいと感じたのではなかろうか。人に傷つけられた心は人に癒してもらうのが一番。自立自立と自分を追い立てるのも悪くはないけど、ときには人に甘えることもまた、人として正しい生き方なのだと僕は思うな。
 
 
 そんなとき、身近にいると心強いのが「心のパトロン」さん。よく「人生の師」なんて物言いがあるけど、できればパトロンもそういう存在が望ましいかと僕は考えている。そして、できれば恋人ではないほうが尚よろしいかとも。だってそうでしょ。チャトレというのは数多の男を相手にする仕事だ。その状況をよく理解して支えてくれる人が恋人では、あっちもこっちもやりにくかろ?
 
 もちろん、相互に信頼関係を築くのだから、それが男と女である以上は、多かれ少なかれ恋愛感情に似たものは持ち合わせるはず。関心がない子の面倒など、どこの世界にみたがる男がいますか。「この子は本当にいい子だ」と感じ入って「何かの形でサポートしてあげたい」と思うからこそ、パトロンはパトロンたりえるのです。
 
 というのはね、僕自身もそういう立場で接してるチャトレが何人かいるから。彼女たちが僕の存在をどう捉えているかは、言葉で耳にしたことがないから不明瞭だけど、おそらくはそのパトロンに近いイメージで捉えているのではなかろうかと想像している。でもまあそれは言い換えると、僕は彼女たちの恋人にはなれないということなんだけどね……しょぼん。
 
 
 人間にはそれぞれ、与えられた役回りというのがあって、僕はどちらかというと一線で華々しく活躍するよりは、バックステージでこそこそはいずりまわって段取りしてるタイプ。チャトレたちと話をしていても自然と話が裏話になってしまうのは、そういう定められた役回りによるのかなぁと思うこともよくある。
 
 おそらくはチャトレたちも、数多の客と言葉を交わしているなかで、「この人は恋人タイプ」「あ、この人はパトロンタイプかな」と、男連中を区分けできるのではなかろうか。そして、自分を理解してくれそうなパトロンタイプに出逢ったならば、損得抜きにしてその人を大切にしてあげて欲しい。チャットサイトに顔を出さなくても、メールや無料のメッセという繋がる手段があるのなら、それを頼りに絆を深めていって欲しいものである。
 
 社会という枠組みのなかにいると、愚痴をきいてくれる存在ほどありがたいものはない。僕は立場上、なかなか会社のなかで愚痴をこぼせない。思っても口にできない言葉のほうが、遥かに多いほどだ。それだけに、気をおかずに話せる相手はありがたい。どんな話でもきちんと理解し受け止めてくれて、それなりの返答をしてくれる存在というのは、まさに心のパトロンなのだと僕は思う。
 
 
 心のパトロンは原則、金にはならない。まあなかには「まーかせーなさーい」というご立派な本物パトロンさんもいるだろうけど、そんなのはほんの一握りだろうと僕は想像している。チャットをしながらパトロンを探すのも容易じゃないだろうけど、深い絆を結べそうな相手を心に思い浮かべつつチャットに励むのも悪くないだろう。
 
 あなたには心のパトロンがいますか?



2005年04月06日(水) 二兎を追うな

 過日の「列伝」で紹介した麻耶について、じつはひとつだけ書かなかった素晴らしいコトがある。コトというか秘訣というか道というか、これは別口で書いておきたいなと思ったので、わざわざこうして別枠で書くことにしたんだけど、それは……。
 
 
 アダルトであろうがノーマルであろうが、およそトップクラスのチャトレたちには、おそらく幾つかの共通するポイントがあるような気がする。そのなかのひとつ。それは「二兎を追うな」という鉄則。何のことかわからないよね。これじゃ。
 
 数多のチャトレたちをみていると、複数のサイトに登録しているチャトレのじつに多いことか。こっちのサイトでお喋りしていたはずの子を、まったく別のサイトで見かけたなんてことは、チャッターであれば誰もが経験してるだろう。あっちにもいる、こっちにもいる、おお、そこにもいたか!てな按配である。
 
 とりわけ新規オープンサイトには、「いるわいるわ」と見覚えある顔と名前のオンパレード。まあ、新しいサイトというのはまったくの新人のみで運営できる道理もないのだから、あちらこちらからチャトレが集合するのも無理はないんだけどね。そういう光景を目の当たりにするにつけ、置屋のおやじは「それじゃいかんのだよ」とため息三秒なわけだ。
 
 
 麻耶は某アダルトチャットサイトで常にトップクラスにいる。あまりいい加減なこともいえないけど、おそらく月収は百オーバー。たいていのチャトレにその話をすると「えええー!」と驚いてくれる頼もしいネタ姫なのだ。そんな麻耶に逢うには、そのサイトにいくしかない。つまり彼女は、他のサイトには登録してないんだな。
 
 売れてるからよそに行く必要がないのよ、というチャトレも多いだろう。それはわかる。客足が芳しくないと、どうしてもよそで稼いだほうがいいんじゃないかと思ってしまう気持ちもわかる。隣の芝生が青く見えるのは人情というものだからね。でもね、そこが落とし穴。ひとつのチャットサイトに専念することは商売上も理に叶っているし、その背後にある「なぜそのサイトにいるか」というチャトレの信念をも浮かび上がらせてくれるのである。
 
 チャトレの皆さんよーくご承知のように、チャトレの報酬は一定額に達しないと支払われないシステムが多い。そりゃそうだ、一円二円をばんたび支払う身にもなってみれば、手間も経費も半端じゃないだろう。そういうシステムのなかにあって、あちらこちらに登録してあちらこちらで働いていたら、稼ぎの回収もままならないはず。じつに合理的とはいえない。同じだけの時間をチャットに費やすのであれば、複数またいで働くよりは、一ヶ所でじっくりやったほうが確実に金になる(もちろん、サイトの繁盛次第だが)。
 
 
 ポイントの理由だけではない。過去に馴染んだチャトレたちを思い返すと、わりと「〜でもチャトレやってるからよろしくねぇ」というコマーシャルを受けた子が多かった気がするんだけど、きみたちは客の事情を考えたことがあるのだろうか。ライブチャットのポイントというのは前払い制が原則だ。だから客は常に、前もって購入したポイントを手にチャットを楽しんでいる。ふたつみっつはチャットサイト掛け持ちでやってるにしても、そこから先は、仮に登録してあっても金をつぎ込むサイトにはならないのが普通だろう。
 
 それなのに新しいサイトに来てください?そんなこと言える?
 
 チャトレに馴染みができれば、おそらく多くの客はその子を目当てにサイトを開くだろう。そこにお目当ての子がいなかったら、よそでやってるのかなぁと彼女が話していたサイトをこそっと開いてみる。おお、いたぁ。と思っても、そのサイトで使えるポイントは持ってない。いくら彼女が待機中で暇そうにしていても、こちらはドアをノックすることすら叶わないのである。
 
 なにやら物語のように感じるチャトレもいるかもしれないけど、これは現実。僕自身、これまで幾度となく経験してきたことだ。最近ではメール機能を備えたチャットサイトが増えたから、そういうときは「〜にいるから戻ってこーい」とメールすればいいのかもしれないけど、基本的にそういう話で済んでしまうことなのだろうか。果たして根無し草でいいのだろうか……。
 
 
 さて、一ヶ所に的を絞るとなると、どこに腰を落ち着けるかが最大のポイントとなるだろう。「どこがいいですか?」と尋ねられて「ここがいいよ」と応えられるサイトなど、残念ながらひとつもない。どこだって一長一短あるし、チャトレとサイトとの相性が、サイト選びでは最大のポイントのようにも思えるからだ。十人十色のチャトレ相手に、「ここだね」なんて言えるわけないでしょ。
 
 突っぱねるようだけど、そんなもんは自分で探しなさい。そしてじつはそれこそが、きみがチャトレとして花道に立てるか否かを大きく左右するということを、是非忘れずに吟味して欲しい。
 
 トップクラスのチャトレたちは、自分を生かす術を身につけている。自分を生かすために、自分を本当に生かしてくれる場所を選んでいるということだ。それにはサイトのシステムもあるだろう。コンセプトもあろうし、客層だって影響してくると思う。絞り込むのは容易な作業じゃないと思うんだけど、それに自分を上手にはめることができれば、それはきみの信念へと変化してきっと輝きだすに違いない。そして客たちは、そんなきみに魅了される。と、僕は思う。
 
 二兎を追うものは一兎をも得ず、というのは古くからある格言だけど、物事を極めようとする者にとって、これほど価値ある言葉もないだろう。そう、恋愛も一緒だね。八方美人ではいけないのである。



2005年04月05日(火) 無礼な客・厭な客

 「置屋のおやじ」をやってると(娼婦抱えて商売やってるわけじゃないぞ)、チャトレたちの愚痴を耳にすることも少なくない。私生活の相談事は脇に置いとくとして、その他の話を大別すると、厭な同業者(性悪チャトレ)の話と仕事上のノウハウ、そして厭な客の話の三つに分類される気がする。とりわけ無礼な客に関する話は多くて、「どうにかならないものか」と持ちかけられても「どうにもならないでしょうなぁ」と返答するしかないのである。
 
 
 以下、チャトレの代弁……
 
 ノーマルチャットなのにアダルト行為をリクエストし、チャトレができないと断ると「商売下手だね」と捨て台詞をはいて落ちてしまう男。あのなぁ、アダルトチャットでアダルト行為を拒否するチャトレはどうかと思うけど、アダルト禁止のノーマルチャットで「商売下手だな」と言い残すお前さん、アホちゃうか?ノーマルチャトレの「商売」は「お話し」なんだ。二の句を継がせずさっさと落ちる態度も横柄だけど、それ以前に、日本語勉強しなさい。
 
 一生懸命応対してたのに、突然前触れもなく落ちてしまう男。接続が切れちゃったのかと思って待っていてもなしのつぶて。いつの間にやらよそで他の子といちゃいちゃしてたりする。あのなぁ、ひとこと「落ちるよ」てな挨拶くらいしてけよ。「どうも君とは相性が合わないみたいだから、申し訳ないけど別の子を探すね」と丁寧に言い訳する必要ないからさ。せめて「チャット終了します」という意味の言葉くらい残して去れ。お前らには「無責任」とか「後味の悪い」という感覚はないのか。それは明らかに人の道にもとる行為だぞ。
 
 アダルトチャットでいきなり「脱いで」とはじまり、次は「感じて」で、仕舞いは「声きかせて」とこの三つの科白しか吐けない男。あのなぁ、どの世界に「脱いで」と「感じて」のふたことで濡れる女がいるよ?お前らセックスの経験あるのか?女を愛したことがあるのか?悪いこと言わないから、ビニ本(死語?)相手に「脱いで」「感じて」と呟きながらページめくってろ。それで充分だ。
 
 まだまだ「あんなことあったよ」「こんなことも」というチャトレも少なくないだろうけど、哀しいことにチャトレとしてそれを公の場で口にすることも難しいのだと想像する。僕はもっと、自分のブログ等で発言してもいいと思うんだけどね……。
 
 
 この手合いの多くは(すべてとは言わない)、社会生活が苦手な奴らだと僕は想像している。ネットを介した繋がりの基本はコミュニケーションであるのに、チャットというのはそのコミュニケーションツールであるのに、肝心なコミュニケーションが下手な奴らだ。「人と人」という「しらがみ」のなかでは何ら堂々とした態度もとれないくせに、相手がパソコンとなると俄然好き放題やりはじめる。パソコンは自分に殴りかかってこないし、匿名性というネットの「盾」に隠れてしまえば素性もばれないから、あとは己の欲望の赴くままに行動して平気な奴らなのだろう。
 
 もちろん、社会生活はなんとなく無難にこなしつつも、そこで鬱積したものをネットで吐き出してる者もいるだろう。ネットワークの向こう側にいるチャトレたちを、あたかもゲームのキャラの如く勘違いしてとらえている者もいるかもしれない。けれどそれも突き詰めていけば、やはり「責任」や「モラル」「ルール」といった社会の枠組みに馴染めない姿と、僕は重なって見えてくるような気がするんだ。
 
 
 ネットをみてると、人間はなんて面倒なものを作っちまったんだろうかと思うことがある。ネットは道具だ。さまざまな目的でさまざまなことを行うための道具だ。けれど道具を用意するときに最も肝心なことを、人間はおざなりにしてしまった。それが「モラル」と「ルール」。自動車を運転するためには免許証が必要だけど、それを取得するためには教習所に通ってあれこれ学ばねばならないよね。自動車は人を殺す凶器にもなるのだから、正しい扱い方をしっかりと身につけないと、とてもじゃないが運転なんか任せられない。
 
 けれどネットを利用するにあたって、どこに教習所があります?そんなのないでしょ。モラルやルールなんか学ばなくても、ネットは利用できてしまう。文字や無礼な態度がどれだけ人の心を傷つけるかなんて知らなくても、文字が打ててしまう。何か事件が起きると、あわてて行政が後手後手の対策を講じるように、最近少しずつそういうネットのモラルやルールにも法規制の手が伸びつつあるけど、どう考えてもやることが遅い。遅すぎる。
 
 
 モラルとかルールとか書くと、なんか難しそうだなぁと感じる人も少なくないだろうね。でもね、決して難しいことはないんだと僕は思うんだ。「おはよう」と挨拶されれば誰だって気持ちがいい。何かしてあげたときに「ありがとう」と言われると、やはり嬉しい。やって良かったなって思う。そういうごくごく基本的な人と人とのコミュニケーションをつづけていけば、それでいいんじゃなかろうか。
 
 車が走ってない横断歩道で、赤信号を待ちながら「誰も見てないからいいか」と信号無視して渡った後に、ちょっとだけ胸が痛むことがあるでしょ。胸が痛んだら、もう二度とそういうことはしないようにすればいいんだ。ルールを無視すると、自分もどこかで厭な想いをするんだということを、誰もが胸に秘めてネットを利用すれば、かなり数多くのトラブルは消えてなくなるように僕には思える。
 
 問題なのは、なにより利用する人の心のなかに巣食っているナニモノかなのだから。



2005年04月04日(月) スーパーチャトレ列伝 留美(仮名)

 アダルトの派手さに比べれば、どうしてもノーマルはアピール度でひけをとってしまう。もちろん集う客層も異なるだろうから、比べること自体がナンセンスには違いないんだけど、それでも群を抜いて頑張っているチャトレはちゃんといるのだ。
 
 
 留美を見かけたのはGOAだった。DXで知り合った有紀がノーマル用に登録していたのがGOAで、誘われるままに流れた海で留美は見事な個人メドレーを見せてくれていた。チャトレに他のチャットサイトを紹介されるというのはよくあることで、はなはだ他人任せのようには思えるけど、僕のチャット世界探求の旅は、いつもチャトレの紹介によるものだった。
 
 「ここには若くて可愛い子が沢山いるでしょ」と有紀は何度か同じ科白を僕に聞かせてくれたけど、確かに当時のチャット世界にあっては、GOAは粒揃いのサイトだったのかもしれない。個性もいまよりは豊かだったような気がする。サムネイルリストをさーっと眺めただけで、瞬時にチャトレたちを三つに分類できたほどだ。ひとつはもちろん可愛い系で、ふたつめは大人系(熟女まではいかないお姉さん系かな)、そしてみっつめがエンターテイメント系(通称お笑い系)。
 
 僕がなぜ留美のルームに入ったのかは、じつをいうと記憶が曖昧になっている。つまりは理由が思い出せない。若いわけでもない(ごめん)。格別美人というわけでもない(ごめん)。男を引寄せる女の魅力をまとっていたというわけでもない(何度もごめん)。けれど、ノーマルチャトレで誰を筆頭に書こうかなと思案したとき、まっさきに頭に浮かぶのは留美を置いて他にないのである。
 
 これは凄いことだ。もしかするとチャトレたちの頭の中には「男はより美しい女、よりエロい女を目指す」という不文律が存在しているかもしれないけど、明らかにそれを根底から覆す結果ではないか(あ、かえすがえすごめん)。けれどそれだけに、数多のチャトレに光を投げかけてくれるのが、もしかすると留美なのかもしれない。
 
 
 ひとことで留美というチャトレを表現するとしたら、やはりエンターテナーという言葉しかないだろう。「スティング」という映画のタイトルソングとなった「エイターテイメント」という曲は、スタンダードラグの名曲だけど、あの曲にあるような小気味良さ、そして強弱、優しさ、もちろん楽しさを忘れない雰囲気が、留美には備わっていたように思える。
 
 涙を流したくてチャトレのドアを叩く男はいないだろう。もちろん怒りたくて叩く奴もいない。誰だってひとときの安らぎと楽しさを味わいたくて、チャトレの顔を見にくるに違いない(アダルトはまた別だけど)。チャトレたちを眺めていると、明らかな受身の子がたまにいるけど、ぼくはやはりチャトレというのは、攻守を絶妙に使い分けられる子であって欲しい。空気を読み、その場に応じた「相棒」を演じてくれることがチャトレには必要だと思うし、そういう点ではやはり留美は筆頭であり、アダルト編で紹介した麻耶にも通じるものがあると思える。
 
 留美はとても素直なのだと僕は感じている。素直という表現も、ありがちでじつに不明瞭な表現だけど、表裏がないと解釈してみて欲しい。平たく言えばわかりやすい。仮に嘘をついていたとしても、見てるとすぐわかる。本人もそれを薄々察してか、いつも率直な言葉と態度で接してくるから気持ち良い。こ汚いことが山積している社会に生きていると、そういう素直さがとても心地よいのである。
 
 手抜きを味わいへと転化できるのも、特筆すべき留美の特徴だろう。彼女のルームを介して、僕は他の男性客とも知り合いになったけど、留美がひたすら傍観して男連中だけが話し込んでいるという場面も少なくなかった。なんて楽な商売。いやなんちゅーチャトレだ。けれどそこに一片の厭味もなく、また来たいと思わせるのだから、チャトレ技量以前にそれは人徳なのかと思ったりもする。
 
 前述したけど「空気を読む」ということ。これはチャトレにとって必須の能力であり、傍観することがその場の空気になじむのであれば、笑顔でお菓子をつまんでいるだけのチャトレでも二重丸に違いない。客の目的がエロや出逢い系恋愛でないのなら、ひとときの楽しい時間を求めてきているのなら、それを上手に演出してくれればそれでいいからだ。
 
 もちろん留美は手抜きが上手というだけではない。僕が知る範囲では、筆頭の着ぐるみチャトレでもある。別にコスプレというわけではなくて、客を喜ばせるためのアイテム(ヅラ他)をきちんと用意していて、女としての自分を殺してでも笑いをとれるという凄腕(ときに哀れかも)なのだ。己を捨てられなければチャトレではないとは言わないけど、それもひとつの武器には違いないだろう。
 
 自分を生かす術、それを心得ているスーパーチャトレ。それが留美だと僕は思う。



2005年04月03日(日) 恋せよチャトレ!

 恋に必要なものってなんだと思う?
 
 その答えはいくつも出てきそうだけど、僕がここで着目したいのは「無垢である」という心のありかた。恋は相手を無条件に受け入れてしまうよね。冷静に判断すると否となりそうなことでも、恋をしてしまうとそれは是となってしまう。摩訶不思議な人の心理状態、それが恋。最近、恋してますか?
 
 
 チャットするときのチャトレの姿勢もさまざまなようだけど、客を客としか思ってないようなチャトレと客以上の存在として受け止められるチャトレとでは、自然と態度も言葉も違ってくるし、客はそれを敏感に感じているのではないだろうか。それは、事務的ともプロ根性丸出しとも翻訳できそうだけど、単なる客扱いしかできないチャトレとの会話ほど、つまらなく後悔するものはない。
 
 男たちはそこに何を求めてくるのか。アダルトサイトにあっても、客がアダルト行為のみを求めてくるとは限らない。ましてや、誰でもいいから話し相手になって欲しいと思ってライブチャットに集っているとも僕には思えない。そういう理由であるならば、無料のチャットがいくらでもあるからだ。多かれ少なかれ、ライブチャットに集う男の心には「出逢い」という言葉があり「恋」という感情への敬慕があるのだと僕は察している。
 
 出逢いや恋であるならば、無料のチャットだって可能でしょと仰るだろうか。そう、可能だし現実にそういう出逢いや恋は日々星の数ほど生まれているのがインターネットという世界のようにも思える。しかし、無料のチャットとライブチャットとの違いってなんだろう。哀しいかな男という生き物には、「視覚」で物事を判断する性質があって、文字世界のみで想いをめぐらせるよりは、女の姿を目の当たりにしながら想い焦がれるようなところがあるのだ。もちろん特異体質もいるけど。
 
 だから、カメラの向こうにいる話し相手は常に「生身の女」でなくてはならない。客と恋愛してはいけないとインプットされたロボットであってはいけないのである。そんなロボットと話をするくらいなら、僕は無料の文字世界を彷徨っていたほうがはるかに楽しいような気がする。男という生き物なりの出逢いを求め恋を求める場、それを具現化してくれたのがライブチャットという見方もあるのではないだろうか。
 
 
 それでは、ライブチャットに本物の出逢いってあるのだろうか。答えはイエス。あります。ライブチャットで知り合って直接逢った経験は、この僕にもあるから。もっとも僕の場合は、女性写真を撮ったりしてる関係で、チャトレのプロフ写真を撮る目的の「逢瀬」ではあるけど、それでも「出逢い」には違いないだろう。そこから現実の恋愛へと発展しないとも限らないではないか。まあ、発展してないからこうやって書けるんですけどね……むにょむにょ。
 
 まだ僕がライブチャット若葉マークの頃、不埒な僕はとあるチャトレ相手に「写真のモデルを探してるんだ」と話したことがあった。すると開口一番彼女は「そういう目的ならここに来ても無駄よ」とあっさり返してくれた。いま思えば確かにそれは正論に違いないようにも思える反面、それじゃ身も蓋もないだろうという気はいまだにしている。
 
 バイトでモデルをやる子は結構いる。かつては少なかったけど、最近ではその手のサイトも増えてきて、きちんとした段取りを踏めば、ポートレイトであろうがヌードであろうがモデルなんぞいくらでも手配可能だ。しかし「そういう話じゃないでしょ?」という気持ちが、どうしても僕の胸中で燻りつづけて消えようとしないのである。
 
 おそらく彼女の脳裏には、「撮影=実際に逢う」という等式が浮かび上がっていたのだと思う。当たり前だ、いくらネットワークが進歩しようが、電線のなかで写真撮影などできる道理がない。撮るからには逢わねばならない。しかしそこで、即座に前述のような言葉を返してしまって、果たして彼女はチャトレたり得るのだろうか。嘘をつけとはいわない。逢う気もないのに「いいわねぇ」なんて相手に気を持たせる物言いが是とも僕は思わない。けれど、可能性すら否定して返してしまっては、いきなり堅固な鉄の扉を閉ざしてしまうようなものではないか。
 
 
 僕の胸に刻まれたチャトレたちは、誰もが上手に恋の相手をしてくれた。それは儚い夢物語かもしれないけれど、彼女たちの一喜一憂は間違いなく、僕の心に深く刻まれている。おそらくは僕だけでなく、彼女たちと言葉を交わした数多の男たちもみな、似たような経験をしてるのだろうけど、彼女たちは決して八方美人なのではなく、客である男たちの心を上手に受け止めてくれていたのだと僕は想像している。
 
 そしてその心の根底には、「無垢」という心の状態があったのではなかろうかと僕は思うわけだ。僕の言葉に感心し、それに対する自分の想いを素直に返してくる。僕はその言葉に感じ入り、彼女に心を開いてゆく。そこにはきっと、「無垢」という心があったのではないだろうか。
 
 客である男たちのみならず、女であるチャトレたちにも、少なからず出逢いへの夢はあろうかと思う。数限りない恋物語が生まれているのが、このライブチャットという世界のようにもみえるからだ。たしかに、初めてのチャットでいきなり「逢おうぜ」と口走る莫迦な男もいるけど、そういう勘違い男を上手に嗜めて、「出逢い」という言葉の意味を誰よりも深く考えているのが、僕はチャトレという女性たちではなかろうかとも想像している。
 
 チャトレたちよ、恋をしなさい。多くの男たちを知り、彼らに映る自分の姿をよく見極め、それを手に己を磨き上げていきなさい。恋する女の姿というのは、まことに美しいものなのだから。



2005年04月02日(土) 2ちゃんは無視無視

 少しチャットの世界から離れた話をしましょう。芸術家というものがどういうものかを、みんなは考えたことがあるだろうか。芸術家とひとくちに言ってもいろいろあるよね。絵を描く人もいれば彫刻作る人もいる。音楽を作曲する人もいるし、小説を書く人や写真を撮る人だって芸術家だ。
 
 
 世に名を馳せた芸術家というのは、いったいどういう人たちだったのだろうか。僕自身、書き物やったり写真撮ったりするせいか、そういうことを常々考えるんだけど、僕は芸術家というのは「自分の世界を持っている人たち」だと解釈している。そして広義においてそれは、自分の道にプロフェッショナルになるということにも繋がるのだろう。
 
 例えば僕は文章を書いている。ネットで作品を公開するようになって七年近い歳月が流れたけど、小説にはじまりエッセイや論評、コラムなど、さまざまなものを書いてきた。創出したものは人目にさらされる。僕が生み出した文字たちも、これまで数多くの人たちの目にさらされてきた。するとそこには、僕の文章を好んでくれる人とそうでない人とが現れる。
 
 これぞ葛藤のはじまり。人間ってのは哀しい生き物で、自分が存在する証を手にしていないといられない。証とはすなわち、僕の場合は文章であり写真であるわけだけど、自分を認めてくれない読者と遭遇すると、つい彼らに受け入れられるようなものを書いてみようと考えてしまう。でもそれは、僕本来の文章ではないんだよね。もちろん世に芸術家と呼ばれる人たちは、そんな世間の目など気にせずに、自分が最も美しいと感じるものを求めて生きてきた。だからこそ、芸術家たりえたのだと僕は思う。
 
 
 前置きが長くなったけど、かの「2ちゃんねる」に、ライブチャット関連の板があるのは、チャトレであれば皆ご存知のことだろう。正直なところ、僕はあそこが大嫌いだから話題にするのも厭なんだけど、大嫌いだから書くという理屈もあろうかと自分で自分の尻を引っぱたいているのである。
 
 チャトレのなかには、あそこで評判になることを何かの指標と勘違いしている子もいるようだ。反対に、くそみそに言われることを極端なまでに怖れている子もいる。言葉の暴力という物言いがあるけど、その意味すらわかってない奴らの世界を気にしたところで、何のメリットもないということに気づいて欲しいものだ。
 
 2ちゃんを見てライブチャットに来る客なんてのは、いても極めて少ないと僕は思う。逆はあると思うよ。自分のチャット体験をあそこで書く人はいると思う。けれど、無責任な批判飛ばしまくってる輩の多くは、社会のなかで箸にも棒にもかからない手合いに違いなく、ましてや同じウェブといえども畑違いのところにいるわけだから、彼らが言うことなどぜーんぜん気にすることなーい。と書いても、気にしちゃう子は気にしちゃうんだろうけどね……。
 
 
 自分が信じる道を進みなさい。誰もが受け入れるであろうものに人は惹かれるのではなく、きみにしかない個性に惹かれるのだから。周囲の雑音には耳に蓋をし、いま目の前にいるきみの相手にのみ神経を集中すべきだろう。
 
 わからない奴にはわからないままにさせておけばいい。説明したってどうせわかりゃしない。彼らにきみを理解させる苦労をするのなら、その労力を、数少なくともきみを応援してくれる愛しき人たちに注ぎなさい。大切なのは全男性の支持などではなく、少なくても確実にきみを支えてくれる人たちなのだから。
 
 僕が知っているトップクラスのチャトレたちは、揃ってそういう子たちばかりだ。まわりがどうであろうが、2ちゃんで莫迦話のネタにされようが、地道に自分の世界を探求し展開している。そしてそれがまた、感嘆の言葉もないほどに美しい。
 
 徒党を組まねば好き勝手なことも言えない奴らなど無視無視。ときにはわがままに、きみだけの世界を突き進んでくださいね。



2005年04月01日(金) スーパーチャトレ列伝 麻耶(仮名)

 僕が知るチャトレのなかで最高峰のトリプルAランクといえば、やはりこの子を置いて他にはいないだろう。とにかく性格は申し分ない。容姿とスタイルも美。パフォーマンスとチャットに対する姿勢も、「見習えよー」と声を大にして言いたくなるほど素晴らしい。もちろん、某サイトでは常にトップクラスに君臨しているのが麻耶(仮名)だった。
 
 
 彼女はストリッパーに憧れた時期があったという。素晴らしいことだと思う。素直に思う。売春婦に憧れるのはどうかと思うけど、ストリッパー(踊り子でもいいけど)に憧れるのは正しい女の道なのだ。僕の価値観のなかでは。
 
 女は美しい。その美しさとは、かつてヲトナごっこのコラムで書いたこともあるんだけど、見た目の美しさだけでは決してない。その子ひとりひとりが固有に手にしている美を、本人がいかに見事に表現しているか否かで、美しさはいかようにでも変化してしまうのだと僕は感じている。
 
 そういう観点からすると、ストリッパーと呼ばれる子たちは、おそらく(じつはそれほど詳しくない)自分の美についてかなり敏感な人種であろうと僕は想像している。もちろん自分をよく見つめているから、自分をよく知っている。美しいところも醜いところも、双方併せ持ってはじめて自分という女が存在していることも、おそらく体で知っているのではなかろうかと想像している。
 
 考えてみれば、アダルトライブチャットってのもストリップのようなものかもしれない。ウェブカメラの前で、みずからの肉体を駆使して己の美をそこに表現する。もちろん単なるエログロで「アホか」と言いたくなるようなチャトレもいるけど、それだけに、わが道をゆくストリッパー願望娘は際立って美しいのである。
 
 
 いつだったか、ふと彼女の無料窓を開いたところ、せっせとプロフ用の写真をセルフで撮ってる場面に遭遇した。いわゆるひとつの「メイキング風景」ってやつですか。いやー、数多のチャトレと面会したけど、後にも先にもプロフ写真のメイキング風景を見せてくれたのは彼女だけだったな。
 
 しばらく傍観してからドアをノックし、入って開口一番「撮ってたね」と投げると、「時間がもったいなかったから」と返事が返ってきた。どうよ、この素晴らしい姿勢。改めてコラムで書くつもりではいるけど、プロフを充実させることはチャトレの基本中の基本。出し惜しみなどせずに、自分が作れる最高のプロフを作ろうと励む姿には、思わずおやじの目にも涙というわけだ。
 
 
 アダルトチャットときくと、客はすべてエッチを望んでいると思ってる人も少なくないだろうけど、そうじゃない客もじつは意外と多い。僕はアダルトチャットに果たしてどれだけの資金をつぎ込んだかわからないが、まずそのほとんどをノーマルチャットとして費やしていた。裸見てるよりは、裏話聞いてたほうが遥かにおもしろかったからなんだけどね。
 
 麻耶はまさに両刀使い。彼女とは普通に会話してることのほうが多かったけど、アダルティックなパフォーマンスのみならず、会話もとてもお上手。出すぎず引きすぎず、常にそこにいるお客さんのことを考えながら仕事に励んでいた。
 
 そう、彼女はルールやモラルにも敏感だった。パーティー形式(複数の客が同時に入れる)状況で普通の話をしているときに、いきなり知らない客が入ってきて「脱いで」とはじめても、とても上手に小窓を使ってたしなめているようだった。見事に自分のルームを仕切っていた。客を前に凛とした態度をとれる。それもきっと、チャトレとして必要な心がけなのだろう。
 
 
 じつは彼女は、もしかするとそう長くチャトレをやらないかもしれない。詳しくは知らないんだけど、なにやら夢があるらしく、それを実現するためにコツコツとチャトレでお金を貯めていたということだ。まもなくそれも満願成就する額に達するとかで、そうしたらやめるような話をしていた。
 
 目標を持つということ。それもおそらくは、彼女のチャトレとしての姿勢に影響していたのだと僕は思う。お金というものがどういうものなのか。自分はそこで何をしているのか。対価として自分が持たねばならないプロ意識のようなものを、彼女は常に胸に秘めていたのだと僕は思う。
 
 どんな夢なのかは測りかねるけど、願わくば、本物の幸せを手にして欲しいと思わせてくれる、そんな麻耶だった。


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ヒロイ